どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(3) [海外のニュース記事]
前回に引き続き、『ニューヨーク・タイムズ』の記事の5ページから7ページの部分を紹介する。長かったが、これでおしまい。
さて、この記事の最後は、ハッピーな気分で終わっている。亡くなったジョブズ氏追悼の意味もあるだろう、少しエモーショナルな終わり方だ。
しかし、終わり近くに掲げられた重大な問いは、問いのまま放置されている。つまり、かりに技術革新が近いうちに起きたとしても、かつて中流に所属していた人間は「もう二度と元の中流階級に戻れないのだろうか?」という問いだ。たぶん、この問いは、「中流階級は永久に消滅してしまったのか?」と言い換えられるかもしれない。
この問いかけは答えられずに放置されているが、たぶん、それには「イエス」という答えしかない。それがこの記事の言外に込められているメッセージだろう。記事中のあのサラゴサ氏が、また浮上することがあるだろうか? そんなことは、ありそうにもない、そんな書き方だ。かつてアメリカの大部分を占めていた中間層は分裂し、ごくごく一部はアップルの幹部のようになるだろうが、大部分にとってはサラゴサ氏のような運命が待ちかまえているのである。
かりに技術革新が起きたとしても、その商品の製造はすべてアジアに行ってしまうだろう。もはや、製造業のそうしたトレンドは変えられないほど、アジアへのシフトは世界経済の構造そのものと化してしまったようだ。しかし、アメリカの中間層にとって製造業が雇用の柱を提供していたのだから、製造業が復活できなければ中間層の復活もありえないのは当然のことだ。
折しも、オバマ大統領が中間層の復活を1月24日の一般教書演説でぶち上げたばかりだ。それは確かに緊急の課題に応えるタイムリーな政策発表だった。 しかし、この記事が言うように、アジアに持っていかれた製造業をアメリカに呼び戻すには世界経済の構造の大転換が必要であるはずで、そんなことはアメリカの大統領でも恐らくは無理な仕事であると思えるのだ。
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=5&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=6&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=7&_r=1
「
どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(3)
「わが社の顧客は台湾、韓国、日本、中国にいますよ」とコーニング社の副会長兼最高財務責任者(CFO)のジェームズ・B.フローズは語った。「アメリカでガラスを作って船で運ぶこともできますが、35日もかかりますからね。飛行機で出荷することもできるでしょうが、10倍も高くつきます。だからガラス工場は組み立て工場の隣に建てることになり、どちらも海外にある、ということになるわけです」。
コーニング社は161年前にアメリカで設立され、本社はまだニューヨーク州北部にある。理論的に言えば、同社は国内ですべてのガラスを製造できる。しかし、そうするには「業界の構造の全面的な見直しが必要でしょうね」とフローズ氏は言った。「家庭用電化製品の業界はアジアのビジネスになってしまいましたね。アメリカ人としてはそれが気懸りですが、私がどうにかできることではありませんからね。アジアは、この40年間のアメリカにとって代ったのです」。
中流階級の職が消えていく
エリック・サラゴサがカリフォルニア州のエルク・グローブにあるアップル社の製造工場に初めて足を踏み入れたとき、彼はまるでエンジニアのワンダーランドに入り込んだような気分になったものだった。
それは1995年のことで、サクラメントの近くにあるその施設には1500人以上の従業員がいた。それは、ロボットアームや回路基板を運ぶベルト・コンベアや、最後には、組み立てラインの様々な段階にあるカラフルなiMacなどからなる万華鏡だった。サラゴサ氏はエンジニアだったが、すぐに工場でのランクを上げ、エリート集団である診断チームの一員になった。年収は5万ドルに上昇した。彼と彼の妻は3人の子供をもうけた。彼らはプール付きの家を買った。
「ついに、学校に行った甲斐があったと感じましたよ」と彼は言った。「世界はモノ作りができる人間を必要としているのだと判ったのです」。
しかし、それと同じ頃、エレクトロニクス業界は変化していたし、そしてアップル社も――人気に陰りがでていた商品とともに――立て直しに苦労していた。焦点の一つは製造過程の改善だった。サラゴサ氏が職についた数年後、彼の上司が、カリフォルニア州の工場が海外工場と比べてどうなのかを説明してくれたことがあった。材料費を別にするならば、エルク・グローブで1500ドルのコンピュータを製造するコストは、マシン一台当たり22ドルだった。シンガポールでは6ドル、台湾では4.85ドルだった。こうした差がどうして出るのか、その大きな理由は賃金ではなかった。むしろ、在庫のコストや、労働者が一つの仕事を果たすのにかかる時間などが大きかったのだ。
「1日12時間仕事をして土曜も来なければならない、と僕たちは言われましたよ」とサラゴサ氏は言った。「僕には家族がいたし、子供たちがサッカーするのを見たかったんですけどね」。
近代化はいつも、ある種の仕事が変化したり消えたりするのを引き起こしてきた。アメリカの経済が農業から製造業に移行し、さらに別の産業へと移行したとき、農民は鉄鋼所の労働者になり、さらにセールスマンや中間管理職に変わった。こうした変貌は多くの経済的な恩恵をもたらしたし、一般的に言えば、進歩するたびごとに、スキルのない労働者であっても、よりよい賃金と社会の上層に昇るチャンスが広がっていった。
しかし、この20年間というもの、もっと根本的なものが変わってしまった、と経済学者たちは言う。中位の賃金の仕事(midwage jobs)が消滅し始めたのだ。特に大学の学位のないアメリカ人にとって、今日の新しい職は著しくサービス業に偏っている――レストランやコール・センターの仕事だったり、病院の付き添い係や派遣労働者などだが――が、そうした仕事についても、中流階級に到達できる見込みは、かつてほどではなくなっている。
学位をもっているサラゴサ氏でさえ、こうしたトレンドに対して無傷ではいられなかった。まず、エルク・グローブの日常的な業務のいくつかが海外に移管された。サラゴサ氏は気にもとめなかった。その後、アップル社の工場を未来の遊び場のようにしたロボット工学の進展のおかげで、幹部は労働者を機械に換えることができた。診断技術のいくつかはシンガポールに行ってしまった。工場の在庫を管理していた中間管理職たちが解雇されたが、それは、突然、インターネットで接続するわずかな人しか必要でなくなったからである。
サラゴサ氏は未熟練労働者としてのポジションにいる者としてはあまりに高給取りだった。それに上級管理職になるには十分な資格がなかった。彼は2002年の夜間勤務の後小さなオフィスに呼び出され、解雇を告げられ、工場から閉め出された。彼はしばらくの間、高校で教えた後で、製造業に復帰しようと試みた。しかし、アップル社は、かつてはその一帯が「シリコン・バレー・ノース(Silicon Valley North)」として聖地扱いされることに寄与したものだったが、その頃になるとエルク・グローブの工場の大半は「アップル・サポート(AppleCare)」のコール・センターに変わってしまっていたし、そこで新しい従業員は時給12ドルで働くこともあったのである。
(5ページ終わり)
シリコン・バレーで職を見つけられる見込みはあったのだが、しかしどれも上手くいかなかった。「本当に求人があるのは、30歳で子供なしのような人間なんです」とサラゴサ氏は言った。彼は現在48歳で、5人の子供がいるのだ。
数ヶ月間職探しをした後で、彼は行きづまりを感じ始めた。教職の仕事もなくなっていた。そこで彼は、アップル社の専属の電子機器の派遣会社に籍を置き、返品されたiPhoneやiPadを、顧客に送り返す前にチェックする仕事についた。毎日、サラゴサ氏は、かつてエンジニアとして働いていたビルに車で出かけ、福祉手当のない時給10ドルで、何千というガラス製のスクリーンを磨いたり、ヘッドホンを差し込んでオーディオ・ポートの検査をしたりしているのである。
アップルにとっての給料日
アップル社の海外事業と販売が拡大するにつれ、トップの経営陣は潤った。昨年度、Appleの売上高は1080億ドルを超えたが、これはミシガン州とニュージャージー州とマサチューセッツ州の州予算を合計した額よりも大きい数字だ。株式分割をした2005年以降、同社の株価は約45ドルから427ドル超にまで跳ね上がった。
その富の一部は株主のもとに行った。アップル社は最も幅広く保有されている株の一つで、株価の上昇は、何百万といる個人投資家や401(k)や年金基金に利益をもたらした。報奨金もアップルの労働者を豊かにした。昨年度、アップルの従業員や役員は、給与に加えて、20億ドル相当の株式を受け取り、それに加えて14億ドル相当のストック・オプションンを行使したり発行させた。
しかし最大の報酬はアップルの経営陣に与えられた。アップルのトップであるクック氏は、昨年、今日の株価に直すと、4億2700万ドルに相当する――10年にわたって発行可能な――ストック・オプションを受け取り、彼の年収は140万ドルに引き上げられた。2010年に、クック氏の報酬パッケージは、アップル社の有価証券報告書によると、5900万ドルとなっていた。
アップル社に近いある人は、同社の幹部が受け取る報酬は公正なものだ、同社はそれだけ多くの価値をアメリカや世界にもたらしたのだからと主張した。会社の規模が大きくなるにつれて、アップル社は、製造業の職を含め、国内の労働人口を拡大してきた。昨年、アップル社が雇うアメリカ人の労働者は8000人も増加したのだ。
他の企業はコールセンターを海外に移転したが、アップル社はコールセンターをアメリカに留めている。ある消息筋の試算では、アップル社の製品の売り上げのおかげで、別の企業は何万人もの米国人を雇うことができたのだそうだ。たとえば、フェデックスやユナイテッド・パーセル・サービスは、両社ともアップル製品の出荷量の増大のおかげでアメリカ人のための職を創出できたと述べている。もっとも、両社ともアップル社からの許可なしに具体的な数字を挙げるわけにはいかないとして、数字の提供を拒んだのであるが。
「中国人労働者を使用しているという理由でわが社が批判されるいわれはありませんよ」とアップル社の現役幹部は述べた。「アメリカは、われわれが必要としているスキルをもった人々を輩出するのを止めてしまったのです」。
さらに、アップル社のある事情通は、同社は小売店の内部や、iPhoneやiPadのアプリケーションを売りこむ企業家の間に、大量で良質のアメリカ人の職を生み出した、と言う。
2ヶ月間iPadの検査の仕事をした後、サラゴサ氏は仕事を辞めた。賃金がとても低いので、職探しにその時間を使う方がましだろうと考えたからだ。最近の10月のある晩、サラゴサ氏がMacBookに向かって座りオンラインで履歴書を出していたとき、地球を半周したところで、ある女性が自分の事務所に到着した。彼女はリナ・リンといい、中国の深浅にあるPCHインターナショナルのプロジェクト・マネージャーだ。同社は、アップルや別のエレクトロニクスの企業と契約し、iPadのガラス製のスクリーンを保護するケースのようなアクセサリー部品の生産をコーディネイトする会社だ。彼女はアップル社の従業員ではない。しかし、リナ・リンは、アップル社の製品供給能力にとって無くてはならない存在なのである。
リナ・リンの給料は、サラゴサ氏がアップルから支払われた額よりも少し低い。彼女は流暢な英語を話すが、それはテレビを見たり中国の大学で学んだものだ。彼女と彼女の夫は毎月給与の4分の1を銀行に預けている。彼らは約100平方メートルのアパートに住んでいて、義理の息子と共有している。
「仕事はたくさんありますよ」とリン夫人は言った。「特に深圳ではね」。
技術革新の敗者たち
ジョブズ氏や他のシリコン・バレーの幹部たちと昨年オバマ氏が開いたディナーの終わりごろ、皆が帰るために立ちあがったとき、大統領の周りには一緒に写真に写ろうとする人の群れができた。ジョブズ氏の周りにも、それよりわずかに小さいスクラムができた。彼の病状が悪化しているという噂が広がっていて、彼と一緒の、恐らくは最後の、写真を希望する者がいたのだ。
(6ページ終わり)
最後には、人々の軌道が重なり合った。「私はこの国の長期的な将来については心配していませんよ」と、ある観察者によると、ジョブズ氏はオバマ氏に語ったそうだ。「この国はめちゃくちゃ偉大だ。私が心配しているのは、私たちが解決策について十分話し合っていないことなのです」。
たとえば、ディナーでは、企業幹部たちは、政府は、企業が外国人のエンジニアを雇いやすくするためにビザのあり方を改革するように提案した。海外で得た利益を本国に持ち帰って、雇用を生み出すためにその利益を使えるように、企業に「免税期間(tax holiday)」を与えてはどうかと、大統領に勧める幹部もいた。ジョブズ氏も、政府がもっと多くのアメリカ人エンジニアの職業訓練を支援するならば、アップル社の熟練技術の要る製造工場のいくつかをアメリカに設置することも、いつの日か可能になるだろうと述べた。
経済学者は、こうした努力がどれほど有用であるかを議論しているし、低迷する経済が時には予想外の進展によって変貌することもあることに注目している。たとえば、前回高い失業率が長びきアナリストたちが気をもんだ1980年代初頭には、インターネットはほとんど存在しなかった。あの当時、グラフィック・デザインの学位が急速に有望株になる一方で、電話修理の勉強が終りになると推測していた人はほとんどいなかっただろう。
しかし、明日に起こるかもしれない技術革新をアメリカが利用して何百万人分もの雇用を生み出せるかどうかは、やはり判らない。
この10年間、太陽エネルギーや風力エネルギー、半導体製造やディスプレイ技術における技術力の飛躍は何千もの雇用を生み出してきた。しかし、これらの産業の多くはアメリカで始まったものだが、雇用の多くが発生したのは海外だった。企業は、アメリカの巨大な工場施設を閉鎖し、中国で再開した。企業の幹部たちは、こうした事情を説明するために、株主のためにアップル社と競争しているのだ、と言う。アップル社の成長と利益率に匹敵できなければ、生き残っていけないと彼らは言うのだ。
「新たな中流階級のための職がいずれは登場するでしょう」とハーバード大学の経済学者のローレンス・カッツは言った。「しかし、40代の人がそうした職に相応しいスキルを持っているだろうか? それとも、40代の人間は、新しい大卒に追い抜かれてしまって、もう二度と元の中流階級に戻れないのだろうか?」。
技術革新のペースはジョブズ氏のようなビジネスマンによって加速してしまった、とさまざまな業界の幹部たちは言う。GMは、大きなモデル・チェンジをするのに5年もかけた。対照的に、アップルは、ある種の消費者が支払う価格を下げる一方でデバイスの速度とメモリを倍増させながら、4年間に5台のiPhoneをリリースしたのだ。
オバマ氏とジョブズ氏が別れを告げる前に、アップルの幹部がポケットからiPhoneを引っ張り出して、信じられないほど繊細なグラフィックスの新しいアプリケーション――ドライブのゲームだった――を披露した。そのiPhoneは、部屋の照明の柔らかな輝きを反映していた。別の幹部たち、その価値の合計が690億ドルを超える幹部たちは、われ先に争って肩越しに一目見ようとした。そのゲームが素晴らしいものであることに、誰もが同意した。
そのスクリーンには、わずかな傷が一つもなかったのである。
」(おわり)
さて、この記事の最後は、ハッピーな気分で終わっている。亡くなったジョブズ氏追悼の意味もあるだろう、少しエモーショナルな終わり方だ。
しかし、終わり近くに掲げられた重大な問いは、問いのまま放置されている。つまり、かりに技術革新が近いうちに起きたとしても、かつて中流に所属していた人間は「もう二度と元の中流階級に戻れないのだろうか?」という問いだ。たぶん、この問いは、「中流階級は永久に消滅してしまったのか?」と言い換えられるかもしれない。
この問いかけは答えられずに放置されているが、たぶん、それには「イエス」という答えしかない。それがこの記事の言外に込められているメッセージだろう。記事中のあのサラゴサ氏が、また浮上することがあるだろうか? そんなことは、ありそうにもない、そんな書き方だ。かつてアメリカの大部分を占めていた中間層は分裂し、ごくごく一部はアップルの幹部のようになるだろうが、大部分にとってはサラゴサ氏のような運命が待ちかまえているのである。
かりに技術革新が起きたとしても、その商品の製造はすべてアジアに行ってしまうだろう。もはや、製造業のそうしたトレンドは変えられないほど、アジアへのシフトは世界経済の構造そのものと化してしまったようだ。しかし、アメリカの中間層にとって製造業が雇用の柱を提供していたのだから、製造業が復活できなければ中間層の復活もありえないのは当然のことだ。
折しも、オバマ大統領が中間層の復活を1月24日の一般教書演説でぶち上げたばかりだ。それは確かに緊急の課題に応えるタイムリーな政策発表だった。 しかし、この記事が言うように、アジアに持っていかれた製造業をアメリカに呼び戻すには世界経済の構造の大転換が必要であるはずで、そんなことはアメリカの大統領でも恐らくは無理な仕事であると思えるのだ。
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=5&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=6&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=7&_r=1
「
どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(3)
「わが社の顧客は台湾、韓国、日本、中国にいますよ」とコーニング社の副会長兼最高財務責任者(CFO)のジェームズ・B.フローズは語った。「アメリカでガラスを作って船で運ぶこともできますが、35日もかかりますからね。飛行機で出荷することもできるでしょうが、10倍も高くつきます。だからガラス工場は組み立て工場の隣に建てることになり、どちらも海外にある、ということになるわけです」。
コーニング社は161年前にアメリカで設立され、本社はまだニューヨーク州北部にある。理論的に言えば、同社は国内ですべてのガラスを製造できる。しかし、そうするには「業界の構造の全面的な見直しが必要でしょうね」とフローズ氏は言った。「家庭用電化製品の業界はアジアのビジネスになってしまいましたね。アメリカ人としてはそれが気懸りですが、私がどうにかできることではありませんからね。アジアは、この40年間のアメリカにとって代ったのです」。
中流階級の職が消えていく
エリック・サラゴサがカリフォルニア州のエルク・グローブにあるアップル社の製造工場に初めて足を踏み入れたとき、彼はまるでエンジニアのワンダーランドに入り込んだような気分になったものだった。
それは1995年のことで、サクラメントの近くにあるその施設には1500人以上の従業員がいた。それは、ロボットアームや回路基板を運ぶベルト・コンベアや、最後には、組み立てラインの様々な段階にあるカラフルなiMacなどからなる万華鏡だった。サラゴサ氏はエンジニアだったが、すぐに工場でのランクを上げ、エリート集団である診断チームの一員になった。年収は5万ドルに上昇した。彼と彼の妻は3人の子供をもうけた。彼らはプール付きの家を買った。
「ついに、学校に行った甲斐があったと感じましたよ」と彼は言った。「世界はモノ作りができる人間を必要としているのだと判ったのです」。
しかし、それと同じ頃、エレクトロニクス業界は変化していたし、そしてアップル社も――人気に陰りがでていた商品とともに――立て直しに苦労していた。焦点の一つは製造過程の改善だった。サラゴサ氏が職についた数年後、彼の上司が、カリフォルニア州の工場が海外工場と比べてどうなのかを説明してくれたことがあった。材料費を別にするならば、エルク・グローブで1500ドルのコンピュータを製造するコストは、マシン一台当たり22ドルだった。シンガポールでは6ドル、台湾では4.85ドルだった。こうした差がどうして出るのか、その大きな理由は賃金ではなかった。むしろ、在庫のコストや、労働者が一つの仕事を果たすのにかかる時間などが大きかったのだ。
「1日12時間仕事をして土曜も来なければならない、と僕たちは言われましたよ」とサラゴサ氏は言った。「僕には家族がいたし、子供たちがサッカーするのを見たかったんですけどね」。
近代化はいつも、ある種の仕事が変化したり消えたりするのを引き起こしてきた。アメリカの経済が農業から製造業に移行し、さらに別の産業へと移行したとき、農民は鉄鋼所の労働者になり、さらにセールスマンや中間管理職に変わった。こうした変貌は多くの経済的な恩恵をもたらしたし、一般的に言えば、進歩するたびごとに、スキルのない労働者であっても、よりよい賃金と社会の上層に昇るチャンスが広がっていった。
しかし、この20年間というもの、もっと根本的なものが変わってしまった、と経済学者たちは言う。中位の賃金の仕事(midwage jobs)が消滅し始めたのだ。特に大学の学位のないアメリカ人にとって、今日の新しい職は著しくサービス業に偏っている――レストランやコール・センターの仕事だったり、病院の付き添い係や派遣労働者などだが――が、そうした仕事についても、中流階級に到達できる見込みは、かつてほどではなくなっている。
学位をもっているサラゴサ氏でさえ、こうしたトレンドに対して無傷ではいられなかった。まず、エルク・グローブの日常的な業務のいくつかが海外に移管された。サラゴサ氏は気にもとめなかった。その後、アップル社の工場を未来の遊び場のようにしたロボット工学の進展のおかげで、幹部は労働者を機械に換えることができた。診断技術のいくつかはシンガポールに行ってしまった。工場の在庫を管理していた中間管理職たちが解雇されたが、それは、突然、インターネットで接続するわずかな人しか必要でなくなったからである。
サラゴサ氏は未熟練労働者としてのポジションにいる者としてはあまりに高給取りだった。それに上級管理職になるには十分な資格がなかった。彼は2002年の夜間勤務の後小さなオフィスに呼び出され、解雇を告げられ、工場から閉め出された。彼はしばらくの間、高校で教えた後で、製造業に復帰しようと試みた。しかし、アップル社は、かつてはその一帯が「シリコン・バレー・ノース(Silicon Valley North)」として聖地扱いされることに寄与したものだったが、その頃になるとエルク・グローブの工場の大半は「アップル・サポート(AppleCare)」のコール・センターに変わってしまっていたし、そこで新しい従業員は時給12ドルで働くこともあったのである。
(5ページ終わり)
シリコン・バレーで職を見つけられる見込みはあったのだが、しかしどれも上手くいかなかった。「本当に求人があるのは、30歳で子供なしのような人間なんです」とサラゴサ氏は言った。彼は現在48歳で、5人の子供がいるのだ。
数ヶ月間職探しをした後で、彼は行きづまりを感じ始めた。教職の仕事もなくなっていた。そこで彼は、アップル社の専属の電子機器の派遣会社に籍を置き、返品されたiPhoneやiPadを、顧客に送り返す前にチェックする仕事についた。毎日、サラゴサ氏は、かつてエンジニアとして働いていたビルに車で出かけ、福祉手当のない時給10ドルで、何千というガラス製のスクリーンを磨いたり、ヘッドホンを差し込んでオーディオ・ポートの検査をしたりしているのである。
アップルにとっての給料日
アップル社の海外事業と販売が拡大するにつれ、トップの経営陣は潤った。昨年度、Appleの売上高は1080億ドルを超えたが、これはミシガン州とニュージャージー州とマサチューセッツ州の州予算を合計した額よりも大きい数字だ。株式分割をした2005年以降、同社の株価は約45ドルから427ドル超にまで跳ね上がった。
その富の一部は株主のもとに行った。アップル社は最も幅広く保有されている株の一つで、株価の上昇は、何百万といる個人投資家や401(k)や年金基金に利益をもたらした。報奨金もアップルの労働者を豊かにした。昨年度、アップルの従業員や役員は、給与に加えて、20億ドル相当の株式を受け取り、それに加えて14億ドル相当のストック・オプションンを行使したり発行させた。
しかし最大の報酬はアップルの経営陣に与えられた。アップルのトップであるクック氏は、昨年、今日の株価に直すと、4億2700万ドルに相当する――10年にわたって発行可能な――ストック・オプションを受け取り、彼の年収は140万ドルに引き上げられた。2010年に、クック氏の報酬パッケージは、アップル社の有価証券報告書によると、5900万ドルとなっていた。
アップル社に近いある人は、同社の幹部が受け取る報酬は公正なものだ、同社はそれだけ多くの価値をアメリカや世界にもたらしたのだからと主張した。会社の規模が大きくなるにつれて、アップル社は、製造業の職を含め、国内の労働人口を拡大してきた。昨年、アップル社が雇うアメリカ人の労働者は8000人も増加したのだ。
他の企業はコールセンターを海外に移転したが、アップル社はコールセンターをアメリカに留めている。ある消息筋の試算では、アップル社の製品の売り上げのおかげで、別の企業は何万人もの米国人を雇うことができたのだそうだ。たとえば、フェデックスやユナイテッド・パーセル・サービスは、両社ともアップル製品の出荷量の増大のおかげでアメリカ人のための職を創出できたと述べている。もっとも、両社ともアップル社からの許可なしに具体的な数字を挙げるわけにはいかないとして、数字の提供を拒んだのであるが。
「中国人労働者を使用しているという理由でわが社が批判されるいわれはありませんよ」とアップル社の現役幹部は述べた。「アメリカは、われわれが必要としているスキルをもった人々を輩出するのを止めてしまったのです」。
さらに、アップル社のある事情通は、同社は小売店の内部や、iPhoneやiPadのアプリケーションを売りこむ企業家の間に、大量で良質のアメリカ人の職を生み出した、と言う。
2ヶ月間iPadの検査の仕事をした後、サラゴサ氏は仕事を辞めた。賃金がとても低いので、職探しにその時間を使う方がましだろうと考えたからだ。最近の10月のある晩、サラゴサ氏がMacBookに向かって座りオンラインで履歴書を出していたとき、地球を半周したところで、ある女性が自分の事務所に到着した。彼女はリナ・リンといい、中国の深浅にあるPCHインターナショナルのプロジェクト・マネージャーだ。同社は、アップルや別のエレクトロニクスの企業と契約し、iPadのガラス製のスクリーンを保護するケースのようなアクセサリー部品の生産をコーディネイトする会社だ。彼女はアップル社の従業員ではない。しかし、リナ・リンは、アップル社の製品供給能力にとって無くてはならない存在なのである。
リナ・リンの給料は、サラゴサ氏がアップルから支払われた額よりも少し低い。彼女は流暢な英語を話すが、それはテレビを見たり中国の大学で学んだものだ。彼女と彼女の夫は毎月給与の4分の1を銀行に預けている。彼らは約100平方メートルのアパートに住んでいて、義理の息子と共有している。
「仕事はたくさんありますよ」とリン夫人は言った。「特に深圳ではね」。
技術革新の敗者たち
ジョブズ氏や他のシリコン・バレーの幹部たちと昨年オバマ氏が開いたディナーの終わりごろ、皆が帰るために立ちあがったとき、大統領の周りには一緒に写真に写ろうとする人の群れができた。ジョブズ氏の周りにも、それよりわずかに小さいスクラムができた。彼の病状が悪化しているという噂が広がっていて、彼と一緒の、恐らくは最後の、写真を希望する者がいたのだ。
(6ページ終わり)
最後には、人々の軌道が重なり合った。「私はこの国の長期的な将来については心配していませんよ」と、ある観察者によると、ジョブズ氏はオバマ氏に語ったそうだ。「この国はめちゃくちゃ偉大だ。私が心配しているのは、私たちが解決策について十分話し合っていないことなのです」。
たとえば、ディナーでは、企業幹部たちは、政府は、企業が外国人のエンジニアを雇いやすくするためにビザのあり方を改革するように提案した。海外で得た利益を本国に持ち帰って、雇用を生み出すためにその利益を使えるように、企業に「免税期間(tax holiday)」を与えてはどうかと、大統領に勧める幹部もいた。ジョブズ氏も、政府がもっと多くのアメリカ人エンジニアの職業訓練を支援するならば、アップル社の熟練技術の要る製造工場のいくつかをアメリカに設置することも、いつの日か可能になるだろうと述べた。
経済学者は、こうした努力がどれほど有用であるかを議論しているし、低迷する経済が時には予想外の進展によって変貌することもあることに注目している。たとえば、前回高い失業率が長びきアナリストたちが気をもんだ1980年代初頭には、インターネットはほとんど存在しなかった。あの当時、グラフィック・デザインの学位が急速に有望株になる一方で、電話修理の勉強が終りになると推測していた人はほとんどいなかっただろう。
しかし、明日に起こるかもしれない技術革新をアメリカが利用して何百万人分もの雇用を生み出せるかどうかは、やはり判らない。
この10年間、太陽エネルギーや風力エネルギー、半導体製造やディスプレイ技術における技術力の飛躍は何千もの雇用を生み出してきた。しかし、これらの産業の多くはアメリカで始まったものだが、雇用の多くが発生したのは海外だった。企業は、アメリカの巨大な工場施設を閉鎖し、中国で再開した。企業の幹部たちは、こうした事情を説明するために、株主のためにアップル社と競争しているのだ、と言う。アップル社の成長と利益率に匹敵できなければ、生き残っていけないと彼らは言うのだ。
「新たな中流階級のための職がいずれは登場するでしょう」とハーバード大学の経済学者のローレンス・カッツは言った。「しかし、40代の人がそうした職に相応しいスキルを持っているだろうか? それとも、40代の人間は、新しい大卒に追い抜かれてしまって、もう二度と元の中流階級に戻れないのだろうか?」。
技術革新のペースはジョブズ氏のようなビジネスマンによって加速してしまった、とさまざまな業界の幹部たちは言う。GMは、大きなモデル・チェンジをするのに5年もかけた。対照的に、アップルは、ある種の消費者が支払う価格を下げる一方でデバイスの速度とメモリを倍増させながら、4年間に5台のiPhoneをリリースしたのだ。
オバマ氏とジョブズ氏が別れを告げる前に、アップルの幹部がポケットからiPhoneを引っ張り出して、信じられないほど繊細なグラフィックスの新しいアプリケーション――ドライブのゲームだった――を披露した。そのiPhoneは、部屋の照明の柔らかな輝きを反映していた。別の幹部たち、その価値の合計が690億ドルを超える幹部たちは、われ先に争って肩越しに一目見ようとした。そのゲームが素晴らしいものであることに、誰もが同意した。
そのスクリーンには、わずかな傷が一つもなかったのである。
」(おわり)
どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(2) [海外のニュース記事]
前回に引き続き、『ニューヨーク・タイムズ』の記事の2ページから4ページの部分を紹介する。はじめはアメリカでの工場生産に誇りを感じていたアップル社が、どうして中国に生産の軸足を移していったか、そのプロセスが簡潔に描かれている。
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=2&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=3&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=4&_r=1
「 どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(2)

リナ・リンは、アップルと契約しているPCHインターナショナルのプロジェクト・マネージャだ。「仕事はたくさんあります」と彼女は言った。「特に深圳ではね」。
企業や別の経済学者は、そんな考え方は単純すぎると言う。アメリカの労働者の教育水準は世界で最も高いレベルにあるが、国は、工場が必要とするような中間レベルのスキルを十分多くの国民に授けることを止めてしまった、と企業幹部たちは言う。
繁栄するために、企業は技術革新のための費用を払いつづけるのに十分なほどの利益を生み出せる場所に工場を移転する必要があると、企業側は主張する。そうしなければ、長期的にはさらに多くのアメリカ人の仕事を失うことにつながるのであって、そのことは、かつては誇り高かった国内メーカーの多く――GMなどを含む――が、 機動力のある競合他社の出現以降、縮小してしまったことが証明しているではないか、というわけだ。
アップル社には、この記事のためにニューヨーク・タイムズが作成したレポートの長大な要約を渡しておいたのだが、秘密主義で有名な同社はコメントを拒否した。
この記事は、経済学者、製造業の専門家、国際貿易の専門家、技術アナリスト、大学の研究者、アップル製品の供給業者、競合他社、パートナー企業、および政府関係者だけでなく、40名近いアップルの従業員と請負業者――現役および元職を含むが、その多くは自分の職を守るために名前を伏せるよう求めた――とのインタビューに基づいている。
アップル社の幹部たちは、世界は今やとても変化してしまったので、一企業の貢献を、たんにその従業員数を数えることによって測るのは間違っていると、個人的な会話では述べる――もっとも、アップル社は、かつてないほどアメリカ人の労働者を雇っていますよ、と彼らは付け加えてはするのだが。
アップル社の成功は、起業家に活力を与え、携帯電話プロバイダのような企業やアップル製品を出荷する会社に職を生み出すことで産業界に恩恵を与えたではないか、と幹部たちは言う。そして最後には、失業を改善することは自分たちの仕事ではない、と彼らは言うのだ。
「われわれは、百カ国以上でiPhoneを販売しています」とアップル社の現役幹部は述べた。「われわれにはアメリカの問題を解決する義務はありませんよ。われわれの唯一の義務は、可能な限り最高の製品を作ることですからね」。
「ガラス製のスクリーンが欲しいんだ」
2007年、iPhoneが店頭に並ぶ予定の一月ちょっと前のこと、ジョブズ氏は一握りの部下をオフィスに呼び寄せた。何週間もの間ずっと、彼はiPhoneの試作機をポケットに忍ばせていた。
その会合に出席した人によると、ジョブズ氏は怒りにみちた表情でiPhoneを取り出し、そのプラスチック製のスクリーンにできた何十という小さな傷が皆に見えるように、iPhoneを高く掲げた。それから彼はジーンズからキーを引っぱりだした。
みんなこの携帯電話をポケットに入れるだろう、と彼は言った。キーだってポケットに入れるだろう。「僕はひっかき傷ができるような製品を売りたくないんだ」と彼は語気を強めて言った。唯一の解決策は傷ができないようなガラスを使うことだった。「ガラス製のスクリーンが欲しいんだ、しかも6週間で完璧なやつを」。
ある幹部は、その会合を終えた後、中国の深圳行きの航空券を予約した。ジョブズ氏が完璧なものを求めているならば、深圳以外に行く場所はなかった。
2年以上にわたり、同社は、事あるごとに同じ問題を突きつけるあるプロジェクト――コードネームは「パープル2(Purple2)」――に取り組んでいた。その同じ問いとは、「どうしたら携帯電話を根底から考え直せるか?」という問いだった。そして、何百万台もの製品がすばやく、十分な利益をあげられるほど安価に製造できるようにしながら、「どうすれば最高の品質の設計になるのか」――例えば、傷のつかないスクリーンに関して――という問いだった。
それらの問いに対する答えは、ほとんど何時も、アメリカ以外の場所で発見された。部品はバージョン間で異なるものの、すべてのiPhoneには数百ものパーツが含まれていて、その推定90パーセントが海外で製造されている。最先端の半導体はドイツと台湾から、メモリは韓国と日本から、ディスプレイ・パネルと電気回路は韓国と台湾から、チップセットはヨーロッパから、希少金属はアフリカとアジアからやって来る。そしてそれらのすべては中国で組み立てられるのだ。
初期のころ、アップル社は、製造に関する問題を解決するために自社の裏庭の彼方に目をやることはなかった。例えば、アップル社が1983年にマッキントッシュを作り始めた数年後に、ジョブズ氏は、マッキントッシュが「アメリカで作られたマシン」であることを自慢していた。 1990年、ジョブズ氏が最終的にアップルに買収されることになるNeXTの経営にあたっていた頃、彼はあるレポーターに「僕はコンピュータと同様に工場のことも誇りに思っています」と語っていた。2002年の頃になっても、アップル社のトップ幹部たちは、本社の北東に2時間ほど車を走らせて、カリフォルニア州のエルク・グローブにあるiMacの工場をしばしば訪れたものだった。
しかし2004年ごろまでに、アップル社はほとんどを海外生産に切りかえていた。その意思決定を主導していたのは、アップル社のオペレーション担当のティモシー・D.クックだった。彼は、昨年8月、ジョブズ氏の死の六週間前にCEOとしてジョブズ氏の後任になった人だ。アメリカの他のエレクトロニクス企業のほとんどはすでに海外移転に踏み切っていて、当時、苦戦していたアップル社は、どんなアドバンテージでも手に入れなければならないと感じていた。
アジアが魅力的だったのは、ある意味で、アジアの半熟練労働者が安価だったからだ。しかし、アップル社をアジアに駆り立てたのはその点ではなかった。テクノロジーの企業にとっては、労働力のコストは、部品を購入したり(数百社からのコンポーネントやサービスをまとめあげる)サプライ・チェーンを管理する費用と比べると大したものではないからである。
(2ページ終わり)
クック氏にとって、なぜアジアに注目するのかの理由は「二つの点に帰着しました」と元アップル社の上級幹部は述べた。アジアの工場は「規模のアップ・ダウンが素早くできる」うえ、「アジアのサプライ・チェーンはアメリカのそれを凌駕してしまった」という二点だ。その結果「現時点でわれわれは太刀打ちできなくなっているのです」とその幹部は言うのだった。
このアドバンテージの効果は、ジョブズ氏が2007年にガラス製のスクリーンを要求するやいなや明らかになった。
長年にわたり、携帯電話メーカーはガラスの使用を避けていたのだが、それは、実行がきわめて難しい研磨の精度が求められたからだ。アップル社は、大きな強化ガラスを製造するためにアメリカのコーニング社(Corning Inc)を選んでいた。しかし、巨大なガラスを何百万ものiPhoneのスクリーンに切り分ける方法を考えているうちに、空の切削工場を一つと、実験に使用する何百というガラス片と中間レベルのエンジニアが大勢必要であることがわかった。準備するだけでも莫大な金がかかるだろう。
そのとき、その仕事に対する入札の申し出が中国の工場からやってきた。
アップルのチームが訪れたとき、中国の工場のオーナーは新たな作業棟を建設している最中だった。アップルの元幹部によると、「私たちに契約を与えてくれる場合に備えて、工事をしているのです」とマネージャーは言ったそうだ。中国政府は多くの産業に対してコストを肩代わりすることに合意していたし、そうした補助金はそのガラス研磨工場にまで行き渡っていた。その工場には、アップルが無料で使用できるガラスのサンプルで満杯の倉庫があった。オーナーたちはエンジニアをほとんどノーコストで使わせた。彼らは、従業員を1日24時間利用できるよう工場内に宿舎を建てた。
こうして中国のその工場が仕事を得たのだ。
「今ではサプライ・チェーンのすべてが中国にあります」と別の元アップルの上級幹部は述べた。「ラバーのパッキンが1000個必要だって? それは隣の工場に行けばいい。ネジが百万個必要だって? その工場は1ブロック先にあるよ。ちょっと違った作りのネジが必要だって? 3時間かかるよ。まあ、そんな具合ですからね」。
フォックスコン・シティーにて
そのガラス工場から車で8時間のところに、非公式にはフォックスコン・シティー(Foxconn City)として知られている生産拠点があり、そこでiPhoneは組み立てられている。アップル社の幹部にとって、 フォックスコン・シティーは、中国がアメリカの労働者よりも優れた労働者――と勤勉さ――を提供できるということを示すさらなる証拠となった場所だ。
それは、フォックスコン・シティーに似たような場所がアメリカには存在しないからである。
この施設には23万人もの従業員がいて、その多くは週に6日働き、工場で1日12時間過ごすこともしばしばだ。フォックスコンの労働力の4分の1以上は会社のバラックで暮らし、多くの労働者の稼ぎは一日17ドル足らずだ。あるアップルの幹部がシフト交代時に到着したとき、彼の車は大河のように通り過ぎる従業員の流れにつかまり立ち往生してしまった。「あのスケールは想像を絶するものだった」と彼は述べた。
フォックスコンは、労働者が出入り口に殺到して押しつぶされないように、歩行者を誘導する警備員を約300人雇っている。施設のセントラル・キッチンは一日平均3トンの豚肉と13トンのコメを調理する。工場にはチリ一つ落ちていないが、近くの喫茶店の空気はタバコの煙と悪臭でむっとするほどだ。
フォックスコン・テクノロジー社は、アジアと東欧、メキシコとブラジルに数十もの施設をもっていて、世界の民生用電子機器の推定で40%を組み立ている。アマゾン、デル、ヒューレット・パッカード、モトローラ、任天堂、ノキア、サムスン電子、ソニーといった企業が顧客となっている。
「彼らは一晩で3000人を雇い入れることができるでしょうね」。そう語るのは2010年までアップルの世界的な需給マネージャーだったジェニファー・リゴーニ。彼女は自分の仕事の詳細について語り合うのを拒んだ。「アメリカのどこの工場が一晩で3000人も見つけてきて、彼らに宿舎で暮らすように説き伏せられますか?」。
2007年の半ばに、試行実験が始まって一月が経った頃、アップルのエンジニアたちはiPhoneのスクリーンに使用できるように強化ガラスをカットする方法をついに完成させた。カットされたガラスを載せた最初のトラックは、アップルの元幹部によると、真夜中にフォックスコン・シティーに到着した。そのときマネージャーたちは何千という労働者をたたき起こした。労働者たちは這ってユニフォームの場所にたどり着き――男性は白と黒のシャツ、女性は赤のシャツ――、そしてすぐに生産ラインに座り、携帯電話を手で組み立て始めた。3ヶ月間で、アップルは100万台のiPhoneを販売した。それ以来、フォックスコンは2億台以上ものiPhoneを組み立てた。
フォックスコンは、声明を出して、特定の顧客について語ることは拒否すると述べた。
(3ページ終わり)
「わが社によって採用されたいかなる労働者も、契約条件の概要を記す明確な契約書と、労働者の人権を保護する中国政府の法律によって保護されています」と同社は書簡に記した。ファックスコン社は「従業員に対する責任を非常に重く受けとめており、100万人以上もいる従業員に安全で明るい環境を与えるためにわが社は全力を尽くしています」。
同社は、元アップル幹部の説明の細かな点のいくつかに異議を唱え、上に記したような真夜中のシフトなどあり得ないと書いてきた。なぜなら「わが社には、従業員の労働時間に関しては指定されたシフト時間に基づいた厳密な規則があり、すべての従業員はコンピュータ化されたタイム・カードをもっているため、容認されたシフト時間外ではどんな施設で働くことも禁じられているからです」。会社によると、すべてのシフト時間は午前7時か午後7時に始まり、スケジュールにどんな変更があっても、従業員には少なくとも12時間の告知期間が与えられることになっているそうだ。
インタビューでは、そうした会社側の言い分に異議を唱えるファックスコン従業員もいた。
アップルにとってのもう一つの重要なアドバンテージは、中国がアメリカには敵わないようなスケールでエンジニアを提供できる、ということだった。アップルの幹部の見積もりでは、iPhoneの製造にかかわる20万人の組立てラインの労働者を監視・監督するには、約8700人の生産技術者が必要だった。同社のアナリストは、アメリカで優秀なエンジニアをそれほどの人数見つけるには9カ月もかかるだろうと予想していた。
しかし、中国で要した日数は15日だった。
アップルのような企業は「アメリカで工場を立ち上げる際の難題は、技術的な労働力を見つけることであると言っていますね」。そう語るのは、マサチューセッツ工科大学の副学長のマーティン・シュミット。特に、企業は、学士をもっていなくてもいいが、高卒以上のエンジニアを必要としているという。それ位のスキル・レベルのあるアメリカ人を見つけるのは難しいことだと企業の幹部は主張する。「エンジニアは良い仕事なんだが、わが国にはそうした需要に応える十分な人材がいないのです」とシュミット氏は言った。
iPhoneのいくつかの側面はアメリカならではのものだ。たとえば、デバイスのソフトウェアや革新的なマーケティング・キャンペーンは、そのほとんどがアメリカで生み出されたものだ。アップルは最近ノースカロライナに5億ドルをかけてデータセンターを建設した。iPhone4とiPhone4S内部にある重要な半導体は、テキサス州オースティンにある、韓国のサムスン社の工場で製造されている。
しかし、これらの施設は大きな雇用を生み出すものではない。たとえば、アップルのノース・カロライナのデータ・センターにフルタイムの従業員は100名しかいない。サムスンの工場にいるのは推定で2400人の労働者だ。
「携帯電話の売り上げが100万台から3000万台に伸びたとしても、プログラマーを増やす必要はありませんよね」。そう言うのは、1990年に去るまでアップルの製品開発とマーケティングを監督していたジャン=ルイ・ガッセ。「新しい会社――FacebookやGoogleやTwitterなども――こうしたことから恩恵を得ているのです。こうした会社は成長しても、雇用を増やす必要はないのです」。
アメリカでiPhoneの工場を建設するとしたら、中国に建設するのと比べてさらにどれくらい多くのコストがかかるかを試算するのは難しい。しかし、色々な学者や製造アナリストの試算によれば、労働力はハイテク製造のごく一部にすぎないので、アメリカ人に賃金を支払ったとしてもiPhone1台のコストには65ドルの上乗せがあるだけだろう。アップルの利益は電話一台当たり数百ドルなので、アメリカ国内に工場を作ったとしても、理論的には、アップル社にはほどほどの利益が残ることになるだろう。
しかし、このような計算は、多くの点で無意味である。アメリカでiPhoneの工場を作るとすれば、アメリカ人を雇うことよりもずっと多くのことが必要とされるからである――それには、国内経済や世界経済を転換させることが必要とされるだろう。アップル社の幹部は、彼らが必要とするスキルをもつ十分な数のアメリカ人は存在しないし、十分なスピードと柔軟性をもつ工場も存在しないと考えている。アップル社と協働しているコーニング社のような会社でも、海外に行かなければならないと言っているのだ。
iPhone用のガラスを製造したおかげで、ケンタッキーにあるコーニング社は息を吹き返し、今日でも、iPhoneのガラスの多くは依然としてそこで作られている。iPhoneがヒットして以降、コーニング社は、アップルのデザインを模倣しようと望む別の企業から洪水のような注文を受けた。その強化ガラスの売上高は1年で7億ドル以上に成長し、新規の需要を支えるために約1000人のアメリカ人を雇用するか、従業員として使い続けている。
しかし、需要が拡大するにつれて、コーニング社の強化ガラスの製造の多くは、日本と台湾の工場で行われるようになった。
」(つづく)
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=2&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=3&_r=1
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html?pagewanted=4&_r=1
「 どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(2)

リナ・リンは、アップルと契約しているPCHインターナショナルのプロジェクト・マネージャだ。「仕事はたくさんあります」と彼女は言った。「特に深圳ではね」。
企業や別の経済学者は、そんな考え方は単純すぎると言う。アメリカの労働者の教育水準は世界で最も高いレベルにあるが、国は、工場が必要とするような中間レベルのスキルを十分多くの国民に授けることを止めてしまった、と企業幹部たちは言う。
繁栄するために、企業は技術革新のための費用を払いつづけるのに十分なほどの利益を生み出せる場所に工場を移転する必要があると、企業側は主張する。そうしなければ、長期的にはさらに多くのアメリカ人の仕事を失うことにつながるのであって、そのことは、かつては誇り高かった国内メーカーの多く――GMなどを含む――が、 機動力のある競合他社の出現以降、縮小してしまったことが証明しているではないか、というわけだ。
アップル社には、この記事のためにニューヨーク・タイムズが作成したレポートの長大な要約を渡しておいたのだが、秘密主義で有名な同社はコメントを拒否した。
この記事は、経済学者、製造業の専門家、国際貿易の専門家、技術アナリスト、大学の研究者、アップル製品の供給業者、競合他社、パートナー企業、および政府関係者だけでなく、40名近いアップルの従業員と請負業者――現役および元職を含むが、その多くは自分の職を守るために名前を伏せるよう求めた――とのインタビューに基づいている。
アップル社の幹部たちは、世界は今やとても変化してしまったので、一企業の貢献を、たんにその従業員数を数えることによって測るのは間違っていると、個人的な会話では述べる――もっとも、アップル社は、かつてないほどアメリカ人の労働者を雇っていますよ、と彼らは付け加えてはするのだが。
アップル社の成功は、起業家に活力を与え、携帯電話プロバイダのような企業やアップル製品を出荷する会社に職を生み出すことで産業界に恩恵を与えたではないか、と幹部たちは言う。そして最後には、失業を改善することは自分たちの仕事ではない、と彼らは言うのだ。
「われわれは、百カ国以上でiPhoneを販売しています」とアップル社の現役幹部は述べた。「われわれにはアメリカの問題を解決する義務はありませんよ。われわれの唯一の義務は、可能な限り最高の製品を作ることですからね」。
「ガラス製のスクリーンが欲しいんだ」
2007年、iPhoneが店頭に並ぶ予定の一月ちょっと前のこと、ジョブズ氏は一握りの部下をオフィスに呼び寄せた。何週間もの間ずっと、彼はiPhoneの試作機をポケットに忍ばせていた。
その会合に出席した人によると、ジョブズ氏は怒りにみちた表情でiPhoneを取り出し、そのプラスチック製のスクリーンにできた何十という小さな傷が皆に見えるように、iPhoneを高く掲げた。それから彼はジーンズからキーを引っぱりだした。
みんなこの携帯電話をポケットに入れるだろう、と彼は言った。キーだってポケットに入れるだろう。「僕はひっかき傷ができるような製品を売りたくないんだ」と彼は語気を強めて言った。唯一の解決策は傷ができないようなガラスを使うことだった。「ガラス製のスクリーンが欲しいんだ、しかも6週間で完璧なやつを」。
ある幹部は、その会合を終えた後、中国の深圳行きの航空券を予約した。ジョブズ氏が完璧なものを求めているならば、深圳以外に行く場所はなかった。
2年以上にわたり、同社は、事あるごとに同じ問題を突きつけるあるプロジェクト――コードネームは「パープル2(Purple2)」――に取り組んでいた。その同じ問いとは、「どうしたら携帯電話を根底から考え直せるか?」という問いだった。そして、何百万台もの製品がすばやく、十分な利益をあげられるほど安価に製造できるようにしながら、「どうすれば最高の品質の設計になるのか」――例えば、傷のつかないスクリーンに関して――という問いだった。
それらの問いに対する答えは、ほとんど何時も、アメリカ以外の場所で発見された。部品はバージョン間で異なるものの、すべてのiPhoneには数百ものパーツが含まれていて、その推定90パーセントが海外で製造されている。最先端の半導体はドイツと台湾から、メモリは韓国と日本から、ディスプレイ・パネルと電気回路は韓国と台湾から、チップセットはヨーロッパから、希少金属はアフリカとアジアからやって来る。そしてそれらのすべては中国で組み立てられるのだ。
初期のころ、アップル社は、製造に関する問題を解決するために自社の裏庭の彼方に目をやることはなかった。例えば、アップル社が1983年にマッキントッシュを作り始めた数年後に、ジョブズ氏は、マッキントッシュが「アメリカで作られたマシン」であることを自慢していた。 1990年、ジョブズ氏が最終的にアップルに買収されることになるNeXTの経営にあたっていた頃、彼はあるレポーターに「僕はコンピュータと同様に工場のことも誇りに思っています」と語っていた。2002年の頃になっても、アップル社のトップ幹部たちは、本社の北東に2時間ほど車を走らせて、カリフォルニア州のエルク・グローブにあるiMacの工場をしばしば訪れたものだった。
しかし2004年ごろまでに、アップル社はほとんどを海外生産に切りかえていた。その意思決定を主導していたのは、アップル社のオペレーション担当のティモシー・D.クックだった。彼は、昨年8月、ジョブズ氏の死の六週間前にCEOとしてジョブズ氏の後任になった人だ。アメリカの他のエレクトロニクス企業のほとんどはすでに海外移転に踏み切っていて、当時、苦戦していたアップル社は、どんなアドバンテージでも手に入れなければならないと感じていた。
アジアが魅力的だったのは、ある意味で、アジアの半熟練労働者が安価だったからだ。しかし、アップル社をアジアに駆り立てたのはその点ではなかった。テクノロジーの企業にとっては、労働力のコストは、部品を購入したり(数百社からのコンポーネントやサービスをまとめあげる)サプライ・チェーンを管理する費用と比べると大したものではないからである。
(2ページ終わり)
クック氏にとって、なぜアジアに注目するのかの理由は「二つの点に帰着しました」と元アップル社の上級幹部は述べた。アジアの工場は「規模のアップ・ダウンが素早くできる」うえ、「アジアのサプライ・チェーンはアメリカのそれを凌駕してしまった」という二点だ。その結果「現時点でわれわれは太刀打ちできなくなっているのです」とその幹部は言うのだった。
このアドバンテージの効果は、ジョブズ氏が2007年にガラス製のスクリーンを要求するやいなや明らかになった。
長年にわたり、携帯電話メーカーはガラスの使用を避けていたのだが、それは、実行がきわめて難しい研磨の精度が求められたからだ。アップル社は、大きな強化ガラスを製造するためにアメリカのコーニング社(Corning Inc)を選んでいた。しかし、巨大なガラスを何百万ものiPhoneのスクリーンに切り分ける方法を考えているうちに、空の切削工場を一つと、実験に使用する何百というガラス片と中間レベルのエンジニアが大勢必要であることがわかった。準備するだけでも莫大な金がかかるだろう。
そのとき、その仕事に対する入札の申し出が中国の工場からやってきた。
アップルのチームが訪れたとき、中国の工場のオーナーは新たな作業棟を建設している最中だった。アップルの元幹部によると、「私たちに契約を与えてくれる場合に備えて、工事をしているのです」とマネージャーは言ったそうだ。中国政府は多くの産業に対してコストを肩代わりすることに合意していたし、そうした補助金はそのガラス研磨工場にまで行き渡っていた。その工場には、アップルが無料で使用できるガラスのサンプルで満杯の倉庫があった。オーナーたちはエンジニアをほとんどノーコストで使わせた。彼らは、従業員を1日24時間利用できるよう工場内に宿舎を建てた。
こうして中国のその工場が仕事を得たのだ。
「今ではサプライ・チェーンのすべてが中国にあります」と別の元アップルの上級幹部は述べた。「ラバーのパッキンが1000個必要だって? それは隣の工場に行けばいい。ネジが百万個必要だって? その工場は1ブロック先にあるよ。ちょっと違った作りのネジが必要だって? 3時間かかるよ。まあ、そんな具合ですからね」。
フォックスコン・シティーにて
そのガラス工場から車で8時間のところに、非公式にはフォックスコン・シティー(Foxconn City)として知られている生産拠点があり、そこでiPhoneは組み立てられている。アップル社の幹部にとって、 フォックスコン・シティーは、中国がアメリカの労働者よりも優れた労働者――と勤勉さ――を提供できるということを示すさらなる証拠となった場所だ。
それは、フォックスコン・シティーに似たような場所がアメリカには存在しないからである。
この施設には23万人もの従業員がいて、その多くは週に6日働き、工場で1日12時間過ごすこともしばしばだ。フォックスコンの労働力の4分の1以上は会社のバラックで暮らし、多くの労働者の稼ぎは一日17ドル足らずだ。あるアップルの幹部がシフト交代時に到着したとき、彼の車は大河のように通り過ぎる従業員の流れにつかまり立ち往生してしまった。「あのスケールは想像を絶するものだった」と彼は述べた。
フォックスコンは、労働者が出入り口に殺到して押しつぶされないように、歩行者を誘導する警備員を約300人雇っている。施設のセントラル・キッチンは一日平均3トンの豚肉と13トンのコメを調理する。工場にはチリ一つ落ちていないが、近くの喫茶店の空気はタバコの煙と悪臭でむっとするほどだ。
フォックスコン・テクノロジー社は、アジアと東欧、メキシコとブラジルに数十もの施設をもっていて、世界の民生用電子機器の推定で40%を組み立ている。アマゾン、デル、ヒューレット・パッカード、モトローラ、任天堂、ノキア、サムスン電子、ソニーといった企業が顧客となっている。
「彼らは一晩で3000人を雇い入れることができるでしょうね」。そう語るのは2010年までアップルの世界的な需給マネージャーだったジェニファー・リゴーニ。彼女は自分の仕事の詳細について語り合うのを拒んだ。「アメリカのどこの工場が一晩で3000人も見つけてきて、彼らに宿舎で暮らすように説き伏せられますか?」。
2007年の半ばに、試行実験が始まって一月が経った頃、アップルのエンジニアたちはiPhoneのスクリーンに使用できるように強化ガラスをカットする方法をついに完成させた。カットされたガラスを載せた最初のトラックは、アップルの元幹部によると、真夜中にフォックスコン・シティーに到着した。そのときマネージャーたちは何千という労働者をたたき起こした。労働者たちは這ってユニフォームの場所にたどり着き――男性は白と黒のシャツ、女性は赤のシャツ――、そしてすぐに生産ラインに座り、携帯電話を手で組み立て始めた。3ヶ月間で、アップルは100万台のiPhoneを販売した。それ以来、フォックスコンは2億台以上ものiPhoneを組み立てた。
フォックスコンは、声明を出して、特定の顧客について語ることは拒否すると述べた。
(3ページ終わり)
「わが社によって採用されたいかなる労働者も、契約条件の概要を記す明確な契約書と、労働者の人権を保護する中国政府の法律によって保護されています」と同社は書簡に記した。ファックスコン社は「従業員に対する責任を非常に重く受けとめており、100万人以上もいる従業員に安全で明るい環境を与えるためにわが社は全力を尽くしています」。
同社は、元アップル幹部の説明の細かな点のいくつかに異議を唱え、上に記したような真夜中のシフトなどあり得ないと書いてきた。なぜなら「わが社には、従業員の労働時間に関しては指定されたシフト時間に基づいた厳密な規則があり、すべての従業員はコンピュータ化されたタイム・カードをもっているため、容認されたシフト時間外ではどんな施設で働くことも禁じられているからです」。会社によると、すべてのシフト時間は午前7時か午後7時に始まり、スケジュールにどんな変更があっても、従業員には少なくとも12時間の告知期間が与えられることになっているそうだ。
インタビューでは、そうした会社側の言い分に異議を唱えるファックスコン従業員もいた。
アップルにとってのもう一つの重要なアドバンテージは、中国がアメリカには敵わないようなスケールでエンジニアを提供できる、ということだった。アップルの幹部の見積もりでは、iPhoneの製造にかかわる20万人の組立てラインの労働者を監視・監督するには、約8700人の生産技術者が必要だった。同社のアナリストは、アメリカで優秀なエンジニアをそれほどの人数見つけるには9カ月もかかるだろうと予想していた。
しかし、中国で要した日数は15日だった。
アップルのような企業は「アメリカで工場を立ち上げる際の難題は、技術的な労働力を見つけることであると言っていますね」。そう語るのは、マサチューセッツ工科大学の副学長のマーティン・シュミット。特に、企業は、学士をもっていなくてもいいが、高卒以上のエンジニアを必要としているという。それ位のスキル・レベルのあるアメリカ人を見つけるのは難しいことだと企業の幹部は主張する。「エンジニアは良い仕事なんだが、わが国にはそうした需要に応える十分な人材がいないのです」とシュミット氏は言った。
iPhoneのいくつかの側面はアメリカならではのものだ。たとえば、デバイスのソフトウェアや革新的なマーケティング・キャンペーンは、そのほとんどがアメリカで生み出されたものだ。アップルは最近ノースカロライナに5億ドルをかけてデータセンターを建設した。iPhone4とiPhone4S内部にある重要な半導体は、テキサス州オースティンにある、韓国のサムスン社の工場で製造されている。
しかし、これらの施設は大きな雇用を生み出すものではない。たとえば、アップルのノース・カロライナのデータ・センターにフルタイムの従業員は100名しかいない。サムスンの工場にいるのは推定で2400人の労働者だ。
「携帯電話の売り上げが100万台から3000万台に伸びたとしても、プログラマーを増やす必要はありませんよね」。そう言うのは、1990年に去るまでアップルの製品開発とマーケティングを監督していたジャン=ルイ・ガッセ。「新しい会社――FacebookやGoogleやTwitterなども――こうしたことから恩恵を得ているのです。こうした会社は成長しても、雇用を増やす必要はないのです」。
アメリカでiPhoneの工場を建設するとしたら、中国に建設するのと比べてさらにどれくらい多くのコストがかかるかを試算するのは難しい。しかし、色々な学者や製造アナリストの試算によれば、労働力はハイテク製造のごく一部にすぎないので、アメリカ人に賃金を支払ったとしてもiPhone1台のコストには65ドルの上乗せがあるだけだろう。アップルの利益は電話一台当たり数百ドルなので、アメリカ国内に工場を作ったとしても、理論的には、アップル社にはほどほどの利益が残ることになるだろう。
しかし、このような計算は、多くの点で無意味である。アメリカでiPhoneの工場を作るとすれば、アメリカ人を雇うことよりもずっと多くのことが必要とされるからである――それには、国内経済や世界経済を転換させることが必要とされるだろう。アップル社の幹部は、彼らが必要とするスキルをもつ十分な数のアメリカ人は存在しないし、十分なスピードと柔軟性をもつ工場も存在しないと考えている。アップル社と協働しているコーニング社のような会社でも、海外に行かなければならないと言っているのだ。
iPhone用のガラスを製造したおかげで、ケンタッキーにあるコーニング社は息を吹き返し、今日でも、iPhoneのガラスの多くは依然としてそこで作られている。iPhoneがヒットして以降、コーニング社は、アップルのデザインを模倣しようと望む別の企業から洪水のような注文を受けた。その強化ガラスの売上高は1年で7億ドル以上に成長し、新規の需要を支えるために約1000人のアメリカ人を雇用するか、従業員として使い続けている。
しかし、需要が拡大するにつれて、コーニング社の強化ガラスの製造の多くは、日本と台湾の工場で行われるようになった。
」(つづく)
どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか(1) [海外のニュース記事]
工場の海外移転とそれに伴う国内産業の空洞化が大きな問題になっているのは、日本だけではない。アメリカでも深刻な問題として意識されつつあるようだ。しかも、アップルをはじめとする先端テクノロジーの本家本元のアメリカで、そのテクノロジーが雇用に結びつかず、製造業の衰退と中流階級の没落に拍車をかけているのだという。
『ニューヨーク・タイムズ』の記事より。全部で7ページとかなり長いので、3回に分けて紹介する。
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html
「 どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか

中国・河南省で開かれた2010年の就職説明会で履歴書を手にもってフォックスコン・テクノロジー社(Foxconn Technology)のブースに殺到する中国の人々。
昨年二月、バラク・オバマがカリフォルニアでシリコン・バレーのリーダーたちと会食したとき、招待された人は皆、大統領に対する質問を一つ考えてきてくれるように求められていた。
しかし、アップル社のスティーブン・P.ジョブズが話しだすと、オバマ大統領は話をさえぎって、自分の方から質問したのだ。アメリカでiPhoneを作るとしたら何が必要なのだろうか、と。
少し前まで、アップル社は自分たちの製品がアメリカで作られていることを自慢していたものだ。今日、アメリカで作られているアップル社の製品はほとんどない。昨年販売された7000万台のiPhone、3000万台のiPad、5900万台のその他のアップル社の製品のほとんどは海外で製造されたものだ。
そうした仕事がアメリカに戻ってくることはどうしてできないのか? とオバマ氏は尋ねたわけだ。
ジョブズ氏の返事に曖昧さの余地はなかった。「それらの仕事がアメリカに戻ってくることはありません」。別の夕食会のゲストによると、ジョブズ氏はそう言ったそうだ。
大統領の質問は、アップル社の核心をなす信念に触れているのだ。海外の労働者の方が安い、というだけではない。むしろ、アップル社の幹部の信念によると、海外工場の規模や、外国人労働者の柔軟性や勤勉さや工場での技術はアメリカの工場や労働者のそれを上回っているので、「アメリカ製(Made in U.S.A)」はほとんどのアップルの製品にとってもう実現性のある選択肢ではなくなっているのである。
アップル社が地球上でもっともよく知られ、もっとも多くの称賛を勝ちとりもっとも模倣される企業の一つになった理由の一つは、地球規模で進行するオペレーションを絶えずコントロールしているからだ。昨年、アップル社の従業員一人当たりの利益は40万ドルを超えたが、これはゴールドマン・サックスやエクソン・モービルやグーグルをしのぐ数字だ。
しかし、オバマ氏のみならず経済学者や政治家を苛立たせているのは、アップル社が――そして、ハイテクの同業他社の多くが――、他の有名な企業が最盛期にそうであったほどには、アメリカ人の雇用創出に熱心ではないということなのである。
アップル社のアメリカの従業員は4万3000人で海外の従業員は2万人だが、1950年代のゼネラル・モーターズ社にアメリカ人従業員は40万以上いたし、1980年代のゼネラル・エレクトリック社にも数十万の従業員がいたことに比べれば、アップル社のアメリカ人従業員の数は微々たるものだ。アップル社の下請けで働く人の数はもっとずっと多い。上の数字に加えてさらに70万人がiPadやiPhonやそれ以外のApple製品を設計したり、組み立てたり取りつけ作業を行っている。しかし、そのほとんどはアメリカで働いているわけではない。彼らはアジアやヨーロッパやその他の地域の外国企業の従業員であり、エレクトロニクスの設計者のほとんどすべてが、自分の商品を作り上げるためにそうした工場に頼っているのである。
「アップル社は、現在のアメリカで中産階級の雇用を創出するのがとても難しくなっている理由を示してくれる一例なのです」。そう語るのは、昨年までホワイト・ハウスの経済顧問をしていたジャレッド・バーンスタイン。
「資本主義の頂点にある企業がこうであるとすれば、われわれとしては憂慮せざるをえません」。
アップル社の幹部は、現時点では、海外に向かうことは唯一のオプションである、と言っている。ある元幹部は、iPhoneが販売されるわずか数週間前に、iPhoneの製造方法を改善するために同社がどれほど中国の工場に頼っていたかを語ってくれた。アップル社は、最後のギリギリになって、iPhoneのスクリーンのデザインを変更することになり、組立ラインの見直しをせざるをえない羽目になった。新しいスクリーンが到着し出したのは真夜中近くだった。
幹部によると、工場長がただちに会社の寮にいた8000人をたたき起こしたそうだ。従業員一人一人にビスケット一枚と一杯のお茶が手渡され、彼らは作業場に案内されると、30分以内には、ガラスのスクリーンを面取りをしたフレームに組み込む12時間シフトの仕事に取りかかっていた。96時間以内に、その工場は一日につき1万台以上のiPhoneを生産していたそうだ。
「あのスピードと柔軟性には息を呑むような思いがします」とその幹部は言った。「それに匹敵できるようなアメリカの工場はありません」。
それに似たような話はほとんどすべてのエレクトロニクスの会社で聞くことができる――だから海外移転は、会計や法律業務や銀行や自動車製造や医薬品業界を含む何百という業界でも普通のことになってしまったのだ。
だからアップル社が特殊というわけでは全くないのだが、それでも同社は、素晴らしい業績を上げていてもある種の企業の成功がなぜ国内の大規模な雇用に結びつかないのかを垣間見せるヒントを与えてくれるのだ。さらに、同社の決定は、グローバルな経済と国内の経済がますます絡み合ったものとなるにつれて、アメリカの実業界がアメリカ人にどれほどの借りを作っているかについてより幅広い問いを提起しているのである。
「かつての企業はアメリカ人労働者を支援する義務を感じていました、それが財務上最良の選択ではない時であってもね」。昨年9月まで労働省のチーフ・エコノミストだったベッツィー・スティーブンソンはそう述べた。「そんな義務感は消えてしまいましたね。利潤と効率が寛大さに打ち勝ってしまったのです」。
」(つづく)
『ニューヨーク・タイムズ』の記事より。全部で7ページとかなり長いので、3回に分けて紹介する。
How the U.S. Lost Out on iPhone Work
By CHARLES DUHIGG and KEITH BRADSHER
Published: January 21, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/22/business/apple-america-and-a-squeezed-middle-class.html
「 どうしてアメリカはiPhone関連の仕事を失ったのか

中国・河南省で開かれた2010年の就職説明会で履歴書を手にもってフォックスコン・テクノロジー社(Foxconn Technology)のブースに殺到する中国の人々。
昨年二月、バラク・オバマがカリフォルニアでシリコン・バレーのリーダーたちと会食したとき、招待された人は皆、大統領に対する質問を一つ考えてきてくれるように求められていた。
しかし、アップル社のスティーブン・P.ジョブズが話しだすと、オバマ大統領は話をさえぎって、自分の方から質問したのだ。アメリカでiPhoneを作るとしたら何が必要なのだろうか、と。
少し前まで、アップル社は自分たちの製品がアメリカで作られていることを自慢していたものだ。今日、アメリカで作られているアップル社の製品はほとんどない。昨年販売された7000万台のiPhone、3000万台のiPad、5900万台のその他のアップル社の製品のほとんどは海外で製造されたものだ。
そうした仕事がアメリカに戻ってくることはどうしてできないのか? とオバマ氏は尋ねたわけだ。
ジョブズ氏の返事に曖昧さの余地はなかった。「それらの仕事がアメリカに戻ってくることはありません」。別の夕食会のゲストによると、ジョブズ氏はそう言ったそうだ。
大統領の質問は、アップル社の核心をなす信念に触れているのだ。海外の労働者の方が安い、というだけではない。むしろ、アップル社の幹部の信念によると、海外工場の規模や、外国人労働者の柔軟性や勤勉さや工場での技術はアメリカの工場や労働者のそれを上回っているので、「アメリカ製(Made in U.S.A)」はほとんどのアップルの製品にとってもう実現性のある選択肢ではなくなっているのである。
アップル社が地球上でもっともよく知られ、もっとも多くの称賛を勝ちとりもっとも模倣される企業の一つになった理由の一つは、地球規模で進行するオペレーションを絶えずコントロールしているからだ。昨年、アップル社の従業員一人当たりの利益は40万ドルを超えたが、これはゴールドマン・サックスやエクソン・モービルやグーグルをしのぐ数字だ。
しかし、オバマ氏のみならず経済学者や政治家を苛立たせているのは、アップル社が――そして、ハイテクの同業他社の多くが――、他の有名な企業が最盛期にそうであったほどには、アメリカ人の雇用創出に熱心ではないということなのである。
アップル社のアメリカの従業員は4万3000人で海外の従業員は2万人だが、1950年代のゼネラル・モーターズ社にアメリカ人従業員は40万以上いたし、1980年代のゼネラル・エレクトリック社にも数十万の従業員がいたことに比べれば、アップル社のアメリカ人従業員の数は微々たるものだ。アップル社の下請けで働く人の数はもっとずっと多い。上の数字に加えてさらに70万人がiPadやiPhonやそれ以外のApple製品を設計したり、組み立てたり取りつけ作業を行っている。しかし、そのほとんどはアメリカで働いているわけではない。彼らはアジアやヨーロッパやその他の地域の外国企業の従業員であり、エレクトロニクスの設計者のほとんどすべてが、自分の商品を作り上げるためにそうした工場に頼っているのである。
「アップル社は、現在のアメリカで中産階級の雇用を創出するのがとても難しくなっている理由を示してくれる一例なのです」。そう語るのは、昨年までホワイト・ハウスの経済顧問をしていたジャレッド・バーンスタイン。
「資本主義の頂点にある企業がこうであるとすれば、われわれとしては憂慮せざるをえません」。
アップル社の幹部は、現時点では、海外に向かうことは唯一のオプションである、と言っている。ある元幹部は、iPhoneが販売されるわずか数週間前に、iPhoneの製造方法を改善するために同社がどれほど中国の工場に頼っていたかを語ってくれた。アップル社は、最後のギリギリになって、iPhoneのスクリーンのデザインを変更することになり、組立ラインの見直しをせざるをえない羽目になった。新しいスクリーンが到着し出したのは真夜中近くだった。
幹部によると、工場長がただちに会社の寮にいた8000人をたたき起こしたそうだ。従業員一人一人にビスケット一枚と一杯のお茶が手渡され、彼らは作業場に案内されると、30分以内には、ガラスのスクリーンを面取りをしたフレームに組み込む12時間シフトの仕事に取りかかっていた。96時間以内に、その工場は一日につき1万台以上のiPhoneを生産していたそうだ。
「あのスピードと柔軟性には息を呑むような思いがします」とその幹部は言った。「それに匹敵できるようなアメリカの工場はありません」。
それに似たような話はほとんどすべてのエレクトロニクスの会社で聞くことができる――だから海外移転は、会計や法律業務や銀行や自動車製造や医薬品業界を含む何百という業界でも普通のことになってしまったのだ。
だからアップル社が特殊というわけでは全くないのだが、それでも同社は、素晴らしい業績を上げていてもある種の企業の成功がなぜ国内の大規模な雇用に結びつかないのかを垣間見せるヒントを与えてくれるのだ。さらに、同社の決定は、グローバルな経済と国内の経済がますます絡み合ったものとなるにつれて、アメリカの実業界がアメリカ人にどれほどの借りを作っているかについてより幅広い問いを提起しているのである。
「かつての企業はアメリカ人労働者を支援する義務を感じていました、それが財務上最良の選択ではない時であってもね」。昨年9月まで労働省のチーフ・エコノミストだったベッツィー・スティーブンソンはそう述べた。「そんな義務感は消えてしまいましたね。利潤と効率が寛大さに打ち勝ってしまったのです」。
」(つづく)
ホームレス:リー・ジェフリーズの写真 [海外のニュース記事]
リー・ジェフリーズ(Lee Jefferies)が撮ったホームレスの写真が『ガーディアン』紙でひときわ目を引いたので、ハンナ・ブースのコメントとともに紹介しよう。
リー・ジェフリーズはアマチュア写真家だそうだ。あるとき興味本位で女性のホームレスを遠くから撮影していたところ、本人に気づかれてしまった。とっさに立ち去ろうとしたが、なぜかその女性ホームレスに話しかけたい気持ちが芽生えた。それがきっかけとなって、ホームレスを撮り始めるようになったらしい。
アマチュア写真家といっても、彼の名前をグーグルで検索してみると、多くのブログで彼の作品が取り上げられていて、すでにかなり有名になっているようだ。確かに、どれもが目を奪い取るような写真ばかりだ。
Photographs: Lee Jefferies. Commentary: Hannah Booth
guardian.co.uk, Friday 20 January 2012 17.00 GMT
http://www.guardian.co.uk/artanddesign/gallery/2012/jan/20/big-picture-homeless-lee-jefferies
「
ホームレス:リー・ジェフリーズの写真
1.

画家の絵筆のストロークのように、これらのホームレスの顔にあってはどの毛穴でも、どの皺やどの傷跡や髪の毛の一本一本も際立って見える。親切そうで波打つような目をした人もいれば、警戒しているように見える人もいるが、ほとんどの顔が、風雨にさらされた肌と鋭い目つきのため、路上生活の厳しさを語っている、おそらくは本人が語るよりもより良く語っているのだ。
2.

リー・ジェフリーズの肖像画は毅然としていると言えるかもしれないが、美しくもある。品のある頬骨の女性、中世の英雄物語に出てくる英雄にも似た初老の男性。これらの写真は、余分な空間を切り詰め、被写界深度を浅くして、被写体となる人間に肉薄している。どんな細部も省かれてはいない。背景が溶け去って焦点が合うのは、鼻水の垂れた鼻や、肌のしみや骨ばったひげ面だ。
3.

画像は高度に様式化され、事後的に芸術的な処理を施されている。ジェフリーズは顔に光を当て 皺によって生み出される陰影を深いものにしている。だからまるでスタジオで撮影されたように見えるが、実は、ジェフリーはほんのちょっとの手間をかけて、被写体のホームレスが飽きたり気が変わったりしないうちに、路上で、自然光のもとで撮影している。彼が使う唯一の小道具といえば、被写体となる人にあごの下に持ってもらう小さなリフレクターだけである。
4.

ジェフリーズはアマチュアの写真家で本業は経理の仕事をしているのだが、ホームレスの人々を撮り始めたのは2008年だ。ボルトンの自宅からロンドンを訪れたとき、ライチェスター・スクェアで苦しい生活をしている若い女性に目を奪われた。遠くから盗み撮りをしようとしたが、その女性に見つかってしまった。そこで彼は歩み寄って話しかけた。その時以来、彼は、ロサンゼルス、ニューヨーク、ローマ、マンチェスターのダウンタウンのホームレスを撮影し続けている。
5.

彼は被写体となる人を慎重に選んでいるが、普通は、視線の背後にあって、その人の人柄を伝えたり感情を示すようなものを探しているという。何か注文をつけるようなことは全くしないと彼は主張する。そして、いつも、お礼としてお金をあげることにしているのだとも。
6.

7.

」(おわり)
リー・ジェフリーズはアマチュア写真家だそうだ。あるとき興味本位で女性のホームレスを遠くから撮影していたところ、本人に気づかれてしまった。とっさに立ち去ろうとしたが、なぜかその女性ホームレスに話しかけたい気持ちが芽生えた。それがきっかけとなって、ホームレスを撮り始めるようになったらしい。
アマチュア写真家といっても、彼の名前をグーグルで検索してみると、多くのブログで彼の作品が取り上げられていて、すでにかなり有名になっているようだ。確かに、どれもが目を奪い取るような写真ばかりだ。
Photographs: Lee Jefferies. Commentary: Hannah Booth
guardian.co.uk, Friday 20 January 2012 17.00 GMT
http://www.guardian.co.uk/artanddesign/gallery/2012/jan/20/big-picture-homeless-lee-jefferies
「
ホームレス:リー・ジェフリーズの写真
1.

画家の絵筆のストロークのように、これらのホームレスの顔にあってはどの毛穴でも、どの皺やどの傷跡や髪の毛の一本一本も際立って見える。親切そうで波打つような目をした人もいれば、警戒しているように見える人もいるが、ほとんどの顔が、風雨にさらされた肌と鋭い目つきのため、路上生活の厳しさを語っている、おそらくは本人が語るよりもより良く語っているのだ。
2.

リー・ジェフリーズの肖像画は毅然としていると言えるかもしれないが、美しくもある。品のある頬骨の女性、中世の英雄物語に出てくる英雄にも似た初老の男性。これらの写真は、余分な空間を切り詰め、被写界深度を浅くして、被写体となる人間に肉薄している。どんな細部も省かれてはいない。背景が溶け去って焦点が合うのは、鼻水の垂れた鼻や、肌のしみや骨ばったひげ面だ。
3.

画像は高度に様式化され、事後的に芸術的な処理を施されている。ジェフリーズは顔に光を当て 皺によって生み出される陰影を深いものにしている。だからまるでスタジオで撮影されたように見えるが、実は、ジェフリーはほんのちょっとの手間をかけて、被写体のホームレスが飽きたり気が変わったりしないうちに、路上で、自然光のもとで撮影している。彼が使う唯一の小道具といえば、被写体となる人にあごの下に持ってもらう小さなリフレクターだけである。
4.

ジェフリーズはアマチュアの写真家で本業は経理の仕事をしているのだが、ホームレスの人々を撮り始めたのは2008年だ。ボルトンの自宅からロンドンを訪れたとき、ライチェスター・スクェアで苦しい生活をしている若い女性に目を奪われた。遠くから盗み撮りをしようとしたが、その女性に見つかってしまった。そこで彼は歩み寄って話しかけた。その時以来、彼は、ロサンゼルス、ニューヨーク、ローマ、マンチェスターのダウンタウンのホームレスを撮影し続けている。
5.

彼は被写体となる人を慎重に選んでいるが、普通は、視線の背後にあって、その人の人柄を伝えたり感情を示すようなものを探しているという。何か注文をつけるようなことは全くしないと彼は主張する。そして、いつも、お礼としてお金をあげることにしているのだとも。
6.

7.

」(おわり)
1%を愛する神 [海外のニュース記事]
『ニューヨーク・タイムズ』紙の「オピニオン」欄に載った一文を紹介する。
この文章は、大統領候補のミット・ロムニー氏が使った「神のもとにある(under God)」という表現の歴史を簡潔に述べたものだが、それはアメリカの宗教右派の歴史に重なり合うもののようだ。
アメリカの政治にも歴史にも疎い私は、アメリカの保守勢力はずっと昔から宗教的信条を前面に出していたのだろうな、と漠然と思っていたが、どうもそうではないようだ。政治という場面に宗教勢力が入りこみ始めたのは大恐慌後であり本格化したのはあの赤狩りの頃だったとは、ずいぶん新しい現象という気がする。これは完全に現代史に属する現象であり、また、政教分離の原則というタガがいかにしてゆるんで行ったかのプロセスでもあるだろう。
ちなみに、補足説明を少ししておこう。
・「忠誠の誓い」についてはwikiの説明を見てほしい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%AA%A0%E3%81%AE%E8%AA%93%E3%81%84_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB)
ここに神に対する言及があることが政教分離に対する違反になるとはしばしば指摘されることで、それどころか、国教禁止条項を侵すものだという判決が下されたこともあるのだが、その点についてもやはりwikiの「政教分離」の項目を見られたし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%95%99%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%8E%9F%E5%89%87#.E3.82.A2.E3.83.A1.E3.83.AA.E3.82.AB.E5.90.88.E8.A1.86.E5.9B.BD.E3.81.AE.E6.94.BF.E6.95.99.E5.88.86.E9.9B.A2
・この一文の著者であるケビン・M.クルーズについては、この文章の下の掲げられている説明をそのまま紹介する。「ケビン・M.クルーズはプリンストン大学の歴史学の準教授で、間もなく出版される『神のもとにある国家:企業、キリスト教、そして宗教右派の台頭(One Nation Under God: Corporations, Christianity, and the Rise of the Religious Right)』の著者である」。
January 17, 2012, 9:00 PM
For God So Loved the 1 Percent …
By KEVIN M. KRUSE
http://campaignstops.blogs.nytimes.com/2012/01/17/for-god-so-loved-the-1-percent/
「
なぜなら神は1%をかくも愛したがゆえに…
ケヴィン・M.クルーズ
ここ数週間でミット・ロムニーは、制限されることのない資本主義のイメージ・キャラクターになったわけだが、彼はこの役割が気に入っているようだ。経済的平等についての懸念は、実は、階級間の争いについての懸念なのだ、と彼はNBCのマット・ロウアーに語った。
「アメリカを99%対1%に分断するという考え方を大統領が奨励したら、神のもとにある一つの国家(one nation under God)という概念とまったく相容れない新たな思潮がこの国に押し寄せてくることになります」と彼は語ったのだ。
ロムニー氏が言及していることは、おそらく彼が意図するようなものではなかったのだ。
「神のもとにある一つの国家」という概念には格調高い由緒があって、「この国は、神のもとにあるがゆえに、地上から滅ぶことはない」というゲティスバーグでリンカーンが述べた希望に由来しているのだ。ところが、リンカーンの後、このフレーズは何十年も政治的な言語表現から姿を消していた。その表現が再び使われるようになったのは20世紀の中頃だったが、まったく異なった様相のもとで現われたのだった。大企業のリーダーや保守的な聖職者が、フランクリン・D.ルーズベルトのニューディール政策をこきおろすためにその表現を武器として用いたのだ。
あの大恐慌時に、大企業の威信は株価とともに地に堕ちてしまった。大企業のリーダーは企業のパブリック・イメージを回復すると同時に、福祉国家という「忍び寄る社会主義」を押し退けるのに躍起となった。特に、デュポンやゼネラル・モーターズのような企業によって出資・設立された「アメリカ自由連盟(American Liberty League)」は、攻撃的な資本主義擁護論をおしすすめた。もっとも、ほとんどの人はその努力を利己的なプロパガンダとして退けたのだが。(民主党の幹部は冗談まじりに、この組織は「アメリカ・セロファン同盟」と名付けられるべきだ、なぜなら「第一に、セロファンはデュポン社の製品だからだし、第二に、(設立の意図が)透けて見えるのだからだ」と言ったものだ。)
自分たちだけではやって行けないことを認識していたので、こうした企業家は新たな取り組みを始めた。豊富な資金力を使って、自分たちに共感してくれる聖職者を協力者として参加させたのだ。ある大物実業家によると、「他の誰よりも世論形成に対して影響を持っているのは聖職者だ」という世論調査の結果があったからのようだ。
ロサンゼルスのファースト・コングリゲーショナル教会(First Congregational Church)のジェームズ・W.ファイフィールド牧師が名乗りをあげて、信仰と自由な企業活動の新たな連携に対する支持を表明した。「資本主義の恩恵は神に由来する」と彼は記した。「共通の利益と幸福のためにかくも多くのものを提供するシステムは、全能の神のご加護のもとで繁栄しなければならない」。
ファイフィールド氏の解釈では、キリスト教も資本主義も、ともに個人が自力で昇降するシステムなので、両者はきわめてよく似ているのだという。それに対して、福祉国家は、十戒のほとんどに違反している。それは、連邦政府を「誤った偶像」に仕立て上げ、アメリカ人に隣人の所有物を欲しがる気持ちを起こさせ、富裕層から金を盗み取り、終いには、決して実現できないような約束をすることで偽証をした、というのであった。
1930年代から1940年代にかけて、ファイフィールド氏とその支持者たちは、保守的な宗教・経済・政治を混ぜ合わせた新しい考え方を提唱したが、あるオブザーバーがそれを聖別して「キリスト教的リバタリアニズム(Christian libertarianism)」と命名したのは適切だった。ファイフィールド氏は自分のイデオロギーを洗練させ、単純だが強力なフレーズにまとめたのだった――それは「神のもとでの自由(freedom under God)」というフレーズだった。企業のパトロンや、アメリカ商工会議所のようなロビー団体から豊富な資金援助を得て、ファイフィールドの神のもとにある資本主義という福音は、個人的な説教や毎週のラジオ放送や月刊誌を通じて、アメリカ全土に直ぐに広まったのであった。
1951年、このキャンペーンは、盛大に行われた合衆国独立記念の祝賀式で頂点に達した。保守系のオールスターからなる設立委員会のトップにはハーバート・フーバー前大統領とダグラス・マッカーサー将軍の名前が並び、ウォルト・ディズニーやロナルド・レーガンのような有名人も含まれていたが、ほとんどは、コンラッド・ヒルトン(Conrad Hilton:ヒルトン・ホテルの創業者)、J.C.ペニー(J. C. Penney:大手デパートの創業者)、ハーヴェイ・ファイアストンJr.(Harvey Firestone Jr:ファイアストン・タイヤの創業者)、ハワード・ピュー(Howard Pew:サン・オイルの創業者の一人)のような実業界の大物たちだった。
大規模な広報キャンペーンで、彼らは、信仰と自由な企業活動の連携をうたった全面広告を利用して、「神のもとでの自由」のセレモニーで独立記念日を祝うように各自治体に働きかけた。彼らはまた、信仰と自由な企業活動との連携というテーマで全国的な説教コンテストを開催し、賞金をかけて聖職者たちを競わせた。数知れないローカル・イベントが、ラジオで全国に放送される番組「神のもとでの自由」によって推進された。この番組は映画制作者セシル・B.デミルの助力を得て制作され、ジェームズ・スチュワートが進行役となってCBSで放送されていた。
ついにこれらの黒幕たちは、永久に消えることのない印象を与えたと信じた。「「神のもとでの自由」という言葉は自由というの語彙に新しい項目を追加するにいたったのだ」と彼らは豪語した。すぐに全国民が自分たち自身を「神のもとにある」と考えるようになるだろうと。実際、1953年、ドワイト・D.アイゼンハワー大統領が最初に大統領朝食会(presidential prayer breakfast)を主催した時のテーマが「神のもとにある政府(government under God)」であったし、アイゼンハワーは国民の信仰心を様々な仕方で高めようとした。1954年には、この「神のもとでのという意識」が全国を席巻するに及び、議会はこのフレーズを正式に忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)に加えることになったのである。
最後になるが、経済的不平等について不平を言うことは「神のもとにある一つの国家」という概念と相容れないとロムニー氏が主張したのは正しい。しかしそれは、ちょっと前の時代の「1%の人間」がそうであることを望んだからにすぎないのである。
」(おわり)
この文章は、大統領候補のミット・ロムニー氏が使った「神のもとにある(under God)」という表現の歴史を簡潔に述べたものだが、それはアメリカの宗教右派の歴史に重なり合うもののようだ。
アメリカの政治にも歴史にも疎い私は、アメリカの保守勢力はずっと昔から宗教的信条を前面に出していたのだろうな、と漠然と思っていたが、どうもそうではないようだ。政治という場面に宗教勢力が入りこみ始めたのは大恐慌後であり本格化したのはあの赤狩りの頃だったとは、ずいぶん新しい現象という気がする。これは完全に現代史に属する現象であり、また、政教分離の原則というタガがいかにしてゆるんで行ったかのプロセスでもあるだろう。
ちなみに、補足説明を少ししておこう。
・「忠誠の誓い」についてはwikiの説明を見てほしい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%AA%A0%E3%81%AE%E8%AA%93%E3%81%84_(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB)
ここに神に対する言及があることが政教分離に対する違反になるとはしばしば指摘されることで、それどころか、国教禁止条項を侵すものだという判決が下されたこともあるのだが、その点についてもやはりwikiの「政教分離」の項目を見られたし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%95%99%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%8E%9F%E5%89%87#.E3.82.A2.E3.83.A1.E3.83.AA.E3.82.AB.E5.90.88.E8.A1.86.E5.9B.BD.E3.81.AE.E6.94.BF.E6.95.99.E5.88.86.E9.9B.A2
・この一文の著者であるケビン・M.クルーズについては、この文章の下の掲げられている説明をそのまま紹介する。「ケビン・M.クルーズはプリンストン大学の歴史学の準教授で、間もなく出版される『神のもとにある国家:企業、キリスト教、そして宗教右派の台頭(One Nation Under God: Corporations, Christianity, and the Rise of the Religious Right)』の著者である」。
January 17, 2012, 9:00 PM
For God So Loved the 1 Percent …
By KEVIN M. KRUSE
http://campaignstops.blogs.nytimes.com/2012/01/17/for-god-so-loved-the-1-percent/
「
なぜなら神は1%をかくも愛したがゆえに…
ケヴィン・M.クルーズ
ここ数週間でミット・ロムニーは、制限されることのない資本主義のイメージ・キャラクターになったわけだが、彼はこの役割が気に入っているようだ。経済的平等についての懸念は、実は、階級間の争いについての懸念なのだ、と彼はNBCのマット・ロウアーに語った。
「アメリカを99%対1%に分断するという考え方を大統領が奨励したら、神のもとにある一つの国家(one nation under God)という概念とまったく相容れない新たな思潮がこの国に押し寄せてくることになります」と彼は語ったのだ。
ロムニー氏が言及していることは、おそらく彼が意図するようなものではなかったのだ。
「神のもとにある一つの国家」という概念には格調高い由緒があって、「この国は、神のもとにあるがゆえに、地上から滅ぶことはない」というゲティスバーグでリンカーンが述べた希望に由来しているのだ。ところが、リンカーンの後、このフレーズは何十年も政治的な言語表現から姿を消していた。その表現が再び使われるようになったのは20世紀の中頃だったが、まったく異なった様相のもとで現われたのだった。大企業のリーダーや保守的な聖職者が、フランクリン・D.ルーズベルトのニューディール政策をこきおろすためにその表現を武器として用いたのだ。
あの大恐慌時に、大企業の威信は株価とともに地に堕ちてしまった。大企業のリーダーは企業のパブリック・イメージを回復すると同時に、福祉国家という「忍び寄る社会主義」を押し退けるのに躍起となった。特に、デュポンやゼネラル・モーターズのような企業によって出資・設立された「アメリカ自由連盟(American Liberty League)」は、攻撃的な資本主義擁護論をおしすすめた。もっとも、ほとんどの人はその努力を利己的なプロパガンダとして退けたのだが。(民主党の幹部は冗談まじりに、この組織は「アメリカ・セロファン同盟」と名付けられるべきだ、なぜなら「第一に、セロファンはデュポン社の製品だからだし、第二に、(設立の意図が)透けて見えるのだからだ」と言ったものだ。)
自分たちだけではやって行けないことを認識していたので、こうした企業家は新たな取り組みを始めた。豊富な資金力を使って、自分たちに共感してくれる聖職者を協力者として参加させたのだ。ある大物実業家によると、「他の誰よりも世論形成に対して影響を持っているのは聖職者だ」という世論調査の結果があったからのようだ。
ロサンゼルスのファースト・コングリゲーショナル教会(First Congregational Church)のジェームズ・W.ファイフィールド牧師が名乗りをあげて、信仰と自由な企業活動の新たな連携に対する支持を表明した。「資本主義の恩恵は神に由来する」と彼は記した。「共通の利益と幸福のためにかくも多くのものを提供するシステムは、全能の神のご加護のもとで繁栄しなければならない」。
ファイフィールド氏の解釈では、キリスト教も資本主義も、ともに個人が自力で昇降するシステムなので、両者はきわめてよく似ているのだという。それに対して、福祉国家は、十戒のほとんどに違反している。それは、連邦政府を「誤った偶像」に仕立て上げ、アメリカ人に隣人の所有物を欲しがる気持ちを起こさせ、富裕層から金を盗み取り、終いには、決して実現できないような約束をすることで偽証をした、というのであった。
1930年代から1940年代にかけて、ファイフィールド氏とその支持者たちは、保守的な宗教・経済・政治を混ぜ合わせた新しい考え方を提唱したが、あるオブザーバーがそれを聖別して「キリスト教的リバタリアニズム(Christian libertarianism)」と命名したのは適切だった。ファイフィールド氏は自分のイデオロギーを洗練させ、単純だが強力なフレーズにまとめたのだった――それは「神のもとでの自由(freedom under God)」というフレーズだった。企業のパトロンや、アメリカ商工会議所のようなロビー団体から豊富な資金援助を得て、ファイフィールドの神のもとにある資本主義という福音は、個人的な説教や毎週のラジオ放送や月刊誌を通じて、アメリカ全土に直ぐに広まったのであった。
1951年、このキャンペーンは、盛大に行われた合衆国独立記念の祝賀式で頂点に達した。保守系のオールスターからなる設立委員会のトップにはハーバート・フーバー前大統領とダグラス・マッカーサー将軍の名前が並び、ウォルト・ディズニーやロナルド・レーガンのような有名人も含まれていたが、ほとんどは、コンラッド・ヒルトン(Conrad Hilton:ヒルトン・ホテルの創業者)、J.C.ペニー(J. C. Penney:大手デパートの創業者)、ハーヴェイ・ファイアストンJr.(Harvey Firestone Jr:ファイアストン・タイヤの創業者)、ハワード・ピュー(Howard Pew:サン・オイルの創業者の一人)のような実業界の大物たちだった。
大規模な広報キャンペーンで、彼らは、信仰と自由な企業活動の連携をうたった全面広告を利用して、「神のもとでの自由」のセレモニーで独立記念日を祝うように各自治体に働きかけた。彼らはまた、信仰と自由な企業活動との連携というテーマで全国的な説教コンテストを開催し、賞金をかけて聖職者たちを競わせた。数知れないローカル・イベントが、ラジオで全国に放送される番組「神のもとでの自由」によって推進された。この番組は映画制作者セシル・B.デミルの助力を得て制作され、ジェームズ・スチュワートが進行役となってCBSで放送されていた。
ついにこれらの黒幕たちは、永久に消えることのない印象を与えたと信じた。「「神のもとでの自由」という言葉は自由というの語彙に新しい項目を追加するにいたったのだ」と彼らは豪語した。すぐに全国民が自分たち自身を「神のもとにある」と考えるようになるだろうと。実際、1953年、ドワイト・D.アイゼンハワー大統領が最初に大統領朝食会(presidential prayer breakfast)を主催した時のテーマが「神のもとにある政府(government under God)」であったし、アイゼンハワーは国民の信仰心を様々な仕方で高めようとした。1954年には、この「神のもとでのという意識」が全国を席巻するに及び、議会はこのフレーズを正式に忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)に加えることになったのである。
最後になるが、経済的不平等について不平を言うことは「神のもとにある一つの国家」という概念と相容れないとロムニー氏が主張したのは正しい。しかしそれは、ちょっと前の時代の「1%の人間」がそうであることを望んだからにすぎないのである。
」(おわり)
「ぼくの色、わたしの形」展に行く [子供とともに(更新ほぼ停止中)]
1月17日、「ぼくの色、わたしの形」展を見に東京芸大の美術館に行った。
「ぼくの色、わたしの形」展といっても、知る人は少ないだろう。台東区内の小学校・中学校の合同作品展というごくローカルな催しだからだ。
上野公園の工事の中を突っ切って芸大に向かう途中で、炊き出しをやっているのが見えた。傍らでは、3人組の男性グループがギターの演奏とともに大声で歌っていたのだが(もちろん支援の一環としてだが)、配給される側には重苦しい沈黙が支配していた。こちらも黙って通り過ぎた。
芸大の美術館。来たのは初めてだ。区内の小学校からの見学の集団がいくつか来ていて、結構騒々しかった。

目にとまった作品をいくつか紹介しよう。すべて小学生の作品から。
何となくマチスを思わせる室内画。マチスよりずっと上手だ。

キング・クリムゾンのアルバムを思わせる歯磨きの図。口を大きく描くのは、そういう歯磨きの指導がなされているからだろう。昔、歯磨き体操なんてものをさせられたことを思い出す。

これはちょっと上手すぎて、可愛げがないな、と思う人もいるだろう。

似た様なモチーフの絵が散見されたのだが たぶん、こういう展示会に出品することを最初から想定して、図工の先生がある程度のオリエンテーションを与えていたのだろう。何でも好きなように描いていいよと言われて、こうした作品を仕上げられるとはちょっと思えないからね。下の切り絵は三年生の作品で「やみと光――進歩と調和」と題されていた。う~ん、この題名、自分で理解してつけたのか?

「とげなしばら」と題されたこの作品、本当に小学生の作品なの? と疑う人もいるのではないだろうか。

自画像だと思うが、凛々しいように見えて、押しつけがましい主張が表情に現われているわけでもなく、視線が定まっていないようように見えて、やはり前方を向いている、幼さを後にして自意識の一歩手前にいる小学5年生の表情がいい。

さて、この展示会に行ったのは、わたしの子供の作品が展示されていたからで、何のことはない親バカ全開モードであったのだ。子供の作品は上に掲げたどれかである。へ~、結構やるじゃん、と思いながら帰路についたのだった。
「ぼくの色、わたしの形」展といっても、知る人は少ないだろう。台東区内の小学校・中学校の合同作品展というごくローカルな催しだからだ。
上野公園の工事の中を突っ切って芸大に向かう途中で、炊き出しをやっているのが見えた。傍らでは、3人組の男性グループがギターの演奏とともに大声で歌っていたのだが(もちろん支援の一環としてだが)、配給される側には重苦しい沈黙が支配していた。こちらも黙って通り過ぎた。
芸大の美術館。来たのは初めてだ。区内の小学校からの見学の集団がいくつか来ていて、結構騒々しかった。

目にとまった作品をいくつか紹介しよう。すべて小学生の作品から。
何となくマチスを思わせる室内画。マチスよりずっと上手だ。
キング・クリムゾンのアルバムを思わせる歯磨きの図。口を大きく描くのは、そういう歯磨きの指導がなされているからだろう。昔、歯磨き体操なんてものをさせられたことを思い出す。

これはちょっと上手すぎて、可愛げがないな、と思う人もいるだろう。
似た様なモチーフの絵が散見されたのだが たぶん、こういう展示会に出品することを最初から想定して、図工の先生がある程度のオリエンテーションを与えていたのだろう。何でも好きなように描いていいよと言われて、こうした作品を仕上げられるとはちょっと思えないからね。下の切り絵は三年生の作品で「やみと光――進歩と調和」と題されていた。う~ん、この題名、自分で理解してつけたのか?
「とげなしばら」と題されたこの作品、本当に小学生の作品なの? と疑う人もいるのではないだろうか。

自画像だと思うが、凛々しいように見えて、押しつけがましい主張が表情に現われているわけでもなく、視線が定まっていないようように見えて、やはり前方を向いている、幼さを後にして自意識の一歩手前にいる小学5年生の表情がいい。

さて、この展示会に行ったのは、わたしの子供の作品が展示されていたからで、何のことはない親バカ全開モードであったのだ。子供の作品は上に掲げたどれかである。へ~、結構やるじゃん、と思いながら帰路についたのだった。
憂鬱だった二日間 PART2 [雑感]
今年も、憂鬱すぎる二日間、試練の二日間を何とかやり過ごすことができた。ちなみに、去年も同じことを記事にしている。
憂鬱だった二日間 ・・・ http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-01-17
一日中ひたすら辛抱するだけなのでおよそ記憶にとどめるべきことは何もないのだが、一年で最悪な時間をどのように始めたのか、朝の風景だけでも記録として残してみようかなと思った。二日とも、5時少し前に起きて駅に向かった。
まだ暗い吾妻橋の風景。今年は寒いこともあって人影がほとんどない。

まだ暗い雷門通り。人間と同じように街そのものが眠っている。

誰もいない都営線浅草駅構内。やはり駅も一人ぼっち。まるで心象風景のよう。

憂鬱だった二日間 ・・・ http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-01-17
一日中ひたすら辛抱するだけなのでおよそ記憶にとどめるべきことは何もないのだが、一年で最悪な時間をどのように始めたのか、朝の風景だけでも記録として残してみようかなと思った。二日とも、5時少し前に起きて駅に向かった。
まだ暗い吾妻橋の風景。今年は寒いこともあって人影がほとんどない。
まだ暗い雷門通り。人間と同じように街そのものが眠っている。
誰もいない都営線浅草駅構内。やはり駅も一人ぼっち。まるで心象風景のよう。
日本の失敗という神話(3) [海外のニュース記事]
「日本の失敗という神話」の最終回。
日本が大きくつまずいたのは事実だが、その苦境から立ち直るのに苦労しているかのような素振りを戦略的に取りつづけながら、一方で厳しい対外的な要求を回避しつつ、他方、その背後で着々と新たな産業構造へと脱皮を図ることによって、いつの間にか日本はアメリカをはじめとする欧米諸国を出し抜いてしまったのだ、だから、いわゆる「失われた数十年」の日本に何が本当に起こったのかは、ほとんどだれの目にも見えていなかった。むしろきちんとした検討はこれからなされなければならない、それができた暁には、「最も見込みがない状況でさえもアドバンテージに変え」た見習うべき国として評価されるにちがいない、それがこの記事を書いたフィングルトンの見立てである。
なお、記事の終わりに、著者についての次のような紹介文が添えられている。「イーモン・フィングルトン(Eamonn Fingleton)は1990年代の日本のバブル崩壊を予言した書物の著者で、現在、アメリカン・ドリームの終焉についての本を執筆中」。
The Myth of Japan’s Failure
By EAMONN FINGLETON
Published: January 6, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/08/opinion/sunday/the-true-story-of-japans-economic-success.html?pagewanted=3&_r=2
「
日本の失敗という神話(3)
心理的な要因はさておき、欧米諸国が日本を理解する妨げになった大きな要因の一つは、東京にいるほとんどすべての人が、日本についての悲観的な話題から恩恵を得ていたという点にある。外人の営業マンにとって、ノルマを達成できない時、日本が不景気だということにすれば無罪放免になれる。日本の財団組織にしてみれば、アメリカの大学や寄付金を五月蠅く募ってくるその他の非営利団体からの勧誘を丁寧に断る完璧な言い訳になる。外務省にしてみても、対外援助の受益者の期待を値切るときに同様の口実が使える。アメリカの投資銀行にとっても悪い知らせを強調する理由となる。投資銀行がいわゆる円キャリートレードから利益を上げているのは周知のとおりだが、これは、事情通にしてみれば日本円が周期的に弱くなる時を狙って利益を上げる難解だが強力な投資戦略なのだ。
経済的なイデオロギーも不幸な役割を果たしてきた。多くのエコノミスト、特に右派系シンクタンクは自由放任主義の忠実な支持者なので、彼らは、社会主義的な医療制度や政府の規制がいたる所に張り巡らされている日本の非常に異質な経済制度には反射的に軽蔑の念を示してしまうのだ。1980年代後半の株式市場のバブル期にこうした見方は影を潜めていたが、バブル崩壊後また復活したのである。
1990年に株式市場が崩壊した後、日本の貿易交渉担当者は、外国資本の気分がまるで嘘のように軟化したことを見逃さなかった。以前は海外勢が日本に嫉妬の念を抱いていたものだが(それに、保護主義的な政策が真面目な話題になったものだが)、状況が変わると、アメリカやヨーロッパの貿易交渉担当者は「堕ちた巨人」に対して憐憫の情を示す態度に変わっていた。日本の貿易交渉担当者は、とりわけ呑み込みが早かったので、それ以来同情を乞うような態度を取りつづけたのである。
この戦略はワシントンで特に効果的だったようだ。騎士道精神にあふれるアメリカの当局者は、ダウンした相手を蹴ってはならないという思いから、日本の市場の開放を求めることをほとんど止めてしまった。けれど、1980年代後半にアメリカが訴えた貿易上の大きな苦情――米(こめ)や金融サービスや自動車および自動車部品に関する苦情――は、改善されることは決してなかったのである。
「堕ちた巨人」のお話は、他の東アジア諸国にも、アメリカとの貿易交渉を進める上で有益であった。
このお話がアメリカ人の考え方にどのように影響を与えたかの印象的な一例は、アナリストのジョージ・フリードマン(George Friedman)の『100年予測(The Next 100 Years)』にはっきり表われている。「2020年の中国:張り子の虎」と題された章の中で、フリードマン氏は、1990年代に日本が「失敗した」のとまったく同様に、中国にもいずれ天罰が下るだろうと主張している。ワシントンは、すでに世界史上最も破壊的であるかもしれないし最もアンバランスであるのは間違いない米中の貿易関係に直面しているのに、フリードマンのお話は、そんなワシントンに慢心と混乱の種を力強くばらまいているのだ。
本当に日本に起きたのは何だったのかという問いは、地政学的に第一級の重要性をもつ問いであるのは明らかだ。アメリカ人の通念を見事に出し抜きながら、日本はそれまで以上に洗練された産業基盤を着々と構築してきたのだ。このことが最も明瞭になるのは、日本の製造業が一皮むけていわゆる生産財を作るようになったという事実である。生産財は通常、高度な部品や材料、または高精度の製造装置から成り立っている。それらは消費者には見えないが、それらがなければ現代の世界は文字通り存在することはないだろう。こうした製造業は高度に資本集約的で高度なノウハウをつぎ込むことで可能になるものだが、1950年代と1960年代にアメリカがほとんど独占していた業種であり、アメリカの経済的リーダーシップの本質を構成していたのだ。
日本の大きな競争相手――ドイツ、韓国、台湾、そしてもちろん中国――がほとんど停滞することなく生産を続けているだけに、日本のこうした実績はなおさら印象的である。東アジア諸国の多くが製造業に「標的を定めた」おかげでこの二十年間に世界は産業の急速な大転換を経験する羽目になった。それでも日本の貿易黒字は上昇したのである。
日本は、そうなってはならない警告の対象としてではなく、モデルとして持ち出されるべきなのだ。国が奮起して一丸となって事に当たろうとするならば、最も見込みがない状況でさえもアドバンテージに変えることができる。そうしたモデルとして持ち出されるべきなのだ。日本が絶えずインフラを改善していることがきっとインスピレーションを与えてくれるとすれば、それはこの点においてなのだ。それは、しばしば幅広い政治的勢力の協力を必要とする戦略なのだが、そうした協力は、過去においてアメリカの政治システムの手の届かないものではなかった。あの大恐慌時代の象徴的なプロジェクトとしてのフーバー・ダムは七つの州にまたがる交渉を必要としたが、それでもどうにか建設された――そしてその過程で16000人もの国民に雇用を提供した。それに似た事業を推し進めることを妨げるものは何もない――妨げるものがあるとすれば、下らない政治論争だけなのである。
」(おわり)
日本が大きくつまずいたのは事実だが、その苦境から立ち直るのに苦労しているかのような素振りを戦略的に取りつづけながら、一方で厳しい対外的な要求を回避しつつ、他方、その背後で着々と新たな産業構造へと脱皮を図ることによって、いつの間にか日本はアメリカをはじめとする欧米諸国を出し抜いてしまったのだ、だから、いわゆる「失われた数十年」の日本に何が本当に起こったのかは、ほとんどだれの目にも見えていなかった。むしろきちんとした検討はこれからなされなければならない、それができた暁には、「最も見込みがない状況でさえもアドバンテージに変え」た見習うべき国として評価されるにちがいない、それがこの記事を書いたフィングルトンの見立てである。
なお、記事の終わりに、著者についての次のような紹介文が添えられている。「イーモン・フィングルトン(Eamonn Fingleton)は1990年代の日本のバブル崩壊を予言した書物の著者で、現在、アメリカン・ドリームの終焉についての本を執筆中」。
The Myth of Japan’s Failure
By EAMONN FINGLETON
Published: January 6, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/08/opinion/sunday/the-true-story-of-japans-economic-success.html?pagewanted=3&_r=2
「
日本の失敗という神話(3)
心理的な要因はさておき、欧米諸国が日本を理解する妨げになった大きな要因の一つは、東京にいるほとんどすべての人が、日本についての悲観的な話題から恩恵を得ていたという点にある。外人の営業マンにとって、ノルマを達成できない時、日本が不景気だということにすれば無罪放免になれる。日本の財団組織にしてみれば、アメリカの大学や寄付金を五月蠅く募ってくるその他の非営利団体からの勧誘を丁寧に断る完璧な言い訳になる。外務省にしてみても、対外援助の受益者の期待を値切るときに同様の口実が使える。アメリカの投資銀行にとっても悪い知らせを強調する理由となる。投資銀行がいわゆる円キャリートレードから利益を上げているのは周知のとおりだが、これは、事情通にしてみれば日本円が周期的に弱くなる時を狙って利益を上げる難解だが強力な投資戦略なのだ。
経済的なイデオロギーも不幸な役割を果たしてきた。多くのエコノミスト、特に右派系シンクタンクは自由放任主義の忠実な支持者なので、彼らは、社会主義的な医療制度や政府の規制がいたる所に張り巡らされている日本の非常に異質な経済制度には反射的に軽蔑の念を示してしまうのだ。1980年代後半の株式市場のバブル期にこうした見方は影を潜めていたが、バブル崩壊後また復活したのである。
1990年に株式市場が崩壊した後、日本の貿易交渉担当者は、外国資本の気分がまるで嘘のように軟化したことを見逃さなかった。以前は海外勢が日本に嫉妬の念を抱いていたものだが(それに、保護主義的な政策が真面目な話題になったものだが)、状況が変わると、アメリカやヨーロッパの貿易交渉担当者は「堕ちた巨人」に対して憐憫の情を示す態度に変わっていた。日本の貿易交渉担当者は、とりわけ呑み込みが早かったので、それ以来同情を乞うような態度を取りつづけたのである。
この戦略はワシントンで特に効果的だったようだ。騎士道精神にあふれるアメリカの当局者は、ダウンした相手を蹴ってはならないという思いから、日本の市場の開放を求めることをほとんど止めてしまった。けれど、1980年代後半にアメリカが訴えた貿易上の大きな苦情――米(こめ)や金融サービスや自動車および自動車部品に関する苦情――は、改善されることは決してなかったのである。
「堕ちた巨人」のお話は、他の東アジア諸国にも、アメリカとの貿易交渉を進める上で有益であった。
このお話がアメリカ人の考え方にどのように影響を与えたかの印象的な一例は、アナリストのジョージ・フリードマン(George Friedman)の『100年予測(The Next 100 Years)』にはっきり表われている。「2020年の中国:張り子の虎」と題された章の中で、フリードマン氏は、1990年代に日本が「失敗した」のとまったく同様に、中国にもいずれ天罰が下るだろうと主張している。ワシントンは、すでに世界史上最も破壊的であるかもしれないし最もアンバランスであるのは間違いない米中の貿易関係に直面しているのに、フリードマンのお話は、そんなワシントンに慢心と混乱の種を力強くばらまいているのだ。
本当に日本に起きたのは何だったのかという問いは、地政学的に第一級の重要性をもつ問いであるのは明らかだ。アメリカ人の通念を見事に出し抜きながら、日本はそれまで以上に洗練された産業基盤を着々と構築してきたのだ。このことが最も明瞭になるのは、日本の製造業が一皮むけていわゆる生産財を作るようになったという事実である。生産財は通常、高度な部品や材料、または高精度の製造装置から成り立っている。それらは消費者には見えないが、それらがなければ現代の世界は文字通り存在することはないだろう。こうした製造業は高度に資本集約的で高度なノウハウをつぎ込むことで可能になるものだが、1950年代と1960年代にアメリカがほとんど独占していた業種であり、アメリカの経済的リーダーシップの本質を構成していたのだ。
日本の大きな競争相手――ドイツ、韓国、台湾、そしてもちろん中国――がほとんど停滞することなく生産を続けているだけに、日本のこうした実績はなおさら印象的である。東アジア諸国の多くが製造業に「標的を定めた」おかげでこの二十年間に世界は産業の急速な大転換を経験する羽目になった。それでも日本の貿易黒字は上昇したのである。
日本は、そうなってはならない警告の対象としてではなく、モデルとして持ち出されるべきなのだ。国が奮起して一丸となって事に当たろうとするならば、最も見込みがない状況でさえもアドバンテージに変えることができる。そうしたモデルとして持ち出されるべきなのだ。日本が絶えずインフラを改善していることがきっとインスピレーションを与えてくれるとすれば、それはこの点においてなのだ。それは、しばしば幅広い政治的勢力の協力を必要とする戦略なのだが、そうした協力は、過去においてアメリカの政治システムの手の届かないものではなかった。あの大恐慌時代の象徴的なプロジェクトとしてのフーバー・ダムは七つの州にまたがる交渉を必要としたが、それでもどうにか建設された――そしてその過程で16000人もの国民に雇用を提供した。それに似た事業を推し進めることを妨げるものは何もない――妨げるものがあるとすれば、下らない政治論争だけなのである。
」(おわり)
日本の失敗という神話 (2) [海外のニュース記事]
「日本の失敗という神話」の第二回目。
日本が過小評価された要因として、欧米人の心理的なものが挙げられているのは、まあ、いかにもそうだろうと思う。もちろん、人種差別的な偏見が関係しているということではない。たとえば、バブル期にアメリカの大学教授が『ジャパン・アズ・No.1』のような本を出したが、まるで幇間がヨイショするようなそんな過大評価があった反動で、不当なまでの過小評価へと振り子が逆に振れた、ということなのかもしれない。そして、一方の極から他方の極へと振れた後で、今また振り子は真ん中に戻ろうとしているにすぎないのかもしれないのだ。
The Myth of Japan’s Failure
By EAMONN FINGLETON
Published: January 6, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/08/opinion/sunday/the-true-story-of-japans-economic-success.html?pagewanted=2&_r=1
「
日本の失敗という神話(2)
では、日本はなぜ敗者と見られているのか? それは、公式に発表されるGDPの数字で、アメリカが長年にわたって日本をはっきりと上回ってきたからである。だが、アメリカが公式に発表する数字を額面通り受け取ったとしても、両国の差は人々が考えるよりはるかに小さいものである。国民一人当たりの計算方式(これがGDPを算出する適切な方法なのだ)に手直しして1989年から算出してみるならば、アメリカのGDPの成長率は年平均でわずか1.4%にすぎなくなる。その期間の日本の数字はさらに小さく――わずか1%に――なってしまうが、この数字が意味するのは、日本の成長率はアメリカよりも年平均で0.4%下回っているにすぎない、ということだ。
ところが、根底にある算出方法に目を向けると、下回るどころか、日本が上回っていたかもしれないことが判るのだ。まず、1980年代にアメリカの統計学者は、少し注目を集めた変更の中で、インフレ率を調整するいわゆるヘドニック法を次々と採用し始めたのだが、これは、多くの専門家によれば、国の見かけの成長速度を人工的に高めるアプローチだったのだ。
アメリカの経済的なデータの不備を追跡調査するウェブサイトであるシャドースタッツ・ドットコム(Shadowstats.com)のジョン・ウィリアムズ(John Williams)の計算では、ここ数十年のアメリカの成長率は年間2%ほど誇張されてきたようだ。彼の計算が真実に近いとすれば、この要因だけでも、一人当たりのGDPでアメリカは日本に負けることになるのだ。
日本人の弱点があるとすれば、その最も明白な場所は高価なハイテクの新製品の採用が遅いことにある、と思われるかもしれない。しかし、日本はハイテク製品の採用に関して言えば、一貫して世界でもっとも早かった国の一つだった。遅れていたのは、どちらかといえば、アメリカ人の方だった。たとえば携帯電話では、日本は1990年代後半の数年間でアメリカを大きく引き離し、それ以降ずっとアメリカの先を行っている。日本の消費者は、進んだ機種が出るたびに、他に例を見ないほどの速さでそちらに殺到するのである。
ここに関係する話題の多くは、量的であるよりは質的なものだ。一例は日本の外食文化である。ミシュラン・ガイドによると、東京には世界のトップランクのレストランが16店もあるが、第2位のパリはわずか10店である。日本全体でも、ミシュランの格付けでフランスを凌駕している。しかし、このことをGDPの観点からどのように言い表わせというのだろうか?
同様の問題は、日本の医療システムにおける改善を評価する際にも生じる。それに、過去20年間における日本の環境全般でなされた広範囲な改善をどのようにしたら正確に伝えられるだろうか?
幸いなことに、これらの問題の多くをうまく解決してくれる尺度があって、それは発電量である。発電量は、多くの場合、消費者の豊かさと産業活動の尺度となるからである。日本が全く「無能な国(basket case)」として各方面から描かれていた1990年代には、日本人一人当たりの発電量の増加率はアメリカの2倍であったし、21世紀に入ってからもアメリカを上回り続けていたのである。
ここで起こっていることは、ある意味で、欧米人の心理に関係しているのだ。長期にわたって日本に関する話題を追い続けてきた人ならば誰でも、多くの欧米人が積極的に日本を過小評価しようとしてきたことに気づかざるを得ないのだ。だから、日本の政策が上手くいっても、それはことごとく自動的に割り引かれてしまうのだ。それは、東京を拠点に置く欧米の外交官や学者の間にもはっきり表われる習慣化した見方なのである。
たとえば、欧米のオブザーバーが日本の人口動態をどのように見てきたかを取り上げてみよう。日本人は低い出生率のおかげで高齢化しているが、この特徴は、日本が世界の豊かな国々の多くと共有しているものだ。しかしこれは重大な問題としてだけではなく政策の失敗として語られるのである。日本人が個人的にも集団的にもこうした少子化の成り行きを選びとったということ――そして、そうするだけの理由を十分にもっているということ――は、欧米人には思いもよらないことらしいのだ。
人口動態に関する物語りは、帝国を奪われたばかりの日本人が飢え死にしかけていた1945~6年のひどい冬に始まった。対外的な拡張政策はもはやオプションとはなりえなくなったので、日本の指導者たちは出生率を下げることを最優先の政策にしようと決めたのだ。その後、核家族の文化が始まり、それが今日まで続いているのである。
日本の動機ははっきりしている。食料の安全保障である。国民一人当たりの耕作可能な土地が中国の約3分の1しかないので、日本は長い間世界最大の食料純輸入国であった。産児制限政策が日本の少子高齢化の主たる原因であるが、この少子高齢化という現象は、医療制度の改善と1950年以降20歳以上も平均寿命が延びたことを反映してもいるのである。
」(つづく)
日本が過小評価された要因として、欧米人の心理的なものが挙げられているのは、まあ、いかにもそうだろうと思う。もちろん、人種差別的な偏見が関係しているということではない。たとえば、バブル期にアメリカの大学教授が『ジャパン・アズ・No.1』のような本を出したが、まるで幇間がヨイショするようなそんな過大評価があった反動で、不当なまでの過小評価へと振り子が逆に振れた、ということなのかもしれない。そして、一方の極から他方の極へと振れた後で、今また振り子は真ん中に戻ろうとしているにすぎないのかもしれないのだ。
The Myth of Japan’s Failure
By EAMONN FINGLETON
Published: January 6, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/08/opinion/sunday/the-true-story-of-japans-economic-success.html?pagewanted=2&_r=1
「
日本の失敗という神話(2)
では、日本はなぜ敗者と見られているのか? それは、公式に発表されるGDPの数字で、アメリカが長年にわたって日本をはっきりと上回ってきたからである。だが、アメリカが公式に発表する数字を額面通り受け取ったとしても、両国の差は人々が考えるよりはるかに小さいものである。国民一人当たりの計算方式(これがGDPを算出する適切な方法なのだ)に手直しして1989年から算出してみるならば、アメリカのGDPの成長率は年平均でわずか1.4%にすぎなくなる。その期間の日本の数字はさらに小さく――わずか1%に――なってしまうが、この数字が意味するのは、日本の成長率はアメリカよりも年平均で0.4%下回っているにすぎない、ということだ。
ところが、根底にある算出方法に目を向けると、下回るどころか、日本が上回っていたかもしれないことが判るのだ。まず、1980年代にアメリカの統計学者は、少し注目を集めた変更の中で、インフレ率を調整するいわゆるヘドニック法を次々と採用し始めたのだが、これは、多くの専門家によれば、国の見かけの成長速度を人工的に高めるアプローチだったのだ。
アメリカの経済的なデータの不備を追跡調査するウェブサイトであるシャドースタッツ・ドットコム(Shadowstats.com)のジョン・ウィリアムズ(John Williams)の計算では、ここ数十年のアメリカの成長率は年間2%ほど誇張されてきたようだ。彼の計算が真実に近いとすれば、この要因だけでも、一人当たりのGDPでアメリカは日本に負けることになるのだ。
日本人の弱点があるとすれば、その最も明白な場所は高価なハイテクの新製品の採用が遅いことにある、と思われるかもしれない。しかし、日本はハイテク製品の採用に関して言えば、一貫して世界でもっとも早かった国の一つだった。遅れていたのは、どちらかといえば、アメリカ人の方だった。たとえば携帯電話では、日本は1990年代後半の数年間でアメリカを大きく引き離し、それ以降ずっとアメリカの先を行っている。日本の消費者は、進んだ機種が出るたびに、他に例を見ないほどの速さでそちらに殺到するのである。
ここに関係する話題の多くは、量的であるよりは質的なものだ。一例は日本の外食文化である。ミシュラン・ガイドによると、東京には世界のトップランクのレストランが16店もあるが、第2位のパリはわずか10店である。日本全体でも、ミシュランの格付けでフランスを凌駕している。しかし、このことをGDPの観点からどのように言い表わせというのだろうか?
同様の問題は、日本の医療システムにおける改善を評価する際にも生じる。それに、過去20年間における日本の環境全般でなされた広範囲な改善をどのようにしたら正確に伝えられるだろうか?
幸いなことに、これらの問題の多くをうまく解決してくれる尺度があって、それは発電量である。発電量は、多くの場合、消費者の豊かさと産業活動の尺度となるからである。日本が全く「無能な国(basket case)」として各方面から描かれていた1990年代には、日本人一人当たりの発電量の増加率はアメリカの2倍であったし、21世紀に入ってからもアメリカを上回り続けていたのである。
ここで起こっていることは、ある意味で、欧米人の心理に関係しているのだ。長期にわたって日本に関する話題を追い続けてきた人ならば誰でも、多くの欧米人が積極的に日本を過小評価しようとしてきたことに気づかざるを得ないのだ。だから、日本の政策が上手くいっても、それはことごとく自動的に割り引かれてしまうのだ。それは、東京を拠点に置く欧米の外交官や学者の間にもはっきり表われる習慣化した見方なのである。
たとえば、欧米のオブザーバーが日本の人口動態をどのように見てきたかを取り上げてみよう。日本人は低い出生率のおかげで高齢化しているが、この特徴は、日本が世界の豊かな国々の多くと共有しているものだ。しかしこれは重大な問題としてだけではなく政策の失敗として語られるのである。日本人が個人的にも集団的にもこうした少子化の成り行きを選びとったということ――そして、そうするだけの理由を十分にもっているということ――は、欧米人には思いもよらないことらしいのだ。
人口動態に関する物語りは、帝国を奪われたばかりの日本人が飢え死にしかけていた1945~6年のひどい冬に始まった。対外的な拡張政策はもはやオプションとはなりえなくなったので、日本の指導者たちは出生率を下げることを最優先の政策にしようと決めたのだ。その後、核家族の文化が始まり、それが今日まで続いているのである。
日本の動機ははっきりしている。食料の安全保障である。国民一人当たりの耕作可能な土地が中国の約3分の1しかないので、日本は長い間世界最大の食料純輸入国であった。産児制限政策が日本の少子高齢化の主たる原因であるが、この少子高齢化という現象は、医療制度の改善と1950年以降20歳以上も平均寿命が延びたことを反映してもいるのである。
」(つづく)
日本の失敗という神話(1) [海外のニュース記事]
久しぶりに日本経済のネタを。『ニューヨーク・タイムズ』で面白そうな記事(というか、オピニオン欄に載った寄稿文)があったので紹介しよう。
内容は単純明快で、バブル以降の日本の「失われた数十年」は、愚かしい例として繰り返し取り上げられ物笑いの種にされてきたが、それは根拠のない神話にすぎない、ということを示すことが眼目である。
たしかに、あの大震災と原発の災害が過度に誇張して報道されたことから推測できることだが、日本の経済についても幾重もの誇張や歪曲があったことは想像に難くない。そうした外部の誇張された評価を真に受けて、ますます日本人のセルフ・イメージが収縮してしまった、ということもあっただろう。外部の目に過度に敏感ですからね、日本人は。そんな相乗効果もあって、日本の内外で「失われた数十年」というイメージがすっかり定着してしまった感がある。しかし、特に最近のヨーロッパの経済状況やアメリカの貧富のとてつもない格差などと対比してみても、日本はまだそれほど酷いわけではないのでは? などと最近思うことが度々あったので、この記事の着眼点は私なりに理解できるものがある。
ちなみに、「失われた数十年」と訳した原語は“the lost decades”。もちろん、そう訳すしかない。バブル破裂後の十年のみならず、欧米では、それに続く十年、さらにその後の十年と、「失われた十年」を日本が引きずり続けてきたという評価が一般的なわけで、“the lost decades”という複数形にはそういう含意がある。これについては、かつて 『ウォールストリート・ジャーナル』の記事を紹介したことがある。
「㈱無為無策 三度目の失われた十年を迎えるかもしれない日本」・・・・http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-01-04
いつまでも改革を断行できずに、過去のしがらみをだらしなく引きずっているだけの日本というイメージが一般的であったのだが、日本経済を肯定的に扱う記事がないでもなかった。イギリス『ガーディアン』紙の次の記事などはその数少ない例。
「「ゾンビ」日本の経済的誤り」・・・・ http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-10-26
今回の記事は、こうした例外的な見解が今後さらに増えて行くだろうことを予想させるものかもしれない。原記事は3ページにわたっているので、3回に分けて紹介する。
The Myth of Japan’s Failure
By EAMONN FINGLETON
Published: January 6, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/08/opinion/sunday/the-true-story-of-japans-economic-success.html
「
日本の失敗という神話(1)

ファッショナブルな渋谷の街並み
アメリカ経済について楽観的になれるわずかな兆しはいくつかあるにはあるが、失業率は依然として高いし、国内は停滞気味だ。
アメリカ人は、もし正しい道を歩まなければ(その正しい道がどういうものであるかについて激しい論争があったが)国がどうなるかの警告例として日本を見てみろと何度も言われてきた。例えば、CNNのアナリストであるデビッド・ガーゲン(David Gergen)はそんな風に日本を描いてきた。「日本は今やとても意気消沈した国になってしまい、本当に後退してしまった」。
しかし、日本をそのように描き出すのは神話というものだ。多くの施策によって、日本経済は、いわゆる失われた数十年(それは、1990年1月の株式市場の暴落で始まった)の間でも上々の成績を上げてきた。最重要の施策の中には、アメリカよりはるかに上首尾の成績を残したものもあった。
日本は、その金融システムが破たんしたにもかかわらず、国民にますます豊かなライフスタイルを提供することに成功した。いずれ時が経てば、この時代が傑出したサクセス・ストーリーとして見なされるようになることも考えられるのである。
現実とイメージがこれほど大きく異なることがどうしてありうるのだろう? そしてアメリカは日本の経験から何かを学ぶことができるのだろうか?
たしかに、日本の住宅価格は、バブル期の猛烈な最終段階の短期間につけた馬鹿馬鹿しい高値に戻ったことはなかった。東証の株価も同様である。
しかし、日本経済と日本国民の力強さは多くの点で明らかだ。新聞の経済欄で物笑いの種になる日本というイメージとは必ずしも相容れない事実や数字は多数あるのだ。
・日本人の平均寿命は、1989年から2009年にかけて4.2歳も――78.8歳から83歳にまで――伸びた。これは、現在標準の日本人はアメリカ人より4.8歳も長生きであることを意味する。この平均寿命の伸びは、食事の違いがあるからというよりも、摂取する食事に大差がないにもかかわらず、達成されたのである。日本人はかつてないほど洋食を食べているからだ。平均寿命の伸びを説明するキーとなる要因は、より良い医療なのである。
・日本は、インターネットのインフラ構築で著しい進歩を遂げた。1990年代の中ごろまでは遅いいと嘲られていたが、今では状況は一変した。アカマイ・テクノロジーズ(Akamai Technologies)の最近の調査では、最速のインターネット・サービスが享受できる世界の50都市中、日本の都市は38もあったのに対して、アメリカの都市はたった3つだけだった。
・1989年末を基準にすると、円は米ドルに対して87%、英ポンドに対して94%も上昇した。貨幣の尺度として伝統的に引き合いに出されるスイス・フランに対しても円は上昇した。
・失業率は4.2%で、アメリカの約半分である。
・世界中の巨大ビルを追跡調査しているウェブ・サイトであるスカイスクレイパー・ページ・ドットコム(skyscraperpage.com)によれば、500フィート以上の高層ビルは、「失われた数十年」開始以降、81棟が東京で建設された。それに対して、ニューヨークでは64棟、シカゴでは48棟、ロサンゼルスでは7棟である。
・日本の現在の経常収支の黒字額――もっとも広い意味での貿易額だが――は、2010年で合計1960億ドルで、これは1989年の3倍以上の数字である。それと対照的に、その期間のアメリカの経常赤字は、990億ドルから4710億ドルに膨れ上がった。1990年代、中国の台頭の結果、日本は敗者になりアメリカは勝者になるということが一般的な通念となったが、そうはならなかったことが判明したのだ。日本は1989年以降、中国への輸出額を14倍以上に増やしたし、日本と中国の二国間貿易は広範囲にわたって均衡を保っているのである。
長年日本ウオッチを続けてきたアイヴァン・P.ホール(Ivan P. Hall)やクライド・V.プレストウィッツJr.(Clyde V. Prestowitz Jr.)が指摘しているように、「失われた数十年」というお話が誤っていることは、アメリカ人が日本に足を踏み入れる瞬間に明らかになる。日本に旅行する人は、通常、ケネディ空港やダレス空港などのアメリカのインフラの老朽化を見事に示すシンボルのような空港で旅行を開始し、近年大規模に拡張されモダンな装いに変貌した日本の空港に到着するからだ。
1980年代初頭から日本ウォッチを続けてきた著名なウィリアム・J.ホルスタインは、最近何年かぶりに日本を訪れた。「アメリカで記事で読むことと、実際に日本で目にすることとの間には劇的なギャップがありますね」と彼は述べた。「日本人はアメリカ人よりも良い服を着ています。ポルシェ、アウディ、メルセデス・ベンツやその他の最高級のモデルを含む最新の車を日本人はもっているし、これほど多くのペットが甘やかされているのを私は見たことがありません。この国の物理的なインフラは改善と進化を続けていますしね」。
」(つづく)
内容は単純明快で、バブル以降の日本の「失われた数十年」は、愚かしい例として繰り返し取り上げられ物笑いの種にされてきたが、それは根拠のない神話にすぎない、ということを示すことが眼目である。
たしかに、あの大震災と原発の災害が過度に誇張して報道されたことから推測できることだが、日本の経済についても幾重もの誇張や歪曲があったことは想像に難くない。そうした外部の誇張された評価を真に受けて、ますます日本人のセルフ・イメージが収縮してしまった、ということもあっただろう。外部の目に過度に敏感ですからね、日本人は。そんな相乗効果もあって、日本の内外で「失われた数十年」というイメージがすっかり定着してしまった感がある。しかし、特に最近のヨーロッパの経済状況やアメリカの貧富のとてつもない格差などと対比してみても、日本はまだそれほど酷いわけではないのでは? などと最近思うことが度々あったので、この記事の着眼点は私なりに理解できるものがある。
ちなみに、「失われた数十年」と訳した原語は“the lost decades”。もちろん、そう訳すしかない。バブル破裂後の十年のみならず、欧米では、それに続く十年、さらにその後の十年と、「失われた十年」を日本が引きずり続けてきたという評価が一般的なわけで、“the lost decades”という複数形にはそういう含意がある。これについては、かつて 『ウォールストリート・ジャーナル』の記事を紹介したことがある。
「㈱無為無策 三度目の失われた十年を迎えるかもしれない日本」・・・・http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-01-04
いつまでも改革を断行できずに、過去のしがらみをだらしなく引きずっているだけの日本というイメージが一般的であったのだが、日本経済を肯定的に扱う記事がないでもなかった。イギリス『ガーディアン』紙の次の記事などはその数少ない例。
「「ゾンビ」日本の経済的誤り」・・・・ http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-10-26
今回の記事は、こうした例外的な見解が今後さらに増えて行くだろうことを予想させるものかもしれない。原記事は3ページにわたっているので、3回に分けて紹介する。
The Myth of Japan’s Failure
By EAMONN FINGLETON
Published: January 6, 2012
http://www.nytimes.com/2012/01/08/opinion/sunday/the-true-story-of-japans-economic-success.html
「
日本の失敗という神話(1)

ファッショナブルな渋谷の街並み
アメリカ経済について楽観的になれるわずかな兆しはいくつかあるにはあるが、失業率は依然として高いし、国内は停滞気味だ。
アメリカ人は、もし正しい道を歩まなければ(その正しい道がどういうものであるかについて激しい論争があったが)国がどうなるかの警告例として日本を見てみろと何度も言われてきた。例えば、CNNのアナリストであるデビッド・ガーゲン(David Gergen)はそんな風に日本を描いてきた。「日本は今やとても意気消沈した国になってしまい、本当に後退してしまった」。
しかし、日本をそのように描き出すのは神話というものだ。多くの施策によって、日本経済は、いわゆる失われた数十年(それは、1990年1月の株式市場の暴落で始まった)の間でも上々の成績を上げてきた。最重要の施策の中には、アメリカよりはるかに上首尾の成績を残したものもあった。
日本は、その金融システムが破たんしたにもかかわらず、国民にますます豊かなライフスタイルを提供することに成功した。いずれ時が経てば、この時代が傑出したサクセス・ストーリーとして見なされるようになることも考えられるのである。
現実とイメージがこれほど大きく異なることがどうしてありうるのだろう? そしてアメリカは日本の経験から何かを学ぶことができるのだろうか?
たしかに、日本の住宅価格は、バブル期の猛烈な最終段階の短期間につけた馬鹿馬鹿しい高値に戻ったことはなかった。東証の株価も同様である。
しかし、日本経済と日本国民の力強さは多くの点で明らかだ。新聞の経済欄で物笑いの種になる日本というイメージとは必ずしも相容れない事実や数字は多数あるのだ。
・日本人の平均寿命は、1989年から2009年にかけて4.2歳も――78.8歳から83歳にまで――伸びた。これは、現在標準の日本人はアメリカ人より4.8歳も長生きであることを意味する。この平均寿命の伸びは、食事の違いがあるからというよりも、摂取する食事に大差がないにもかかわらず、達成されたのである。日本人はかつてないほど洋食を食べているからだ。平均寿命の伸びを説明するキーとなる要因は、より良い医療なのである。
・日本は、インターネットのインフラ構築で著しい進歩を遂げた。1990年代の中ごろまでは遅いいと嘲られていたが、今では状況は一変した。アカマイ・テクノロジーズ(Akamai Technologies)の最近の調査では、最速のインターネット・サービスが享受できる世界の50都市中、日本の都市は38もあったのに対して、アメリカの都市はたった3つだけだった。
・1989年末を基準にすると、円は米ドルに対して87%、英ポンドに対して94%も上昇した。貨幣の尺度として伝統的に引き合いに出されるスイス・フランに対しても円は上昇した。
・失業率は4.2%で、アメリカの約半分である。
・世界中の巨大ビルを追跡調査しているウェブ・サイトであるスカイスクレイパー・ページ・ドットコム(skyscraperpage.com)によれば、500フィート以上の高層ビルは、「失われた数十年」開始以降、81棟が東京で建設された。それに対して、ニューヨークでは64棟、シカゴでは48棟、ロサンゼルスでは7棟である。
・日本の現在の経常収支の黒字額――もっとも広い意味での貿易額だが――は、2010年で合計1960億ドルで、これは1989年の3倍以上の数字である。それと対照的に、その期間のアメリカの経常赤字は、990億ドルから4710億ドルに膨れ上がった。1990年代、中国の台頭の結果、日本は敗者になりアメリカは勝者になるということが一般的な通念となったが、そうはならなかったことが判明したのだ。日本は1989年以降、中国への輸出額を14倍以上に増やしたし、日本と中国の二国間貿易は広範囲にわたって均衡を保っているのである。
長年日本ウオッチを続けてきたアイヴァン・P.ホール(Ivan P. Hall)やクライド・V.プレストウィッツJr.(Clyde V. Prestowitz Jr.)が指摘しているように、「失われた数十年」というお話が誤っていることは、アメリカ人が日本に足を踏み入れる瞬間に明らかになる。日本に旅行する人は、通常、ケネディ空港やダレス空港などのアメリカのインフラの老朽化を見事に示すシンボルのような空港で旅行を開始し、近年大規模に拡張されモダンな装いに変貌した日本の空港に到着するからだ。
1980年代初頭から日本ウォッチを続けてきた著名なウィリアム・J.ホルスタインは、最近何年かぶりに日本を訪れた。「アメリカで記事で読むことと、実際に日本で目にすることとの間には劇的なギャップがありますね」と彼は述べた。「日本人はアメリカ人よりも良い服を着ています。ポルシェ、アウディ、メルセデス・ベンツやその他の最高級のモデルを含む最新の車を日本人はもっているし、これほど多くのペットが甘やかされているのを私は見たことがありません。この国の物理的なインフラは改善と進化を続けていますしね」。
」(つづく)






