最下層に沈むアメリカ [海外のニュース記事]
今日紹介するのは『ニューヨーク・タイムズ』のチャールズ・M.ブロウ氏(Charles M. Blow)のコラムだが、それよりも重要なのは、そのコラムで紹介されているベルテルスマン財団の報告書の方である。その報告書に基づいた判りやすい一覧表を、コラムの下に掲げておくが、この表は、アメリカが社会正義や貧困率という点で最下層(ワースト5のグループ)に位置していることをハッキリ示しているのである。
ちなみに、日本も「全般的な貧困」、「幼児教育の公的支出」、「世代間の正義」という点で最下層に位置しており、総じてアメリカに肉薄していることが分かる。アメリカほど富裕層が露骨に突出していないので、「我々は99パーセントだ」のような運動は盛り上がらないが、しかし、日本も決して問題がないどころではない現状が、やはりここにハッキリ示されているのである。
America’s Exploding Pipe Dream
By CHARLES M. BLOW
Published: October 28, 2011
http://www.nytimes.com/2011/10/29/opinion/blow-americas-exploding-pipe-dream.html
「 アメリカは夢物語を破裂させつつある
私たちは、ゆっくりと ――そして苦痛を覚えながら――もう私たちが想像力のなかのアメリカではないことを理解せざるを得ない状態に追い込まれつつある。私たちの偉大さは神棚に祀られたものではなかった。世界のリーダーであることは運命というよりも決意の問題なのだが、まさにその点で私たちは行き詰まっているのである。
誰もが金持ちになれるし誰も傷つくことはないという夢物語を、私たち自身が売り払ってしまった――この夢物語(pipe dream)は、すでに大金持ちだった者たちがあらゆる富を独占しようとつかみ取ろうとしたときに、パイプ爆弾(pipe bomb)のように破裂してしまったのだ。金持ち連中が巨費を投じて政府に影響を及ぼし優遇と保護を得ようとしたときに、そしてそれ以外の人々が、小銭が落ちていないかと期待して足元を探るような状態に放置されたときに、その夢物語は破裂してしまったのだ。
私たちは最底辺の国民のことを気づかってこなかった。私たちは、所得格差が不快なレベルにまで達するのを許容してきた。私たちは、何百万という国民が貧困に陥いるのを傍観しただけだった。私たちは子供にまずい教育をしてしまい、かつてのアメリカ人の自我が消え去った抜け殻にすぎないような国家を子供たちに残そうとしている。私たちは恥じるべきなのだ。
まずい政策とまずい選択がきわめてまずい結果を生み出してしまったのだが、これは自業自得と言うべきものだ。
この点は、ドイツのベルテルスマン財団(Bertelsmann Stiftung)が木曜日に発表した「OECD加盟国における社会正義――加盟各国の比較(Social Justice in the OECD — How Do the Member States Compare?)と題された報告書で強調された点であった。この報告書は、OECD(経済協力開発機構)の加盟国間の基本的な公正と平等の数的な指標を分析したものだが、それによればアメリカは最底辺の国の一つにランクされるのである。
わが国の悲惨な状態についてはここで私がいやになるほど書くことはできるが(実際書いてきたのだが)、しかし読者が自分の目で見た方が効果的だろう。ここに、報告書からの悲しいデータのいくつかを示してみよう。
( 以下はベルテルスマン財団の報告書を要約した一覧表(http://www.nytimes.com/imagepages/2011/10/29/opinion/29blow-ch.html?ref=opinion)
「全般的な社会正義」、「全般的な貧困予防」、「全般的な貧困」、「子供の貧困」、「収入格差」のレイティングでアメリカが最下層に位置していることが示されている。)

」(おわり)
ちなみに、日本も「全般的な貧困」、「幼児教育の公的支出」、「世代間の正義」という点で最下層に位置しており、総じてアメリカに肉薄していることが分かる。アメリカほど富裕層が露骨に突出していないので、「我々は99パーセントだ」のような運動は盛り上がらないが、しかし、日本も決して問題がないどころではない現状が、やはりここにハッキリ示されているのである。
America’s Exploding Pipe Dream
By CHARLES M. BLOW
Published: October 28, 2011
http://www.nytimes.com/2011/10/29/opinion/blow-americas-exploding-pipe-dream.html
「 アメリカは夢物語を破裂させつつある
私たちは、ゆっくりと ――そして苦痛を覚えながら――もう私たちが想像力のなかのアメリカではないことを理解せざるを得ない状態に追い込まれつつある。私たちの偉大さは神棚に祀られたものではなかった。世界のリーダーであることは運命というよりも決意の問題なのだが、まさにその点で私たちは行き詰まっているのである。
誰もが金持ちになれるし誰も傷つくことはないという夢物語を、私たち自身が売り払ってしまった――この夢物語(pipe dream)は、すでに大金持ちだった者たちがあらゆる富を独占しようとつかみ取ろうとしたときに、パイプ爆弾(pipe bomb)のように破裂してしまったのだ。金持ち連中が巨費を投じて政府に影響を及ぼし優遇と保護を得ようとしたときに、そしてそれ以外の人々が、小銭が落ちていないかと期待して足元を探るような状態に放置されたときに、その夢物語は破裂してしまったのだ。
私たちは最底辺の国民のことを気づかってこなかった。私たちは、所得格差が不快なレベルにまで達するのを許容してきた。私たちは、何百万という国民が貧困に陥いるのを傍観しただけだった。私たちは子供にまずい教育をしてしまい、かつてのアメリカ人の自我が消え去った抜け殻にすぎないような国家を子供たちに残そうとしている。私たちは恥じるべきなのだ。
まずい政策とまずい選択がきわめてまずい結果を生み出してしまったのだが、これは自業自得と言うべきものだ。
この点は、ドイツのベルテルスマン財団(Bertelsmann Stiftung)が木曜日に発表した「OECD加盟国における社会正義――加盟各国の比較(Social Justice in the OECD — How Do the Member States Compare?)と題された報告書で強調された点であった。この報告書は、OECD(経済協力開発機構)の加盟国間の基本的な公正と平等の数的な指標を分析したものだが、それによればアメリカは最底辺の国の一つにランクされるのである。
わが国の悲惨な状態についてはここで私がいやになるほど書くことはできるが(実際書いてきたのだが)、しかし読者が自分の目で見た方が効果的だろう。ここに、報告書からの悲しいデータのいくつかを示してみよう。
( 以下はベルテルスマン財団の報告書を要約した一覧表(http://www.nytimes.com/imagepages/2011/10/29/opinion/29blow-ch.html?ref=opinion)
「全般的な社会正義」、「全般的な貧困予防」、「全般的な貧困」、「子供の貧困」、「収入格差」のレイティングでアメリカが最下層に位置していることが示されている。)

」(おわり)
アメリカの所得格差の政府公認の報告書が出る [海外のニュース記事]
アメリカの所得格差については、民間の調査会社の数字などである程度は知っていたが、政府公認の報告書が出たようだ。それを伝える『ニューヨーク・タイムズ』の記事を紹介する。ただし、記事の後半部分は議会内の対立に関するものなので省略した。
「われわれは99パーセントだ」の抗議運動で一躍有名になった、アメリカの最上位1パーセントだが、今回の報告書では、「1979年の約8%から2007年の17%に上昇」したそうだ。やはり、さすがに、1パーセントだけで国民の所得の3~4割近くを占める程ではなかったか。ここら辺の細かい数字は、時によく判らなくなって、1パーセントの人間が3割だっけ? それとも上位10パーセントが3割の収入を得ているんだっけ? という具合に混乱するので、これを機によく記憶に刻んでおこうと思う。
しかし、それでも、「上位5分の1の富裕層が受けとる税引後世帯収入は、1979年の43%からさらに上昇し、2007年には53%だった」そうなので、上位2割ほどが半分以上の収入を得ているという現状は、著しい格差という他はない。
ちなみに、アメリカの上位1パーセントの富豪が得ている収入の割合の推移をグラフ化した記事(http://www.nytimes.com/interactive/2011/10/26/nyregion/the-new-gilded-age.html?ref=politics)も合わせて見ると参考になると思う。
Top Earners Doubled Share of Nation’s Income, Study Finds
By ROBERT PEAR
Published: October 25, 2011
http://www.nytimes.com/2011/10/26/us/politics/top-earners-doubled-share-of-nations-income-cbo-says.html?_r=1&src=recg
「
高額所得者のトップの所得が国民所得に占める割合が倍増した
上位1%の人間の所得がアメリカの国民所得において占める割合が、過去30年間で、倍以上になっていたことが、火曜日に出た連邦議会予算事務局の新たな報告書で判明した。この報告書は、いかにして経済を回復させ、雇用を創出し連邦政府の債務を減らすのかという方法をめぐって激化する政争の中で注目をひくことになるだろう。

(チャーメーヌ・マリオットはウォール街からずっと離れたところにいたが、ウォール街で抗議活動をする人々に共感を覚えたため、彼女も先週アルバニーで自分で作ったプラカードを掲げるにいたった。今回出た新たな報告書によって抗議活動はさらに勢いを増すことになるかもしれない)
さらに、この報告書によると、政府は、1970年代後半以降、低所得者層への再分配的な政策を減らし、所得の集中を低減する措置を次第に取り止めてきた。
予算事務局によると、1979年より2007年の方が「格差を均等化する連邦税の効果は小さくなった」が、それは「連邦政府の歳入の構成が累進的な所得税(income taxes)からそれほど累進的ではない給与税(payroll taxes)にシフトした」からだ。
また予算事務局によると、連邦政府による給付金の支払いが収入の格差を均一にするのに役立たなくなっているのだが、それは、収入に関係なく高齢者に社会保険料のような給付金がますます多く支払われているからなのである。
この報告書は、数年前の要請に基づいて開始されたものだが、折しも、失業を減らす方法をめぐって議員たりが火花を散らし、議会の合同委員会が税法の改正を審議し、国中で抗議活動している人々が富める者と貧しい者の所得格差に対して怒りをぶちまけている最中に公表されたのだった。
報告書の中で予算事務局は、1979年から2007年までに、インフレ補正をした上での税引後の平均所得は、最高所得者層である全人口の上位1%にとって、275パーセントも増加したと述べた。全人口の上位20%の人々にとって、税引後の世帯あたりの平均実質所得は65%も増加した。
これとは対照的に、予算事務局によると、全人口の下位5分の1に当たる最貧困層にとって、税引後の世帯あたりの平均実質所得は18%しか上昇しなかった。
所得規模の中間に位置する5分の3の国民にとって、こうした家計収入の伸びは40%足らずだった。
国税庁と国勢調査局のデータの厳密な分析に基づいた今回の調査結果は、これまでにもあった民間の調査会社や大学の経済学者による研究とほぼ一致している。しかし、今回の結果は、超党派の予算事務局の認可を受けたものなので、連邦税や支出政策の公平性をめぐる議会での議論に大きな影響をもつものと考えられる。
上位層の収入が急速に伸びたことに寄与した要因として挙げられたのは、役員報酬の構造、スポーツ界やアート界の「スーパースター」に対する高額な報酬、金融サービス業界のますます大型する規模、キャピタル・ゲインの役割が高まったことなどである。キャピタル・ゲインは高所得世帯の懐だけに偏って流れ込むのである。
報告書は、高所得世帯がますます多くの取り分を手にするようになる一方で、低所得者層の分け前はますます小さくなっていることを見出した。
具体的に報告書は以下の点を指摘した。
¶ 全人口の上位1%の税引後世帯収入の割合は2倍以上になり、1979年の約8%から2007年の17%に上昇した。
¶ 全人口の上位5分の1の富裕層が受けとる税引後世帯収入は、1979年の43%からさらに上昇し、2007年には53%だった。言い換えれば、上位5分の1の富裕層は、他の5分の4の所得を超えてしまうのである。
¶ 全人口の下位5分の1の最貧層の人々が受けとる税引後世帯収入は、1979年の7%からダウンし、2007年には約5%だった。
¶ 全人口の中間にあたる5分3の人々の税引き後収入は、1979年から2007年にかけて2〜3パーセント減少した。
この研究は、モンタナ州選出の民主党の上院議員で財務委員会の委員長であるマックス・ボーカスと、同委員会の共和党の長老委員だった頃のアイオワ州選出のチャールズ・E.グラスリーの要請に基づいて開始された。
ミシガン州の下院議員で歳入委員会の民主党の長老委員のサンダー・M.レヴィンは、この報告書が「所得の不平等が驚くべきほど増大していることを示す最新の証拠」であると述べた。
(以下略)
」(おわり)
「われわれは99パーセントだ」の抗議運動で一躍有名になった、アメリカの最上位1パーセントだが、今回の報告書では、「1979年の約8%から2007年の17%に上昇」したそうだ。やはり、さすがに、1パーセントだけで国民の所得の3~4割近くを占める程ではなかったか。ここら辺の細かい数字は、時によく判らなくなって、1パーセントの人間が3割だっけ? それとも上位10パーセントが3割の収入を得ているんだっけ? という具合に混乱するので、これを機によく記憶に刻んでおこうと思う。
しかし、それでも、「上位5分の1の富裕層が受けとる税引後世帯収入は、1979年の43%からさらに上昇し、2007年には53%だった」そうなので、上位2割ほどが半分以上の収入を得ているという現状は、著しい格差という他はない。
ちなみに、アメリカの上位1パーセントの富豪が得ている収入の割合の推移をグラフ化した記事(http://www.nytimes.com/interactive/2011/10/26/nyregion/the-new-gilded-age.html?ref=politics)も合わせて見ると参考になると思う。
Top Earners Doubled Share of Nation’s Income, Study Finds
By ROBERT PEAR
Published: October 25, 2011
http://www.nytimes.com/2011/10/26/us/politics/top-earners-doubled-share-of-nations-income-cbo-says.html?_r=1&src=recg
「
高額所得者のトップの所得が国民所得に占める割合が倍増した
上位1%の人間の所得がアメリカの国民所得において占める割合が、過去30年間で、倍以上になっていたことが、火曜日に出た連邦議会予算事務局の新たな報告書で判明した。この報告書は、いかにして経済を回復させ、雇用を創出し連邦政府の債務を減らすのかという方法をめぐって激化する政争の中で注目をひくことになるだろう。

(チャーメーヌ・マリオットはウォール街からずっと離れたところにいたが、ウォール街で抗議活動をする人々に共感を覚えたため、彼女も先週アルバニーで自分で作ったプラカードを掲げるにいたった。今回出た新たな報告書によって抗議活動はさらに勢いを増すことになるかもしれない)
さらに、この報告書によると、政府は、1970年代後半以降、低所得者層への再分配的な政策を減らし、所得の集中を低減する措置を次第に取り止めてきた。
予算事務局によると、1979年より2007年の方が「格差を均等化する連邦税の効果は小さくなった」が、それは「連邦政府の歳入の構成が累進的な所得税(income taxes)からそれほど累進的ではない給与税(payroll taxes)にシフトした」からだ。
また予算事務局によると、連邦政府による給付金の支払いが収入の格差を均一にするのに役立たなくなっているのだが、それは、収入に関係なく高齢者に社会保険料のような給付金がますます多く支払われているからなのである。
この報告書は、数年前の要請に基づいて開始されたものだが、折しも、失業を減らす方法をめぐって議員たりが火花を散らし、議会の合同委員会が税法の改正を審議し、国中で抗議活動している人々が富める者と貧しい者の所得格差に対して怒りをぶちまけている最中に公表されたのだった。
報告書の中で予算事務局は、1979年から2007年までに、インフレ補正をした上での税引後の平均所得は、最高所得者層である全人口の上位1%にとって、275パーセントも増加したと述べた。全人口の上位20%の人々にとって、税引後の世帯あたりの平均実質所得は65%も増加した。
これとは対照的に、予算事務局によると、全人口の下位5分の1に当たる最貧困層にとって、税引後の世帯あたりの平均実質所得は18%しか上昇しなかった。
所得規模の中間に位置する5分の3の国民にとって、こうした家計収入の伸びは40%足らずだった。
国税庁と国勢調査局のデータの厳密な分析に基づいた今回の調査結果は、これまでにもあった民間の調査会社や大学の経済学者による研究とほぼ一致している。しかし、今回の結果は、超党派の予算事務局の認可を受けたものなので、連邦税や支出政策の公平性をめぐる議会での議論に大きな影響をもつものと考えられる。
上位層の収入が急速に伸びたことに寄与した要因として挙げられたのは、役員報酬の構造、スポーツ界やアート界の「スーパースター」に対する高額な報酬、金融サービス業界のますます大型する規模、キャピタル・ゲインの役割が高まったことなどである。キャピタル・ゲインは高所得世帯の懐だけに偏って流れ込むのである。
報告書は、高所得世帯がますます多くの取り分を手にするようになる一方で、低所得者層の分け前はますます小さくなっていることを見出した。
具体的に報告書は以下の点を指摘した。
¶ 全人口の上位1%の税引後世帯収入の割合は2倍以上になり、1979年の約8%から2007年の17%に上昇した。
¶ 全人口の上位5分の1の富裕層が受けとる税引後世帯収入は、1979年の43%からさらに上昇し、2007年には53%だった。言い換えれば、上位5分の1の富裕層は、他の5分の4の所得を超えてしまうのである。
¶ 全人口の下位5分の1の最貧層の人々が受けとる税引後世帯収入は、1979年の7%からダウンし、2007年には約5%だった。
¶ 全人口の中間にあたる5分3の人々の税引き後収入は、1979年から2007年にかけて2〜3パーセント減少した。
この研究は、モンタナ州選出の民主党の上院議員で財務委員会の委員長であるマックス・ボーカスと、同委員会の共和党の長老委員だった頃のアイオワ州選出のチャールズ・E.グラスリーの要請に基づいて開始された。
ミシガン州の下院議員で歳入委員会の民主党の長老委員のサンダー・M.レヴィンは、この報告書が「所得の不平等が驚くべきほど増大していることを示す最新の証拠」であると述べた。
(以下略)
」(おわり)
イギリスのとある風景写真コンテストの受賞作 [海外のニュース記事]
イギリスの『サンデー・タイムズ』が主催する“Take a View”という写真コンテストの風景写真の受賞作が発表されたが、それを見てみると、だいぶ日本とは「風景写真」の概念が違うことが判って面白い。日本では、なるべく人為的なものを写さないということが「風景写真」の定義に含まれているような気がする。まあ、確かに「風景(landscape)」という言葉にそんな意味はないわけだが。
4つのカテゴリー(部門)のうち、「光景を生きる(living the view)」というカテゴリーは人間の活動とともに捕らえられた風景写真で、「あなたの視点(your view)」は、自分が意味あると思うイギリスの姿を捉えた写真のようだ(http://www.take-a-view.co.uk/)。
日本も紅葉のシーズンを迎え、紅葉の名所といわれる所には、週末ともなれば、呆れるほどのアマチュア・カメラマンが集結していることだろう。実は、こう書いている私も、今週末はこういう場所に行く予定なのだが。
イギリス『ガーディアン』紙より。
Landscape photographer of the year 2011 – in pictures
http://www.guardian.co.uk/artanddesign/gallery/2011/oct/24/landscape-photographer-2011-in-pictures
「
1.全カテゴリーを通じての第一位。『冬の原野』(スコットランド、スティアリングシャー)と題されたこの写真は、カンバーノールド在住のロバート・フルトンの作品。

2.「古典的な光景(classic view)」のカテゴリーの第一位。冬の嵐の最中のガーンジー島のロケーヌ湾を撮ったこの写真は、この島在住のティム・ハーヴェイの作品。

3.「光景を生きる(living the view)」というカテゴリーの第一位。「島を取り囲んで」と題されたこの写真は、ハンプシャー在住のバクスター・ブラッドフォードがはースト・キャッスルで撮影した作品。

4.「都市の光景(urban view)」のカテゴリーの第一位。ロンドン在住のハワード・キングスノースは、ロンドンの金融街を写真(題名は『夜のスクエアマイル』)に撮った。

5.ロンドン在住のオスカー・ステュワート-パックは、アームチェアと題されたこの写真(撮影地ロンドン)で、若い風景写真家賞を獲得した。

6.ピーター・クラークがチェシャー州のローヘッドの森を撮ったこの写真が「あなたの視点(your view)」カテゴリーの第一位となった。

」
ジョークと危機の関係 [海外のニュース記事]
ニューヨーク・タイムズの哲学者のエッセイを掲載するコラム(‘Stone’)から、ジョークの本質を論ずるエッセイを紹介する。
「ジョーク」あるいは「ユーモア」がテーマなのだから、さぞかし笑える内容なのだろうという期待をそそるのだが、笑える個所はほとんどない。むしろ、かなり難解な内容である。「ユーモアの本質は何らユーモラスなものではない」からだ。核心部分は次のようにまとめられるだろうか。
・ 「危機」とは、元来、現実の中に生じる分裂や亀裂のことで、その内部に安心していられなくなるからこそ「危機」なのだが、ジョークとは、そうした現実そのものについての意識なのだ。
・ ジョークは分裂に満ちた現実をひとまず運命として受け入れるが(「運命論(fatalism)」)
・ 笑う人間は、一瞬であるにせよ、その現実から身を引きはがして、それに批判的に対峙し、不安を笑い飛ばし自らの運命をコントロール下に置こうとする。
・ 現実や自己自身を突き放して見るとき、私たちは自分自身から離れた立ち位置を占める。しかし、こうした分裂的な態度は、現実の中にある「危機」そのものの反映でありその意識化なのである・・・・
強盗を働く銀行、失職を目前にして一週間分のワイシャツにアイロンをかけるディーラー、大企業が目減りした結果としての中小企業などの例は、本来そうであるはずの現実が無残にも別物になってしまったことを意識化した上でそれを嘲笑するジョークなのだろうが、その根底にあるのは、笑いをとろうとする意識ではなく、現実そのものを突き放して諦観しようとするリアリズムなのである。
October 16, 2011, 6:10 PM
Jokes and Their Relation to Crisis
By MICHAEL MARDER
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/10/16/jokes-and-their-relation-to-crisis/
「
ジョークと危機の関係
マイケル・マーダー
6月に、共和党の大統領候補のミット・ロムニーが、フロリダ州タンパの失業者のグループの集会で笑わせようとして言い放ったジョークのおかげで批判にさらされたことがあった。「私も失業中です」とロムニーは言ってのけたのだが、もちろん彼は、自分に欠けている職は大統領職だと言いたかったのだ。
彼の誤りは、経済危機(それによって深刻化した階級間の分断や不安をふくむ)がはらむ意味そのものを軽んじたことだった。自分の身分を名乗って聴衆と一体化しようとする彼の言葉(「私も Xです」)はその意図とは正反対の効果をもたらし、「失業中」の億万長者と職のないフロリダの市民との間には架橋できないギャップがあることを際立たせるだけだった。しかし、ある意味で、あのジョークは最終的には功を奏した。もっとも、ロムニーが意図したとおりの仕方ではなかったが。あのジョークは、結局、ロムニー自身の鈍感さを暴いたのだ。あのジョークはロムニー自身を笑い物にしたのだった。

ロムニーに批判的な人々がその後に示した品の良い反応は非常に画一的なものだった。そうした反応は、詰まるところ、現在の危機は笑い事ではないのだ、失業を笑いのネタにするなんて失業者に失礼だといった戒めに帰着した。だが、それどころか、ユーモアと危機が共通の起源に由来するとしたらどうだろう? ユーモアというものは一様に危機に対する反応の中で生まれるものだとしたらどうだろう? つまり、ユーモアが、われわれと社会や政治や経済の現実との間にある大きな裂け目に対する反応であるとしたら、あるいはわれわれの中にある分裂に対する反応であるとしたら、あるいは、現実そのものの中にある亀裂に対する反応であるとしたらどうだろうか?
もしそうであるならば、笑いは、危機によって生じたあれやこれやの裂け目を修復するどころか、そうした裂け目をいっそう際立たせるだけなのであって、笑うことによって、そうした裂け目はその本来の姿をやっと余すところなく取り戻すのである。一部の人が信じるように、ユーモアとは物まねの戦略ではないし、他の方法では表現できないフラストレーションのはけ口などでもない・・・少なくとも、それだけではない。最良のユーモアとは、危機が自己自身を意識することなのである。
ユーモアは、「客観的」現実を何一つ変更することなく、現実が自分自身を笑い飛ばし、笑いながら、自分自身の外側に立ち、自分自身とは別物になっていくことを可能にするものだ。「危機(crisis)」という言葉は、「批判(critique)」と同様に、分離や分断を意味する“krinein”というギリシャ語の動詞に由来するものだが、その危機という言葉の核心部分には、「分離(krinein)」を被るものが自分自身から大きく隔たっていくというニュアンスが潜んでいる。しかもユーモアは、ある意味での分離から別の意味での分離への移行――危機(crisis)から批判(critique)への移行――を引き起こすメカニズムなのかもしれない。
例えば、次のジョークを考えてみよう。「アメリカでは、お金は国民の懐(ふところ)にあるので、銀行は国民から強奪するのだ!」。常識(これはこれでイデオロギーの別名にすぎないのだが)を逆転させながら、簡にして要を得たこのジョークは、ベルトルト・ブレヒトの「銀行の設立と銀行強盗はどこが違うのか?」という修辞的な質問をくり返すものだ。金融システム全体がずっと大規模で制度化された強盗であることを含意しながら、ジョークはあっという間にイデオロギーのベールを突き破る。確かに、ユーモアに満ちた非難は、しばしばその地点で立ち止まってしまう。それはその批判の対象を人生の厳然たる事実として受け入れる。銀行が国民のお金を強奪するという行為をだれも支援しないが、笑いは、聞き手がこの政治的経済的現実を運命として受け入れていること(「fatalism」)を追認するのだ。「それが人生というものさ!( C’est la vie! )」がユーモアの隠れたモットーなのである。
それでも、運命と割り切って諦める運命論は、ここにあるパズルのピースの1つにすぎない。危機のロジックで問題となるのはまさに時間と人間の有限性、つまり、未来や老化や差し迫る死を扱う私たちの能力に限界があるという点なのである。
時間の問題が危機に関係するすべてのものに影を落としているということを理解するには、よく知られた二つのジョークを見るだけで十分だ。
1. 楽観主義の定義は何か? それは、日曜日の夜に5枚のワイシャツにアイロンをかける投資金融業者のことだ。
2. ある人が銀行の支店長のところにやって来て次のように言った。「小さな会社をスタートさせたいんだ。どうしたらいいだろう? 」。「簡単なことだよ」と支店長は言った。「大きな会社を買ってじっとしていればいいのさ」。
どちらのケースでも、限りある時間――間もなく期限に達する時間や、かつてないほど脅迫的な未来――が関心の的になっていて、ジョークに活気を与えている。危機がわれわれを未知のものに直面させるものであるならば、それは極度の不安を呼び起さずにはおかないのである。
ユーモアはこうした未来にどのように関わり、こうした感情にどのように対処するのだろうか? 未知のものによってかき立てられた不安を静めるどころか、ユーモアは、社会的・政治的・経済的現実の制限は言うまでもなく、自分自身の有限さや老いに人々がそろって直面することを可能にする言葉のツールなのである。投資金融業でさえも雇用が不安定であるとか貯えが徐々になくなって行くという点で、われわれは、現在の自分たちや、おそらくもっと重要なことに、未来の自分たちが、連帯のきずなで結びついていることを認識するのである。
したがって、(1)現在と未来との時間的な亀裂が危機に固有の場所であり、(2)ユーモアはこの裂け目を言葉のスポットライトのもとに置くのである。しかし、危機の時間的な構造が目に見えるものとなるとき、いったい誰が誰を笑っているのだろうか? 現在が自分自身を笑っているのか? 現在が自分の暗い末路である未来のことを笑っているのか? それともわれわれの未来が現在にいるわれわれを笑っているのだろうか?
危機的な状況に陥ったときの自分自身を笑うことは、自分には限界があってどうしようもないほど弱気になること(未来によって圧倒され押しつぶされてしまうという感情)を笑うことである。こうした見方は単刀直入な解釈というものだろう。この解釈によれば、現在が未来を笑うのである、あるいは、来るべきものに対して現在自身が抱く恐れを笑うのである。未来を笑うことは、未来が引き起こす恐れを乗り越えることによって、未来をわれわれのコントロール下に置くことである。たとえ、爆笑が共有されるつかの間のことであるにしても。
しかし同時に、ユーモアは弱気の強さを、つまり、虚勢や偽りの確信や非現実的な期待をせずに自分の苦境に直面する能力を露わにする。未来を支配しようと努める代わりに、われわれはこれから到来することと現在の裂け目に入り込んで、危機を皮肉まじりの自己意識のなかで深めるのだ。
ジョークとは、共通の文化的・言語的前提を背景にして共有されるように意図されている場合でも、摩擦を生み出す場所なのだ。その点で、ジョークは危機的な状況に似ている。内的に矛盾していることだが、ジョークが明らかにしているのは、現実を運命として受け入れておきながら、そのようにして受け入れられたことに不平を抱く心情である。無力でありながら新たな自信を抱くことである。恐るべき未来を直視するものの、それに続く弱気を公然と認めることである。ユーモアは危機を言い表すための最良のはけ口の一つなのだが、それは、危機そのものが現状のままでは持続できない内的な矛盾と分裂の結果だからなのである。
マルティン・ハイデガーが言ったことをもじって、ユーモアの本質は何らユーモラスなものではないとわれわれは言っていいかもしれない。ユーモアは、むしろ、私が自分自身や世界から分離することであり、しかも「時間」や「自己意識」や「批判」や「危機」などと多様に呼ばれる仕方で分離することなのである。ユーモアが危機に応えるとき、それはその危機の本質に立ち戻って、危機がそこから勃発した分裂や矛盾をたどり直す暗黙の批判を始めるのである。だが、ユーモアの本質は何らユーモラスなものではないにしても、だからといって、われわれが存分に大笑いしてはならない、ということにはならないのである。
「ジョーク」あるいは「ユーモア」がテーマなのだから、さぞかし笑える内容なのだろうという期待をそそるのだが、笑える個所はほとんどない。むしろ、かなり難解な内容である。「ユーモアの本質は何らユーモラスなものではない」からだ。核心部分は次のようにまとめられるだろうか。
・ 「危機」とは、元来、現実の中に生じる分裂や亀裂のことで、その内部に安心していられなくなるからこそ「危機」なのだが、ジョークとは、そうした現実そのものについての意識なのだ。
・ ジョークは分裂に満ちた現実をひとまず運命として受け入れるが(「運命論(fatalism)」)
・ 笑う人間は、一瞬であるにせよ、その現実から身を引きはがして、それに批判的に対峙し、不安を笑い飛ばし自らの運命をコントロール下に置こうとする。
・ 現実や自己自身を突き放して見るとき、私たちは自分自身から離れた立ち位置を占める。しかし、こうした分裂的な態度は、現実の中にある「危機」そのものの反映でありその意識化なのである・・・・
強盗を働く銀行、失職を目前にして一週間分のワイシャツにアイロンをかけるディーラー、大企業が目減りした結果としての中小企業などの例は、本来そうであるはずの現実が無残にも別物になってしまったことを意識化した上でそれを嘲笑するジョークなのだろうが、その根底にあるのは、笑いをとろうとする意識ではなく、現実そのものを突き放して諦観しようとするリアリズムなのである。
October 16, 2011, 6:10 PM
Jokes and Their Relation to Crisis
By MICHAEL MARDER
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/10/16/jokes-and-their-relation-to-crisis/
「
ジョークと危機の関係
マイケル・マーダー
6月に、共和党の大統領候補のミット・ロムニーが、フロリダ州タンパの失業者のグループの集会で笑わせようとして言い放ったジョークのおかげで批判にさらされたことがあった。「私も失業中です」とロムニーは言ってのけたのだが、もちろん彼は、自分に欠けている職は大統領職だと言いたかったのだ。
彼の誤りは、経済危機(それによって深刻化した階級間の分断や不安をふくむ)がはらむ意味そのものを軽んじたことだった。自分の身分を名乗って聴衆と一体化しようとする彼の言葉(「私も Xです」)はその意図とは正反対の効果をもたらし、「失業中」の億万長者と職のないフロリダの市民との間には架橋できないギャップがあることを際立たせるだけだった。しかし、ある意味で、あのジョークは最終的には功を奏した。もっとも、ロムニーが意図したとおりの仕方ではなかったが。あのジョークは、結局、ロムニー自身の鈍感さを暴いたのだ。あのジョークはロムニー自身を笑い物にしたのだった。

ロムニーに批判的な人々がその後に示した品の良い反応は非常に画一的なものだった。そうした反応は、詰まるところ、現在の危機は笑い事ではないのだ、失業を笑いのネタにするなんて失業者に失礼だといった戒めに帰着した。だが、それどころか、ユーモアと危機が共通の起源に由来するとしたらどうだろう? ユーモアというものは一様に危機に対する反応の中で生まれるものだとしたらどうだろう? つまり、ユーモアが、われわれと社会や政治や経済の現実との間にある大きな裂け目に対する反応であるとしたら、あるいはわれわれの中にある分裂に対する反応であるとしたら、あるいは、現実そのものの中にある亀裂に対する反応であるとしたらどうだろうか?
もしそうであるならば、笑いは、危機によって生じたあれやこれやの裂け目を修復するどころか、そうした裂け目をいっそう際立たせるだけなのであって、笑うことによって、そうした裂け目はその本来の姿をやっと余すところなく取り戻すのである。一部の人が信じるように、ユーモアとは物まねの戦略ではないし、他の方法では表現できないフラストレーションのはけ口などでもない・・・少なくとも、それだけではない。最良のユーモアとは、危機が自己自身を意識することなのである。
ユーモアは、「客観的」現実を何一つ変更することなく、現実が自分自身を笑い飛ばし、笑いながら、自分自身の外側に立ち、自分自身とは別物になっていくことを可能にするものだ。「危機(crisis)」という言葉は、「批判(critique)」と同様に、分離や分断を意味する“krinein”というギリシャ語の動詞に由来するものだが、その危機という言葉の核心部分には、「分離(krinein)」を被るものが自分自身から大きく隔たっていくというニュアンスが潜んでいる。しかもユーモアは、ある意味での分離から別の意味での分離への移行――危機(crisis)から批判(critique)への移行――を引き起こすメカニズムなのかもしれない。
例えば、次のジョークを考えてみよう。「アメリカでは、お金は国民の懐(ふところ)にあるので、銀行は国民から強奪するのだ!」。常識(これはこれでイデオロギーの別名にすぎないのだが)を逆転させながら、簡にして要を得たこのジョークは、ベルトルト・ブレヒトの「銀行の設立と銀行強盗はどこが違うのか?」という修辞的な質問をくり返すものだ。金融システム全体がずっと大規模で制度化された強盗であることを含意しながら、ジョークはあっという間にイデオロギーのベールを突き破る。確かに、ユーモアに満ちた非難は、しばしばその地点で立ち止まってしまう。それはその批判の対象を人生の厳然たる事実として受け入れる。銀行が国民のお金を強奪するという行為をだれも支援しないが、笑いは、聞き手がこの政治的経済的現実を運命として受け入れていること(「fatalism」)を追認するのだ。「それが人生というものさ!( C’est la vie! )」がユーモアの隠れたモットーなのである。
それでも、運命と割り切って諦める運命論は、ここにあるパズルのピースの1つにすぎない。危機のロジックで問題となるのはまさに時間と人間の有限性、つまり、未来や老化や差し迫る死を扱う私たちの能力に限界があるという点なのである。
時間の問題が危機に関係するすべてのものに影を落としているということを理解するには、よく知られた二つのジョークを見るだけで十分だ。
1. 楽観主義の定義は何か? それは、日曜日の夜に5枚のワイシャツにアイロンをかける投資金融業者のことだ。
2. ある人が銀行の支店長のところにやって来て次のように言った。「小さな会社をスタートさせたいんだ。どうしたらいいだろう? 」。「簡単なことだよ」と支店長は言った。「大きな会社を買ってじっとしていればいいのさ」。
どちらのケースでも、限りある時間――間もなく期限に達する時間や、かつてないほど脅迫的な未来――が関心の的になっていて、ジョークに活気を与えている。危機がわれわれを未知のものに直面させるものであるならば、それは極度の不安を呼び起さずにはおかないのである。
ユーモアはこうした未来にどのように関わり、こうした感情にどのように対処するのだろうか? 未知のものによってかき立てられた不安を静めるどころか、ユーモアは、社会的・政治的・経済的現実の制限は言うまでもなく、自分自身の有限さや老いに人々がそろって直面することを可能にする言葉のツールなのである。投資金融業でさえも雇用が不安定であるとか貯えが徐々になくなって行くという点で、われわれは、現在の自分たちや、おそらくもっと重要なことに、未来の自分たちが、連帯のきずなで結びついていることを認識するのである。
したがって、(1)現在と未来との時間的な亀裂が危機に固有の場所であり、(2)ユーモアはこの裂け目を言葉のスポットライトのもとに置くのである。しかし、危機の時間的な構造が目に見えるものとなるとき、いったい誰が誰を笑っているのだろうか? 現在が自分自身を笑っているのか? 現在が自分の暗い末路である未来のことを笑っているのか? それともわれわれの未来が現在にいるわれわれを笑っているのだろうか?
危機的な状況に陥ったときの自分自身を笑うことは、自分には限界があってどうしようもないほど弱気になること(未来によって圧倒され押しつぶされてしまうという感情)を笑うことである。こうした見方は単刀直入な解釈というものだろう。この解釈によれば、現在が未来を笑うのである、あるいは、来るべきものに対して現在自身が抱く恐れを笑うのである。未来を笑うことは、未来が引き起こす恐れを乗り越えることによって、未来をわれわれのコントロール下に置くことである。たとえ、爆笑が共有されるつかの間のことであるにしても。
しかし同時に、ユーモアは弱気の強さを、つまり、虚勢や偽りの確信や非現実的な期待をせずに自分の苦境に直面する能力を露わにする。未来を支配しようと努める代わりに、われわれはこれから到来することと現在の裂け目に入り込んで、危機を皮肉まじりの自己意識のなかで深めるのだ。
ジョークとは、共通の文化的・言語的前提を背景にして共有されるように意図されている場合でも、摩擦を生み出す場所なのだ。その点で、ジョークは危機的な状況に似ている。内的に矛盾していることだが、ジョークが明らかにしているのは、現実を運命として受け入れておきながら、そのようにして受け入れられたことに不平を抱く心情である。無力でありながら新たな自信を抱くことである。恐るべき未来を直視するものの、それに続く弱気を公然と認めることである。ユーモアは危機を言い表すための最良のはけ口の一つなのだが、それは、危機そのものが現状のままでは持続できない内的な矛盾と分裂の結果だからなのである。
マルティン・ハイデガーが言ったことをもじって、ユーモアの本質は何らユーモラスなものではないとわれわれは言っていいかもしれない。ユーモアは、むしろ、私が自分自身や世界から分離することであり、しかも「時間」や「自己意識」や「批判」や「危機」などと多様に呼ばれる仕方で分離することなのである。ユーモアが危機に応えるとき、それはその危機の本質に立ち戻って、危機がそこから勃発した分裂や矛盾をたどり直す暗黙の批判を始めるのである。だが、ユーモアの本質は何らユーモラスなものではないにしても、だからといって、われわれが存分に大笑いしてはならない、ということにはならないのである。
三つ星レストランの数で日本がフランスを追い抜く [海外のニュース記事]
ミシュランの三つ星の数で日本がフランスを追い抜いたのだという。
まあ、こういうのはお遊びであるとしても、喜ばしいニュースには違いない。でも、私の関心はちょっと違うところにあった。
今朝たまたま読んだ記事に、日本がこの10年と同じ経済成長のペースでいけば、国民一人当たりのGDP(購買力平価ベースで)は、2020年にはシンガポールや台湾や韓国にも追い抜かれ、下手をするとマレーシアにも抜かれるだろうという予測が載っていた。だから、TPPへの参加は不可避だというのが結論であった(http://mainichi.jp/select/opinion/ushioda/news/20111019ddm003070090000c.html)。
この結論の当否はともかく、私の脳裏には、10年後について次のようなイメージが浮かんだのである。
・ 経済的な実力では、日本はアジアでも中位のレベルに沈む。
・ しかし、ミシュランの三つ星に関しては、たぶん100軒は越すほどの勢いで、世界にもはや敵なしの美食大国に上りつめる…
日本はフランスのような成熟した文化以外に見るべきものがない国になっている公算が高いのではないだろうか? もはや馬車馬のように働くような大きなインセンティヴは存在しない。また、そんなヴァイタリティーも尽きた感じだ。もっとも、フランスにはヨーロッパを先導する政治力があるが、日本にそんなものは期待できないから、フランスになぞらえるのは必ずしも適切ではないかもしれない。TPPに加入せず鎖国的な状態を続けるにせよ、TPPに加入して国際資本と国際政治に翻弄されるにせよ、それとは別に、美食のような享楽的な趣味性こそが日本人に残されたわずかな得意分野になっていくのだろうと、今朝の新聞記事とこのミシュランの記事を見ながらチラと思ったのであった。結局は、江戸の町人文化の享楽的な趣味性が日本人の身の丈に合っているのではないかと。
そんなことはともあれ、ミシュランに話を戻すと、ミシュランの星がインフレ気味に乱発されることには多分色んなメリットがあるのだろうと推測されるが、個人的にはミシュランの星を獲得した店に行って良い気分を味わったことは、残念ながらとても少ない。内容空疎な店や料理人を輩出することに拍車をかけたという意味で、デメリットのほうが多いような気がするのだが。
いずれにせよ『ウォールストリート・ジャーナル』の記事を以下に紹介しよう。
Japan Tops France for 3-Star Michelin Restaurants
OCTOBER 19, 2011, 12:11 AM JST
By Yoree Koh
http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2011/10/19/japan-tops-france-for-3-star-michelin-restaurants/?mod=google_news_blog
「
ミシュランの三つ星レストランの数で日本がフランスを追い抜く
フランスよ、お前が耳にするのは何か? 日本が世界の新たな料理大国に躍り出た音ではないのか? 少なくとも、みんな毛嫌いするほど大好きなミシュランガイドは、目下のところそうだと言っているのだ。

日本の関西地方に焦点を合わせた2012年版がもうすぐ出版されるが、それによると、定評のあるミシュラン社から憧れの三つ星の格付けを受けたレストランの数で日本がフランスを上回ったらしいのだ。このガイドブックは、英語版と日本語版ともに、金曜日に出版される予定。
新しいガイドブックの出版とともに、日本は、昨年フランスと同数で並んだ競り合いから一歩抜け出したことになる。ミシュラン社が火曜日に出した声明によると、日本には、現在、三つ星を獲得した料理店が29店舗あることになるが、これはフランスよりも4店舗多い数字なのだという。
三つ星の格付けは、京都、大阪、神戸、それから今年新たに加えられた奈良の15店に与えられたが、これは2011年版よりも一店多い数字である。二つ星を与えられたのが59店で、222の店が一つ星に輝きレッド・ブックのページに掲載された。
今年になって三つ星のラインアップに加えられた三つのレストランは、奈良の和食店「和やまむら」と二つの星から昇格した大阪の2つのレストランの「弧柳」と「フジヤ1935」。
2008年に初めて日本に進出して以来、ミシュランの星のシステムは日本を明るく照らしてきた。三つ星を獲得した店舗が当時たった三店しかなかったことにニューヨーク市が憤慨していた頃、東京は8店舗で三つ星を獲得し一躍ミシュラン・ガイドのファミリーに加わったのである。東京はパリにある10店の三ッ星レストランにあと一歩というところであったし、現在ではニューヨークの9店舗を余裕で凌駕している。
ミシュランガイド関西の最新版には韓国のレストランというカテゴリが新設され、その中から一店が一つ星を獲得した。全体的に見ると、蕎麦、ヤキトリ、懐石、寿司、焼肉という幅広い範囲におよぶ和食がやはり強く、掲載店のほぼ90パーセントを占めている。京都を拠点とする料亭がランキングを支配した。トップランクと二つ星のレストランの約半数は古都京都に店舗を構える店である。
新しいガイドでは、関西の美食都市は、三つ星を獲得した店舗が14だった東京を凌駕したことになる。ミシュランガイド東京の2012年版は、隣接する横浜と鎌倉を含む形で、12月12日に出版される予定だ。
その後に、避けがたいことだが、ミシュランガイドが本国フランスについて新たにどのような判断を下すかが明らかになる。ミシュランガイド・フランスの2012年版は来年の3月に出版される予定だ。
」(おわり)
まあ、こういうのはお遊びであるとしても、喜ばしいニュースには違いない。でも、私の関心はちょっと違うところにあった。
今朝たまたま読んだ記事に、日本がこの10年と同じ経済成長のペースでいけば、国民一人当たりのGDP(購買力平価ベースで)は、2020年にはシンガポールや台湾や韓国にも追い抜かれ、下手をするとマレーシアにも抜かれるだろうという予測が載っていた。だから、TPPへの参加は不可避だというのが結論であった(http://mainichi.jp/select/opinion/ushioda/news/20111019ddm003070090000c.html)。
この結論の当否はともかく、私の脳裏には、10年後について次のようなイメージが浮かんだのである。
・ 経済的な実力では、日本はアジアでも中位のレベルに沈む。
・ しかし、ミシュランの三つ星に関しては、たぶん100軒は越すほどの勢いで、世界にもはや敵なしの美食大国に上りつめる…
日本はフランスのような成熟した文化以外に見るべきものがない国になっている公算が高いのではないだろうか? もはや馬車馬のように働くような大きなインセンティヴは存在しない。また、そんなヴァイタリティーも尽きた感じだ。もっとも、フランスにはヨーロッパを先導する政治力があるが、日本にそんなものは期待できないから、フランスになぞらえるのは必ずしも適切ではないかもしれない。TPPに加入せず鎖国的な状態を続けるにせよ、TPPに加入して国際資本と国際政治に翻弄されるにせよ、それとは別に、美食のような享楽的な趣味性こそが日本人に残されたわずかな得意分野になっていくのだろうと、今朝の新聞記事とこのミシュランの記事を見ながらチラと思ったのであった。結局は、江戸の町人文化の享楽的な趣味性が日本人の身の丈に合っているのではないかと。
そんなことはともあれ、ミシュランに話を戻すと、ミシュランの星がインフレ気味に乱発されることには多分色んなメリットがあるのだろうと推測されるが、個人的にはミシュランの星を獲得した店に行って良い気分を味わったことは、残念ながらとても少ない。内容空疎な店や料理人を輩出することに拍車をかけたという意味で、デメリットのほうが多いような気がするのだが。
いずれにせよ『ウォールストリート・ジャーナル』の記事を以下に紹介しよう。
Japan Tops France for 3-Star Michelin Restaurants
OCTOBER 19, 2011, 12:11 AM JST
By Yoree Koh
http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2011/10/19/japan-tops-france-for-3-star-michelin-restaurants/?mod=google_news_blog
「
ミシュランの三つ星レストランの数で日本がフランスを追い抜く
フランスよ、お前が耳にするのは何か? 日本が世界の新たな料理大国に躍り出た音ではないのか? 少なくとも、みんな毛嫌いするほど大好きなミシュランガイドは、目下のところそうだと言っているのだ。

日本の関西地方に焦点を合わせた2012年版がもうすぐ出版されるが、それによると、定評のあるミシュラン社から憧れの三つ星の格付けを受けたレストランの数で日本がフランスを上回ったらしいのだ。このガイドブックは、英語版と日本語版ともに、金曜日に出版される予定。
新しいガイドブックの出版とともに、日本は、昨年フランスと同数で並んだ競り合いから一歩抜け出したことになる。ミシュラン社が火曜日に出した声明によると、日本には、現在、三つ星を獲得した料理店が29店舗あることになるが、これはフランスよりも4店舗多い数字なのだという。
三つ星の格付けは、京都、大阪、神戸、それから今年新たに加えられた奈良の15店に与えられたが、これは2011年版よりも一店多い数字である。二つ星を与えられたのが59店で、222の店が一つ星に輝きレッド・ブックのページに掲載された。
今年になって三つ星のラインアップに加えられた三つのレストランは、奈良の和食店「和やまむら」と二つの星から昇格した大阪の2つのレストランの「弧柳」と「フジヤ1935」。
2008年に初めて日本に進出して以来、ミシュランの星のシステムは日本を明るく照らしてきた。三つ星を獲得した店舗が当時たった三店しかなかったことにニューヨーク市が憤慨していた頃、東京は8店舗で三つ星を獲得し一躍ミシュラン・ガイドのファミリーに加わったのである。東京はパリにある10店の三ッ星レストランにあと一歩というところであったし、現在ではニューヨークの9店舗を余裕で凌駕している。
ミシュランガイド関西の最新版には韓国のレストランというカテゴリが新設され、その中から一店が一つ星を獲得した。全体的に見ると、蕎麦、ヤキトリ、懐石、寿司、焼肉という幅広い範囲におよぶ和食がやはり強く、掲載店のほぼ90パーセントを占めている。京都を拠点とする料亭がランキングを支配した。トップランクと二つ星のレストランの約半数は古都京都に店舗を構える店である。
新しいガイドでは、関西の美食都市は、三つ星を獲得した店舗が14だった東京を凌駕したことになる。ミシュランガイド東京の2012年版は、隣接する横浜と鎌倉を含む形で、12月12日に出版される予定だ。
その後に、避けがたいことだが、ミシュランガイドが本国フランスについて新たにどのような判断を下すかが明らかになる。ミシュランガイド・フランスの2012年版は来年の3月に出版される予定だ。
」(おわり)
弁天山美家古寿司に家族でうかがう [雑感]
ちょっとした祝い事があって、家族3人で『弁天山美家古寿司』で食事をする。江戸前の老舗として有名だが、わが家にとっては近所のお店。いや、それだけではないのだが詳細は略す。
この店について言及するときは、薀蓄を散りばめなければならない義務感をもつ人が多いようだ。まあ、この店が江戸前の保守本流に位置しているのは事実である以上やむを得ないところもあるが、そんな堅苦しい意識を持つ必要はさらさらない。すし屋での作法などを殊更に意識する必要もない。店側もそんなことは望んでいないだろう。わが家が気楽に小一時間すごした様子をここに記しておきたい。
子連れなので一番奥のテーブルに通される。ビールで乾杯して、その日は日本酒の雰囲気だったので『酔鯨』純米吟醸を頼む。(浅草ではなぜかこの高知の酒を最近よく見かけようになったがなぜだろう?)。透明の徳利で出てきた。
ツマミで刺身を出してもらったが、そこに、個人的には普段まず頼むことがないタコとカツオがあった。少し警戒しながら口に入れると、とても良い。特に、タコってこんなに美味かったっけと、たぶん十数年ぶりに食べたタコを見直す思いがした。

さて、そうこうしている合間に、子供は子供で注文をくり返していたのだが、まずは中トロをなぜか三貫ずつ注文した。よく覚えてないが、それを何回かくり返した。(写真は1貫食べた後のもの)

さて、中トロにちょっと食傷気味になったので。今度は赤身を三貫。いや、やはり中トロは捨てがたいので二貫・二貫で貰おうか。それを彼は何回かくり返していたようだ。

たまには別のものを頼めと言っても、彼は聞く耳を持たない。普段はそれほど聞き分けが悪い方でもないのだが、食に関してはこの傾向が強く、特に寿司に関してはこの傾向が甚だしい。人様に見せられるものではないが、まあ、店の一番奥のテーブルなので、幸いなことに人目を気にする必要がない。そもそも、こんな片寄った食べ方は私の遺伝なので、私はとやかく言うことはできないし、妻も見て見ぬ振りを決め込んだようだ。
しかし、親としてはバランスをとるために、マグロの注文は止めて、光り物や貝類をメインに頼んだ。二人とも、お酒が入ると食べる意欲が希薄になるほうなのだ。子供は散発的にマグロの注文をすべり込ませていた。


そして、一時間半の饗宴で、夫婦二人であの徳利の『酔鯨』を5本は空けただろうか。それに劣らぬ集中ぶりを示したわが子の締めは赤身と鉄火巻き。う~ん、こんなに食べてまだ飽きが来ないほど美味いのか? 私は一口も食べなかったので判らないが、子供の食欲が雄弁にその答えを雄弁に語っているだろう。

・・・という訳で、弁天山美家古寿司は伝統だけではありません。店は奥行きがあるので、家族連れは奥のテーブルが利用できます。わが家のような仕様もない注文にもいやな顔一つせず応じてくれます。御気軽にどうぞ。
この店について言及するときは、薀蓄を散りばめなければならない義務感をもつ人が多いようだ。まあ、この店が江戸前の保守本流に位置しているのは事実である以上やむを得ないところもあるが、そんな堅苦しい意識を持つ必要はさらさらない。すし屋での作法などを殊更に意識する必要もない。店側もそんなことは望んでいないだろう。わが家が気楽に小一時間すごした様子をここに記しておきたい。
子連れなので一番奥のテーブルに通される。ビールで乾杯して、その日は日本酒の雰囲気だったので『酔鯨』純米吟醸を頼む。(浅草ではなぜかこの高知の酒を最近よく見かけようになったがなぜだろう?)。透明の徳利で出てきた。
ツマミで刺身を出してもらったが、そこに、個人的には普段まず頼むことがないタコとカツオがあった。少し警戒しながら口に入れると、とても良い。特に、タコってこんなに美味かったっけと、たぶん十数年ぶりに食べたタコを見直す思いがした。
さて、そうこうしている合間に、子供は子供で注文をくり返していたのだが、まずは中トロをなぜか三貫ずつ注文した。よく覚えてないが、それを何回かくり返した。(写真は1貫食べた後のもの)
さて、中トロにちょっと食傷気味になったので。今度は赤身を三貫。いや、やはり中トロは捨てがたいので二貫・二貫で貰おうか。それを彼は何回かくり返していたようだ。
たまには別のものを頼めと言っても、彼は聞く耳を持たない。普段はそれほど聞き分けが悪い方でもないのだが、食に関してはこの傾向が強く、特に寿司に関してはこの傾向が甚だしい。人様に見せられるものではないが、まあ、店の一番奥のテーブルなので、幸いなことに人目を気にする必要がない。そもそも、こんな片寄った食べ方は私の遺伝なので、私はとやかく言うことはできないし、妻も見て見ぬ振りを決め込んだようだ。
しかし、親としてはバランスをとるために、マグロの注文は止めて、光り物や貝類をメインに頼んだ。二人とも、お酒が入ると食べる意欲が希薄になるほうなのだ。子供は散発的にマグロの注文をすべり込ませていた。
そして、一時間半の饗宴で、夫婦二人であの徳利の『酔鯨』を5本は空けただろうか。それに劣らぬ集中ぶりを示したわが子の締めは赤身と鉄火巻き。う~ん、こんなに食べてまだ飽きが来ないほど美味いのか? 私は一口も食べなかったので判らないが、子供の食欲が雄弁にその答えを雄弁に語っているだろう。
・・・という訳で、弁天山美家古寿司は伝統だけではありません。店は奥行きがあるので、家族連れは奥のテーブルが利用できます。わが家のような仕様もない注文にもいやな顔一つせず応じてくれます。御気軽にどうぞ。
グローバル化する「占拠せよ(Occupy)」の運動 [海外のニュース記事]
先週の土曜日に世界中の都市で「ウォール街を占拠せよ」にインスパイアされた抗議活動が行われた。東京でも行われたようだ―――しかし、かつて日本の銀行に巨額の公的資金が投入された頃や派遣労働が社会問題となった頃、日本国内でそんな動きがまったくなかったことを思い合わせるにつけ、これは進歩なのか、それともネット上の動きを反映したブームに過ぎないのではないか、などと思わないこともないのだが、その点はおくとしよう。
イタリアでは暴動騒ぎに発展したそうだ。折りしも、ギリシアの救済をめぐってユーロの威信が揺らいでいるときである。かりにユーロの威信が保たれたとしても、ヨーロッパの各国政府はさらにいっそうの緊縮財政に舵を切らざるをえず、失業はさらに深刻化するだろう。アメリカほどの不平等はないにせよ、職に就けない人々の怒りはもうかなり鬱積しているだろうし、ひょっとしたら一触即発の段階まであとわずかなのかもしれない。
なお、キャプションでも触れられているが、『Vフォー・ヴェンデッタ』で有名になったガイ・フォークス(Guy Fawkes)の仮面――もっとも、私自身はまったく知らなかった――が何度か出てくる。これは、独裁体制に立ち向かうアナーキーな主人公がつける仮面なのだそうだ。
各国の抗議活動の模様を伝えるイギリス『ガーディアン』紙のスライド・ショーより。
http://www.guardian.co.uk/world/gallery/2011/oct/15/occupy-wall-street-movement-global
guardian.co.uk,
「 グローバル化する「占拠せよ」の運動
1.ニューヨークのウォール街の近くにあるズコッティ公園で、合衆国の国旗を口に貼り付けて、プラカードを掲げる「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動をする女性

2.全世界に及ぶ抗議活動の一環としての「ソウルを占拠せよ」の集会の際に、仮面をつけてバナーを掲げる韓国の抗議活動家

3.東京を占拠せよ(「一緒にあなたの街を占拠しよう」)

4.香港を占拠せよ(「銀行は癌だ」)

5.シドニーを占拠せよ

6. 香港を占拠せよ(「汚い金」)

7.シドニーを占拠せよ(「目覚めよ」「ゼネストを!」)
20(694x438)20(640x404).jpg)
8.シドニーを占拠せよ(「オーストラリア株式会社はわれわれを当てにしている」)

9.東京を占拠せよ

10.香港を占拠せよ(「労働者を害するのは止めよ」「労働者に救済を」)

11.香港を占拠せよ

12.『Vフォー・ヴェンデッタ』で有名になったガイ・フォークス(Guy Fawkes)の仮面が、香港証券取引所の外にある雄牛の銅像の角からぶら下がっている

13.ストックホルムを占拠せよ(「君は僕のことを無想家と言うかも知れない――でも、僕一人じゃないんだ!」・・・ジョン・レノン作『イマジン』の一節)

14.チューリッヒを占拠せよ(「わが後は大洪水となれ」・・・「あとは野となれ山となれ」のような意味のことわざ)

15.チューリッヒのパラーデ広場で、スイスの巨大銀行UBSのロゴと「私たちは休むことがありません」という意味のスローガンを貼った仮面をつける抗議活動家

16.フランクフルトのヨーロッパ中央銀行(ECB)の前で金融市場の権力に抗議する活動に加わるデモ参加者たち(「資本主義は宗教だ」「国民に権力を」)

17.ローマのデモでは車が燃やされた

18.「ローマを占拠せよ」のデモの際に銀行の窓を蹴って壊す抗議活動家

19.国際的な抗議の日の一環として何万もの人が行進する中、ローマ中心部で発炎筒をもってデモ行進する抗議活動家

」
イタリアでは暴動騒ぎに発展したそうだ。折りしも、ギリシアの救済をめぐってユーロの威信が揺らいでいるときである。かりにユーロの威信が保たれたとしても、ヨーロッパの各国政府はさらにいっそうの緊縮財政に舵を切らざるをえず、失業はさらに深刻化するだろう。アメリカほどの不平等はないにせよ、職に就けない人々の怒りはもうかなり鬱積しているだろうし、ひょっとしたら一触即発の段階まであとわずかなのかもしれない。
なお、キャプションでも触れられているが、『Vフォー・ヴェンデッタ』で有名になったガイ・フォークス(Guy Fawkes)の仮面――もっとも、私自身はまったく知らなかった――が何度か出てくる。これは、独裁体制に立ち向かうアナーキーな主人公がつける仮面なのだそうだ。
各国の抗議活動の模様を伝えるイギリス『ガーディアン』紙のスライド・ショーより。
http://www.guardian.co.uk/world/gallery/2011/oct/15/occupy-wall-street-movement-global
Occupy movement goes global - in pictures
guardian.co.uk,
「 グローバル化する「占拠せよ」の運動
1.ニューヨークのウォール街の近くにあるズコッティ公園で、合衆国の国旗を口に貼り付けて、プラカードを掲げる「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動をする女性

2.全世界に及ぶ抗議活動の一環としての「ソウルを占拠せよ」の集会の際に、仮面をつけてバナーを掲げる韓国の抗議活動家

3.東京を占拠せよ(「一緒にあなたの街を占拠しよう」)

4.香港を占拠せよ(「銀行は癌だ」)

5.シドニーを占拠せよ

6. 香港を占拠せよ(「汚い金」)

7.シドニーを占拠せよ(「目覚めよ」「ゼネストを!」)
20(694x438)20(640x404).jpg)
8.シドニーを占拠せよ(「オーストラリア株式会社はわれわれを当てにしている」)

9.東京を占拠せよ

10.香港を占拠せよ(「労働者を害するのは止めよ」「労働者に救済を」)

11.香港を占拠せよ

12.『Vフォー・ヴェンデッタ』で有名になったガイ・フォークス(Guy Fawkes)の仮面が、香港証券取引所の外にある雄牛の銅像の角からぶら下がっている

13.ストックホルムを占拠せよ(「君は僕のことを無想家と言うかも知れない――でも、僕一人じゃないんだ!」・・・ジョン・レノン作『イマジン』の一節)

14.チューリッヒを占拠せよ(「わが後は大洪水となれ」・・・「あとは野となれ山となれ」のような意味のことわざ)

15.チューリッヒのパラーデ広場で、スイスの巨大銀行UBSのロゴと「私たちは休むことがありません」という意味のスローガンを貼った仮面をつける抗議活動家

16.フランクフルトのヨーロッパ中央銀行(ECB)の前で金融市場の権力に抗議する活動に加わるデモ参加者たち(「資本主義は宗教だ」「国民に権力を」)

17.ローマのデモでは車が燃やされた

18.「ローマを占拠せよ」のデモの際に銀行の窓を蹴って壊す抗議活動家

19.国際的な抗議の日の一環として何万もの人が行進する中、ローマ中心部で発炎筒をもってデモ行進する抗議活動家

」
拡大し続ける「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動 [海外のニュース記事]
先月ニューヨークで始まった「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動は、収束するどころかますます拡大する様相を見せている。
多様な抗議活動の広がりやプラカードのショットを集めたイギリス『ガーディアン』紙のスライド・ショーを紹介する。人々が自由で創意工夫に富む活動していることが伝わると思う。
Occupy Wall Street protests continue to spread - in pictures
guardian.co.uk, Tuesday 11 October 2011 17.17 BST
http://www.guardian.co.uk/world/gallery/2011/oct/11/occupy-wall-street-protest
「 広がり続ける「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動
先月ニューヨークで少数の人々とともに開始された、アメリカの金融システムと経済的不平等に反対する「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動は、一ダース以上の都市での抗議活動に広がった
1.ロサンゼルス: ロサンゼルス市庁舎前の芝生で行われた「ロサンゼルスを占拠せよ」の抗議活動でプラカードを掲げる女性。(プラカードには「愛の力が権力欲に打ち勝つとき、100パーセントの人間が平和のありがたさを知るだろう」)

2.ワシントン: ホワイト・ハウスから約2ブロック離れたマクファーソン・スクエアの「ワシントンを占拠せよ」のキャンプ地で合衆国憲法の巨大なコピーにサインする人々。

3.ボストン:警察の隊列の背後で、連邦準備銀行(Federal Reserve Bank)の入り口をブロックする「ボストンを占拠せよ」のデモ参加者たち。

4.ワシントン:連邦準備制度の廃止を求める「ワシントンDCを占拠せよ」のメンバーの抗議活動家たちが連邦準備銀行の前でデモをしている中、20ドル紙幣を燃やす男性。

5.ニューヨーク:ズコッティ・パークでの「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動に加わる参加者たち。(俺はプラカードを作っちまったほど怒っているぞ」)

6.ニューヨーク: ズコッティ・パークでの「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動に加わる女性がマットレスの上に毛布を広げている。マンハッタン南端の広場のキャンプ地はボロボロの寝袋で足の踏み場もない状態だが、何チームにもおよぶボランティアたちが、食料調達や衛生管理や健康管理やその他の用件に気を配っていて、顔ぶれが次々と代わる抗議活動家の集団が、都市の中にできた即興的な都市のように機能する手助けをしている。

7.ニューヨーク: 反戦団体の活動家や「ウォール街を占拠せよ」のメンバーが、アフガニスタンでの戦争10周年のデモをタイムズ・スクエアで行う。

8.フィラデルフィア:市庁舎近くの歩道に書いた俳句を前に座るローレン・ビーバーとマイク・マルシット。
(俳句の大意は「若くして一文無しだが アメリカン・ドリームのために戦っているぞ」)

9.シカゴ:「立ち上がれシカゴ」という名の団体のメンバーが、シカゴで行われた全米抵当銀行協会の年次総会の会場の外側で抗議の声を上げる。この団体は「ウォール街を占拠せよ」の運動に刺激を受けているが、その運動と正式に連携しているわけではない。

10.ワシントン:全米で起こっている反企業抗議運動の一つである「ワシントンDCを占拠せよ」の抗議活動の合間に、フリーダム・スクエアのテントと寝袋の間で立ち話をする二人の女性。

11.ニューヨーク: ズコッティ・パークでの「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動と連携して公開で行われるヨガの集会に参加する女性たち。

12.シャーロット:ノース・キャロライナでプラカードを掲げる、「ウォール街を占拠せよ」に共鳴して抗議する人々。

13.ワシントン:「ワシントンDCを占拠せよ」の抗議活動の間、フリーダム・スクエアでのスピーチに耳を傾ける人々。
(プラカードは「異議を唱えることは愛国的行為」)

14.ポートランド:チャップマン・スクエアで雨の中に立つ抗議活動の男性。「ポートランドを占拠せよ」は、ニューヨークの「ウォール街を占拠せよ」から派生したものだが、少なくとも4000人が街中をデモ行進をすることで始まった。それ以降、何百人もの人々が、、チャップマン・スクエアにひしめき合うテントに留まった。彼らは、いつ抗議活動を終えるかの期限をくぎっていない。

15.クリーブランド:「クリーブランドを占拠せよ」のメンバーたちがパブリック・スクエアで休息をとる。(「不正義を止めるために団結しよう」、「2011年の革命」)

16.ロサンゼルス:「ロサンゼルスを占拠せよ」の抗議キャンプの歩道にチョークでメッセージを書く女性。

17.ニューヨーク: 数百人の活動家が生活しているズコッティ・パークでプラカードを掲げる「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動家。(「ウォール街のペテン師どもよりもわれわれのほうが注目度は上だぞ」)

18.フィラデルフィア:市庁舎から独立記念国立歴史公園に向かうデモ行進の最中、バス停で二重写しになるプラカードを掲げる人々。(「資本主義に反対しないのは人種差別的だ。アフリカは資本主義の犠牲になった大陸だ」)

19.ニューヨーク: 数百人の活動家が生活しているズコッティ・パークでプラカードを掲げる「ウォール街を占拠せよ」の抗議活動家。(「犯罪が実は金になるウォール街」)

20.ロサンゼルス:市庁舎の前の芝生で行われた「ロサンゼルスを占拠せよ」の抗議活動でプラカードを掲げるデモ参加者。(「われわれの抗議活動に加わろう!」)

」(おわり)
ゴーゴーゴー(運動会の歌) [子供とともに(更新ほぼ停止中)]
大人たちの世界とは別の所で、子供たちはゆっくりと、かつ元気に育っている。普段はあまり意識することもないまますごしているのだが、やはり運動会を見ると、そんな平凡なことが改めて貴重なこととして感じられるものだ。
もう先週になってしまったが、子供の学校の運動会があった。
徒競走やリレーには興奮するし、綱引きや騎馬戦にも目が釘づけになるが、運動会で私が一番好きなのは応援合戦。とくにそこで競うように歌われる歌が好きだ。調べてみると「ゴーゴーゴー」というのだそうだ。運動会の本番で録音して記録に留めておこうと常々思っていたのだが、今度の運動会でその宿願を果たした。
気分が沈むようなことがあるときは、これを聞いて自分を勇気づけようかな、そんな気持ちにこの歌はさせてくれるのだ。 (プレイヤーで音声を聞くことができるので、お暇な人はどうぞ御一聴のほどを)。
・ 応援合戦のひとこま

・ 綱引き

・ 騎馬戦

・ 徒競走

・ 「ゴーゴーゴー」
「 ゴーゴーゴー(運動会の歌)
花岡恵(橋本祥路):作詞 橋本祥路:作曲
1番 あかぐみ
(フレーフレーあかぐみ フレーフレーあかぐみ ゴーゴーゴー)
ぼくらは かがやく
たいようのように
もえあがる きぼう
ちからいっぱい
がんばろう
あかあかあか
ゴーゴーゴー
あかあかあか
ゴーゴーゴー
もえろよもえろ
あかぐみ
2番 しろぐみ
(フレーフレーしろぐみ フレーフレーしろぐみ ゴーゴーゴー)
ぼくらはしろい
いなずまだ
つきすすむ ひかりのや
かみなりのおと
とどろかせ
げんきいっぱい
がんばろう
ゴーゴーゴー
しろしろしろ
ゴーゴーゴー
しろしろしろ
ちきゅうをまわる
いなずまだ
しろぐみ
3番 あかぐみ・しろぐみ同時に
♪ぼーくらーはかっがーやくー
たーいよーのーよーおにー
もえあーがるーきーぼおー
ちかーらいっぱいがんばろおー
あかあかあかー ゴーゴーゴー!
あかあかあかー ゴーゴーゴー!
もーえろーよーもーえーろっ
あーかー ぐーみー♪
♪ぼーくらーはしっろーいいーなずっまだー
つきーすすーむーひーかりっのっやー
かーみなりのおとーとーどろっかっせー
げんきいっぱいがんばろうー
ゴーゴーゴー! しろしろしろー
ゴーゴーゴー! しろしろしろー
ちきゅうをまわるーいーなずっまっだー
しーろーぐーみー♪
」
もう先週になってしまったが、子供の学校の運動会があった。
徒競走やリレーには興奮するし、綱引きや騎馬戦にも目が釘づけになるが、運動会で私が一番好きなのは応援合戦。とくにそこで競うように歌われる歌が好きだ。調べてみると「ゴーゴーゴー」というのだそうだ。運動会の本番で録音して記録に留めておこうと常々思っていたのだが、今度の運動会でその宿願を果たした。
気分が沈むようなことがあるときは、これを聞いて自分を勇気づけようかな、そんな気持ちにこの歌はさせてくれるのだ。 (プレイヤーで音声を聞くことができるので、お暇な人はどうぞ御一聴のほどを)。
・ 応援合戦のひとこま

・ 綱引き

・ 騎馬戦

・ 徒競走

・ 「ゴーゴーゴー」
「 ゴーゴーゴー(運動会の歌)
花岡恵(橋本祥路):作詞 橋本祥路:作曲
1番 あかぐみ
(フレーフレーあかぐみ フレーフレーあかぐみ ゴーゴーゴー)
ぼくらは かがやく
たいようのように
もえあがる きぼう
ちからいっぱい
がんばろう
あかあかあか
ゴーゴーゴー
あかあかあか
ゴーゴーゴー
もえろよもえろ
あかぐみ
2番 しろぐみ
(フレーフレーしろぐみ フレーフレーしろぐみ ゴーゴーゴー)
ぼくらはしろい
いなずまだ
つきすすむ ひかりのや
かみなりのおと
とどろかせ
げんきいっぱい
がんばろう
ゴーゴーゴー
しろしろしろ
ゴーゴーゴー
しろしろしろ
ちきゅうをまわる
いなずまだ
しろぐみ
3番 あかぐみ・しろぐみ同時に
♪ぼーくらーはかっがーやくー
たーいよーのーよーおにー
もえあーがるーきーぼおー
ちかーらいっぱいがんばろおー
あかあかあかー ゴーゴーゴー!
あかあかあかー ゴーゴーゴー!
もーえろーよーもーえーろっ
あーかー ぐーみー♪
♪ぼーくらーはしっろーいいーなずっまだー
つきーすすーむーひーかりっのっやー
かーみなりのおとーとーどろっかっせー
げんきいっぱいがんばろうー
ゴーゴーゴー! しろしろしろー
ゴーゴーゴー! しろしろしろー
ちきゅうをまわるーいーなずっまっだー
しーろーぐーみー♪
」
われわれは99パーセントだ(WE ARE THE 99 PERCENT) [海外のニュース記事]
前の記事で伝えた「ウォール街を占拠せよ」の動きについての補足をここに記しておこう。
この運動は、ご存じのようにネットをフルに活用しているが、その本拠ともいうべきサイト“Occupy WallStreet”のURLを示しておこう。もちろん、すべて英語だが、しかし“LiveStream”で現地の模様を見ることもできるし、それをボーと見ているだけでも面白い。
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://occupywallst.org/
さて、このサイトの右側に、「ウォール街を占拠せよ」という運動の定義が次のように簡潔に述べられている。
「「ウォール街を占拠せよ」という運動は、肌の色やジェンダーや政治的な信条が多様な人々とともに行なわれる、リーダーのいない抵抗運動である。われわれが皆共有している一つのことは、われわれが、1パーセントの人々のどん欲と腐敗をもはや我慢しようとは思わない99パーセントである、ということだ」。
ここで、この運動の核心を言い表わすキャッチフレーズともいうべき「われわれは99パーセントだ(WE ARE THE 99 PERCENT)」のところをクリックすると、その99パーセントの人々の写真やメーセージを見たり読んだりすることができる。写真とメッセージは次々と更新されていくのだろうが、さしあたり私が見た11月6日の写真とメッセージの一部をここに紹介する。どれもが切実な訴えだ。
http://wearethe99percent.tumblr.com/
「
WE ARE THE 99 PERCENT
・

「私は障害をもつ子供たちのための施設で働いている。 ローンの借金が2万ドルある。 それを12年かけて返済する予定だ。 事態が変わるまでたぶんリタイアしないだろう。 病気やケガをしたら、職をなくし家もなくすだろう。 娘には、不自由な思いをすることなく、世の中に貢献し人に役立つ人生を選びとってほしいと思っている。 私は不自由な思いをしているけどね。 私は99パーセントだ。」
・

「失業して一年以上になる。保険なし。失業の手当てもなし。大卒だけど、得られる仕事なら何にでも応募しているわ。私のゴールデン・パラシュート(=退職金)はどこにあるのかしら? 私は99パーセント。私たちは99パーセントよ! 」
・

「僕は99パーセントだ。 僕は科学の教師になりたかった。 でも 予想もしていなかった学生ローンの増大で身動きが取れない。 それに 教師は、受け取ってしかるべき支援や報酬を得られない状態だ。だからひどい教育がまかり通っているんだ。 僕たちは99パーセントだ。占拠しよう。
」
・

「 僕の両親は、僕のために二回目のひざの手術の費用を支払うか、それともそのお金を僕の憧れの大学での4年に回すか、どちらかを選ばなければならないだろうと言われた・・・そして保険会社からの知らせはまだ来ていない。僕は99パーセントだ。」
・

「(僕はアメリカ陸軍で働いていた。イラクで16ヶ月従軍していた。いま僕は宅配ピザの仕事をしている。僕は99パーセントだ―――画像の紙に書かれている言葉) 大学を卒業しようと、いま僕は宅配ピザの仕事をしている。フレキシブルな時間が必要だからだ。僕はトップの1パーセントのために働いている。僕は99パーセントだ。」
・

「私は大学の二年生。助成金や奨学金にもかかわらず、今年の暮れまでには借金が2万ドルになってしまう。働きながら学校に通っている(週18コマ)。家族はやっとのことで暮らしている。両親は良い仕事が見つけられない。妹の一人は障害者。健康保険がある分私たちはまだ良いほうね。自分の将来、家族の将来、この国の将来が怖い。富める者たちの国、不安を抱く者たちの家。ウォール街を占拠せよ。デンバーを占拠せよ。私たちはもう黙ってなんかいないわ。」
・

「誰もがチャンスをもてることを私は望んでいるだけ。そうなることが私たちの未来――私たちの大義。私は99パーセントの側に立つ。」
・

「失業してから947日。送った履歴書2000通。職につける見込みゼロ。」
・

「28歳。大学を中途退学したが、それはこのままいくと学生ローンの総額が僕の両親の手に余ることを恐れたから。大学に半期通うだけで、借金が1万6000ドルにもなるんだ。建築家になる夢はしぼみつつある。給仕のバイトにはうんざりしているので、ただで大学に通えることと引き換えに軍務につこうかと思案しているけど、それは、自分ではもう信じてもいない国のために戦うことでもあるんだ。 われわれは99パーセントだ。」
・

「私はフルタイムの大学院生であり、フルタイムの労働者でもある。慢性的で拷問のような片頭痛を抱えている。次の頭痛の襲来におびえながら暮らしている。 家賃とガス代と食費はやっとの思いで稼いでいる。 医者に行くお金はないし、まして健康保険は払えない。上司は、私たちがヘルス・ケアという「特権」を悪用するのを望まないので、雇用者の保険の購入を拒絶しているのだが、彼は私に、自分で保険を支払わないなんてバカだと言っている。 私が頭痛と戦うために必要なヘルス・ケアは月に100ドルもかからないけど、それを支払うと食費と住居費が払えなくなるの。 金持ちになりたいなんて思わない。大きな家とか名声をともなう仕事とかもほしくない。 もう不安でいたくないの。この身もすり減るような痛みなしで一週間を過ごしたいだけ。一週間を。 私は99パーセント。」
・

「昇給なし。 借金あり。 潜水状態。 僕は99パーセント。」
」(おわり)
この運動は、ご存じのようにネットをフルに活用しているが、その本拠ともいうべきサイト“Occupy WallStreet”のURLを示しておこう。もちろん、すべて英語だが、しかし“LiveStream”で現地の模様を見ることもできるし、それをボーと見ているだけでも面白い。
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://occupywallst.org/
さて、このサイトの右側に、「ウォール街を占拠せよ」という運動の定義が次のように簡潔に述べられている。
「「ウォール街を占拠せよ」という運動は、肌の色やジェンダーや政治的な信条が多様な人々とともに行なわれる、リーダーのいない抵抗運動である。われわれが皆共有している一つのことは、われわれが、1パーセントの人々のどん欲と腐敗をもはや我慢しようとは思わない99パーセントである、ということだ」。
ここで、この運動の核心を言い表わすキャッチフレーズともいうべき「われわれは99パーセントだ(WE ARE THE 99 PERCENT)」のところをクリックすると、その99パーセントの人々の写真やメーセージを見たり読んだりすることができる。写真とメッセージは次々と更新されていくのだろうが、さしあたり私が見た11月6日の写真とメッセージの一部をここに紹介する。どれもが切実な訴えだ。
http://wearethe99percent.tumblr.com/
「
WE ARE THE 99 PERCENT
・

「私は障害をもつ子供たちのための施設で働いている。 ローンの借金が2万ドルある。 それを12年かけて返済する予定だ。 事態が変わるまでたぶんリタイアしないだろう。 病気やケガをしたら、職をなくし家もなくすだろう。 娘には、不自由な思いをすることなく、世の中に貢献し人に役立つ人生を選びとってほしいと思っている。 私は不自由な思いをしているけどね。 私は99パーセントだ。」
・

「失業して一年以上になる。保険なし。失業の手当てもなし。大卒だけど、得られる仕事なら何にでも応募しているわ。私のゴールデン・パラシュート(=退職金)はどこにあるのかしら? 私は99パーセント。私たちは99パーセントよ! 」
・

「僕は99パーセントだ。 僕は科学の教師になりたかった。 でも 予想もしていなかった学生ローンの増大で身動きが取れない。 それに 教師は、受け取ってしかるべき支援や報酬を得られない状態だ。だからひどい教育がまかり通っているんだ。 僕たちは99パーセントだ。占拠しよう。
」
・

「 僕の両親は、僕のために二回目のひざの手術の費用を支払うか、それともそのお金を僕の憧れの大学での4年に回すか、どちらかを選ばなければならないだろうと言われた・・・そして保険会社からの知らせはまだ来ていない。僕は99パーセントだ。」
・

「(僕はアメリカ陸軍で働いていた。イラクで16ヶ月従軍していた。いま僕は宅配ピザの仕事をしている。僕は99パーセントだ―――画像の紙に書かれている言葉) 大学を卒業しようと、いま僕は宅配ピザの仕事をしている。フレキシブルな時間が必要だからだ。僕はトップの1パーセントのために働いている。僕は99パーセントだ。」
・

「私は大学の二年生。助成金や奨学金にもかかわらず、今年の暮れまでには借金が2万ドルになってしまう。働きながら学校に通っている(週18コマ)。家族はやっとのことで暮らしている。両親は良い仕事が見つけられない。妹の一人は障害者。健康保険がある分私たちはまだ良いほうね。自分の将来、家族の将来、この国の将来が怖い。富める者たちの国、不安を抱く者たちの家。ウォール街を占拠せよ。デンバーを占拠せよ。私たちはもう黙ってなんかいないわ。」
・

「誰もがチャンスをもてることを私は望んでいるだけ。そうなることが私たちの未来――私たちの大義。私は99パーセントの側に立つ。」
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「失業してから947日。送った履歴書2000通。職につける見込みゼロ。」
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「28歳。大学を中途退学したが、それはこのままいくと学生ローンの総額が僕の両親の手に余ることを恐れたから。大学に半期通うだけで、借金が1万6000ドルにもなるんだ。建築家になる夢はしぼみつつある。給仕のバイトにはうんざりしているので、ただで大学に通えることと引き換えに軍務につこうかと思案しているけど、それは、自分ではもう信じてもいない国のために戦うことでもあるんだ。 われわれは99パーセントだ。」
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「私はフルタイムの大学院生であり、フルタイムの労働者でもある。慢性的で拷問のような片頭痛を抱えている。次の頭痛の襲来におびえながら暮らしている。 家賃とガス代と食費はやっとの思いで稼いでいる。 医者に行くお金はないし、まして健康保険は払えない。上司は、私たちがヘルス・ケアという「特権」を悪用するのを望まないので、雇用者の保険の購入を拒絶しているのだが、彼は私に、自分で保険を支払わないなんてバカだと言っている。 私が頭痛と戦うために必要なヘルス・ケアは月に100ドルもかからないけど、それを支払うと食費と住居費が払えなくなるの。 金持ちになりたいなんて思わない。大きな家とか名声をともなう仕事とかもほしくない。 もう不安でいたくないの。この身もすり減るような痛みなしで一週間を過ごしたいだけ。一週間を。 私は99パーセント。」
・

「昇給なし。 借金あり。 潜水状態。 僕は99パーセント。」
」(おわり)






