意味のある人生とは? (2) [海外のニュース記事]
「人生の意味」について考えるエッセイの後半を紹介する。
こういう内容の文章に慣れていない人のために、かいつまんで概要を示しておこう。
・ 人生の意味は、主観的な価値と客観的な価値がふれあう所にあるはずだ。つまり、単に主観的に「俺の人生は有意義だった!」と凶悪な殺人者が言い張っても、それに同調する人がほとんどいなければ(実際、同調する人は多くはいないと思うが)、その人生には意味がないことになる。
・ だから、ある程度、誰もがそこに何らかの価値を認めてくれるもの(ウルフが言う「客観的な美点」)を「意味ある人生」は持っていなければならない。
・ もっとも、価値や美点といっても、それは道徳的なものである必要はないし、道徳的に疑わしいものであってもよい。物語りのテーマとなりうるような美点であればいいのだ。
・ しかし、いまの時代は経済的な損得勘定を人生のメイン・テーマとする人が増えてしまった。いかに儲けるか・いかに良い商品を手に入れるか、などという物語的なテーマにならないことをテーマとして追及している人が多数になっている現代は、かえって意味ある人生は得がたいものになっているので、だからこそ哲学が率先してこの問題を考えるべきなのである・・・・
・・・・まあ、こんな感じだろうか? 人生の有意味性を物語性の方向で理解しようとすることが、筆者であるTodd May氏のアイディアのようだ。
人生を送るうえでパンやお金がなければ大変困ったことになるだろう。だけど人生に物語りがなくなり語るべき何ごともなくなってしまうことも、それに劣らず困ったことだ。無意味の砂漠が一面に広がっているだけの風景に、人は長くとどまることは出来ないからだ。
うろ覚えだが、シモーヌ・ヴェーユがどこかで「詩のない状態こそ最大の不幸」というようなことを言っていたような気がするが、ヴェーユの「詩」をTodd Mayの「物語り」に置き換えてみれば、Todd Mayの真意がよりはっきりするのかもしれない。
September 11, 2011, 5:45 PM
The Meaningfulness of Lives
By TODD MAY
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/09/11/the-meaningfulness-of-lives/
「
人生の有意味性 (2)
何が人生を意味あるものにするのかを理解するポイントは何か? 単に人生をやり過ごすだけで良いのではないか?
私たちが良い物語りやその登場人物には結びつけるが、私たちが良い道徳に結びつける価値とは違う価値というものが存在する。フィクションの登場人物は情熱的だったり、冒険好きだったり、どっしり構えていたり捉えどころがなかったりする。『白鯨』におけるイシュマエルの冒険心、『イングリッシュ・ペイシェント』におけるキップの静かな情熱、『響きと怒り』におけるディルジーのどっしりした態度や『見えない都市』におけるマルコ・ポーロの捉えどころのなさをここで考えてもらいたい。こうしたフィクションの登場人物について言えることは、私たちの人生にも言えるのだ。ある人生がこうした価値の一つまたはそれ以上を具体化していてその人生を生きている人にとって魅力的に感じられるとき、その人生は、その限りで有意味的なのだ。人の人生によって表わされる物語的な価値というものがあって、それは道徳的な価値には還元できない。またそれは幸福にも還元できない。そうした物語的な価値は単に主観的な感じ方の問題ではない。物語的な価値は単に感じられるものなのではなく、生きられるものであるからだ。物語的な価値はそれ独自の領域を構成するが、その領域は人生の有意味性について反省する哲学者によって概して認識されてこなかったものである。
たとえば、情熱的な人生は自由奔放に過ごすことができる。夢中になれることを次から次へと開拓して乗り換える人もいれば、たった一つのことに夢中になってこだわる人もいるが、いずれにしても、何もためらうことなく、人はそれに跳びこんでいく。情熱的な人は水泳や詩やコミュニティー作りや募金活動に身を投げだす(ときにはそれら全部に打ちこむことがあるかもしれない)。そのような人生は、多分、意味のある人生だろう。それが完全には道徳的な人生ではないかもしれない場合であっても、そう言えるのである。
私たちはこのような人々を知っている。その情熱のゆえに道徳的には信用ならないと言えそうな行動に走るような人々を。情熱的な愛し方をする人は、愛の残り火が冷え始めているときでも、肉体的な関係を続けることがある。強い選手が最良のチームメイトでないこともある。このような人々に対する私たちの態度は葛藤をはらむ。私たちはある意味では彼らを賞賛するが、ある意味では賞賛しない。これは、意味のある人生が良い人生とは必ずしも一致しないからだ。道徳的に良い人生が、その人生を送っている人にとって意味あるものと感じられないことがあるように、意味のある人生も道徳的に信用ならない人生になりうるのである。
以上のことを誤解して、有意味性と道徳性とは何の関係もないのだと受け取ってはならない。その両者は、ある種の道徳的な限界点では一致するのである。邪悪な人生は、それがどれほど情熱的であったり確固としたものであっても、私たちはそれを有意味的と呼ぼうとはしない。しかし、道徳的な制限内であれば、有意味的な人生と道徳的な人生との関係は複雑になる。両者はぴったり重なりあうことはないのである。
こうしたことはなぜ重要なのか? 何が人生を意味あるものにするのかを理解するポイントは何なのか? 単に人生をやり過ごすだけで良いのではないか? あるレベルでは、それに対する答えははっきりしている。もし私たちが意味のある人生を送りたいと思うのであれば、私たちは、何が人生を意味あるものにするのかについて何ごとかを知りたいと思うだろう。そう思わないのであれば、盲目的に振る舞っているだけになってしまう。とにかく、私たちのほとんどにとって、それを知ろうとすることは、自分の人となり(who we are)の一部にすぎないのだ。それは、私たちが夜中に眠れないままベッドに横になっている原因の一つなのである。
別の理由もある。その理由は、私たちが生きている時代にもっと結びついている理由である。以前のコラムの中で、私は、現在の私たちは自分自身を買い手としてか売り手としてかのいずれかとして考えるようにせかされている、と書いた。私たちは、商品の売り手か、リターンを求める投資家になるように言われている。どちらの人生のタイプも、現在の人生を支配するキャラクターであるとしても、私には特に意味あるものとは映らないのである。それは、そうした物語のテーマ――買うこと、投資すること――が、そこから説得力のある人生の物語りが作られる素材になることは滅多にないからなのだ(私が「滅多にない」と言うのは、たとえば、情熱的だが道徳的に信用のおけない(しかし道徳的な限界を超えてしまって無意味になることのない)投資の人生というケースもあるにはあるだろうからである)。そこには、ウルフが「客観的な美点」と呼ぶものが欠けている。確かに、私たちはあれこれの物を買わなければならないし、ショッピングを楽しむことだってある。それに、限りあるエネルギーや金銭をどこに投入するかに全く無関心でいられるはずがない。しかし、そんなことが意味のある人生のテーマになるだろうか? 私たちは、ネットやショッピングが得意な人について、だからその人は本当に生きる術を知っている人だ、と言うだろうか?
私はいまの時代を経済の時代と呼んでいるのだが、こういう時代だからこそ、意味のある人生についての問い――それはどの点にあるのか、どのように意味ある人生を送ればいいのか、といった問い――を発することがますます重要になってきているのだ。哲学は、私たち一人一人が持つべき意味ある人生という独特のあり方を定めることはできない。哲学は、私たち一人一人に、私たちに割り当てされた軌跡をどのようにたどったらいいのかを語ることはできない。しかし、哲学は、私たちがこれらの問いを考察するための枠組みについて反省し、そうすることによって、ひょっとしたら手にすることができないかもしれない明晰さを提供することができるし、提供すべきなのである。これこそが哲学のあるべき姿である。哲学は、私たちが自分の人生についてどう考えたらいいのかを理解するうえで――その人生のすごし方については私たち一人一人に任せるほどの謙虚さをもちながら――手助けをすることができるのである。
」(おわり)
こういう内容の文章に慣れていない人のために、かいつまんで概要を示しておこう。
・ 人生の意味は、主観的な価値と客観的な価値がふれあう所にあるはずだ。つまり、単に主観的に「俺の人生は有意義だった!」と凶悪な殺人者が言い張っても、それに同調する人がほとんどいなければ(実際、同調する人は多くはいないと思うが)、その人生には意味がないことになる。
・ だから、ある程度、誰もがそこに何らかの価値を認めてくれるもの(ウルフが言う「客観的な美点」)を「意味ある人生」は持っていなければならない。
・ もっとも、価値や美点といっても、それは道徳的なものである必要はないし、道徳的に疑わしいものであってもよい。物語りのテーマとなりうるような美点であればいいのだ。
・ しかし、いまの時代は経済的な損得勘定を人生のメイン・テーマとする人が増えてしまった。いかに儲けるか・いかに良い商品を手に入れるか、などという物語的なテーマにならないことをテーマとして追及している人が多数になっている現代は、かえって意味ある人生は得がたいものになっているので、だからこそ哲学が率先してこの問題を考えるべきなのである・・・・
・・・・まあ、こんな感じだろうか? 人生の有意味性を物語性の方向で理解しようとすることが、筆者であるTodd May氏のアイディアのようだ。
人生を送るうえでパンやお金がなければ大変困ったことになるだろう。だけど人生に物語りがなくなり語るべき何ごともなくなってしまうことも、それに劣らず困ったことだ。無意味の砂漠が一面に広がっているだけの風景に、人は長くとどまることは出来ないからだ。
うろ覚えだが、シモーヌ・ヴェーユがどこかで「詩のない状態こそ最大の不幸」というようなことを言っていたような気がするが、ヴェーユの「詩」をTodd Mayの「物語り」に置き換えてみれば、Todd Mayの真意がよりはっきりするのかもしれない。
September 11, 2011, 5:45 PM
The Meaningfulness of Lives
By TODD MAY
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/09/11/the-meaningfulness-of-lives/
「
人生の有意味性 (2)
何が人生を意味あるものにするのかを理解するポイントは何か? 単に人生をやり過ごすだけで良いのではないか?
私たちが良い物語りやその登場人物には結びつけるが、私たちが良い道徳に結びつける価値とは違う価値というものが存在する。フィクションの登場人物は情熱的だったり、冒険好きだったり、どっしり構えていたり捉えどころがなかったりする。『白鯨』におけるイシュマエルの冒険心、『イングリッシュ・ペイシェント』におけるキップの静かな情熱、『響きと怒り』におけるディルジーのどっしりした態度や『見えない都市』におけるマルコ・ポーロの捉えどころのなさをここで考えてもらいたい。こうしたフィクションの登場人物について言えることは、私たちの人生にも言えるのだ。ある人生がこうした価値の一つまたはそれ以上を具体化していてその人生を生きている人にとって魅力的に感じられるとき、その人生は、その限りで有意味的なのだ。人の人生によって表わされる物語的な価値というものがあって、それは道徳的な価値には還元できない。またそれは幸福にも還元できない。そうした物語的な価値は単に主観的な感じ方の問題ではない。物語的な価値は単に感じられるものなのではなく、生きられるものであるからだ。物語的な価値はそれ独自の領域を構成するが、その領域は人生の有意味性について反省する哲学者によって概して認識されてこなかったものである。
たとえば、情熱的な人生は自由奔放に過ごすことができる。夢中になれることを次から次へと開拓して乗り換える人もいれば、たった一つのことに夢中になってこだわる人もいるが、いずれにしても、何もためらうことなく、人はそれに跳びこんでいく。情熱的な人は水泳や詩やコミュニティー作りや募金活動に身を投げだす(ときにはそれら全部に打ちこむことがあるかもしれない)。そのような人生は、多分、意味のある人生だろう。それが完全には道徳的な人生ではないかもしれない場合であっても、そう言えるのである。
私たちはこのような人々を知っている。その情熱のゆえに道徳的には信用ならないと言えそうな行動に走るような人々を。情熱的な愛し方をする人は、愛の残り火が冷え始めているときでも、肉体的な関係を続けることがある。強い選手が最良のチームメイトでないこともある。このような人々に対する私たちの態度は葛藤をはらむ。私たちはある意味では彼らを賞賛するが、ある意味では賞賛しない。これは、意味のある人生が良い人生とは必ずしも一致しないからだ。道徳的に良い人生が、その人生を送っている人にとって意味あるものと感じられないことがあるように、意味のある人生も道徳的に信用ならない人生になりうるのである。
以上のことを誤解して、有意味性と道徳性とは何の関係もないのだと受け取ってはならない。その両者は、ある種の道徳的な限界点では一致するのである。邪悪な人生は、それがどれほど情熱的であったり確固としたものであっても、私たちはそれを有意味的と呼ぼうとはしない。しかし、道徳的な制限内であれば、有意味的な人生と道徳的な人生との関係は複雑になる。両者はぴったり重なりあうことはないのである。
こうしたことはなぜ重要なのか? 何が人生を意味あるものにするのかを理解するポイントは何なのか? 単に人生をやり過ごすだけで良いのではないか? あるレベルでは、それに対する答えははっきりしている。もし私たちが意味のある人生を送りたいと思うのであれば、私たちは、何が人生を意味あるものにするのかについて何ごとかを知りたいと思うだろう。そう思わないのであれば、盲目的に振る舞っているだけになってしまう。とにかく、私たちのほとんどにとって、それを知ろうとすることは、自分の人となり(who we are)の一部にすぎないのだ。それは、私たちが夜中に眠れないままベッドに横になっている原因の一つなのである。
別の理由もある。その理由は、私たちが生きている時代にもっと結びついている理由である。以前のコラムの中で、私は、現在の私たちは自分自身を買い手としてか売り手としてかのいずれかとして考えるようにせかされている、と書いた。私たちは、商品の売り手か、リターンを求める投資家になるように言われている。どちらの人生のタイプも、現在の人生を支配するキャラクターであるとしても、私には特に意味あるものとは映らないのである。それは、そうした物語のテーマ――買うこと、投資すること――が、そこから説得力のある人生の物語りが作られる素材になることは滅多にないからなのだ(私が「滅多にない」と言うのは、たとえば、情熱的だが道徳的に信用のおけない(しかし道徳的な限界を超えてしまって無意味になることのない)投資の人生というケースもあるにはあるだろうからである)。そこには、ウルフが「客観的な美点」と呼ぶものが欠けている。確かに、私たちはあれこれの物を買わなければならないし、ショッピングを楽しむことだってある。それに、限りあるエネルギーや金銭をどこに投入するかに全く無関心でいられるはずがない。しかし、そんなことが意味のある人生のテーマになるだろうか? 私たちは、ネットやショッピングが得意な人について、だからその人は本当に生きる術を知っている人だ、と言うだろうか?
私はいまの時代を経済の時代と呼んでいるのだが、こういう時代だからこそ、意味のある人生についての問い――それはどの点にあるのか、どのように意味ある人生を送ればいいのか、といった問い――を発することがますます重要になってきているのだ。哲学は、私たち一人一人が持つべき意味ある人生という独特のあり方を定めることはできない。哲学は、私たち一人一人に、私たちに割り当てされた軌跡をどのようにたどったらいいのかを語ることはできない。しかし、哲学は、私たちがこれらの問いを考察するための枠組みについて反省し、そうすることによって、ひょっとしたら手にすることができないかもしれない明晰さを提供することができるし、提供すべきなのである。これこそが哲学のあるべき姿である。哲学は、私たちが自分の人生についてどう考えたらいいのかを理解するうえで――その人生のすごし方については私たち一人一人に任せるほどの謙虚さをもちながら――手助けをすることができるのである。
」(おわり)
意味のある人生とは? (1) [海外のニュース記事]
ニューヨーク・タイムズには職業的な哲学者がエッセイを寄稿するコーナーがあって、私は普段から特に気に留めているわけではないが、今回紹介するエッセイの“The Meaningfulness of Lives(人生の有意味性)”という題名には、やはり、惹かれるものがあった。
意味のある人生とは? こういう問いは、重い問いにも見えるし、答えがありそうにもないという意味で、あまり意味のない問いにも見える。初心(うぶ)で素朴な中学生・高校生あたりが発する問いにも見える。そういう問いを、職業的な哲学者が取りあげるとどうなるか? そこが面白い所と言えるかもしれない。
オリジナルはかなり長いので、二回に分けて紹介する。
September 11, 2011, 5:45 PM
The Meaningfulness of Lives
By TODD MAY
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/09/11/the-meaningfulness-of-lives/
「
人生の有意味性 (1)
意味ある人生とは幸福な人生とか道徳的に良い人生とは異なる
私たちの中で、自分の人生が意味あるものかどうかと尋ねたことのない人がいるだろうか? 眠れない夜に、退屈だったり骨の折れる仕事を長時間している最中に、あるいは、問題を抱えた子供が耐えられないほどの負担に思われるようになるときに、 結局すべてが無駄なんじゃないかと思案にくれなかった人がいるだろうか? 人間として痛手を負った苦しい思い出を多くの人が抱え込んでいる今日にあっても、{人生に意味があるかどうかという問いに対する}答えについて思案してみることは自然の成り行きというものである。
哲学者のジャン-ポール・サルトルは、神がいなければ、私たちの人生には意味がなくなってしまう、と考えた。「もし神が存在しないならば、私たちは、私たちの行動を正当化してくれるような頼るべき価値や律法を見出だせなくなる。だから、明るいはずの価値の領域において、私たちは、自分の言い訳をしてくれるものを背後にもっているわけではないし、自分を正当化してくれるものを目の前にもっているわけでもない」とサルトルは「実存主義」というエッセイの中で語っている。この見解に立てば、私たちの人生に価値(意味はそれに立脚する)を与えてくれるのは神なのだ。そしてもし、サルトルが主張するように、神が存在しないならば、私たちの人生は、私達がそれに与える意味しかもつことができなくなるのである。
これは二つの点で間違っているように思われる。第一に、神が存在しているとしても、なぜそのことが私たちの人生のそれぞれが有意味であることを保証してくれることになるのだろうか? 重労働や報われない努力がいつまでも続く人生であっても、もしそれがもっと大きな神の計画に収まるのであれば――もっとも、そんな計画に私たちは近寄れないのだが――、本当に救われたことになるのだろうか? もしそうなれば、ゴミのようにしか感じられない人生にとってのささやかな代償にはなるだろう―――これは、宗教を「民衆の阿片」と呼んだカール・マルクスのような思想家においても見失われなかった論点である。さらに言えば、神は、私たちが頼りにする価値を根拠づけるものなのだろうか? プラトンが2500年前に認識したように、私たちがそうした価値を良いものと考えるのは、それらを神に帰するからなのだろうか?
第二に、そしてもっと遠慮なく言えば、私たちの人生の有意味性は神の存在に依存しなくてはならないのだろうか? 意味は信仰箇条に基づいていなければならないのだろうか? 人生の有意味性を神の存在に基づけるならば、すべての無神論者の出番がなくってしまうばかりでない。違った神を信じる者たちも、互いの世界の中で出番がなくなってしまうのだ。必要なことは、意味について考える上で、私たちを一緒にすることができるようなアプローチなのであり、様々な宗教的な見解と共存できる、あるいはそれにとって代わって存在できるアプローチなのである。
もっと有望でもっと包括的なアプローチが、スーザン・ウルフ(Susan Wolf)が最近著した説得力がある著作『人生の意味、なぜそれが大事なのか(Meaning in Life and Why It Matters)』によって提供されている。彼女の主張によると、意味ある人生とは、幸福な人生とか道徳的に良い人生とは異なるものだという。彼女の見解によると、「意味が生ずるのは、主観的な魅力と客観的な美点が合致するときである」。そうであるならば、ある意味で、意味のある人生とは、価値があると感じられるものでなければならない。人生を生きる当人がその人生に惹きつけられるようなものでなければならない。一般的に価値があるとされる大義――貧しい人々に食事や衣服を提供したり病人の治療にあたるような活動――に献身的に関わっているが、その活動に参加する人の心を揺さぶることのない人生は、ウルフが言う意味での有意味性を欠いていることになる。しかし、人生は、有意味であるためには、価値あるものでなければならない。ティドリーウィンクス(Tiddlywinks:ドミノゲームの一種)のような人生に没頭することは、そのゲームにどれほど夢中になったとしても、意味ある人生という水準に達することはないのである。
ある考え方の理由を示すことで、それを擁護するということがしばしばなされる。しかし、時としては、始めに理由を示すのではなく、ある考え方がどこに至るのかを見るためにそれをたどっていくことが最良の策になることもしばしばある。その考え方を用いて自分自身を理解できるならば、それは重要なものを捉えているのではないか? 私がここで試してみたいのはこの後者のやり方なのである。核となる考え方――意味のある人生とは高く評価されているものであり、また評価されうるものであるという考え方――を追及していくと、私たちは、自分自身や他人に対する私たちの態度に含まれるいくつかの重要な側面を理解することができるようになるのである。
この追求において、私たちがウルフの主張を超えて進むために取るべき最初のステップは、人生が時間をかけて展開するものだということを認識することである。人生には軌跡というものがある、と言ってもいいだろう。それは、時間的な厚みの中で経験されるものだ。私の人生の軌跡がバラバラに見えたり連続性を欠いているように見えるとしても、その展開の中で不連続であるのはあくまで「私の」人生なのであって、複数の異なる人生の諸要素なのではない。
もし人生に軌跡があるならば、その軌跡は「物語りとして(narratively)」考えることができる。人間の一生は、一つのストーリーとして、あるいは多少なりとも関連性のある一連のストーリーとして見ることができる。こう言ったからといって、その人生を歩んでいる当人が自分の人生を物語りとして認識しなくてはならないとか、自分の人生を物語りとして生きなければならないという訳ではない。私は「これが私が構築したいと思っている物語りだ」とか「これまでの物語は次の通りだ」と自分自身に言い聞かせる必要はない。むしろそれが意味するのは、もし人が自分の人生について省みるとき、人はそれをさまざまなストーリーの筋道(story lines)――それらは平行線をなしていたり、交錯していたり、全くの別物であったりするかもしれないが――という点から見ることができる、ということである。この考え方は、アリストテレスの『倫理学』にまで遡ることができるが、自己とは何かについての最近のナラティヴ心理学的な捉え方とともに、復活してきたものである。
ある軌跡を意味のある軌跡にするものは何だろうか? ウルフが正しければ、それは価値あるものとして感じられなければならないし、それ以上に、客観的に価値のあるプロジェクトに関係していなければならない。何が価値あるものとして感じられるのかを知ることには多くの困難はない。私たちのほとんどは、自分がいつ大事なことに関わっているか、いつ関わっていないかを、間違わずに感じることができるからだ。客観的な価値のほうが捉えどころがない。私たちは、意味のある人生が単に自分一人の道徳的な人生であるかのように、意味のある人生を道徳的に良い人生に還元したいとは思わない。意味のある人生とはそれほど限定されたものではないし、後で見るように、時にはもっと厄介なものであるからだ。だから私たちは、人生に客観的な価値を与えるものを、道徳的な領域の外側に求めなければならない。ここで、人生の物語的な性格が浮上してくるのである。
」 (つづく)
意味のある人生とは? こういう問いは、重い問いにも見えるし、答えがありそうにもないという意味で、あまり意味のない問いにも見える。初心(うぶ)で素朴な中学生・高校生あたりが発する問いにも見える。そういう問いを、職業的な哲学者が取りあげるとどうなるか? そこが面白い所と言えるかもしれない。
オリジナルはかなり長いので、二回に分けて紹介する。
September 11, 2011, 5:45 PM
The Meaningfulness of Lives
By TODD MAY
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/09/11/the-meaningfulness-of-lives/
「
人生の有意味性 (1)
意味ある人生とは幸福な人生とか道徳的に良い人生とは異なる
私たちの中で、自分の人生が意味あるものかどうかと尋ねたことのない人がいるだろうか? 眠れない夜に、退屈だったり骨の折れる仕事を長時間している最中に、あるいは、問題を抱えた子供が耐えられないほどの負担に思われるようになるときに、 結局すべてが無駄なんじゃないかと思案にくれなかった人がいるだろうか? 人間として痛手を負った苦しい思い出を多くの人が抱え込んでいる今日にあっても、{人生に意味があるかどうかという問いに対する}答えについて思案してみることは自然の成り行きというものである。
哲学者のジャン-ポール・サルトルは、神がいなければ、私たちの人生には意味がなくなってしまう、と考えた。「もし神が存在しないならば、私たちは、私たちの行動を正当化してくれるような頼るべき価値や律法を見出だせなくなる。だから、明るいはずの価値の領域において、私たちは、自分の言い訳をしてくれるものを背後にもっているわけではないし、自分を正当化してくれるものを目の前にもっているわけでもない」とサルトルは「実存主義」というエッセイの中で語っている。この見解に立てば、私たちの人生に価値(意味はそれに立脚する)を与えてくれるのは神なのだ。そしてもし、サルトルが主張するように、神が存在しないならば、私たちの人生は、私達がそれに与える意味しかもつことができなくなるのである。
これは二つの点で間違っているように思われる。第一に、神が存在しているとしても、なぜそのことが私たちの人生のそれぞれが有意味であることを保証してくれることになるのだろうか? 重労働や報われない努力がいつまでも続く人生であっても、もしそれがもっと大きな神の計画に収まるのであれば――もっとも、そんな計画に私たちは近寄れないのだが――、本当に救われたことになるのだろうか? もしそうなれば、ゴミのようにしか感じられない人生にとってのささやかな代償にはなるだろう―――これは、宗教を「民衆の阿片」と呼んだカール・マルクスのような思想家においても見失われなかった論点である。さらに言えば、神は、私たちが頼りにする価値を根拠づけるものなのだろうか? プラトンが2500年前に認識したように、私たちがそうした価値を良いものと考えるのは、それらを神に帰するからなのだろうか?
第二に、そしてもっと遠慮なく言えば、私たちの人生の有意味性は神の存在に依存しなくてはならないのだろうか? 意味は信仰箇条に基づいていなければならないのだろうか? 人生の有意味性を神の存在に基づけるならば、すべての無神論者の出番がなくってしまうばかりでない。違った神を信じる者たちも、互いの世界の中で出番がなくなってしまうのだ。必要なことは、意味について考える上で、私たちを一緒にすることができるようなアプローチなのであり、様々な宗教的な見解と共存できる、あるいはそれにとって代わって存在できるアプローチなのである。
もっと有望でもっと包括的なアプローチが、スーザン・ウルフ(Susan Wolf)が最近著した説得力がある著作『人生の意味、なぜそれが大事なのか(Meaning in Life and Why It Matters)』によって提供されている。彼女の主張によると、意味ある人生とは、幸福な人生とか道徳的に良い人生とは異なるものだという。彼女の見解によると、「意味が生ずるのは、主観的な魅力と客観的な美点が合致するときである」。そうであるならば、ある意味で、意味のある人生とは、価値があると感じられるものでなければならない。人生を生きる当人がその人生に惹きつけられるようなものでなければならない。一般的に価値があるとされる大義――貧しい人々に食事や衣服を提供したり病人の治療にあたるような活動――に献身的に関わっているが、その活動に参加する人の心を揺さぶることのない人生は、ウルフが言う意味での有意味性を欠いていることになる。しかし、人生は、有意味であるためには、価値あるものでなければならない。ティドリーウィンクス(Tiddlywinks:ドミノゲームの一種)のような人生に没頭することは、そのゲームにどれほど夢中になったとしても、意味ある人生という水準に達することはないのである。
ある考え方の理由を示すことで、それを擁護するということがしばしばなされる。しかし、時としては、始めに理由を示すのではなく、ある考え方がどこに至るのかを見るためにそれをたどっていくことが最良の策になることもしばしばある。その考え方を用いて自分自身を理解できるならば、それは重要なものを捉えているのではないか? 私がここで試してみたいのはこの後者のやり方なのである。核となる考え方――意味のある人生とは高く評価されているものであり、また評価されうるものであるという考え方――を追及していくと、私たちは、自分自身や他人に対する私たちの態度に含まれるいくつかの重要な側面を理解することができるようになるのである。
この追求において、私たちがウルフの主張を超えて進むために取るべき最初のステップは、人生が時間をかけて展開するものだということを認識することである。人生には軌跡というものがある、と言ってもいいだろう。それは、時間的な厚みの中で経験されるものだ。私の人生の軌跡がバラバラに見えたり連続性を欠いているように見えるとしても、その展開の中で不連続であるのはあくまで「私の」人生なのであって、複数の異なる人生の諸要素なのではない。
もし人生に軌跡があるならば、その軌跡は「物語りとして(narratively)」考えることができる。人間の一生は、一つのストーリーとして、あるいは多少なりとも関連性のある一連のストーリーとして見ることができる。こう言ったからといって、その人生を歩んでいる当人が自分の人生を物語りとして認識しなくてはならないとか、自分の人生を物語りとして生きなければならないという訳ではない。私は「これが私が構築したいと思っている物語りだ」とか「これまでの物語は次の通りだ」と自分自身に言い聞かせる必要はない。むしろそれが意味するのは、もし人が自分の人生について省みるとき、人はそれをさまざまなストーリーの筋道(story lines)――それらは平行線をなしていたり、交錯していたり、全くの別物であったりするかもしれないが――という点から見ることができる、ということである。この考え方は、アリストテレスの『倫理学』にまで遡ることができるが、自己とは何かについての最近のナラティヴ心理学的な捉え方とともに、復活してきたものである。
ある軌跡を意味のある軌跡にするものは何だろうか? ウルフが正しければ、それは価値あるものとして感じられなければならないし、それ以上に、客観的に価値のあるプロジェクトに関係していなければならない。何が価値あるものとして感じられるのかを知ることには多くの困難はない。私たちのほとんどは、自分がいつ大事なことに関わっているか、いつ関わっていないかを、間違わずに感じることができるからだ。客観的な価値のほうが捉えどころがない。私たちは、意味のある人生が単に自分一人の道徳的な人生であるかのように、意味のある人生を道徳的に良い人生に還元したいとは思わない。意味のある人生とはそれほど限定されたものではないし、後で見るように、時にはもっと厄介なものであるからだ。だから私たちは、人生に客観的な価値を与えるものを、道徳的な領域の外側に求めなければならない。ここで、人生の物語的な性格が浮上してくるのである。
」 (つづく)
瀬戸際のギリシア [海外のニュース記事]
それほど過去の出来事でもなかったアテネ・オリンピックのあの輝きは何だったのだろう?
私はいまでも、世界の歴史を要約しようとした開会式の斬新な演出を鮮明に思い出すことができる。あれから7年が経ち、ギリシアはいま崩壊の危機に瀕しているという。経済に全く暗い私にもそんなニュースが伝わるようになった昨今、あのオリンピックの輝きを思い起こすとき、あれは「明るさは滅びの姿であろうか?」という太宰治の言葉を体現した出来事だったのか、という感慨を抑えることは難しい。
しかも、ギリシアの後にはイタリアやスペインが控えているという。しばらくは、滅びの光景に事欠かないことになるのかもしれない。そして、それはやがて日本に波及して・・・
それにしても、古典的なデモ・ストライキという手段で国際的な金融体制の圧力や冷酷なファンドの攻撃に対抗しようとするギリシア人の姿は、かつて竹やりで鬼畜米英を撃退しようとしたどこかの国民を思わせないでもない。それ以外やりようがないのだろうが、第三者的に見れば無意味で不毛な行動というしかない。
イギリスBBCのスライド・ショーから。
22 September 2011 Last updated at 16:47 GMT
In pictures: Greeks strike over new austerity
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-15022648
「
新たな緊縮案に対してストライキに打って出るギリシャ人
1. 何千もの市民がギリシャの首都アテネの大通りに出て、政府が打ち出したばかりの一連の緊急緊縮政策に抗議した。議会の前には約7000人が集まった。

2. デモ参加者の多くは学生と大卒の若者である。彼らは、政府の措置が彼らから未来と職を得る機会を奪っていると言う。

3. 抗議活動は24時間の交通機関のストライキと重なった―――公共の交通機関はストップし、空の便でも遅延ないしキャンセルが相次いだ。

4. 電車、バス、タクシーが止まり、航空管制官も数時間、業務を停止する予定。

5. ギリシャの債務危機の故に導入される、新たな緊縮措置には、新たな固定資産税、公務員の削減、年金の削減などが盛り込まれている。(立札には「ギリシャの空は売り物ではない」)

6. しかしギリシャ政府によれば、もしギリシャがどうしても必要な80億ユーロの追加融資を受けたいのであれば、こうした措置が必要なのだという。

7. 世界各国の債権者は、ギリシャに緊急支援融資を支払う前に、追加の財政的な措置が実行されることを要求していた。

8. 近いうちにさらなるストライキが計画されている―――公務員や電力会社の社員が10月5日にストを予定している一方で、ギリシャで最大級の二つの労組が10月19日にゼネストを行うと発表している。

」
私はいまでも、世界の歴史を要約しようとした開会式の斬新な演出を鮮明に思い出すことができる。あれから7年が経ち、ギリシアはいま崩壊の危機に瀕しているという。経済に全く暗い私にもそんなニュースが伝わるようになった昨今、あのオリンピックの輝きを思い起こすとき、あれは「明るさは滅びの姿であろうか?」という太宰治の言葉を体現した出来事だったのか、という感慨を抑えることは難しい。
しかも、ギリシアの後にはイタリアやスペインが控えているという。しばらくは、滅びの光景に事欠かないことになるのかもしれない。そして、それはやがて日本に波及して・・・
それにしても、古典的なデモ・ストライキという手段で国際的な金融体制の圧力や冷酷なファンドの攻撃に対抗しようとするギリシア人の姿は、かつて竹やりで鬼畜米英を撃退しようとしたどこかの国民を思わせないでもない。それ以外やりようがないのだろうが、第三者的に見れば無意味で不毛な行動というしかない。
イギリスBBCのスライド・ショーから。
22 September 2011 Last updated at 16:47 GMT
In pictures: Greeks strike over new austerity
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-15022648
「
新たな緊縮案に対してストライキに打って出るギリシャ人
1. 何千もの市民がギリシャの首都アテネの大通りに出て、政府が打ち出したばかりの一連の緊急緊縮政策に抗議した。議会の前には約7000人が集まった。

2. デモ参加者の多くは学生と大卒の若者である。彼らは、政府の措置が彼らから未来と職を得る機会を奪っていると言う。

3. 抗議活動は24時間の交通機関のストライキと重なった―――公共の交通機関はストップし、空の便でも遅延ないしキャンセルが相次いだ。

4. 電車、バス、タクシーが止まり、航空管制官も数時間、業務を停止する予定。

5. ギリシャの債務危機の故に導入される、新たな緊縮措置には、新たな固定資産税、公務員の削減、年金の削減などが盛り込まれている。(立札には「ギリシャの空は売り物ではない」)

6. しかしギリシャ政府によれば、もしギリシャがどうしても必要な80億ユーロの追加融資を受けたいのであれば、こうした措置が必要なのだという。

7. 世界各国の債権者は、ギリシャに緊急支援融資を支払う前に、追加の財政的な措置が実行されることを要求していた。

8. 近いうちにさらなるストライキが計画されている―――公務員や電力会社の社員が10月5日にストを予定している一方で、ギリシャで最大級の二つの労組が10月19日にゼネストを行うと発表している。

」
第5回浅草燈籠会を見てまわる [雑感]
今年も浅草燈籠会が開催された。今年の浅草では中止される催しも多かったが、燈籠会は中止する理由はないだろう。今年で五回目。
このブログでは、去年も一昨年も燈籠会のことは記事にした。
http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-09-21
http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-09-21
が、今年は人出が増えたせいもあって、何となく味わいが薄れてきた感じがした。まあ、人出が増えたのは主宰者としては歓迎なのだろうが。
お約束通り、使い回しの燈籠が私たちを迎える。

絵として見せる燈籠は多いが、添えられている句や言葉に味のあるものが少なかった。まあ、面白いのがあるにはあったが。たとえば、
「熱帯夜 どころでないよ 酷熱夜」

「どじょう屋の女将 凛々しい顔になり」

「思いっ切り ハネを広げる 離婚印」

個人的に良いなぁと思ったもの。サバサバした感じというか、清々しい感じ。
「柿ひとつ 空へみちびく 竹ぼうき」

以前は小学生の作品もたくさんあったのだが、そういうのは見かけなくなった。上手いものが増えたわりに、赤黒い「大人」を感じさせる作品が目立ち、こういうのを集めて燈籠会とするのはいかがなものかと思わないでもなかった。まあ、その方が人気は出るのかな。さて、来年はどうなるか?

このブログでは、去年も一昨年も燈籠会のことは記事にした。
http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-09-21
http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-09-21
が、今年は人出が増えたせいもあって、何となく味わいが薄れてきた感じがした。まあ、人出が増えたのは主宰者としては歓迎なのだろうが。
お約束通り、使い回しの燈籠が私たちを迎える。

絵として見せる燈籠は多いが、添えられている句や言葉に味のあるものが少なかった。まあ、面白いのがあるにはあったが。たとえば、
「熱帯夜 どころでないよ 酷熱夜」

「どじょう屋の女将 凛々しい顔になり」

「思いっ切り ハネを広げる 離婚印」

個人的に良いなぁと思ったもの。サバサバした感じというか、清々しい感じ。
「柿ひとつ 空へみちびく 竹ぼうき」

以前は小学生の作品もたくさんあったのだが、そういうのは見かけなくなった。上手いものが増えたわりに、赤黒い「大人」を感じさせる作品が目立ち、こういうのを集めて燈籠会とするのはいかがなものかと思わないでもなかった。まあ、その方が人気は出るのかな。さて、来年はどうなるか?

マイケル・ムーア:僕はアメリカで一番の嫌われものだった(2) [海外のニュース記事]
マイケル・ムーアの回顧的な文章の後半。
『華氏9・11』が記録的なヒットとなる中、ブッシュが再選されたり激しい攻撃のために半ば引きこもり状態に追い込まれ、映画人としての活動に懐疑的になった2年半を経て、ブッシュの言葉を励みにして立ち直るまでを描いている。
最後のエピソードは少し感動的だ。それに笑える。やはりムーアらしい。
やはり今回も、少しだけ注釈をつけてみたい。
ラッシュ・リンボー … 保守派の論客で、ラジオのトークショーのホスト。『ラッシュ・リンボー・ショー』は全米一の人気を誇るラジオ番組らしい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rush_Limbaugh
The Anarchist's Cookbook … 『アナーキストの料理本』。1971年に書かれた、反体制派の武装闘争のための指南書。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Anarchist_Cookbook
The Turner Diaries … 『ターナーの日記』。国粋主義的団体のリーダーであるウィリアム・ルーター・パース(William Luther Pierce)が偽名で1978年に発表した小説。アメリカ連邦政府の転覆やユダヤ人や非白人の絶滅をもたらす暴力革命を描いた。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Turner_Diaries
クリプトナイト … 漫画『スーパーマン』に出てくる鉱石。この鉱石の前では、スーパーマンもまったく力を発揮できない。ちなみに、「筋骨格構造」も「コアバランス」もダイエット運動との関連で話題になる用語。要するにムーアは、ダイエット運動でちょっとはましな体になったのだから(これは事実らしい)、俺のことを甘く見るとやけどをするぜと言いたいわけだが、もちろん冗談。
Michael Moore: I was the most hated man in America
Michael Moore
guardian.co.uk, Wednesday 7 September 2011 20.00 BST
http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/07/michael-moore-hated-man-america
「
マイケル・ムーア:僕はアメリカで一番の嫌われものだった(2)

マイケル・ムーア。写真:スコット・マクダーモット
『華氏9・11』:反撃
オスカーの大騒動があってその結果アメリカで一番の嫌われものという評判をえた後で、僕は、僕の立場に置かれたら誰だってすることをしよう、と心に決めた:つまり、アメリカ合衆国の大統領は戦争犯罪人であるという問題提起をする映画を作ることにしたのだ。
というか、楽な道を選ぶつもりにはなれなかった。それに楽な道なんて僕にはもうなかったのだ。次の映画に資金を提供する約束をしていたスタジオからは、オスカーのスピーチの後に、契約を破棄したいという電話連絡があった――お前が嫌でも、そんなことは知ったことではないというのだ。幸いにも、別のスタジオが契約をしてくれたが、チケットを買ってくれる国民を怒らせないように注意してくれとそのスタジオは釘を刺した。そこのオーナーはイラク侵攻を支持していた。僕は彼に、もう僕はチケットを買ってくれる国民を怒らせてしまったのだから、出来るだけ良い映画作る、撮りたい映画を撮る―――誰も好きになってくれなければ、すぐにビデオにするという手だってあるじゃないか、と言った。
こうした混乱の最中に、僕は『華氏9・11』を撮り始めた。撮影隊のみんなには、これが、僕たちが映画業界で行う最後の仕事になるかもしれないと思って作業をしてくれと頼んだ。やる気を起こさせるためにそんなことを言ったわけではなかった――僕は、本当にそうなるだろうと思っていたのだ。そして僕たちは次の11カ月間、狂ってしまった政府と国家を映画によって告発するという作業を進めていった。
戦争の開始から1年以上たっていた2004年に映画は完成したが、その頃はまだ大多数のアメリカ人が戦争を支持していた。僕たちはカンヌ映画祭で初公開したが、クエンティン・タランティーノが委員長をつとめる国際色あふれる審査委員たちによって、僕たちは最高の賞であるパルム・ドールが与えられた。ドキュメンタリーが最高賞を受賞するのは約50年のカンヌの歴史で初めてのことだった。
『華氏9・11』に対するこの圧倒的な反応は、ブッシュ政権を動揺させ、ブッシュ再選の選挙キャンペーンの担当者たちに、この映画が転回点となって選挙に負けるかもしれないと思わせたものだった。彼らは世論調査員を雇って、その映画が有権者に与える影響を調べさせた。3つの別々の都市で3種類の観客に映画を見せた後、大統領上級顧問のカール・ローブが受けとった知らせは良くないものだった。その映画は、民主党支持者(彼らはその映画に狂喜した)に待望の励ましを与えただけでなく、奇妙なことに、女性の共和党支持者にもはっきりとした効果をもっていたのだ。
映画会社が独自に行ったアンケート調査では、驚くべきことに共和党支持者の3分の1が――映画を見た後――他の人にこの映画を勧めるだろうと述べた。しかしホワイトハウスの世論調査はいっそう危険なことを報告していた――共和党支持の女性の10%は、『華氏9・11』を見た後では、ジョン・ケリーに投票するかそれとも棄権すると述べたのだ。ほんの数パーセントのポイント差で勝負が決まる選挙では、これは衝撃的なニュースだった。
『華氏9・11』は全米のNo.1シアターで上映される予定だった。さらに、ホワイトハウスにとって都合の悪いことに、50州すべてのNo.1シアターで上映された。南部の保守的な地域も例外ではなかった。フォート・ブラッグのような基地の町のNo.1シアターでも上映された。兵士やその家族が見に出かけたし、多くの人の話では、『華氏9・11』はイラクの部隊が見た海賊版映画のトップになった。それは、上映館が1000館以下の映画としては、『スターウォーズ ジェダイの帰還(Star Wars Return of the Jedi)』が長い間保持していたボックス・オフィスの全米週末興行収入の記録を打ち破ってしまった。『バラエティ』誌がよく使う冗長な言い回しを使えば、大大ヒット作(major boffo)、向かうところ敵なしといった人気だった。
そしてまさにそれほどのヒット作となる中で、僕はまたしても標的になってしまった。
それに続いて起こった僕に対する攻撃は、メチャクチャで、正気とは思えず偽物でしかありえないフィクションの作品みたいだった。僕はそんな攻撃にいちいち反応しなかったが、それはノイズをカッコよく見せたくはなかったからだ。TVで、ラジオで、論説記事で、インターネットで――つまり、いたる所で――マイケル・ムーアはアメリカを憎んでいる、あいつは嘘つきだ、陰謀の片棒を担いでいる奴だ、フランスかぶれだと喧伝された。僕に対するキャンペーンは、あまりに多くの共和党支持者があの映画を見ることを防ぐためのものだった。
そしてそのキャンペーンは上手く行った。もちろん、どうやったところで、ケリーが面白みのない候補者であることには変わりがなかった。ブッシュは1つの州、オハイオ州だけの差で勝利した。
共和党支持の評論家が僕に向けて投げつけた悪意ある攻撃からはそれ以外の被害もあった。それは、すでに少しはがれていたものを引き離すという悲しく悲劇的な副作用をもっていた。僕の人生は、殴り書きされた悪意の手紙を受け取るというちょっとしたことから、肉体に対する攻撃の試みに曝されるという深刻な局面になっていたし――そしてそれ以上の悪化の一途をたどったのである。
ボディーガードと一緒に暮らす
海軍特殊部隊の元隊員たちは僕たちと行動を共にした。僕が歩道を歩くとき、彼らは僕の周りで円を描くようにして歩かなければならなかった。夜になると彼らは、CIA本部以外ではまず見られないような夜間用のゴーグルや特殊な装置を身に着けた。
僕の身を守るエージェントは、脅威を査定する部門をもっていた。彼らの仕事は、僕に対してまやかしではない脅迫をしてきた人間すべての調査をすることだった。ある日、僕はファイルを見せてくれと頼んだ。担当者は僕に名前と脅迫のリストとその脅迫がどれほどのレベルだと査定されているかを読み上げはじめた。彼がリストの最初の1ダースほどを読み上げた後、彼はストップし僕に尋ねた。「本当に先を聞きたいですか? まだ429件もあるのですが」。
僕は、事件でも起きないかぎり、公の場に出かけることができなくなっていた。始めは、僕がレストランで隣の席に座った時に、その隣人から別のテーブルに移ってくれと頼まれたり、僕に向って叫び声をあげるために、車の流れを絶ち切って車を止めるタクシーの運転手だったりと、ささいなことだった。しかし、言葉による嫌がらせはすぐに肉体的なものに変わっていき、海軍特殊部隊の元隊員たちは厳戒態勢をとっていた。セキュリティ―の関係で、エージェントのアドバイスもあるし、あの犯罪者たちに彼らの求めている注目を与えたくもないので、僕はここであまり詳しく説明するつもりはないが、少しだけ列挙しておこう:
・ ナッシュビルでは、ナイフをもった男がステージ上に跳び上がって、僕の方に歩み寄ってきた。元隊員たちが背後からベルト・ループやえりをつかんで、その男をステージ中央から下のセメントの床に投げつけた。元隊員たちが連れ去った後、床にべっとりついた血をモップできれいにしなければならないほど血が流れた。
・ フォート・ローダーデールでは、バリッとしたスーツ姿の男が歩道を歩く僕を見て、気色ばんだ。彼は、やけどするほど熱いコーヒーの蓋を取り、僕の顔めがけてそれを投げつけた。元隊員はこの出来事を見ていたが、その男を捕えるには0.5秒足りなかった。だから彼は自分の顔を僕の顔の前に差し出し、コーヒーの直撃をうけた。コーヒーのおかげで彼は顔にひどい火傷を負い、僕たちは彼を病院へ運ばなければならなかった(第二度熱傷だった)――しかしそれは、彼があの男を歩道にうつぶせにして取り押さえ、膝を男の背中に痛いほど食い込ませて手錠をかけた後のことだった。
・ ニューヨーク市では、『華氏9・11』を上映中の映画館の一つの外で記者会見を開いていた最中に、近くを通りかかった男が僕を見て、カッとなり、ポケットから唯一携行していた武器を取り出した―――とても鋭く尖ったグラファイトの鉛筆だった。彼がそれで僕を刺そうと突進してきたとき、元隊員が見つけて、最後のコンマ何秒というところで、僕とやって来る鉛筆の間に自分の手を差し込んだ。鉛筆は彼の手を直撃した。読者のみなさんは、これまでに海軍特殊部隊の隊員が刺される場面をご覧になったことがあるだろうか? 彼らの顔に浮かんだ表情は、シャンプーが切れているのを発見したときの僕たちの表情だった。鉛筆で刺そうとした男は、元隊員がその男と16世紀の筆記道具を片づけてしまったあの日から、ペーパーレス社会に改宗したのではないだろうか。
孤独の爆弾魔
そして、リー・ジェームズ・ヘッドリーの登場だ。オハイオ州の自宅で一人で座りながら、リーは大きな計画を練っていた。世界は、彼の日記によると、リベラルの連中に支配され破滅に追い込まれていた。彼のコメントは、ラッシュ・リンボー(Rush Limbaugh)ショーのいつもの日のエピソードの話題のようだった。そしてリーはリストを作った。それは死ななければならない人間たちの短いリストだった。リストの一番上にNo.1のターゲットがあったが、それが「マイケル・ムーア」だった。私の名前の横に彼は「マークした」と書いた(彼が後に説明するように、「マーク」とは「死の標的(marked for death)」と言うときのような意味なのだ)。
2004年の春の間に、ヘッドリーは大量の攻撃兵器、数千もの弾薬、爆弾製造のための様々な材料を集めた。彼は“The Anarchist's Cookbook”や民族間の戦争を描いた小説“The Turner Diaries”を買った。彼のノートには、ロケット発射台や爆弾の図が含まれていたし、彼は何度も何度もこう書くのだった:「戦え、戦え、戦え、殺せ、殺せ、殺せ!」。
しかし2004年のある晩、彼は間違って自宅で自動小銃のAK-47の一つから銃弾を発射してしまった。隣人が銃撃音を聞き、警察に通報した。警官がやって来て、武器や弾薬や爆弾製造の材料の宝庫を発見した。そして彼のリストもである。
その日から数日たって、僕はセキュリティーのエージェントから連絡を受けた。
「報告の必要があると思ってお知らせしますが、警察はあなたの家を爆破しようと計画していた男を拘留しているそうです。今あなたは危険な状態にはありません」。
僕は押し黙ってしまった。僕はいま耳にしたばかりのことを把握しようと努めた。今・・・僕は・・・危険な・・・状態に・・・ない。僕にとって、それはとどめとなる一撃だった。僕は泣き崩れた。僕の妻は、かつての生活が無くなってしまったことに絶望し切っていた。僕は再び自分自身に問いかけた:いったい僕が何をしたからといって、こんな報いを受けなければならないんだ? 映画を撮ったからか? 映画のおかげで僕の家を爆破しようという奴が出てきたのか?
数ヶ月たち、ブッシュが大統領に再選された後でさえ、僕に対する絶えることのない攻撃は増すばかりだった。グレン・ベックが僕の殺害を考えていると言ったとき、彼は放送監視委員会から罰金を課されることもなかったし、ニューヨーク市警察に逮捕されることもなかった。彼は、本質だけを取り出せば、僕を殺せという呼びかけを行ったのであり、当時のメディアの誰一人としてそれを報道する者はいなかった。
警察の取り調べに対して、ヘッドリーは「ドキュメンタリー」を作っているのだ、と言った。彼はそのドキュメンタリーを「マイケル・ムーアを撃ち殺す(Shooting Michael Moore)」と名づけた。彼のウェブサイトに行って、「マイケル・ムーアを撃ち殺す(Shooting Michael Moore)」という言葉が画面に現れると、発砲の音声が流れる仕組みになっている。メディアは散々それを取り上げ、ヘッドリーには(ショーン・ハニティーのFoxニュースのような)数多くのTVショーへの出演依頼があった。「次の計画では―――彼はマイケル・ムーアに特製の薬をあげる予定だ! ムーアを狙っている奴がいるんだぞ! 」(SFXの画面が始まり、ドカーンという爆発音)。その後でヘッドリーは、不法にわが家にたどり着く方法についてのビデオや地図を提供したのだった。
僕はこのことが僕の個人的な生活にどれほどの影響を及ぼしたかを打ち明けたいとは思わないが、こんなことがおよそ誰かの身の上に降りかかって欲しいなどとは思わない、と言っておけば十分だ。一度ならず、僕はこんな目に会ってまでしてあんな作品を作る価値があったのかどうかと自問した。もう一度やらなければならないとしたら、僕はやるだろうか? あのオスカー授賞式のスピーチを取り消して、ただステージに上がって、自分のエージェントとタキシード・デザイナーに謝辞を述べて、それ以外何も言わずにステージを降りることができるならば、僕はそうするだろうか? もしそれが、僕の家族が自分たちの安全について心配する必要がなくなり、僕がたえず危険と隣り合わせで暮らすことがなくなるということを意味するならば―――もしそうなら、どうするかだって? どうするだろうか、そんなことは判り切ったことだ、というのが世間の常識だろう。
ブッシュ大統領が助け舟を出してくれる
それに続く2年と半年の間、僕はあまり外出しなかった。2005年1月から2007年5月まで、僕はたった一度のテレビ番組にも出演しなかった。大学の連続講演会にも行くのを止めた。僕は政治から距離を置いた。前年は50以上の大学で講演した。それに続く2年間は、僕はたった一つの大学で講演しただけだった。自宅から離れることはせず、僕が住んでいるミシガン州の地方の町のプロジェクトに関わっただけだった。それから何とブッシュ大統領が助け舟を出してくれたのだ。彼は、僕がこんな状態から脱出できるようにしてくれることを言ったのだ。僕は彼が以前そんなことを口にしているのを聞いたことがあったが、今度彼の言っていることを聞いたとき、僕は、彼が僕に直接語りかけているかのように感じたのだ。彼はこう言った:「我々がテロリストに屈するならば、テロリストが勝利するのだ」。そして彼は正しかった。ブッシュのテロリストたちは勝利を収めつつあったのだ! 僕に対して! 家の中に座って何をしているんだ? 僕はブラインドを開け、自分を憐れむことはもう終わりにしようと思い、仕事に復帰した。僕は、3年間で3本の映画を撮り、オバマが選出されるように必死の努力をし、ミシガン州の共和党の議員二人が失職する手助けをした。僕は、人目につくウェブサイトを開設したり、僕にブーイングを送ったアカデミー賞の理事に選出されたりもした。
僕はあきらめないことを選んだ。本当はあきらめたかった、ひどくそう思っていた。でもそうする代わりに僕は体を鍛えた。もし君が僕にパンチをお見舞いしようとする場合、次の三つのことが起こることは確約してもいい。1)君の手はこなごなになるだろう。それは、一日に30分筋骨格構造に基づいて過ごすことで得られる美点なのだ――そうすることで体はクリプトナイトに変身するのだ。2)僕は君に襲いかかるだろう。僕はまだ自分のコアバランスの問題に取り組んでいるので、君が僕を殴った後でも、僕は君を裏返しにして、君を押しつぶすだろう。3)海軍特殊部隊の元隊員たちが、君が横転しているとき、君の眼窩に催涙スプレーか彼ら手製のハラペーニョ・スパイダー・スプレーをお見舞いするだろう。僕は平和主義者なので、僕の言い訳を事前に受け入れてくれ――そして、決して僕や誰であれ他の人に対して二度と暴力を使うことはしないでほしいのだ。
そしてとうとう、しばらくぶりに『トゥナイト・ショー』に僕は出演した。僕が舞台を去ろうとするとき、ブーム・マイクを操作していた男性が僕の方に近づいてきた。
「おそらく僕のことは覚えていないでしょうけど」と彼はオドオドしながら言った。「またお会いして話しかけるチャンスがくるなんて思ってもみませんでした。こんなことができるようになるなんて信じられない」。
「こんなことってどんなことだ? 」と僕は思った。僕は、もうじき - こなごなに - なるはずの ‐ 彼の手に対して身構えた。
「 あなたに謝罪ができるなんて思ってもみませんでした 」と彼が言ったとき、彼の目に涙がわずかに浮かび上がった。「僕は、あなたのオスカー授賞式のあの夜を台無しにした者です。僕は、あなたがステージから降りた直後にあなたに向かって「糞ったれ(ASSHOLE)!」と叫んだ者です。僕は・・・(彼は気持ちを落ち着かせようとしていた)。僕はあなたが大統領を攻撃していると思ったのです――でも、あなたは正しかった。ブッシュは僕たちに嘘をついたのだから。この数年、あの夜の出来事が脳裏から離れたことはありませんでした。申し訳なくて…」。
彼は泣き崩れ始めたが、僕にできそうなことといえば、手を差し伸べて、彼を抱きしめてやることくらいだった。
「大丈夫だよ」。僕は、満面の笑みを浮かべてそう言った。「君の謝罪は受け入れるよ。でもね、僕に謝罪する必要なんてないんだ。君は自分の支持する大統領を信じていたのだから。自分が支持する大統領は信じるべきことになっているのだからね! 大統領の職にある人から最低限そういうことが期待できなければ、わが国は絶望的だよ」。
「有難う」と彼はホッとしながら言った。「理解していただいて有難うございます」。
「 理解するだって? 」と僕は言った。「 これは理解するとかしないとかの問題じゃないんだ。僕はあの面白い話を何年にもわたって人に語って聞かせてきたんだ、オスカーを受賞した時に耳にする最初の2つの単語について―――そして僕がボーナスの単語をどうして聞かなければならなかったのかの経緯についてね。だから、あの話を僕から取り上げないでほしいんだ! みんなあの話が大好きなんだから! 」。彼は笑った、そして僕も笑った。
「ええ、そうですね」と彼は言った。「あれほど素敵な話は多くはないですよね」。
」(おわり)
『華氏9・11』が記録的なヒットとなる中、ブッシュが再選されたり激しい攻撃のために半ば引きこもり状態に追い込まれ、映画人としての活動に懐疑的になった2年半を経て、ブッシュの言葉を励みにして立ち直るまでを描いている。
最後のエピソードは少し感動的だ。それに笑える。やはりムーアらしい。
やはり今回も、少しだけ注釈をつけてみたい。
ラッシュ・リンボー … 保守派の論客で、ラジオのトークショーのホスト。『ラッシュ・リンボー・ショー』は全米一の人気を誇るラジオ番組らしい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rush_Limbaugh
The Anarchist's Cookbook … 『アナーキストの料理本』。1971年に書かれた、反体制派の武装闘争のための指南書。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Anarchist_Cookbook
The Turner Diaries … 『ターナーの日記』。国粋主義的団体のリーダーであるウィリアム・ルーター・パース(William Luther Pierce)が偽名で1978年に発表した小説。アメリカ連邦政府の転覆やユダヤ人や非白人の絶滅をもたらす暴力革命を描いた。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Turner_Diaries
クリプトナイト … 漫画『スーパーマン』に出てくる鉱石。この鉱石の前では、スーパーマンもまったく力を発揮できない。ちなみに、「筋骨格構造」も「コアバランス」もダイエット運動との関連で話題になる用語。要するにムーアは、ダイエット運動でちょっとはましな体になったのだから(これは事実らしい)、俺のことを甘く見るとやけどをするぜと言いたいわけだが、もちろん冗談。
Michael Moore: I was the most hated man in America
Michael Moore
guardian.co.uk, Wednesday 7 September 2011 20.00 BST
http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/07/michael-moore-hated-man-america
「
マイケル・ムーア:僕はアメリカで一番の嫌われものだった(2)

マイケル・ムーア。写真:スコット・マクダーモット
『華氏9・11』:反撃
オスカーの大騒動があってその結果アメリカで一番の嫌われものという評判をえた後で、僕は、僕の立場に置かれたら誰だってすることをしよう、と心に決めた:つまり、アメリカ合衆国の大統領は戦争犯罪人であるという問題提起をする映画を作ることにしたのだ。
というか、楽な道を選ぶつもりにはなれなかった。それに楽な道なんて僕にはもうなかったのだ。次の映画に資金を提供する約束をしていたスタジオからは、オスカーのスピーチの後に、契約を破棄したいという電話連絡があった――お前が嫌でも、そんなことは知ったことではないというのだ。幸いにも、別のスタジオが契約をしてくれたが、チケットを買ってくれる国民を怒らせないように注意してくれとそのスタジオは釘を刺した。そこのオーナーはイラク侵攻を支持していた。僕は彼に、もう僕はチケットを買ってくれる国民を怒らせてしまったのだから、出来るだけ良い映画作る、撮りたい映画を撮る―――誰も好きになってくれなければ、すぐにビデオにするという手だってあるじゃないか、と言った。
こうした混乱の最中に、僕は『華氏9・11』を撮り始めた。撮影隊のみんなには、これが、僕たちが映画業界で行う最後の仕事になるかもしれないと思って作業をしてくれと頼んだ。やる気を起こさせるためにそんなことを言ったわけではなかった――僕は、本当にそうなるだろうと思っていたのだ。そして僕たちは次の11カ月間、狂ってしまった政府と国家を映画によって告発するという作業を進めていった。
戦争の開始から1年以上たっていた2004年に映画は完成したが、その頃はまだ大多数のアメリカ人が戦争を支持していた。僕たちはカンヌ映画祭で初公開したが、クエンティン・タランティーノが委員長をつとめる国際色あふれる審査委員たちによって、僕たちは最高の賞であるパルム・ドールが与えられた。ドキュメンタリーが最高賞を受賞するのは約50年のカンヌの歴史で初めてのことだった。
『華氏9・11』に対するこの圧倒的な反応は、ブッシュ政権を動揺させ、ブッシュ再選の選挙キャンペーンの担当者たちに、この映画が転回点となって選挙に負けるかもしれないと思わせたものだった。彼らは世論調査員を雇って、その映画が有権者に与える影響を調べさせた。3つの別々の都市で3種類の観客に映画を見せた後、大統領上級顧問のカール・ローブが受けとった知らせは良くないものだった。その映画は、民主党支持者(彼らはその映画に狂喜した)に待望の励ましを与えただけでなく、奇妙なことに、女性の共和党支持者にもはっきりとした効果をもっていたのだ。
映画会社が独自に行ったアンケート調査では、驚くべきことに共和党支持者の3分の1が――映画を見た後――他の人にこの映画を勧めるだろうと述べた。しかしホワイトハウスの世論調査はいっそう危険なことを報告していた――共和党支持の女性の10%は、『華氏9・11』を見た後では、ジョン・ケリーに投票するかそれとも棄権すると述べたのだ。ほんの数パーセントのポイント差で勝負が決まる選挙では、これは衝撃的なニュースだった。
『華氏9・11』は全米のNo.1シアターで上映される予定だった。さらに、ホワイトハウスにとって都合の悪いことに、50州すべてのNo.1シアターで上映された。南部の保守的な地域も例外ではなかった。フォート・ブラッグのような基地の町のNo.1シアターでも上映された。兵士やその家族が見に出かけたし、多くの人の話では、『華氏9・11』はイラクの部隊が見た海賊版映画のトップになった。それは、上映館が1000館以下の映画としては、『スターウォーズ ジェダイの帰還(Star Wars Return of the Jedi)』が長い間保持していたボックス・オフィスの全米週末興行収入の記録を打ち破ってしまった。『バラエティ』誌がよく使う冗長な言い回しを使えば、大大ヒット作(major boffo)、向かうところ敵なしといった人気だった。
そしてまさにそれほどのヒット作となる中で、僕はまたしても標的になってしまった。
それに続いて起こった僕に対する攻撃は、メチャクチャで、正気とは思えず偽物でしかありえないフィクションの作品みたいだった。僕はそんな攻撃にいちいち反応しなかったが、それはノイズをカッコよく見せたくはなかったからだ。TVで、ラジオで、論説記事で、インターネットで――つまり、いたる所で――マイケル・ムーアはアメリカを憎んでいる、あいつは嘘つきだ、陰謀の片棒を担いでいる奴だ、フランスかぶれだと喧伝された。僕に対するキャンペーンは、あまりに多くの共和党支持者があの映画を見ることを防ぐためのものだった。
そしてそのキャンペーンは上手く行った。もちろん、どうやったところで、ケリーが面白みのない候補者であることには変わりがなかった。ブッシュは1つの州、オハイオ州だけの差で勝利した。
共和党支持の評論家が僕に向けて投げつけた悪意ある攻撃からはそれ以外の被害もあった。それは、すでに少しはがれていたものを引き離すという悲しく悲劇的な副作用をもっていた。僕の人生は、殴り書きされた悪意の手紙を受け取るというちょっとしたことから、肉体に対する攻撃の試みに曝されるという深刻な局面になっていたし――そしてそれ以上の悪化の一途をたどったのである。
ボディーガードと一緒に暮らす
海軍特殊部隊の元隊員たちは僕たちと行動を共にした。僕が歩道を歩くとき、彼らは僕の周りで円を描くようにして歩かなければならなかった。夜になると彼らは、CIA本部以外ではまず見られないような夜間用のゴーグルや特殊な装置を身に着けた。
僕の身を守るエージェントは、脅威を査定する部門をもっていた。彼らの仕事は、僕に対してまやかしではない脅迫をしてきた人間すべての調査をすることだった。ある日、僕はファイルを見せてくれと頼んだ。担当者は僕に名前と脅迫のリストとその脅迫がどれほどのレベルだと査定されているかを読み上げはじめた。彼がリストの最初の1ダースほどを読み上げた後、彼はストップし僕に尋ねた。「本当に先を聞きたいですか? まだ429件もあるのですが」。
僕は、事件でも起きないかぎり、公の場に出かけることができなくなっていた。始めは、僕がレストランで隣の席に座った時に、その隣人から別のテーブルに移ってくれと頼まれたり、僕に向って叫び声をあげるために、車の流れを絶ち切って車を止めるタクシーの運転手だったりと、ささいなことだった。しかし、言葉による嫌がらせはすぐに肉体的なものに変わっていき、海軍特殊部隊の元隊員たちは厳戒態勢をとっていた。セキュリティ―の関係で、エージェントのアドバイスもあるし、あの犯罪者たちに彼らの求めている注目を与えたくもないので、僕はここであまり詳しく説明するつもりはないが、少しだけ列挙しておこう:
・ ナッシュビルでは、ナイフをもった男がステージ上に跳び上がって、僕の方に歩み寄ってきた。元隊員たちが背後からベルト・ループやえりをつかんで、その男をステージ中央から下のセメントの床に投げつけた。元隊員たちが連れ去った後、床にべっとりついた血をモップできれいにしなければならないほど血が流れた。
・ フォート・ローダーデールでは、バリッとしたスーツ姿の男が歩道を歩く僕を見て、気色ばんだ。彼は、やけどするほど熱いコーヒーの蓋を取り、僕の顔めがけてそれを投げつけた。元隊員はこの出来事を見ていたが、その男を捕えるには0.5秒足りなかった。だから彼は自分の顔を僕の顔の前に差し出し、コーヒーの直撃をうけた。コーヒーのおかげで彼は顔にひどい火傷を負い、僕たちは彼を病院へ運ばなければならなかった(第二度熱傷だった)――しかしそれは、彼があの男を歩道にうつぶせにして取り押さえ、膝を男の背中に痛いほど食い込ませて手錠をかけた後のことだった。
・ ニューヨーク市では、『華氏9・11』を上映中の映画館の一つの外で記者会見を開いていた最中に、近くを通りかかった男が僕を見て、カッとなり、ポケットから唯一携行していた武器を取り出した―――とても鋭く尖ったグラファイトの鉛筆だった。彼がそれで僕を刺そうと突進してきたとき、元隊員が見つけて、最後のコンマ何秒というところで、僕とやって来る鉛筆の間に自分の手を差し込んだ。鉛筆は彼の手を直撃した。読者のみなさんは、これまでに海軍特殊部隊の隊員が刺される場面をご覧になったことがあるだろうか? 彼らの顔に浮かんだ表情は、シャンプーが切れているのを発見したときの僕たちの表情だった。鉛筆で刺そうとした男は、元隊員がその男と16世紀の筆記道具を片づけてしまったあの日から、ペーパーレス社会に改宗したのではないだろうか。
孤独の爆弾魔
そして、リー・ジェームズ・ヘッドリーの登場だ。オハイオ州の自宅で一人で座りながら、リーは大きな計画を練っていた。世界は、彼の日記によると、リベラルの連中に支配され破滅に追い込まれていた。彼のコメントは、ラッシュ・リンボー(Rush Limbaugh)ショーのいつもの日のエピソードの話題のようだった。そしてリーはリストを作った。それは死ななければならない人間たちの短いリストだった。リストの一番上にNo.1のターゲットがあったが、それが「マイケル・ムーア」だった。私の名前の横に彼は「マークした」と書いた(彼が後に説明するように、「マーク」とは「死の標的(marked for death)」と言うときのような意味なのだ)。
2004年の春の間に、ヘッドリーは大量の攻撃兵器、数千もの弾薬、爆弾製造のための様々な材料を集めた。彼は“The Anarchist's Cookbook”や民族間の戦争を描いた小説“The Turner Diaries”を買った。彼のノートには、ロケット発射台や爆弾の図が含まれていたし、彼は何度も何度もこう書くのだった:「戦え、戦え、戦え、殺せ、殺せ、殺せ!」。
しかし2004年のある晩、彼は間違って自宅で自動小銃のAK-47の一つから銃弾を発射してしまった。隣人が銃撃音を聞き、警察に通報した。警官がやって来て、武器や弾薬や爆弾製造の材料の宝庫を発見した。そして彼のリストもである。
その日から数日たって、僕はセキュリティーのエージェントから連絡を受けた。
「報告の必要があると思ってお知らせしますが、警察はあなたの家を爆破しようと計画していた男を拘留しているそうです。今あなたは危険な状態にはありません」。
僕は押し黙ってしまった。僕はいま耳にしたばかりのことを把握しようと努めた。今・・・僕は・・・危険な・・・状態に・・・ない。僕にとって、それはとどめとなる一撃だった。僕は泣き崩れた。僕の妻は、かつての生活が無くなってしまったことに絶望し切っていた。僕は再び自分自身に問いかけた:いったい僕が何をしたからといって、こんな報いを受けなければならないんだ? 映画を撮ったからか? 映画のおかげで僕の家を爆破しようという奴が出てきたのか?
数ヶ月たち、ブッシュが大統領に再選された後でさえ、僕に対する絶えることのない攻撃は増すばかりだった。グレン・ベックが僕の殺害を考えていると言ったとき、彼は放送監視委員会から罰金を課されることもなかったし、ニューヨーク市警察に逮捕されることもなかった。彼は、本質だけを取り出せば、僕を殺せという呼びかけを行ったのであり、当時のメディアの誰一人としてそれを報道する者はいなかった。
警察の取り調べに対して、ヘッドリーは「ドキュメンタリー」を作っているのだ、と言った。彼はそのドキュメンタリーを「マイケル・ムーアを撃ち殺す(Shooting Michael Moore)」と名づけた。彼のウェブサイトに行って、「マイケル・ムーアを撃ち殺す(Shooting Michael Moore)」という言葉が画面に現れると、発砲の音声が流れる仕組みになっている。メディアは散々それを取り上げ、ヘッドリーには(ショーン・ハニティーのFoxニュースのような)数多くのTVショーへの出演依頼があった。「次の計画では―――彼はマイケル・ムーアに特製の薬をあげる予定だ! ムーアを狙っている奴がいるんだぞ! 」(SFXの画面が始まり、ドカーンという爆発音)。その後でヘッドリーは、不法にわが家にたどり着く方法についてのビデオや地図を提供したのだった。
僕はこのことが僕の個人的な生活にどれほどの影響を及ぼしたかを打ち明けたいとは思わないが、こんなことがおよそ誰かの身の上に降りかかって欲しいなどとは思わない、と言っておけば十分だ。一度ならず、僕はこんな目に会ってまでしてあんな作品を作る価値があったのかどうかと自問した。もう一度やらなければならないとしたら、僕はやるだろうか? あのオスカー授賞式のスピーチを取り消して、ただステージに上がって、自分のエージェントとタキシード・デザイナーに謝辞を述べて、それ以外何も言わずにステージを降りることができるならば、僕はそうするだろうか? もしそれが、僕の家族が自分たちの安全について心配する必要がなくなり、僕がたえず危険と隣り合わせで暮らすことがなくなるということを意味するならば―――もしそうなら、どうするかだって? どうするだろうか、そんなことは判り切ったことだ、というのが世間の常識だろう。
ブッシュ大統領が助け舟を出してくれる
それに続く2年と半年の間、僕はあまり外出しなかった。2005年1月から2007年5月まで、僕はたった一度のテレビ番組にも出演しなかった。大学の連続講演会にも行くのを止めた。僕は政治から距離を置いた。前年は50以上の大学で講演した。それに続く2年間は、僕はたった一つの大学で講演しただけだった。自宅から離れることはせず、僕が住んでいるミシガン州の地方の町のプロジェクトに関わっただけだった。それから何とブッシュ大統領が助け舟を出してくれたのだ。彼は、僕がこんな状態から脱出できるようにしてくれることを言ったのだ。僕は彼が以前そんなことを口にしているのを聞いたことがあったが、今度彼の言っていることを聞いたとき、僕は、彼が僕に直接語りかけているかのように感じたのだ。彼はこう言った:「我々がテロリストに屈するならば、テロリストが勝利するのだ」。そして彼は正しかった。ブッシュのテロリストたちは勝利を収めつつあったのだ! 僕に対して! 家の中に座って何をしているんだ? 僕はブラインドを開け、自分を憐れむことはもう終わりにしようと思い、仕事に復帰した。僕は、3年間で3本の映画を撮り、オバマが選出されるように必死の努力をし、ミシガン州の共和党の議員二人が失職する手助けをした。僕は、人目につくウェブサイトを開設したり、僕にブーイングを送ったアカデミー賞の理事に選出されたりもした。
僕はあきらめないことを選んだ。本当はあきらめたかった、ひどくそう思っていた。でもそうする代わりに僕は体を鍛えた。もし君が僕にパンチをお見舞いしようとする場合、次の三つのことが起こることは確約してもいい。1)君の手はこなごなになるだろう。それは、一日に30分筋骨格構造に基づいて過ごすことで得られる美点なのだ――そうすることで体はクリプトナイトに変身するのだ。2)僕は君に襲いかかるだろう。僕はまだ自分のコアバランスの問題に取り組んでいるので、君が僕を殴った後でも、僕は君を裏返しにして、君を押しつぶすだろう。3)海軍特殊部隊の元隊員たちが、君が横転しているとき、君の眼窩に催涙スプレーか彼ら手製のハラペーニョ・スパイダー・スプレーをお見舞いするだろう。僕は平和主義者なので、僕の言い訳を事前に受け入れてくれ――そして、決して僕や誰であれ他の人に対して二度と暴力を使うことはしないでほしいのだ。
そしてとうとう、しばらくぶりに『トゥナイト・ショー』に僕は出演した。僕が舞台を去ろうとするとき、ブーム・マイクを操作していた男性が僕の方に近づいてきた。
「おそらく僕のことは覚えていないでしょうけど」と彼はオドオドしながら言った。「またお会いして話しかけるチャンスがくるなんて思ってもみませんでした。こんなことができるようになるなんて信じられない」。
「こんなことってどんなことだ? 」と僕は思った。僕は、もうじき - こなごなに - なるはずの ‐ 彼の手に対して身構えた。
「 あなたに謝罪ができるなんて思ってもみませんでした 」と彼が言ったとき、彼の目に涙がわずかに浮かび上がった。「僕は、あなたのオスカー授賞式のあの夜を台無しにした者です。僕は、あなたがステージから降りた直後にあなたに向かって「糞ったれ(ASSHOLE)!」と叫んだ者です。僕は・・・(彼は気持ちを落ち着かせようとしていた)。僕はあなたが大統領を攻撃していると思ったのです――でも、あなたは正しかった。ブッシュは僕たちに嘘をついたのだから。この数年、あの夜の出来事が脳裏から離れたことはありませんでした。申し訳なくて…」。
彼は泣き崩れ始めたが、僕にできそうなことといえば、手を差し伸べて、彼を抱きしめてやることくらいだった。
「大丈夫だよ」。僕は、満面の笑みを浮かべてそう言った。「君の謝罪は受け入れるよ。でもね、僕に謝罪する必要なんてないんだ。君は自分の支持する大統領を信じていたのだから。自分が支持する大統領は信じるべきことになっているのだからね! 大統領の職にある人から最低限そういうことが期待できなければ、わが国は絶望的だよ」。
「有難う」と彼はホッとしながら言った。「理解していただいて有難うございます」。
「 理解するだって? 」と僕は言った。「 これは理解するとかしないとかの問題じゃないんだ。僕はあの面白い話を何年にもわたって人に語って聞かせてきたんだ、オスカーを受賞した時に耳にする最初の2つの単語について―――そして僕がボーナスの単語をどうして聞かなければならなかったのかの経緯についてね。だから、あの話を僕から取り上げないでほしいんだ! みんなあの話が大好きなんだから! 」。彼は笑った、そして僕も笑った。
「ええ、そうですね」と彼は言った。「あれほど素敵な話は多くはないですよね」。
」(おわり)
マイケル・ムーア:僕はアメリカで一番の嫌われものだった(1) [海外のニュース記事]
イギリス『ガーディアン』紙の“Books”のコーナーで、マイケル・ムーアの新著“Here Comes Trouble”が取り上げられていた。取り上げると言っても、(たぶん断片的な)抜粋なのだろうが、とても面白しろかったので紹介しようという気持ちになった。
あの有名なオスカー授賞式のときのスピーチに端を発して、身の危険に絶えずさらされながら、しかし結局くじけることなく「テロとの戦い」を続けようと意を決するまでの経緯が語られている。全文は一続きだが長すぎるので、二回に分けて紹介する。
ちなみに、注釈をちょっとだけつけておく。
グレン・ベック・・・保守派の論客で、ラジオやテレビでのトークショーで有名。
「What Would Jesus Do?(イエス・キリストならばどうするか?)」のリスト・バンド・・・そういう商品があるようだ。What Would Jesus Do?は企業名らしい。
http://whatwouldjesusdo.com/wwjdcart/product.php?productid=16206&cat=265&page=1
ダクトテープの虚構・・・ブッシュ政権が、化学兵器によるテロに備えて、自宅の窓をダクトテープで保護するよう呼びかけたことを踏まえている。
テロ警戒レベルの虚構・・・直訳すれば「オレンジ色の警報の虚構」。当時はテロの危険性を表わす「上から二番目の警報」が出ていたが、それがオレンジ色だったことを踏まえている。
ローマ法王とディクシー・チックス・・・ディクシー・チックスは人気の高いカントリーの女性グループ。どちらも、ブッシュのイラク侵攻を非難していた。
デンタル・フロス一本あれば数ナノ秒で人を殺すことができる( take you out with a piece of dental floss)・・・ はじめは意味が取れなかった。デンタル・フロスで救出する? ・・・ しかし“take out ”は、ここでは「殺す」という意味らしい。同じようなことをムーアが別の所でも言っているのだが、そちらと照らし合わせると間違いないようだ(http://jdeanicite.typepad.com/i_cite/2011/05/some-final-thoughts-on-the-death-of-osama-bin-laden-michaelmoorecom.html )。しかし、デンタル・フロスでどうやって人を殺せるのかは書かれていない。
Michael Moore: I was the most hated man in America
guardian.co.uk, Wednesday 7 September 2011 20.00 BST
http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/07/michael-moore-hated-man-america
「
マイケル・ムーア:僕はアメリカで一番の嫌われものだった(1)
2003年のオスカー受賞演説で、マイケル・ムーアはブッシュ大統領とイラク侵攻を非難した。一夜にして彼はアメリカで一番の嫌われ者になった。彼の新著("Here Comes Trouble")で、彼は爆弾の脅迫やボディーガードや、いかに反撃したかについて語っている。

マイケル・ムーア。写真:スコット・マクダーモット
「 いま僕はマイケル・ムーアの殺害を考えている、自分で殺害するか、それとも殺害する人間を雇う必要があるかどうかべきか思案中だ。・・・そう、僕にだってできるだろうとは思う。奴が僕の方をふり返るのを見計らって、首を絞めて殺すことぐらいできるだろう。そんなこと、間違っているって? 僕は、「What Would Jesus Do?(イエス・キリストならばどうするか?)」のリスト・バンドを着用するのは止めたし、善悪の感覚はすっかり失くしてしまったしね。かつてならば、「僕だってマイケル・ムーアを殺せるさ」と言うことはできたけど、それから「イエス・キリストならばどうするか?」のリスト・バンドを見て、「やっぱりマイケル・ムーアは殺せない、少なくとも窒息させるなんて無理だ」と思っただろうね。でも、今は、判らないよ」。
2005年5月17日、グレン・ベック・ショーにおけるグレン・ベックのライブ発言。
あんな奴はさっさと死んだほうが良いのにという願望はいたる所にあったようだ。2004年7月のある晴れた朝、CNNのビル・ヘマーの心にも、そんな願望は確かにあった。CNNでライブ中継された2004年の民主党全国大会の会場で、彼は、僕の目の前にマイクを差し出して、アメリカ国民がマイケル・ムーアについてどう感じていると思うかと僕に尋ねた。「マイケル・ムーアなんて死ねばいいのにと人々が言っているのを私は聞いたことがありますよ」。ヘマーは、さも当然というような口ぶりだった。「当然、アメリカ国民はあなたを殺したいと思ってますよ」という感じだった。そんな自明なことはすでに視聴者には判り切っていることだと彼は頭から思い込んでいた。まるで、太陽が東から上るとかコーンが穂軸になるのはみんな当然と思っているのと同じくらいの確信をもってそう思い込んでいたのだ。
ヘマーに公平を期すために言うが、僕だって自分の映画が多くの人々を憤慨させたことは知らないではなかった。ファンがあたり構わずやって来て僕を抱きしめて、「あなたがまだここにいてくれて(you're still here)嬉しいわ」と言ってくれることも珍しいことではなかった。「ここにいてくれて」とは、「この建物にいてくれて」という意味ではなかった。{訳者註――もちろん、「まだあなたが生きていて嬉しいわ」の意味}
なぜ僕はまだ生きていたのか? 1年以上にもわたって脅しや脅迫や嫌がらせを受けたり白昼堂々と攻撃されたこともあった。イラク侵攻の最初の年だったが、僕は要人警備の専門企業のトップ(暗殺防止のために連邦政府に雇われることもしばしばある人)に、「ブッシュ大統領以外で、君ほど危険な状態にいる人はアメリカには一人もいないね」と言われていたのだ。
どうしてこんなことが起こったのか? これは自業自得というものだったのか? もちろんそうだった。一切合財が始まった時のことは今でも覚えている。
それは2003年3月23日の夜のことだった。4日前、ジョージ・ブッシュはイラクに侵攻していた。それは不法で不道徳で愚かしい侵攻だった―――しかし、アメリカ人はそうとは考えていなかった。国民の70%以上が戦争を支持した。そんなとても人気のあった戦争の4日目の夜に、僕の『ボウリング・フォー・コロンバイン』がアカデミー賞を受賞するかどうかが決まるのだった。僕は授賞式に出向いたが、赤じゅうたんを歩いてハリウッドのコダック・シアターに向かうとき、候補者の誰もがそうだったけど、報道陣に話しかけることは許されなかった。誰かが何かとんでもないことを言い出しはしないかという心配があった――戦時下においては誰もが戦争の準備に協力し同じ考えでいる必要があるからだ。
女優のダイアン・レインがステージに登場し、長編ドキュメンタリー映画賞の候補作のリストを読み上げた。封筒が開けられると、彼女は、喜びを抑えようともせず、僕がオスカーを受賞したことを発表した。メイン会場を埋めつくしたアカデミー賞にノミネートされた俳優も監督も作家も、誰もが立ち上がり、僕にとても長く続くスタンディング・オベーションを送ってくれた。僕は他のドキュメンタリー映画の候補者たちに、もし僕が受賞しても、一緒にステージに来てくれないかと頼んでいたのだが、彼らはそうしてくれた。スタンディング・オベーションがついに終わり、僕は話し出した。「僕はドキュメンタリー映画の候補者たちに一緒にステージに来てくれと招待した。彼らが僕と一緒にここにいるのは、僕たちがノンフィクションを好きだからだ。僕たちはノンフィクションが好きだ、でも僕たちは虚構だらけの時代に生きている。僕たちは、虚構の大統領を選出した虚構の選挙結果がまかり通る時代に生きている。僕たちは、虚構だらけの理由で僕たちを戦場に送り込む男がいる時代に生きている。それがダクトテープの虚構であれテロ警戒レベルの虚構であれ、僕たちはこの戦争に反対する。ミスター・ブッシュよ、恥を知れ、ミスター・ブッシュよ、恥を知れ。ローマ法王とディクシー・チックスが反対したら、もうお前の出る幕じゃないんだ。ご清聴ありがとう」。
半分位しゃべったころから、大騒ぎになっていた。上階やバックステージからブーイングが、とても騒々しいブーイングが起こった。(座席から僕に声援を送り続けてくれる人も少しはいたけど――マーティン・スコセッシやメリル・ストリープがそうだったけど――、ブーイングにはぜんぜん敵わなかった)。ショーのプロデューサーが僕の声をかき消すためにオーケストラに命じて演奏を開始させた。マイクがフロアに降りてきた。大きな赤い文字の巨大なスクリーンが僕の目の前で「お時間終了!」と点滅を始めた。控えめに言っても、大混乱だった、そして僕はステージから追い払われた。
ちょっとは有名なことだが、オスカー受賞者はみんな、賞を受けとりステージから離れた直後に、カーテンの後ろで受賞者を迎えるためにアカデミーに雇われたイブニング姿の魅力的な二人の男女から、二つの単語をかけられることになっているのだ。コダック・シアターには混乱と混沌が渦巻いていたが、デザイナーの手になるガウンを着た若い女性が、身に迫る危険には気づかぬまま、そこに立っていて、次のような言葉を僕にかけてくれた。「シャンパンはいかがでしょう(Champagne?)」。そして彼女はシャンパンの入ったフルート・グラスを差し出した。
彼女の隣にいた素敵なタキシード姿の若い男性が、即座に次のような言葉をつづけた。「ブレスミントはいかがでしょう(Breathmint?)」。そして彼はブレスミントを差し出した。
シャンパンとブレスミントが、あらゆるオスカー受賞者が耳にする最初の二つの単語なのだ。しかし、ついていると言うか何と言うか、僕は三番目の言葉を聞かなければならなかった。カンカンになった舞台係が僕の脇にやって来て、僕の耳に向けて出来る限りの大声でこう叫んだ。「糞ったれ(ASSHOLE)!」。
他のいかつい、怒り狂った舞台係たちも僕の方にやって来た。僕は、森で罠にかかり周囲を包囲され、唯一の希望といえば近づいてくるオオカミめがけて狂ったように振り回すたいまつだけという孤立無援の人間のように、オスカー像を武器のように握りしめていた。僕がその時に感じたことは、僕が人々を深くすっかり幻滅させた人間でしかないということだけだった。
その夜、僕は眠ることができなかったので、起きてテレビをつけた。一時間、僕は地元のTV局がオスカーの模様を流すのを見ていたが、チャネルを換えても換えても、僕の耳に入って来るのは、次々と別の評論家が僕が正気かどうかを疑い、僕のスピーチを批判し、そして、要するに「いったい何のつもりだったのか判りませんね」というようなことを繰り返し言っていることだけだった。
「あんな真似をした以上、ハリウッドで気楽にやって行けないだろう」。「彼と組んで誰が映画を作ろうとすると思っているのか?」。「職業的な自殺とはこういうこと」。こんなやり取りを見ながら一時間して僕はTVを消しネットの書き込みを見たが、そこでは同じような感想がもっとたくさんあったし、もっとひどい感想もあった―――しかも、アメリカ全土から書き込まれていた。僕は気分が悪くなりだした。不吉なことが起こる前兆のように見えた――それは映画製作者としての僕の終わりを告げるものだった。僕はコンピュータを消し、部屋の明かりも消し、暗闇の中イスに座って、自分の行いを何度も反芻した。よくやったよ、マイク。一息つこうよ。
憎悪が殺到する
僕たちがミシガン州北部の自宅に戻ったとき、自宅の私道には地元の美化委員会によって投棄されたトラック三台分の馬糞が腰の高さまで積み上がっていたので、僕たちは家の敷地に入ることができないほどだった―――ちなみに、家の方は、庭の木に打ちつけられた1ダースほどの看板に飾り立てられていた。その看板には「出ていけ!」、「キューバに引っ越せ!」、「共産党のクズ野郎!」、「裏切り者!」、「さっさと出て行かないとただじゃ済まないぞ!」などとあった。
僕は出ていくつもりはまったくなかった。
オスカーのスピーチの後、嫌がらせメールは膨大な数に上ったが、それはまるで、ホールマーク社が新たな部門を開設して、グリーティングカードのライターに僕の死亡を祝福する頌歌を作成するという課題を割り当てたかのようだった(「とりわけ最低のクソッタレに…」、「謎の自動車事故に会っても早く回復されることを!」、「めでたい心臓麻痺に乾杯!」)。
実は、家にかかる電話の方がもっと気味が悪かった。人間の声に狂気が混ざり、「こいつは文字通り逮捕覚悟で電話越しにこれを言っているぞ」と思えるとき、電話は普段とは全く違ったゾッとするような代物になるものだ。そんな電話をかけてくる奴の度胸――狂気――には敬服するしかなかった。
しかし、最悪だったのは、わが家の敷地に人が入り込んできた時だった。そういう連中は、私道をただ歩いているだけだったが、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(Night of the Living Dead)』(邦題「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/ゾンビの誕生」)の配役から漏れた人みたいに、素早い動作をすることはないが、つねに単純な目的を胸に秘めてやって来るのだった。僕のことを本当に嫌っている者はほとんどいなかった。大半は単に頭がイカレているだけだった。保安官の代理人にはしょっちゅうお世話になったが、ついに代理人は、自分でセキュリティーに入るか、警護の人間をつけた方がいいよと提案してくれた。僕たちはその提案どおりにした。
僕たちは、全米でもトップクラスの警備会社の社長にアポをとって会った。そこは元警官などは雇わないし、「タフ・ガイ」や用心棒タイプの人間も一切雇わないエリート組織だった。海軍特殊部隊か他の特殊部隊にいたことのある人間だけが重宝された。頭は切れたし、デンタル・フロス一本あれば数ナノ秒で人を殺すことができる面々だった。その年の終わりごろには、僕に対する脅迫や襲撃が心配なほど増えたので、僕は、24時間ぶっとうしで、9人の元海軍特殊部隊員に僕の身辺にいてもらった。
」(つづく)
あの有名なオスカー授賞式のときのスピーチに端を発して、身の危険に絶えずさらされながら、しかし結局くじけることなく「テロとの戦い」を続けようと意を決するまでの経緯が語られている。全文は一続きだが長すぎるので、二回に分けて紹介する。
ちなみに、注釈をちょっとだけつけておく。
グレン・ベック・・・保守派の論客で、ラジオやテレビでのトークショーで有名。
「What Would Jesus Do?(イエス・キリストならばどうするか?)」のリスト・バンド・・・そういう商品があるようだ。What Would Jesus Do?は企業名らしい。
http://whatwouldjesusdo.com/wwjdcart/product.php?productid=16206&cat=265&page=1
ダクトテープの虚構・・・ブッシュ政権が、化学兵器によるテロに備えて、自宅の窓をダクトテープで保護するよう呼びかけたことを踏まえている。
テロ警戒レベルの虚構・・・直訳すれば「オレンジ色の警報の虚構」。当時はテロの危険性を表わす「上から二番目の警報」が出ていたが、それがオレンジ色だったことを踏まえている。
ローマ法王とディクシー・チックス・・・ディクシー・チックスは人気の高いカントリーの女性グループ。どちらも、ブッシュのイラク侵攻を非難していた。
デンタル・フロス一本あれば数ナノ秒で人を殺すことができる( take you out with a piece of dental floss)・・・ はじめは意味が取れなかった。デンタル・フロスで救出する? ・・・ しかし“take out ”は、ここでは「殺す」という意味らしい。同じようなことをムーアが別の所でも言っているのだが、そちらと照らし合わせると間違いないようだ(http://jdeanicite.typepad.com/i_cite/2011/05/some-final-thoughts-on-the-death-of-osama-bin-laden-michaelmoorecom.html )。しかし、デンタル・フロスでどうやって人を殺せるのかは書かれていない。
Michael Moore: I was the most hated man in America
guardian.co.uk, Wednesday 7 September 2011 20.00 BST
http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/07/michael-moore-hated-man-america
「
マイケル・ムーア:僕はアメリカで一番の嫌われものだった(1)
2003年のオスカー受賞演説で、マイケル・ムーアはブッシュ大統領とイラク侵攻を非難した。一夜にして彼はアメリカで一番の嫌われ者になった。彼の新著("Here Comes Trouble")で、彼は爆弾の脅迫やボディーガードや、いかに反撃したかについて語っている。

マイケル・ムーア。写真:スコット・マクダーモット
「 いま僕はマイケル・ムーアの殺害を考えている、自分で殺害するか、それとも殺害する人間を雇う必要があるかどうかべきか思案中だ。・・・そう、僕にだってできるだろうとは思う。奴が僕の方をふり返るのを見計らって、首を絞めて殺すことぐらいできるだろう。そんなこと、間違っているって? 僕は、「What Would Jesus Do?(イエス・キリストならばどうするか?)」のリスト・バンドを着用するのは止めたし、善悪の感覚はすっかり失くしてしまったしね。かつてならば、「僕だってマイケル・ムーアを殺せるさ」と言うことはできたけど、それから「イエス・キリストならばどうするか?」のリスト・バンドを見て、「やっぱりマイケル・ムーアは殺せない、少なくとも窒息させるなんて無理だ」と思っただろうね。でも、今は、判らないよ」。
2005年5月17日、グレン・ベック・ショーにおけるグレン・ベックのライブ発言。
あんな奴はさっさと死んだほうが良いのにという願望はいたる所にあったようだ。2004年7月のある晴れた朝、CNNのビル・ヘマーの心にも、そんな願望は確かにあった。CNNでライブ中継された2004年の民主党全国大会の会場で、彼は、僕の目の前にマイクを差し出して、アメリカ国民がマイケル・ムーアについてどう感じていると思うかと僕に尋ねた。「マイケル・ムーアなんて死ねばいいのにと人々が言っているのを私は聞いたことがありますよ」。ヘマーは、さも当然というような口ぶりだった。「当然、アメリカ国民はあなたを殺したいと思ってますよ」という感じだった。そんな自明なことはすでに視聴者には判り切っていることだと彼は頭から思い込んでいた。まるで、太陽が東から上るとかコーンが穂軸になるのはみんな当然と思っているのと同じくらいの確信をもってそう思い込んでいたのだ。
ヘマーに公平を期すために言うが、僕だって自分の映画が多くの人々を憤慨させたことは知らないではなかった。ファンがあたり構わずやって来て僕を抱きしめて、「あなたがまだここにいてくれて(you're still here)嬉しいわ」と言ってくれることも珍しいことではなかった。「ここにいてくれて」とは、「この建物にいてくれて」という意味ではなかった。{訳者註――もちろん、「まだあなたが生きていて嬉しいわ」の意味}
なぜ僕はまだ生きていたのか? 1年以上にもわたって脅しや脅迫や嫌がらせを受けたり白昼堂々と攻撃されたこともあった。イラク侵攻の最初の年だったが、僕は要人警備の専門企業のトップ(暗殺防止のために連邦政府に雇われることもしばしばある人)に、「ブッシュ大統領以外で、君ほど危険な状態にいる人はアメリカには一人もいないね」と言われていたのだ。
どうしてこんなことが起こったのか? これは自業自得というものだったのか? もちろんそうだった。一切合財が始まった時のことは今でも覚えている。
それは2003年3月23日の夜のことだった。4日前、ジョージ・ブッシュはイラクに侵攻していた。それは不法で不道徳で愚かしい侵攻だった―――しかし、アメリカ人はそうとは考えていなかった。国民の70%以上が戦争を支持した。そんなとても人気のあった戦争の4日目の夜に、僕の『ボウリング・フォー・コロンバイン』がアカデミー賞を受賞するかどうかが決まるのだった。僕は授賞式に出向いたが、赤じゅうたんを歩いてハリウッドのコダック・シアターに向かうとき、候補者の誰もがそうだったけど、報道陣に話しかけることは許されなかった。誰かが何かとんでもないことを言い出しはしないかという心配があった――戦時下においては誰もが戦争の準備に協力し同じ考えでいる必要があるからだ。
女優のダイアン・レインがステージに登場し、長編ドキュメンタリー映画賞の候補作のリストを読み上げた。封筒が開けられると、彼女は、喜びを抑えようともせず、僕がオスカーを受賞したことを発表した。メイン会場を埋めつくしたアカデミー賞にノミネートされた俳優も監督も作家も、誰もが立ち上がり、僕にとても長く続くスタンディング・オベーションを送ってくれた。僕は他のドキュメンタリー映画の候補者たちに、もし僕が受賞しても、一緒にステージに来てくれないかと頼んでいたのだが、彼らはそうしてくれた。スタンディング・オベーションがついに終わり、僕は話し出した。「僕はドキュメンタリー映画の候補者たちに一緒にステージに来てくれと招待した。彼らが僕と一緒にここにいるのは、僕たちがノンフィクションを好きだからだ。僕たちはノンフィクションが好きだ、でも僕たちは虚構だらけの時代に生きている。僕たちは、虚構の大統領を選出した虚構の選挙結果がまかり通る時代に生きている。僕たちは、虚構だらけの理由で僕たちを戦場に送り込む男がいる時代に生きている。それがダクトテープの虚構であれテロ警戒レベルの虚構であれ、僕たちはこの戦争に反対する。ミスター・ブッシュよ、恥を知れ、ミスター・ブッシュよ、恥を知れ。ローマ法王とディクシー・チックスが反対したら、もうお前の出る幕じゃないんだ。ご清聴ありがとう」。
半分位しゃべったころから、大騒ぎになっていた。上階やバックステージからブーイングが、とても騒々しいブーイングが起こった。(座席から僕に声援を送り続けてくれる人も少しはいたけど――マーティン・スコセッシやメリル・ストリープがそうだったけど――、ブーイングにはぜんぜん敵わなかった)。ショーのプロデューサーが僕の声をかき消すためにオーケストラに命じて演奏を開始させた。マイクがフロアに降りてきた。大きな赤い文字の巨大なスクリーンが僕の目の前で「お時間終了!」と点滅を始めた。控えめに言っても、大混乱だった、そして僕はステージから追い払われた。
ちょっとは有名なことだが、オスカー受賞者はみんな、賞を受けとりステージから離れた直後に、カーテンの後ろで受賞者を迎えるためにアカデミーに雇われたイブニング姿の魅力的な二人の男女から、二つの単語をかけられることになっているのだ。コダック・シアターには混乱と混沌が渦巻いていたが、デザイナーの手になるガウンを着た若い女性が、身に迫る危険には気づかぬまま、そこに立っていて、次のような言葉を僕にかけてくれた。「シャンパンはいかがでしょう(Champagne?)」。そして彼女はシャンパンの入ったフルート・グラスを差し出した。
彼女の隣にいた素敵なタキシード姿の若い男性が、即座に次のような言葉をつづけた。「ブレスミントはいかがでしょう(Breathmint?)」。そして彼はブレスミントを差し出した。
シャンパンとブレスミントが、あらゆるオスカー受賞者が耳にする最初の二つの単語なのだ。しかし、ついていると言うか何と言うか、僕は三番目の言葉を聞かなければならなかった。カンカンになった舞台係が僕の脇にやって来て、僕の耳に向けて出来る限りの大声でこう叫んだ。「糞ったれ(ASSHOLE)!」。
他のいかつい、怒り狂った舞台係たちも僕の方にやって来た。僕は、森で罠にかかり周囲を包囲され、唯一の希望といえば近づいてくるオオカミめがけて狂ったように振り回すたいまつだけという孤立無援の人間のように、オスカー像を武器のように握りしめていた。僕がその時に感じたことは、僕が人々を深くすっかり幻滅させた人間でしかないということだけだった。
その夜、僕は眠ることができなかったので、起きてテレビをつけた。一時間、僕は地元のTV局がオスカーの模様を流すのを見ていたが、チャネルを換えても換えても、僕の耳に入って来るのは、次々と別の評論家が僕が正気かどうかを疑い、僕のスピーチを批判し、そして、要するに「いったい何のつもりだったのか判りませんね」というようなことを繰り返し言っていることだけだった。
「あんな真似をした以上、ハリウッドで気楽にやって行けないだろう」。「彼と組んで誰が映画を作ろうとすると思っているのか?」。「職業的な自殺とはこういうこと」。こんなやり取りを見ながら一時間して僕はTVを消しネットの書き込みを見たが、そこでは同じような感想がもっとたくさんあったし、もっとひどい感想もあった―――しかも、アメリカ全土から書き込まれていた。僕は気分が悪くなりだした。不吉なことが起こる前兆のように見えた――それは映画製作者としての僕の終わりを告げるものだった。僕はコンピュータを消し、部屋の明かりも消し、暗闇の中イスに座って、自分の行いを何度も反芻した。よくやったよ、マイク。一息つこうよ。
憎悪が殺到する
僕たちがミシガン州北部の自宅に戻ったとき、自宅の私道には地元の美化委員会によって投棄されたトラック三台分の馬糞が腰の高さまで積み上がっていたので、僕たちは家の敷地に入ることができないほどだった―――ちなみに、家の方は、庭の木に打ちつけられた1ダースほどの看板に飾り立てられていた。その看板には「出ていけ!」、「キューバに引っ越せ!」、「共産党のクズ野郎!」、「裏切り者!」、「さっさと出て行かないとただじゃ済まないぞ!」などとあった。
僕は出ていくつもりはまったくなかった。
オスカーのスピーチの後、嫌がらせメールは膨大な数に上ったが、それはまるで、ホールマーク社が新たな部門を開設して、グリーティングカードのライターに僕の死亡を祝福する頌歌を作成するという課題を割り当てたかのようだった(「とりわけ最低のクソッタレに…」、「謎の自動車事故に会っても早く回復されることを!」、「めでたい心臓麻痺に乾杯!」)。
実は、家にかかる電話の方がもっと気味が悪かった。人間の声に狂気が混ざり、「こいつは文字通り逮捕覚悟で電話越しにこれを言っているぞ」と思えるとき、電話は普段とは全く違ったゾッとするような代物になるものだ。そんな電話をかけてくる奴の度胸――狂気――には敬服するしかなかった。
しかし、最悪だったのは、わが家の敷地に人が入り込んできた時だった。そういう連中は、私道をただ歩いているだけだったが、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(Night of the Living Dead)』(邦題「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/ゾンビの誕生」)の配役から漏れた人みたいに、素早い動作をすることはないが、つねに単純な目的を胸に秘めてやって来るのだった。僕のことを本当に嫌っている者はほとんどいなかった。大半は単に頭がイカレているだけだった。保安官の代理人にはしょっちゅうお世話になったが、ついに代理人は、自分でセキュリティーに入るか、警護の人間をつけた方がいいよと提案してくれた。僕たちはその提案どおりにした。
僕たちは、全米でもトップクラスの警備会社の社長にアポをとって会った。そこは元警官などは雇わないし、「タフ・ガイ」や用心棒タイプの人間も一切雇わないエリート組織だった。海軍特殊部隊か他の特殊部隊にいたことのある人間だけが重宝された。頭は切れたし、デンタル・フロス一本あれば数ナノ秒で人を殺すことができる面々だった。その年の終わりごろには、僕に対する脅迫や襲撃が心配なほど増えたので、僕は、24時間ぶっとうしで、9人の元海軍特殊部隊員に僕の身辺にいてもらった。
」(つづく)
反米主義だったのか? 『ガーディアン』紙による9・11報道の総括 [海外のニュース記事]
イギリス『ガーディアン』紙は、9・11のテロ攻撃はアメリカの中東政策の反映だという論点を一貫して堅持した―――そのために、ありとあらゆる非難を十字砲火のように浴びたようだが、中でもその「反米主義」的な論調が標的となったようだ。しかしその「反米的な」論調を追い求め高く評価したのは、誰あろうアメリカ人たちだった。
あの集団ヒステリー状態の中でそうした論点を堅持するには勇気が必要だっただろう。しかし、10年経って、やはり歴史がわれわれの正しさを証明してくれたと胸を張って主張できるのはジャーナリスト冥利というものだろう―――ひるがえって、日本ではどうだったのだろうか? どこかで政治家やマスコミの反応をまとめたサイトがあれば良いのだが。
ちなみに、『ガーディアン』紙が浴びた批判には、次のような興味深い表現が使われていた。長い背景があって簡単には説明できないものもあるが、参考のために掲げておこう。
・useful idiots … 冷戦時代、ソ連のシンパを指すために使われたが、由来はよく判らないようだ。自国の価値観を共有しない愚か者だが、別の価値観をもつ集団には役立つ裏切り者、という意味だろうか。最近のネット右翼の若者でやたら「反日」・「売国」なんて言葉を振り回す人が結構いるが、いつの時代・どんな地域に限らず、政治の場面では敵か味方かという観点からしか見ることができない単細胞が常に多数いるということをこの言葉は示唆している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Useful_idiot
・fifth columnists … スペイン内乱にさかのぼる言葉らしい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fifth_column
・Prada-Meinhof gang … 1970年代の過激派の要素をファッションに取り込んだのが「テロリスト・シック(terror chic)」で、そのなかでもドイツ赤軍派のヒロインであるバーダー・マインホフの愛したレイバンのサングラスやドイツ赤軍派のTシャツなどを前面に出した過激なファッションをあるデザイナーが「プラダ・マインホフ」と呼んだことが始まりのようだ。いまでは、政治的な大義をファッションの一要素のように扱う人々のことを指すときに使われる。
http://www.guardian.co.uk/world/2002/oct/06/germany.kateconnolly
9/11: A 'babble of idiots'? History has been the judge of that
Seumas Milne
guardian.co.uk, Monday 5 September 2011 22.00 BST
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/sep/05/babble-idiots-history-guardian-comment
「
9・11: 「馬鹿どものたわ言」だったのか? 歴史がその審判者となった
9・11当時の『ガーディアン』の投書欄の編集者が、対テロ戦争の現実を予見した人々に対する野蛮な反応をふり返る
スーマス・ミルン
2011年9月5日月曜日PM22.00

9・11後、リチャード・リトルジョンは『ガーディアン』を「ファシスト左翼新聞の反米プロパガンダ」と非難した。
2番目の飛行機が世界貿易センターに突入した頃には、9・11の攻撃をどう定義するかをめぐる戦いが大西洋の両側ですでに始まっていた。アメリカでは、ブッシュ大統領が対テロ戦争への運命的な呼びかけを行なうなか、メディアはアメリカ国旗のもとに集結した。イギリスでは、トニー・ブレアとそのチアリーダーたちが熱狂的にアメリカの後を追った。彼らは、あの残虐行為が何の理由もなく起きたのであり、イギリスは傷ついた超大国アメリカが向かう所にはどこでもついて行かなければならないという馬鹿げた主張をしたが、その主張は、当然ながら、少しばかりの抵抗に直面した。
だが、抵抗は多くはなかった。ニューヨークやワシントンで起こったことは、アメリカや西側諸国がイスラム世界に介入したことが原因なのだと論じたり、戦争熱を疑問視したりする者に対する政府やメディアの反応は野蛮なものだった。
それにもかかわらず、なぜあのテロ攻撃が起こったのか、アメリカや西側諸国はどのように反応すべきなのかについての幅広い論争の中で、そうした声が紛れもなく聞き取れることを、『ガーディアン』は、2001年の9月11日以降ずっと確認してきた(そういう作業を行ってきたのはイギリスのマスコミではほとんど『ガーディアン』だけだった)。
それに対する反発は狂気に近いものだった。10年後の今からふり返れば奇妙に見えるが、『ガーディアン』が記者たちにあのテロ攻撃をアメリカの世界政策に結びつけることを許容したことは、「反米主義」であり裏切り行為だと扱われたのである。
現在、保守党政権の閣僚をしているマイケル・ゴヴは、『タイムズ』紙に、『ガーディアン』は政治をファッションショーとする「売国奴たち(fifth columnists)」の集団(Prada-Meinhof gang)になってしまったと書いた。小説家のロバート・ハリスはあの頃はブレア首相の親友だったが、彼は、世界が今ヒトラーに対する戦いを再開しているのだということを理解できない「馬鹿どものたわ言」を記事にしているといって我々を非難した。
『テレグラフ』紙は『ガーディアン』を対象にした「役立つ愚者(useful idiots)」の定期的なコラムを載せる一方で、アンドリュー・ニールは本紙が『日刊テロリスト(Daily Terrorist)』と改名すべきだと述べたし、『サン』紙のリチャード・リトルジョンは、我々を「ファシスト左翼新聞の反米プロパガンダ」連中と非難した。
『ガーディアン』は、細かな事実をつなぎ合せてアメリカの覇権的な政策を結論づける記事や、アフガニスタンでの米英の攻撃に反対する記事だけを載せていたわけではない。それどころではないのだ。9・11からの数日間で我々が寄稿してもらった中には、クリントン政権の国務次官補のジェームズ・ルービン、元NATO軍司令官ウェズリー・クラーク、ウィリアム・ショークロス(『今われわれは皆アメリカ人だ(We are all Americans now)』の著者)、報復を呼びかける『ワシントン・ポスト』紙のコラムニストのジム・ホーグランドなどがいた。軍事的報復を支持する面々からも選んだのだ。
『ガーディアン』を批判する者にとって気に入らなかったのは、本紙が、報復に反対していた人々、対テロ戦争をしても何百万という人々に恐怖と流血をもたらすだけで、失敗に終わるだろうと考えた人々にもスペースを与えたことだった。投書欄には、メディアの大部分が黙殺したありとあらゆる見解が載っていた。言い換えれば、本紙は、ほとんどのメディアの管理者たちが、原則的には賛成していると言い張るが、実現することに苦心している多元主義を尊重したのだ。そして我々は、普段から西側のメディアから締め出されているアラブ人やイスラム教徒、アフガニスタン人やイラク人に記事の依頼をした。
たとえば、9・11の翌日に『ガーディアン』は、当時労働党の議員だったジョージ・ギャロウェイに「アメリカのグローバル戦略の旋風に巻き込まれて後悔する羽目になる」かもしれないことを論じてもらった。その後、アラブの作家ラナ・カバーニは、世界に対する政策を変えるだけでアメリカに安全がもたらされるはずなのにと警告した(そう言っただけで彼女は、米国のジャーナリストのグレッグ・パラストによって「テロをそそのかす売女」とグロテスクな非難を受けた)。次の日、ジョナサン・スティールは、(当時の一般的な見解に反して)アメリカとその同盟国はアフガニスタンを制圧できないだろうと予言した。
8月にアフガニスタンにおけるアメリカ人の死者数が新たな記録に達した今となっては、その主張に誰が反論するだろうか? あるいは、グアンタナモ海軍基地やアブグレイブ刑務所や「特別移送(extraordinary rendition)」についてわれわれが知っている今となっては、公民権を奪い取る危険について警告していた人々に、誰が反論するだろうか? または、対テロ戦争はテロリズムを勢いづけたり広めたりするだろう、イラクへの侵攻は血みどろの災いとなるだろうと、9 ・11後の緊迫した数週間で『ガーディアン』に寄稿した人々の多くが主張したのだが、今そのことに誰が反論するだろうか?
私は当時『ガーディアン』の投書欄のエディターだったが、9・11の直後の私のコラムは、とくにあのテロ攻撃はアメリカのアラブ・イスラム世界における介入政策や、占領・独裁に対するアメリカの支援と何の関係もないと主張する人々の間では、敵意がことさら向けられる標的となった。そうでない人々も、アメリカ人が恐るべき損害を受けたときにそんなことを話題にするのは時期尚早だと感じていた。
しかし、アメリカ政府が破局に向う道筋のお膳立てをしていたあの早い時期にこそ、これは「自由」と私たちの「生き方」への攻撃なのだ―――だからアメリカ(とイギリス)が中東やその他の地域に押しつけてきたものとは何の関係もないのだ―――というブッシュやブレアのまやかしの解釈を反駁することがもっとも緊急を要する課題だったのだ。そして、アメリカの読者からも含め、私が返答として受け取った5000通のメールのほとんどがその主張に同意してくれたのだった。
3ヵ月後にカブールが陥落し、ブレア政権は、アフガニスタン侵攻に反対した人々(私自身や他の『ガーディアン』の記者たちを含む)、対テロ戦争について「間違っていることが判明した」人々を非難する勝ち誇った声明を出した。ルパート・マードックの『サン』紙は、我々を正当にも「戦争を避けようとするイタチ連中(war weasels)」と非難したのだった。
こうした「イタチ連中」の中には『ガーディアン』のマドレーヌ・バンティングもいた。彼女は、アフガニスタンが第二のベトナム、「長引くゲリラ戦」の巣窟になるかもしれないという見通しを提起した――――折しも、元自由民主党の党首パディー・アシュダウンが、(ブレア政権と同様に)、アフガニスタンの戦闘が長期にわたって長引くゲリラ戦になるだろうという考えは「空想的」だと言い張っていたのである。10年たった今、我々は、「間違っていることが判明した」のがどっちだったのかを知っている。
9・11後の『ガーディアン』の幅広い投書欄に寄せられた反応の中で最も心強かったのは、他ならぬアメリカからのものだった。アメリカでは、何が起こったのか、そしてなぜ起こったのかについての議論は、テロ攻撃後の主要メディアでは、封印されたも同然だったからだ。メディアが公式には何も物が言えなくなってしまったために生じた副産物の一つは、『ガーディアン』のウェブサイトのアメリカでの閲覧数が劇的に増えたことだった。何百万人ものアメリカ人が、本国では得られない国際情勢の見通しや幅広い見解を探し求めていたのである。
『ガーディアン』のウェブサイトのトラフィックは、アメリカからの刺激もあって、9・11後の数ヶ月で倍増した。『ガーディアン』紙の記事は、ブルックリンからサンフランシスコにまでいたる書店のウィンドウにテープで貼り出されていた。当時ガーディアン紙の編集者で現在コロンビア大学ジャーナリズム大学院(Columbia's Graduate School of Journalism)のディジタル・ディレクターであるエミリー・ベルが言ったように、9・11後の論争のおかげで、『ガーディアン』はアメリカで最も急成長する二つのニュース・サイトの一つに変貌をとげた―――アメリカの読者層がイギリスよりもいく分大きくなる切っ掛けとなった―――ので、あの論争は本紙のあり方を「全面的に転換する」契機になったのだ。
以上のことが示しているのは、2001年に我々を「反米主義」と非難した人々が、自分たちが擁護していると言い張る社会をどれほどひどく間違って判断していたか、ということなのである。
」(おわり)
あの集団ヒステリー状態の中でそうした論点を堅持するには勇気が必要だっただろう。しかし、10年経って、やはり歴史がわれわれの正しさを証明してくれたと胸を張って主張できるのはジャーナリスト冥利というものだろう―――ひるがえって、日本ではどうだったのだろうか? どこかで政治家やマスコミの反応をまとめたサイトがあれば良いのだが。
ちなみに、『ガーディアン』紙が浴びた批判には、次のような興味深い表現が使われていた。長い背景があって簡単には説明できないものもあるが、参考のために掲げておこう。
・useful idiots … 冷戦時代、ソ連のシンパを指すために使われたが、由来はよく判らないようだ。自国の価値観を共有しない愚か者だが、別の価値観をもつ集団には役立つ裏切り者、という意味だろうか。最近のネット右翼の若者でやたら「反日」・「売国」なんて言葉を振り回す人が結構いるが、いつの時代・どんな地域に限らず、政治の場面では敵か味方かという観点からしか見ることができない単細胞が常に多数いるということをこの言葉は示唆している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Useful_idiot
・fifth columnists … スペイン内乱にさかのぼる言葉らしい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fifth_column
・Prada-Meinhof gang … 1970年代の過激派の要素をファッションに取り込んだのが「テロリスト・シック(terror chic)」で、そのなかでもドイツ赤軍派のヒロインであるバーダー・マインホフの愛したレイバンのサングラスやドイツ赤軍派のTシャツなどを前面に出した過激なファッションをあるデザイナーが「プラダ・マインホフ」と呼んだことが始まりのようだ。いまでは、政治的な大義をファッションの一要素のように扱う人々のことを指すときに使われる。
http://www.guardian.co.uk/world/2002/oct/06/germany.kateconnolly
9/11: A 'babble of idiots'? History has been the judge of that
Seumas Milne
guardian.co.uk, Monday 5 September 2011 22.00 BST
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/sep/05/babble-idiots-history-guardian-comment
「
9・11: 「馬鹿どものたわ言」だったのか? 歴史がその審判者となった
9・11当時の『ガーディアン』の投書欄の編集者が、対テロ戦争の現実を予見した人々に対する野蛮な反応をふり返る
スーマス・ミルン
2011年9月5日月曜日PM22.00

9・11後、リチャード・リトルジョンは『ガーディアン』を「ファシスト左翼新聞の反米プロパガンダ」と非難した。
2番目の飛行機が世界貿易センターに突入した頃には、9・11の攻撃をどう定義するかをめぐる戦いが大西洋の両側ですでに始まっていた。アメリカでは、ブッシュ大統領が対テロ戦争への運命的な呼びかけを行なうなか、メディアはアメリカ国旗のもとに集結した。イギリスでは、トニー・ブレアとそのチアリーダーたちが熱狂的にアメリカの後を追った。彼らは、あの残虐行為が何の理由もなく起きたのであり、イギリスは傷ついた超大国アメリカが向かう所にはどこでもついて行かなければならないという馬鹿げた主張をしたが、その主張は、当然ながら、少しばかりの抵抗に直面した。
だが、抵抗は多くはなかった。ニューヨークやワシントンで起こったことは、アメリカや西側諸国がイスラム世界に介入したことが原因なのだと論じたり、戦争熱を疑問視したりする者に対する政府やメディアの反応は野蛮なものだった。
それにもかかわらず、なぜあのテロ攻撃が起こったのか、アメリカや西側諸国はどのように反応すべきなのかについての幅広い論争の中で、そうした声が紛れもなく聞き取れることを、『ガーディアン』は、2001年の9月11日以降ずっと確認してきた(そういう作業を行ってきたのはイギリスのマスコミではほとんど『ガーディアン』だけだった)。
それに対する反発は狂気に近いものだった。10年後の今からふり返れば奇妙に見えるが、『ガーディアン』が記者たちにあのテロ攻撃をアメリカの世界政策に結びつけることを許容したことは、「反米主義」であり裏切り行為だと扱われたのである。
現在、保守党政権の閣僚をしているマイケル・ゴヴは、『タイムズ』紙に、『ガーディアン』は政治をファッションショーとする「売国奴たち(fifth columnists)」の集団(Prada-Meinhof gang)になってしまったと書いた。小説家のロバート・ハリスはあの頃はブレア首相の親友だったが、彼は、世界が今ヒトラーに対する戦いを再開しているのだということを理解できない「馬鹿どものたわ言」を記事にしているといって我々を非難した。
『テレグラフ』紙は『ガーディアン』を対象にした「役立つ愚者(useful idiots)」の定期的なコラムを載せる一方で、アンドリュー・ニールは本紙が『日刊テロリスト(Daily Terrorist)』と改名すべきだと述べたし、『サン』紙のリチャード・リトルジョンは、我々を「ファシスト左翼新聞の反米プロパガンダ」連中と非難した。
『ガーディアン』は、細かな事実をつなぎ合せてアメリカの覇権的な政策を結論づける記事や、アフガニスタンでの米英の攻撃に反対する記事だけを載せていたわけではない。それどころではないのだ。9・11からの数日間で我々が寄稿してもらった中には、クリントン政権の国務次官補のジェームズ・ルービン、元NATO軍司令官ウェズリー・クラーク、ウィリアム・ショークロス(『今われわれは皆アメリカ人だ(We are all Americans now)』の著者)、報復を呼びかける『ワシントン・ポスト』紙のコラムニストのジム・ホーグランドなどがいた。軍事的報復を支持する面々からも選んだのだ。
『ガーディアン』を批判する者にとって気に入らなかったのは、本紙が、報復に反対していた人々、対テロ戦争をしても何百万という人々に恐怖と流血をもたらすだけで、失敗に終わるだろうと考えた人々にもスペースを与えたことだった。投書欄には、メディアの大部分が黙殺したありとあらゆる見解が載っていた。言い換えれば、本紙は、ほとんどのメディアの管理者たちが、原則的には賛成していると言い張るが、実現することに苦心している多元主義を尊重したのだ。そして我々は、普段から西側のメディアから締め出されているアラブ人やイスラム教徒、アフガニスタン人やイラク人に記事の依頼をした。
たとえば、9・11の翌日に『ガーディアン』は、当時労働党の議員だったジョージ・ギャロウェイに「アメリカのグローバル戦略の旋風に巻き込まれて後悔する羽目になる」かもしれないことを論じてもらった。その後、アラブの作家ラナ・カバーニは、世界に対する政策を変えるだけでアメリカに安全がもたらされるはずなのにと警告した(そう言っただけで彼女は、米国のジャーナリストのグレッグ・パラストによって「テロをそそのかす売女」とグロテスクな非難を受けた)。次の日、ジョナサン・スティールは、(当時の一般的な見解に反して)アメリカとその同盟国はアフガニスタンを制圧できないだろうと予言した。
8月にアフガニスタンにおけるアメリカ人の死者数が新たな記録に達した今となっては、その主張に誰が反論するだろうか? あるいは、グアンタナモ海軍基地やアブグレイブ刑務所や「特別移送(extraordinary rendition)」についてわれわれが知っている今となっては、公民権を奪い取る危険について警告していた人々に、誰が反論するだろうか? または、対テロ戦争はテロリズムを勢いづけたり広めたりするだろう、イラクへの侵攻は血みどろの災いとなるだろうと、9 ・11後の緊迫した数週間で『ガーディアン』に寄稿した人々の多くが主張したのだが、今そのことに誰が反論するだろうか?
私は当時『ガーディアン』の投書欄のエディターだったが、9・11の直後の私のコラムは、とくにあのテロ攻撃はアメリカのアラブ・イスラム世界における介入政策や、占領・独裁に対するアメリカの支援と何の関係もないと主張する人々の間では、敵意がことさら向けられる標的となった。そうでない人々も、アメリカ人が恐るべき損害を受けたときにそんなことを話題にするのは時期尚早だと感じていた。
しかし、アメリカ政府が破局に向う道筋のお膳立てをしていたあの早い時期にこそ、これは「自由」と私たちの「生き方」への攻撃なのだ―――だからアメリカ(とイギリス)が中東やその他の地域に押しつけてきたものとは何の関係もないのだ―――というブッシュやブレアのまやかしの解釈を反駁することがもっとも緊急を要する課題だったのだ。そして、アメリカの読者からも含め、私が返答として受け取った5000通のメールのほとんどがその主張に同意してくれたのだった。
3ヵ月後にカブールが陥落し、ブレア政権は、アフガニスタン侵攻に反対した人々(私自身や他の『ガーディアン』の記者たちを含む)、対テロ戦争について「間違っていることが判明した」人々を非難する勝ち誇った声明を出した。ルパート・マードックの『サン』紙は、我々を正当にも「戦争を避けようとするイタチ連中(war weasels)」と非難したのだった。
こうした「イタチ連中」の中には『ガーディアン』のマドレーヌ・バンティングもいた。彼女は、アフガニスタンが第二のベトナム、「長引くゲリラ戦」の巣窟になるかもしれないという見通しを提起した――――折しも、元自由民主党の党首パディー・アシュダウンが、(ブレア政権と同様に)、アフガニスタンの戦闘が長期にわたって長引くゲリラ戦になるだろうという考えは「空想的」だと言い張っていたのである。10年たった今、我々は、「間違っていることが判明した」のがどっちだったのかを知っている。
9・11後の『ガーディアン』の幅広い投書欄に寄せられた反応の中で最も心強かったのは、他ならぬアメリカからのものだった。アメリカでは、何が起こったのか、そしてなぜ起こったのかについての議論は、テロ攻撃後の主要メディアでは、封印されたも同然だったからだ。メディアが公式には何も物が言えなくなってしまったために生じた副産物の一つは、『ガーディアン』のウェブサイトのアメリカでの閲覧数が劇的に増えたことだった。何百万人ものアメリカ人が、本国では得られない国際情勢の見通しや幅広い見解を探し求めていたのである。
『ガーディアン』のウェブサイトのトラフィックは、アメリカからの刺激もあって、9・11後の数ヶ月で倍増した。『ガーディアン』紙の記事は、ブルックリンからサンフランシスコにまでいたる書店のウィンドウにテープで貼り出されていた。当時ガーディアン紙の編集者で現在コロンビア大学ジャーナリズム大学院(Columbia's Graduate School of Journalism)のディジタル・ディレクターであるエミリー・ベルが言ったように、9・11後の論争のおかげで、『ガーディアン』はアメリカで最も急成長する二つのニュース・サイトの一つに変貌をとげた―――アメリカの読者層がイギリスよりもいく分大きくなる切っ掛けとなった―――ので、あの論争は本紙のあり方を「全面的に転換する」契機になったのだ。
以上のことが示しているのは、2001年に我々を「反米主義」と非難した人々が、自分たちが擁護していると言い張る社会をどれほどひどく間違って判断していたか、ということなのである。
」(おわり)
現在のドイツの電力事情(2) [海外のニュース記事]
原発抜きでも電力は足りる―――机上の計算がそうであっても、北部から電力を南部に融通するのは、現状では上手くいかない。しかし、産業の中心は南部にあるので、南部では電力の逼迫は目に見えている、それに温暖化に対する効果的な対策はあるのか、原発廃止で、原発立地地域で大量に失われる職場にどう埋め合わせるのか、その地域をどう活性化させていくのか等々、難問がめじろ押しの状態であることを、この後半は伝えている。
大きな停電が一度でも起これば、ドイツでも原発廃止の政策を見直す気運が高まるかもしれない。この記事の最後に引用されている発言には、停電に対する期待が込められているかのように読み取ってしまうのは私だけだろうか?
Germany Dims Nuclear Plants, but Hopes to Keep Lights On
By ELISABETH ROSENTHAL
Published: August 29, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/30/science/earth/30germany.html?pagewanted=2&_r=1&partner=rssnyt&emc=rss
「
原子力発電所を停止したが、しかし電気はつけておきたいと願うドイツ(2)

ドイツの電力の将来を握っているのは送電網の建設かもしれない
(原発廃止によって)電気料金は一世帯当たり年間35から40ユーロ(50ドルから60ドル)だけ上がると予想されるが、その上昇分は5%にも満たないと政府は試算する。原子力エネルギーは概して新しい電力よりも安くすむが、再生可能エネルギーは、たとえそれがもっと高くなるとしても、真っ先に購入されなければならない、とドイツの法律は以前から定めていたのである。
しかし、懐疑的な人々は政府の想定を楽観的すぎると見なしている。フィリップスブルク市長のステファン・マルトゥスは、エネルギーのコストが政府の試算よりはるかに高くなるだろうと思っている、と述べる。環境を汚す発電所の見返りに支払うクレジットの価格は、株式の価値のように、非常に予測不可能で変わりやすいからだ。しかも、国際エネルギー機関(IEA)は、ドイツ―――それ以外のどんな国でも―――が、 原子力なしで、しかも妥当なコストで、温室効果ガスの排出量を削減できるとは思っていないのだ。
IEAの職員は、ドイツ経済の成長にともなって電力需要が伸びるとしても、ドイツの電力使用量が今後10年間でさらに10%減少するだろうという予測にも疑問を投げかける。平均的なドイツの家庭はすでにアメリカの平均的な家庭の約半分の電力しか使っていないからである。
「そうです、原子力発電に対してドイツ人は不安をもっていますよ」。ビブリス市のヒルデガルト・コーネリウス-ガウス市長はそう言った。「しかし、質問を言い換えて、「もし電気料金が大幅に上がって停電も起こりうるとしても、原子力エネルギーの段階的廃止をあなたは望みますか?」と質問してみれば、答えはずいぶん違ったものになるかもしれませんね」。
愛憎入りまじる歴史
福島の事故が起きる前でも、原子力がなくなる日が後どれくらいでやって来るかとドイツでは指折り数えられていた。ビブリスは、国中から人々が集まった巨大な反核デモの行われた場所だったし、ドイツはすでに2023年までに原子力をゆっくりと段階的に廃止する計画を制定しつつあった。ドイツは、風力発電では世界のトップになっていたし、自家発電を備えた「パッシブ住宅」を何万軒も作るなどして、家電製品や住宅からより多くのエネルギー効率を引き出すことに卓越した技術を築いていた。
それでも、アンゲラ・メルケル首相(彼女自身物理学者なのだが)は、技術革新だけでは国のエネルギー需要を満たせないかもしれないという懸念から、ドイツの原子力発電所の稼働を延長するという決断を、昨年秋に下した。
福島がすべてを変えてしまったのだ。
日本が科学技術の先進国であるからこそ、あの原発事故は、旧ソ連の原子炉で起きたチェルノブイリの事故よりも、ドイツ国民にとっては深刻なものと映った。それにもかかわらず、原子力産業の専門家や、ビブリスや近くのフィリップスブルクのような原発都市の住民たちは、ドイツ政府が政策を180度転換させた唐突さに唖然とした。
どちらの町も、何百という職場や数百万ユーロの税収を失うことになるからである。
ドイツの電力会社によれば、各社に国のエネルギー政策の草案が手渡されたのだが、その草案は、字面上はよく見えるが技術的にはとても困難なものであるそうだ。ドイツの電力生産量はたっぷりあるとはいえ、それが必要な場所と時間でつねに使用可能となるわけではないと電力各社は言う。ドイツ北部には洋上風力発電と石炭鉱床があるが、ドイツ南部――メルセデスやBMWやアウディの本社がある製造業の中心地―――には、原子力以外にその地域固有の豊富な燃料源が何もないのだ。ドイツの現在の電力網はいちじるしく分散化していて、長距離にわたって電力を移動させる高電圧送電線をもっていないのである。
「今や、原発が停止してしまったので、私たちはとても困難な課題を抱えることになりました」と語るのは、ドイツに四つある送電会社のうち最大のアンプリオン(Amprion)社の送電事業の主任をつとめるヨアヒム・ヴァンツェッタ。
アンプリオン社はすでに原発のない再生可能エネルギーの未来に向けた作業に着手してして、北から南に電力を運ぶ500マイルにもおよぶ新たな送電線の計画を立てている。その送電線の建設には43億ドルと10年から15年の歳月がかかるだろうと見込まれている。現在のところ完成したのはせいぜい40マイルにすぎない。
ドイツはまた、バイオマス発電所や太陽光発電システムに資金を投入してきた―――何百万ものパネルが現在ドイツの家庭の屋根や野原に並んでいる。近年の技術改良にもかかわらず、太陽光発電はまだ風力や天然ガスや原子力よりもずっと費用がかかる。しかも発電量は季節でバラつきが出やすい。
天然ガスと石炭発電所が一時的にでも原子力発電の一部にとって代わってくれればというドイツ人の願いも、実現は難しいかもしれない―――電力各社は、「クリーン」エネルギーを真っ先に買い上げようというドイツ政府の方針がある以上、天然ガスや石炭発電所の建設には積極的になれないでいるのだ。「結局、年に数百時間しか稼働しないかもしれない形の発電所を建設したいと思う電力会社はほとんどないでしょうからね」とRWEのグロスマン氏は述べた。
この冬、アンプリオン社は、需要として見込まれる81000メガワットを供給するために、その送電系統上に84000メガワットの電力を用意できるだろうと予測している―――これでは、電力の余裕がわずかしかないので安心できませんね、とヴァンツェッタ氏は言った。これまでの数年間は、価格が適正であれば、電力はヨーロッパの各地にのびる電力網の上で容易に売買できた。しかし、輸出されたドイツの電力は、冬のフランスを明るく照らしつづけるのに役立つだけだった。
「現時点では、わが国の電力システムはストレスに苦しんでいますが、それでもコントロールできています」とヴァンツェッタ氏は言った。「それでも、風も太陽光もない日が続いてよその国から電力を購入できなければ、停電することになるかもしれなせんね」。
」(おわり)
大きな停電が一度でも起これば、ドイツでも原発廃止の政策を見直す気運が高まるかもしれない。この記事の最後に引用されている発言には、停電に対する期待が込められているかのように読み取ってしまうのは私だけだろうか?
Germany Dims Nuclear Plants, but Hopes to Keep Lights On
By ELISABETH ROSENTHAL
Published: August 29, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/30/science/earth/30germany.html?pagewanted=2&_r=1&partner=rssnyt&emc=rss
「
原子力発電所を停止したが、しかし電気はつけておきたいと願うドイツ(2)
ドイツの電力の将来を握っているのは送電網の建設かもしれない
(原発廃止によって)電気料金は一世帯当たり年間35から40ユーロ(50ドルから60ドル)だけ上がると予想されるが、その上昇分は5%にも満たないと政府は試算する。原子力エネルギーは概して新しい電力よりも安くすむが、再生可能エネルギーは、たとえそれがもっと高くなるとしても、真っ先に購入されなければならない、とドイツの法律は以前から定めていたのである。
しかし、懐疑的な人々は政府の想定を楽観的すぎると見なしている。フィリップスブルク市長のステファン・マルトゥスは、エネルギーのコストが政府の試算よりはるかに高くなるだろうと思っている、と述べる。環境を汚す発電所の見返りに支払うクレジットの価格は、株式の価値のように、非常に予測不可能で変わりやすいからだ。しかも、国際エネルギー機関(IEA)は、ドイツ―――それ以外のどんな国でも―――が、 原子力なしで、しかも妥当なコストで、温室効果ガスの排出量を削減できるとは思っていないのだ。
IEAの職員は、ドイツ経済の成長にともなって電力需要が伸びるとしても、ドイツの電力使用量が今後10年間でさらに10%減少するだろうという予測にも疑問を投げかける。平均的なドイツの家庭はすでにアメリカの平均的な家庭の約半分の電力しか使っていないからである。
「そうです、原子力発電に対してドイツ人は不安をもっていますよ」。ビブリス市のヒルデガルト・コーネリウス-ガウス市長はそう言った。「しかし、質問を言い換えて、「もし電気料金が大幅に上がって停電も起こりうるとしても、原子力エネルギーの段階的廃止をあなたは望みますか?」と質問してみれば、答えはずいぶん違ったものになるかもしれませんね」。
愛憎入りまじる歴史
福島の事故が起きる前でも、原子力がなくなる日が後どれくらいでやって来るかとドイツでは指折り数えられていた。ビブリスは、国中から人々が集まった巨大な反核デモの行われた場所だったし、ドイツはすでに2023年までに原子力をゆっくりと段階的に廃止する計画を制定しつつあった。ドイツは、風力発電では世界のトップになっていたし、自家発電を備えた「パッシブ住宅」を何万軒も作るなどして、家電製品や住宅からより多くのエネルギー効率を引き出すことに卓越した技術を築いていた。
それでも、アンゲラ・メルケル首相(彼女自身物理学者なのだが)は、技術革新だけでは国のエネルギー需要を満たせないかもしれないという懸念から、ドイツの原子力発電所の稼働を延長するという決断を、昨年秋に下した。
福島がすべてを変えてしまったのだ。
日本が科学技術の先進国であるからこそ、あの原発事故は、旧ソ連の原子炉で起きたチェルノブイリの事故よりも、ドイツ国民にとっては深刻なものと映った。それにもかかわらず、原子力産業の専門家や、ビブリスや近くのフィリップスブルクのような原発都市の住民たちは、ドイツ政府が政策を180度転換させた唐突さに唖然とした。
どちらの町も、何百という職場や数百万ユーロの税収を失うことになるからである。
ドイツの電力会社によれば、各社に国のエネルギー政策の草案が手渡されたのだが、その草案は、字面上はよく見えるが技術的にはとても困難なものであるそうだ。ドイツの電力生産量はたっぷりあるとはいえ、それが必要な場所と時間でつねに使用可能となるわけではないと電力各社は言う。ドイツ北部には洋上風力発電と石炭鉱床があるが、ドイツ南部――メルセデスやBMWやアウディの本社がある製造業の中心地―――には、原子力以外にその地域固有の豊富な燃料源が何もないのだ。ドイツの現在の電力網はいちじるしく分散化していて、長距離にわたって電力を移動させる高電圧送電線をもっていないのである。
「今や、原発が停止してしまったので、私たちはとても困難な課題を抱えることになりました」と語るのは、ドイツに四つある送電会社のうち最大のアンプリオン(Amprion)社の送電事業の主任をつとめるヨアヒム・ヴァンツェッタ。
アンプリオン社はすでに原発のない再生可能エネルギーの未来に向けた作業に着手してして、北から南に電力を運ぶ500マイルにもおよぶ新たな送電線の計画を立てている。その送電線の建設には43億ドルと10年から15年の歳月がかかるだろうと見込まれている。現在のところ完成したのはせいぜい40マイルにすぎない。
ドイツはまた、バイオマス発電所や太陽光発電システムに資金を投入してきた―――何百万ものパネルが現在ドイツの家庭の屋根や野原に並んでいる。近年の技術改良にもかかわらず、太陽光発電はまだ風力や天然ガスや原子力よりもずっと費用がかかる。しかも発電量は季節でバラつきが出やすい。
天然ガスと石炭発電所が一時的にでも原子力発電の一部にとって代わってくれればというドイツ人の願いも、実現は難しいかもしれない―――電力各社は、「クリーン」エネルギーを真っ先に買い上げようというドイツ政府の方針がある以上、天然ガスや石炭発電所の建設には積極的になれないでいるのだ。「結局、年に数百時間しか稼働しないかもしれない形の発電所を建設したいと思う電力会社はほとんどないでしょうからね」とRWEのグロスマン氏は述べた。
この冬、アンプリオン社は、需要として見込まれる81000メガワットを供給するために、その送電系統上に84000メガワットの電力を用意できるだろうと予測している―――これでは、電力の余裕がわずかしかないので安心できませんね、とヴァンツェッタ氏は言った。これまでの数年間は、価格が適正であれば、電力はヨーロッパの各地にのびる電力網の上で容易に売買できた。しかし、輸出されたドイツの電力は、冬のフランスを明るく照らしつづけるのに役立つだけだった。
「現時点では、わが国の電力システムはストレスに苦しんでいますが、それでもコントロールできています」とヴァンツェッタ氏は言った。「それでも、風も太陽光もない日が続いてよその国から電力を購入できなければ、停電することになるかもしれなせんね」。
」(おわり)
現在のドイツの電力事情(1) [海外のニュース記事]
「感情的な」決定によって、原発の廃止を突然決定したドイツ。そのドイツの電力の現状をアメリカ人がわりと突き放した第三者的な目で見た『ニューヨーク・タイムズ』の記事を紹介する。
原文は2部に分かれているので、2回に分けて紹介する。前半は、数字上は電力に余裕があるではないかというドイツ政府の楽観的な見通しを軸に話が進んでいく。
Germany Dims Nuclear Plants, but Hopes to Keep Lights On
By ELISABETH ROSENTHAL
Published: August 29, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/30/science/earth/30germany.html?partner=rssnyt&emc=rss
「
原子力発電所を停止したが、しかし電気はつけておきたいと願うドイツ

原発の冷却塔を背に、市役所の屋上の太陽電池パネルを見てまわるフィリップスブルク市長のシュテファン・マルトゥス。
エリザベス・ローゼンタール
公開:2011年8月29日
ドイツ ビブリス―――第二次世界大戦後の厳しい時代からドイツには大きな停電はなかったが、ほとんど一夜にして国内の原子炉の半分を停止してからというもの、ドイツは大停電の可能性に身構えている。
原発は、長い間、ドイツの電力のほぼ4分の1を生み出してきた。しかし、地球の半分くらい離れた福島で放射能漏れをもたらした津波と地震が起きてから数日のうちに、ドイツ政府はドイツに17基ある原子炉のうちもっとも古い8基―――そこにはこのくすんだ工業都市ビブリスにある2基も含まれる―――の原子炉の稼働を停止した。3ヶ月後、原子力エネルギーなしで国中に電力を供給する新たな計画をたずさえ、再生可能エネルギーに対する期待感を高めながら、ドイツ議会は、投票の結果、原発を永遠に停止することにした。残った9基の原子炉も2022年までに廃炉にする計画がある。
その結果、電力各社は十分な供給量を確保しようと必死になっている。顧客や企業は、照明や組み立てラインがこの冬大丈夫かどうか気をもんでいる。物価がどれほど上昇するかについて経済学者や政治家が言い争っている。
「「再生可能エネルギーに転換しよう」と言うのは簡単ですよ、それに私もいつかは原子力なしでやって行けるだろうと確信していますが、これはあまりに唐突すぎますよ」。ドイツの有名なカールスルーエ工科大学の主任研究員のヨアヒム・クネーベルはそう言った。彼は政府の原発廃止の決定を「感情的」と特徴づけ、ドイツがこの実験を切り抜けるとしても、それは、電力の多くを原発でまかなっているお隣のフランスやチェコ共和国から電力を輸入することによってです、と指摘した。
かりにドイツがこの実験を切り抜けたとしても、この計画が地球温暖化を抑制しようとする努力を無にしてしまう恐れがある。原子力エネルギーの欠点がどのようなものであれ、それは温室効果ガスの排出量が低い。世界第4位の経済大国であるドイツが、環境をよごす石炭発電所や供給量があやふやなロシアの天然ガスに頼ることになれば、それは、原発災害を避けるという潜在的なリスクを逃れるために、温暖化を促進するという本当のリスクを冒すことになるのではないだろうか?
ニューヨークからローマにいたるまでの政治家たちが原子炉を廃炉にしたり中止にする計画を提案しているなか、世界中がドイツの極端なエネルギー政策の転換を見つめているのだ。
国際エネルギー機関(IEA)は、ドイツの環境問題の取り組みに熱心だったエネルギー政策に対しては概して好意的だったのだが、ドイツの政策転換には批判的だった。IEAの天然ガス・石炭・電力市場部門の部門長であるラズロ・ヴァッロは、ドイツ政府の計画を「ドイツは金持ちで高度な技術をもっているので不可能ではないにしても、とても、とても無謀」だと評した。
たとえドイツが必要な電力の生産に成功しても、「原発の一時停止という政策は、温暖化政策という観点から見るととても悪い知らせです」とヴァッロ氏は言った。「私たちは、温暖化との戦いにほどなく負けるかもしれないのですよ、原子力発電を失うことはその戦いを不必要なまでに困難にするのです」。
ドイツ政府は、家庭や工場のエネルギー効率の改善や、新しいクリーンな電力源や送電線に巨額の投資を行う用意があると応酬している。これまでのところ、停電は一度もおこっていない。
しかし、フランクフルトの南約40マイルにある、ここビブリスに停止している原子炉を2基所有している、ドイツの電力会社大手のRWEのCEOであるユルゲン・グロースマンは、懐疑的な見方を示した。「ドイツは、とても性急な決定で、私たち自身を実験台にしようと決めたのです」と彼は言った。「技術的な議論をしないように政治が口封じをしているんですよ」。
原発をめぐる計算
原発廃止の計画を作ったドイツ人は、ドイツが再生可能エネルギーの分野で著しい進歩を遂げるだろうということを主たる理由にして、原子力エネルギーなしでやって行けるだろうと思ったのだった。再生可能エネルギーは、現在、ドイツの発電量の17%を占めるのだが、この数字は10年間で2倍になるだろうとドイツ政府は見積っている。ヨーロッパのエネルギー事情をモニタリングしている団体によれば、海上の風力タービンが全速力で回る日に、ドイツは消費している以上の電力を再生可能エネルギー源から産み出しているのだという。
ドイツは「再生可能電力に関するみんなの期待の上を行ってますよ」とヴァッロ氏は述べ、再生可能電力が費用効果的でかつ信頼性のあるものになりうることを示してくれた。
ドイツは、原子炉を閉鎖するまで、ヨーロッパ有数のエネルギー輸出国だった。
今年が始まる時点で、既存の発電所から合計で133ギガワットの発電量が見込めたので、「原子力発電所を停止してもよいだけの膨大な電力の余裕が実際あったのです」と、ドイツ連邦環境庁の長官で、エネルギーと環境に関してはトップともいえる政策立案者の一人であるハリー・レーマンは、彼が立案にたずさわったロード・マップについてそう述べた。ドイツは、約80ギガワットの平均的な国内需要を満たすために、約90.5ギガワットの発電量を必要としている。だから、原子力の寄与分である25ギガワットがなくても痛くはないのだ―――少なくとも国内だけを考えるならば、そうである。
用心のために、ドイツ政府の計画は、2020年までに天然ガスと石炭火力発電によって23ギガワットを新たに作り出すことを求めている。それはなぜか? それは、大気が穏やかであったり曇っている場合、再生可能エネルギーによる発電が最大電力を供給できないからだし、電力を蓄積したり輸送する能力には、現在の技術では限界があるからだ、とエネルギーの専門家は言う。
新しい石炭や天然ガスによる発電所は、現在のところもっともクリーンな技術を使用しているから、気候変動を悪化させることはないはずだ、と政府高官は言う。なぜなら、ドイツの発電所はヨーロッパの炭素取引システムに組み込まれることになるだろうし、そのシステムでは、許容される排出量の上限を超える発電所は、環境にやさしい活動をしている企業からカーボン・クレジットを買い取らなければならず、それによって環境のバランスは保たれるからなのである。
」(つづく)
原文は2部に分かれているので、2回に分けて紹介する。前半は、数字上は電力に余裕があるではないかというドイツ政府の楽観的な見通しを軸に話が進んでいく。
Germany Dims Nuclear Plants, but Hopes to Keep Lights On
By ELISABETH ROSENTHAL
Published: August 29, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/30/science/earth/30germany.html?partner=rssnyt&emc=rss
「
原子力発電所を停止したが、しかし電気はつけておきたいと願うドイツ

原発の冷却塔を背に、市役所の屋上の太陽電池パネルを見てまわるフィリップスブルク市長のシュテファン・マルトゥス。
エリザベス・ローゼンタール
公開:2011年8月29日
ドイツ ビブリス―――第二次世界大戦後の厳しい時代からドイツには大きな停電はなかったが、ほとんど一夜にして国内の原子炉の半分を停止してからというもの、ドイツは大停電の可能性に身構えている。
原発は、長い間、ドイツの電力のほぼ4分の1を生み出してきた。しかし、地球の半分くらい離れた福島で放射能漏れをもたらした津波と地震が起きてから数日のうちに、ドイツ政府はドイツに17基ある原子炉のうちもっとも古い8基―――そこにはこのくすんだ工業都市ビブリスにある2基も含まれる―――の原子炉の稼働を停止した。3ヶ月後、原子力エネルギーなしで国中に電力を供給する新たな計画をたずさえ、再生可能エネルギーに対する期待感を高めながら、ドイツ議会は、投票の結果、原発を永遠に停止することにした。残った9基の原子炉も2022年までに廃炉にする計画がある。
その結果、電力各社は十分な供給量を確保しようと必死になっている。顧客や企業は、照明や組み立てラインがこの冬大丈夫かどうか気をもんでいる。物価がどれほど上昇するかについて経済学者や政治家が言い争っている。
「「再生可能エネルギーに転換しよう」と言うのは簡単ですよ、それに私もいつかは原子力なしでやって行けるだろうと確信していますが、これはあまりに唐突すぎますよ」。ドイツの有名なカールスルーエ工科大学の主任研究員のヨアヒム・クネーベルはそう言った。彼は政府の原発廃止の決定を「感情的」と特徴づけ、ドイツがこの実験を切り抜けるとしても、それは、電力の多くを原発でまかなっているお隣のフランスやチェコ共和国から電力を輸入することによってです、と指摘した。
かりにドイツがこの実験を切り抜けたとしても、この計画が地球温暖化を抑制しようとする努力を無にしてしまう恐れがある。原子力エネルギーの欠点がどのようなものであれ、それは温室効果ガスの排出量が低い。世界第4位の経済大国であるドイツが、環境をよごす石炭発電所や供給量があやふやなロシアの天然ガスに頼ることになれば、それは、原発災害を避けるという潜在的なリスクを逃れるために、温暖化を促進するという本当のリスクを冒すことになるのではないだろうか?
ニューヨークからローマにいたるまでの政治家たちが原子炉を廃炉にしたり中止にする計画を提案しているなか、世界中がドイツの極端なエネルギー政策の転換を見つめているのだ。
国際エネルギー機関(IEA)は、ドイツの環境問題の取り組みに熱心だったエネルギー政策に対しては概して好意的だったのだが、ドイツの政策転換には批判的だった。IEAの天然ガス・石炭・電力市場部門の部門長であるラズロ・ヴァッロは、ドイツ政府の計画を「ドイツは金持ちで高度な技術をもっているので不可能ではないにしても、とても、とても無謀」だと評した。
たとえドイツが必要な電力の生産に成功しても、「原発の一時停止という政策は、温暖化政策という観点から見るととても悪い知らせです」とヴァッロ氏は言った。「私たちは、温暖化との戦いにほどなく負けるかもしれないのですよ、原子力発電を失うことはその戦いを不必要なまでに困難にするのです」。
ドイツ政府は、家庭や工場のエネルギー効率の改善や、新しいクリーンな電力源や送電線に巨額の投資を行う用意があると応酬している。これまでのところ、停電は一度もおこっていない。
しかし、フランクフルトの南約40マイルにある、ここビブリスに停止している原子炉を2基所有している、ドイツの電力会社大手のRWEのCEOであるユルゲン・グロースマンは、懐疑的な見方を示した。「ドイツは、とても性急な決定で、私たち自身を実験台にしようと決めたのです」と彼は言った。「技術的な議論をしないように政治が口封じをしているんですよ」。
原発をめぐる計算
原発廃止の計画を作ったドイツ人は、ドイツが再生可能エネルギーの分野で著しい進歩を遂げるだろうということを主たる理由にして、原子力エネルギーなしでやって行けるだろうと思ったのだった。再生可能エネルギーは、現在、ドイツの発電量の17%を占めるのだが、この数字は10年間で2倍になるだろうとドイツ政府は見積っている。ヨーロッパのエネルギー事情をモニタリングしている団体によれば、海上の風力タービンが全速力で回る日に、ドイツは消費している以上の電力を再生可能エネルギー源から産み出しているのだという。
ドイツは「再生可能電力に関するみんなの期待の上を行ってますよ」とヴァッロ氏は述べ、再生可能電力が費用効果的でかつ信頼性のあるものになりうることを示してくれた。
ドイツは、原子炉を閉鎖するまで、ヨーロッパ有数のエネルギー輸出国だった。
今年が始まる時点で、既存の発電所から合計で133ギガワットの発電量が見込めたので、「原子力発電所を停止してもよいだけの膨大な電力の余裕が実際あったのです」と、ドイツ連邦環境庁の長官で、エネルギーと環境に関してはトップともいえる政策立案者の一人であるハリー・レーマンは、彼が立案にたずさわったロード・マップについてそう述べた。ドイツは、約80ギガワットの平均的な国内需要を満たすために、約90.5ギガワットの発電量を必要としている。だから、原子力の寄与分である25ギガワットがなくても痛くはないのだ―――少なくとも国内だけを考えるならば、そうである。
用心のために、ドイツ政府の計画は、2020年までに天然ガスと石炭火力発電によって23ギガワットを新たに作り出すことを求めている。それはなぜか? それは、大気が穏やかであったり曇っている場合、再生可能エネルギーによる発電が最大電力を供給できないからだし、電力を蓄積したり輸送する能力には、現在の技術では限界があるからだ、とエネルギーの専門家は言う。
新しい石炭や天然ガスによる発電所は、現在のところもっともクリーンな技術を使用しているから、気候変動を悪化させることはないはずだ、と政府高官は言う。なぜなら、ドイツの発電所はヨーロッパの炭素取引システムに組み込まれることになるだろうし、そのシステムでは、許容される排出量の上限を超える発電所は、環境にやさしい活動をしている企業からカーボン・クレジットを買い取らなければならず、それによって環境のバランスは保たれるからなのである。
」(つづく)






