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ローマの美について   (総まとめの一文) [探求]

 ( ローマの旅行の雑感をいくつか書いたが、その総まとめのような文章を某所に提出したのを機に、やはりここにもその文章をアップしておこうと思った。以前ここに書きこんだことと重複がいくつもあるが、やはり自分の考えをコンパクトにまとめた形で表現しておくことが必要だと思ったからである。ローマに行って、その体験の核心部分を表現するのにほぼ二か月かかった。ずいぶん時間がかかったが、まだまだ足りないくらいである。この経験は、私の中では、さらに深化していくことになるかもしれない )。




 「   ローマの美について



  ローマには美があった。もっとも、ここでの美とは、美術館や教会の作品の中に閉じ込められた美ではない。そのような美も美には違いないが、それらは生活から遊離した美であり、鑑賞の対象としての美、記念物と化した美である。
 
 ローマの街は、一見、荒(すさ)んだように見える。私たちは、街路沿いの壁の一画にマリア様の図像が突如として出現するという経験を何度かしたのだが、その瞬間、荒んだ街並みが一変するかのように思われた。私たちは、文字通り、目を奪われて、おもわず立ち止まってしまったほどだった。

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 マリア像の周囲におびただしいプレートが貼られている祠(ほこら)もあった。


A small shrine3.jpg



 プレートに書かれているのは、たいていの場合、“Per Grazia Ricevuta” という定型のフレーズである。中には“PGR”と頭文字だけしか書かれていないプレートもある。おおよそ、「おかげさまで(祈りが)受け入れられました」といった意味である。プレートのほとんどは匿名で、定型のフレーズ以外には日付が書かれているだけである。日本の絵馬と違って、個々人の欲望を露骨に記したりはしない。どれもが、言葉少なに謝意を述べて、マリア様の恩寵を讃えるのみである。マリア様だけが光り輝くのである。さきほど、ローマには美があったと書いたが、美というよりも詩と言うべきかもしれない。多くの無言の祈りがあり、それを受け入れる慈愛がある。その慈愛に対する信仰がある。それらが詩情となって、ローマの街並みに漂い出すのである。

 似たようなことは、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の天辺を飾る聖人像を見たときにも感じた。一日の旅程が終わり、私たちはホテルに帰るバスの中にいた。もうじきホテルだというとき、夕陽の逆光の中、聖人像のシルエットが視野に入ったとたん、私たちの誰もが、その文字通り目を奪うような光景に声を上げたのである。


054.夕方のラテラノ大聖堂の聖人像1.JPG



 聖人たちは、各人各様、いろいろな身ぶりで私たちに向かい合っている。私たちの方に手を差し伸べたり、祈る身ぶりであったり抱擁しようとする仕草であったり。ここには無言のメッセージがある。地上に暮らす私たちに向けて、聖人たちは、身ぶりを通して、言葉を発しているのだが、私たちの耳には、言葉になる手前の言葉としてしか聞き取れない。やはり、無言の、詩作品になる手前の詩情が、ラテラーノの大聖堂から、ローマの四方八方へと放射されているかのようだった。


 実は、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の聖人像を見たとき、私は何か既視感のようなものを覚えたのであるが、しばらくの間、それが何であるかを思い出すことができなかった。それを思い出すことができたのは、日本に帰ってからしばらく経ってからだった。それは、4~5年前読んで印象に残ったシモーヌ・ヴェイユの晩年の言葉だった。ただし、それは労働者の悲惨な境遇をどうするかという問題に捧げられたエッセイの一節だったので、私の中で、ローマの経験とうまく結びつかなかったのである。ヴェイユは次のように書いている。

 「民衆はパンと同じくらい詩を必要としている。言葉のなかに閉じこめられた詩のことではない。そのような詩は、それだけでは、民衆にとって何らかの役に立つことはできない。民衆は、自分の人生の日常的な実体そのものが詩となることを必要としているのである」(「奴隷的でない労働の第一の条件」)。


 おそらくヴェイユはある種の理想を述べたのであろうが、ローマにはその理想が現実になっているかのように私には映った。確かに、ローマには、そのような詩があった。しかも、日常のただ中に詩があった。誰もがパンと同じくらい必要としている詩が。言葉のなかに閉じこめられていない詩が街中に漂っていた。


 ヴェイユは、さらに続けて、「このような詩にはただ一つの源泉しかありえない。その源泉は神である。このような詩は宗教以外にはありえない」と述べる。ヴェイユは無神論者だから、これらの言葉の理解には注意が必要である。しかし、確かに言えることは、ヴェイユの考える「神」も「宗教」も「美」を通して現れる、ということである。


 言うまでもなく、ローマは宗教の上に成り立つ街である。しかし、ローマの神は、厳格なプロテスタントの神と違って、美を通して語りかける神である。私たちが泊ったホテルのごく近くにスカラ・サンタ礼拝堂があった。朝、散歩の途中で、初めてその外壁に目をやったとき、私はぎょっとしたものだった。外壁に描かれたイエスが、金色の背景から現れ出てきたかのように感じられたからである。ローマのイエスは、まばゆい色彩に彩られながら、道行く人々に「安らぎがあらんことを(PAX VOBIS)」と語りかけていたのである。



 
016.スカラ・サンタの側壁.JPG


017.側壁のクローズ・アップ.JPG





 「世界は、美的現象としてのみ正当化できる」とニーチェは言った(『悲劇の誕生』)。私には、その精神を最もよく体現したのはローマのキリスト教だったのではないかと思えるのである。



」(おわり)












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日常の実体そのものとなった詩(ローマ滞在の雑感5) [探求]

 少し前に「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の立像」http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2017-09-08のことを紹介した際に、もう少し言いたいことがあったのに、それは、その時、なかなか言葉にならなかった。いまその言葉を見つけたような気がするので、それを言い表してみたいのである。



054.夕方のラテラノ大聖堂の聖人像1.JPG



  その時に書いたように、夕方バスでサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の付近を通ったとき、聖堂の天辺を飾る立像のシルエットを一目にて何か不意をつかれてハッとしたのであった。もちろん、ハッとしたのは、日本ではありえない光景だったからであり、美的なものが目に飛び込んできたためであろう。しかし、その後何回かサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に散歩に行って見直してみたが、単に見慣れない美しさがそこにあるというふうにまとめるだけでは収まらないものを感じた。そのモヤモヤは、帰国してからもずっと心の奥底にくすぶっていた。


 私の印象に残ったのは、この立像そのものというよりは、立像と荒んだ街並みやホームレスや移民系の人々とのコントラストの方だった。そのコントラストの何が印象的だったのか? 昨日、以前このブログに書いた文章のいくつかを読んでいたとき、かつて、シモーヌ・ヴェイユの「奴隷的でない労働の第一の条件」という断章を訳した記事に出くわした(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-12-13)。その最後の部分に次のように記されている。


 「民衆はパンと同じくらい詩を必要としている。言葉のなかに閉じこめられた詩のことではない。そのような詩は、それだけでは、民衆にとって何らかの役に立つことはできない。民衆は、自分の人生の日常的な実体そのものが詩となることを必要としているのである」。


 
 「ああ、これだったんだ」と思ったのである。私が、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の立像とローマの底辺の人びとを一緒に目撃したときに、心の奥底に感じたものはこれだったんだ。民衆がパンと同じくらい必要としている詩がそこにあったのだと。たしかに、使徒たちの呼びかけが、無言の詩になっているではないか。そしてその詩がローマでは生活の実体になっているではないかと。


 シモーヌ・ヴェイユの「民衆」は、少し特殊な意味で使われている。奴隷的な労働に疲弊してそこに生きている意義を何も見いだせないような人々、そして将来にも何も希望を見出せない人々のことである。というと前時代的な、時代錯誤的なことをイメージしてしまうかもしれないが、いやいや、そんなことはない。ブラックな企業やバイトで良いように酷使されている人びとのことを考えてみるだけで充分である。


 ヴェイユの「民衆」は無意味な労働に疲れ果て、将来のことを考えることすらできない。労働するのは食べるため、食べるのは労働するためという、どこにも手段しかなく目的が見いだせないようなトラップの中で、何が生きていくことを支えてくれるのか? 民衆には未来はなく、現在しかない。現在において目的のようなものを提供するものがあるとすれば、それは美である。神に由来する美である。こうした美だけが「民衆」を救うことができる。それが晩年の、神秘的な宗教心に回帰したヴェイユの労働問題に対して与えた回答だった。この回答の当否は措いておこう。


 私が夕刻のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の立像に接して感じたもの、ひいては、ローマという街全体に感じたものは、ヴェイユの言う「人生の日常的な実体そのもの」が詩となっていることだった。ローマは確かに美にあふれている。しかし、それはただ美しいのではない。それは生活の実体となった美なのである。あの小さな祠の美にもまた同様のことが言える。


 ニーチェは『悲劇の誕生』の第5節で「美的現象としてのみ存在と世界は永遠に正当化される」と語ったが、おそらく、趣旨は同じである(ちなみに、ニーチェのこの言葉についても、過去の記事で扱っている(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2013-08-13))。ヴェイユはニーチェには共感を抱かなかったから、こういう形で類比的に扱うのは心外だろうが、ニーチェもヴェイユも、世界は美を通してのみ正当化できるという一点において一致する。ローマには、二人の思想家の違いなど苦もなく飲み込んでしまうほどの美があり、詩が流れている。

 ローマが今日でもそれ自身を堂々と正当化するかのように存在しているのは、そこに流れる詩のおかげなのではないだろうかと思うのである。










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ローマの小さな祠(ローマ滞在の雑感4) [探求]

 ローマの街を歩いていて遭遇した忘れがたいものを紹介しよう。

 それは、ローマの街を歩いていてたまたま見つけたのだから、それが何であるかも最初は判らなかった。何となく周囲と不釣り合いな趣きのなか、散文的な建物の散文的な外壁の一角を占める形でひっそりと存在している。それが何であるにせよ、たぶん異国からの訪問者ならば誰もが立ち止まって見入ってしまうものである。




A small shrine2.JPG




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 ガラスの向こうに女性像があり、プレートの中には ”Maria” の文字が見えるので、マリア様に捧げられた場所なのだろうという推測はつくが、それ以上のことが判らない。おびただしいプレートの上には、”PER GRAZIA RICEVUTA”というフレーズがよく見うけられる。たぶん願掛けのようなものだろうな、くらいに思っていた。帰国後調べたら、直訳すれば「恩寵により受け入れられた」、つまり「マリア様のお陰で願いが叶いました」というような意味であることがわかった。まあ、当たらずといえども遠からず、というところであろうか。


 この場所は何だろう? 調べてみると、ローマに暮らすナタリーというアメリカ人女性のブログに行き当たった(https://anamericaninrome.com/wp/2015/11/unexpected-rome-per-grazia-ricevuta/)。英語圏の人はこれを‘shrine’と呼ぶようだ。日本語では? 祠(ほこら)になるのだろうか? 小さな社(やしろ)か? まあ、いずれにせよ、ナタリーによると、マリア像の周辺に貼られているプレートは、たいていは匿名で、願いや祈りの内容は書かれておらず、大まかな日付とともに、ともかく「願いが通じたことを感謝する」という気持を表わすものであるようだ。仕組みは知らないが、投げ入れ可能なのだろう、ガラスの向こう側には折りたたまれた紙切れが積み重なっているが、そこには具体的な祈りの内容が書かれているのだろうか? いや、やはり、「恩寵によって受け入れられた」と記してあるのみだと思えるのである。

 
 日本には絵馬というものがある。あれは希望を記すものだが、たいていは「○○大学合格」とか、非常に個人的な欲望が遠慮なく書かれていて大変見苦しく感じるときもある。それに比べると、このローマの祠のプレートは大変つつましい。シンプルに願いが適ったとだけ書いてマリア様に感謝を捧げる。結局、個々人の願望は消えて、マリア様の存在だけが際立つ形になっているのである。

  
 他にも、様相は異なるが同じ趣旨の祠を見つけたが、こちらはマリア像の周辺にプレートはなかった。しかし、おそらくプレートが溢れてしまって、一旦きれいに一掃された後なのではないかと思われる。また、願いがかなった人々が、感謝の気持ちを携えてここにプレートを貼りに来るのだろう。


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 ローマの街にはどれくらいこうした小さな祠があるのかは判らないが、わずか4~5日の滞在でも二つ発見できたのだから、多分結構な数があると見ていいだろう。おびただしい数の教会があるうえに、なぜこういう祠が必要なのか? 教会で告白するまでもない些細な願いや祈りをもつ人がここに来るのだろうか? 
 
 
 先にも書いたが、この祠は「異国からの訪問者ならば誰もが立ち止まって見入ってしまうもの」だ。ナタリーもブログに書いていたが、ローマは歴史的な美にあふれているが、観光名所となっている場所から外れた所にも、生活に根ざした美がたくさんある。

 ローマにはキリスト教の歴史的な建造物にあふれている。しかし、そうした有名な名所から外れた場所にも、生活に根ざした信仰がたくさんあった。東京近郊で宗教関係者とわかる人間に遭遇することはあまりない。しかし、ローマではどれほど多くの修道女の方々に出会ったことだろう。やはり、信仰心が根底にある街なのである。





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スカラ・サンタのイエス像(ローマ滞在の雑感3) [探求]

 ホテル周辺で書いておきたいことがもう一つある。

 実は、早朝の散歩で、最初に私の注意を引いたのは、ラテラノ大聖堂の聖人像ではなく、スカラ・サンタの方だった。大聖堂の向かい側にある小さな教会だが、その綺麗な側壁の画像が注意を惹いたのである。

 キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の母エレナは熱心なキリスト教信者であったが、320年イェルサレムに巡した際に、イエス出生の地やゴルゴダの丘を再発見したとされるが、そのときに聖十字架などとともに、イエスの処刑を命じたローマ総督ピラトの官邸にあった階段を持ち帰ったとされる。(ちなみに、エレナのこの「再発見」には信ぴょう性はほとんどないと思われる。イェルサレムは度重なる内乱や戦争によって徹底的に破壊されたので、イエスの墓跡はもちろん、ピラトの官邸がそのまま残っていたなどということはとても信じがたいことだからである。しかし、まあ、堅いことは言わないようにしよう)。


 イエスがここを歩いたという伝説から「聖なる階段」と崇められて、信者が途切れることなくここに集うということは事前に知っていたが、実際に来てみると、果たして、早朝から熱心な信者さんたちが階段を一段一段跪きながら、時間をかけて祈っているではないか。私は、三日連続して早朝にスカラサンタに来たが、三日とも同じ光景を見ることが出来た。一番上の段までたどり着くのに、どれほどの時間がかかるのだろう、それほど丁寧な祈り方だった。




062. 早朝からスカラ・サンタで祈る人々.JPG



 
 それはともかく、私の目を惹いたのは側壁の画像のほうだった。前日入ったレストランがある日陰のわき道を抜けて、視界が広くなったとき、ふと見上げてみると散文的な街並みから急にこの宝石のような画像が現れるので少しはっと息を飲む思いがした。



016.スカラ・サンタの側壁.JPG



017.側壁のクローズ・アップ.JPG



 

 イエスが手にもっている書物には" PAX VOBIS”の文字が。英語にすれば"Peace to you"、日本語にすれば、少し文語的に「安らぎがあらんことを」というところだろうか?

 
 やはりラテラノ大聖堂の聖人たちと同様に、イエスもローマの人々に目を向けているのである。しかし、こちらの方は装飾的すぎてすぐに少しうるさく感じられるようになった。言葉を語りかけるイエスに対して、大聖堂の聖人たちは無言のまま手を差し伸ばす仕草がいっそう雄弁であり、いっそう印象的に感じられる。私の気持ちは、大聖堂の聖人たちの方に傾いていったのであった。






(つづく)





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サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の立像(ローマ滞在の雑感2) [探求]

 泊まったホテルからサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂がごく近かったので、毎朝のように大聖堂の近くに散歩に出かけた。


013.早朝のラテラノ大聖堂1.JPG




 バルセロナで車を使って数十名の死者を出したテロ事件からまだ日が経っていないせいか、早朝から機関銃を構えたイタリア軍の兵士が目を光らせている。方々に警察の車両も目立った。ここのみならず、コロッセオにもいたし、名所と考えられている所ではどこでもそうであったに違いない。少し緊張感が漂う。私たちは、この旅行中、スリやひっったくりなどの犯罪に遭遇することはなかったが、これは、こうした厳戒態勢の副産物だったのかもしれない。

 それはともかく、最初、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂を見たときは特別の感慨をもつことはなかったのだが、その日の夕方、バスで付近を通ったとき、大聖堂の天辺を飾る立像のシルエットがひときわ印象深かった。思わずバスの中から撮影してしまったほどだった。


 
054.夕方のラテラノ大聖堂の聖人像1.JPG



 翌朝も、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に散歩に行ったが、聖堂内部や洗礼堂よりも、天辺の立像が気になる。12体あるからたぶん12使徒の彫像なのだろうか? どれが誰を表しているかなどというのは大したことではないが、誰であれ、やはり中央の、十字架をもちながら何か呼びかけているかのような使徒の姿が最も印象的である。


 015.中央の聖人1.JPG

 


 翌朝も、懲りずにサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に行き、今度は下から撮影することにした。真下から見ると力強さがいっそう伝わってくるように感じられたからである。自分でも、少し憑かれたかのように感じられた。始めは、何故か判らなかったのだが、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の立像を好きになってしまったようなのである。
 


056.朝日を浴びる聖人1.JPG


126. 早朝のラテラノ大聖堂の聖人1.JPG





 聖堂のトップに聖人像を備えつけるという趣向は、サン・ピエトロ大寺院のファサードにもあったし、より小規模な教会でも見うけられたが、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂のものが最も印象深かった。連日訪れることで、ラテラノの聖人たちになぜ惹きつけられるか、おぼろげに納得できるようになってきた。私には、これらの聖人が、街の守護霊としてローマにむけて手を差し伸べているかのように見えたのである。


 サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の周辺には、必ずしもよい雰囲気とはいえない風情があった。やはり、あちこちで街並みは荒んだ感じがしたし、早朝からホームレス一歩手前の人たちがのろのろと歩きまわっているし、おそらく毎日の始まりの作業なのだろうが屋台式の店を組み立てなおそうとせわしなく立ち回る男たちがいるし、バールには三々五々移民たちが集まってくる。


 しかし、それらすべてをひっくるめたうえで、聖人たちは無言で手をさし伸ばしているかのようだ。そんな聖人たちの姿をはるか頭上にあおぎ見ながら、あるいはそんなものに目をくれることもなく、ローマの人々は今日も地道に生活を始める。極性を帯びたそんな光景こそいかにもローマならではないかと私は感じたのである。









(つづく)





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ローマ滞在の雑感1 [探求]

 8月末の数日間をローマで過ごした。
 
 短い期間だったので、日本に帰ってみて振り返ると、何か束の間美しい夢を見ていたかのように感じられる。そんな魅惑的な体験をいくつか味わうことができた。

 トランジットを含めて、宿に落ち着くまで長い時間を我慢しなければいけない。やはり、ヨーロッパは遠いなぁと改めて感じる。フィウミチーノ空港に着いて、所定の手続きを済ませて、特急に乗り換えてテルミニ駅へ。ここまでは、何の問題もなかった。しかし、テルミニ駅から地下鉄2駅でホテルのはずなのだが、地下鉄でつまづいた。乗り場がないのである。東京の大きな地下鉄駅と違って、駅は単純なつくりである。しばらうろついているうちに学生の一人が地元民に聞いて初めて判ったのだが、テルミニ駅からホテルのあるマンゾーニ駅に向かう方の路線が9月初旬まで不通なのだという。道理で、乗り場につながる通路が閉鎖されていた訳だ。逆方向は問題なく動いていた。まったく、どうなっているのか、あきれ返るしかない。というわけで、初っ端から不条理なカウンター・パンチを食らったような格好になったわけだが、旅行のすべてを通して、これが唯一の誤算でありトラブルだった。そういう意味で、私たちは健全な旅ができたと言えるだろう。

 テルミニ駅からバスでホテルに行くこともできるのだが、バスのチケットをどこで買うのかもわからないし、路線が多すぎてにわかにはどこで待てばいいのかも分からない。そこで、地下鉄二駅分なので歩いていくことにした。こうして、ようやく、ホテルにたどり着いたとき、結構消耗していた(少なくとも、私は)ので、その日に予定していたことはすべて止めて、休息することを優先した。

 泊まったホテルはBest Western Hotel President。名前からして、アメリカ資本に買い取られたのだろう。朝食のバイキングがそれなりに有名だが、それ以外は、日本のビジネスホテルといったところ。私は一人部屋をあてがわれたが、結構狭かった。ひょっとしたら、もともと広かった部屋を二つに分けたのではないかと推測したくなる狭さ。バスタブがなく、代わりにシャワー室があるのみだったのも残念だった。バスタブで足を延ばしてお湯につかりたかった。ホテルの評価は☆4つなのだが、少しそれには抗議したい気分になった。それおt、すぐに判ったのだが、アメニティーに歯ブラシがなかったことにも驚いた。こんなところをケチる神経がよく判らない。



 ……それはともかく、翌朝、早く起きてホテル周辺を散歩しながら撮影をする。そのうちの一枚を下に掲げておこう。ホテルがあるエマヌエーレ・フィリベルト通りをラテラノ大聖堂の方にしばらく歩いたところから撮った一枚である。


012.早朝のホテル(遠方から).JPG
 



 
  すでに書いたが、私は二〇数年前にローマに短期間滞在したことがある。ローマはその時に得た印象そのままの街だった。パッと見た感じは、荒んだ街である。いたるところに落書きがあるし、ごみ処理は時代遅れだし、壊れた外壁がそのまま放置されているところが多かったし、ポイ捨てされた吸い殻は多いし、路駐の車の多さは相変わらずどうにもならない感じだし、それらに加えて、ホテル周辺には移民が多いことが空気を少し重くしているように感じられた。
 

  確かにその通りなのだが、それらは、パッと見たときに目に飛び込んでくる表面的な印象にすぎない。少し時間をかければ、その荒んだ表面の背後から、ローマでしか得られないもの、おそらく語彙の貧困から「ローマならではの美」としか名づけられないものが表われてくるのである。そんな経験のいくつかを、追々、紹介することにしよう。








(つづく)

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ローマへ (ティトスの凱旋門 -- 準備編その7)  [探求]

 3日目の午後にはフォロ・ロマーノに行く予定であるが、私にとっての最大の見所はティトスの凱旋門である。

  
 ティトスの凱旋門


 ティトゥスの凱旋門は、現存するローマ市最古の記念門で、ユダヤ戦争の戦勝記念として81年に建立された。高さ15.4m、幅13.5m。ここには歴史がつまっている!!

 ローマの支配を打破しようとするユダヤ人の一派が、66年6月に宣戦布告して以来激戦が繰り広げられたが、70年8月エルサレム神殿の崩壊、同年9月のエルサレムの陥落をもって大勢が決した。

 その勝利を祝う凱旋行進が、71年6月に、盛大に行われた。その模様は、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳しく描かれている(『ユダヤ戦記3』(ちくま学芸文庫134~142))。


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 この凱旋式は一大政治ショーでもあった。戦争の場面が再現され、ユダヤ人の捕虜が大量にさらし者にさせられ、最後に、ユダヤ側の指揮官の公開処刑をもってこのショーのクライマックスとした。



「 戦争(の様子)は、個々の部分ごとに、それに思いを致させる多数の物で、目にはっきりと分かるような仕方で示された。
 
  そこでは往時繁栄を謳歌した荒廃した国土、虐殺された敵の大隊、敗走する者たち、捕虜として引かれて行く者たち、諸装置類で破壊された桁外れに大きな城壁、制圧された堅固な要塞、多くの者を配置して防備の万全を期していたが全滅させられた町々、城壁内に雪崩れ込む兵士たち、至る所が血の海と化した地域、抵抗できずに命乞いする者たちの手、火を放たれた神殿、所有者の頭上に落ちる倒壊家屋などを、また大いなる荒廃と悲嘆の後も、耕された土地の上を流れるのでもなく、人間や家畜に飲み水を供するのでもない、まだ各所から火の手が上がっている所を流れる川を見ることができた。まことにユダヤ人たちは戦争に突入したときから、このような災禍をこうむることになっていたのである。

 これらのつくりの技巧と職人技は、その出来事を自にしなかった者たちに、それがあたかも眼前で起こっているかのように見せるものだった。そして、それぞれのステージの上では、陥落した町の指揮官が捕らえられたときの格好をさせられていた。・・・」


 この凱旋式の中心にいた一人がティトス。時のローマ皇帝ウェスパシアヌスの子で、ユダヤ戦争の陣頭指揮を任されていた。凱旋門は、ユダヤ戦争勝利を記念して建てられたので、その指揮者にちなんで、ティトスの凱旋門と呼ばれるのである。実は、この凱旋門には、神殿の破壊と宝物の略奪を物語る光景が描かれている。凱旋式で数々の戦利品が誇示されるのだが。その中でひときわ異彩を放っていたものに、エルサレム神殿に飾られていたユダヤ教の象徴である燭台(メノラー)がある。ヨセフスは次のように書いている。


 「 多数の戦利品が乱雑に積み上げられて運ばれて行ったが、なかでもひときわ目立ったのはエルサレムの神殿から押収したものだった。それは重量が何タラントンもある黄金の机と、同じく黄金でつくられていたが、われわれが日常使うものとは異なる細工の燭台だった。燭台は中央の軸柱が台座に固定され、軸柱から細長い枝が三叉の槍のように伸び、各枝の先端には精巧につくられた燭がついていた。枝の数は七本であるが、それはユダヤ人が七という数に名誉を与えていたことを示している・・・」。



 この燭台が戦利品として凱旋式でこれ見よがしに誇示されたことが、凱旋門のレリーフに描かれているのである。一民族の没落の光景である。



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  一応、ティトスの凱旋門については以上なのだが、補足を二点ほど記しておこう。


1. ユダヤ戦争の結果、第二神殿が焼け落ちて以降、新たな神殿が建てられることがなく現在に至っている。エルサレムには、その間、イスラム教とキリスト教が入り込みもつれ合って、収拾がつかない状態になっていることについては、ご存知の人も多いだろう。しかし、第三神殿に先立って、新たな燭台の方はもう完成していて、新たな神殿の再建を待っているのだという。


 新たな神殿が再建されることを待っている燭台(http://www.asahi.com/travel/hikyou/TKY201007290432.html)。


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2. 最初の福音書である『マルコ福音書』は、このティトスの凱旋式を目撃したキリスト教徒(多分、マルコという名前のキリスト教徒)が書いたのではないかという説がある。イエスが裁判を終えて処刑場にむかって行く様は、ティトスの凱旋式からインスピレーションを得たのではないかという解釈は、トーマス・シュミットという研究者が最初に唱えた(ちなみに、最近その解釈を支持する研究者が増えている)。真の勝利者はローマ皇帝の父子ではなく、十字架にかけられるイエスのほうだ、という転倒した世界観をマルコは表明したのだという説。最近では、その説を拡大して、福音書全体が、実は、ローマの皇帝に対する対抗意識のもとに書かれたのだという解釈も出てきている。元来、「神の子」という表現はローマ皇帝に対する称号だったのだが、それをイエスに当てはめたのだと。『マルコ福音書』が「神の子イエス・キリストの福音の始まり」として始まるのは、そこに体制の転倒というメッセージを暗に含ませていた、と解釈するのである。私もこの解釈は正しいのではないかと思っている。
 
 キリスト教は政治的にはまったく無力だったが、反権力の意識は十分強かったことは確かである。あるいは、抵抗としての無力を懸命に貫いたと言えるかもしれない。だから、ある意味で、ローマの権力者がキリスト教徒を迫害したのは正しかった。そこに不気味なほどの不服従の意思を感じ取ったに違いないからだ。しかし、長い目で見ると、ローマ帝国は衰退に向かいやがて消滅するのに対して、キリスト教は、無力な抵抗を続けながら、現世的な意味でも一つの権威となっていった。まるで、『マルコ福音書』のメッセージが、長い時間を経て実現したかのような歴史の進行になるのである。

 









 


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ローマへ (カタコンベの絵画 -- 準備編その6) [探求]


 そして、ローマ到着二日目はカタコンベをメインに回る予定。カタコンベについてはネット上でも情報が多いとは言えないので、行って良かったという感想が得られるかどうか、あらかじめ予想がつかないという側面がある。かつての地下墓地であるから、けっして気分が晴れるような場所ではない。だから、一か所行けば「もういいよ」となるかもしれない。カタコンベでは写真撮影が禁止されていることも、カタコンベの観光的価値を難しくしている。もっとも、墓を観光することなどもってのほかという声がどこからか聞こえて来そうではあるが。


  ローマに留学して勉学していたヒエロニムス(キリスト教の神学者。聖書のラテン語訳であるウルガータ訳の翻訳者として知られるラテン教父の一人)が、週末になると、知り合いと連れ立って市外のカタコンベを訪れることを習慣としていたと書いているので(4世紀の中頃)、礼拝のような宗教的理由以外の理由でカタコンベを訪れるということは、稀なことではなかったようだ。ヒエロニムスは、この世の地獄のような寂しい場所にあえて行くことに好奇心以上のものを覚えたのだろうが、やはり、そのような興味を覚える人は多くはなかっただろう。やがて、キリスト教がローマの国教となり、墓が地下に潜る必要もなくってからは、カタコンベ自体も徐々に廃れ、(ほとんどは)19世紀以降になって発掘・再発見されるまでは、人々の記憶から完全に消えていくのである。


 古代では、(上流階級をのぞけば)埋葬の習慣というものが確固としてあったという形跡はなく、死体はほとんど捨てるも同然の扱いだったろう。それに対してキリスト教徒が埋葬を義務と考えたのは異彩を放った。テルトリウスの『護教論』を読むと、親族や信仰を共にする人々のみならず、まったく見ず知らずの人や貧しい人々の埋葬も積極的に行ったことがうかがえる。死者を粗末にしないということは、彼らの慈悲心の表われとも言えるが、彼らの信仰の内容に深い関わりをもっていたとも考えられる。なにしろ、終末の時において、義なる人間は、死者から復活するということがキリスト教の信仰の核心にあるのだから。キリスト教のそうした「死の宗教」の側面をもっともよく物語るのが、カタコンベなのである。それは、キリスト教が自らの「死の宗教」の信仰心を作品化したもの、とすら言えるように思えるのである。

 それに、カタコンベ全体もさることながら、所々に見られる絵画らしき図像が死についての一種独特な美的な形象を与えている。それらは、地下墓地の闇にほのかに浮かぶ光のようなものである。いくつかを紹介しよう。



 
 
・海に投げ込まれる預言者ヨナの図( Catacomb of Saint Peter and Saint Marcellino, Rome, Italy, (4th century?)). ヨナは大きな魚にのみ込まれるが、3日後に吐き出された。それがイエスの復活と重ね合わされたせいか、ヨナの姿はカタコンベで好んで描かれた。


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・洗礼を描いたと考えられるフレスコ画(Saint Calixte Catacomb - 3rd century)。 洗礼とは一種の再生であるが、死後の新たな生の先取りと考えられないこともない。それは秘儀宗教に特徴的な考え方だが、それがキリスト教にも流れ込んでいたということも考えられる。とくに、パウロにそのような影響が濃密に感じられるのである。


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・燃え盛る炉に投げ込まれた三人(the Catacombs of Priscillay. Late 3rd century / Early 4th century)。信仰のために炉に投げ込まれるが、無傷のまま救われる三人について語る『ダニエル書』第3章の一節より。迫害続きだった初期キリスト教徒には心の慰めになる逸話であっただろう。

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・愛餐の光景(Catacombe di Priscilla)。カタコンベには晩餐あるいは質素な食事を描いた絵が少なくない。福音書の一節を描いたとも考えられないこともないが、実際にカタコンベ内で行われた礼拝の食事を描いたと考えるべきだろう。

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・パンと魚(Catacombe di Priscilla)。このような質素な晩餐で礼拝のひと時を祝った。

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・良き羊飼いの図(Catacomb of Priscilla.Second half of the 3rd century)。99匹を放置してまでも、見失った1匹の羊を探して見つけ出す羊飼いの説話より(ルカ15:4-7)。ルカは悔い改める罪人の話として解釈しているが、カタコンベで描かれたとき、この逸話は、死んだ人がどんな人であっても、その死後の運命を神は見守っている、という意味になるだろう。


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ローマへ (サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 -- 準備編その5)  [探求]

  サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(santa maria maggiore mosaic)

  352年8月4日の夜、処女マリアが当時の教皇リベリウスとその父ジョヴァンニの夢に現れ、「エスクィリーノの丘の翌日雪が降る。その雪に覆われたまさにその部分に教会を建てよ」というお告げを与えたとのこと。
 
  初期の教会の雰囲気を今でももっともよく保持している聖堂の一つ。なかでも、目に見える形で伝わる唯一の初期キリスト教の特徴は、身廊上部の壁を飾る27枚のモザイクで、これは創建当時の5世紀のモザイク画なのだそうだ。”santa maria maggiore mosaic”で画像検索すると、数多くの魅惑的なモザイク画を楽しむことができる。たとえば、


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  ただ残念なのは、それぞれが、いったい何を描いているのかが良く判らないこと。MATILDA WEBBの著作から、一枚一枚のモチーフを紹介することにしたい。後で実際に行って、付き合わせることにしたいものである。それが難しくとも、ある程度ストーリーとしてたどってみたいものである。創建当時の5世紀、すでに迫害の苦しい時代からは解放されたキリスト教ではあるが、やはり、隷属状態から解放されて他民族の征服に向かうという勝利の物語が好まれたことが伝わってきます。






 (左手)

1.創世記14:18  サレムの王メルキゼデクが、パンと葡萄酒でアブラハムを祝福する。

2.創世記18:2  (上半分) マレムの樫の木の近くでアブラハムが天使に会う。
          (下半分) アブラハム、サラに命じる。

3.創世記19:16-29 (上半分)アブラハムトロと別れる。
          (下半分)田園風景(ほとんどが損傷)。

4.創世記27:18-29 (上半分)イサク、横になって、ヤコブを祝福する。
          (下半分)ほとんどが損傷。建物の慈雨部とイサクの頭だけが見える

5.創世記29:13 (上半分)ラケル、ヤコブの到着を告げる。
          (下半分)ラバンとヤコブが会い、レアとラケルがヤコブを家に通す。

6.創世記29:18-19 (上半分)ヤコブ、ラバンにラケルと結婚していいか尋ねる。
          (下半分)田園風景(ほとんどが損傷)。

7.創世記29:22 (上半分)ヤコブラバンを非難する。
          (下半分)ラバン結婚式に友人を招待。

8.創世記30:32 (上半分)ヤコブ、より多くの報酬を要求する。
          (下半分)似た場面。

9.創世記30:37-39 (上半分)(左)三人羊の群れを見張る。(右)主がヤコブに語りかける。
 創世記31:1   (下半分)妻たちに脱走することを告げる。

10.創世記33:1   (上半分)ヤジブとエサウで再会。
          (下半分)戦闘の場面(ほぼ損傷)。

11.創世記34:6-12 (上半分)ヤコブに会いに来るハモル。
  創世記34:7   (下半分)憤る息子たちがヤコブと話し合う。

12 .創世記34:13 (上半分)ヤコブの息子たち、シケムと話し合う。
   創世記34:20 (下半分)ハマルとシケムが町の人々に話しかける。




   (右手)



13.出エジプト2:1-10 (上半分) 若きモーセがファラオの娘にいる。
           (下半分) 数名のエジプト人の賢者が若きモーセと話している。

  
14.出エジプト2:21  (上半分) モーセがツィポラと結婚。
  出エジプト3:1  (下半分) 羊飼いのモーセ。

15.出エジプト14:15-29 (上半分) ファラオの軍隊が紅海に沈む。右に、陸上にいるイスラエルの民。
 

16.出エジプト16:2-5 (上半分) (左)モーセに不平を言うイスラエルの民。(右)祈るモーセ。
  出エジプト16:13 (下半分) ウズラの飛来。

17.出エジプト15:22-25 (上半分)(左)イスラエルの民の一群が水についてモーセに不平を言う。(右)主がモーセに杖を示す(出エジプト17:5)。
           (下半分) アマレクとの闘いの準備。

18.出エジプト17:10-13 アマレクとの闘い。。

19.民数記13:2 (上半分) カナンの偵察。左にモーセ、中央に偵察部隊、右にカナンの町。
         (下半分) モーセ、ヨシュア、カレブ、神の栄光により、石打の刑を免れる。

20.申命記 31:9 、申命記34:1-5
 
(上半分) (左)モーセ、イスラエルの民に十戒の書を手渡す。(右)モーセの死。
(下半分) 4人のレビ人が担ぐ契約の箱を取りかこむ祭司たち。

21.ヨシュア記 3:11-17、ヨシュア気4:3

(上半分)契約の箱がヨルダン川を渡り、その後をイスラエルの軍勢が続く。右にはヨシュアの意思をもつ人々。
 (下半分)ヨシュア、エリコを偵察させる。


22.ヨシュア記 5:13-16、

(上半分)ヨシュア、剣を手にもつ天使にひれ伏す。
 (下半分)偵察隊、ヨシュアに報告する。

23.ヨシュア記 6:20-23

(上半分)エリコの城壁が崩れる。
 (下半分)契約の箱が市中に運び込まれ勝利の角笛が鳴り響く。

24.ヨシュア記 8

(上半分)アイの町を攻撃する。
(下半分) (左)ヨシュアと話し合う主。(右)イスラエルの軍勢。

25.ヨシュア記 10

(上半分)敗走し、地に倒れるアモリ人。
(下半分)(左)ヨシュアと戦士たち。(中央)勝利の石と主の手。(右)敗走するアモリ人。

26 ヨシュア記10:12-15
 
  ヨシュア、太陽と月にとどまれと命じる。

27 ヨシュア記10:16-24

 (上半分)ヨシュア、捕虜になった3人の王に命令を出す。
 (下半分)(左)ヨシュア。兵士とともに椅子に座る。(右)ルネサンス記の修復作業。








     
        
(つづく)
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ローマへ (サン・クレメンテ聖堂 -- 準備編その4)  [探求]

サン・クレメンテ聖堂(英語: Basilica of Saint Clement )




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 この聖堂は教皇クレメンテ1世に捧げられたが、特徴的なのはこの建物が三層構造になっていること。(1)現在の聖堂は1100年の直前に建てられたもの。(2)現在の聖堂に下に4世紀の聖堂があり、それはローマのとある貴族の邸宅を改造したもの。その邸宅は、一世紀に短期間、初期の教会として使われていたようだが、その地下は2世紀にはミトラス教(=秘儀宗教の一種)の礼拝堂として使われていた。(3)そのローマの貴族の邸宅は、64年のネロ帝の大火で焼失した共和制時代の別荘兼倉庫だった建物の跡地に建てられた。

 これだけの歴史の重曹の上に成り立っている点で、この聖堂は、歴史好きな人間には、たまらなく魅力的である。一度キリスト教の集会所として使われていながら、その後ミトラス教の礼拝所に変更されたのは、おそらく、一般に市民には、キリスト教とミトラス教のうるさい区別など大して重要ではなかった、ということなのかもしれない。


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  上の画像もそうだが、ミトラス神の典型的なポーズは「牛を屠る」ポーズである。これは、ミトラス教の儀式のクライマックスをなした「タウロボリウム」の決定的瞬間を描いたものである。そもそも、「タウロボリウム」とは何か?


  うえに挙げたような図像がミトラス礼拝所の中央に必ず置かれ、その前ですべての儀式が行われた。儀式には不明な点が多々あるにせよ、牛を屠るというアルカイックな供犠の形態がミトラス教の中心にあったことは確実である。さてタウロボリウムだが、この儀式は凄惨なものであったらしい。天井部分を梁である程度覆った穴に秘儀参入者をしゃがませ、その真上で牛を屠るのである。50リットルもの鮮血が参入者に降り注ぐ。文字通り、血の洗礼である。この洗礼を受けた者は尊敬の念で見られ、より高次の身分、新たな生を獲得したと見なされた。ここには、犠牲獣の死が同時に新たな生の誕生でもあるという、古代の供犠一般に共通する論理が、もっとも剥き出しの形で現われているように思われる。


 この儀式は、おそらくイニシエーションの儀式に由来するものであろう。世界のどこであれ、イニシエーションは、子供の時代に別れを告げ大人の仲間入りをする儀式であった。古代では、大人になるということは、男にとって、戦士になることを意味した。したがって、死の覚悟を心に刻み付けるために、死に直面するような体験を通過することが求められるのである。タウロボリウムは、秘儀参加者に、そのことをもっとも直接的に体験させたのである。

 
 キリスト教の儀式は、そうした古代の残酷な儀式性をすべて否定する方向に向かう。確かに、血なまぐさい犠牲はあるのだが、それはイエスの死のみである。他の宗教儀式が、屠った動物を結局は料理し豪勢な食事を享受したのに対して、キリスト教徒は、イエスの贖罪の死を回想し、イエスの肉体と血のシンボルであるパンと葡萄酒を味わうという質素な晩餐にもって代えた。貧困を旨としたイエスの生き方に倣ったものだったろう。

















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