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2011大晦日 浅草寺周辺のたたずまい [雑感]

 大晦日、去年と同じように、子供と浅草寺周辺を散策。もう屋台が所狭しと並んでいた。だがもちろん決戦は夜である。夜に備えての仕込みを早くも開始している所もあったが。







(夜になって)

 5時すぎに、例年通り、蕎麦上人に予約した蕎麦をとりに行くために、やはり子供と出かける。弁天山は、もう除夜の鐘の準備はできていた。









 浅草寺境内の露天もそろそろ本番モードか? 





 境内から仲見世に廻ったが、いつもの土曜日と変わらない普通の混雑だった。



 

しかし、なんと、ここでカメラのバッテリが切れてしまった。例年通り、並木藪の行列や蕎麦上人のたたずまいを写そうとしたのだが、水泡に帰す。蕎麦上人から持ち帰った「せいろ3人前」と「ゆずきり3人前」。やはり、ここの「ゆずきり」は絶品だ。





 これだけでは何なので、最後に、仲見世で写した一枚を賀状代わりにして、今年の締めとさせていただく。












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年末恒例のお節の買い出し [雑感]

 毎年の年末恒例のお節の材料の買い出しに上野に出向く。12月28日の昼だった。

 恐らく混雑しているだろうアメ横はパスして、御徒町の吉池に行く。


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 細かいものは家の近くで買うことにして、この買い出しでは、生の筋子・子持ち昆布・あまえび・紅鮭のサーモン等を買った。事前にニュースで知っていたが、イクラも生の筋子も高かった。筋子は高い以前に数が少なかった。鮭の水揚げがないのだそうだ。

 
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 吉池から上野駅まで歩いて帰ったが、何の用もないのだが、アメ横をちょっとは通って行こうかという気持ちになるものだ。良く見ると少しずつ変わってはいるが、総体としてみると、通りの佇まいも人の様子も十年一日のごとく変わらないように見える。


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 例年ならば、どこを見ても荒巻鮭が並んで吊るされているのだが、やはり、どこの店でも鮭の存在感が薄いな。まあ、大したことではないけど。

 さて、この行きすぎる人波のように、人も時も移り変わり、やって来てはすぎ去っていく。やはり、年の暮れは、そんな当たり前のことがいつもよりも少しばかり痛切に感じられるものだ。


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抑圧の道具と化した自由―――リバタリアニズム批判 [海外のニュース記事]

 自由は善で、自由に対する規制や制限は悪。
 
 一般的な語感としてはそうだし、多くの人も何となくそういう語感に引きずられてしまうのも事実だ。だが、果たしてそうか?

 個人の自由に対する国家からの介入(主に経済的な意味での介入)を最小限にしようという思想は、欧米においては伝統的に根強く存在していたし、今日でもアメリカの保守層には強固に存在している。その思想は、「リバタリアニズム(Libertarianism)」の名のもとに、擁護・批判されることが多い。「リバタリアニズム」は、日本でも有名になったサンデルの『これからの「正義」の話をしよう』でも取り上げられているので、知っている人も多いことだろう。手ごろな解説については、以下のwikiの項目を参照されたい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0


 しかし、かつてはいざ知らず、昨今の「リバタリアニズム」は企業や金持ちの強欲・貪欲を正当化するための哲学に堕してしまい、そこで持ち出される「自由」は、弱者や貧困にあえぐ人々をさらに抑圧する道具と化してしまったというのが、このコラム記事の内容。イギリス『ガーディアン』紙で見かけて、興味をそそったので紹介してみようと思った。

 「われわれは99パーセントだ」の運動も、突き詰めれば、こうした「(右派)リバタリアニズム」に対する戦いと特徴づけられるかもしれない。結局は「自由」というものを(正義や財産権と関連させて)どう考えるかという問題に行きつくようだが、今日はこれ以上述べるのは止めておこう。こうした点に関心のある方は、以下のコラム記事に目を通していただければ、大枠は理解できると思う。


This bastardised libertarianism makes 'freedom' an instrument of oppression
George Monbiot
guardian.co.uk, Monday 19 December 2011 20.30 GMT

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/dec/19/bastardised-libertarianism-makes-freedom-oppression



  安っぽいものになり下がったリバタリアニズムは「自由」を抑圧の道具にする


 それは、国家が99%の国民を保護する必要性を否定し、際限もなく搾取しようと望む人々が利用する隠れ蓑だ


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 「自由(Freedom)」 : それに誰が反対できようか?  しかし、この語は今、おびただしい形をとって現われる搾取を正当化するために利用されているのだ。右派のマスコミやブログを通して、シンクタンクや政府機関の間で、この自由という語のおかげで、貧困層の生活に対するありとあらゆる攻撃や、1%の人間のおかげでわれわれが被っているありとあらゆる不平等や権利侵害に免罪符が与えられているのだ。リバタリアニズムは、かつては止むに止まれぬ気高い大義をもっていたのに、どうして不正義と同義語になってしまったのだろうか? 

 
 自由――規制からの自由――の名のもとに、銀行は経済をダメにすることが許された。自由の名のもとに、大金持ちに対する税がカットされた。自由の名のもとに、企業は、最低賃金を引き下げ労働時間を延長するためのロビー活動を行っている。アメリカの保険会社が実効性のある公的医療を阻止しようと議会に働きかけるのも同じ趣旨だ。政府はわれわれの法案を台無しにしている。大企業は環境を破壊している。これは、権力をもつ者が弱者を搾取する自由であり、金持ちが貧しい者を搾取する自由なのだ。

 
 右派リバタリアニズムは、立法化に対する正当な制限がありうることを認めないし、それが他人の生活にどのような影響を及ぼすものであるかには無関心だ。こうしたことは、イギリスでは、納税者同盟(Taxpayers' Alliance)、アダム・スミス協会(Adam Smith Institute)、経済情勢研究所(Institute of Economic Affairs)、政策交換会(Policy Exchange)などの集団によって強力に推進されている。これらの集団が抱く自由の概念は、私には、強欲を正当化するものにしか見えないのである。

 
 では、われわれがこうした自由の概念を問題視するのに手間取ってきたのはどうしてなのか? その理由の一つは次の通りだと私は思う。われわれの時代の大きな政治的対立――一方には、ネオコンや億万長者やそれらが支える企業があり、他方には、社会正義をめざす活動家や環境活動家がいる――は、消極的自由(negative freedom)と積極的自由(positive freedom)との衝突として間違った扱いを受けてきた。これらの自由は、アイザイヤ・バーリン(Isaiah Berlin)の1958年のエッセイ『自由の二つの概念(Two Concepts of Liberty)』でとても明確に定義されている。このエッセイは美しい作品だ。それを読むことは見事に演奏された楽曲を聴くようなものだ。このエッセイにひどい扱いをしないように私は努めるつもりだ。

 簡潔で大雑把に言えば、消極的自由とは、他人の干渉をうけずに存在したり行為したりできる自由のことである。積極的自由とは禁止から自由であること、社会的または心理的制約を超越することによって得られる力のことである。バーリンは、積極的自由が専制政治によって、特にソ連によって、いかに悪用されてきたかを説明した。ソ連は、人民が権力の座につくことによっていかに容赦のない統治がおこなわれたかを示してくれたが、ソ連の人民は、単一の集団意志に自らを従属化させることによって、より高い自由度を達成できると思っていたのである。

 右派リバタリアンの主張によれば、環境保護の活動家や社会正義をめざす運動家たちは、積極的自由のソ連的な考え方を復活させようとしている隠れ共産主義者たちだ、ということになる。しかし実は、この争いのほとんどは、消極的な自由同士の衝突から成り立っているのである。

 バーリンは次のように指摘した。「どんな点でも決して他の人間の生活を妨害しないような完全にプライベートな活動というものはない。「カワカマスにとっての自由は、(それに食べられてしまう)ミノウにとっては死なのである(Freedom for the pike is death for the minnows)」」。だから、ある人々の自由は、しばしば「他者の自由を確保するために」切り詰められなければならない、とバーリンは主張した。言い換えれば、あなたは自由に拳(こぶし)を振り回すことができるが、その自由は、私の鼻づらが始まるところで終わる。「占拠せよ」の運動が典型を示しているように、環境保護や社会正義をめざす運動が擁護している自由とは、自分の鼻づらを殴られない消極的自由なのである。

 バーリンはまた、自由は、正義や平等や人間の幸福などの価値を侵害することがありうるということも示した。「私自身や私の階級や国家の自由が他の多くの人間の不幸に依存しているならば、これを促しているシステムは不正であり不道徳である」。したがって、国家は、他の人々の自由に干渉する自由には――または正義や人間性と相いれない自由には――法的な制約を課すべきなのである。

 消極的な自由同士のこうした葛藤は、イギリスの環境保護運動の礎(いしずえ)ともなる資料と見ることができる19世紀の最も偉大な詩の一つの中に簡潔に描かれていた。それは『倒れたニレの木(The Fallen Elm)』という詩だが、その中でジョン・クレア(John Clare)は、彼の大好きだった自宅近くのニレの木が(たぶん、地主によって)切り倒される様子を描いた。「私利私欲はお前が自由の邪魔になっていると見た/ だからお前のあのお馴染の木陰は専制政治でなくてはならなかった/お前は あの悪党が 権力者をそそのかしながら/大声で自由とわめき散らし そして自由な人々を抑圧するのを聞いた」。


 

 地主は、木を切り倒す自由を行使していた。そうすることで、地主は木を見て喜ぶ彼の自由を侵害した。木の存在は彼の人生をより良いものにしてくれていたのだ。地主は、木を自由――あくまで地主の自由なのだが、それを彼は人類の一般的自由と混同している――に対する障害と見なすことによって、この破壊を正当化する。国家の関与(今日ならば、木の保全命令という形式をとるかもしれない)がなければ、権力のある者は権力のない者の喜びを踏みにじるだろう。そしてクレアは、倒木を彼の自由に対するさらなる侵害になぞらえるの。「音楽を奏でるニレの木よ お前の破滅はこのようだった/ 自由の権利とは お前の自由を傷つけることだった/連中は 自由の名のもとに 私のものである小さな自由をも お前を扱ったように 踏みにじることだろう」。


 だが、右派のリバタリアンはこうした葛藤を認めたりはしない。彼らは、クレアの地主のように、同じ自由が万人に対して同じ影響をもつかのように語るのである。彼らは、汚染し搾取する自由を、そして――あの拳銃好きの連中の間では――殺す自由さえも、まるで基本的な人権であるかのように主張する。彼らは、そうした自由を制限しようとする試みはどれも専制政治と見なす。彼らは、カワカマスの自由とミノウの自由との間に衝突があることを見ようとしないのである。

 先週、「第五列(The Fifth Column)」という名のインターネットのラジオ・チャネルで私は、共産主義革命を掲げる政党の残党が作った右派リバタリアンの集団の一つであるインスティチュート・オブ・アイディアズ(Institute of Ideas)のクレア・フォックス(Claire Fox)と気候変動について討論した。フォックスは、BBCの番組「モラル・メイズ(Moral Maze: 倫理の迷宮の意味)」で鋭い質問をするために恐れられている人物である。しかし、私が彼女に単純な質問をしたとき――それは「あなたはある人々の自由が他の人々の自由を侵害することを受け入れますか?」という質問だったが――、私はイデオロギーが事故車のフロントガラスのように粉々になるのを目にする思いだった。私が用いた例は、私が2000年に訪れたルーマニアの鉛精錬工場で、その工場の汚染する自由は近隣住民の命を縮めているのだった。近隣住民の消極的自由――汚染からの自由、中毒からの自由――を高めるために、その工場が規制されるべきなのは確かですよね? と私は尋ねた。彼女は数回それに答えようと試みたが、彼女の哲学を粉砕しないですむような首尾一貫性のある答えは何も現われなかった。


 現代のリバタリアニズムは、無制限に搾取したいと思っている人々がまとう隠れ蓑である。それは、われわれの自由を侵害しているのは国家だけだと主張する。それは、われわれをますます不自由にさせることに銀行や企業や金持ちが一役買っていることを見ようとしない。それは、弱者の自由を保護するために、銀行や企業や金持ちの活動を国家が制限する必要があることを認めない。これほど安っぽいものになり下がった片目の哲学は一種の詐欺であって、そのプロモーターたちは正義を自由にゆだねることによって、正義に不意打ちを喰らわそうとしているのである。そうすることによって、彼らは「自由」を抑圧の道具に変えたのである。

」(おわり)





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厳粛な演奏 : 荒城の月 [子供とともに(更新ほぼ停止中)]

 個人的にクリスマスに結びつく思い出のようなものは皆無に等しい。
 そういうものは、何か違う人種のためにあるのだろうという感覚だった。たぶん、男性の多数がそうだろうと思う。

 ただ、人並みに親になってみて、自分の子供には何か得難い思い出をもってもらいたいと思うのは親としての月並みな願いである。

 さて、家族でごちそうを食べて、サンタが来るのを待つばかりとなったイブの夜、子供がこの夜のためにバイオリンの演奏をしてくれると言い出した。習い始めてまだ3カ月ほどである。ほとんど練習もしていないので、まあ、推して知るべしというところだが、これを記録にとっておけば、間違いなく「得難い思い出」になることだろう。前後にいろいろあったのだが、演奏の部分だけをアップしてみた。








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浅草はもう正月気分 [雑感]

 気がつくともう年末。浅草寺境内で羽子板市が行われていたこの前の土曜日、仲見世をぶらり歩いた。
 混雑する仲見世はめったに歩かないのだが、たまには人ごみにまぎれるのも良しという気分になる。例年そうだが、12月の浅草にとってクリスマスは存在しないも同然で、一足飛びで正月の態勢に突入する。

 







 その日の晩の番組でたけしが、正月近くなると必ず各社のニュース番組が取り上げるネタの一つに、羽子板市の羽子板に今年はどんな芸能人が登場するかというのがあると面白おかしく指摘していたが、確かに大抵の人はそういうニュースのネタとしてしか知らないだろう。しかし、いざ間近で見ると、ほとんどの人は羽子板の綺麗さと物珍しさに見とれるばかりのようだ。ただし、見とれるばかりで、買う人を私は見かけたことがない。そういう意味で、まことに不思議な「市」ではある。










 個人的には、一年の仕事はもう手仕舞い、後は除夜の鐘を待つばかりとなった。とりあえずの感慨としては、ああ、また一年が経ってしまうのかということだけであるが。











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労働の奴隷的本性 -- シモーヌ・ヴェイユの『奴隷的でない労働の第一の条件』を読みながら(2) [探求]

  シモーヌ・ヴェイユの「奴隷的でない労働の第一の条件」という論文の紹介の第二回目。

 労働(者)についての普通の理論でないことは、一読するだけですぐ判ると思う。二回に分けて紹介したヴェイユの文章は、紹介した部分よりもずっと長いものだが、もっとも重要なのは紹介した冒頭の5ページである。

 かいつまんで概要を述べよう。


 1.労働は、それが生きるための必要性(必然性)に支配されている限り、奴隷的と言うしかない。いや、もっと悪いのかもしれない。「人が働くのは、ただ食べたいという欲求をもつからだ。だが、人が食べるのは、働きつづけることが出来るためだ。そして新たに、食べるために人は働くことになる」。これは人間の活動と言うよりも、「かごの中のリス」の活動と言うべきなのかもしれない。

 こうしたリスの活動は、今日でも、ここかしこに、あるいは至る所にある。恐らくは、今後ますます増えて行くに違いない。

 (蛇足ながら、ハンナ・アレントが後に『人間の条件』の「労働」の章で大々的に展開した思想の端緒はヴェイユにあるように思えるのだが、どうだろうか。)

 2. 労働者がこうした奴隷的境遇から抜け出せる(あるいは一時的に忘れる)方法はいろいろある。社会の上層に登りつめることが最も望ましいが、しかし、それはほとんどの人には無理な話。一時的な快楽や浪費に走るしかないが、それは一時の麻薬のようなもの。しかし、そうした麻薬のうちで最大のものは、社会体制を変えることを目指す革命に対する欲求だ。革命思想は民衆のアヘンだ。しかも最大のアヘンなのだ。

 社会改良の運動に身を投じて、そうした運動の不毛さに深く失望したヴェイユは、政治の体制を変えたところで労働者の不幸を何一つ変えることはないと深く確信していたようだ。恐らくそうなのだろう。

 ここまでは、とくに独自なものはあまりないと言えるかもしれない。しかし、次の論点は、絶対にユニークであり、しかもそれを受け継ぐ思想家はいなかったと思う。

 3. 労働者をその奴隷的状態から救うのは、詩であり宗教である。 

 なぜヴェイユがこう考えたのかの理由を単純化すると、次のようになるだろう。

 α) 労働は奴隷的なものであり、人間の精神を荒廃させる。しかし、労働が奴隷的だったのははるか昔から変わらぬことであった。しかし、今日のような人心荒廃の状況は、かつての時代には見られないものだった。では、そうした荒廃を防ぐものが以前にはあったはずだ。それは、宗教以外にないのではないか?

 おそらく、こういう思想を書きつけたときにヴェイユの脳裏に浮かんでいたのは中世ヨーロッパの民衆のあり方だったのだろうか?  恐らくそれだけであれば、単にヨーロッパの保守的な思想がここにあるにすぎないということになる。だが、そこに至るための部分に、何か反動的で保守的にすぎないわけではないものが感じられるのである。それに最後まで洗礼を拒絶したヴェイユを、単に伝統的な信仰へと逆戻りさせて理解しようとするのは、やはりどこか違うように思うのである。

 β) 労働者が関心を寄せるのは、いま現に存在しているものだけである。いま現に存在しているもので、彼らの空虚な状況を耐えられるようにしてくれるのは、「美」以外にありえない。美だけが、この世界を正当化してくれる。その美の光が労働者の日常に差し込むことによってのみ、そしてそれによって労働者の日常の実体が「詩(poesie)」になることによってのみ、労働者は奴隷的な境遇から抜け出せるのだというわけである。


  以上を受けて、この「美」、この「詩」は、神からしか発しないはずだ、と続いていくのだが、ここで止めにしよう。

  「民衆は、自分の人生の日常的な実体そのものが詩となることを必要としている」という言葉を、古い時代にさかのぼる意味においてではなく、何か未知の思想がここに眠っているような意味において聞き取ることはできないだろうか?  私としてはそう思いたいのである。





Simone Weil : Condition première d'un travail non servile, in Oeuvres Complètes Ⅳ, Ecrits de Marseille,p.420~422.




 奴隷的でない労働の第一の条件 

 民衆の人心荒廃の原因をあれこれ探しもとめる必要はない。原因は労働にあるのだ。その原因は昔からずっとあったし、労働の条件に本質的なものだ。探しもとめなければならないのは、かつての時代に人心荒廃が生ずるのを防いでいた原因の方である。

 気力に変動がなかったり体力がみなぎっていれば、骨折りの仕事も苦痛には感じられないし、上で述べた空虚さに耐えることもできよう。そうでなければ、それに代わるものが必要だ。自分自身や自分の子供の社会的地位が上昇することを望むことなどはその代償の一つである。安易で粗野な快楽も代償であり、同種のものだ。それは、(地位の上昇といった大それたことを望む)大望というよりは(もっとささやかな)夢と言うべきものだ。日曜日は、労働の必要(必然)が存在するということをみんなが忘れたいと願う日である。そのためには浪費しなければならない。まるで働いていないような服装をしなければならない。うわべを満足させてくれるものや、ライセンスを取得すれば容易に手に入る「自分は有能だ」という錯覚がなければならない。遊び歩くことはまさに麻薬の働きをするわけで、苦しむ人にとって麻薬の使用はつねに一つの誘惑だ。最後に、革命もまた同種の代償の一つである。それは集団のなかに移し替えられた大望であって、すべての労働者が労働者の境遇を突き破って社会の上層に登りつめることに対する狂おしい大望なのだ。


 革命感情は、最初ほとんどの人々においては、不正義に対する反抗だったが、多くの人においてはすぐに、国家レベルでの帝国主義とまったく良く似た労働者の帝国主義に変貌してしまうものだし、歴史的にもそのような変貌はあった。それは、一つの集団が人類全体、人間の生のあらゆる局面をまったく無制限に支配することを目的とするからである。この夢の馬鹿馬鹿しい点は、支配権が、命ぜられるがままに仕事を行っている人々、したがって支配することができない人々の手に渡るとしている点にある。


 革命思想は、社会的不正義に対する反抗であるかぎり、好ましく健全なものである。だが、労働者の境遇そのものに本質的な不幸に対する反抗であるかぎり、それは虚偽となるのだ。なぜなら、いかなる革命もこの不幸を廃棄することはないからである。けれど、この虚偽こそ最大の影響力をもったものなのだが、それは、こうした本質的な不幸が、不正義そのものよりも切実なものとして、深く、そして苦痛をもって感じられるものだからである。それに普通、この両者は混同されている。マルクスが宗教に与えた民衆の阿片という肩書きは、宗教がみずからを裏切っている間は、宗教にふさわしいものだったかもしれないが、それは本質的に革命にこそふさわしい肩書きなのである。革命に対する希望はつねに麻薬である。



 革命は、それと同時に、必要性(必然性)にもっとも対立するものとして、これまた同じ不幸に対する反発である冒険欲をも満たすものでもある。青少年の間でよく見られる探偵小説や探偵映画に対する嗜好、犯罪にひかれる傾向もまた、この冒険欲に呼応するするものである。

 ブルジョワたちはまことに素朴に、民衆には、彼らの人生を支配している目的、すなわち金銭の獲得という目的を広めるのがうまいやり口だと信じてきた。彼らは、出来高払いや都市と農村との交易の拡大によって、可能なかぎりそれに成功してきた。しかし彼らは、それによって不満を危険なまでに激しいほど高めただけだった。その原因は単純である。欲望と骨折り仕事の目標であるかぎりの金銭は、その内部にいる限り金持ちになるのは不可能であるような境遇を、みずからの領地に招き入れることはできないからだ。中小企業家や街の商人は金持ちになったり、大企業家や大商人になることはできる。大学教授や作家や大臣は、金持ちもいれば貧乏もいる。ところが、大金持になる労働者は労働者であることを止めるのであり、このことは農民に関してもほとんどつねに同様である。労働者が金銭欲にさいなまれるときは必ず、一人あるいはすべての仲間たちと一緒に、労働者としての境遇から脱出しようと望むのである。
 
 労働者たちが生きている宇宙は目的性を拒絶する。例外的な状況に見合うごく短期間を除けば、目的がそこに入りこむのは不可能だ。アメリカやロシアのような新興国の急速な国土整備は、非常に活発なリズムで変化につぐ変化を生みだしているので、ほとんど毎日のように、ワクワクさせ、欲求や希望を与える新たなモノを提供している。こうした建設熱はロシア共産主義の魅力の大きな武器となったが、それは偶然の一致によるものにすぎなかった。なぜならその建設熱はロシアという国の経済状態に由来するものであって、ロシア革命にもマルクス主義の理論にも由来するものではなかったからである。アメリカ人やロシア人がしたように、この例外的で一時的で束の間の状況にもとづいて形而上学的な理論を作り上げるならば、その形而上学は虚偽にしかならないのである。


 家庭は養育すべき子供という形で目的を得る。だが、子供たちのために今よりも高い身分を望むのでないかぎり――そうした社会的上昇は、事柄の本性上、必然的に例外的なものだが――、自分と同じような人生を運命づけられている子供を見ると、その人生が空しく重苦しくなるであろうことを痛いまでに感じないわけにはいかないのである。



 重くのしかかる空しさこそ、多くの人を苦しめるものである。この空しさは教養がなく知性もわずかな人の多くにさえも感じられる。その身分のため、その空しさがどのようなものであるかを知らない人々は、一生涯それに耐えつづけている人々の行動を公正に判断することはできない。そのために死ぬ人はいないだろうが、それはおそらく飢えと同じくらいつらいものだ。あるいはそれ以上かもしれぬ。パンよりもこの苦しみの救済手段の方が必要だと言うことは、おそらく文字どおり真実であるだろう。


 その救済手段には選択の余地はない。ただ一つしかないのだ。ただ一つのものだけがあの単調さを耐えられるものにするのだが、それは永遠に光を与えてくれるもの、美である。


 魂の欲求が、存在しうるものあるいは存在するだろうものに向かうのではなく、現に存在しているものに向かうことを、人間の本性が耐えられる場合はただ一つしかない。その唯一の場合とは美である。美しいものはすべて欲求の対象となるが、人はそれが別のものになるのを望まないし、何かがそれを変えることを望まず、現にあるそれそのものを望むのである。晴れわたった夜の星空を人が欲求をもって眺めるとき、人が欲求するのは、現に所有している光景だけなのである。


 民衆はみずからの欲求のすべてを自分たちがすでに所有しているものに向けるしかないので、美は民衆に相応(ふさわ)しく、民衆は美に相応しい。詩は、他の社会的境遇にいる者にとっては賛沢の一種である。民衆はパンと同じくらい詩を必要としている。言葉のなかに閉じこめられた詩のことではない。そのような詩は、それだけでは、民衆にとって何らかの役に立つことはできない。民衆は、自分の人生の日常的な実体そのものが詩となることを必要としているのである。
 
 このような詩にはただ一つの源泉しかありえない。その源泉は神である。そのような詩は宗教以外にはありえない。どんなに知恵を絞って、どんな方法、どんな改革、どんな騒動を企てようとも、労働者がその境遇によって置かれている宇宙に目的性が入りこむことはない。けれど、この宇宙は、その全体のまま、唯一真である目的に結びつけられることができる。それは神につなぎ止められることができるのだ。労働者の境遇は、あらゆる人間の存在そのものを構成している目的性に対する渇望が、神による以外には、満たされることのない境遇なのである。・・・

」(以下略)

 






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労働の奴隷的本性 -- シモーヌ・ヴェイユの『奴隷的でない労働の第一の条件』を読みながら(1) [探求]

 最近、貧困や労働についての記事を目にすることが増えてきた。

 ここで何度も取り上げた「占拠せよ」の運動もそうだし、数年前社会問題化した派遣労働や深刻化しつつある貧困の現状などもそうだ。

 貧困や労働は必ずしも自分の専門の分野ではないが、自分なりに考えを深めたいこともあって、そのための(古典的、あるいは哲学的な)材料をこの場で提供してみようかなと思い至った。

 まずは、シモーヌ・ヴェイユの「奴隷的でない労働の第一の条件」という論文の前半部分を紹介してみたい。とても歯切れがよく、かつ斬新な思想が盛り込まれているからだ。翻訳はかつての著作集に収録されているが、あまり出来が良いとは言いかねるものなので、自分なりの翻訳を試みてみた。二回に分けて紹介する。


 Simone Weil : Condition première d'un travail non servile, in Oeuvres Complètes Ⅳ, Ecrits de Marseille,p.418~420.



 奴隷的でない労働の第一の条件 

  本来の意味での労働である肉体労働、そして一般的に言えば、あることを実行するという労働の内には、隷属(servitude : 奴隷的な服従)という要素が還元不能な形で含まれているのであり、それは、もし完全な社会的平等が実現したとしても消滅することはないだろう。それは、労働が目的性ではなく、肉体的必要性(必然性)に支配されているという事実である。人が労働を行うのは肉体的必要からであって、善なるものを目ざしているからではない。生涯、労働の試練にさらされ続ける人々が言うように、「生活費を稼ぐ必要があるから」なのだ。こうして人は骨折り仕事を提供するわけだが、その挙句に手に入るのは、どう見ても、今もっているもの以上のものではない。その骨折りをしなければ、今もっているものすら失われてしまうのである。


  しかし、人間の本性のうちにあって、骨折りの仕事に向かうエネルギー源があるとすれば、欲求以外にはない。ところが、今もっているものを欲し求めるということは人間に起こるはずはないことである。欲求とはある方向を目指すことであり、何ものかに向かって運動を開始することである。運動とは、自分がいまいない地点を目ざすものである。もし運動が開始されるや否や出発点に逆戻りするならば、鳥かごの中のリスや独房の中の囚人のようにぐるぐる廻っているだけである。いつまでもぐるぐる廻りつづけていれば、すぐに吐き気が込み上げてくるものだ。

 

 吐き気、倦怠、ムカつくような不快感、これこそ労働する人々を襲う大きな試練だ。とりわけ、非人間的な条件のもとに置かれている人はこの試練にさらされるし、それほどでもない人であっても同様だ。ときには、この試練が最良の人々のほうをより一層蝕むことがある。


 ただ生存していることは人聞にとって目的とはならない。それはただ単に、すべての善(それが本物であれ偽りのものであれ)を支えるものであるにすぎない。善は生存に付け加わるものだ。善が消滅し、生存がもはやいかなる善によって飾りたてられることがなくなって、むき出しの裸形になってしまうとき、生存は善とはいかなる関連ももたないものになってしまう。それは悪ですらあるだろう。まさにこの瞬間に、生存は存在しないあらゆる善に取って代わり、それそのものが唯一の目的、欲求の唯一の対象となる。魂の欲求は、むき出しでヴェールをはぎ取られた悪にくくり付けられる。その時、魂は恐怖のなかにいるのだ。


 この恐怖は、即座の暴力が死をもたらしかねない瞬間に対する恐怖である。この恐怖の瞬間は、かつて、勝者の剣のもとで武器を捨て、殺されることだけは免れた者にとって、生涯にわたって続くものだった。助かった命とひきかえに、彼は来る日も米る日も一日中、殺されたり鞭で打たれたりしないようにと願う以外には何一つ望むこともできぬまま、奴隷状態のなかで、自分のエネルギーを骨折り仕事のなかで使い果たさなければならなかった。彼は生存していくこと以外のいかなる善も求めることはできなかった。奴隷になったその日から、魂の半分は奪い去られると古代人は言っていたものだ。



  しかし、骨折り仕事を重ねて一か月、一年、二十年たったあげく、自分のおかれた状況が必然的に最初の日とまったく同じであることに気づくという境遇はどのようなものであれ、奴隷状態と類似している。類似点は、いま自分がもっているもの以外のものを求めることが出来ないという不可能性、善なるものに向けて骨折りの仕事を方向づけることが出来ないという不可能性にある。人が骨折りの仕事をするのは、ただ生きるためだけなのである。


 そのとき、時間の単位は一日となる。その一日の中で人は円を描いて回るのだ。つまりそこで、壁と壁との間を行ったり来たりするボールのように、労働と休息の間を人は行ったり来たりする。人が働くのは、ただ食べたいという欲求をもつからだ。だが、人が食べるのは、働きつづけることが出来るためだ。そして新たに、食べるために人は働くことになる。



 こうして、このような生活ではすべてが媒介的となり、すべては手段と化す。目的性というものがどこかに結びつくことはない。製造される物も手段である。それはいずれ売買されるだろう。そんなものにだれが自分の善を置くことが出来ようか? 原料も工具も労働者の肉体も、労働者の魂さえもが、製造のための手段にすぎないものとなる。必要性(必然性)は至る所にあるが、善はどこにもないのである。


」(つづく)





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妄想とともに暮らした後で生きる目的を発見する(3) [海外のニュース記事]

 統合失調症に由来する妄想に悩み続けてきた男性の軌跡をたどる第三回目。

 結局、この記事の教訓は何か? やはり、信頼できる他者の働きかけがないと、妄想の一人称の閉鎖空間から抜け出すのは困難だということなのか? それとも、そうした働きかけはきっかけにすぎず、やはり肝心なのは本人の意思やある種の強さなのだろうか? しかし、このグリーク氏の場合は、自分のあり方を客観視できる資質が強かった――自分で理論化できるほどの資質――という意味で、かなり特殊な部類に属すると言えるのではないか? あるいは、それは何も特殊ではない、何かきっかけがあれば、誰にでもできることなのではないか?――なぜなら、自分が経験したことに向き合うことなのだから、なぜできないことがあるだろう?


 そんな疑問が次々に湧いてくるが、ここではそれ以上のことを言うのは控えよう。とりあえず言えることは、病的な妄想(の体系)に陥った人間自身が、自らの人的・知的資源を駆使してそこから抜け出すのが最善の道だというこのケイリー氏のシリーズ全体に共通する思想が、この記事にも見出せるということであろう。

 しかし、少し抗議したいことがあって、それは、この記事で述べられる妄想についての捉え方が、少なからずステレオタイプ化された、かなり陳腐なものであるということである。病的妄想のうちに積極的な意義を見出そうとする解釈はミンコフスキー以降少なからず提出されてきたのであるから。

 そうした解釈の中でも、妄想とは、人間が生き延びるために脳が生み出す戦略なのだという捉え方を、私はかなり気に入っていて、そういう主張を掲げる論文の翻訳をアップしたことがある。こういう点に興味をもたれる方はぜひとも参照されたい(http://miksil.blog.so-net.ne.jp/2010-11-03)。



Finding Purpose After Living With Delusion


By BENEDICT CAREY
Published: November 25, 2011

http://www.nytimes.com/2011/11/26/health/man-uses-his-schizophrenia-to-gather-clues-for-daily-living.html?pagewanted=3&_r=2&partner=rssnyt&emc=rss&adxnnlx=1322486851-NQPsFAcDKAPOGLWJGy2rEg



妄想とともに暮らした後で生きる目的を発見する(3)



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(グリーク氏は、コンピュータ・プログラマーだが、社会活動や講演活動で一日が埋まってしまうこともある)


 ドアのところに立っていた男性は救世主のように見えなかった。ボロボロのジーンズ姿で髪はボサボサ、柔和な目をしていてうっすら笑みを浮かべていた。でも彼は、冷蔵庫がほとんど空っぽだった日に、晩ご飯の用意をしてあげるよと申し出たのだ――彼は炒め物を作ってくれた。

 二人の隣人は友人になり、親密になり、ついには恋に落ちた。それが何時のことだったかは二人とも正確に言うことは出来なかったが、彼女はグリーク氏が通りから自分のアパートに到着するのを窓越しに眺めていた時のことを覚えている。彼の古いホンダは白煙をゴホゴホあげていた。彼はボンネットを叩き、エンジンを凝視しながらスローモーションで車から後ずさりをして、急にアパートの方に向きを換え――そして、顔から茂みに飛び込んで、姿を消した。「私は「まあ、何かあったのね、とは思ったわ」と彼女は言った。「何があったのかは知らないけどね。多分ぼんやりしていたんじゃない?」。

 彼らは2003年結婚したが(グリ―ク氏の妻はアーチストだが、プライバシーのために、自分の名前がこの記事に載らないように求めた)、彼女は、彼が自分の宗教的な幻想(これは、今では投薬治療でコントロールされている)を首尾一貫した個人的な物語りに適合するように作り変える手助けをした。その物語りの方が彼のその日その日を導くものとなったのだ。

 
 お前はろくでなしだという恐ろしい声や不吉な徴(しるし)は、校庭で同級生たちに脅されたときに、皆から仲間はずれにされたという子供時代の現実的な恐怖心が具体的な形になって現れたものにすぎなかった。地上で天国を探そうとする彼の探求は、ある意味で、その運命から逃れ、安全な場所を見つけようとする試みだった。しかし、それはまた、世界を正そうとする願望を劇的に表現したものでもあった。この使命は無意味な空想として始まったものかもしれないが、時にどうしてもそうせずにはいられない感情的な命令、ちょっとした親切な行為をしないではいられない欲求になった。たとえば、雪に埋もれた隣人のために食事を作ってやろうとする欲求がそれである。



 病気とうまく付き合うための方法



 「彼が非常に情熱的に取り組んでいる大義はこんなに長いリストになっているし、彼はほとんどどんなことにも強烈な意見を持っていますが、彼は他の人々との関係にとても敏感で他の考え方も認めています」と述べるのはメリッサ・ヴァン・ミーター。彼女は大学でグリーク氏と共同の作業をしたことがあり、彼とはきわめて異なる政治的見解をもっている。「彼が個人的にあれほど多くの問題を扱っていながら、なおかつ職業的にもきちんと仕事をしていることは私に感銘を与えてきましたよ」。


 「僕が妄想を自分の実人生で起こる物事の文脈の中で見始めるようになって、ついに妄想は意味あるものになったのです」とグリーク氏は言った。「そして、自分の精神病の物語りを理解することが、まともでいられるために僕が必要としているものは何かを知る手助けになったのです」。


 グリーク氏の方法は、セラピストを時折訪問したり慈善行為を定期的に行ったりしながら、瞑想と仕事と薬物療法を組み合わせることから成り立っている。慈善事業は地域社会を改善するためのものもあれば、仕事場の同僚や友人(とりわけ、精神疾患の治療に関わりのある人々)のためのものもある。


 精神病的な妄想を経験したことのある人の手助けをするために、彼は妄想が何を意味するのかについての自分なりの理論を頼りにする。20例の妄想的な経験(そのすべては、患者が一人称で記述したものだが)を分析した際に、グリーク氏は4つの筋書きをとり出した。

 その一つが救済者(特定のグループを救おうとする使命に基づく)の筋書きであり、自己を嫌悪する(自分は極度に無価値という感覚に迷い込んだ)人の筋書きであり、幻視者(真実をもち帰ろうとして精神的な領域に旅する途上にある人)の筋書きであり、救世主(奇跡や神々との接触によって世界を変える人)の筋書きである――これらのうちの最後がグリーク氏の精神病の物語りなのである。


 グリーク氏の見立てでは、そのそれぞれが、孤立であれ虐待であれ家庭の崩壊であれ、特定の恐怖心やトラウマから生じたものであり、それはちょうど彼自身の妄想の物語りが社会の不適格者であるかもしれないという恐怖心を象徴的に言い表していたのと同じである。彼は精神医学誌に自分の研究結果を載せる準備をしているところであり、また多くの時間を費やして、精神病に対処する家族のためのマニュアル(『統合失調症:回復のための青写真(Schizophrenia: A Blueprint for Recovery)』)を作った。


精神病における物語りの筋書きに関するグリーク氏の分析は、確かに最初のものないし、最も包括的なものでもない。精神科医や心理学者やセラピストや脳科学者は、妄想の間に何が起こっているのかについて何百ものアイデアを紡ぎだしてきたからだ。


 しかし最近まで患者自身――つまり、幻覚や妄想とともに生きてきた専門家ではない人々――は、詳細に調べる材料としては、自分自身の奇妙な物語りしかなかったのだ。それが今では、数十もの物語りが手に入るようになった。グリーク氏は数少ないそうした「ネイティブな(自分自身が病気の経験者である)」理論家の一人である。そうした理論家たちは、妄想の内容は無視されるべきではなく、いったん人が自分の幻覚をコントロールできるようなったならば、慎重に関わっていくべきものだと主張しているのだ。




 根底にある欲求



 「ある人の異常な信念や経験を探ることにより、私たちは、そうした経験に糧を与えている根本的な感情や欲求をより良く理解できるようになるのです」。そう語るのは、自分自身精神病と格闘してきた心理学者で、最近、6人の妄想の内容を分析した博士論文を著したパリス・ウィリアムズ(Paris Williams)。その博士論文はグリーク氏の研究にインスピレーションを与えた。


 例えばですね、と現在『狂気を考え直す(Rethinking Madness)』という題名の本を執筆中のウィリアムズ博士は述べる。「患者が悪意ある勢力によって迫害されていると思うときでも、患者に安全だと感じてもらえる方法を見つけることはできるし、また患者が厳しい要求を突きつける声を経験する時でも、自分には能力があると感じてもらえる方法を見つけることもできるのです」。

 グリーク氏が安全だと感じる場所の一つは、自宅の裏にある森の空き地である。最近、とある日の午後に、彼は絞り染めのシャツと膝が丸見えの古いジーンズを着て森に入って行った。彼はそこでマインドフルネス瞑想を実践し、いつもは見過ごされている生命のリズムに合わせようとするのである。

 自宅で彼は、自分の思考や知覚を妻に確かめてもらう。「彼はね、「僕に聞こえているのはマーチング・バンドなのか、それとも幻聴なのか?」というようなことを言うの」と彼女は言った。「私がね、「いいえ、バンドの音なんか聞こえてないわ、ミルト」と言うと、彼は「そうか」という顔をするの」。

 ストレスのレベルが非常に高くなると、彼はセラピストのもとを訪ねる。そのセラピストは彼に統合失調症ならびに、彼の医療記録によると、「気分障害、その他の障害なし」という診断を下したが、彼女は彼に向精神薬を処方して、投薬量を彼の気分に応じて増減させながらグループ・ワークをとおして治療している。

 母親が死んでから、グリーク氏と彼の妻は、他にも近親者が死亡したこともあり、何度か感情的に沈んだことがあった。彼の方がとくに参ったようだ。彼には仕事があり、コミュニティのプロジェクトを数多く抱えており、講演旅行、しかもしばしば警察官相手に、路上の一般人を扱うときに精神病的な考え方をどうやって理解すればいいかについて講演することもあるのである。

 
 あまりに負担が重なったので、8月に彼は再びセラピストを訪問することになり、その直後に、妻と約束を交わした。「彼女と僕は来年行う予定のボランティア活動を明確化し制限する契約を結んだのです」と彼はメールで述べた。「いま僕は、どうやったらノーと言えるかについて彼女のコーチを受けているところなのです」。

 世界はまだ救われていないし、アテネですら救われてはいない。しかし、救世主のような救済者であっても、たとえそれが翌日には体力を回復して戻ってくるためでしかないにしても、一日の休みは必要なのである。


」(おわり)





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