『アリエッティ』が右派の論客にこきおろされる [海外のニュース記事]
『アリエッティ』が海外のメディアのニュースの見出しにあったので、ああ評判がいいというニュースだろうなと流し読みをしていたら、どうもおかしい。アメリカの右派の論客の攻撃対象にされたらしいのだ。…… まあ、中身は読めばすぐ判るので省略。
こういう「批判」は、別にふざけている訳ではないのだろうが、やはり面白い。多くのメディアがこの件を取り上げているのも、やはりちょっと笑える話だからだろう。しかし、そういう風に取り上げられることを狙って、わざと滑稽な批判を展開している……ということはないだろうな。
ちなみにドブス氏の発言は、元記事の所に行けば映像で見ることができる。
イギリス『ガーディアン』の記事より。
Fox host Lou Dobbs slams Arrietty and The Lorax for 'liberal agenda'
Ben Child
guardian.co.uk, Thursday 23 February 2012 11.32 GMT
http://www.guardian.co.uk/film/2012/feb/23/fox-lou-dobbs-lorax-liberal-agenda
「
フォックスTVの論客であるルー・ドブス、『アリエッティ』と『ローラックス』を「リベラルな策略」ゆえにこきおろす
アメリカの右派のコメンテーターが、ハリウッドを「またもや子供たちを洗脳しようとしている」といって批判した。

(貸し手ではなく借り手を助ける……スタジオ・ジブリのアリエッティの画像)
保守的な映画ファンはこう忠告した。「ハリウッドは、臆面もなくリベラル寄りのメッセージを流す二本の新作映画をリリースすることで、あなたの子供たちを(再び)狙っている」のだと。
スタジオ・ジブリのアニメーション『アリエッティの秘密の世界』は、階級間の嫉妬と富の再配布を奨励する陰湿な問題作だ。他方、『スース博士のローラックス(Dr. Seuss' The Lorax)』はまたもや現れた環境急進主義の例だと、フォックス・ビジネス・ネットワークのルー・ドブスは述べた。
『ルー・ドブス・トゥナイト・ショー』で発言した際に、この右派のコメンテーターは、ハリウッドの周知のリベラルな方針をこきおろすフォックスTVの最新の論客となった。12月には、ドブスの仲間のエリック・ボーリングが、(『セサミ・ストリート』でおなじみの)マペットが出演する新しい映画に込められた共産主義的な意味合いを暴露していた。彼によれば、マペットの映画は、テックス・リッチマンという貪欲な石油会社の幹部を悪役として描くことで、金持ちを臆面もなく中傷しているというのだ。
「さて、次は、リベラルな国営のメディアでは聞けないようなお話ですよ」とドブスは話を始めた。「ハリウッドは、またしてもわが国の子供たちを洗脳しようとしているのです。今年封切られた二本の新作映画ですが、明らかに策略が込められていて、明らかにいわゆる1%の人々を悪者扱いして、何としても環境エネルギー政策の美徳を称えようとしているのです」。
気に障る映画のシーンを流した後で、ドブスはその二本の映画を、すべてのアメリカ人は公平に税を払うべきだとするバラク・オバマの演説になぞらえた。「ハリウッドにいる大統領のリベラルな友人たちはアニメ映画を使って、連中の策略を…子供たちに売り込んでいるのです」と彼は述べた。
『ローラックス』はアメリカの有名な子供向けの物語りに基づいたアメリカのプロダクションの作品だが、『アリエッティの秘密の世界』は、ハリウッドのリベラルな陰謀との結びつきは希薄なので、ボーリングが怒るのに相応しいオプションではないようだ。スタジオ・ジブリは日本の会社であり、原作の本は、いまは亡きイギリスの作家メアリー・ノートンによるものだ。ドブスの攻撃は、何も知らない人間から家のものを「借りる」小人たちを描いたノートンの物語りが、富の再分配を支持する社会主義的な問題作として寓意的に読み込まれた史上初の試みであるようだ。
」(おわり)
こういう「批判」は、別にふざけている訳ではないのだろうが、やはり面白い。多くのメディアがこの件を取り上げているのも、やはりちょっと笑える話だからだろう。しかし、そういう風に取り上げられることを狙って、わざと滑稽な批判を展開している……ということはないだろうな。
ちなみにドブス氏の発言は、元記事の所に行けば映像で見ることができる。
イギリス『ガーディアン』の記事より。
Fox host Lou Dobbs slams Arrietty and The Lorax for 'liberal agenda'
Ben Child
guardian.co.uk, Thursday 23 February 2012 11.32 GMT
http://www.guardian.co.uk/film/2012/feb/23/fox-lou-dobbs-lorax-liberal-agenda
「
フォックスTVの論客であるルー・ドブス、『アリエッティ』と『ローラックス』を「リベラルな策略」ゆえにこきおろす
アメリカの右派のコメンテーターが、ハリウッドを「またもや子供たちを洗脳しようとしている」といって批判した。

(貸し手ではなく借り手を助ける……スタジオ・ジブリのアリエッティの画像)
保守的な映画ファンはこう忠告した。「ハリウッドは、臆面もなくリベラル寄りのメッセージを流す二本の新作映画をリリースすることで、あなたの子供たちを(再び)狙っている」のだと。
スタジオ・ジブリのアニメーション『アリエッティの秘密の世界』は、階級間の嫉妬と富の再配布を奨励する陰湿な問題作だ。他方、『スース博士のローラックス(Dr. Seuss' The Lorax)』はまたもや現れた環境急進主義の例だと、フォックス・ビジネス・ネットワークのルー・ドブスは述べた。
『ルー・ドブス・トゥナイト・ショー』で発言した際に、この右派のコメンテーターは、ハリウッドの周知のリベラルな方針をこきおろすフォックスTVの最新の論客となった。12月には、ドブスの仲間のエリック・ボーリングが、(『セサミ・ストリート』でおなじみの)マペットが出演する新しい映画に込められた共産主義的な意味合いを暴露していた。彼によれば、マペットの映画は、テックス・リッチマンという貪欲な石油会社の幹部を悪役として描くことで、金持ちを臆面もなく中傷しているというのだ。
「さて、次は、リベラルな国営のメディアでは聞けないようなお話ですよ」とドブスは話を始めた。「ハリウッドは、またしてもわが国の子供たちを洗脳しようとしているのです。今年封切られた二本の新作映画ですが、明らかに策略が込められていて、明らかにいわゆる1%の人々を悪者扱いして、何としても環境エネルギー政策の美徳を称えようとしているのです」。
気に障る映画のシーンを流した後で、ドブスはその二本の映画を、すべてのアメリカ人は公平に税を払うべきだとするバラク・オバマの演説になぞらえた。「ハリウッドにいる大統領のリベラルな友人たちはアニメ映画を使って、連中の策略を…子供たちに売り込んでいるのです」と彼は述べた。
『ローラックス』はアメリカの有名な子供向けの物語りに基づいたアメリカのプロダクションの作品だが、『アリエッティの秘密の世界』は、ハリウッドのリベラルな陰謀との結びつきは希薄なので、ボーリングが怒るのに相応しいオプションではないようだ。スタジオ・ジブリは日本の会社であり、原作の本は、いまは亡きイギリスの作家メアリー・ノートンによるものだ。ドブスの攻撃は、何も知らない人間から家のものを「借りる」小人たちを描いたノートンの物語りが、富の再分配を支持する社会主義的な問題作として寓意的に読み込まれた史上初の試みであるようだ。
」(おわり)
世界報道写真コンペティション2012 [海外のニュース記事]
10日前に発表されたので、ちょっと古いが、「世界報道写真コンペティション2012」の受賞作品を紹介する。『ガーディアン』紙のスライドショーより(一部省略)。
World Press Photo competition 2012 winners - in pictures
guardian.co.uk, Friday 10 February 2012 14.41 GMT
http://www.guardian.co.uk/media/gallery/2012/feb/10/news-photography-photography#/?picture=385813808&index=0
「
世界報道写真コンペティション2012受賞作品
毎年開催されている世界報道写真コンペティション第55回の受賞者がアムステルダムで発表され、イエメンの首都サナでの反政府抗議デモの後で負傷した縁者に付きそうイエメンの女性を撮ったスペインのサムエル・アランダ(コルビス・イメージ)に大賞を授与した。
1.「ニュース・ストーリー(News Stories)」の「人(People)」部門で第一位となったのは、ヤスヨシ・チバ(Yasuyoshi Chiba )による、津波の後遺症が残る日本の写真(2011年4月)。

2.「アートおよびエンターテイメント(Arts and Entertainment)」部門で第二位となったフランスの写真家ヴァンサン・ボワゾ(Vincent Boisot)の、セネガルのダカールの中心部にある仕立て屋の露天の前でポーズをとるモデルの写真(2011年7月9日)。彼女は、デザイナーのヨランデ・マンチーニの創作したドレスを着て、第9回目のダカール・ファッション・ウィークに出席する予定だ。

3.「ニュース」の「人」部門の第二位となったのは、ポーランドのトマシュ・ラザール(Tomasz Lazar)による、2011年10月25日にニューヨーク・ハーレムで起きた警察の方針と収入格差に反対するデモの最中に参加者が逮捕される写真。

4.「日常生活(Daily Life)」部門で第一位となったのは、タイで活動しているロイターの写真家で、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のダミール・サゴルジ(Damir Sagolj)による、ピョンヤンのビルを飾る北朝鮮の建国の父・金日成の肖像画を撮った写真(2011年10月5日)。

5.「自然」部門で第一位となったのはアメリカの写真家ジェニー・E.ロス(Jenny E.Ross)。ノヴァヤゼムリャ島北部にあるオストロヴァ・オランスキーの海上の断崖をおっかなびっくりに歩くオスのホッキョクグマは、海鳥の卵を捕ろうとしているところだ。

6.「同時代の問題(Contemporary Issues Stories)」部門で第一位となったのは、『ナショナル・ジオグラフィック』誌と契約していたアメリカ人ステファニー・シンクレア(Stephanie Sinclair)。(赤い服の)タハニは、彼女が6歳で夫のマジェドが25歳のときに結婚したが、以前のクラスメートで、やはり子供のころ結婚したガーダとともに、イエメンのハジアの山にある自宅の外で、写真のためにポーズをとる(2010年6月10日)。イエメンの女性のほぼ半数は子供の頃に結婚する。

7.「スポーツ」部門で第二位となったのは『スポーツ・ファイル』誌の写真家のレイ・マクマナス(Ray McManus)。写真は、2011年2月5日ダブリンで激しい雨が降る中行われた、オールド・ベルヴェデーレ対ブラックロックのラグビーの一戦。

8.「スポーツ・ストーリー(Sports Stories)」の第二位になったのはオーストラリアの写真家のアダム・プリティ(Adam Pretty)。彼の写真は、2011年7月17日、中国・上海のオリエンタル・スポーツ・センターで開催された第14回FINA世界大会で練習する飛び込みの選手たちを写している。

9.「スポット・ニュース・ストーリー(Spot News Stories)」部門で第二位になったのは、スウェーデンのニクラス・ハマーストロム(Niclas Hammerstrom)が、2011年7月にノルウェーのウトヤでアフトンブラデット紙のために撮った写真。アンデレシュ・ベーリング・ブレイビックは、オスロ郊外のウトヤ島で6月22日に69人を射殺した。

10.2012年のワールド・プレス・フォト大賞をとったのはスペインの写真家で『ニューヨーク・タイムズ』と契約していたサムエル・アランダ(Samuel Aranda)。大賞受賞作は、2011年10月15日イエメンの首都サナで起きた反サレハ大統領抗議デモの最中に負傷した縁者を抱きしめる女性を撮影したもの。審査員の一人は、進行中のアラブの春の蜂起の最中に撮られたこの写真を「胸を打つ、共感をよび起こす瞬間、偉大な出来事が引き起こした人間的なドラマ」と評した。

」(おわり)
World Press Photo competition 2012 winners - in pictures
guardian.co.uk, Friday 10 February 2012 14.41 GMT
http://www.guardian.co.uk/media/gallery/2012/feb/10/news-photography-photography#/?picture=385813808&index=0
「
世界報道写真コンペティション2012受賞作品
毎年開催されている世界報道写真コンペティション第55回の受賞者がアムステルダムで発表され、イエメンの首都サナでの反政府抗議デモの後で負傷した縁者に付きそうイエメンの女性を撮ったスペインのサムエル・アランダ(コルビス・イメージ)に大賞を授与した。
1.「ニュース・ストーリー(News Stories)」の「人(People)」部門で第一位となったのは、ヤスヨシ・チバ(Yasuyoshi Chiba )による、津波の後遺症が残る日本の写真(2011年4月)。

2.「アートおよびエンターテイメント(Arts and Entertainment)」部門で第二位となったフランスの写真家ヴァンサン・ボワゾ(Vincent Boisot)の、セネガルのダカールの中心部にある仕立て屋の露天の前でポーズをとるモデルの写真(2011年7月9日)。彼女は、デザイナーのヨランデ・マンチーニの創作したドレスを着て、第9回目のダカール・ファッション・ウィークに出席する予定だ。

3.「ニュース」の「人」部門の第二位となったのは、ポーランドのトマシュ・ラザール(Tomasz Lazar)による、2011年10月25日にニューヨーク・ハーレムで起きた警察の方針と収入格差に反対するデモの最中に参加者が逮捕される写真。

4.「日常生活(Daily Life)」部門で第一位となったのは、タイで活動しているロイターの写真家で、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のダミール・サゴルジ(Damir Sagolj)による、ピョンヤンのビルを飾る北朝鮮の建国の父・金日成の肖像画を撮った写真(2011年10月5日)。

5.「自然」部門で第一位となったのはアメリカの写真家ジェニー・E.ロス(Jenny E.Ross)。ノヴァヤゼムリャ島北部にあるオストロヴァ・オランスキーの海上の断崖をおっかなびっくりに歩くオスのホッキョクグマは、海鳥の卵を捕ろうとしているところだ。

6.「同時代の問題(Contemporary Issues Stories)」部門で第一位となったのは、『ナショナル・ジオグラフィック』誌と契約していたアメリカ人ステファニー・シンクレア(Stephanie Sinclair)。(赤い服の)タハニは、彼女が6歳で夫のマジェドが25歳のときに結婚したが、以前のクラスメートで、やはり子供のころ結婚したガーダとともに、イエメンのハジアの山にある自宅の外で、写真のためにポーズをとる(2010年6月10日)。イエメンの女性のほぼ半数は子供の頃に結婚する。

7.「スポーツ」部門で第二位となったのは『スポーツ・ファイル』誌の写真家のレイ・マクマナス(Ray McManus)。写真は、2011年2月5日ダブリンで激しい雨が降る中行われた、オールド・ベルヴェデーレ対ブラックロックのラグビーの一戦。

8.「スポーツ・ストーリー(Sports Stories)」の第二位になったのはオーストラリアの写真家のアダム・プリティ(Adam Pretty)。彼の写真は、2011年7月17日、中国・上海のオリエンタル・スポーツ・センターで開催された第14回FINA世界大会で練習する飛び込みの選手たちを写している。

9.「スポット・ニュース・ストーリー(Spot News Stories)」部門で第二位になったのは、スウェーデンのニクラス・ハマーストロム(Niclas Hammerstrom)が、2011年7月にノルウェーのウトヤでアフトンブラデット紙のために撮った写真。アンデレシュ・ベーリング・ブレイビックは、オスロ郊外のウトヤ島で6月22日に69人を射殺した。

10.2012年のワールド・プレス・フォト大賞をとったのはスペインの写真家で『ニューヨーク・タイムズ』と契約していたサムエル・アランダ(Samuel Aranda)。大賞受賞作は、2011年10月15日イエメンの首都サナで起きた反サレハ大統領抗議デモの最中に負傷した縁者を抱きしめる女性を撮影したもの。審査員の一人は、進行中のアラブの春の蜂起の最中に撮られたこの写真を「胸を打つ、共感をよび起こす瞬間、偉大な出来事が引き起こした人間的なドラマ」と評した。

」(おわり)
数百人のチベット人が拘束されている [海外のニュース記事]
何やらチベット関係がきな臭い。僧侶の焼身自殺が相次いでいるという報道は日本のメディアでも目にしたが、詳細な記事は皆無である。詳しい記事は欧米のメディアでもほとんどない。せめて『ガーディアン』紙に載った最新の記事を紹介する。ただし、これはロイター電の簡単な記事で、日本の各紙もこれを利用したようだ。情報がほとんど途絶状態であるのが、不安を大きくさせている。
China detains hundreds of Tibetans for 're-education', says human rights group
Reuters in Beijing
guardian.co.uk, Friday 17 February 2012 12.55 GMT
http://www.guardian.co.uk/world/2012/feb/17/china-detains-tibetans-re-education
「
人権団体によると、中国は数百人のチベット人を「再教育」のために拘束しているという
拘束されたチベット人たちは、ダライ・ラマとの会合に参加した後、インドから帰国する途中だった、とヒューマン・ライツ・ウォッチは語った。

インドのダルムサーラで語るチベットの精神的指導者ダライ・ラマ
中国政府は、ダライ・ラマの監督のもとに行われた教育の会合に出席した後インドから帰国の途にあった数百人のチベット人を拘束し、彼らが政治的な再-教育を受けるように強制していたと、ある人権団体は語った。
ニューヨークに本拠を置くヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch)は、中国当局がこれほど大量にチベットの一般人を拘束したのは1970年代の終わり以降初めてのことであり、これは中国がチベット各地の騒乱に苛立っているからだろうと述べた。
中国は、12月31日から1月10日にかけてインドのビハールで行われた、亡命中の精神的指導者ダライ·ラマとの会合に約7000人のチベット人が参加することを許可したが、これは、ヒューマン・ライツ・ウォッチによれば、チベット人に対するそれまでの政策を緩和する兆候であると考えられていた。
「しかし、チベット自治区の東部で騒乱が起き、それが(チベットの首都である)ラサにまで不安を及ぼすことが確実になったことを背景に、そうした政策は変更された」とヒューマン・ライツ・ウォッチは声明で述べた。
昨年の3月から数えて少なくとも15人のチベット人が、主にチベット族が多く住む四川省と甘粛省の地域で、中国政府の支配に抗議して焼身自殺を図って死亡したと考えられている。
チベットの擁護団体は、1月に四川省で起きた抗議活動の最中に、7人ものチベット人が射殺され数十名が負傷したと述べている。中国の国営メディアは、警察が警察署を襲撃した「暴徒」に対する自衛行為として発砲したと報じた。
」(おわり)
China detains hundreds of Tibetans for 're-education', says human rights group
Reuters in Beijing
guardian.co.uk, Friday 17 February 2012 12.55 GMT
http://www.guardian.co.uk/world/2012/feb/17/china-detains-tibetans-re-education
「
人権団体によると、中国は数百人のチベット人を「再教育」のために拘束しているという
拘束されたチベット人たちは、ダライ・ラマとの会合に参加した後、インドから帰国する途中だった、とヒューマン・ライツ・ウォッチは語った。

インドのダルムサーラで語るチベットの精神的指導者ダライ・ラマ
中国政府は、ダライ・ラマの監督のもとに行われた教育の会合に出席した後インドから帰国の途にあった数百人のチベット人を拘束し、彼らが政治的な再-教育を受けるように強制していたと、ある人権団体は語った。
ニューヨークに本拠を置くヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch)は、中国当局がこれほど大量にチベットの一般人を拘束したのは1970年代の終わり以降初めてのことであり、これは中国がチベット各地の騒乱に苛立っているからだろうと述べた。
中国は、12月31日から1月10日にかけてインドのビハールで行われた、亡命中の精神的指導者ダライ·ラマとの会合に約7000人のチベット人が参加することを許可したが、これは、ヒューマン・ライツ・ウォッチによれば、チベット人に対するそれまでの政策を緩和する兆候であると考えられていた。
「しかし、チベット自治区の東部で騒乱が起き、それが(チベットの首都である)ラサにまで不安を及ぼすことが確実になったことを背景に、そうした政策は変更された」とヒューマン・ライツ・ウォッチは声明で述べた。
昨年の3月から数えて少なくとも15人のチベット人が、主にチベット族が多く住む四川省と甘粛省の地域で、中国政府の支配に抗議して焼身自殺を図って死亡したと考えられている。
チベットの擁護団体は、1月に四川省で起きた抗議活動の最中に、7人ものチベット人が射殺され数十名が負傷したと述べている。中国の国営メディアは、警察が警察署を襲撃した「暴徒」に対する自衛行為として発砲したと報じた。
」(おわり)
アメリカでも進んでいる教育格差 [海外のニュース記事]
教育は社会的不平等を均一化する効果があると考えられてきたが、それはもう昔の話になってしまったのか? 親の収入が教育の格差に反映し、それに拍車をかけているということが複数の研究で明らかになったようだ。それを伝える『ニューヨーク・タイムズ』の記事より。
Education Gap Grows Between Rich and Poor, Studies Say
By SABRINA TAVERNISE
Published: February 9, 2012
http://www.nytimes.com/2012/02/10/education/education-gap-grows-between-rich-and-poor-studies-show.html?src=me&ref=general
「
富裕層と貧困層の教育格差が拡大している
教育は、恵まれない子供たちを底辺から引き上げ、大人になった時に成功するチャンスを高めてくれるものであるがゆえに、アメリカ社会を平等化するものであると歴史的に考えられてきた。しかし、最近発表された一群の研究は、富裕層と貧困層の学力格差が拡大しており、教育の平等化の効果を希薄化する展開になっていると示唆しているのだ。

( 教育較差:スタンフォード大学の社会学者の研究によると、富裕層と貧困層の学生の共通テストの得点差は黒人と白人の得点差の2倍であるという。
学生の出生年ごとの、共通テストにおけるリーディングの平均点の差を示すグラフ。
オレンジの線 : 収入を度外視した白人学生と黒人学生の得点差
深緑の線 : 高収入家庭の学生と低収入家庭の学生の得点差 )
裕福な家庭の子供が学校での成績がより良い傾向があることは周知の事実だ。しかし所得格差は、人種間の学力格差よりも、政治家や政府関係者からずっと少ない注目しか浴びてこなかった。
さて、ここ数カ月の間に発表された長期的データを分析した研究の中で研究者たちが発見したことは、白人と黒人の学生間の学力格差が過去数十年で大幅に縮小する一方で、富裕層と貧困層の学生の格差が同じ期間内に大幅に増大した、ということだった。
「私たちは、人種が家庭の収入よりも重要だった1950年代や1960年の社会から、家庭の収入の方が人種よりも教育上の成功を決定しているように見える今日の社会に移行してしまいました」と語るのは、スタンフォード大学の社会学者のショーン・F.リアドン(Sean F. Reardon)。リアドン教授は、富裕層と低所得層の学生の共通テストの得点差が1960年代から約40%も拡大したこと、そしてそれが今では黒人と白人の得点差の2倍になることを指摘した研究の著者である。
ミシガン大学の研究者による別の研究では、大学修了――労働力市場での成功を占う最も重要な要因――という点での富裕層と貧困層の子供たちの不均衡は1980年代の終わりごろから約50%も増大したというのだ。
この変化は地殻変動とも言えるものだが、過去数十年にわたって生じた社会的・経済的プロセスの結果なのである。これらほとんどの研究のデータは、不況の本格的な影響が感じ取れる前の2007年と2008年で終わっている。過去の不況期の経験に基づくかぎり、最近の景気後退はこのトレンドをさらに悪化させただろうと、研究者たちは述べている。
「収入の目減りは下の階層の方が深刻なので、この不況が格差をさらに広げた可能性は十分ありますね」とリアドン教授は述べた。彼がリーダーをつとめた研究で、研究者たちは1960年に始まり2007年に終了した12組に分けた共通テストの得点を分析した。彼は、収入が90パーセンタイルの家庭の子供――研究がおこなわれた2008年当時では年収約16万ドルに相当する――と10パーセンタイルの子供――2008年の1万7500ドルに相当――を比較した。
1960年から2008年の期間の終わりごろになると、収入別の学力格差は40%も増大したが、白人と黒人の学力格差は、収入に関係なく、著しく縮まった、と彼は述べた。
どちらの研究とも、社会科学の研究センターであるラッセル・セージ財団(Russell Sage Foundation)と、教育に主眼を置くスペンサー財団(Spencer Foundation)が募った論文からなる『機会はどこにいくのか(Whither Oppotunity? )』という研究書に昨秋初めて発表された。彼らの結論は、社会科学の学者の小さな範囲では知れ渡ったことではあったが、所得の不平等がこの大統領選挙シーズンの中心テーマの一つになったこともあって、今やより広範囲な人々の注目を集めつつあるのだ。
親の所得の不平等と子どもの社会的流動性の関連は、共和党の大統領候補のみならずオバマ大統領にとっても関心を寄せる中心問題となっている。
学力の格差が増大した理由は、研究者によれば、裕福な親が子供たちに(週末のスポーツ、バレエ、音楽レッスン、数学の補習、それに子供たちの学校に対する全体的な関与に)かつてないほど時間とお金を投資しているのに対して、低所得の家庭は、これまで以上に片親しかいないことが多く、ますます酷使され時間や資金的余裕がなくなっていることにあるという。この点は、ますます多くの親が、大卒が経済的な成功にとってこれまで以上に不可欠となっているため、子供を大学に入れようと考えるようになった今日、特に当てはまるのだという。
マドリードのファン・マーチ財団(Juan March Institute)の上級研究センターの研究者であるサビーノ・コーンリッチ(Sabino Kornrich)とフランク・F.ファーステンバーグ(Frank F. Furstenberg)による研究は専門誌『デモグラフィー(Demography)』に今年掲載される予定だが、その研究によると、1972年に年収のトップにいたアメリカ人が子供一人当たりに費やす費用は低所得の家庭に比べて5倍だった。2007年にはその差は9倍にまで拡大した。高所得世帯の支出は2倍になったが、低所得世帯の支出は20%しか増大しなかったためだ。
「今日の特権階級の家庭のパターンは集約栽培ですよ」とペンシルバニア大学の社会学の教授であるファーステンバーグ博士は述べた。
こうしたギャップは大学でも拡大している。ミシガン大学のスーザン・M.ディナルスキー(Susan M. Dynarski )とマーサ・J.ベイリー(Martha J. Bailey)による研究では、二世代の学生、一つは1961年から1964年に生まれた学生の世代と、もう一つは1979年から1982年に生まれた学生の世代を対象にした。1989年には、最初の世代の高所得層の学生で大学を修了したのは約3分の1だった。2007年には、2番目の世代の高所得層の学生の半分以上が大学を修了した。これとは対照的に、2007年、2番目の世代の低所得層の学生で大学を修了したのはたった9%だったが、この数字は最初の世代の1989年の修了率5%からわずかにアップしただけのものだった。
シカゴ大学の経済学者であるジェームズ・J.ヘックマン(James J. Heckman)は、子供の認知能力と人格を形成するうえで、親のしつけは収入以上とは言わないまでも、それと同程度に重要である、就学前の数年は特にそうだ、と主張する。
「幼児期の生活条件と子供にどれくらい刺激を与えるかという点はとても重要な役割を果たしています」と彼は言った。「危険なのは、貧困が単に所得の問題で、家庭により一層の補助を与えれば子供の将来は良くなるだろうという貧困撲滅運動(the war on poverty)の考え方に戻ってしまうことです。人々がそう結論づけてしまうならば、それは間違いというものです」。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校の公共政策と社会学の准教授メレディス・フィリップス(Meredith Phillips)は調査データを用いて、富裕家庭の子供たちが6歳になるまでに自宅やデイ・ケア・センターや学校以外の場所(美術館からショッピング・モールに至るありとあらゆる場所)で過ごす時間は、低所得の子供よりも1300時間も多いことを示した。高収入の家庭の子供が学校に通い出す頃までに、そうした子供が読み書きの活動に費やす時間は、貧しい家庭の子供に比べると400時間も多いことをフィリップス博士は発見した。
アメリカン・エンタープライズ 研究所 (American Enterprise Institute)の研究員で、その著書『崩壊: 1960年から2010年にかけての白人アメリカ人の状態(“Coming Apart: The State of White America, 1960-2010”』が1月31日に発売されたチャールズ・マレー(Charles Murray)は、所得の不平等を「原因というよりも徴候である」と記述している。
高学歴の人々と低学歴の人々のギャップの拡大は、一種の文化的な格差を形成するに至った、と彼は主張した。その格差は、高学歴の人は高学歴の人と結婚する傾向があるように、社会の自然な趨勢にルーツをもつが、福祉や政府の別のプログラムのような1960年代の社会政策にもルーツをもつのだ、なぜならそうした政策は独身でいたいという動機を提供したからだ、とマレーは主張する。
「経済が回復しても、お金には何の関係もなく文化に大いに関係する理由で、これらの問題が依然として問題のまま残ることがいずれ判明するだろう」と彼は言った。
簡単な答えなどありません、それは問題が非常に複雑だからでもありますが、と語るのは、アトランティック・カウンシル(Atlantic Council)の研究員のダグラス・J.ベシャロフ(Douglas J.Besharov)。この問題の罪を最富裕層になすりつけるのはそれと同じくらい重要な要因を無視することだ、と彼は述べた。その要因とは、共働き家庭の財産で、それが、中流の家庭を低学歴のアメリカ人の家庭からさらに引き離したのだ、低学歴の家庭は片親の家庭である傾向が高いからだ、というのだ。
この問題は難問ですね、と彼は言った。「どうすれば改善できるのか、ほんのちょっとのアイディアすら誰ももっていませんよ。戸棚は空っぽの状態です」。
」(おわり)
Education Gap Grows Between Rich and Poor, Studies Say
By SABRINA TAVERNISE
Published: February 9, 2012
http://www.nytimes.com/2012/02/10/education/education-gap-grows-between-rich-and-poor-studies-show.html?src=me&ref=general
「
富裕層と貧困層の教育格差が拡大している
教育は、恵まれない子供たちを底辺から引き上げ、大人になった時に成功するチャンスを高めてくれるものであるがゆえに、アメリカ社会を平等化するものであると歴史的に考えられてきた。しかし、最近発表された一群の研究は、富裕層と貧困層の学力格差が拡大しており、教育の平等化の効果を希薄化する展開になっていると示唆しているのだ。

( 教育較差:スタンフォード大学の社会学者の研究によると、富裕層と貧困層の学生の共通テストの得点差は黒人と白人の得点差の2倍であるという。
学生の出生年ごとの、共通テストにおけるリーディングの平均点の差を示すグラフ。
オレンジの線 : 収入を度外視した白人学生と黒人学生の得点差
深緑の線 : 高収入家庭の学生と低収入家庭の学生の得点差 )
裕福な家庭の子供が学校での成績がより良い傾向があることは周知の事実だ。しかし所得格差は、人種間の学力格差よりも、政治家や政府関係者からずっと少ない注目しか浴びてこなかった。
さて、ここ数カ月の間に発表された長期的データを分析した研究の中で研究者たちが発見したことは、白人と黒人の学生間の学力格差が過去数十年で大幅に縮小する一方で、富裕層と貧困層の学生の格差が同じ期間内に大幅に増大した、ということだった。
「私たちは、人種が家庭の収入よりも重要だった1950年代や1960年の社会から、家庭の収入の方が人種よりも教育上の成功を決定しているように見える今日の社会に移行してしまいました」と語るのは、スタンフォード大学の社会学者のショーン・F.リアドン(Sean F. Reardon)。リアドン教授は、富裕層と低所得層の学生の共通テストの得点差が1960年代から約40%も拡大したこと、そしてそれが今では黒人と白人の得点差の2倍になることを指摘した研究の著者である。
ミシガン大学の研究者による別の研究では、大学修了――労働力市場での成功を占う最も重要な要因――という点での富裕層と貧困層の子供たちの不均衡は1980年代の終わりごろから約50%も増大したというのだ。
この変化は地殻変動とも言えるものだが、過去数十年にわたって生じた社会的・経済的プロセスの結果なのである。これらほとんどの研究のデータは、不況の本格的な影響が感じ取れる前の2007年と2008年で終わっている。過去の不況期の経験に基づくかぎり、最近の景気後退はこのトレンドをさらに悪化させただろうと、研究者たちは述べている。
「収入の目減りは下の階層の方が深刻なので、この不況が格差をさらに広げた可能性は十分ありますね」とリアドン教授は述べた。彼がリーダーをつとめた研究で、研究者たちは1960年に始まり2007年に終了した12組に分けた共通テストの得点を分析した。彼は、収入が90パーセンタイルの家庭の子供――研究がおこなわれた2008年当時では年収約16万ドルに相当する――と10パーセンタイルの子供――2008年の1万7500ドルに相当――を比較した。
1960年から2008年の期間の終わりごろになると、収入別の学力格差は40%も増大したが、白人と黒人の学力格差は、収入に関係なく、著しく縮まった、と彼は述べた。
どちらの研究とも、社会科学の研究センターであるラッセル・セージ財団(Russell Sage Foundation)と、教育に主眼を置くスペンサー財団(Spencer Foundation)が募った論文からなる『機会はどこにいくのか(Whither Oppotunity? )』という研究書に昨秋初めて発表された。彼らの結論は、社会科学の学者の小さな範囲では知れ渡ったことではあったが、所得の不平等がこの大統領選挙シーズンの中心テーマの一つになったこともあって、今やより広範囲な人々の注目を集めつつあるのだ。
親の所得の不平等と子どもの社会的流動性の関連は、共和党の大統領候補のみならずオバマ大統領にとっても関心を寄せる中心問題となっている。
学力の格差が増大した理由は、研究者によれば、裕福な親が子供たちに(週末のスポーツ、バレエ、音楽レッスン、数学の補習、それに子供たちの学校に対する全体的な関与に)かつてないほど時間とお金を投資しているのに対して、低所得の家庭は、これまで以上に片親しかいないことが多く、ますます酷使され時間や資金的余裕がなくなっていることにあるという。この点は、ますます多くの親が、大卒が経済的な成功にとってこれまで以上に不可欠となっているため、子供を大学に入れようと考えるようになった今日、特に当てはまるのだという。
マドリードのファン・マーチ財団(Juan March Institute)の上級研究センターの研究者であるサビーノ・コーンリッチ(Sabino Kornrich)とフランク・F.ファーステンバーグ(Frank F. Furstenberg)による研究は専門誌『デモグラフィー(Demography)』に今年掲載される予定だが、その研究によると、1972年に年収のトップにいたアメリカ人が子供一人当たりに費やす費用は低所得の家庭に比べて5倍だった。2007年にはその差は9倍にまで拡大した。高所得世帯の支出は2倍になったが、低所得世帯の支出は20%しか増大しなかったためだ。
「今日の特権階級の家庭のパターンは集約栽培ですよ」とペンシルバニア大学の社会学の教授であるファーステンバーグ博士は述べた。
こうしたギャップは大学でも拡大している。ミシガン大学のスーザン・M.ディナルスキー(Susan M. Dynarski )とマーサ・J.ベイリー(Martha J. Bailey)による研究では、二世代の学生、一つは1961年から1964年に生まれた学生の世代と、もう一つは1979年から1982年に生まれた学生の世代を対象にした。1989年には、最初の世代の高所得層の学生で大学を修了したのは約3分の1だった。2007年には、2番目の世代の高所得層の学生の半分以上が大学を修了した。これとは対照的に、2007年、2番目の世代の低所得層の学生で大学を修了したのはたった9%だったが、この数字は最初の世代の1989年の修了率5%からわずかにアップしただけのものだった。
シカゴ大学の経済学者であるジェームズ・J.ヘックマン(James J. Heckman)は、子供の認知能力と人格を形成するうえで、親のしつけは収入以上とは言わないまでも、それと同程度に重要である、就学前の数年は特にそうだ、と主張する。
「幼児期の生活条件と子供にどれくらい刺激を与えるかという点はとても重要な役割を果たしています」と彼は言った。「危険なのは、貧困が単に所得の問題で、家庭により一層の補助を与えれば子供の将来は良くなるだろうという貧困撲滅運動(the war on poverty)の考え方に戻ってしまうことです。人々がそう結論づけてしまうならば、それは間違いというものです」。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校の公共政策と社会学の准教授メレディス・フィリップス(Meredith Phillips)は調査データを用いて、富裕家庭の子供たちが6歳になるまでに自宅やデイ・ケア・センターや学校以外の場所(美術館からショッピング・モールに至るありとあらゆる場所)で過ごす時間は、低所得の子供よりも1300時間も多いことを示した。高収入の家庭の子供が学校に通い出す頃までに、そうした子供が読み書きの活動に費やす時間は、貧しい家庭の子供に比べると400時間も多いことをフィリップス博士は発見した。
アメリカン・エンタープライズ 研究所 (American Enterprise Institute)の研究員で、その著書『崩壊: 1960年から2010年にかけての白人アメリカ人の状態(“Coming Apart: The State of White America, 1960-2010”』が1月31日に発売されたチャールズ・マレー(Charles Murray)は、所得の不平等を「原因というよりも徴候である」と記述している。
高学歴の人々と低学歴の人々のギャップの拡大は、一種の文化的な格差を形成するに至った、と彼は主張した。その格差は、高学歴の人は高学歴の人と結婚する傾向があるように、社会の自然な趨勢にルーツをもつが、福祉や政府の別のプログラムのような1960年代の社会政策にもルーツをもつのだ、なぜならそうした政策は独身でいたいという動機を提供したからだ、とマレーは主張する。
「経済が回復しても、お金には何の関係もなく文化に大いに関係する理由で、これらの問題が依然として問題のまま残ることがいずれ判明するだろう」と彼は言った。
簡単な答えなどありません、それは問題が非常に複雑だからでもありますが、と語るのは、アトランティック・カウンシル(Atlantic Council)の研究員のダグラス・J.ベシャロフ(Douglas J.Besharov)。この問題の罪を最富裕層になすりつけるのはそれと同じくらい重要な要因を無視することだ、と彼は述べた。その要因とは、共働き家庭の財産で、それが、中流の家庭を低学歴のアメリカ人の家庭からさらに引き離したのだ、低学歴の家庭は片親の家庭である傾向が高いからだ、というのだ。
この問題は難問ですね、と彼は言った。「どうすれば改善できるのか、ほんのちょっとのアイディアすら誰ももっていませんよ。戸棚は空っぽの状態です」。
」(おわり)
白人の下層階級 [海外のニュース記事]
リベラル派のコラムニストのニコラス・クリストフが『ニューヨーク・タイムズ』に寄せたコラムを紹介する。
内容は、今日アメリカの白人の下流部分がいかに苦境に追い込まれているかを訴えるもの。アップルのことを取り上げた記事もそんな内容だったが、個人的に貧困や労働の問題にある程度の興味があるので、ついついこういう記事を見かけると気持ちが動いてしまうのである。
ちなみに、ニコラス・クリストフ氏のコラムは、以前に一度取り上げたことがある。震災直後の日本にエールを送る気持ちの良い文章だった。
「日本人が教えてくれるいくつかのこと」・・・http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-03-20
The White Underclass
By NICHOLAS D. KRISTOF
Published: February 8, 2012
http://www.nytimes.com/2012/02/09/opinion/kristof-the-decline-of-white-workers.html?src=rechp
「
白人の下層階級
いつまでも続く貧困は、アメリカが抱える道徳的な大問題だが、しかしそれよりずっと重大なことなのだ。
ニコラス・D.クリストフ

実際問題として、私たちは、国民の多くが下層階級に留まっていてくれなければ、教育問題にしろ医療費にしろ政府支出や経済的競争力といった問題を解決することはできないのだ。歴史的に見ると、「下層階級(underclass)」といぅ表現はしばしば「民族」を婉曲的に表現する語であると考えられてきたのだが、それが最近はますます白人の労働者階級の要素を含むようになってきた。
この点は、チャールズ・マレー(Charles Murray)の最新の著書 “Coming Apart”(『崩壊する白人アメリカ人』――訳者註)をめぐる論争の背景にもなっている。マレーは、白人の労働者階級で家庭の崩壊が進み、伝統的にあった(と彼は見ている)勤勉という価値観が衰退しているという事態を批判的に考察している。
リベラル派の人々のほとんどはこの本を批判したし、私もこの本の重要な部分については意見を異にしている。しかし彼が、スキルの低い白人労働者の間に広がる危機が社会的にどれほどの広がりをもっているかを強調したのは正しかったのだ。
私が基準として考えているのは、わが愛する故郷の町、巡りあわせが良い日だと人口約925人にもなるオレゴン州ヤンヒル(Yamhill)だ。私たちアメリカ人は、アメリカの保守的な農村部ときけば美しい牧歌的な背景を思い出すが、最近では、ヤンヒルのような場所でわずかな収入を頼りにしている白人の家庭の中には、過去数十年間多くのアフリカ系アメリカ人の家庭を崩壊させてきた病理的現象を再現しているかのように見える所もあるのだ。
災いの一つは薬物の乱用だ。アメリカの農村部では、ヘロインではなくメタンフェタミンが好まれる。それはヤンヒルでの生活をめちゃくちゃにし、多くの者に前科という置き土産を残し、そのため彼らは良い仕事を見つける事が一層困難になる。親が刑務所にいるので、子供の養育はいい加減になってしまう。
それから、伝統的な家族のパターンが崩壊しつつある。マレーによると、高校の教育しか受けていない白人のアメリカ人女性において、出産の44%が婚外出産であるが、1970年の6%に比べると非常に高くなっている。
リベラル派には、伝統的な結婚を良しとするのは偏狭な態度だと感じる人がいる。私は、貧困の取材を重ねるにつれて、それとは反対の意見をもつようになった。きちんとした結婚は、貧しい人々の暮らしに有利となる多大なインパクトを及ぼすものなのだ(そのインパクトは中流階級の暮らしよりも大きいのだ。中流階級は、事態が悪化したとき、自分たちを支えるクッションとなるものをもっと持っているからだ)。
ボストンの低所得者層の非行に走る若者を対象にした研究の一つによると、犯罪から少年を遠ざけるうえで最もインパクトのあった要因の一つは、その少年が気にかける女性と結婚することだった。この点はスティーブン・ピンカー(Steven Pinker)が最近の本( “The Better Angels of Our Nature”(『人間の本性にひそむ良い方の天使』――訳者註))の中で述べていることでもある。「若い男性が女性や結婚によって礼儀ある人間になるという考えは、8月のカンザス州のトウモロコシのようにつまらなく思われるかもしれないが、それは現代の犯罪学の常識になっているのだ」。
職も貧困から脱出する突破口として重要だし、労働者階級の男性のますます多くが労働力市場からこぼれ落ちて行っているのは困ったことだとマレーが指摘しているのは正しいことだ。働き盛りの高卒男性で「労働力市場から落ちこぼれている」と言っている者の割合は1968年から4倍にもはね上がり、12%にもなってるのだ。
1965年、ダニエル・パトリック・モイニハン(Daniel Patrick Moynihan)は有名なリポートを発表してアフリカ系アメリカ人の家族構成が危機を迎えていると警告したが、当時のリベラル派の多くは、このリポートが人種差別に近いものであると非難した。振り返ってみると、モイニハンが警告を発したのは正しかったのだ。
今日、大量の労働者階級のアメリカ人が、薬物、絶望、家庭崩壊、高い刑務所入所率、仕事と教育の役割が低下して社会的上昇が望めなくなったことなどの際立った特徴を見せながら、下層階級に陥って抜け出られなくなっているという危機に私たちが直面しているのではないかと私は恐れる。貧困がもたらすこうした問題の広がりについて国民的なレベルで話し合うことが必要であり、たぶんマレーの本がきっかけになってその口火が切られることになるかもしれない。リベラル派があまりにも性急になって不平等を基本的に税の問題として考えてしまわないかと私は恐れる。確かに、わが国の税のシステムは恥ずべきものだが、貧困問題はそれよりはるかに深く複雑なのである。…
私の高校の同学年の80%は高校を辞めたり大学に進学しなかったが、それは、製鉄所や手袋工場や製材所に勤めてきちんと生計を立てることができたからだ。そうした仕事は親がしていた仕事だった。しかし手袋工場は閉鎖され、労働者階級の職も消え去り、スキルのない労働者たちは移民との競争に巻き込まれてしまった。
理想的な解決策はないが、いくつかの証拠が示唆するところでは、われわれは(もっと少ない、ではなく)もっと多くの社会政策を必要としているのである。早期の幼児教育は、苦労しているシングルの親に育てられている子供たちのサポートになるだろう。麻薬患者を治療することは、彼らを刑務所に入れるよりもはるかに安くつくのだ。
新たな研究が発見したことだが、出所したばかりの受刑者に職業訓練を行ったところ、再犯率が22パーセントも下がったらしい。就業機会センター(the Center for Employment Oppotunities)によるこうした取り組みは採算が取れる以上の結果をあげた。1ドルの支出に対して3.85ドルの見返りがあったのだ。
だから現実を良く見よう。白人の労働者階級に危機が広がっているが、これは、アメリカで増大している所得格差の副産物なのだ。病理的な現象は痛みを覚えるほど現実に広がっている。しかし、解決策は、教え諭そうと人さし指を振ることでも目を逸らすことでもなく――機会を与えることなのである。
」(おわり)
内容は、今日アメリカの白人の下流部分がいかに苦境に追い込まれているかを訴えるもの。アップルのことを取り上げた記事もそんな内容だったが、個人的に貧困や労働の問題にある程度の興味があるので、ついついこういう記事を見かけると気持ちが動いてしまうのである。
ちなみに、ニコラス・クリストフ氏のコラムは、以前に一度取り上げたことがある。震災直後の日本にエールを送る気持ちの良い文章だった。
「日本人が教えてくれるいくつかのこと」・・・http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-03-20
The White Underclass
By NICHOLAS D. KRISTOF
Published: February 8, 2012
http://www.nytimes.com/2012/02/09/opinion/kristof-the-decline-of-white-workers.html?src=rechp
「
白人の下層階級
いつまでも続く貧困は、アメリカが抱える道徳的な大問題だが、しかしそれよりずっと重大なことなのだ。
ニコラス・D.クリストフ

実際問題として、私たちは、国民の多くが下層階級に留まっていてくれなければ、教育問題にしろ医療費にしろ政府支出や経済的競争力といった問題を解決することはできないのだ。歴史的に見ると、「下層階級(underclass)」といぅ表現はしばしば「民族」を婉曲的に表現する語であると考えられてきたのだが、それが最近はますます白人の労働者階級の要素を含むようになってきた。
この点は、チャールズ・マレー(Charles Murray)の最新の著書 “Coming Apart”(『崩壊する白人アメリカ人』――訳者註)をめぐる論争の背景にもなっている。マレーは、白人の労働者階級で家庭の崩壊が進み、伝統的にあった(と彼は見ている)勤勉という価値観が衰退しているという事態を批判的に考察している。
リベラル派の人々のほとんどはこの本を批判したし、私もこの本の重要な部分については意見を異にしている。しかし彼が、スキルの低い白人労働者の間に広がる危機が社会的にどれほどの広がりをもっているかを強調したのは正しかったのだ。
私が基準として考えているのは、わが愛する故郷の町、巡りあわせが良い日だと人口約925人にもなるオレゴン州ヤンヒル(Yamhill)だ。私たちアメリカ人は、アメリカの保守的な農村部ときけば美しい牧歌的な背景を思い出すが、最近では、ヤンヒルのような場所でわずかな収入を頼りにしている白人の家庭の中には、過去数十年間多くのアフリカ系アメリカ人の家庭を崩壊させてきた病理的現象を再現しているかのように見える所もあるのだ。
災いの一つは薬物の乱用だ。アメリカの農村部では、ヘロインではなくメタンフェタミンが好まれる。それはヤンヒルでの生活をめちゃくちゃにし、多くの者に前科という置き土産を残し、そのため彼らは良い仕事を見つける事が一層困難になる。親が刑務所にいるので、子供の養育はいい加減になってしまう。
それから、伝統的な家族のパターンが崩壊しつつある。マレーによると、高校の教育しか受けていない白人のアメリカ人女性において、出産の44%が婚外出産であるが、1970年の6%に比べると非常に高くなっている。
リベラル派には、伝統的な結婚を良しとするのは偏狭な態度だと感じる人がいる。私は、貧困の取材を重ねるにつれて、それとは反対の意見をもつようになった。きちんとした結婚は、貧しい人々の暮らしに有利となる多大なインパクトを及ぼすものなのだ(そのインパクトは中流階級の暮らしよりも大きいのだ。中流階級は、事態が悪化したとき、自分たちを支えるクッションとなるものをもっと持っているからだ)。
ボストンの低所得者層の非行に走る若者を対象にした研究の一つによると、犯罪から少年を遠ざけるうえで最もインパクトのあった要因の一つは、その少年が気にかける女性と結婚することだった。この点はスティーブン・ピンカー(Steven Pinker)が最近の本( “The Better Angels of Our Nature”(『人間の本性にひそむ良い方の天使』――訳者註))の中で述べていることでもある。「若い男性が女性や結婚によって礼儀ある人間になるという考えは、8月のカンザス州のトウモロコシのようにつまらなく思われるかもしれないが、それは現代の犯罪学の常識になっているのだ」。
職も貧困から脱出する突破口として重要だし、労働者階級の男性のますます多くが労働力市場からこぼれ落ちて行っているのは困ったことだとマレーが指摘しているのは正しいことだ。働き盛りの高卒男性で「労働力市場から落ちこぼれている」と言っている者の割合は1968年から4倍にもはね上がり、12%にもなってるのだ。
1965年、ダニエル・パトリック・モイニハン(Daniel Patrick Moynihan)は有名なリポートを発表してアフリカ系アメリカ人の家族構成が危機を迎えていると警告したが、当時のリベラル派の多くは、このリポートが人種差別に近いものであると非難した。振り返ってみると、モイニハンが警告を発したのは正しかったのだ。
今日、大量の労働者階級のアメリカ人が、薬物、絶望、家庭崩壊、高い刑務所入所率、仕事と教育の役割が低下して社会的上昇が望めなくなったことなどの際立った特徴を見せながら、下層階級に陥って抜け出られなくなっているという危機に私たちが直面しているのではないかと私は恐れる。貧困がもたらすこうした問題の広がりについて国民的なレベルで話し合うことが必要であり、たぶんマレーの本がきっかけになってその口火が切られることになるかもしれない。リベラル派があまりにも性急になって不平等を基本的に税の問題として考えてしまわないかと私は恐れる。確かに、わが国の税のシステムは恥ずべきものだが、貧困問題はそれよりはるかに深く複雑なのである。…
私の高校の同学年の80%は高校を辞めたり大学に進学しなかったが、それは、製鉄所や手袋工場や製材所に勤めてきちんと生計を立てることができたからだ。そうした仕事は親がしていた仕事だった。しかし手袋工場は閉鎖され、労働者階級の職も消え去り、スキルのない労働者たちは移民との競争に巻き込まれてしまった。
理想的な解決策はないが、いくつかの証拠が示唆するところでは、われわれは(もっと少ない、ではなく)もっと多くの社会政策を必要としているのである。早期の幼児教育は、苦労しているシングルの親に育てられている子供たちのサポートになるだろう。麻薬患者を治療することは、彼らを刑務所に入れるよりもはるかに安くつくのだ。
新たな研究が発見したことだが、出所したばかりの受刑者に職業訓練を行ったところ、再犯率が22パーセントも下がったらしい。就業機会センター(the Center for Employment Oppotunities)によるこうした取り組みは採算が取れる以上の結果をあげた。1ドルの支出に対して3.85ドルの見返りがあったのだ。
だから現実を良く見よう。白人の労働者階級に危機が広がっているが、これは、アメリカで増大している所得格差の副産物なのだ。病理的な現象は痛みを覚えるほど現実に広がっている。しかし、解決策は、教え諭そうと人さし指を振ることでも目を逸らすことでもなく――機会を与えることなのである。
」(おわり)
ニーチェの言葉「神は死んだ」の政治的メッセージ [海外のニュース記事]
ニーチェの政治嫌いは有名なので、「「神は死んだ」の政治的メッセージ」というタイトルを見たとき、これはさぞひねった内容なのだろうなと思ったのだが、最後まで読んでみると実にまっとうな内容だった。
「神は死んだ」という言葉は多義的で幾通りにも解釈できるし、実際これまで数知れないほどの仕方で解釈されてきた。中には、ニーチェは無神論者ではなく、19世紀ドイツの俗物ども(広くとれば、近代の人間たち)によって神が殺されたことを嘆き悲しんだのだと、初めて「神は死んだ」という思想が語られる『華やぐ智慧』の個所を解釈する人もいるほどである。
この記事を読むだけでも、この言葉の厄介な側面は感じ取れるはずだ。でも、『ガーディアン』紙が最近ニーチェのこの言葉を取り上げているのか、いまいちよく判らないのだが、まあ、そんな疑問はこの際、脇に置いて純粋な知的好奇心から読んでみたいものだ。
The political message of Nietzsche's 'God is dead'
Lesley Chamberlain
guardian.co.uk, Tuesday 7 February 2012 09.00 GMT
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2012/feb/07/political-message-nietzsche-god-is-dead
「
ニーチェの言葉「神は死んだ」の政治的メッセージ
「神は死んだ」というニーチェの宣言を今日的な文脈で考えると、それは無神論的な批判ではなく、理性と神との関連に対する攻撃なのだ

プロイセンの軍服姿のフリードリヒ・ニーチェを写した1864 年の珍しい写真。
フリードリヒ・ニーチェは「神の死」を1884年の著作『ツァラトゥストラかく語りき』で詩的な形で告知し、『アンチ・キリスト』(1888) では哲学的な主張としてそのテーマに立ち戻った。「哲学的な」ということで私が言いたいのは、この言葉が今の時代のわれわれの見慣れた信仰や信者に対する無神論的な批判ではなかった(あるいはそれだけではなかった)ということだ。それは、プラトンに始まり、17 世紀のルネ・デカルトにいたるまでキリスト教の伝統を通して受け継がれてきた理性と神との堅い結びつきに対する攻撃だったのだ。
デカルトは『省察』の中で、主体は世界の中で手にできるどんな「真理」であっても、それを合理的に証明することができないならば、それを疑わなければならないと述べた。デカルトは、理性が真理に達することを神が保証してくれることに関して6種類の証明を行うことで、彼の方法を精緻に仕上げた。しかし、デカルトの同時代の人々は、神が存在するかどうかは新たな時代の科学的方法にとってはどうでもいいことだと見なすことができた。
だが、デカルトの科学的な革命や啓蒙思想――そのいずれもが合理性を文化一般を前進させる力として確立させた――のおかげで、フランスやドイツの表舞台から(そして、ディヴィッド・ヒュームの登場とともに、イギリスでも)神は引きずり降ろされてしまったが、人間と自然と生命の意義をめぐる体系的な説明をする段になると、やはり依然として神を引き合いに出さざるを得ないのが実情だった。ある種の神の理念があったからこそ、ドイツ観念論として知られるヘーゲルやシェリングの偉大な体系は可能になったのである。
19世紀半ばのドイツの哲学者であったニーチェはこうした観念論の文脈で神は死んだと宣言した。彼は同時に「理性」も死んだと宣言してもよかったのかもしれない。実際、まさにニーチェはそうしたのだ。なぜなら、観念論的な文脈での理性とは、ただ単に経験についての命題が真であると証明する精神の能力だけではなかったからだ。ヘーゲルにとって理性とは実在する超自然的な力であって、世界を進歩に向けて動かしていくものだった。ニーチェの反抗が意味するのは、人間の生を統率したりそれに意味を与える枠組みを生み出すような偉大な形而上学的な力は存在しないということであり、すべての人間はたった独りで不条理ともなりうる存在に直面しているのだ、ということだった。しかし以上が「神の死」の唯一の意味というわけではなかった。
ニーチェは哲学者であると同じくらいドイツの著述家でもあった。彼の父は、ニーチェが4歳の時亡くなったが、プロテスタントの牧師であったし、ニーチェも陰鬱なルーテル派の敬虔な雰囲気の中で母と姉妹によって育てられた。彼が力を込めて反抗したのは、彼の感受性豊かな存在にキリスト教的な道徳が抑圧的な重圧を及ぼしたことに対してだった。この反抗心は慢性的な病気によってさらに焚きつけられたが、この病は彼が人生を愛する機会をさらに狭めていった。
こうした個人的な反抗心に、当時ビスマルクの下に新たに統一されたドイツの状況に対するニーチェの憤りも加わった。ビスマルクはドイツの文化をプロテスタント的で国家的なものとして統一しようとする国を挙げての「文化闘争(Kulturkampf)」を追求していた。ニーチェは教会を一つの制度として毛嫌いしていて、政治的にも文化的にも彼は当時の時代よりをはるかに超えたヨーロッパの自由思想家になったのである。
そこで、「神は死んだ」という言葉は、権力者どもよ、お前たちの制度を支えるために神の名を呼んでも無駄だ、ということだ。それは政治的なメッセージだった。
そして、「神は死んだ」が意味するのは、理性、大文字で書かれるべき「理性」、プラトン哲学を可能にした実在する力として理性、キリスト教の保守本流や西洋の哲学を通して理性と神との密接なつながりを可能にしてきた理性は、「人間」の本性を説明するためには用いることができない、ということである。しかし、このことが意味するのは、人間もまた死んだということだ。実際、ニーチェの神の死がもたらす最も深刻な結果は、理性的な能力によって定義され理性の進歩の道を歩む存在としての人間または人類なるものが死んでしまった、ということなのだ。
そこで「神は死んだ」は、ニーチェにとってさらに、肉体は自由だということも意味しているのだ。神の死に対してニーチェ的に応えるにはどうしたらいいかを探す必要があるとすれば、『華やぐ智慧(Die frohliche Wissenschaft )』(1886)にまで遡ってみるべきだろう。私ならばこの書を「喜びの科学(The Science of Joy)」と翻訳するだろうが。ニーチェがこの著作のために書いた二番目の序文からちょっとだけ引用してみよう。
「生理的欲求が客観的で、理想的で、純粋に精神的なものという衣装を着せられ無意識のうちに偽装させられることは、恐るべきほど隅々にまで行きわたっている――私はしばしばこう自問したものだった、大局的に見れば、哲学とは肉体の解釈であるばかりか、肉体の誤解でもあるのではないかと」。
第三書には「祈りとは、本当は決して自分の考えを持ったことがなく魂のいかなる上昇も知らない人々のために作られたのだ…」とか「世界を醜く悪しきものと見ようとするキリスト教的な意思が世界を醜く悪しきものにした」といったアフォリズムを含んでいる。「神は死んだ」という思想は、ここでは、一人ひとりの人間が、自己自身を再発見して、キリスト教が抑圧した生きる喜びそのものを知る者とならなくてはならないという考え方に近づくのである。
かくして、「神は死んだ」は、人間のどうしようもなさが神を殺した、ということを意味する。これが『ツァラトゥストラ』の多くの部分のテーマであり精神である。このことがこのメッセージを悲しげなものにしているのである。
それとは対照的に、『華やぐ智慧』の遊び心が爆発しているような叙述は、人類に対して、この世界で真に生きるために自己を完全に再創造せよという――おそらく不可能な――課題を課しているのである。
ニーチェ以前からこうした再創造が行われてきた文脈は「唯物論」だった。それは、哲学的な意味で、ヘーゲルやシェリングの観念論の対極にあるものだった。ルートヴィヒ・フォイエルバッハが1830年代にそれを開始し、マルクスに哲学的な出発点を与えたことはよく知られている。
こう書いたからといって、ニーチェはマルクス主義者だと言いたいわけではない。そんなものからは程遠いのだ。そうではなくて、ニーチェの考え方でさえも全くの無から生じたわけではないということを言いたいのである。彼は、自分が生まれた時代のもっともラディカルな精神に乗っかって時代を過ごしたのだし、自分なりのやり方で、つまりドイツの著述家として、反-観念論者として、反-キリスト教徒として、時代を生きたのである。彼の著作の『アンチ・クリスト』というタイトルは、「反キリスト」を意味するとともに「反-キリスト教徒」をも意味するのである。
19 世紀半ばにすでに神が死んだことを西洋の世界に告げていたもう一つのナラティヴは、もちろん、ダーウィンのナラティヴだった。ニーチェは「ポスト-ダーウィニズム」の一部ではないが、彼が述べていることは20世紀の「神なき」文化的な潮流に流れ込むことになった。
私たちが今日の無神論者の文脈でニーチェを考察するときにとても重要となるのは、彼は理性を神の地位にまで引き上げなかったし、しかも、彼が立ち去ろうとしていた精神的伝統に対して真剣な関わり方をしたということに留意することである。
」(おわり)
「神は死んだ」という言葉は多義的で幾通りにも解釈できるし、実際これまで数知れないほどの仕方で解釈されてきた。中には、ニーチェは無神論者ではなく、19世紀ドイツの俗物ども(広くとれば、近代の人間たち)によって神が殺されたことを嘆き悲しんだのだと、初めて「神は死んだ」という思想が語られる『華やぐ智慧』の個所を解釈する人もいるほどである。
この記事を読むだけでも、この言葉の厄介な側面は感じ取れるはずだ。でも、『ガーディアン』紙が最近ニーチェのこの言葉を取り上げているのか、いまいちよく判らないのだが、まあ、そんな疑問はこの際、脇に置いて純粋な知的好奇心から読んでみたいものだ。
The political message of Nietzsche's 'God is dead'
Lesley Chamberlain
guardian.co.uk, Tuesday 7 February 2012 09.00 GMT
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2012/feb/07/political-message-nietzsche-god-is-dead
「
ニーチェの言葉「神は死んだ」の政治的メッセージ
「神は死んだ」というニーチェの宣言を今日的な文脈で考えると、それは無神論的な批判ではなく、理性と神との関連に対する攻撃なのだ

プロイセンの軍服姿のフリードリヒ・ニーチェを写した1864 年の珍しい写真。
フリードリヒ・ニーチェは「神の死」を1884年の著作『ツァラトゥストラかく語りき』で詩的な形で告知し、『アンチ・キリスト』(1888) では哲学的な主張としてそのテーマに立ち戻った。「哲学的な」ということで私が言いたいのは、この言葉が今の時代のわれわれの見慣れた信仰や信者に対する無神論的な批判ではなかった(あるいはそれだけではなかった)ということだ。それは、プラトンに始まり、17 世紀のルネ・デカルトにいたるまでキリスト教の伝統を通して受け継がれてきた理性と神との堅い結びつきに対する攻撃だったのだ。
デカルトは『省察』の中で、主体は世界の中で手にできるどんな「真理」であっても、それを合理的に証明することができないならば、それを疑わなければならないと述べた。デカルトは、理性が真理に達することを神が保証してくれることに関して6種類の証明を行うことで、彼の方法を精緻に仕上げた。しかし、デカルトの同時代の人々は、神が存在するかどうかは新たな時代の科学的方法にとってはどうでもいいことだと見なすことができた。
だが、デカルトの科学的な革命や啓蒙思想――そのいずれもが合理性を文化一般を前進させる力として確立させた――のおかげで、フランスやドイツの表舞台から(そして、ディヴィッド・ヒュームの登場とともに、イギリスでも)神は引きずり降ろされてしまったが、人間と自然と生命の意義をめぐる体系的な説明をする段になると、やはり依然として神を引き合いに出さざるを得ないのが実情だった。ある種の神の理念があったからこそ、ドイツ観念論として知られるヘーゲルやシェリングの偉大な体系は可能になったのである。
19世紀半ばのドイツの哲学者であったニーチェはこうした観念論の文脈で神は死んだと宣言した。彼は同時に「理性」も死んだと宣言してもよかったのかもしれない。実際、まさにニーチェはそうしたのだ。なぜなら、観念論的な文脈での理性とは、ただ単に経験についての命題が真であると証明する精神の能力だけではなかったからだ。ヘーゲルにとって理性とは実在する超自然的な力であって、世界を進歩に向けて動かしていくものだった。ニーチェの反抗が意味するのは、人間の生を統率したりそれに意味を与える枠組みを生み出すような偉大な形而上学的な力は存在しないということであり、すべての人間はたった独りで不条理ともなりうる存在に直面しているのだ、ということだった。しかし以上が「神の死」の唯一の意味というわけではなかった。
ニーチェは哲学者であると同じくらいドイツの著述家でもあった。彼の父は、ニーチェが4歳の時亡くなったが、プロテスタントの牧師であったし、ニーチェも陰鬱なルーテル派の敬虔な雰囲気の中で母と姉妹によって育てられた。彼が力を込めて反抗したのは、彼の感受性豊かな存在にキリスト教的な道徳が抑圧的な重圧を及ぼしたことに対してだった。この反抗心は慢性的な病気によってさらに焚きつけられたが、この病は彼が人生を愛する機会をさらに狭めていった。
こうした個人的な反抗心に、当時ビスマルクの下に新たに統一されたドイツの状況に対するニーチェの憤りも加わった。ビスマルクはドイツの文化をプロテスタント的で国家的なものとして統一しようとする国を挙げての「文化闘争(Kulturkampf)」を追求していた。ニーチェは教会を一つの制度として毛嫌いしていて、政治的にも文化的にも彼は当時の時代よりをはるかに超えたヨーロッパの自由思想家になったのである。
そこで、「神は死んだ」という言葉は、権力者どもよ、お前たちの制度を支えるために神の名を呼んでも無駄だ、ということだ。それは政治的なメッセージだった。
そして、「神は死んだ」が意味するのは、理性、大文字で書かれるべき「理性」、プラトン哲学を可能にした実在する力として理性、キリスト教の保守本流や西洋の哲学を通して理性と神との密接なつながりを可能にしてきた理性は、「人間」の本性を説明するためには用いることができない、ということである。しかし、このことが意味するのは、人間もまた死んだということだ。実際、ニーチェの神の死がもたらす最も深刻な結果は、理性的な能力によって定義され理性の進歩の道を歩む存在としての人間または人類なるものが死んでしまった、ということなのだ。
そこで「神は死んだ」は、ニーチェにとってさらに、肉体は自由だということも意味しているのだ。神の死に対してニーチェ的に応えるにはどうしたらいいかを探す必要があるとすれば、『華やぐ智慧(Die frohliche Wissenschaft )』(1886)にまで遡ってみるべきだろう。私ならばこの書を「喜びの科学(The Science of Joy)」と翻訳するだろうが。ニーチェがこの著作のために書いた二番目の序文からちょっとだけ引用してみよう。
「生理的欲求が客観的で、理想的で、純粋に精神的なものという衣装を着せられ無意識のうちに偽装させられることは、恐るべきほど隅々にまで行きわたっている――私はしばしばこう自問したものだった、大局的に見れば、哲学とは肉体の解釈であるばかりか、肉体の誤解でもあるのではないかと」。
第三書には「祈りとは、本当は決して自分の考えを持ったことがなく魂のいかなる上昇も知らない人々のために作られたのだ…」とか「世界を醜く悪しきものと見ようとするキリスト教的な意思が世界を醜く悪しきものにした」といったアフォリズムを含んでいる。「神は死んだ」という思想は、ここでは、一人ひとりの人間が、自己自身を再発見して、キリスト教が抑圧した生きる喜びそのものを知る者とならなくてはならないという考え方に近づくのである。
かくして、「神は死んだ」は、人間のどうしようもなさが神を殺した、ということを意味する。これが『ツァラトゥストラ』の多くの部分のテーマであり精神である。このことがこのメッセージを悲しげなものにしているのである。
それとは対照的に、『華やぐ智慧』の遊び心が爆発しているような叙述は、人類に対して、この世界で真に生きるために自己を完全に再創造せよという――おそらく不可能な――課題を課しているのである。
ニーチェ以前からこうした再創造が行われてきた文脈は「唯物論」だった。それは、哲学的な意味で、ヘーゲルやシェリングの観念論の対極にあるものだった。ルートヴィヒ・フォイエルバッハが1830年代にそれを開始し、マルクスに哲学的な出発点を与えたことはよく知られている。
こう書いたからといって、ニーチェはマルクス主義者だと言いたいわけではない。そんなものからは程遠いのだ。そうではなくて、ニーチェの考え方でさえも全くの無から生じたわけではないということを言いたいのである。彼は、自分が生まれた時代のもっともラディカルな精神に乗っかって時代を過ごしたのだし、自分なりのやり方で、つまりドイツの著述家として、反-観念論者として、反-キリスト教徒として、時代を生きたのである。彼の著作の『アンチ・クリスト』というタイトルは、「反キリスト」を意味するとともに「反-キリスト教徒」をも意味するのである。
19 世紀半ばにすでに神が死んだことを西洋の世界に告げていたもう一つのナラティヴは、もちろん、ダーウィンのナラティヴだった。ニーチェは「ポスト-ダーウィニズム」の一部ではないが、彼が述べていることは20世紀の「神なき」文化的な潮流に流れ込むことになった。
私たちが今日の無神論者の文脈でニーチェを考察するときにとても重要となるのは、彼は理性を神の地位にまで引き上げなかったし、しかも、彼が立ち去ろうとしていた精神的伝統に対して真剣な関わり方をしたということに留意することである。
」(おわり)
死の間際の人が後悔することトップ5 [海外のニュース記事]
タイトル通りの内容の記事をイギリス『ガーディアン』紙から。
ひとつ前に紹介した映画のベストテンのような企画ものではなく、実際に臨終まで立ち会った緩和ケアの看護師がまとめて本に著したものからの抜粋で成り立っている。
意外に古風な後悔が並んでいるような気もするが、ひょっとしたらこういう後悔に古いも新しいもないのかもしれない。今の私には、よく判らないとしか言えない。
Top five regrets of the dying
Susie Steiner
guardian.co.uk, Wednesday 1 February 2012 11.49 GMT
http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2012/feb/01/top-five-regrets-of-the-dying
「
死の間際の人が後悔することトップ5
ある看護師が、死の間際の人にもっともよく見られる後悔を記録したが、その上位には「あれほど一所懸命に働かなければよかった」という後悔があった。もし今日が人生最後の日ならば、あなたの最大の後悔は何になるだろう?

緩和ケアの看護師が死の間際にいる人の後悔のトップ5を記録した
もっとセックスやバンジージャンプをしたかったなどという発言はなかった。死の間際の人々の最後の日々のカウンセリングをしてきた緩和ケアの看護師が、人生の終わりに当たって私たちが抱く最もよくある後悔を明らかにした。後悔の上位には「あれほど一所懸命に働かなければよかった」という後悔があったが、それは特に男性の後悔だった。
ブロニ―・ウェア(Bronnie Ware)はオーストラリアの看護師で、緩和ケアに数年勤務し、患者の最後の12週間のケアを担当した。彼女は“ Inspiration and Chai (インスピレーションとチャイ)”という名前のブログの中で、死の間際にある人が悟るに至ったことを記録していたのだが、そのブログが多くの注目を集めたために、自分が見聞きしたことをまとめて『死の間際の人が後悔することトップ5(The Top Five Regrets of the Dying)』という題名の本を出版した。
ウェアは、人生の終わりに至った人の視野が驚くべきほど澄んでいたり、われわれがそうした人々の英知からどれほどのことを学べるかについて書いている。「何か後悔はあるか、こうしておけば良かったと思うことはあるかと聞いていったら、共通するテーマが繰り返し表われてきたのです」と彼女は言う。
ウェアが目撃した、死の間際の人が後悔することトップ5は以下のとおりである。
1. 他人が自分に期待する人生ではなく、自分自身に忠実な人生を送る勇気をもっていたなら( I wish I'd had the courage to live a life true to myself, not the life others expected of me.)
「これが後悔の中で最もよくあるものです。自分の人生がほぼ終わりに達したことを理解し、澄んだ気持ちになって人生を振り返るとき、いかに多くの夢が実現されなかったかが容易に見て取れるわけです。ほとんどの人は、夢の半分も実現することなく、しかもそれが自分のした(あるいは、しなかった)選択のせいだったことを知りながら死ぬしかありませんでした。健康は自由をもたらしてくれますが、その自由は、ほとんどの人がもう健康にはなりえなくなって初めて理解するものです」。
2. あれほど一所懸命に働かなければよかった(I wish I hadn't worked so hard.)
「これは、私が看取ったすべての男性患者が口にした後悔です。子供が小さい頃に一緒にいてあげられなかったり、パートナーに対して親密にしてあげられなかったというのです。女性たちもこうした後悔を口にしましたが、ほとんどは古い世代なので、女性の患者の多くは働いて家計を支えていたわけではありませんでしたからね。私が看取った男性は皆、来る日も来る日も仕事だけの生活に自分の人生の多大な部分を費やしたことを深く後悔していました」。
3. 自分の感情を言い表わす勇気を持っていたなら(I wish I'd had the courage to express my feelings.)
「多くの人が、他人との平穏な毎日を維持するために、自分が感じていることを押し殺していました。その結果、彼らは平凡な生活を甘んじて受け入れ、本当はそうなれる存在になれずじまいで終わりました。多くの人が、その結果苦しみと怒りに苛まれることになり、それに関係する病気を発症することになったのです」。
4. 友人たちと連絡を取りつづけていたならば( I wish I had stayed in touch with my friends.)
「多くの人は死ぬ数週間前まで旧友のありがたさを本当は理解していないことがしばしばですし、その友人たちに連絡を取ることが常にできるとは限りませんでした。多くの人は、自分の人生にかかり切りになってしまうので、まばゆい友情を年月とともに忘れてしまうものなのです。友情に対してそれにふさわしい時間と努力を費やさなかったことに多くの人が深い後悔の念をもちます。誰もが死にいくときに友人に会えずに寂しい思いをするのです」。
5. 自分がもっと幸せになってもいいと思えればよかったのに(I wish that I had let myself be happier.)
「これは驚くほどよく見受けられる後悔です。多くの人は、幸福が選択肢の一つであることに最後まで気づかなかったのです。彼らは古くからのパターンや慣習で身動きが取れない状態でした。物質的な生活のみならず、自分の感情の中までにも慣れ親しんだ世界のいわゆる「居心地の良さ」があふれていました。変化に対する恐れから、彼らは自他に対して、自分は満ち足りていると言い張っていましたが、内心の深いところでは、今度生まれ変わったならば大いに笑ったり羽目をはずしたりすることを切望していました」。
あなたの最大の後悔は何か? そして死ぬ前にこれを成し遂げようとかこれを変えようと思っていることが何かあるだろうか?
」(おわり)
ひとつ前に紹介した映画のベストテンのような企画ものではなく、実際に臨終まで立ち会った緩和ケアの看護師がまとめて本に著したものからの抜粋で成り立っている。
意外に古風な後悔が並んでいるような気もするが、ひょっとしたらこういう後悔に古いも新しいもないのかもしれない。今の私には、よく判らないとしか言えない。
Top five regrets of the dying
Susie Steiner
guardian.co.uk, Wednesday 1 February 2012 11.49 GMT
http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2012/feb/01/top-five-regrets-of-the-dying
「
死の間際の人が後悔することトップ5
ある看護師が、死の間際の人にもっともよく見られる後悔を記録したが、その上位には「あれほど一所懸命に働かなければよかった」という後悔があった。もし今日が人生最後の日ならば、あなたの最大の後悔は何になるだろう?

緩和ケアの看護師が死の間際にいる人の後悔のトップ5を記録した
もっとセックスやバンジージャンプをしたかったなどという発言はなかった。死の間際の人々の最後の日々のカウンセリングをしてきた緩和ケアの看護師が、人生の終わりに当たって私たちが抱く最もよくある後悔を明らかにした。後悔の上位には「あれほど一所懸命に働かなければよかった」という後悔があったが、それは特に男性の後悔だった。
ブロニ―・ウェア(Bronnie Ware)はオーストラリアの看護師で、緩和ケアに数年勤務し、患者の最後の12週間のケアを担当した。彼女は“ Inspiration and Chai (インスピレーションとチャイ)”という名前のブログの中で、死の間際にある人が悟るに至ったことを記録していたのだが、そのブログが多くの注目を集めたために、自分が見聞きしたことをまとめて『死の間際の人が後悔することトップ5(The Top Five Regrets of the Dying)』という題名の本を出版した。
ウェアは、人生の終わりに至った人の視野が驚くべきほど澄んでいたり、われわれがそうした人々の英知からどれほどのことを学べるかについて書いている。「何か後悔はあるか、こうしておけば良かったと思うことはあるかと聞いていったら、共通するテーマが繰り返し表われてきたのです」と彼女は言う。
ウェアが目撃した、死の間際の人が後悔することトップ5は以下のとおりである。
1. 他人が自分に期待する人生ではなく、自分自身に忠実な人生を送る勇気をもっていたなら( I wish I'd had the courage to live a life true to myself, not the life others expected of me.)
「これが後悔の中で最もよくあるものです。自分の人生がほぼ終わりに達したことを理解し、澄んだ気持ちになって人生を振り返るとき、いかに多くの夢が実現されなかったかが容易に見て取れるわけです。ほとんどの人は、夢の半分も実現することなく、しかもそれが自分のした(あるいは、しなかった)選択のせいだったことを知りながら死ぬしかありませんでした。健康は自由をもたらしてくれますが、その自由は、ほとんどの人がもう健康にはなりえなくなって初めて理解するものです」。
2. あれほど一所懸命に働かなければよかった(I wish I hadn't worked so hard.)
「これは、私が看取ったすべての男性患者が口にした後悔です。子供が小さい頃に一緒にいてあげられなかったり、パートナーに対して親密にしてあげられなかったというのです。女性たちもこうした後悔を口にしましたが、ほとんどは古い世代なので、女性の患者の多くは働いて家計を支えていたわけではありませんでしたからね。私が看取った男性は皆、来る日も来る日も仕事だけの生活に自分の人生の多大な部分を費やしたことを深く後悔していました」。
3. 自分の感情を言い表わす勇気を持っていたなら(I wish I'd had the courage to express my feelings.)
「多くの人が、他人との平穏な毎日を維持するために、自分が感じていることを押し殺していました。その結果、彼らは平凡な生活を甘んじて受け入れ、本当はそうなれる存在になれずじまいで終わりました。多くの人が、その結果苦しみと怒りに苛まれることになり、それに関係する病気を発症することになったのです」。
4. 友人たちと連絡を取りつづけていたならば( I wish I had stayed in touch with my friends.)
「多くの人は死ぬ数週間前まで旧友のありがたさを本当は理解していないことがしばしばですし、その友人たちに連絡を取ることが常にできるとは限りませんでした。多くの人は、自分の人生にかかり切りになってしまうので、まばゆい友情を年月とともに忘れてしまうものなのです。友情に対してそれにふさわしい時間と努力を費やさなかったことに多くの人が深い後悔の念をもちます。誰もが死にいくときに友人に会えずに寂しい思いをするのです」。
5. 自分がもっと幸せになってもいいと思えればよかったのに(I wish that I had let myself be happier.)
「これは驚くほどよく見受けられる後悔です。多くの人は、幸福が選択肢の一つであることに最後まで気づかなかったのです。彼らは古くからのパターンや慣習で身動きが取れない状態でした。物質的な生活のみならず、自分の感情の中までにも慣れ親しんだ世界のいわゆる「居心地の良さ」があふれていました。変化に対する恐れから、彼らは自他に対して、自分は満ち足りていると言い張っていましたが、内心の深いところでは、今度生まれ変わったならば大いに笑ったり羽目をはずしたりすることを切望していました」。
あなたの最大の後悔は何か? そして死ぬ前にこれを成し遂げようとかこれを変えようと思っていることが何かあるだろうか?
」(おわり)
ラストの名セリフ――映画史上のベスト10 [海外のニュース記事]
イギリス『ガーディアン』紙に、映画史上最高の「ラストの名セリフ」ベスト10という企画ものがあったので紹介することにしようと思った。
選者が(たぶん)高齢のせいか、選ばれたのが古い作品に偏していることもあってか、一覧して得た率直な印象は「あまり大したことないかな」というもの。本当に名セリフと言えるものは『お熱いのがお好き』くらいではないかと思う。まあ、未見の映画もあるので断言はできないが。
別の人が選べば違う印象を与える結果になるのかもしれないが、ひょっとしたら「名セリフで終わる」映画というものはほとんどないのかもしれない、とも思った。映画は、言葉ではなく映像で締めくくるべきものなのだから。
言葉がラストに出てきてインパクトを与える例として、私ならば『市民ケーン』の「薔薇のつぼみ」や『沈黙』の「精神」などがとっさに思い浮かぶが、どちらも「セリフ」ではないしね。
それに、『博士の異常な愛情』(何という邦題だろう!)のラストは、ただただピーター・セラーズの演技の凄さが観る者を圧倒するので、「総統、歩けます!」というセリフだけを切り取ることには、誰もが違和感を覚えるだろうと私は思う。
ちなみに、未見の映画もあるので理解が行きとどいていない所があるかもしれず、それが誤訳に結びついているかもしれないことをお断りしておく。特に、1931年版の『フロント・ページ』の“bitch”の所がいまいち判ってない。
もう一つ、ちなみに、最後に出てくる「『テンペスト』においてプロスペローが述べる最後の言葉」とは、“We are such stuff As dreams are made on”(我々は夢と同じ物で作られている)だそうだ。
The 10 best last lines - in pictures
Philip French
The Observer, Sunday 29 January 2012
http://www.guardian.co.uk/culture/gallery/2012/jan/29/ten-best-last-lines-in-pictures
「
ラストの名セリフベスト10――を写真でふりかえる
カサブランカ70周年の今年、最高の映画の結末を選んでみた
1.

カサブランカ (マイケル・カーティス、1942年)
「ルイ、これが美しい友情の始まりだな (Louis, I think this is the beginning of a beautiful friendship)」。
レジスタンス運動の夫婦が西アフリカの「自由フランス」軍に加わるために制圧されたモロッコを去っていくとき、リベラルなナイトクラブのオーナーのリック・ブレイン(ハンフリー・ボガート)が対独協力者で警察署長のルイ・ルノー(クロード・レインズ)に言った言葉。『ハムレット』ほど引用どころ満載の脚本の中にあって、洗練されたこの最後のセリフには、戦時下での愛と義務が葛藤する要請に対してこの映画が愛国的な反応を基調としているがよく示されている。この映画には3人の脚本家が名前を連ねているが、この最後のシーンは、ガランとして霧に満ちたセットで、出しゃばりのプロデューサーであるハル・B ·ウォリス自らが脚本を書き演出したものである。
2.

風と共に去りぬ (ヴィクター・フレミング、1939)
「家に帰ってから彼を取り戻すすべを考えよう。結局、明日という日があるのだから! (I’ll go home and I’ll think of some way to get him back. After all, tomorrow is another day!)」。
この言葉は、ついに堪忍袋の尾が切れたレット・バトラー(クラーク・ゲーブル)が、「正直に言うが、勝手にするがいいさ(Frankly, my dear, I don't give a damn)」という捨てゼリフとともに去って行ったとき、意を決した南部生まれの美人スカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)が示す楽観的な反応である。これは、マーガレット・ミッチェルの1936年のベストセラーの最後の言葉とほぼ同じだが、小説にはテクニカラーの燃えるような夕日も、プロダクション・デザイナーのウィリアム・キャメロン・メンジズも、マックス・スタイナーの『タラのテーマ』もなかった。
3.

お熱いのがお好き (ビリー・ワイルダー、1959)
「完璧な人間などいないよ! (Well, nobody’s perfect!)」。
陽気で、何度も結婚歴のある富豪オズグッド・フィールディング3世(ジョー・E.ブラウン)が、モーターボートを操縦してマイアミの桟橋から遠ざかるときに言う言葉。それは、女性だけのバンドで演奏していたダフネ(女装したジャック・レモン)がかつらを捨てて「私、男よ!」と言ったときのオズグッドの反応である。ワイルダーはラストを盛り上げる名人で、たとえば、『サンセット大通り』の「デミル監督、 クローズ・アップの準備はできてるわ( All right, Mr. DeMille, I'm ready for my close-up.)」や、『アパートの鍵貸します』の「黙って配って(Shut up and deal)」などの最後のセリフは映画の古典になっている。
4.

キングコング (アーネスト・シェードザック、1933)
「いや、飛行機じゃない、美女が野獣を殺したのだ (Oh, no, it wasn't the airplanes. It was Beauty killed the Beast)」。
これは、巨大な猿コングに対する追悼の言葉。コングは、フェイ・レイをエンパイア・ステートビルの屋上に連れ去った後に戦闘機によって撃ち殺された。追悼の言葉は、スカル・アイランドでコングを捕獲した冷酷な映画製作者カール・デナム(ロバート・アームストロング)が発した。コングが世界貿易センターの上でヘリコプターに攻撃される1976年のリメイク版にはそのような結末はない。ピーター・ジャクソンの2005年版はオリジナルにより近く、大恐慌に時代を設定し、デナムの最後のセリフを盛り込んだ。
5.

フロントページ (ルイス・マイルストン、1931)
「あのクソ野郎が俺の腕時計を盗みやがった! (The son of a bitch stole my watch!)」
これは、ベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサーの1928年の偉大な新聞小説の最後のセリフで、皮肉屋でゴシップ紙の編集者ウォルター・バーンズが警察への通報として電話ごしに言ったセリフだが、これは、看板記者のヒルディ・ジョンソンが辞職するのを阻止するための最後の一計だった。1931年の映画では、検閲の怒りを買わないために、バーンズ(アドルフ・マンジュー)が「たまたま」タイプライターのキーに触れて“bitch”と打ってしまったことになっている。ウォルター・マッソーがバーンズ役を演じるビリー・ワイルダーの1974年版では、セリフが原作どおりに生かされた。
6.

犯罪王リコ (マーヴィン・ルロイ、1931)
「マリア様! これがリコの最後ですか? (Mother of mercy! Is this the end of Rico?)」
これは、エドワード・G.ロビンソンを一躍スターにしたワーナー・ブラザーズの映画の中で死にゆくギャングが吐く最後の言葉である。いまや古典となった1948年のエッセイ『悲劇のヒーローとしてのギャング』の中で、ロバート・ワーショーは、リコが自分を三人称で語るのは「撃ち倒された者が、誰とも同じような一人の男なのではなく、名前をもった個人であり、ギャングであり、成功した人間であるからだ」と述べている。それに、ワーショーは「T.S.エリオットが指摘したことだが、シェイクスピアの悲劇のヒーローの多くは自分自身を劇的に見るというこうした手口を使っている」と述べている。
7.

ユージュアル・サスペクツ (ブライアン・シンガー、1995)
「悪魔がしかけた最大のトリックは、悪魔など存在しないと皆に信じこませることだった。そして突然――フッと――悪魔は消えてしまったのさ! (The greatest trick the devil ever pulled was convincing the world he didn’t exist. And like that – poof – he’s gone!)」。
この見事な筋立てのスリラーのオリジナル脚本でオスカーを受賞したクリストファー・マカリーは、この映画の妙に信用のおけないナレーターであるヴァ―ヴァル・キント(この役でケビンス・ペイシーはオスカーを受賞)が、警察の取調官に悪魔的なスーパー犯罪者カイザー・ゾゼのことを説明するときに、このセリフを言わせた。このセリフは、最後に破滅的なフラッシュ・バックとしてリピートされる。タイトルの「ユージュアル・サスペクツ」は、『カサブランカ』で警察署長のルノーが皮肉っぽい口調で繰り返す「常連の容疑者をつかまえろ(Round up the usual suspects)」に由来する。
8.

博士の異常な愛情 (スタンリー・キューブリック、1964年)
「総統、歩けます! (Mein Führer, I can walk!)」。
キューブリックと共同で脚本を書いたテリー・サザンが生み出したストレンジ・ラヴ博士は、ドイツ生まれで車椅子生活のアメリカ大統領顧問なのだが、フリッツ・ラングの『メトロポリス』に出てくるマッド・サイエンティストのロトワングと、『水爆戦争論』の著者であるハーマン・カーンと、ヘンリー・キッシンジャーと、イアン・フレミングのドクター・ノオを組み合わせたような人物だ。しかし、別の二つの役を演じたことに加えて、ストレンジ・ラヴの性格を作り上げたのはピーター・セラーズだった。彼は、意志の究極的な勝利を示唆するこのコミカルなまでに衝撃的な最後のセリフを含め、セリフの大半を即興で編み出した。
9

チャイナタウン (ロマン・ポランスキー、1974)
「忘れろ、ジェイク、ここはチャイナタウンだ (Forget it, Jake, it’s Chinatown)」。
映画の終わりとしては最も美しい言葉の一つであり、ロサンゼルスの私立探偵ジェイク・ギテス(ジャック・ニコルソン)に向かって同業者が発した慰めの言葉なのだが、これは、フィルム・ノワールを復活させネオ・ノワールの始まりを告げるこの映画の中でキーとなるセリフである。このセリフは、脚本家ロバート・タウンが戦前の南カリフォルニアを歴史的に調べ上げたことと、ジェイク・ギテスが私立探偵になる前に中国人ゲットーで警官として働いていた経験に由来している。チャイナタウンとは、1930年代のロサンゼルスが解読できないほど不可解な街でその腐敗も迷宮のようだったことを表わすメタファーである。
10.

マルタの鷹 (ジョンヒューストン、1941)
「夢の中身さ(The stuff that dreams are made of」。
このセリフは、サンフランシスコ警察の警官(ウォード・ボンド)が貴重なマルタの鷹の偽物を掲げて「重いな、これは何だ?」と尋ねるときに、私立探偵のサム・スペード(ハンフリー・ボガート)が与える答えである。ハメットの小説はこれほど劇的な終わり方になっていない。ヒューストン監督のデビュー作のこの最後のセリフは、『テンペスト』においてプロスペローが述べる最後の言葉のちょっと間違った引用なのだが、これは、ヒューストン映画の多くの登場人物――たとえば、『黄金(The Treasure of the Sierra Madre)』や『王になろうとした男( The Man Who Would Be king)』の登場人物――の手に届きそうで届かない聖杯を予見させるコメントである。
」(おわり)
選者が(たぶん)高齢のせいか、選ばれたのが古い作品に偏していることもあってか、一覧して得た率直な印象は「あまり大したことないかな」というもの。本当に名セリフと言えるものは『お熱いのがお好き』くらいではないかと思う。まあ、未見の映画もあるので断言はできないが。
別の人が選べば違う印象を与える結果になるのかもしれないが、ひょっとしたら「名セリフで終わる」映画というものはほとんどないのかもしれない、とも思った。映画は、言葉ではなく映像で締めくくるべきものなのだから。
言葉がラストに出てきてインパクトを与える例として、私ならば『市民ケーン』の「薔薇のつぼみ」や『沈黙』の「精神」などがとっさに思い浮かぶが、どちらも「セリフ」ではないしね。
それに、『博士の異常な愛情』(何という邦題だろう!)のラストは、ただただピーター・セラーズの演技の凄さが観る者を圧倒するので、「総統、歩けます!」というセリフだけを切り取ることには、誰もが違和感を覚えるだろうと私は思う。
ちなみに、未見の映画もあるので理解が行きとどいていない所があるかもしれず、それが誤訳に結びついているかもしれないことをお断りしておく。特に、1931年版の『フロント・ページ』の“bitch”の所がいまいち判ってない。
もう一つ、ちなみに、最後に出てくる「『テンペスト』においてプロスペローが述べる最後の言葉」とは、“We are such stuff As dreams are made on”(我々は夢と同じ物で作られている)だそうだ。
The 10 best last lines - in pictures
Philip French
The Observer, Sunday 29 January 2012
http://www.guardian.co.uk/culture/gallery/2012/jan/29/ten-best-last-lines-in-pictures
「
ラストの名セリフベスト10――を写真でふりかえる
カサブランカ70周年の今年、最高の映画の結末を選んでみた
1.

カサブランカ (マイケル・カーティス、1942年)
「ルイ、これが美しい友情の始まりだな (Louis, I think this is the beginning of a beautiful friendship)」。
レジスタンス運動の夫婦が西アフリカの「自由フランス」軍に加わるために制圧されたモロッコを去っていくとき、リベラルなナイトクラブのオーナーのリック・ブレイン(ハンフリー・ボガート)が対独協力者で警察署長のルイ・ルノー(クロード・レインズ)に言った言葉。『ハムレット』ほど引用どころ満載の脚本の中にあって、洗練されたこの最後のセリフには、戦時下での愛と義務が葛藤する要請に対してこの映画が愛国的な反応を基調としているがよく示されている。この映画には3人の脚本家が名前を連ねているが、この最後のシーンは、ガランとして霧に満ちたセットで、出しゃばりのプロデューサーであるハル・B ·ウォリス自らが脚本を書き演出したものである。
2.

風と共に去りぬ (ヴィクター・フレミング、1939)
「家に帰ってから彼を取り戻すすべを考えよう。結局、明日という日があるのだから! (I’ll go home and I’ll think of some way to get him back. After all, tomorrow is another day!)」。
この言葉は、ついに堪忍袋の尾が切れたレット・バトラー(クラーク・ゲーブル)が、「正直に言うが、勝手にするがいいさ(Frankly, my dear, I don't give a damn)」という捨てゼリフとともに去って行ったとき、意を決した南部生まれの美人スカーレット・オハラ(ヴィヴィアン・リー)が示す楽観的な反応である。これは、マーガレット・ミッチェルの1936年のベストセラーの最後の言葉とほぼ同じだが、小説にはテクニカラーの燃えるような夕日も、プロダクション・デザイナーのウィリアム・キャメロン・メンジズも、マックス・スタイナーの『タラのテーマ』もなかった。
3.

お熱いのがお好き (ビリー・ワイルダー、1959)
「完璧な人間などいないよ! (Well, nobody’s perfect!)」。
陽気で、何度も結婚歴のある富豪オズグッド・フィールディング3世(ジョー・E.ブラウン)が、モーターボートを操縦してマイアミの桟橋から遠ざかるときに言う言葉。それは、女性だけのバンドで演奏していたダフネ(女装したジャック・レモン)がかつらを捨てて「私、男よ!」と言ったときのオズグッドの反応である。ワイルダーはラストを盛り上げる名人で、たとえば、『サンセット大通り』の「デミル監督、 クローズ・アップの準備はできてるわ( All right, Mr. DeMille, I'm ready for my close-up.)」や、『アパートの鍵貸します』の「黙って配って(Shut up and deal)」などの最後のセリフは映画の古典になっている。
4.

キングコング (アーネスト・シェードザック、1933)
「いや、飛行機じゃない、美女が野獣を殺したのだ (Oh, no, it wasn't the airplanes. It was Beauty killed the Beast)」。
これは、巨大な猿コングに対する追悼の言葉。コングは、フェイ・レイをエンパイア・ステートビルの屋上に連れ去った後に戦闘機によって撃ち殺された。追悼の言葉は、スカル・アイランドでコングを捕獲した冷酷な映画製作者カール・デナム(ロバート・アームストロング)が発した。コングが世界貿易センターの上でヘリコプターに攻撃される1976年のリメイク版にはそのような結末はない。ピーター・ジャクソンの2005年版はオリジナルにより近く、大恐慌に時代を設定し、デナムの最後のセリフを盛り込んだ。
5.

フロントページ (ルイス・マイルストン、1931)
「あのクソ野郎が俺の腕時計を盗みやがった! (The son of a bitch stole my watch!)」
これは、ベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサーの1928年の偉大な新聞小説の最後のセリフで、皮肉屋でゴシップ紙の編集者ウォルター・バーンズが警察への通報として電話ごしに言ったセリフだが、これは、看板記者のヒルディ・ジョンソンが辞職するのを阻止するための最後の一計だった。1931年の映画では、検閲の怒りを買わないために、バーンズ(アドルフ・マンジュー)が「たまたま」タイプライターのキーに触れて“bitch”と打ってしまったことになっている。ウォルター・マッソーがバーンズ役を演じるビリー・ワイルダーの1974年版では、セリフが原作どおりに生かされた。
6.

犯罪王リコ (マーヴィン・ルロイ、1931)
「マリア様! これがリコの最後ですか? (Mother of mercy! Is this the end of Rico?)」
これは、エドワード・G.ロビンソンを一躍スターにしたワーナー・ブラザーズの映画の中で死にゆくギャングが吐く最後の言葉である。いまや古典となった1948年のエッセイ『悲劇のヒーローとしてのギャング』の中で、ロバート・ワーショーは、リコが自分を三人称で語るのは「撃ち倒された者が、誰とも同じような一人の男なのではなく、名前をもった個人であり、ギャングであり、成功した人間であるからだ」と述べている。それに、ワーショーは「T.S.エリオットが指摘したことだが、シェイクスピアの悲劇のヒーローの多くは自分自身を劇的に見るというこうした手口を使っている」と述べている。
7.

ユージュアル・サスペクツ (ブライアン・シンガー、1995)
「悪魔がしかけた最大のトリックは、悪魔など存在しないと皆に信じこませることだった。そして突然――フッと――悪魔は消えてしまったのさ! (The greatest trick the devil ever pulled was convincing the world he didn’t exist. And like that – poof – he’s gone!)」。
この見事な筋立てのスリラーのオリジナル脚本でオスカーを受賞したクリストファー・マカリーは、この映画の妙に信用のおけないナレーターであるヴァ―ヴァル・キント(この役でケビンス・ペイシーはオスカーを受賞)が、警察の取調官に悪魔的なスーパー犯罪者カイザー・ゾゼのことを説明するときに、このセリフを言わせた。このセリフは、最後に破滅的なフラッシュ・バックとしてリピートされる。タイトルの「ユージュアル・サスペクツ」は、『カサブランカ』で警察署長のルノーが皮肉っぽい口調で繰り返す「常連の容疑者をつかまえろ(Round up the usual suspects)」に由来する。
8.

博士の異常な愛情 (スタンリー・キューブリック、1964年)
「総統、歩けます! (Mein Führer, I can walk!)」。
キューブリックと共同で脚本を書いたテリー・サザンが生み出したストレンジ・ラヴ博士は、ドイツ生まれで車椅子生活のアメリカ大統領顧問なのだが、フリッツ・ラングの『メトロポリス』に出てくるマッド・サイエンティストのロトワングと、『水爆戦争論』の著者であるハーマン・カーンと、ヘンリー・キッシンジャーと、イアン・フレミングのドクター・ノオを組み合わせたような人物だ。しかし、別の二つの役を演じたことに加えて、ストレンジ・ラヴの性格を作り上げたのはピーター・セラーズだった。彼は、意志の究極的な勝利を示唆するこのコミカルなまでに衝撃的な最後のセリフを含め、セリフの大半を即興で編み出した。
9

チャイナタウン (ロマン・ポランスキー、1974)
「忘れろ、ジェイク、ここはチャイナタウンだ (Forget it, Jake, it’s Chinatown)」。
映画の終わりとしては最も美しい言葉の一つであり、ロサンゼルスの私立探偵ジェイク・ギテス(ジャック・ニコルソン)に向かって同業者が発した慰めの言葉なのだが、これは、フィルム・ノワールを復活させネオ・ノワールの始まりを告げるこの映画の中でキーとなるセリフである。このセリフは、脚本家ロバート・タウンが戦前の南カリフォルニアを歴史的に調べ上げたことと、ジェイク・ギテスが私立探偵になる前に中国人ゲットーで警官として働いていた経験に由来している。チャイナタウンとは、1930年代のロサンゼルスが解読できないほど不可解な街でその腐敗も迷宮のようだったことを表わすメタファーである。
10.

マルタの鷹 (ジョンヒューストン、1941)
「夢の中身さ(The stuff that dreams are made of」。
このセリフは、サンフランシスコ警察の警官(ウォード・ボンド)が貴重なマルタの鷹の偽物を掲げて「重いな、これは何だ?」と尋ねるときに、私立探偵のサム・スペード(ハンフリー・ボガート)が与える答えである。ハメットの小説はこれほど劇的な終わり方になっていない。ヒューストン監督のデビュー作のこの最後のセリフは、『テンペスト』においてプロスペローが述べる最後の言葉のちょっと間違った引用なのだが、これは、ヒューストン映画の多くの登場人物――たとえば、『黄金(The Treasure of the Sierra Madre)』や『王になろうとした男( The Man Who Would Be king)』の登場人物――の手に届きそうで届かない聖杯を予見させるコメントである。
」(おわり)
どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(3) [海外のニュース記事]
前回に引き続き、『ニューヨーク・タイムズ』の記事の5ページから7ページの部分を紹介する。長かったが、これでおしまい。
さて、この記事の最後は、ハッピーな気分で終わっている。亡くなったジョブズ氏追悼の意味もあるだろう、少しエモーショナルな終わり方だ。
しかし、終わり近くに掲げられた重大な問いは、問いのまま放置されている。つまり、かりに技術革新が近いうちに起きたとしても、かつて中流に所属していた人間は「もう二度と元の中流階級に戻れないのだろうか?」という問いだ。たぶん、この問いは、「中流階級は永久に消滅してしまったのか?」と言い換えられるかもしれない。
この問いかけは答えられずに放置されているが、たぶん、それには「イエス」という答えしかない。それがこの記事の言外に込められているメッセージだろう。記事中のあのサラゴサ氏が、また浮上することがあるだろうか? そんなことは、ありそうにもない、そんな書き方だ。かつてアメリカの大部分を占めていた中間層は分裂し、ごくごく一部はアップルの幹部のようになるだろうが、大部分にとってはサラゴサ氏のような運命が待ちかまえているのである。
かりに技術革新が起きたとしても、その商品の製造はすべてアジアに行ってしまうだろう。もはや、製造業のそうしたトレンドは変えられないほど、アジアへのシフトは世界経済の構造そのものと化してしまったようだ。しかし、アメリカの中間層にとって製造業が雇用の柱を提供していたのだから、製造業が復活できなければ中間層の復活もありえないのは当然のことだ。
折しも、オバマ大統領が中間層の復活を1月24日の一般教書演説でぶち上げたばかりだ。それは確かに緊急の課題に応えるタイムリーな政策発表だった。 しかし、この記事が言うように、アジアに持っていかれた製造業をアメリカに呼び戻すには世界経済の構造の大転換が必要であるはずで、そんなことはアメリカの大統領でも恐らくは無理な仕事であると思えるのだ。
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=5&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=6&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=7&_r=1
「
どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(3)
「わが社の顧客は台湾、韓国、日本、中国にいますよ」とコーニング社の副会長兼最高財務責任者(CFO)のジェームズ・B.フローズは語った。「アメリカでガラスを作って船で運ぶこともできますが、35日もかかりますからね。飛行機で出荷することもできるでしょうが、10倍も高くつきます。だからガラス工場は組み立て工場の隣に建てることになり、どちらも海外にある、ということになるわけです」。
コーニング社は161年前にアメリカで設立され、本社はまだニューヨーク州北部にある。理論的に言えば、同社は国内ですべてのガラスを製造できる。しかし、そうするには「業界の構造の全面的な見直しが必要でしょうね」とフローズ氏は言った。「家庭用電化製品の業界はアジアのビジネスになってしまいましたね。アメリカ人としてはそれが気懸りですが、私がどうにかできることではありませんからね。アジアは、この40年間のアメリカにとって代ったのです」。
中流階級の職が消えていく
エリック・サラゴサがカリフォルニア州のエルク・グローブにあるアップル社の製造工場に初めて足を踏み入れたとき、彼はまるでエンジニアのワンダーランドに入り込んだような気分になったものだった。
それは1995年のことで、サクラメントの近くにあるその施設には1500人以上の従業員がいた。それは、ロボットアームや回路基板を運ぶベルト・コンベアや、最後には、組み立てラインの様々な段階にあるカラフルなiMacなどからなる万華鏡だった。サラゴサ氏はエンジニアだったが、すぐに工場でのランクを上げ、エリート集団である診断チームの一員になった。年収は5万ドルに上昇した。彼と彼の妻は3人の子供をもうけた。彼らはプール付きの家を買った。
「ついに、学校に行った甲斐があったと感じましたよ」と彼は言った。「世界はモノ作りができる人間を必要としているのだと判ったのです」。
しかし、それと同じ頃、エレクトロニクス業界は変化していたし、そしてアップル社も――人気に陰りがでていた商品とともに――立て直しに苦労していた。焦点の一つは製造過程の改善だった。サラゴサ氏が職についた数年後、彼の上司が、カリフォルニア州の工場が海外工場と比べてどうなのかを説明してくれたことがあった。材料費を別にするならば、エルク・グローブで1500ドルのコンピュータを製造するコストは、マシン一台当たり22ドルだった。シンガポールでは6ドル、台湾では4.85ドルだった。こうした差がどうして出るのか、その大きな理由は賃金ではなかった。むしろ、在庫のコストや、労働者が一つの仕事を果たすのにかかる時間などが大きかったのだ。
「1日12時間仕事をして土曜も来なければならない、と僕たちは言われましたよ」とサラゴサ氏は言った。「僕には家族がいたし、子供たちがサッカーするのを見たかったんですけどね」。
近代化はいつも、ある種の仕事が変化したり消えたりするのを引き起こしてきた。アメリカの経済が農業から製造業に移行し、さらに別の産業へと移行したとき、農民は鉄鋼所の労働者になり、さらにセールスマンや中間管理職に変わった。こうした変貌は多くの経済的な恩恵をもたらしたし、一般的に言えば、進歩するたびごとに、スキルのない労働者であっても、よりよい賃金と社会の上層に昇るチャンスが広がっていった。
しかし、この20年間というもの、もっと根本的なものが変わってしまった、と経済学者たちは言う。中位の賃金の仕事(midwage jobs)が消滅し始めたのだ。特に大学の学位のないアメリカ人にとって、今日の新しい職は著しくサービス業に偏っている――レストランやコール・センターの仕事だったり、病院の付き添い係や派遣労働者などだが――が、そうした仕事についても、中流階級に到達できる見込みは、かつてほどではなくなっている。
学位をもっているサラゴサ氏でさえ、こうしたトレンドに対して無傷ではいられなかった。まず、エルク・グローブの日常的な業務のいくつかが海外に移管された。サラゴサ氏は気にもとめなかった。その後、アップル社の工場を未来の遊び場のようにしたロボット工学の進展のおかげで、幹部は労働者を機械に換えることができた。診断技術のいくつかはシンガポールに行ってしまった。工場の在庫を管理していた中間管理職たちが解雇されたが、それは、突然、インターネットで接続するわずかな人しか必要でなくなったからである。
サラゴサ氏は未熟練労働者としてのポジションにいる者としてはあまりに高給取りだった。それに上級管理職になるには十分な資格がなかった。彼は2002年の夜間勤務の後小さなオフィスに呼び出され、解雇を告げられ、工場から閉め出された。彼はしばらくの間、高校で教えた後で、製造業に復帰しようと試みた。しかし、アップル社は、かつてはその一帯が「シリコン・バレー・ノース(Silicon Valley North)」として聖地扱いされることに寄与したものだったが、その頃になるとエルク・グローブの工場の大半は「アップル・サポート(AppleCare)」のコール・センターに変わってしまっていたし、そこで新しい従業員は時給12ドルで働くこともあったのである。
(5ページ終わり)
シリコン・バレーで職を見つけられる見込みはあったのだが、しかしどれも上手くいかなかった。「本当に求人があるのは、30歳で子供なしのような人間なんです」とサラゴサ氏は言った。彼は現在48歳で、5人の子供がいるのだ。
数ヶ月間職探しをした後で、彼は行きづまりを感じ始めた。教職の仕事もなくなっていた。そこで彼は、アップル社の専属の電子機器の派遣会社に籍を置き、返品されたiPhoneやiPadを、顧客に送り返す前にチェックする仕事についた。毎日、サラゴサ氏は、かつてエンジニアとして働いていたビルに車で出かけ、福祉手当のない時給10ドルで、何千というガラス製のスクリーンを磨いたり、ヘッドホンを差し込んでオーディオ・ポートの検査をしたりしているのである。
アップルにとっての給料日
アップル社の海外事業と販売が拡大するにつれ、トップの経営陣は潤った。昨年度、Appleの売上高は1080億ドルを超えたが、これはミシガン州とニュージャージー州とマサチューセッツ州の州予算を合計した額よりも大きい数字だ。株式分割をした2005年以降、同社の株価は約45ドルから427ドル超にまで跳ね上がった。
その富の一部は株主のもとに行った。アップル社は最も幅広く保有されている株の一つで、株価の上昇は、何百万といる個人投資家や401(k)や年金基金に利益をもたらした。報奨金もアップルの労働者を豊かにした。昨年度、アップルの従業員や役員は、給与に加えて、20億ドル相当の株式を受け取り、それに加えて14億ドル相当のストック・オプションンを行使したり発行させた。
しかし最大の報酬はアップルの経営陣に与えられた。アップルのトップであるクック氏は、昨年、今日の株価に直すと、4億2700万ドルに相当する――10年にわたって発行可能な――ストック・オプションを受け取り、彼の年収は140万ドルに引き上げられた。2010年に、クック氏の報酬パッケージは、アップル社の有価証券報告書によると、5900万ドルとなっていた。
アップル社に近いある人は、同社の幹部が受け取る報酬は公正なものだ、同社はそれだけ多くの価値をアメリカや世界にもたらしたのだからと主張した。会社の規模が大きくなるにつれて、アップル社は、製造業の職を含め、国内の労働人口を拡大してきた。昨年、アップル社が雇うアメリカ人の労働者は8000人も増加したのだ。
他の企業はコールセンターを海外に移転したが、アップル社はコールセンターをアメリカに留めている。ある消息筋の試算では、アップル社の製品の売り上げのおかげで、別の企業は何万人もの米国人を雇うことができたのだそうだ。たとえば、フェデックスやユナイテッド・パーセル・サービスは、両社ともアップル製品の出荷量の増大のおかげでアメリカ人のための職を創出できたと述べている。もっとも、両社ともアップル社からの許可なしに具体的な数字を挙げるわけにはいかないとして、数字の提供を拒んだのであるが。
「中国人労働者を使用しているという理由でわが社が批判されるいわれはありませんよ」とアップル社の現役幹部は述べた。「アメリカは、われわれが必要としているスキルをもった人々を輩出するのを止めてしまったのです」。
さらに、アップル社のある事情通は、同社は小売店の内部や、iPhoneやiPadのアプリケーションを売りこむ企業家の間に、大量で良質のアメリカ人の職を生み出した、と言う。
2ヶ月間iPadの検査の仕事をした後、サラゴサ氏は仕事を辞めた。賃金がとても低いので、職探しにその時間を使う方がましだろうと考えたからだ。最近の10月のある晩、サラゴサ氏がMacBookに向かって座りオンラインで履歴書を出していたとき、地球を半周したところで、ある女性が自分の事務所に到着した。彼女はリナ・リンといい、中国の深浅にあるPCHインターナショナルのプロジェクト・マネージャーだ。同社は、アップルや別のエレクトロニクスの企業と契約し、iPadのガラス製のスクリーンを保護するケースのようなアクセサリー部品の生産をコーディネイトする会社だ。彼女はアップル社の従業員ではない。しかし、リナ・リンは、アップル社の製品供給能力にとって無くてはならない存在なのである。
リナ・リンの給料は、サラゴサ氏がアップルから支払われた額よりも少し低い。彼女は流暢な英語を話すが、それはテレビを見たり中国の大学で学んだものだ。彼女と彼女の夫は毎月給与の4分の1を銀行に預けている。彼らは約100平方メートルのアパートに住んでいて、義理の息子と共有している。
「仕事はたくさんありますよ」とリン夫人は言った。「特に深圳ではね」。
技術革新の敗者たち
ジョブズ氏や他のシリコン・バレーの幹部たちと昨年オバマ氏が開いたディナーの終わりごろ、皆が帰るために立ちあがったとき、大統領の周りには一緒に写真に写ろうとする人の群れができた。ジョブズ氏の周りにも、それよりわずかに小さいスクラムができた。彼の病状が悪化しているという噂が広がっていて、彼と一緒の、恐らくは最後の、写真を希望する者がいたのだ。
(6ページ終わり)
最後には、人々の軌道が重なり合った。「私はこの国の長期的な将来については心配していませんよ」と、ある観察者によると、ジョブズ氏はオバマ氏に語ったそうだ。「この国はめちゃくちゃ偉大だ。私が心配しているのは、私たちが解決策について十分話し合っていないことなのです」。
たとえば、ディナーでは、企業幹部たちは、政府は、企業が外国人のエンジニアを雇いやすくするためにビザのあり方を改革するように提案した。海外で得た利益を本国に持ち帰って、雇用を生み出すためにその利益を使えるように、企業に「免税期間(tax holiday)」を与えてはどうかと、大統領に勧める幹部もいた。ジョブズ氏も、政府がもっと多くのアメリカ人エンジニアの職業訓練を支援するならば、アップル社の熟練技術の要る製造工場のいくつかをアメリカに設置することも、いつの日か可能になるだろうと述べた。
経済学者は、こうした努力がどれほど有用であるかを議論しているし、低迷する経済が時には予想外の進展によって変貌することもあることに注目している。たとえば、前回高い失業率が長びきアナリストたちが気をもんだ1980年代初頭には、インターネットはほとんど存在しなかった。あの当時、グラフィック・デザインの学位が急速に有望株になる一方で、電話修理の勉強が終りになると推測していた人はほとんどいなかっただろう。
しかし、明日に起こるかもしれない技術革新をアメリカが利用して何百万人分もの雇用を生み出せるかどうかは、やはり判らない。
この10年間、太陽エネルギーや風力エネルギー、半導体製造やディスプレイ技術における技術力の飛躍は何千もの雇用を生み出してきた。しかし、これらの産業の多くはアメリカで始まったものだが、雇用の多くが発生したのは海外だった。企業は、アメリカの巨大な工場施設を閉鎖し、中国で再開した。企業の幹部たちは、こうした事情を説明するために、株主のためにアップル社と競争しているのだ、と言う。アップル社の成長と利益率に匹敵できなければ、生き残っていけないと彼らは言うのだ。
「新たな中流階級のための職がいずれは登場するでしょう」とハーバード大学の経済学者のローレンス・カッツは言った。「しかし、40代の人がそうした職に相応しいスキルを持っているだろうか? それとも、40代の人間は、新しい大卒に追い抜かれてしまって、もう二度と元の中流階級に戻れないのだろうか?」。
技術革新のペースはジョブズ氏のようなビジネスマンによって加速してしまった、とさまざまな業界の幹部たちは言う。GMは、大きなモデル・チェンジをするのに5年もかけた。対照的に、アップルは、ある種の消費者が支払う価格を下げる一方でデバイスの速度とメモリを倍増させながら、4年間に5台のiPhoneをリリースしたのだ。
オバマ氏とジョブズ氏が別れを告げる前に、アップルの幹部がポケットからiPhoneを引っ張り出して、信じられないほど繊細なグラフィックスの新しいアプリケーション――ドライブのゲームだった――を披露した。そのiPhoneは、部屋の照明の柔らかな輝きを反映していた。別の幹部たち、その価値の合計が690億ドルを超える幹部たちは、われ先に争って肩越しに一目見ようとした。そのゲームが素晴らしいものであることに、誰もが同意した。
そのスクリーンには、わずかな傷が一つもなかったのである。
」(おわり)
さて、この記事の最後は、ハッピーな気分で終わっている。亡くなったジョブズ氏追悼の意味もあるだろう、少しエモーショナルな終わり方だ。
しかし、終わり近くに掲げられた重大な問いは、問いのまま放置されている。つまり、かりに技術革新が近いうちに起きたとしても、かつて中流に所属していた人間は「もう二度と元の中流階級に戻れないのだろうか?」という問いだ。たぶん、この問いは、「中流階級は永久に消滅してしまったのか?」と言い換えられるかもしれない。
この問いかけは答えられずに放置されているが、たぶん、それには「イエス」という答えしかない。それがこの記事の言外に込められているメッセージだろう。記事中のあのサラゴサ氏が、また浮上することがあるだろうか? そんなことは、ありそうにもない、そんな書き方だ。かつてアメリカの大部分を占めていた中間層は分裂し、ごくごく一部はアップルの幹部のようになるだろうが、大部分にとってはサラゴサ氏のような運命が待ちかまえているのである。
かりに技術革新が起きたとしても、その商品の製造はすべてアジアに行ってしまうだろう。もはや、製造業のそうしたトレンドは変えられないほど、アジアへのシフトは世界経済の構造そのものと化してしまったようだ。しかし、アメリカの中間層にとって製造業が雇用の柱を提供していたのだから、製造業が復活できなければ中間層の復活もありえないのは当然のことだ。
折しも、オバマ大統領が中間層の復活を1月24日の一般教書演説でぶち上げたばかりだ。それは確かに緊急の課題に応えるタイムリーな政策発表だった。 しかし、この記事が言うように、アジアに持っていかれた製造業をアメリカに呼び戻すには世界経済の構造の大転換が必要であるはずで、そんなことはアメリカの大統領でも恐らくは無理な仕事であると思えるのだ。
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=5&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=6&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=7&_r=1
「
どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(3)
「わが社の顧客は台湾、韓国、日本、中国にいますよ」とコーニング社の副会長兼最高財務責任者(CFO)のジェームズ・B.フローズは語った。「アメリカでガラスを作って船で運ぶこともできますが、35日もかかりますからね。飛行機で出荷することもできるでしょうが、10倍も高くつきます。だからガラス工場は組み立て工場の隣に建てることになり、どちらも海外にある、ということになるわけです」。
コーニング社は161年前にアメリカで設立され、本社はまだニューヨーク州北部にある。理論的に言えば、同社は国内ですべてのガラスを製造できる。しかし、そうするには「業界の構造の全面的な見直しが必要でしょうね」とフローズ氏は言った。「家庭用電化製品の業界はアジアのビジネスになってしまいましたね。アメリカ人としてはそれが気懸りですが、私がどうにかできることではありませんからね。アジアは、この40年間のアメリカにとって代ったのです」。
中流階級の職が消えていく
エリック・サラゴサがカリフォルニア州のエルク・グローブにあるアップル社の製造工場に初めて足を踏み入れたとき、彼はまるでエンジニアのワンダーランドに入り込んだような気分になったものだった。
それは1995年のことで、サクラメントの近くにあるその施設には1500人以上の従業員がいた。それは、ロボットアームや回路基板を運ぶベルト・コンベアや、最後には、組み立てラインの様々な段階にあるカラフルなiMacなどからなる万華鏡だった。サラゴサ氏はエンジニアだったが、すぐに工場でのランクを上げ、エリート集団である診断チームの一員になった。年収は5万ドルに上昇した。彼と彼の妻は3人の子供をもうけた。彼らはプール付きの家を買った。
「ついに、学校に行った甲斐があったと感じましたよ」と彼は言った。「世界はモノ作りができる人間を必要としているのだと判ったのです」。
しかし、それと同じ頃、エレクトロニクス業界は変化していたし、そしてアップル社も――人気に陰りがでていた商品とともに――立て直しに苦労していた。焦点の一つは製造過程の改善だった。サラゴサ氏が職についた数年後、彼の上司が、カリフォルニア州の工場が海外工場と比べてどうなのかを説明してくれたことがあった。材料費を別にするならば、エルク・グローブで1500ドルのコンピュータを製造するコストは、マシン一台当たり22ドルだった。シンガポールでは6ドル、台湾では4.85ドルだった。こうした差がどうして出るのか、その大きな理由は賃金ではなかった。むしろ、在庫のコストや、労働者が一つの仕事を果たすのにかかる時間などが大きかったのだ。
「1日12時間仕事をして土曜も来なければならない、と僕たちは言われましたよ」とサラゴサ氏は言った。「僕には家族がいたし、子供たちがサッカーするのを見たかったんですけどね」。
近代化はいつも、ある種の仕事が変化したり消えたりするのを引き起こしてきた。アメリカの経済が農業から製造業に移行し、さらに別の産業へと移行したとき、農民は鉄鋼所の労働者になり、さらにセールスマンや中間管理職に変わった。こうした変貌は多くの経済的な恩恵をもたらしたし、一般的に言えば、進歩するたびごとに、スキルのない労働者であっても、よりよい賃金と社会の上層に昇るチャンスが広がっていった。
しかし、この20年間というもの、もっと根本的なものが変わってしまった、と経済学者たちは言う。中位の賃金の仕事(midwage jobs)が消滅し始めたのだ。特に大学の学位のないアメリカ人にとって、今日の新しい職は著しくサービス業に偏っている――レストランやコール・センターの仕事だったり、病院の付き添い係や派遣労働者などだが――が、そうした仕事についても、中流階級に到達できる見込みは、かつてほどではなくなっている。
学位をもっているサラゴサ氏でさえ、こうしたトレンドに対して無傷ではいられなかった。まず、エルク・グローブの日常的な業務のいくつかが海外に移管された。サラゴサ氏は気にもとめなかった。その後、アップル社の工場を未来の遊び場のようにしたロボット工学の進展のおかげで、幹部は労働者を機械に換えることができた。診断技術のいくつかはシンガポールに行ってしまった。工場の在庫を管理していた中間管理職たちが解雇されたが、それは、突然、インターネットで接続するわずかな人しか必要でなくなったからである。
サラゴサ氏は未熟練労働者としてのポジションにいる者としてはあまりに高給取りだった。それに上級管理職になるには十分な資格がなかった。彼は2002年の夜間勤務の後小さなオフィスに呼び出され、解雇を告げられ、工場から閉め出された。彼はしばらくの間、高校で教えた後で、製造業に復帰しようと試みた。しかし、アップル社は、かつてはその一帯が「シリコン・バレー・ノース(Silicon Valley North)」として聖地扱いされることに寄与したものだったが、その頃になるとエルク・グローブの工場の大半は「アップル・サポート(AppleCare)」のコール・センターに変わってしまっていたし、そこで新しい従業員は時給12ドルで働くこともあったのである。
(5ページ終わり)
シリコン・バレーで職を見つけられる見込みはあったのだが、しかしどれも上手くいかなかった。「本当に求人があるのは、30歳で子供なしのような人間なんです」とサラゴサ氏は言った。彼は現在48歳で、5人の子供がいるのだ。
数ヶ月間職探しをした後で、彼は行きづまりを感じ始めた。教職の仕事もなくなっていた。そこで彼は、アップル社の専属の電子機器の派遣会社に籍を置き、返品されたiPhoneやiPadを、顧客に送り返す前にチェックする仕事についた。毎日、サラゴサ氏は、かつてエンジニアとして働いていたビルに車で出かけ、福祉手当のない時給10ドルで、何千というガラス製のスクリーンを磨いたり、ヘッドホンを差し込んでオーディオ・ポートの検査をしたりしているのである。
アップルにとっての給料日
アップル社の海外事業と販売が拡大するにつれ、トップの経営陣は潤った。昨年度、Appleの売上高は1080億ドルを超えたが、これはミシガン州とニュージャージー州とマサチューセッツ州の州予算を合計した額よりも大きい数字だ。株式分割をした2005年以降、同社の株価は約45ドルから427ドル超にまで跳ね上がった。
その富の一部は株主のもとに行った。アップル社は最も幅広く保有されている株の一つで、株価の上昇は、何百万といる個人投資家や401(k)や年金基金に利益をもたらした。報奨金もアップルの労働者を豊かにした。昨年度、アップルの従業員や役員は、給与に加えて、20億ドル相当の株式を受け取り、それに加えて14億ドル相当のストック・オプションンを行使したり発行させた。
しかし最大の報酬はアップルの経営陣に与えられた。アップルのトップであるクック氏は、昨年、今日の株価に直すと、4億2700万ドルに相当する――10年にわたって発行可能な――ストック・オプションを受け取り、彼の年収は140万ドルに引き上げられた。2010年に、クック氏の報酬パッケージは、アップル社の有価証券報告書によると、5900万ドルとなっていた。
アップル社に近いある人は、同社の幹部が受け取る報酬は公正なものだ、同社はそれだけ多くの価値をアメリカや世界にもたらしたのだからと主張した。会社の規模が大きくなるにつれて、アップル社は、製造業の職を含め、国内の労働人口を拡大してきた。昨年、アップル社が雇うアメリカ人の労働者は8000人も増加したのだ。
他の企業はコールセンターを海外に移転したが、アップル社はコールセンターをアメリカに留めている。ある消息筋の試算では、アップル社の製品の売り上げのおかげで、別の企業は何万人もの米国人を雇うことができたのだそうだ。たとえば、フェデックスやユナイテッド・パーセル・サービスは、両社ともアップル製品の出荷量の増大のおかげでアメリカ人のための職を創出できたと述べている。もっとも、両社ともアップル社からの許可なしに具体的な数字を挙げるわけにはいかないとして、数字の提供を拒んだのであるが。
「中国人労働者を使用しているという理由でわが社が批判されるいわれはありませんよ」とアップル社の現役幹部は述べた。「アメリカは、われわれが必要としているスキルをもった人々を輩出するのを止めてしまったのです」。
さらに、アップル社のある事情通は、同社は小売店の内部や、iPhoneやiPadのアプリケーションを売りこむ企業家の間に、大量で良質のアメリカ人の職を生み出した、と言う。
2ヶ月間iPadの検査の仕事をした後、サラゴサ氏は仕事を辞めた。賃金がとても低いので、職探しにその時間を使う方がましだろうと考えたからだ。最近の10月のある晩、サラゴサ氏がMacBookに向かって座りオンラインで履歴書を出していたとき、地球を半周したところで、ある女性が自分の事務所に到着した。彼女はリナ・リンといい、中国の深浅にあるPCHインターナショナルのプロジェクト・マネージャーだ。同社は、アップルや別のエレクトロニクスの企業と契約し、iPadのガラス製のスクリーンを保護するケースのようなアクセサリー部品の生産をコーディネイトする会社だ。彼女はアップル社の従業員ではない。しかし、リナ・リンは、アップル社の製品供給能力にとって無くてはならない存在なのである。
リナ・リンの給料は、サラゴサ氏がアップルから支払われた額よりも少し低い。彼女は流暢な英語を話すが、それはテレビを見たり中国の大学で学んだものだ。彼女と彼女の夫は毎月給与の4分の1を銀行に預けている。彼らは約100平方メートルのアパートに住んでいて、義理の息子と共有している。
「仕事はたくさんありますよ」とリン夫人は言った。「特に深圳ではね」。
技術革新の敗者たち
ジョブズ氏や他のシリコン・バレーの幹部たちと昨年オバマ氏が開いたディナーの終わりごろ、皆が帰るために立ちあがったとき、大統領の周りには一緒に写真に写ろうとする人の群れができた。ジョブズ氏の周りにも、それよりわずかに小さいスクラムができた。彼の病状が悪化しているという噂が広がっていて、彼と一緒の、恐らくは最後の、写真を希望する者がいたのだ。
(6ページ終わり)
最後には、人々の軌道が重なり合った。「私はこの国の長期的な将来については心配していませんよ」と、ある観察者によると、ジョブズ氏はオバマ氏に語ったそうだ。「この国はめちゃくちゃ偉大だ。私が心配しているのは、私たちが解決策について十分話し合っていないことなのです」。
たとえば、ディナーでは、企業幹部たちは、政府は、企業が外国人のエンジニアを雇いやすくするためにビザのあり方を改革するように提案した。海外で得た利益を本国に持ち帰って、雇用を生み出すためにその利益を使えるように、企業に「免税期間(tax holiday)」を与えてはどうかと、大統領に勧める幹部もいた。ジョブズ氏も、政府がもっと多くのアメリカ人エンジニアの職業訓練を支援するならば、アップル社の熟練技術の要る製造工場のいくつかをアメリカに設置することも、いつの日か可能になるだろうと述べた。
経済学者は、こうした努力がどれほど有用であるかを議論しているし、低迷する経済が時には予想外の進展によって変貌することもあることに注目している。たとえば、前回高い失業率が長びきアナリストたちが気をもんだ1980年代初頭には、インターネットはほとんど存在しなかった。あの当時、グラフィック・デザインの学位が急速に有望株になる一方で、電話修理の勉強が終りになると推測していた人はほとんどいなかっただろう。
しかし、明日に起こるかもしれない技術革新をアメリカが利用して何百万人分もの雇用を生み出せるかどうかは、やはり判らない。
この10年間、太陽エネルギーや風力エネルギー、半導体製造やディスプレイ技術における技術力の飛躍は何千もの雇用を生み出してきた。しかし、これらの産業の多くはアメリカで始まったものだが、雇用の多くが発生したのは海外だった。企業は、アメリカの巨大な工場施設を閉鎖し、中国で再開した。企業の幹部たちは、こうした事情を説明するために、株主のためにアップル社と競争しているのだ、と言う。アップル社の成長と利益率に匹敵できなければ、生き残っていけないと彼らは言うのだ。
「新たな中流階級のための職がいずれは登場するでしょう」とハーバード大学の経済学者のローレンス・カッツは言った。「しかし、40代の人がそうした職に相応しいスキルを持っているだろうか? それとも、40代の人間は、新しい大卒に追い抜かれてしまって、もう二度と元の中流階級に戻れないのだろうか?」。
技術革新のペースはジョブズ氏のようなビジネスマンによって加速してしまった、とさまざまな業界の幹部たちは言う。GMは、大きなモデル・チェンジをするのに5年もかけた。対照的に、アップルは、ある種の消費者が支払う価格を下げる一方でデバイスの速度とメモリを倍増させながら、4年間に5台のiPhoneをリリースしたのだ。
オバマ氏とジョブズ氏が別れを告げる前に、アップルの幹部がポケットからiPhoneを引っ張り出して、信じられないほど繊細なグラフィックスの新しいアプリケーション――ドライブのゲームだった――を披露した。そのiPhoneは、部屋の照明の柔らかな輝きを反映していた。別の幹部たち、その価値の合計が690億ドルを超える幹部たちは、われ先に争って肩越しに一目見ようとした。そのゲームが素晴らしいものであることに、誰もが同意した。
そのスクリーンには、わずかな傷が一つもなかったのである。
」(おわり)
どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(2) [海外のニュース記事]
前回に引き続き、『ニューヨーク・タイムズ』の記事の2ページから4ページの部分を紹介する。はじめはアメリカでの工場生産に誇りを感じていたアップル社が、どうして中国に生産の軸足を移していったか、そのプロセスが簡潔に描かれている。
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=2&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=3&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=4&_r=1
「 どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(2)

リナ・リンは、アップルと契約しているPCHインターナショナルのプロジェクト・マネージャだ。「仕事はたくさんあります」と彼女は言った。「特に深圳ではね」。
企業や別の経済学者は、そんな考え方は単純すぎると言う。アメリカの労働者の教育水準は世界で最も高いレベルにあるが、国は、工場が必要とするような中間レベルのスキルを十分多くの国民に授けることを止めてしまった、と企業幹部たちは言う。
繁栄するために、企業は技術革新のための費用を払いつづけるのに十分なほどの利益を生み出せる場所に工場を移転する必要があると、企業側は主張する。そうしなければ、長期的にはさらに多くのアメリカ人の仕事を失うことにつながるのであって、そのことは、かつては誇り高かった国内メーカーの多く――GMなどを含む――が、 機動力のある競合他社の出現以降、縮小してしまったことが証明しているではないか、というわけだ。
アップル社には、この記事のためにニューヨーク・タイムズが作成したレポートの長大な要約を渡しておいたのだが、秘密主義で有名な同社はコメントを拒否した。
この記事は、経済学者、製造業の専門家、国際貿易の専門家、技術アナリスト、大学の研究者、アップル製品の供給業者、競合他社、パートナー企業、および政府関係者だけでなく、40名近いアップルの従業員と請負業者――現役および元職を含むが、その多くは自分の職を守るために名前を伏せるよう求めた――とのインタビューに基づいている。
アップル社の幹部たちは、世界は今やとても変化してしまったので、一企業の貢献を、たんにその従業員数を数えることによって測るのは間違っていると、個人的な会話では述べる――もっとも、アップル社は、かつてないほどアメリカ人の労働者を雇っていますよ、と彼らは付け加えてはするのだが。
アップル社の成功は、起業家に活力を与え、携帯電話プロバイダのような企業やアップル製品を出荷する会社に職を生み出すことで産業界に恩恵を与えたではないか、と幹部たちは言う。そして最後には、失業を改善することは自分たちの仕事ではない、と彼らは言うのだ。
「われわれは、百カ国以上でiPhoneを販売しています」とアップル社の現役幹部は述べた。「われわれにはアメリカの問題を解決する義務はありませんよ。われわれの唯一の義務は、可能な限り最高の製品を作ることですからね」。
「ガラス製のスクリーンが欲しいんだ」
2007年、iPhoneが店頭に並ぶ予定の一月ちょっと前のこと、ジョブズ氏は一握りの部下をオフィスに呼び寄せた。何週間もの間ずっと、彼はiPhoneの試作機をポケットに忍ばせていた。
その会合に出席した人によると、ジョブズ氏は怒りにみちた表情でiPhoneを取り出し、そのプラスチック製のスクリーンにできた何十という小さな傷が皆に見えるように、iPhoneを高く掲げた。それから彼はジーンズからキーを引っぱりだした。
みんなこの携帯電話をポケットに入れるだろう、と彼は言った。キーだってポケットに入れるだろう。「僕はひっかき傷ができるような製品を売りたくないんだ」と彼は語気を強めて言った。唯一の解決策は傷ができないようなガラスを使うことだった。「ガラス製のスクリーンが欲しいんだ、しかも6週間で完璧なやつを」。
ある幹部は、その会合を終えた後、中国の深圳行きの航空券を予約した。ジョブズ氏が完璧なものを求めているならば、深圳以外に行く場所はなかった。
2年以上にわたり、同社は、事あるごとに同じ問題を突きつけるあるプロジェクト――コードネームは「パープル2(Purple2)」――に取り組んでいた。その同じ問いとは、「どうしたら携帯電話を根底から考え直せるか?」という問いだった。そして、何百万台もの製品がすばやく、十分な利益をあげられるほど安価に製造できるようにしながら、「どうすれば最高の品質の設計になるのか」――例えば、傷のつかないスクリーンに関して――という問いだった。
それらの問いに対する答えは、ほとんど何時も、アメリカ以外の場所で発見された。部品はバージョン間で異なるものの、すべてのiPhoneには数百ものパーツが含まれていて、その推定90パーセントが海外で製造されている。最先端の半導体はドイツと台湾から、メモリは韓国と日本から、ディスプレイ・パネルと電気回路は韓国と台湾から、チップセットはヨーロッパから、希少金属はアフリカとアジアからやって来る。そしてそれらのすべては中国で組み立てられるのだ。
初期のころ、アップル社は、製造に関する問題を解決するために自社の裏庭の彼方に目をやることはなかった。例えば、アップル社が1983年にマッキントッシュを作り始めた数年後に、ジョブズ氏は、マッキントッシュが「アメリカで作られたマシン」であることを自慢していた。 1990年、ジョブズ氏が最終的にアップルに買収されることになるNeXTの経営にあたっていた頃、彼はあるレポーターに「僕はコンピュータと同様に工場のことも誇りに思っています」と語っていた。2002年の頃になっても、アップル社のトップ幹部たちは、本社の北東に2時間ほど車を走らせて、カリフォルニア州のエルク・グローブにあるiMacの工場をしばしば訪れたものだった。
しかし2004年ごろまでに、アップル社はほとんどを海外生産に切りかえていた。その意思決定を主導していたのは、アップル社のオペレーション担当のティモシー・D.クックだった。彼は、昨年8月、ジョブズ氏の死の六週間前にCEOとしてジョブズ氏の後任になった人だ。アメリカの他のエレクトロニクス企業のほとんどはすでに海外移転に踏み切っていて、当時、苦戦していたアップル社は、どんなアドバンテージでも手に入れなければならないと感じていた。
アジアが魅力的だったのは、ある意味で、アジアの半熟練労働者が安価だったからだ。しかし、アップル社をアジアに駆り立てたのはその点ではなかった。テクノロジーの企業にとっては、労働力のコストは、部品を購入したり(数百社からのコンポーネントやサービスをまとめあげる)サプライ・チェーンを管理する費用と比べると大したものではないからである。
(2ページ終わり)
クック氏にとって、なぜアジアに注目するのかの理由は「二つの点に帰着しました」と元アップル社の上級幹部は述べた。アジアの工場は「規模のアップ・ダウンが素早くできる」うえ、「アジアのサプライ・チェーンはアメリカのそれを凌駕してしまった」という二点だ。その結果「現時点でわれわれは太刀打ちできなくなっているのです」とその幹部は言うのだった。
このアドバンテージの効果は、ジョブズ氏が2007年にガラス製のスクリーンを要求するやいなや明らかになった。
長年にわたり、携帯電話メーカーはガラスの使用を避けていたのだが、それは、実行がきわめて難しい研磨の精度が求められたからだ。アップル社は、大きな強化ガラスを製造するためにアメリカのコーニング社(Corning Inc)を選んでいた。しかし、巨大なガラスを何百万ものiPhoneのスクリーンに切り分ける方法を考えているうちに、空の切削工場を一つと、実験に使用する何百というガラス片と中間レベルのエンジニアが大勢必要であることがわかった。準備するだけでも莫大な金がかかるだろう。
そのとき、その仕事に対する入札の申し出が中国の工場からやってきた。
アップルのチームが訪れたとき、中国の工場のオーナーは新たな作業棟を建設している最中だった。アップルの元幹部によると、「私たちに契約を与えてくれる場合に備えて、工事をしているのです」とマネージャーは言ったそうだ。中国政府は多くの産業に対してコストを肩代わりすることに合意していたし、そうした補助金はそのガラス研磨工場にまで行き渡っていた。その工場には、アップルが無料で使用できるガラスのサンプルで満杯の倉庫があった。オーナーたちはエンジニアをほとんどノーコストで使わせた。彼らは、従業員を1日24時間利用できるよう工場内に宿舎を建てた。
こうして中国のその工場が仕事を得たのだ。
「今ではサプライ・チェーンのすべてが中国にあります」と別の元アップルの上級幹部は述べた。「ラバーのパッキンが1000個必要だって? それは隣の工場に行けばいい。ネジが百万個必要だって? その工場は1ブロック先にあるよ。ちょっと違った作りのネジが必要だって? 3時間かかるよ。まあ、そんな具合ですからね」。
フォックスコン・シティーにて
そのガラス工場から車で8時間のところに、非公式にはフォックスコン・シティー(Foxconn City)として知られている生産拠点があり、そこでiPhoneは組み立てられている。アップル社の幹部にとって、 フォックスコン・シティーは、中国がアメリカの労働者よりも優れた労働者――と勤勉さ――を提供できるということを示すさらなる証拠となった場所だ。
それは、フォックスコン・シティーに似たような場所がアメリカには存在しないからである。
この施設には23万人もの従業員がいて、その多くは週に6日働き、工場で1日12時間過ごすこともしばしばだ。フォックスコンの労働力の4分の1以上は会社のバラックで暮らし、多くの労働者の稼ぎは一日17ドル足らずだ。あるアップルの幹部がシフト交代時に到着したとき、彼の車は大河のように通り過ぎる従業員の流れにつかまり立ち往生してしまった。「あのスケールは想像を絶するものだった」と彼は述べた。
フォックスコンは、労働者が出入り口に殺到して押しつぶされないように、歩行者を誘導する警備員を約300人雇っている。施設のセントラル・キッチンは一日平均3トンの豚肉と13トンのコメを調理する。工場にはチリ一つ落ちていないが、近くの喫茶店の空気はタバコの煙と悪臭でむっとするほどだ。
フォックスコン・テクノロジー社は、アジアと東欧、メキシコとブラジルに数十もの施設をもっていて、世界の民生用電子機器の推定で40%を組み立ている。アマゾン、デル、ヒューレット・パッカード、モトローラ、任天堂、ノキア、サムスン電子、ソニーといった企業が顧客となっている。
「彼らは一晩で3000人を雇い入れることができるでしょうね」。そう語るのは2010年までアップルの世界的な需給マネージャーだったジェニファー・リゴーニ。彼女は自分の仕事の詳細について語り合うのを拒んだ。「アメリカのどこの工場が一晩で3000人も見つけてきて、彼らに宿舎で暮らすように説き伏せられますか?」。
2007年の半ばに、試行実験が始まって一月が経った頃、アップルのエンジニアたちはiPhoneのスクリーンに使用できるように強化ガラスをカットする方法をついに完成させた。カットされたガラスを載せた最初のトラックは、アップルの元幹部によると、真夜中にフォックスコン・シティーに到着した。そのときマネージャーたちは何千という労働者をたたき起こした。労働者たちは這ってユニフォームの場所にたどり着き――男性は白と黒のシャツ、女性は赤のシャツ――、そしてすぐに生産ラインに座り、携帯電話を手で組み立て始めた。3ヶ月間で、アップルは100万台のiPhoneを販売した。それ以来、フォックスコンは2億台以上ものiPhoneを組み立てた。
フォックスコンは、声明を出して、特定の顧客について語ることは拒否すると述べた。
(3ページ終わり)
「わが社によって採用されたいかなる労働者も、契約条件の概要を記す明確な契約書と、労働者の人権を保護する中国政府の法律によって保護されています」と同社は書簡に記した。ファックスコン社は「従業員に対する責任を非常に重く受けとめており、100万人以上もいる従業員に安全で明るい環境を与えるためにわが社は全力を尽くしています」。
同社は、元アップル幹部の説明の細かな点のいくつかに異議を唱え、上に記したような真夜中のシフトなどあり得ないと書いてきた。なぜなら「わが社には、従業員の労働時間に関しては指定されたシフト時間に基づいた厳密な規則があり、すべての従業員はコンピュータ化されたタイム・カードをもっているため、容認されたシフト時間外ではどんな施設で働くことも禁じられているからです」。会社によると、すべてのシフト時間は午前7時か午後7時に始まり、スケジュールにどんな変更があっても、従業員には少なくとも12時間の告知期間が与えられることになっているそうだ。
インタビューでは、そうした会社側の言い分に異議を唱えるファックスコン従業員もいた。
アップルにとってのもう一つの重要なアドバンテージは、中国がアメリカには敵わないようなスケールでエンジニアを提供できる、ということだった。アップルの幹部の見積もりでは、iPhoneの製造にかかわる20万人の組立てラインの労働者を監視・監督するには、約8700人の生産技術者が必要だった。同社のアナリストは、アメリカで優秀なエンジニアをそれほどの人数見つけるには9カ月もかかるだろうと予想していた。
しかし、中国で要した日数は15日だった。
アップルのような企業は「アメリカで工場を立ち上げる際の難題は、技術的な労働力を見つけることであると言っていますね」。そう語るのは、マサチューセッツ工科大学の副学長のマーティン・シュミット。特に、企業は、学士をもっていなくてもいいが、高卒以上のエンジニアを必要としているという。それ位のスキル・レベルのあるアメリカ人を見つけるのは難しいことだと企業の幹部は主張する。「エンジニアは良い仕事なんだが、わが国にはそうした需要に応える十分な人材がいないのです」とシュミット氏は言った。
iPhoneのいくつかの側面はアメリカならではのものだ。たとえば、デバイスのソフトウェアや革新的なマーケティング・キャンペーンは、そのほとんどがアメリカで生み出されたものだ。アップルは最近ノースカロライナに5億ドルをかけてデータセンターを建設した。iPhone4とiPhone4S内部にある重要な半導体は、テキサス州オースティンにある、韓国のサムスン社の工場で製造されている。
しかし、これらの施設は大きな雇用を生み出すものではない。たとえば、アップルのノース・カロライナのデータ・センターにフルタイムの従業員は100名しかいない。サムスンの工場にいるのは推定で2400人の労働者だ。
「携帯電話の売り上げが100万台から3000万台に伸びたとしても、プログラマーを増やす必要はありませんよね」。そう言うのは、1990年に去るまでアップルの製品開発とマーケティングを監督していたジャン=ルイ・ガッセ。「新しい会社――FacebookやGoogleやTwitterなども――こうしたことから恩恵を得ているのです。こうした会社は成長しても、雇用を増やす必要はないのです」。
アメリカでiPhoneの工場を建設するとしたら、中国に建設するのと比べてさらにどれくらい多くのコストがかかるかを試算するのは難しい。しかし、色々な学者や製造アナリストの試算によれば、労働力はハイテク製造のごく一部にすぎないので、アメリカ人に賃金を支払ったとしてもiPhone1台のコストには65ドルの上乗せがあるだけだろう。アップルの利益は電話一台当たり数百ドルなので、アメリカ国内に工場を作ったとしても、理論的には、アップル社にはほどほどの利益が残ることになるだろう。
しかし、このような計算は、多くの点で無意味である。アメリカでiPhoneの工場を作るとすれば、アメリカ人を雇うことよりもずっと多くのことが必要とされるからである――それには、国内経済や世界経済を転換させることが必要とされるだろう。アップル社の幹部は、彼らが必要とするスキルをもつ十分な数のアメリカ人は存在しないし、十分なスピードと柔軟性をもつ工場も存在しないと考えている。アップル社と協働しているコーニング社のような会社でも、海外に行かなければならないと言っているのだ。
iPhone用のガラスを製造したおかげで、ケンタッキーにあるコーニング社は息を吹き返し、今日でも、iPhoneのガラスの多くは依然としてそこで作られている。iPhoneがヒットして以降、コーニング社は、アップルのデザインを模倣しようと望む別の企業から洪水のような注文を受けた。その強化ガラスの売上高は1年で7億ドル以上に成長し、新規の需要を支えるために約1000人のアメリカ人を雇用するか、従業員として使い続けている。
しかし、需要が拡大するにつれて、コーニング社の強化ガラスの製造の多くは、日本と台湾の工場で行われるようになった。
」(つづく)
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=2&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=3&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=4&_r=1
「 どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(2)

リナ・リンは、アップルと契約しているPCHインターナショナルのプロジェクト・マネージャだ。「仕事はたくさんあります」と彼女は言った。「特に深圳ではね」。
企業や別の経済学者は、そんな考え方は単純すぎると言う。アメリカの労働者の教育水準は世界で最も高いレベルにあるが、国は、工場が必要とするような中間レベルのスキルを十分多くの国民に授けることを止めてしまった、と企業幹部たちは言う。
繁栄するために、企業は技術革新のための費用を払いつづけるのに十分なほどの利益を生み出せる場所に工場を移転する必要があると、企業側は主張する。そうしなければ、長期的にはさらに多くのアメリカ人の仕事を失うことにつながるのであって、そのことは、かつては誇り高かった国内メーカーの多く――GMなどを含む――が、 機動力のある競合他社の出現以降、縮小してしまったことが証明しているではないか、というわけだ。
アップル社には、この記事のためにニューヨーク・タイムズが作成したレポートの長大な要約を渡しておいたのだが、秘密主義で有名な同社はコメントを拒否した。
この記事は、経済学者、製造業の専門家、国際貿易の専門家、技術アナリスト、大学の研究者、アップル製品の供給業者、競合他社、パートナー企業、および政府関係者だけでなく、40名近いアップルの従業員と請負業者――現役および元職を含むが、その多くは自分の職を守るために名前を伏せるよう求めた――とのインタビューに基づいている。
アップル社の幹部たちは、世界は今やとても変化してしまったので、一企業の貢献を、たんにその従業員数を数えることによって測るのは間違っていると、個人的な会話では述べる――もっとも、アップル社は、かつてないほどアメリカ人の労働者を雇っていますよ、と彼らは付け加えてはするのだが。
アップル社の成功は、起業家に活力を与え、携帯電話プロバイダのような企業やアップル製品を出荷する会社に職を生み出すことで産業界に恩恵を与えたではないか、と幹部たちは言う。そして最後には、失業を改善することは自分たちの仕事ではない、と彼らは言うのだ。
「われわれは、百カ国以上でiPhoneを販売しています」とアップル社の現役幹部は述べた。「われわれにはアメリカの問題を解決する義務はありませんよ。われわれの唯一の義務は、可能な限り最高の製品を作ることですからね」。
「ガラス製のスクリーンが欲しいんだ」
2007年、iPhoneが店頭に並ぶ予定の一月ちょっと前のこと、ジョブズ氏は一握りの部下をオフィスに呼び寄せた。何週間もの間ずっと、彼はiPhoneの試作機をポケットに忍ばせていた。
その会合に出席した人によると、ジョブズ氏は怒りにみちた表情でiPhoneを取り出し、そのプラスチック製のスクリーンにできた何十という小さな傷が皆に見えるように、iPhoneを高く掲げた。それから彼はジーンズからキーを引っぱりだした。
みんなこの携帯電話をポケットに入れるだろう、と彼は言った。キーだってポケットに入れるだろう。「僕はひっかき傷ができるような製品を売りたくないんだ」と彼は語気を強めて言った。唯一の解決策は傷ができないようなガラスを使うことだった。「ガラス製のスクリーンが欲しいんだ、しかも6週間で完璧なやつを」。
ある幹部は、その会合を終えた後、中国の深圳行きの航空券を予約した。ジョブズ氏が完璧なものを求めているならば、深圳以外に行く場所はなかった。
2年以上にわたり、同社は、事あるごとに同じ問題を突きつけるあるプロジェクト――コードネームは「パープル2(Purple2)」――に取り組んでいた。その同じ問いとは、「どうしたら携帯電話を根底から考え直せるか?」という問いだった。そして、何百万台もの製品がすばやく、十分な利益をあげられるほど安価に製造できるようにしながら、「どうすれば最高の品質の設計になるのか」――例えば、傷のつかないスクリーンに関して――という問いだった。
それらの問いに対する答えは、ほとんど何時も、アメリカ以外の場所で発見された。部品はバージョン間で異なるものの、すべてのiPhoneには数百ものパーツが含まれていて、その推定90パーセントが海外で製造されている。最先端の半導体はドイツと台湾から、メモリは韓国と日本から、ディスプレイ・パネルと電気回路は韓国と台湾から、チップセットはヨーロッパから、希少金属はアフリカとアジアからやって来る。そしてそれらのすべては中国で組み立てられるのだ。
初期のころ、アップル社は、製造に関する問題を解決するために自社の裏庭の彼方に目をやることはなかった。例えば、アップル社が1983年にマッキントッシュを作り始めた数年後に、ジョブズ氏は、マッキントッシュが「アメリカで作られたマシン」であることを自慢していた。 1990年、ジョブズ氏が最終的にアップルに買収されることになるNeXTの経営にあたっていた頃、彼はあるレポーターに「僕はコンピュータと同様に工場のことも誇りに思っています」と語っていた。2002年の頃になっても、アップル社のトップ幹部たちは、本社の北東に2時間ほど車を走らせて、カリフォルニア州のエルク・グローブにあるiMacの工場をしばしば訪れたものだった。
しかし2004年ごろまでに、アップル社はほとんどを海外生産に切りかえていた。その意思決定を主導していたのは、アップル社のオペレーション担当のティモシー・D.クックだった。彼は、昨年8月、ジョブズ氏の死の六週間前にCEOとしてジョブズ氏の後任になった人だ。アメリカの他のエレクトロニクス企業のほとんどはすでに海外移転に踏み切っていて、当時、苦戦していたアップル社は、どんなアドバンテージでも手に入れなければならないと感じていた。
アジアが魅力的だったのは、ある意味で、アジアの半熟練労働者が安価だったからだ。しかし、アップル社をアジアに駆り立てたのはその点ではなかった。テクノロジーの企業にとっては、労働力のコストは、部品を購入したり(数百社からのコンポーネントやサービスをまとめあげる)サプライ・チェーンを管理する費用と比べると大したものではないからである。
(2ページ終わり)
クック氏にとって、なぜアジアに注目するのかの理由は「二つの点に帰着しました」と元アップル社の上級幹部は述べた。アジアの工場は「規模のアップ・ダウンが素早くできる」うえ、「アジアのサプライ・チェーンはアメリカのそれを凌駕してしまった」という二点だ。その結果「現時点でわれわれは太刀打ちできなくなっているのです」とその幹部は言うのだった。
このアドバンテージの効果は、ジョブズ氏が2007年にガラス製のスクリーンを要求するやいなや明らかになった。
長年にわたり、携帯電話メーカーはガラスの使用を避けていたのだが、それは、実行がきわめて難しい研磨の精度が求められたからだ。アップル社は、大きな強化ガラスを製造するためにアメリカのコーニング社(Corning Inc)を選んでいた。しかし、巨大なガラスを何百万ものiPhoneのスクリーンに切り分ける方法を考えているうちに、空の切削工場を一つと、実験に使用する何百というガラス片と中間レベルのエンジニアが大勢必要であることがわかった。準備するだけでも莫大な金がかかるだろう。
そのとき、その仕事に対する入札の申し出が中国の工場からやってきた。
アップルのチームが訪れたとき、中国の工場のオーナーは新たな作業棟を建設している最中だった。アップルの元幹部によると、「私たちに契約を与えてくれる場合に備えて、工事をしているのです」とマネージャーは言ったそうだ。中国政府は多くの産業に対してコストを肩代わりすることに合意していたし、そうした補助金はそのガラス研磨工場にまで行き渡っていた。その工場には、アップルが無料で使用できるガラスのサンプルで満杯の倉庫があった。オーナーたちはエンジニアをほとんどノーコストで使わせた。彼らは、従業員を1日24時間利用できるよう工場内に宿舎を建てた。
こうして中国のその工場が仕事を得たのだ。
「今ではサプライ・チェーンのすべてが中国にあります」と別の元アップルの上級幹部は述べた。「ラバーのパッキンが1000個必要だって? それは隣の工場に行けばいい。ネジが百万個必要だって? その工場は1ブロック先にあるよ。ちょっと違った作りのネジが必要だって? 3時間かかるよ。まあ、そんな具合ですからね」。
フォックスコン・シティーにて
そのガラス工場から車で8時間のところに、非公式にはフォックスコン・シティー(Foxconn City)として知られている生産拠点があり、そこでiPhoneは組み立てられている。アップル社の幹部にとって、 フォックスコン・シティーは、中国がアメリカの労働者よりも優れた労働者――と勤勉さ――を提供できるということを示すさらなる証拠となった場所だ。
それは、フォックスコン・シティーに似たような場所がアメリカには存在しないからである。
この施設には23万人もの従業員がいて、その多くは週に6日働き、工場で1日12時間過ごすこともしばしばだ。フォックスコンの労働力の4分の1以上は会社のバラックで暮らし、多くの労働者の稼ぎは一日17ドル足らずだ。あるアップルの幹部がシフト交代時に到着したとき、彼の車は大河のように通り過ぎる従業員の流れにつかまり立ち往生してしまった。「あのスケールは想像を絶するものだった」と彼は述べた。
フォックスコンは、労働者が出入り口に殺到して押しつぶされないように、歩行者を誘導する警備員を約300人雇っている。施設のセントラル・キッチンは一日平均3トンの豚肉と13トンのコメを調理する。工場にはチリ一つ落ちていないが、近くの喫茶店の空気はタバコの煙と悪臭でむっとするほどだ。
フォックスコン・テクノロジー社は、アジアと東欧、メキシコとブラジルに数十もの施設をもっていて、世界の民生用電子機器の推定で40%を組み立ている。アマゾン、デル、ヒューレット・パッカード、モトローラ、任天堂、ノキア、サムスン電子、ソニーといった企業が顧客となっている。
「彼らは一晩で3000人を雇い入れることができるでしょうね」。そう語るのは2010年までアップルの世界的な需給マネージャーだったジェニファー・リゴーニ。彼女は自分の仕事の詳細について語り合うのを拒んだ。「アメリカのどこの工場が一晩で3000人も見つけてきて、彼らに宿舎で暮らすように説き伏せられますか?」。
2007年の半ばに、試行実験が始まって一月が経った頃、アップルのエンジニアたちはiPhoneのスクリーンに使用できるように強化ガラスをカットする方法をついに完成させた。カットされたガラスを載せた最初のトラックは、アップルの元幹部によると、真夜中にフォックスコン・シティーに到着した。そのときマネージャーたちは何千という労働者をたたき起こした。労働者たちは這ってユニフォームの場所にたどり着き――男性は白と黒のシャツ、女性は赤のシャツ――、そしてすぐに生産ラインに座り、携帯電話を手で組み立て始めた。3ヶ月間で、アップルは100万台のiPhoneを販売した。それ以来、フォックスコンは2億台以上ものiPhoneを組み立てた。
フォックスコンは、声明を出して、特定の顧客について語ることは拒否すると述べた。
(3ページ終わり)
「わが社によって採用されたいかなる労働者も、契約条件の概要を記す明確な契約書と、労働者の人権を保護する中国政府の法律によって保護されています」と同社は書簡に記した。ファックスコン社は「従業員に対する責任を非常に重く受けとめており、100万人以上もいる従業員に安全で明るい環境を与えるためにわが社は全力を尽くしています」。
同社は、元アップル幹部の説明の細かな点のいくつかに異議を唱え、上に記したような真夜中のシフトなどあり得ないと書いてきた。なぜなら「わが社には、従業員の労働時間に関しては指定されたシフト時間に基づいた厳密な規則があり、すべての従業員はコンピュータ化されたタイム・カードをもっているため、容認されたシフト時間外ではどんな施設で働くことも禁じられているからです」。会社によると、すべてのシフト時間は午前7時か午後7時に始まり、スケジュールにどんな変更があっても、従業員には少なくとも12時間の告知期間が与えられることになっているそうだ。
インタビューでは、そうした会社側の言い分に異議を唱えるファックスコン従業員もいた。
アップルにとってのもう一つの重要なアドバンテージは、中国がアメリカには敵わないようなスケールでエンジニアを提供できる、ということだった。アップルの幹部の見積もりでは、iPhoneの製造にかかわる20万人の組立てラインの労働者を監視・監督するには、約8700人の生産技術者が必要だった。同社のアナリストは、アメリカで優秀なエンジニアをそれほどの人数見つけるには9カ月もかかるだろうと予想していた。
しかし、中国で要した日数は15日だった。
アップルのような企業は「アメリカで工場を立ち上げる際の難題は、技術的な労働力を見つけることであると言っていますね」。そう語るのは、マサチューセッツ工科大学の副学長のマーティン・シュミット。特に、企業は、学士をもっていなくてもいいが、高卒以上のエンジニアを必要としているという。それ位のスキル・レベルのあるアメリカ人を見つけるのは難しいことだと企業の幹部は主張する。「エンジニアは良い仕事なんだが、わが国にはそうした需要に応える十分な人材がいないのです」とシュミット氏は言った。
iPhoneのいくつかの側面はアメリカならではのものだ。たとえば、デバイスのソフトウェアや革新的なマーケティング・キャンペーンは、そのほとんどがアメリカで生み出されたものだ。アップルは最近ノースカロライナに5億ドルをかけてデータセンターを建設した。iPhone4とiPhone4S内部にある重要な半導体は、テキサス州オースティンにある、韓国のサムスン社の工場で製造されている。
しかし、これらの施設は大きな雇用を生み出すものではない。たとえば、アップルのノース・カロライナのデータ・センターにフルタイムの従業員は100名しかいない。サムスンの工場にいるのは推定で2400人の労働者だ。
「携帯電話の売り上げが100万台から3000万台に伸びたとしても、プログラマーを増やす必要はありませんよね」。そう言うのは、1990年に去るまでアップルの製品開発とマーケティングを監督していたジャン=ルイ・ガッセ。「新しい会社――FacebookやGoogleやTwitterなども――こうしたことから恩恵を得ているのです。こうした会社は成長しても、雇用を増やす必要はないのです」。
アメリカでiPhoneの工場を建設するとしたら、中国に建設するのと比べてさらにどれくらい多くのコストがかかるかを試算するのは難しい。しかし、色々な学者や製造アナリストの試算によれば、労働力はハイテク製造のごく一部にすぎないので、アメリカ人に賃金を支払ったとしてもiPhone1台のコストには65ドルの上乗せがあるだけだろう。アップルの利益は電話一台当たり数百ドルなので、アメリカ国内に工場を作ったとしても、理論的には、アップル社にはほどほどの利益が残ることになるだろう。
しかし、このような計算は、多くの点で無意味である。アメリカでiPhoneの工場を作るとすれば、アメリカ人を雇うことよりもずっと多くのことが必要とされるからである――それには、国内経済や世界経済を転換させることが必要とされるだろう。アップル社の幹部は、彼らが必要とするスキルをもつ十分な数のアメリカ人は存在しないし、十分なスピードと柔軟性をもつ工場も存在しないと考えている。アップル社と協働しているコーニング社のような会社でも、海外に行かなければならないと言っているのだ。
iPhone用のガラスを製造したおかげで、ケンタッキーにあるコーニング社は息を吹き返し、今日でも、iPhoneのガラスの多くは依然としてそこで作られている。iPhoneがヒットして以降、コーニング社は、アップルのデザインを模倣しようと望む別の企業から洪水のような注文を受けた。その強化ガラスの売上高は1年で7億ドル以上に成長し、新規の需要を支えるために約1000人のアメリカ人を雇用するか、従業員として使い続けている。
しかし、需要が拡大するにつれて、コーニング社の強化ガラスの製造の多くは、日本と台湾の工場で行われるようになった。
」(つづく)






