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妄想とともに暮らした後で生きる目的を発見する(2)  [海外のニュース記事]

前回に続く第二回目。さ迷い歩き続けた男性の、幼いころから大学院を出て職を見つけるまでの軌跡を、簡潔に描いている。



Finding Purpose After Living With Delusion


By BENEDICT CAREY
Published: November 25, 2011

http://www.nytimes.com/2011/11/26/health/man-uses-his-schizophrenia-to-gather-clues-for-daily-living.html?pagewanted=2&_r=1&adxnnl=1&partner=rssnyt&emc=rss&adxnnlx=1322486851-NQPsFAcDKAPOGLWJGy2rEg


妄想とともに暮らした後で目的を発見する(2)


 やたら目立つ学生が一人いた。「彼が当時どれほど強烈だったかは想像がつかないでしょうね」。アテネでビジネス・コンサルタントをしている友人のジューン・ホーリーはそう言った。「髪はこんなに長くて、分厚くカールがかかっていて、目は獰猛だった。ライオンみたいだった。大声で吠えそうな感じよ。そんなのと関わり合いたいと思う人は多くはいないでしょ」。


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 グリーク氏は、オハイオ州アテネの自宅裏の森の空き地でマインドフルネス瞑想を習慣的に行っている。


 
 地元の住民は怖がって彼のために道を空け、目を合わせないようにし、誰もが彼のことを村によくいる狂人の一種のように遇した――その手の伝説がたくさんある街だったのだ。

 彼には、ある意味で、その役割が判っていた。大学の数学の教授と弁護士の両親(二人とも進歩的な考えの持ち主だった)の子どもとして生まれたミルトン・トーマス・グリークはイリノイ州ロアノークと、その隣にある、シカゴから南西に車で約二時間行ったところにあるベンソンで育った。彼は子供のころから、しかもしばしば、自分は無神論者だと言い放ったが、そのことは、キリスト教に熱心なコミュニティーでは、その場の空気を壊し、校庭を支配する子供たちを刺激したのであった。


 「ろくでなし、ろくでなしと言われて、追いかけ回わされましたよ」とグリーク氏は言った。「今になって判るんです、あれは口実にすぎなかったということがね。太った子どもを太っていると言っていじめたり、間抜けな子どもを間抜けだと言っていじめるようなものでしたからね。当時の僕は宗教が問題と思っていましたけどね」。

 彼は世界平和の秘訣を発見することはなかった。トラブルばかりの結婚生活を送っていた大学4年の頃、人に見えも聞こえもしないものが、彼に見えたり聞こえるようになった。ある日、アテネのバス停にホームレスの男性がいるのが目に入ったが、その男の目が「男の頭のはるか彼方にまで達し、どこまでも先へ先へと続いていくような光景」に見えた。神の目だった。それ以外の何者であろうか?

 もっと後で、ヒッチハイクをしていた時、長髪でサンダルをはいた男が車を止めて彼を乗せてくれたことがあったが、その男の目があのバス停の男と同じ永遠の光をたたえていた。イエス・キリストなのか? そうに違いなかった(「僕はもう神に会ったことがあるのだから、イエスに出会うことも意味があったのです」)。その男は森の中の小さな町について語っていたが、その町は天国に違いないとグリーク氏は思った。

 
 彼の結婚は破綻した。友人たちは電話をかけてこなくなった。イリノイの自宅に帰ったときに、ある医師の診療を受け――統合失調症と診断された――薬を処方してもらった。

 
 それは、最初から最後まで、言葉遊びにしか思えなかった。その医師は自分の幻覚が何を意味すると思うかとか、その奇妙な考えが自分の人生の経験に関連しているかどうかなどと尋ねたりはしなかった。彼は薬を飲むのをいつしか止めてしまった。


 「僕は自殺にとても近づいていました」と彼は言った。「あの頃、自分の身に何が起こっているのかまるで判らなかった。僕は徹底した無神論者だったのに、キリストと出会う喜びが始まろうとしていて、なおかつ僕は反キリスト者だと考えていたりして――どれもこれも宗教的なイメージなんですよね」。

 
 どうしてだろう?

 その答えは明らかだし、それは最終的に彼を解放に導いてくれたのだが、その答えをみつけるために、彼は森の中を長い時間――文字どおりの意味で――さ迷う必要があった。

 
 1984年、彼はオハイオ大学の大学院で社会学を研究するために復学願いを出したが、気持ちの整理はついておらず、一日ごとに彼の気持ちは暗くなっていった。クラスメート、教授、友人を遠ざけていた。

 ほとんど唯一の例外と言える人がミズ・ホーリーだった。彼女は、彼より15歳年上の大学院生で、彼と一緒にいることを楽しんでいた。ある日彼は、彼女が、自分の家族や他の数家族と一緒に暮らしているコミューンを訪問することにした。彼がそのコミューンを見つけるのに二日かかった。一日目は霧深い森の中を、目覚めているのに妄想まじりの夢を見ながら、暗くなるまでさ迷った。二日目、フーパー・リッジ・ロードから少し離れた空き地に入ると、そこでミズ・ホーリーと友人たちが彼を迎えてくれたのだ。

 数ヶ月にわたって彼らは彼とテーブルをともにし、同じコミューンの一員として彼を受け入れ、世界を改善しようとする彼の使命を額面通り受け入れて励ました。そして、彼には助けが要るということをそれとなく悟らせることで、彼らは彼の命を救ったのだ。

 
 そのメッセージを伝えたのはホーリーだった。「僕は彼女のことを完全に信頼していたので、僕が幻覚を見ている――彼女は「幻覚(hallucination)」という言葉を使ったのです――と彼女が言った時、それは本当なのだと判ったのです」とグリーク氏は言った。「もう一度薬を飲んでみようという気持ちになりました」。

 彼は幸運だった。薬が効いたのだ。精神病の勢いは弱り、彼はプログラミング・コースを修了することができた。そして、まずはイリノイで、それからアテネにあるオハイオ大学情報技術学科で職を見つけることができた。そうこうしている間に、それ以外のものも彼は発見した。1996年の吹雪の日のこと、グリーク氏はアテネで知り合いになっていた隣人のドアをノックした。彼女は、10代の子供を二人抱え、フルタイムの仕事に加え大学院にも籍をおくシングル・マザーだったが、彼女はちょうどその時、(彼がそのことを知ったのは後になってからだったが)冬を乗り切っていけるものを下さいとお祈りをしているところだったのだ。
」(つづく)





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妄想とともに暮らした後で生きる目的を発見する(1) [海外のニュース記事]

 精神疾患に苦しむ人が立ち直った軌跡をたどるBENEDICT CAREY氏のシリーズの最新作を紹介する。
 
 これまですでに2つの記事をここで取り上げたが、今度は妄想に苦しんだ統合失調症の男性の物語りである。オリジナルは3ページにわたっているので、3回に分けて紹介する。『ニューヨーク・タイムズ』紙より。

 
 ちなみに、これまで紹介した2つの記事の第一回目のURLを示しておこう。 
 「境界性パーソナリティー障害と闘って」・・・http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-06-25
 「あざける心の声と折り合いをつける」・・・http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-08-15



Finding Purpose After Living With Delusion


By BENEDICT CAREY
Published: November 25, 2011

http://www.nytimes.com/2011/11/26/health/man-uses-his-schizophrenia-to-gather-clues-for-daily-living.html?partner=rssnyt&emc=rss


妄想とともに暮らした後で生きる目的を発見する(1)


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 狂気のうちにひそむ意味: ミルトン・グリークは、統合失調症と診断されたが、妄想の中にあるメッセージを解読できるならばこの病気から立ち直る人もいるだろうと信じている。



  彼女は立ち去り、もう二度と戻ってこなかった。どれほど瞑想に沈んでもこの悲しみを晴らすことはできなかった。奥深い森の静けさが支配するこの地にあっても。




 ミルト・グリークは立ち上がった。母の葬儀が終わってまだ間もない2006年の母の日のことだった、自分には助けが必要だと判っていたので、彼は自宅に向かった。きっと、統合失調症の薬を変えてもらわなければいけない。関心のあり方も改めなくては。自分のことを忘れるために、家族と一緒にいなくては。


 それに、そうだ、彼は精神病的な妄想のうちに表出される衝動にもとづく行動をしなければならなかった。つまり、世界を救わなければならない、と思ったのだ。

 そこで、家の周りの庭を掃除した――大仕事だったが、妻へのプレゼントのつもりだった――後の数日間、彼は机に向かって地元の新聞社の編集者宛ての、騒音公害防止条例を支持する手紙を書いた。

 ちっぽけなことかもしれない。しかし、グリーク氏は、診断された彼の病気に潜むメッセージを理解しそれに基づく行動をすることで、その病気とともに暮らすことができるようになったのだ。その過程で、例外的なものが築きあげられた。つまり、家庭も仕事も欠けていない完全な生活が築きあげられたのだ。

 彼は、重度の精神疾患があると診断されながら成功した人生を送り、なおかつ自分の物語りをあえて公表することにした数少ない人々の一人である。それらの人々は、公表することで、精神の病がもっと深く理解されることに貢献している――そして、他の人々が立ち直る手助けになるような実例を提供しているのである。

 「手紙を書き終えた翌日は、気分もよく体力も戻ったように感じられるようになりましたよ」とグリーク氏(49才)は語った。彼は、治療を受ける前、神やイエス・キリストと会ったという妄想を数年間にわたり抱き続けていた。

 
 「ちゃんとした仕事を準備したり実行してないと、とても不安になります。気分が良くないんです」と彼は言った。「そんな気分は精神病が僕に与えてくれたものだし、僕はそれをプレゼントだと思っていますよ」。

  医師たちは、概して、統合失調症の妄想的な信念をただ単に妄想として片づけるし、妄想を寛大に扱おうとするどんな試みも無謀ななれ合いで、問題を悪化させるものだと見なしている。CIAがテレビの向こうからこちらの様子をうかがっているという信念にどんな心理的意味があるのかを説明しようとしても無意味だ、と医師たちは言う。そこには、精神病以外の根拠など何もないからだ、というのだ。

 しかし、そうした経験をもったことのある人々の意見は違う。彼らによれば、妄想の根源は病気にあるだけではなく、恐れや願いや心の傷などにもあるのであって、そういうことが理解されるならば、治療を受けた後の回復は持続的になりうるのである。

 
 現在、ますます多くの精神病のベテランたちが、ミーティングや講演会に集まり、自分自身の病歴を書きあげて自分独自の精神病理論を展開したりするようになったが、そのおかげで以前よりもはるかに多くのデータ(お互いの物語り)に接することができるようになった。
 
 「生きた経験をもつ人々が大勢で協力し始めるようになっているので、スリリングな時代になりましたよ」。そう言うのはマウント・ホリオーク大学の心理学者で『アグネスのジャケット: 狂気の意味を求める心理学者の探求(Agnes’s Jacket: A Psychologist’s Search for the Meanings of Madness)』の著者であるゲイル・A.ホーンスタイン( Gail A. Hornstein)。「彼らは、自分の経験が何を意味するのかについて、内側から、自分自身の理論、自分自身の言語独自を展開しているのです」。

 グリーク氏は、統合失調症を患っているにもかかわらず、成功した人生とキャリアを築いたという点で、もっとも例外的な人の一人である――もっと、彼に言わせれば、成功したのは統合失調症のおかげだったことになるが。彼は、投薬、個人的なルーチン、そして自分の奇妙な妄想にあるメッセージに気を留めることで、混乱をどうにか切り抜けているのだ。

 
 「統合失調症は、今まで僕の身に起こったことで最良のものです」と彼は言った。「そうした診断を受けた人の多くがそんな風に感じていないことは僕だって知っているけど、この病気の経験は僕を変えました、良い方にね。僕はとても傲慢で、自己愛が強く、自己陶酔的だったけど、この病気のおかげで僕は謙虚になれた。それは僕に生きる目的を与えてくれたし、その目的は僕の回復の一部になったのです」。



 村によくいる変人


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「僕が妄想を自分の実人生で起こる物事の文脈の中で見始めるようになって、ついに妄想は意味あるものになったのです」とミルト・グリーク氏は言った。「そして、自分の精神病の物語りを理解することが、まともでいられるために僕が必要としているものは何かを知る手助けになったのです」





 理想に燃えた多くの新入生と同じように、グリーク氏は、何か使命感のようなものを抱いてアテネのオハイオ大学にやって来た。ただし、これも多くの学生と同様に、彼にはその使命が何なのか良く判らなかった。 

 「人がそれによって生きるべき心理的な規約を発見すること、世界平和を作り出すこと」と彼は言った。「まあ、そんなものでしたね」。

 大学のあるこの町では、どんなことにでも喜んで人々は耳を傾けた。1981年の秋だったが、アテネではまだ1960年代のヒッピー文化の名残りがあった。アパラチア山脈の北側の麓にはコミューン(=ヒッピーの共同体)が健在だった。現実離れした考え方がいたる所に、少なくとも、大通りや、教授や学生たちが集まるキャンパス近くのバーに、あふれていたのであった。

」(つづく)





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上野をちょっと散策 [雑感]

 ちょっと時間があったので、「連玉庵」でそばを食べてから、上野を散策した。嬉しいことに、「連玉庵」は相変わらずの風情だった。店に入ってこの「相変わらず」という感覚を感じ取れるのが私は好きだ。

 





 店を出て不忍池の方へ。不忍池はもう冬枯れの景色だろうなと思っていたら、まだ背の高い蓮(ハス)が池を覆い尽くしているではないか。やはり、暖かいせいなのだろうか?








 ところが、もっと近寄ってみると、ほとんど枯れかかっていることに気づく。もっとも、葉の緑には生命の兆候がまだ残っていた。自室にある水槽の水草を見ても感じるのだが、生命というものはそう簡単に滅ぶことはないものだ。およそ美的ではないが、なぜか見入ってしまう。

 





 背の高い蓮や葉の葉脈を眺めているうちに、ルソーの絵を思い出した。前景に茂みを置く構図はルソーのお得意で、そんな構図の絵を彼は何枚も描いていたはずだ。


 せっかくの「蓮」つながりで、また「連玉庵」に戻れば話の流れとしては文句ないのだが、ルソーと蕎麦屋の組み合わせは、私の中では、別のものを連想させる。「並木藪」だ。以前書いた「並木藪」の感想でルソーを引用したことがあったが(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2008-12-24-1 )、あの感想は、自分で言うのも何だが、よく書けていた方だと思う。





 それに比べて最近は、困ったことに、食べることにも食の感想にも熱意が湧かなくなっている。体調の問題が少なからず関係しているのだが、これが一時的であることを願う他はない。そういえば、新装なった「並木藪」にも、まだ行ってないなあ。というようなことを考えながら、不忍池から上野の山を歩いていた。



 




 ↑ここら辺は、三月から四月にかけて、あたり一帯が桜の花に覆われる所だが、落葉の晩秋も風情があるな。


 東京文化会館で何か催されていたら入ってみようかなと思ったが、あいにく休館だった。何気にスケジュールを見ていたら、何と、今週末にイェラン・セルシェルのコンサートがあるのを発見。20代の頃、バッハの『リュート組曲』はよく聴いたものだ。とても懐かしい。暇があれば行ってみようかしら。














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製造業を見捨てたイギリスの現状 [海外のニュース記事]

 かつてブレア政権は、「知識経済(knowledge economy)」の名のもと、製造業に見切りをつけ、金融やITを中心とするサービス産業に経済の主軸を置く政策を進めた。
 
 その結果、製造業は衰退する一方で、さりとてサービス産業が落ちこぼれた労働力の受け皿になったかと言うと、結果的にはならなかった。製造業からあぶれた多くの人々が低賃金の職へと流れていき苦しい生活を強いられているのが現状のようだ。

 そうしたことを受けて、現政権の財務大臣のオズボーンが、今年の春に、「製造業の躍進(the March of the Makers)」を訴えたようだが、もはや手遅れの感がある。少なくとも、それを実現する政策はまだ何も打ち出されていないようである。

 「知識経済」に似たようなことを主張する人が日本にもいた。「知価革命」の堺屋太一とか、脱工業化を熱心に説く野口悠紀雄とか。この記事に出てくる「フロリダ」氏のクローンのような人々は掃いて捨てるほどいたし、今でもいる。しかし、本家本元のイギリスで「知識経済」が完全に行き詰まりを見せ、製造業に回帰せよという声が高まっている現状を知ったなら、彼らはどういう反応を示すのだろうか?

 今日またヨーロッパで深刻化しつつある失業問題にも関係する側面もあって興味深い。イギリス『ガーディアン』紙の記事より。


Why doesn't Britain make things any more?


Aditya Chakrabortty
guardian.co.uk, Wednesday 16 November 2011 19.59 GMT
Article history

http://www.guardian.co.uk/business/2011/nov/16/why-britain-doesnt-make-things-manufacturing





 なぜ英国はもの作りをもうしないのか?


 過去30年間で、英国の製造業は3分の2も減ってしまったが、これは主要国では最大の脱工業化の動きだった。それは経済の近代化の名のもとに行われたのだが――しかし、製造業にとって代ったのは何だったのか?


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(1968年にスワン・ハンターで建造中の船。2005年、ロングブリッジにあるMGローバー社の見捨てられた工場)




 イェール大学に移りベストセラーの歴史家になる前、ポール・ケネディは1950年代と60年代のタインサイドで育った。「大きな騒音と泥だらけの世界」。それが彼の思い出の中のタインサイドだが、そこでの主要産業は造船業で、彼の父親と叔父はウォールズエンドでボイラーを製造していた。昨年この大学教授は、当時のことを少し思い出させてくれる講演を行った。

 「ものを作ることには深い満足感がありました」と彼は言った。「サービスを提供していたすべての人々の間に深い満足がありました。それが地元の信用金庫であれ、地元の設計事務所であれ、です。船の進水式が[ニューカッスルの会社である]スワン・ハンターで行われた時は、地元の学校の子供が、自分たちの父親が組み立てたものを一目見ようとみんなで出かけました。そして金網越しに眺めて、ミックおじさんやジムおじさんや父親の姿を見つけようとした時、皆が一緒になって物を生産するコミュニティーを実感できたのですが、その感覚は実に驚くべきものでした」。

 数週間前にウォールズエンドの近辺を散策したとき、私は進水予定の船を見かけなかったし建造中の船すら見かけなかった。ケネディが言及した巨大なドッグであるスワン・ハンターは数年前に閉鎖され、まだ買い手のつかない数エーカーの泥だらけの荒地となっていた。

 それでも、もちろん、工業団地はまだあったし、少なくともそんな風に見える建物はあった。オーバーオール姿の男たちがダンプの間を行きかっていたのだから。ただ、近づいてみて判ったのだが、実際に製造業の活動がそれほど行われているわけではなかった。

 ある団地の最大の店舗はドライ・クリーニング店だった。別の団地では、ロフトの断熱材の問屋がひときわ大きかった。実際にものを製造している会社はまれにしかなかったが、その一つの会社の社長であるトム・クラークは、ケネディの思い出にあった製造業が人々を興奮させた街の中心であるタインサイドの海辺に私を連れて行ってくれた。「私たちのところを過ぎると、もう何マイルにもわたって製造業にたずさわっている所はないですね」と彼は言い、静かなウォーターフロントを指差した。

 彼の会社のピアソン・エンジニアリングで、クラークはビリー・デイと呼ばれるメッキ工を紹介してくれた。いま51歳だが、彼は16歳でこの会社に入った。彼の23歳の息子ウィリアムは、何十もの小さな工場に履歴書を送ったが、まだ失業中だ。地場産業がなくなってしまったので、見習い仕事や賃労働もなくなってしまった。「若者がぶらぶらして好き勝手なことをしていても当然なんだよ」とデイ氏は言った。「われわれは一世代をまるまる失ってしまったのさ」。

 似たような場所や似たような話は、イギリスの北西部から内陸部やロンドン郊外の古い工業地帯にかけての一帯で見たり聞いたりできるだろう。しかし、このどうしようもない衰退が最も集約的に見られるのは、石炭や鉄鋼や船舶等々をかつて多く生み出したイギリス北東部だ。私はこの衰退のプロセスを脱-産業革命(de-industrial revolution)と考えるに至ったのだが、これはかつては生産的だった地域や階級が社会から取り残されるプロセスのことである。

 今日、このプロセスがマスコミで取り上げられることはほとんどないが、ここにある物語りはイギリス経済の主要な論点のほとんどすべてに関わっている。つまり、なぜ富の格差がこれほど劇的に開いてしまったのかという論点から、なぜイギリスは不況から抜け出せないのかという論点にまで関わっているのだ。11月16日の新聞に載っていた悲惨な失業率の数字――それもこの物語の一部だ。今月デービッド・キャメロンとヴィンス・ケーブルが「イギリスの製造業を応援しよう」というキャンペーンを始めたが、そのとき彼らは、製造業というセクターがすっかりやせ衰えてしまったという事実には言及しなかった。

 脱-産業革命を駆り立てたもの何だったか? これは、かなりの部分、イギリスはどこに行こうとするのかについての物語りであり、過去30年にわたって保守党も労働党も語ってきた物語りである。それは三つの部分からなる単純なメッセージだ。一つ目は、重工業の古い時代は永遠にすぎ去ってしまった、というメッセージである。未来は私たちの手ではなく、私たちの頭脳とともに働くことにある、というわけである。二つ目は、経済政策における政府の仕事は、邪魔にならないようにすることだけだ、というメッセージである。最後に、わが国は他国と貿易をするためにわが国のマーケットを解放する必要がある、というメッセージであるが、これは、ウィンブルドンやワールドカップでの無数の証拠があるにもかかわらず、イギリスは競争に乗り出しても常に勝利できると政府のエリートたちは信じていたからだ。

 しかし、このポスト重工業の未来という公約された報酬は実現しなかったということを示す証拠はたっぷりある。経済の近代化として売り込まれたものが生み出したのは工業の衰退であったし、しかも、それにとって代るものが何もないこともしばしばだった。

 だが、イギリス北東部や他の場所での結果を話題にする前に、政治家の公約を並べてみよう。過去30年間、脱-産業革命には三つの大きなバージョンがあった。それらの三つをサッチャーの主張、ブレアのビジョン、キャメロンのアップデートと私は呼ぶことにする。私は最後に連立政権と未来の話題に立ち戻るが、とりあえずサッチャーから話を始めることにしよう。

 70年代半ば、マスコミや政治家や学者たちは、イギリスが危機に瀕しているという点で意見が一致していた。イギリス経済の重大な弱点を修正するという点に関しては、サッチャーの支持者たちは明確な答えをもっていた。それは、一言でいえば、競争である。

 1974年、キース・ジョセフ――マーガレット・サッチャーが自分の最も親しい政治的盟友と述べた男性――は、そのキーとなる部分が「成長は変化を意味する」という題名だった講演をした。彼は、イギリスの産業界が「利益は低すぎるし、利潤も投資も少なすぎる」のに「人員は過剰」だと主張した。答えは、工場労働者を減らせ、ということであったが、それは、工業分野の企業をスリム化して、浮いた労働力を新規の事業に振り分けることを意味した。

 「これが成長というものだ」とジョセフは言った。「新しい仕事が工業分野にあろうと商業またはサービス分野にあろうと、公的セクターであろうと民間であろうと、労働力人口は、公的資金によって支えられた職場での狭く人目を欺く雇用保障と、順調でダイナミックな経済に基づく真の雇用保障とのいずれかを選ばなくてはならない」。

 5年後、保守党はまさにそのプロセスを進めた。最初にやって来たのが緊縮財政プログラムで、それによって、サッチャーの最初の任期中に、製造業の職のほぼ4分の1が消え去った。その後にやって来たのが民営化と、住宅ブームや金融の中心地であるシティー(City)に合わせた経済政策だった。ジョセフの主張とは裏腹に、解雇された中年のエンジニアは異業種には行かず、ソフトウェアのエンジニアになった――彼らの大半は以前よりも悪い職につくか廃業するしかなかった。


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 (80年代のニューカッスル造船所で勤務時間を終えて家路につく労働者たち)



 しかし、重工業からサービス部門へ移れという主張が、厳しい必然性を説く主張から、世界の中でイギリスが占めている位置についてのずっと楽観的な主張にシフトしていったのは、トニー・ブレアが現れてからである。「新たな労働党」の建築家たちは、未来が「知識経済(knowledge economy)」と彼らが呼ぶものにある、と確信していた。トニー・ブレアの参謀だったマンデルソンはシリコンバレーを「インスピレーションの源」と呼んだ。ブラウンは、3年以内にイギリスを世界の電子商取引の中心にすると誓った。


 またもや主題は単純だった。製造できることのほとんどは、国外でより安価にできるだろう。未来は、アイデア、ソフトウェア、そして何よりもブランドを見つけることにあった。かつてイギリスは世界の他の国々に車や船を売っていた。今では文化や観光やララ・クロフト(アクション・アドベンチャー・ゲーム『トゥーム・レイダー』の女性主人公)を売り込める、と主張されたのだった。


 奇妙なことは、こうしたテクノ・ユートピア的な考え方が、Amazonから書籍を注文するのにも一苦労するような人々に由来した、ということだ。アリステア・キャンベルはブレアが2007年に首相を辞任した後に初めて携帯電話を手に入れた模様を語っていた。ブレアがキャンベルに出した最初のメールの文章は次の通りだった。「これはすごいぞ、電話で言葉を送ることができるんだ」。

 しかし、ブレアとブラウンには、時代の最先端にいられるようにしてくれる多くのアドバイザーやコンサルタントやシンクタンクがいた。もっとも興味深い脇役の一人は、リチャード・フロリダという名前のアメリカの学者だった。フロリダは、こういう話ではしばしば話題になる人物だ。彼の主張によると、未来の成功している地域は、都市の中心部に住んでいる「創造的なクラス」の若者たちによって運営されることになっていた。「超-創造的な中核(super-creative core)」と呼ばれるもっとカッコいいエリートもいた。

 それはどう考えてもバカバカしい主張だった。フロリダにこの「超-創造的な中核」に入れるのは誰なんだと尋ねると、彼は、IT・サポート・スタッフのような特にカッコいいようにも思えない職業をあれこれ並べたてるのであった。


 しかし本当に目に余ったのは、フロリダが創造的な仕事をそれ以外のものから区切るその仕方にあった。彼によれば、知識労働者か工場労働者かのどちらかなのだ――まるで工場労働は頭脳を必要としないかのような言い方だった。そして「知識経済」の多くの議論に一貫してあるのは、一般の人間が行っていることに対する配慮がないことで、それは侮蔑に近いものだった。このことは、労働党が起業家精神にあふれ革新的な若いわが国の労働者に提示したあの厳しい選択、頭脳を鍛えろ、さもなければ用はない、というあの厳しい選択に反映していたのだった。・・・



 イギリスは戦後の西ヨーロッパで最大の工業の衰退の一つを経験している。サッチャーが政権を握ったときに、製造業はイギリスの国民所得のほぼ30%を占め、680万人の雇用を誇っていた。ブラウンが昨年5月にダウニング街を去った頃までに、製造業は、就労人口は250万人で、経済全体のわずか11%にまで落ち込んだ。・・・

 どんな基準を当てはめても、これらの数字が表わしているのは崩壊である。政府自身が認めているように、他の主要国の経済で、わが国のような大々的な脱-工業化を経験した所はない。ドイツやフランスには――メルセデスやミーレ、ルノーやプジョーといった――国内のビッグ・ブランドが存続しているし、それらとともに小規模な部品メーカーや提携企業のサプライチェーンも存続している。イギリスには産業を保護・育成する政策がなかったので、巨大な製造企業はほとんど残っていない――端役のメーカーは数多くあるが――という結果になってしまった。しかし、それは悪いことなのだろうか? 多くの証拠がそうであると示唆しているのだ。経済的に悪いことだし、社会的・文化的にはひどいことですらあるのだ。

 経済的な問題は一言で要約できる。つまり、ギリシアを見れば判ることだ。私としてはそうした比較をしたいわけではないが、ニューカッスルで私はイギリスをギリシアになぞらえる話を繰り返し耳にした。私にはあまりにも極端に聞こえるが、なぜそうなぞらえたくなるかは理解できる。製造業の消滅は、イギリスがもう世界で経済的に自立することが出来ない、ということを意味しているのだ。昨年、われわれイギリス国民が他国から買い入れた商品と他国に売った商品の金額の差額は970億ポンドに達した――これは1980年以降で最大の輸入超過である。


 イギリス政府の脱-産業論者は、長い間、そんなことは重要ではない、イギリスは他国から借金をして、その資産を国外勢に売却できるのだから、と言い張ってきた。しかし現金を国外勢に頼ることには問題がある。国外勢が資金の提供を拒むことだってありうるのである――ギリシアの首相だったジョージ・パパンドレウの末路を見ればそんなことは明らかではないか。

 イギリス北東部では、製造業の職は、1997年以降だけをとってもほぼ半減してしまった――イギリスのどの地域をとっても最も落ち込んだ地域の一つである。製造業が減った代わりに何がやって来たのか? 大したものはやって来なかった、というのが簡単な答えだ。ニューカッスル鉄道駅から歩いて数分のところに、古いスコティッシュ・アンド・ニューキャッスル醸造所があるが、そこは現在サイエンス・シティ(Science City)と呼ばれている。それは、ハイテクの新しい事業の本拠地になるはずだったのだが、今そこに見えるのは小奇麗な学生寮と数エイカーの荒涼とした土地だけである。

 
 脱-工業化の良いニュースであったものでさえも、結果的にはかなり暗いニュースであることが判明した。2005年には、MGローバー社は内陸部のロングブリッジの工場を閉鎖した。約6300人の従業員が失職したわけだが、もし復職ということになれば、また輝かしい企業名のもとで熟練したスタッフになってくれるだろう、とよく言われたものだった。


 3人の学者が、3年間にわたって定期的にインタビューしながら、300人の労働者に何が起こったかの追跡調査を行った。すると意外にも、約90%が別の職に就いた。多くの人が職業教育を受けたしサービス業に転身する者もいた。言い換えれば、彼らは政府が薦めるすべてのことをしたのだ。ただし今、彼らの収入は、MGローバーで働いていた頃に比べて、平均で5,640ポンドも少ないのだ。それにインタビューを受けた4分の1は、貯蓄をとりくずして生活していたり経済的に苦しい状態にいると告白したのだ。

 
 地域レベルでも似たり寄ったりなのだ。北東部で民間部門の成長分野を探してみると、ミドルスブラでコンピュータ・ゲームなどの高いスキルを要する変わった分野が成長している――しかしそれが、大きな雇用の受け皿になることは決してないだろう。


 労働市場の反対側に目を移すと、北東部は、イギリスのコールセンターの拠点になろうとして賑わっている。もちろん、偉大なサクセスストーリーだったが結局は破綻したノーザンロック社のような例もある。最後に、民間企業の弱点をカバーする公共の部門がある。

 マンチェスター大学の社会文化変動の研究センターは、1998年から2007年にかけて、内陸部、北部、ウェールズ、スコットランドに生じた新たな職の大部分が国に由来するものだと推計した。それに、もちろん福祉事業もあった。東北部では6人に1人以上の住民が何らかの失業給付を申請したのである。

 さて、いま朽ち果てつつある産業の本拠地だった地域に対するコストのことを考えてみよう。タインサイドのいたる所に、かつて工業が盛んだったころの過去の痕跡がある。武器メーカーのウィリアム・アームストロングによって設立されたニューカッスル大学があるし、研修休暇中の工員に訓練をさずける地元の工業大学がいくつかある。それから、ニューカースル文芸・哲学協会があり、鉱業やエンジニアの機関があり、社交クラブがある。ここの文化は伝統的に、ものを作りものを販売することに根ざした生産の文化だった。脱-産業革命が北東部やその他の地域に強要したのは、消費文化を採用することだった――ものを生産する代わりに、ものを買うこと、それもしばしば分割払いでものを買うことだった。

 だから、リバプール・ワン(Liverpool One)のような巨大なショッピング・センターが誕生するわけだが、リバプール・ワンは自分のことを、明らかに皮肉を交えることなく、ヨーロッパ最大の都市再生プロジェクトと名乗るのである。または、自由貿易は西部のブルーカラー労働者の給料を減らしたかもしれないが、今では安い中国の輸入品を購入することができるではないかとアメリカの経済学者が主張するのを耳にしたりするのである。言い換えれば、工場での作業はなくなったけれど、何でも1ポンドで買えるショップが出来たじゃないか、というわけである。


 もしあなたがサービス業に勤めているか、またはもっとこの文章の趣旨にあう例にすれば、もしあなたが、英国の将来は製造業よりもサービス業にあるとみなす政治家であるならば、いま述べたことには何も間違ったことはないと見えるかもしれない。それでも、結果的には、雇用と福祉という点で政府に頼らざるをえなくさせることで、古い工業地域や階級がもっていた経済的・政治的影響力は、なし崩しにされてしまったのである。

 しかし、デビッド・キャメロンはこうした現状をすべて変えようしているのだ、と言う人がいるかもしれない。結局、現政権は「製造業者の躍進(March of the Makers)」について語る政権なのだから、と。明らかに、今の連立政権が広めている主張――イギリスの経済は偏っていて、金融の本拠地であるシティーと住宅バブルに依存しているという主張――に同意しないのは難しいが、それに見合う政策はまだないのだ。

 その代わりに、キャメロンはサッチャーと同じ処方箋を発行している――公共部門への支出を減らせば、民間部門への支出は必然的に増すだろうという主張を。閣僚たちは、ダービーの労働者にではなく、ドイツの工場に列車製造の契約を与えた。政権の座につくやいなや、ブレアのこの後継者は、自分には新たなアドバイザーがいることを明らかにした――それは誰あろうあのフロリダだったのだ。

 イギリス人の関心を惹く主張の多くは、製造業という亡霊にとりつかれている。それは、銀行の傲慢なパワーに対する怒りからなのだろうか? それならば、それはもっと多くのセクターが混合している経済を求めている、ということだろう。金持ちとそうでない人々とのギャップに苦しんでいるからなのか? もしそうならば、結局、古い製造業のようなまともな賃金と技能レベルをもつ職が必要とされる、ということなのだ。

 これは経済的ではない論点にも当てはまる。政治家は地方の力を強調するが、脱-工業化が地域経済に何をしたかについては議論したりしない。批評家はコミュニティーの精神が失われたことを嘆くが、多くのコミュニティを破壊してきた建物解体用の鉄球のような脱‐工業化のプロセスを考慮することはしないのである。


 ピアソン・エンジニアリングの労働者たちは自分たちの会社が数百人どころか、千人もの従業員を雇っていた頃を懐かしんでいた。かつて見習工で苦労して取締役にまで登りつめたクラークは退職後の計画の青写真を練っていた。それから小休止して彼はこう言った。「自分の孫がどうなっているか心配になり始めているんですよ」。

」(終わり)






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「ウォール街を占拠せよ」・・・強制排除後に出された声明 [海外のニュース記事]



 15日未明に「ウォール街を占拠せよ」の参加者がテント村にしていたズコッティ・パークでニューヨーク市による強制排除の動きがあった。実は、ニューヨークのみならず、全米各地やカナダやスイスでも同様の排除の動きがあったようだ。
 
拠点を次々と失ってしまったわけだが、この運動は形を変えてこれからも続いていくだろう。その決意声明が「ウォール街を占拠せよ」のHPの冒頭に掲げられた(http://occupywallst.org/ )。

 強制排除の模様を伝えるイギリス『ガーディアン』紙のスライドショー(http://www.guardian.co.uk/world/gallery/2011/nov/15/global-occupy-movement-evictions-in-pictures#/?picture=381856822&index=0 )とともに紹介しよう。







1.「デンヴァーを占拠せよ」のキャンプ会場から立ち去るように抗議活動家を強制する警察。





2.ニューヨーク市のズコッティ・パークを立ち去るよう命じた後で、警官が抗議活動家を取り押さえる。





3.オークランドでテントを警官が取りこわしているときに、手錠をかけられる抗議活動家





4.「オークランドを占拠せよ」のキャンプ会場を警察が取りこわした後でフランク・オガワ・プラザを歩き回る労働者





5.強制排除後の人気のないオークランドのキャンプ会場。






6.「オークランドを占拠せよ」のキャンプ会場の強制排除通告を当てこするプラカードを手にもつデモ参加者(テントは排除できても私たちの「メッセージを追い払うことはできない」)。






7.警察が「オークランドを占拠せよ」キャンプ会場を片づけるときに逮捕された男性。





8.スイス・チューリッヒの「パラーデ広場を占拠せよ」のキャンパーたちが集まっていたリンデンホーフ広場を片づける警察。





9.チューリッヒの「パラーデ広場を占拠せよ」のメンバーを取り囲む機動隊。





10.警察が「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動家を一掃した後で、ズコッティ・パークの外に立つ元フィラデルフィア警察署長だったレイ・ルイス(「ニューヨーク市警よ ウォール街の手先になるんじゃない」)。





11.「トロントを占拠せよ」の運動が拠点とするセント・ジェームズ公園でテントをたたむエディー・ストレイチャン。





12.ニューヨークのホアン・パブロ・デュアルト広場に隣接する私有地の公園を警察が片づけているときに逮捕される男性。





」(『ガーディアン』紙のスライドショー終わり)





 運動体「ウォール街を占拠せよ」が強制排除後にHPにアップした声明





 「ウォール街を占拠せよ」と「われわれは99パーセントだ」の運動は屈することなく続けられる。





 「彼らは私たちに彼らの力(権力)を示した。そして今度は私たちが彼らに私たちの力を示す番だ」



 私たちがここにいるのは、より良い世界が可能であると私たちは信じているからだ。不当に扱われても私たちは喜んで堪えることにしよう。もしそうすることで、99パーセントの人々を隷属状態からふたたび解放することができ、私たちの民主主義を、ウォール街やトップの1パーセントの締めつけから取り戻すことができるのであるならば。



 

 私たちは、(今回の強制排除を命じた)億万長者のニューヨーク市長マイケル・ブルームバークや、誇り高いアメリカの自由――出版の自由、言論の自由、平和に集会を行い変革を請願するアメリカ人の自由――を容赦なく踏みにじるどんな政治家とも闘うつもりだ。



 私たちは、行く手をさえぎる障害をのり越えて行くだろう。私たちは阻止されることはないだろう。私たちは屈することなく続けていくだろう。私たちのメッセージはアメリカ中に反響しているし、私たちの大義は世界中の何百万もの人々によって共有されている。私たちは99パーセントだ、そして私たちは、私たちすべてのためにある――巨大な富や権力を蓄えた人々のためだけでない――世界の中で生きたいと願っているのだ。



 

 (テントは排除できても)機が熟した考え方を排除することはできないのだ(You cannot evict an idea whose time has come)。



」(声明文終わり)








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世界で最も高値で落札された写真の数々 [海外のニュース記事]

 オークションで高値で落札されたことが話題になった写真の数々を、イギリス『ガーディアン』紙のスライドショーから紹介する。

 他の歴史的な写真はともかく、グルスキーの写真がなぜこれほど高値で落札されるのか理解しがたいのだが、まあ、人気というのは不可解なものだから仕方ないんだろうねぇ。

http://www.guardian.co.uk/artanddesign/gallery/2011/nov/12/worlds-most-expensive-photographs-in-pictures#/?picture=381756971&index=0



世界で最も高値で落札された写真の数々



1.ドイツのアーティストのアンドレアス・グルスキー(Andreas Gursky )によって撮影されたライン河。「ラインⅡ(Rhein Ⅱ)」と題され、アクリルガラス製のフェイス‐マウントディスプレイで見るクロモジェニック・フィルムのこのカラー写真は、ニューヨークのクリスティーズで430万ドル(約3億3千万円)で落札され、オークションで落札された写真の記録を打ちたてた。





2.オーストリア、ブレゲンツにあるクンストハウスの展示ホールで開催された、アメリカのアーティストのシンディ・シャーマン(Cindy Sherman)による「折り込み写真/ホリゾンタル」展。無題の#96(1981年)――上段の左から2番目――は、2011年クリスティーズのオークションにおいて390万ドル(約3億円)で落札された。




3.アンドレアス・グルスキーの「99セントⅡディプティコン(99 Cent Ⅱ Diptychon)」は、2007年に3,346,456ドルで落札された。





4. エドワード・スタイケン(Edward Steichen)の「池-月光(The Pond-Moonlight)」(1904年)は、2004年、2,928,000ドルで落札された。





5.撮影者不詳の、ビリー・ザ・キッドの写真は(1879年―80)2011年6月230万ドルで落札された。





6.ドミトリー・メドヴェーデフ(Dmitry Medvedev)の「トボルスクのクレムリン(Kremlim of Tobolsk)」は、2010年1月に、175万ドルで落札された。





7.エドワード・ウェストン(Edward Weston)の「オウムガイ(Nautilus)」は、2010年に1,082,500ドルで落札された。





8.アルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)の「ジョージア・オキーフ(両手)(Georgia O'Keeffe(Hands))」は2006年に147万ドルで落札された。





9.リチャード・アヴェドン(Richard Avedon)の写真「 ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ(Dovima with Elephants)」(1955)は、2010年、1,151,976ドルで落札された。





10.ギュスタヴ・ル・グレイ(Gustave Le Gray)「大波 セット(The Great Wave, Sete)」(1857)は、1999年に838,000ドルで落札された。





11.ユジェーヌ・アジェ(Eugene Atget)の「オルガン弾き」(1898‐1899)は2010年に686,500ドルで落札された。





12.アンセル・アダムス(Ansel Adams)の「月の出 ヘルナンデス ニューメキシコ(Moonrise Hernandez New Mexico)」(1948 )は、2006年、609,600ドルで落札された。








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脳の不協和音を解読する(2) [海外のニュース記事]

 マイケル・ガザニガの業績を紹介する記事「脳の不協和音を解読する」の後半を紹介する。

 前半では左右の脳の分業体制にスポットが当てられたが、そこから当然出てくる疑問として、では、脳の統一感はどこに由来するのかということが問題となる。

 学術的な内容なので難しそうに見えるが、着想そのものはとても単純である。要するに、脳の左半球にガザニガが「インタープリター(interpreter)」と呼ぶものがあって、それが脳の各所からくる情報を束ねてそれらを統一する。ただし、その統一の仕方は、しばしば、一面的であったり、虚偽ですらあるのだが、脳のロジックとしては、何も秩序がない混沌とした情報の堆積があるよりは、虚偽のものでも、ともかく統一性を作り出さなければならない、ということなのである。


 ご存知のように、「インタープリター(interpreter)」とは、元来は「通訳者」の意味。右脳と左脳の間をとりもつもの、というのがこの語に託された元来の意味だろう。しかし、たぶん、この記事のように、「ストーリー・テラー(story teller)」と言った方が判りやすいかもしれない。つまり、左脳には、そこに集積されるあらゆるデータから即座にストーリーを創作する「ストーリー・テラー」が居座っている、というイメージである。このまさに中心的な論点で、脳科学はナラティヴ(物語り)批判に接近するのである。



 実は、ここには、脳科学という名前を借りたニーチェ主義と言うべきものがあるのだ。つまり、われわれの脳が作り出すおよそすべてものはフィクションであり虚偽であるという思想があるのだ。ガザニガによれば、記憶から自我に至るまでのすべてがフィクションなのだ。この点は、彼の“The Mind’s Past”という著作でハッキリ述べられている。ちょっと引用してみよう。



 「  真実を言うことが常にベストというわけではないのだろうか? 実は、私たちのほとんどは卑劣な嘘つきなのだ。…インタープリターは、私たちの個人的な物語りがバラバラにならないように努めているのだ。そうするために、私たちは自分自身に対して嘘をつくようにならなければならないのだ。…自分自身の物語りが真実であることを誰かほかの人に判ってもらうために、私たちは自分自身を説得しなければならない。私たちは、自分の経験した実際の諸事実を現在進行形のナラティヴに拡大するようなものを必要としているが、それは、私たちが長年にわたって自分の心の中に組み込んできたセルフ・イメージなのである。 ・・・・

 インタープリターは、たえず、わたしたちの行動、感情、思考、夢などについて途切れることのないナラティヴを設定している。それは、私たちのストーリーを統一化する接着剤のようなもので、私たちが全体的で理性的な主体であるという感覚を創り出している。それは、個体の本能が詰まったバックに、自分は実際とは違う存在なのだという幻想を持ち込むのである」(The Mind’s Past, p.25-26, p.174)。



こうした破壊的側面は、この記事や、ガザニガの翻訳のある著作ではあまり感じられないか、薄められた書き方しかされていないので気づきにくいが、この「インタープリター」の考え方には、または、脳の一面的な機能の仕方には、すこし不安にさせる要素が潜んでいることを覚えておいても損はないかもしれない。




Decoding the Brain’s Cacophony

By BENEDICT CAREY
Published: October 31, 2011

http://www.nytimes.com/2011/11/01/science/telling-the-story-of-the-brains-cacophony-of-competing-voices.html?

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「  
  脳の不協和音を解読する(2)  



 答えは見つからなかった、少なくとも、すぐには見つからなかった。それに続く数十年もの間、脳科学者たちは、左脳と右脳の役割の分離は脳内の分業体制のもっとも目につく部分にすぎないことを発見した。実は、脳には、専門の機能に特化した一群のモジュールがあって、その各々が特殊なスキル――距離を計算したり、声の調子を分析するスキル――を行っているのだが、そのすべてが同時に起こっていて、幅広く分布するネットワークにおいて、時には半球間で交流し合っているのである。


 
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  (左脳、右脳 脳の半球の分業を研究するためにダートマス大学で使っていたヴァンの中で、白衣を着た同僚のジョン・シディスとジェフリー・ホルツマンと一緒にいるガザニガ博士)



 要するに、脳が統一感覚を保てるのは、左脳と右脳という副操縦士がそろっている場合だけではないのである。脳内に競合する声が不協和音を奏(かな)でていて脳神経がシカゴ商品取引所における公開セリ売買のように騒然となる時でも、脳は統一感覚を保持するのである。


 しかし、どのようにして保持するのだろうか?



 分離脳手術を受けた人々が答えを出すのに役立つことが、またしても明らかになった。その頃はダートマス大学にいたガザニガ博士は、優れた実験をそれ以前にもまして行なった――ただし、今度はひねりを加えた実験だった。たとえば、ある研究では、彼と当時大学院生だったジョゼフ・ルドゥーは、患者に二つの絵を示した。患者の左半球にはニワトリの爪が見え、彼の右半球には雪景色が見えた。後になって、その患者の両半球に見えるように並べられた一連の絵から、もっとも適切な絵のペアを選んでもらった。患者は爪に合うものとしてニワトリの絵を選び、雪景色に合うものとしてシャベルを選んだ。ここまでは問題ない。


 しかし、それから、ガザニガ博士は患者になぜそれらを選んだのかを尋ねたのだが、それこそ金鉱脈を探り当てた瞬間だった。患者は、ニワトリと爪のペアをなぜ選んだのかという問いには即答できた。何といっても、彼の左半球はニワトリの爪を見ていたからだ。しかし左半球には雪景色は見えなかった、シャベルしか見えなかったのだ。シャベルの絵を見ながら、その患者はこう言った。「ニワトリ小屋をきれいにするためにはシャベルが必要だからです」。


 左半球は説明をでっち上げていたのです、とガザニガ博士は言った。1980年代と90年代の研究で、彼と共同研究者たちは、次のようなパターンが一貫していることを示した。つまり、左半球は、それがもっているわずかな情報を取りあげて、それを筋道のある物語りに仕立てて意識にさし出す、というパターンである。それは日常生活で絶えず生じていることであり、ほとんど誰もが気がついたらそんな行為をしていたという経験をもっているだろう――例えば、ゴシップの断片を耳にして、空白部分を勝手な想像で埋めようとすることなどである。


 競合する複数の声からなる脳の不協和音に筋道があるように感じられるのは、左半球のどこかにあるモジュールかネットワークが連続的にナレーション{=即興的な物語}を提供しているからなのだ。「そのことを突きとめるのにぴったりした問題設定をたてるだけで25年もかかりましたよ」とガザニガ博士は言った。



 「どんな科学でもそうだが、特に神経科学で最も困難であることの一つは、本当に面白いが真理の重みをもたない考え方を取り除くことなのです」。そう語るのは神経科学協会の元会長でニューヨーク大学の教養学部長のトーマス・カルー(Thomas Carew)。「マイク・ガザニガはこの分野でそれを行うことができた一人なのです」。


 ガザニガ博士は左脳のナレーションのシステムを「インタープリター」と呼んだ。ストーリーテラーがストーリーテラーを見つけたのだ。



  創発的な特性



 同類だけあって、彼にはインタープリターの力を理解していた。インタープリターは、首尾一貫した自己という錯覚のみならず、意味のあるシナリオという錯覚を作り出すのだ。忙しく立ち回りながら、インタープリターは何が起こったのかだけでなく、なぜそれが起こったのかを猛烈な勢いで再構成し、こちらに動機を、あちらに意図を挿入する――それも、限られた情報、時には欠陥のある情報に基づきながら、である。



 このことの含意の一つに、心理療法と文学では定番となっているものがある。私たちは、自分でそう思いこんでいる人間ではないという事実だ。私たちは、ほとんど無意識のうちに、どんな細部にも陰影をつけながら、出来事によっては、シナリオを回顧的に書き変えながら、自分の人生を物語っている。ストーリーテラーは決して休まない、熟睡している最中を除いて休むことはないのである。


 しかし、別の含意は責任に関係している。もし私たちの自制心が脳の自動プロセスからの信用のおけない筋書きに基づいているならば、私たちは本当にどれほどの自制心をもっているのだろうか? たとえば、脳神経回路を研究することによって決定することができる責任感の閾値が存在するのだろうか? ガザニガと彼の妻シャーロットは6人の子供を育てたが、どんな親もそうであるように、子供にテーブルの準備をさせるためだけであっても、急いでいろいろなレベルの責任を決定しなければならなかったのだ。

」 (3ページ目おわり)
 


 「 

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(マイケル・ガザニガは、現在、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の心理学の教授である)



 しかし、責任に関するこの手の問題は、脳科学の応用に関して政策立案者に助言するという重要な役割を引き受けるにつれて、ガザニガ博士にとって次第に無視することが難しくなってきた。彼は1991年に連邦議会科学技術委員会の委員に任命された。2002年には、生命倫理に関する大統領諮問委員会の一員になった。そして2007年には、神経科学の法体系への応用例を追跡調査し評価するジョンD.&キャサリンT ・マッカーサー財団の法と神経科学プロジェクトの設立ディレクターになった。

 
 とくに法律の分野、脳科学が及ぼす影響は増大していた。近年では弁護士が、通常は、犯罪の責任を軽減したり、嘘発見器における証言の信憑性を検証するために、脳の画像を証拠として提示し始めるようになった。そしてますます、そうした画像が証拠として採用されるようになった。しかもそれ以上のことが起こっているのだ。たとえば、脳画像の研究で、神経科学者は、人々が衝動やその他の行動を抑制するときに非常にアクティブになる皮質領域を確定したのだ。


 しかし、法廷でこうした方法を適用することには明らかな欠点がある。一つには、脳の画像はスナップショットである。それはある時点での脳の状態をキャプチャしているだけで、その前後の時点で脳がどのように機能していたかについては何も語らない。もう一つは、脳の画像が、健康な脳をもつ人々においても大きく異なる――つまり、ある人にとっては「高い」レベルの活動であるものが、別の人にとっては普通のレベルであることもある。脳科学は、脳の自動のプロセスがどこで終わるのか、自己に向けられる「責任感のある」プロセスがどこで終わるのかをハッキリと言うことができるのだろうか?


 現状ではできないし、たぶんこれからもできないだろう、とガザニガ博士は自著で主張している。的確な判断とか自由意思のような社会の産物は、{「責任」という観念よりも}ずっとはるか彼方にあるもので、それらを生物学的プロセスの観点から定義しようと試みることは、結局、つまらないゲームのようにしかならないというのである。

 
 「私の主張は、責任とは、結局のところ、脳の特性というよりも二人の人間の間に成り立つ契約であり、決定論はこの脈絡では何の意味ももたないということです」と彼は『誰が責任をもつのか?(Who’s in Charge?)』で書いている。


 寛大さや卑劣さと同様、愛情や疑念と同様、責任とは「「強い意味で創発的な」特性(“strongly emergent” property)」」と彼が呼ぶものなのだ――創発的な特性とは、生物学的メカニズムから派生したものではあるが、それとは根本的に違うものであり、氷と水と同様に、別々の法則に従うものである。


 ガザニガ博士はこうした主張をした初の科学者ではない。この問題はまだ決着には程遠いのだが、それは研究者がまだ、脳の自動的なシステムと意図的なシステムが生物学的にどのように相互作用を及ぼし合っているのかの完全なイメージをもっていないからなのである。


 「ガザニガの論点は判りますし、法律の問題に関する限り、脳科学や心理学から引き出された結論を無視することができれば一番簡単でしょうね」。ナイメーヘン大学(Radboud University Nijmegen、オランダ)の心理学者であるAP・ディクステルホイス(AP Dijksterhuis)は電子メールでそう語ってくれた。「しかし、ずっといつまでもそんなことができるとは思えないし、どこかの時点で、説明責任や責任などのキーとなる法概念のいくつかは再定義されなければならないでしょうね」。

その日が来るまでは、責任等の概念は、それがこれまでずっと存在してきた場所に求めればよい、というのがガザニガ博士のアドバイスである。つまり、人間の心と道徳的な直感に求めるべきであり、人間の法律や習慣に求めるべきであるというのだ。

 それに、こう付け加えるべきであろう、人間が編み出す物語りの中に求めるべきである、と。

」(4ページ目おわり)


」(おわり)











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脳の不協和音を解読する(1) [海外のニュース記事]

 分離脳患者の研究の第一人者マイケル・ガザニガのインタビューが『ニューヨーク・タイムズ』紙に載っていたので紹介する。いや、紹介するのは、BENEDICT CAREY氏の記事の方だが、元記事のURLに行くとガザニガのインタビューvideoも見ることができる。

 右脳と左脳の機能的な違いや、言語中枢のある左半球が支配権を握って瞬時にデータを特定の方向に解釈しようとするメカニズムが、やはりガザニガの研究の一番面白い部分であるので、当然その部分がこの記事でも中心をなすようだ。

 原文は4ページに及ぶものだが、それを2回に分けて紹介しよう。

Decoding the Brain’s Cacophony

By BENEDICT CAREY
Published: October 31, 2011

http://www.nytimes.com/2011/11/01/science/telling-the-story-of-the-brains-cacophony-of-competing-voices.html?partner=rssnyt&emc=rss


「  
  脳の不協和音を解読する(1)
 
 脳の二重人格に関する研究書や物語りで知られる神経科学者で心理学の教授でもあるマイケル・ガザニガとのインタビュー


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 カリフォルニア州セント・ヘレナ――科学者たちは目配せをし合って息をのんだ。
 準備は万端だった。電極がセットされ、生きている猫の脳の両半球の間に差し込まれた。計器類は一方の半球から他方の半球への電気信号のチャタリングを拾いあげるために調整されていた。後は、脳自体の内部コードである電子音のささやきに耳を傾けることだけだった。

 アンプが音を発した――3人の科学者はわれ先にかがみこんだ――大きくハッキリと音が聞こえたのだ。

 
 「ぼくらはみんな黄色い潜水艦で暮らしている、黄色い潜水艦さ、黄色い潜水艦で暮らしているんだ・・・(We all live in a yellow submarine, yellow submarine, yellow submarine ....)」


 「ビートルズの曲だ! どういうわけか、われわれはラジオ局の周波数を拾ってしまったのです」と、マイケル・S.ガザニガは45年前のことを思い起こしながら、くすくす笑った。「脳の秘密の信号ですよ。そうでしょ!」。

 
 今カリフォルニア大学サンタバーバラ校の心理学の教授であるガザニガ博士(71)は、脳の左半球と右半球の分業体制としての脳の二重人格を明らかにした一連のすぐれた研究でもっともよく知られている。しかし、それに次いで物語りの語り手としても彼は有名だ。その多くが、脳研究という分野のトップクラスで彼がほぼ半世紀にわたって築きあげたキャリアの間に起きた失敗した実験や、ばかばかしい疑問やそのほかの間違いについての物語りである。

 いま彼が講義や新たな著書で伝えようとしているのは別の種類の説話である――これは真面目な物語りで、脳科学が社会の中で、とくに法廷で使用されることに関するものだ。

 脳科学は、「いずれは社会が正義や責任をどのように考えるかということに影響を及ぼし始めるだろう」とガザニガ博士は、エッジ財団主催の最近の会議で語った。

 その影響が良いものになるという保証は何もないのです、と彼は付け加えた。

 
 一つには、脳のスキャニングの技術は、法廷で求められる時間に間に合わないからである。それは、人々が思うほどの情報を提供してくれないのである。

 
 もう一つは、脳神経のプロセスに関する新たな知識は人間の責任について重大な疑問を提起しているからである。科学者たちは、脳が主に自動巡回システムによって動いていることを知っている。脳はまず行動し後になって疑問を発するのであり、どうしてそう行動したのかについて事後的な説明をする(=後から屁理屈をとってつける)こともしばしばある。行動の多くが自動的に行われるのであれば、その行動に対して人々はどれほど責任をもてばいいのだろう?

 ともかく、この潜水艦を動かしているのは誰なのか?


 今月Ecco/HarperCollins社から出版される新著『誰が責任をもつのか? 自由意志と脳科学(Who’s in Charge? Free Will and the Science of the Brain)』で、ガザニガ博士は、その疑問に対する答えはハッキリ見えるところにあると主張している。問題は、どこに目を向けるかなのである。



 分離脳


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 (1945年ストライプのシャツを着て家族と一緒に写るマイケル・ガザニガ)


 彼が責任の本性について真剣に考え始めたのは長い間その問題を放置した挙句のことだった。 

 マイク・ガザニガは、ロサンゼルス東部の広々とした野原が広がる田舎を探検したり、時折ガレージで、時には優れた外科医だった父の助けを借りて実験をしたりしながら、カリフォルニア州グレンデールで育った。実験は楽しかった。実験は、生化学を理解するための真面目な試みだったのだ。ダートマスのアルファ・デルタ・ファイ友愛クラブ(映画『アニマルハウス』にインスピレーションを与えた)に加入した後でも、彼はパーティーや悪ふざけの合間を縫って、専攻した分野である脳科学の流儀で、誰が何をしていたかを跡づけていた。

 特に、彼はカリフォルニア工科大学で、動物の発達しつつある神経細胞が脳内の特定の領域に集まるような遺伝情報をもっていることを示す研究に従事し始めた。この研究は二つの理由で魅力的だった。

 第一に、それは、当時の常識に反しているように見えた。当時の常識は、記憶のような脳の特定の機能は脳内に広く――そして均一に――分布しているのであって、局所的に集中しているわけではない、と考えていた。

 第二に、彼のガールフレンドがカリフォルニア工科大学の近くの場所で夏のアルバイトをすることになっていたからだ。

 彼はその研究プログラムの責任者である著名な神経生物学者ロジャー・ウォルコット・スペリー(Roger Wolcott Sperry)に(最初の方の理由を強調する)手紙を書いた。スペリー博士は夏のインターンを使ったりしますか、と尋ねる手紙だった。「彼はいいよと言ってくれましたよ」とガザニガ博士は言った。「私はいつも学生たちに言っているんです。「とにかく、一緒に研究したい人に直接手紙を書いてみるんだ。どんな返事が返ってくるか判らないじゃないか」ってね」。

 大学3年目が終わったその夏のカリフォルニア工科大学で、彼は自分の未来を垣間見た。彼はいわゆる分離脳の患者のことを知ったのだ。彼らは左半球と右半球を結びつける神経を切断する手術を受けた重度のてんかん患者たちだった。この分離手術は発作を大幅に減らしたが、それ以外には影響を及ぼさないように思われていたのである。」


(1ページ目終わり)



 「ダートマスに戻っても、彼はそのことについて考えるのを止めることができなかった。左右の半球を分離しても、全く何の影響もないだって? 手術の影響を検出しようとする最善の試みをもってしても、ロチェスター大学で手術を受けた26人の患者の思考や知覚の内にいかなる変化も発見できなかったことを、彼は文献を調べまくって知ったのだった。


 そんなことがありうるのだろうか? 彼は自分で患者の知覚をテストしてみたくなったので、彼はまた手紙を書くことにしたが、今度は外科医宛ての手紙だった。彼は、患者の知覚をテストしてもよいという許可を得た。


 「春休みだったし、もてる道具を全部かき集めて、わざわざロチェスターまで行ってみたものの、あの外科医は心変わりをしていました」とガザニガ博士は言った。「「君か、お家にお帰えり!」みたいに言われました」。


 卒業後、彼はわき目も振らずカリフォルニア工科大学に進んだ。


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 (1963年カリフォルニア工科大学の学生だった頃のガザニガ博士)



 「野心だけではなく、何かそれ以外のものがありましたね――彼にはガッツがあったんです」と語るのはかつてスペリー博士の研究室にいたミッチ・グリックスタイン。彼はいま『神経科学:歴史序説』という本を執筆中である。「大学の三年生ながら、分離脳の患者についてありとあらゆることを知っていて、独創的な研究をしようという意欲に燃えているんですからね。わずか20歳で」。

 当時のカリフォルニア工科大学はノーベル賞候補者たちのためのクラブハウスみたいなところだった。ぶらっと研究室に現れては実験について皮肉まじりのことを言う物理学者のリチャード・ファインマンがいた。その一方で、どうしたらファインマン博士をやり込められるかを思案してイライラするスペリー博士がいた。ある夜、スペリー博士の若い学生が逃げ出した実験動物を追いかけて四つんばいで廊下にとび出して著名な化学者のライナス・ポーリングにあわやタックルを喰らわせそうになった。(「そんなことをするより、ゼリーに麻酔をかけたらどうなんだ?」とポーリング博士は冷たく言い放った。)

 その頃、その一つ一つが脳というブラック・ボックスをのぞき込むスナップショットのような実験が行われていた。1960年代初頭、ガザニガ博士はまだ大学院生だったが、スペリー博士と脳外科医のジョゼフ・ボーゲン博士とチームを組んで、ヒトの左右の半球がそれぞれ特殊な働きをしていることを如実に示す報告書を矢継ぎ早に発表していた。

 研究者たちは、右半球だけに自転車の絵を瞬時に見せる方法を考案した。分離脳の患者に何が見えたかを尋ねると、彼らは「何も見えなかった」と答えた。左右の半球のつながりが切れているので、言語中枢のある左半球は、視覚的なインプットも右半球からの情報も得られなかったからである。自転車が「見えた」右半球の方は、 それを名づけるための言葉を持っていなかった。

 しかし、ここで意外なことが現れた。右半球は、そのコントロール下にある手に命令を下して、自​​転車の絵を描かせることができたのだ。

 別の研究で、3人の科学者は、右半球が触覚によって物体を識別できること、画像を見せられた後に触ることによって正確に歯ブラシやスプーンを選ぶことができることを示した。

 ここに含まれている意味はすぐに明らかになった。左半球は知的で言語を操る脳である。それが右半球から切断されても、IQに被害が及ぶことはない。右半球は芸術家であり、視覚や空間の専門家なのであった。



 これらの発見は、特定の機能が脳内で広くかつ均一に支えられているという理論を打破した。また、それによって「左脳/右脳」という対概念が、能力のタイプや人間のタイプを簡単に表わすものとして、一般的に用いられるようになった。それでも、徐々にしか進まず、しばしばわずかな人々にしか理解されない進歩によって明確になる分野において、カリフォルニア工科大学のチームは特大のホームランをかっ飛ばしたのだった。

 ガザニガ博士は、当時まだ25歳だったが、自分の研究を自分で決めることができた。彼はすぐに猫の脳の2つの半球間の電気信号のチャタリングを記録する研究のために助成金を獲得した。



 インタープリター


 あの実験でレシーバーを通して聞こえてきたビートルズの曲は、ガザニガ博士にほとんど洞察と同じくらい貴重なものを提供した。つまりそれは面白い話だったのだ。しかしそれは、彼と彼の同僚が脳についての前提において重要な何かを欠いていたことを包み隠さず想起させてくれる出来事にもなった。


 「問題は、突きつめるならば、「なぜ?」ということでした」とガザニガ博士は語った。「われわれが右脳と左脳という別々のシステムをもっているならば、なぜ脳は一体感をもつのだろう?という問題ですね」。


 人生の早い段階で勝利をおさめカリフォルニア工科大学からカリフォルニア大学サンタバーバラ校へ、そして最後にダートマス大学に移るというキャリアを積み重ねた時でも(途中何回か立ち止まりはしたが)、あの問いは未解決のまま、満足な答えを得られなかった。1970年代後半、心理学者で言語学者でもあったジョージ・A.ミラーとともに、彼は、そうした難問を解くために心理学と生物学を合体させた認知神経科学という分野を立ち上げた。


(2ページ目おわり)

(つづく)








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中禅寺湖の秋の風光に酔う [雑感]

 日光・中禅寺湖に行ってきた。

 この辺りは、例年、紅葉狩りの人々で混雑するが、もう日光近辺では、恐らく温暖化のせいで、きれいな紅葉をほとんど期待することはできないということは、多くの人がすでに知るに及んでいる事実である。私自身も、ここ最近は足がすっかり遠のいていた。

 久しぶりに来てみて、やはり質感のある紅葉を見ることはできなかったが、そんなことは瑣事にすぎないことを再認識することができた。

 泊ったのは中禅寺湖金谷ホテル。食事はちょっと今一なところがあったが(http://u.tabelog.com/000467589/r/rvwdtl/3427426/)、清潔感が漂う上品な湖畔のホテルだった。

ホテルの庭のあちこちに赤や黄の葉が点在する。散策するだけで、色彩や陰影や輝度に対する感度が鋭利になるような気持になる。

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 何の変哲もない樹木も、それだけで美しいと感じられる。青の空を背景に赤や黄を無造作に点描したかのよう。確かリルケは噴水を透明な木と呼んだのだが、それにならって何かになぞらえたくなるものの、残念なことに妙案が浮かばない。

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 炎のように浮かび上がる樹木、光を掴み取ろうとするかのように闇から浮かび上がる細い枝、踊り狂っているような真っ白い水飛沫。それ自体何の変哲もないものばかりだが、それらが、この季節、この場所では、美的な対象となるのである。秋の風光に少し酔った思いがした。

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