銀座で中華といえばここだ [雑感]
8月の末、暑い夏を無事にのり切ったことを祝すという趣旨で、家族で「赤坂璃宮 銀座店」に出向いた。小学生の子供連れでもO.K.で、なおかつ子供の嗜好に合う店というと選択の幅が限られてしまうのは毎度のことで仕様がないが、中華ならば大体どこも大丈夫なのは助かる。気難しいわが子もフカヒレには目がないほどの大好物なので、フカヒレが美味そうな店に行くことには決して嫌とは言わないのだ。
注文したのは「料理長特選」のコース。いただいた「菜譜」をそのまま書き写してみよう。(この他に、蒸し鶏や小龍包を頼む。それとワインを2本空けた)。
・璃宮特製焼き物前菜盛り合わせ
・ふかひれの姿煮
・蝦夷鮑とたたみ湯葉の煮込み
・和牛の煎り焼き黒胡椒ソース
・ペキンダック
・岩カキのガーリック蒸し
・蓮の葉包み中国ちまき
・本日のお菓子
・本日のデザート

前菜の盛り合わせは前菜好きの妻に、ふかひれは子供にお皿を譲ったりして、私は序盤のうちはセーブ気味に過ごした。ふかひれを食した息子が始めは少し怪訝な顔をして、「あまり美味くない」と言うのには少し驚かされた。スープを飲ませてもらったが、少し薄い上品な味に仕上げているのが判った。わが子にとってのふかひれの姿煮は、ねっとりとした濃厚なスープという固定観念があるらしく、それを期待していた彼にとっては、すこし澄まし過ぎている味に映ったようだ。「う~ん、これを美味くないと思うのはまだまだ修業が足りないな」と言ってやると、へらず口を謹んで一心にスープを味わっていた。彼は二皿をわずかの時間で平らげてしまったのだが、今度、ふかひれを彼が食べるときどんな感想をひねり出すのかが楽しみだ。


しかし、このふかひれを除けば、後に出てきた料理は総じて濃厚な味付けだった。濃厚というか、濃密というか、とにかく味の密度というものを感じさせるのだ。何か異常なほど味が凝縮している食べ物が次々と出てくるので、内心、少なからず圧倒され続けたような気持ちになった。肉厚な鮑をねっとり包みこむ少し隠微なソース、ぷっくりした岩カキの出汁とガーリックが渾然一体になったスープ、米とは思えないほど鈍い飴色に光り輝いていたちまき、とくにこの三品は長く記憶の底にこびりついて離れないだろうと思われるほどの余韻を残した。



ほかに特筆すべきは、ワインが充実していること。デザートを6つの選択肢から選ぶことができることか。
お金に少しうるさい妻が珍しく「ここは値段だけのことはあるわ」と言っていたのが印象的だった。それと「銀座で中華を食べるならここだわ(だけど蒸し鶏だけは「筑紫楼」が良いけどね)」とも。とりあえず、その判断を尊重してタイトルをつけさせてもらった。ヘイフン・テラスは子供向きではないし、福臨門はイマイチ物足りない。我が家では、銀座で中華を食べるときは「赤坂璃宮 銀座店」一択だな。
注文したのは「料理長特選」のコース。いただいた「菜譜」をそのまま書き写してみよう。(この他に、蒸し鶏や小龍包を頼む。それとワインを2本空けた)。
・璃宮特製焼き物前菜盛り合わせ
・ふかひれの姿煮
・蝦夷鮑とたたみ湯葉の煮込み
・和牛の煎り焼き黒胡椒ソース
・ペキンダック
・岩カキのガーリック蒸し
・蓮の葉包み中国ちまき
・本日のお菓子
・本日のデザート

前菜の盛り合わせは前菜好きの妻に、ふかひれは子供にお皿を譲ったりして、私は序盤のうちはセーブ気味に過ごした。ふかひれを食した息子が始めは少し怪訝な顔をして、「あまり美味くない」と言うのには少し驚かされた。スープを飲ませてもらったが、少し薄い上品な味に仕上げているのが判った。わが子にとってのふかひれの姿煮は、ねっとりとした濃厚なスープという固定観念があるらしく、それを期待していた彼にとっては、すこし澄まし過ぎている味に映ったようだ。「う~ん、これを美味くないと思うのはまだまだ修業が足りないな」と言ってやると、へらず口を謹んで一心にスープを味わっていた。彼は二皿をわずかの時間で平らげてしまったのだが、今度、ふかひれを彼が食べるときどんな感想をひねり出すのかが楽しみだ。


しかし、このふかひれを除けば、後に出てきた料理は総じて濃厚な味付けだった。濃厚というか、濃密というか、とにかく味の密度というものを感じさせるのだ。何か異常なほど味が凝縮している食べ物が次々と出てくるので、内心、少なからず圧倒され続けたような気持ちになった。肉厚な鮑をねっとり包みこむ少し隠微なソース、ぷっくりした岩カキの出汁とガーリックが渾然一体になったスープ、米とは思えないほど鈍い飴色に光り輝いていたちまき、とくにこの三品は長く記憶の底にこびりついて離れないだろうと思われるほどの余韻を残した。



ほかに特筆すべきは、ワインが充実していること。デザートを6つの選択肢から選ぶことができることか。
お金に少しうるさい妻が珍しく「ここは値段だけのことはあるわ」と言っていたのが印象的だった。それと「銀座で中華を食べるならここだわ(だけど蒸し鶏だけは「筑紫楼」が良いけどね)」とも。とりあえず、その判断を尊重してタイトルをつけさせてもらった。ヘイフン・テラスは子供向きではないし、福臨門はイマイチ物足りない。我が家では、銀座で中華を食べるときは「赤坂璃宮 銀座店」一択だな。
コンラッド東京の壁画の不可思議 [雑感]
たまには見慣れた場所を離れて非日常の時空へ。という訳で、コンラッド東京で一日をすごしてきた。
部屋からは浜離宮や東京湾を一望できる。散策する人や行きかう船を見ているだけで飽きることがなかったが、それほどのんびりできたわけでもなく、チェックイン後ほどなく子供とプールに行って、夜は銀座で食事。ゆっくりできたのは翌日のチェックアウト前のわずかな時間だけであったが・・・

コンラッド東京には、部屋からの眺め以外は特筆すべき印象をもたなかったが、朝食のときにちょっと目を惹いたものがあったので、それについて記しておこうと思う。

朝食は28階の「ゴードン・ラムゼイ」でとった。ここの食事もホテルそのものと同じ印象しかもたなかった。同じコンセプトが貫かれているとも言えようが、私の注意はおのずと別の方向に逸れていった。高い天井が開放感を与え、白い壁の線描画が独特の存在感を放っているなか、線描画の下にフランス語らしい文字が見てとれた。しかし、その意味が判るような判らないような…。もどかしい気持ちを抱きながら朝食を終えた。家に帰ったら調べてやろうと思いながら。

問題のフランス語は次の通りである。
“ L’instinct.--- Quand la maison brûle, on oublie même de dîner. --- Oui, mais on se rattrape en faisant la dînette sur les cendres, après. ”
家に帰って調べてみると、わりと簡単に典拠が判った。何とニーチェの『善悪の彼岸』の一節のフランス語訳らしいのだ。しかし、意味は? これがけっこう難しい。順を追って説明してみよう。
まず、問題となるドイツ語の原文を示そう。『善悪の彼岸』第四章「箴言と間奏」八三である。
“Der Instinkt. ―― Wenn das Haus brennt, vergisst man sogar das Mittagsessen. ―― Ja: aber man holt es auf der Asche nach.”
『善悪の彼岸』はいくつもの翻訳があるが、私が参照できた二つの訳を紹介してみよう。
竹山道雄の訳では:
「本能。――家が燃えるときは人は昼食をすら忘れる。されど、灰の上に座って食べなおす。」
木場深定の訳では:
「本能。――家が燃えるとき、昼食をさえ忘れる。――そうだ、しかし灰の上で遅れ馳せに食べ直す。」
まあ、どちらの訳もあまり変わらない(ちなみに、上に掲げた仏訳もほぼ同じような訳である)。この文章で難しいのは“nachholen”という動詞の取り方かもしれない。それは、辞書的には「取り戻す、埋め合わせる」という意味で、すなおに訳せば「灰の上で昼食の埋め合わせをする」となるのだが、それでは日本語としてはイマイチなので、上に挙げた二氏は「食べなおす」と「こなれた」訳し方をしたのだろうと推測できる。
だが、そもそも、いずれの訳も、このアフォリズムを「灰の上で食べ直すほど、人間の食に対する本能はすさまじいのだ」というような意味に取っているように見えるのだが、そんなツマラナイことをわざわざニーチェが書き記すだろうか? という疑問を私は抑えることができない。
ちなみに、あの線描の作品を創作した人も、そういう意味に取っているのだろうか? 「みなさん、あのニーチェも言っているように、人間の食欲は果てしがないのです、どんどん食べましょう」という思いを込めて、あの言葉を壁に書き込んだのだろうか? 作者の真意はよく判らないのだが、そのような気もする。
だが、もしそうならばニーチェが気の毒というものだ。そもそも、食の本能を称揚する一文が『善悪の彼岸』にあるはずがない。
ニーチェの言葉を私なりにたどってみよう。家が燃えたら、誰だって食事どころではなくなる。さて、家が丸焼けになって、後には灰だけが残る。人はその上で昼食を「食べ直す」。だが食事も灰になってしまったはずだから、いったい何を「食べ直す」というのか? また買ってきて灰の上で食べるということか? いやいや、そんな余計なことは何も書かれていない。とにかく灰しか残ってないのだ。灰を食べるほど人間の食欲は凄まじいとニーチェは言いたいのか? まさかね。
やはり問題は“nachholen”という動詞にある。それはどう考えても「取り戻す、埋め合わせる」という意味しかない。だが、考えるべきは「灰の上で昼食の埋め合わせをする」ということが何を意味しているかである。それは「食べなおす」と訳してもいいのだが、肝心な点は「食べる」ことにあるのではないのだ。
食べるべきものが何も残されていないのに、どうして「食べ直す」ことができるのか? たしかにそうだが、人間には、そういうことができる不可思議な能力が備わっている。それは「想像力」と言ってもいいが、ただしそれは、ニーチェの思想を考え合わせるならば、「虚構」や「幻想」を生みだす能力という意味においてである。人間は、灰の上であの失われた昼食を想像の中でたどり直して、あたかも食べたかのような幻想に浸ろうとすることができる。あーあ、火事さえなけりゃ、あの料理を食べられたのになぁ。美味かっただろうなぁ、あれはあんな味だったろうし、これは・・・・。食に対する欲求は「本能」に根ざしていると言えるかもしれないが、虚構を生みだす能力もそれと同じくらい人間の深部に根を張っている。「箴言と間奏」八三のアフォリズムの強調点はそこに置かれているはずだ。あえて言葉を補って訳出すると次のようになる。
「本能。――家が火事になったら、昼食なんて忘れて逃げ出すだろ、それが本能というものさ。――たしかにそうだが、けどね、灰の上であの昼食のことを未練たらしく思い返そうとすることだって本能の一種だよ」。
お判りのとおり、ここに込められている思想は食事とは何の関係もない。また、その思想を表わす言葉もレストランの内壁に掲げるのに相応しいものとは思えない。「本能」というものが人間においていかに曖昧なものになっているかをニーチェは示唆しているだけなのだ。
コンラッド東京の28階にあるレストラン「ゴードン・ラムゼイ」は、ニーチェのこの言葉を壁に掲げることで、食事をする人間に何を訴えようとしているのか、二重・三重に不可解で意味不明と言うしかない。このレストランもホテルも中味がカラッポ、というのが私の結論。
部屋からは浜離宮や東京湾を一望できる。散策する人や行きかう船を見ているだけで飽きることがなかったが、それほどのんびりできたわけでもなく、チェックイン後ほどなく子供とプールに行って、夜は銀座で食事。ゆっくりできたのは翌日のチェックアウト前のわずかな時間だけであったが・・・

コンラッド東京には、部屋からの眺め以外は特筆すべき印象をもたなかったが、朝食のときにちょっと目を惹いたものがあったので、それについて記しておこうと思う。

朝食は28階の「ゴードン・ラムゼイ」でとった。ここの食事もホテルそのものと同じ印象しかもたなかった。同じコンセプトが貫かれているとも言えようが、私の注意はおのずと別の方向に逸れていった。高い天井が開放感を与え、白い壁の線描画が独特の存在感を放っているなか、線描画の下にフランス語らしい文字が見てとれた。しかし、その意味が判るような判らないような…。もどかしい気持ちを抱きながら朝食を終えた。家に帰ったら調べてやろうと思いながら。

問題のフランス語は次の通りである。
“ L’instinct.--- Quand la maison brûle, on oublie même de dîner. --- Oui, mais on se rattrape en faisant la dînette sur les cendres, après. ”
家に帰って調べてみると、わりと簡単に典拠が判った。何とニーチェの『善悪の彼岸』の一節のフランス語訳らしいのだ。しかし、意味は? これがけっこう難しい。順を追って説明してみよう。
まず、問題となるドイツ語の原文を示そう。『善悪の彼岸』第四章「箴言と間奏」八三である。
“Der Instinkt. ―― Wenn das Haus brennt, vergisst man sogar das Mittagsessen. ―― Ja: aber man holt es auf der Asche nach.”
『善悪の彼岸』はいくつもの翻訳があるが、私が参照できた二つの訳を紹介してみよう。
竹山道雄の訳では:
「本能。――家が燃えるときは人は昼食をすら忘れる。されど、灰の上に座って食べなおす。」
木場深定の訳では:
「本能。――家が燃えるとき、昼食をさえ忘れる。――そうだ、しかし灰の上で遅れ馳せに食べ直す。」
まあ、どちらの訳もあまり変わらない(ちなみに、上に掲げた仏訳もほぼ同じような訳である)。この文章で難しいのは“nachholen”という動詞の取り方かもしれない。それは、辞書的には「取り戻す、埋め合わせる」という意味で、すなおに訳せば「灰の上で昼食の埋め合わせをする」となるのだが、それでは日本語としてはイマイチなので、上に挙げた二氏は「食べなおす」と「こなれた」訳し方をしたのだろうと推測できる。
だが、そもそも、いずれの訳も、このアフォリズムを「灰の上で食べ直すほど、人間の食に対する本能はすさまじいのだ」というような意味に取っているように見えるのだが、そんなツマラナイことをわざわざニーチェが書き記すだろうか? という疑問を私は抑えることができない。
ちなみに、あの線描の作品を創作した人も、そういう意味に取っているのだろうか? 「みなさん、あのニーチェも言っているように、人間の食欲は果てしがないのです、どんどん食べましょう」という思いを込めて、あの言葉を壁に書き込んだのだろうか? 作者の真意はよく判らないのだが、そのような気もする。
だが、もしそうならばニーチェが気の毒というものだ。そもそも、食の本能を称揚する一文が『善悪の彼岸』にあるはずがない。
ニーチェの言葉を私なりにたどってみよう。家が燃えたら、誰だって食事どころではなくなる。さて、家が丸焼けになって、後には灰だけが残る。人はその上で昼食を「食べ直す」。だが食事も灰になってしまったはずだから、いったい何を「食べ直す」というのか? また買ってきて灰の上で食べるということか? いやいや、そんな余計なことは何も書かれていない。とにかく灰しか残ってないのだ。灰を食べるほど人間の食欲は凄まじいとニーチェは言いたいのか? まさかね。
やはり問題は“nachholen”という動詞にある。それはどう考えても「取り戻す、埋め合わせる」という意味しかない。だが、考えるべきは「灰の上で昼食の埋め合わせをする」ということが何を意味しているかである。それは「食べなおす」と訳してもいいのだが、肝心な点は「食べる」ことにあるのではないのだ。
食べるべきものが何も残されていないのに、どうして「食べ直す」ことができるのか? たしかにそうだが、人間には、そういうことができる不可思議な能力が備わっている。それは「想像力」と言ってもいいが、ただしそれは、ニーチェの思想を考え合わせるならば、「虚構」や「幻想」を生みだす能力という意味においてである。人間は、灰の上であの失われた昼食を想像の中でたどり直して、あたかも食べたかのような幻想に浸ろうとすることができる。あーあ、火事さえなけりゃ、あの料理を食べられたのになぁ。美味かっただろうなぁ、あれはあんな味だったろうし、これは・・・・。食に対する欲求は「本能」に根ざしていると言えるかもしれないが、虚構を生みだす能力もそれと同じくらい人間の深部に根を張っている。「箴言と間奏」八三のアフォリズムの強調点はそこに置かれているはずだ。あえて言葉を補って訳出すると次のようになる。
「本能。――家が火事になったら、昼食なんて忘れて逃げ出すだろ、それが本能というものさ。――たしかにそうだが、けどね、灰の上であの昼食のことを未練たらしく思い返そうとすることだって本能の一種だよ」。
お判りのとおり、ここに込められている思想は食事とは何の関係もない。また、その思想を表わす言葉もレストランの内壁に掲げるのに相応しいものとは思えない。「本能」というものが人間においていかに曖昧なものになっているかをニーチェは示唆しているだけなのだ。
コンラッド東京の28階にあるレストラン「ゴードン・ラムゼイ」は、ニーチェのこの言葉を壁に掲げることで、食事をする人間に何を訴えようとしているのか、二重・三重に不可解で意味不明と言うしかない。このレストランもホテルも中味がカラッポ、というのが私の結論。
男性が沈黙する理由 [海外のニュース記事]
何か問題を抱えているとき、女性はその問題を打ち明けようとして多弁になるのに対して、男性は、むしろ、寡黙になる。どうしてこういう違いが生ずるのか?
まあ、どうでも良いようにも見える疑問だが、こういうちょっとしたことがもっと大きな問題の解決の手がかりになることもあるので、端から馬鹿にするものでもないのかもしれない。
しかし、この記事でも指摘されていることだが、あまり精度の高くないアンケートを主体にした手法で、こういう問題が解けると考えるのは単純すぎる。少なくとも、そのことだけははっきり示されたようだ。
ドイツ『シュピーゲル』誌の記事より。
Warum Frauen besser uber Kummer reden konnen
24.08.2011
Nina Weber
http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,782081,00.html
「 なぜ女性のほうが悩みについてより上手く語ることができるのか?

男性は黙りこむ:困っていることを打ち明けることがどうして男性には難しいのか、心理学者がその理由を明らかにしようとしている
「ねえ、困っていることがあるの」。そう言って、女性はきちんと話そうとする――が、男性はできれば何も言わずにその場から離れてしまいたいと思う。なぜ女性の方が男性よりも、容易に自分の感情を他人に打ち明けられるのだろうか? アメリカの心理学者がその理由を発見したというのだ。しかし、それは本当に論理的なのだろうか?
女性は絶対にどんな些細なことまでも語ろうとするのに対して、男性は沈黙しようとする。それはよくあるパターンにすぎないとしても、その核心には真実が潜んでいるかもしれないのだ。男性は女性よりも自分の感情を顕わにすることが少ないし、問題が生じた場合でも、それを打ち明けることにためらいを覚えてしまう。しかしそれはどうしてなのか?
米国の心理学者のチームが、その理由を、約2000人の子供や青年を対象にした研究において突き止めたと主張している。彼ら自身の言い分によれば、彼らは古い偏見を一掃したというのだ。「長年にわたり著名な心理学者たちは、少年や成人男性でも自分が抱えている問題について話したいとは思っているのだが、話すことが恥ずかしかったりそれによって弱みを見せるのではないかという不安から、男性は話すことをためらうと主張してきました」と、ミズーリ大学コロンビア校のアマンダ・ローズ(Amanda Rose)は言う。彼女のチームは、専門誌『チャイルド・ディベロプメント(Child Development)』(オンラインで読むことはまだできない)で、別の原因がそうした行動を説明すると発表した。「少年たちの答えは、彼らが問題について話し合うということを特に意味ある行動とは見ていない、ということを示唆しているのです」。
心理学者のチームは、8歳から16歳までの子供や少年少女に対して4つの研究を行った。かいつまんで言えば、彼らは参加者たちに、自分が抱えている問題を誰かに打ち明けて話し合ったとき、何を期待するかと尋ねたのだ。
一方には、話し合いに期待することとして、次の6つの肯定的なものが並んでいた。
・ 気持ちが上向いたように感じる
・ 人に理解されたと感じる
・ 孤独の感情が薄らいだように感じる
・ 否定的な感情が積み上がらないという感じをもつ
・ 問題が解決される希望
・ 問題がいろいろあっても人間としてはまったく大丈夫だという感じ
それらに9つの否定的な期待が加わる:
・ 人が自分を笑いものにするのではないかという不安
・ 自分の問題を誰かに知られたら恥ずかしい
・ 人が自分のことを悪くとるのではないかという懸念
・ 自分の問題を誰も親身になって解決してくれないという嫌な予感
・ 問題を打ち明ける相手が動揺したりショックを感じるのではないかという懸念
・ 話し合う前よりもいっそう怒りが大きくなること
・ 話し合うことで問題を実際以上に大きくしてしまうこと
・ 自分を変で(英語の原語は"weird")不快だと感じる
・ 話し合いはたんに時間の無駄だという感情
結果はというと、少年も少女も、話し合いには懸念よりも希望を結びつけていたが、その傾向は少女の方がややはっきりしていた。そして、研究者がはっきりした違いを発見したのは、否定的な期待の2つのケースだけであった。少年は、自分の感情について話すとき、自分を変なものと感じてしまうのだ。そして少年がそれを時間の無駄と見なすことは、少女よりも頻繁だった。研究者はこの結果を様々な実験で確かめることができたので、これが単なる統計的異常値であるということは排除してかまわないのだという。
「この結果は、われわれが少年たちの話し合いに対する意欲についてどう考えればいいかという点で、考え方を大きく改める必要があることを示している」と心理学者のチームは記している。少年たちは、他人の反応が怖いとか気分が悪くなるからという理由で、問題について話し合う機会を避けているわけではないということになるからだ。
奇妙で変なのか ――それとも単に恥ずかしいだけなのか?
「変な(weird)」という単語はないほうがよかったのかもしれない。ローズと共同研究者自身も、少年たちが話し合うことで自分のことを変だと感じるのを恐れるとき、それがどういう気持ちなのかはもっと正確にされなければならない、と述べているからである。"weird"という語は、奇妙な、変な、こっけいな、おかしな、風変わりな、等に翻訳できる。これらは、今の文脈では、恥ずかしいとか嫌だという言葉からかけ離れているわけではない。
では、結局のところ、昔から心理学者たちが考えてきたことに帰着するのではないだろうか? つまり、恥ずかしいまたは不快な状況に対する不安は少女よりも頻繁に少年を苦しめるので、だから、少年は、悩みを抱いているとき、沈黙してしまうという昔ながらの見解に舞い戻ってしまうのではないだろうか?
それにまた別の問題がつけ加わるのだが、それは、こうした問題群を扱う心理学者がいつも直面してきた問題なのだ。人間には、社会的に望ましいとされる答えを好む傾向がある。十代の少年に上に掲げた希望と懸念のリストを見せるとき、彼は、その方が他の選択肢を選ぶよりもカッコいいからという理由で、問題の話し合いを全くの時間の無駄として退けてしまう、ということも十分考えられるのである。
それにもかかわらず ――やはり、少年や成人後の男性の多くが、女性よりも沈黙する傾向が強いことは確かである。この性差による決まりきったパターンは、心理学者の見解によれば、とくに両親の態度によって打破できるものだという。問題についての話し合いは解決に結びつくものであり、だから単に時間の無駄ではないのだということを、親が子供に早い時期から示すことで、そうした決まりきったパターンは打破できるのである。
では少女の方はどうなのか? ローズのチームの見解では、彼女たちは、時として、自分の感情についてあまりにも多くを語りすぎ、その結果、くよくよ思い悩む傾向があるのだという。そうなった場合は、あまりに細かいところまで突っ込んで話し合うことが問題を解決するための唯一の可能性ではないということを、両親が教えてあげるべきなのかもしれない。
」(おわり)
まあ、どうでも良いようにも見える疑問だが、こういうちょっとしたことがもっと大きな問題の解決の手がかりになることもあるので、端から馬鹿にするものでもないのかもしれない。
しかし、この記事でも指摘されていることだが、あまり精度の高くないアンケートを主体にした手法で、こういう問題が解けると考えるのは単純すぎる。少なくとも、そのことだけははっきり示されたようだ。
ドイツ『シュピーゲル』誌の記事より。
Warum Frauen besser uber Kummer reden konnen
24.08.2011
Nina Weber
http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,782081,00.html
「 なぜ女性のほうが悩みについてより上手く語ることができるのか?

男性は黙りこむ:困っていることを打ち明けることがどうして男性には難しいのか、心理学者がその理由を明らかにしようとしている
「ねえ、困っていることがあるの」。そう言って、女性はきちんと話そうとする――が、男性はできれば何も言わずにその場から離れてしまいたいと思う。なぜ女性の方が男性よりも、容易に自分の感情を他人に打ち明けられるのだろうか? アメリカの心理学者がその理由を発見したというのだ。しかし、それは本当に論理的なのだろうか?
女性は絶対にどんな些細なことまでも語ろうとするのに対して、男性は沈黙しようとする。それはよくあるパターンにすぎないとしても、その核心には真実が潜んでいるかもしれないのだ。男性は女性よりも自分の感情を顕わにすることが少ないし、問題が生じた場合でも、それを打ち明けることにためらいを覚えてしまう。しかしそれはどうしてなのか?
米国の心理学者のチームが、その理由を、約2000人の子供や青年を対象にした研究において突き止めたと主張している。彼ら自身の言い分によれば、彼らは古い偏見を一掃したというのだ。「長年にわたり著名な心理学者たちは、少年や成人男性でも自分が抱えている問題について話したいとは思っているのだが、話すことが恥ずかしかったりそれによって弱みを見せるのではないかという不安から、男性は話すことをためらうと主張してきました」と、ミズーリ大学コロンビア校のアマンダ・ローズ(Amanda Rose)は言う。彼女のチームは、専門誌『チャイルド・ディベロプメント(Child Development)』(オンラインで読むことはまだできない)で、別の原因がそうした行動を説明すると発表した。「少年たちの答えは、彼らが問題について話し合うということを特に意味ある行動とは見ていない、ということを示唆しているのです」。
心理学者のチームは、8歳から16歳までの子供や少年少女に対して4つの研究を行った。かいつまんで言えば、彼らは参加者たちに、自分が抱えている問題を誰かに打ち明けて話し合ったとき、何を期待するかと尋ねたのだ。
一方には、話し合いに期待することとして、次の6つの肯定的なものが並んでいた。
・ 気持ちが上向いたように感じる
・ 人に理解されたと感じる
・ 孤独の感情が薄らいだように感じる
・ 否定的な感情が積み上がらないという感じをもつ
・ 問題が解決される希望
・ 問題がいろいろあっても人間としてはまったく大丈夫だという感じ
それらに9つの否定的な期待が加わる:
・ 人が自分を笑いものにするのではないかという不安
・ 自分の問題を誰かに知られたら恥ずかしい
・ 人が自分のことを悪くとるのではないかという懸念
・ 自分の問題を誰も親身になって解決してくれないという嫌な予感
・ 問題を打ち明ける相手が動揺したりショックを感じるのではないかという懸念
・ 話し合う前よりもいっそう怒りが大きくなること
・ 話し合うことで問題を実際以上に大きくしてしまうこと
・ 自分を変で(英語の原語は"weird")不快だと感じる
・ 話し合いはたんに時間の無駄だという感情
結果はというと、少年も少女も、話し合いには懸念よりも希望を結びつけていたが、その傾向は少女の方がややはっきりしていた。そして、研究者がはっきりした違いを発見したのは、否定的な期待の2つのケースだけであった。少年は、自分の感情について話すとき、自分を変なものと感じてしまうのだ。そして少年がそれを時間の無駄と見なすことは、少女よりも頻繁だった。研究者はこの結果を様々な実験で確かめることができたので、これが単なる統計的異常値であるということは排除してかまわないのだという。
「この結果は、われわれが少年たちの話し合いに対する意欲についてどう考えればいいかという点で、考え方を大きく改める必要があることを示している」と心理学者のチームは記している。少年たちは、他人の反応が怖いとか気分が悪くなるからという理由で、問題について話し合う機会を避けているわけではないということになるからだ。
奇妙で変なのか ――それとも単に恥ずかしいだけなのか?
「変な(weird)」という単語はないほうがよかったのかもしれない。ローズと共同研究者自身も、少年たちが話し合うことで自分のことを変だと感じるのを恐れるとき、それがどういう気持ちなのかはもっと正確にされなければならない、と述べているからである。"weird"という語は、奇妙な、変な、こっけいな、おかしな、風変わりな、等に翻訳できる。これらは、今の文脈では、恥ずかしいとか嫌だという言葉からかけ離れているわけではない。
では、結局のところ、昔から心理学者たちが考えてきたことに帰着するのではないだろうか? つまり、恥ずかしいまたは不快な状況に対する不安は少女よりも頻繁に少年を苦しめるので、だから、少年は、悩みを抱いているとき、沈黙してしまうという昔ながらの見解に舞い戻ってしまうのではないだろうか?
それにまた別の問題がつけ加わるのだが、それは、こうした問題群を扱う心理学者がいつも直面してきた問題なのだ。人間には、社会的に望ましいとされる答えを好む傾向がある。十代の少年に上に掲げた希望と懸念のリストを見せるとき、彼は、その方が他の選択肢を選ぶよりもカッコいいからという理由で、問題の話し合いを全くの時間の無駄として退けてしまう、ということも十分考えられるのである。
それにもかかわらず ――やはり、少年や成人後の男性の多くが、女性よりも沈黙する傾向が強いことは確かである。この性差による決まりきったパターンは、心理学者の見解によれば、とくに両親の態度によって打破できるものだという。問題についての話し合いは解決に結びつくものであり、だから単に時間の無駄ではないのだということを、親が子供に早い時期から示すことで、そうした決まりきったパターンは打破できるのである。
では少女の方はどうなのか? ローズのチームの見解では、彼女たちは、時として、自分の感情についてあまりにも多くを語りすぎ、その結果、くよくよ思い悩む傾向があるのだという。そうなった場合は、あまりに細かいところまで突っ込んで話し合うことが問題を解決するための唯一の可能性ではないということを、両親が教えてあげるべきなのかもしれない。
」(おわり)
あざける心の声と折り合いをつける(3) [海外のニュース記事]
幻聴に苦しむホルト氏の記事の第3回目にして完結篇。
このシリーズの前回の主人公のマーシャ・リネハンにとって、立ち直るうえで重要なファクターだったのは(たぶん)信仰や知的好奇心だったのに対して、今回のホルト氏にとっては妻の存在が決定的なような気がする。写真からも発言からもその存在感を十二分に感じ取れるのではないだろうか?
それにしても、何が精神の病気から回復させてくれるか、それは千差万別と言う他はないのかもしれない。
このホルト氏の記事の一回目には次のように記されていた。
「各人は、度重なる試行錯誤を通して、コアとなるスキルを一から積み上げなければならない」。
ちなみに、リネハン女史の記事の第一回目にも、次のように書かれていた。
「しかし、リネハン博士のケースは(心の中にひそむ悪魔を管理する)レシピが存在していないことを示している。」
心の病からの回復にとって決定的なのは、一般的な解法(理論)は存在しないということ、薬物治療もたんなる補助にすぎないということ、解決策があるとしても、それは本人が自分で発見し、自分で一から積み上げていくしかないということ、なのだろうか? そうした根気やそれを支える要因に恵まれた人だけが立ちおなることができる、と言っていいのだろうか?
このCarey氏によるシリーズは、たぶん、そのような考え方を読者に提供しようとしているように見えるのだが、果たしてどうだろうか?
Learning to Cope With a Mind’s Taunting Voices
By BENEDICT CAREY
Published: August 6, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/07/health/07lives.html?pagewanted=3
「
あざける心の声と折り合いをつける(3)

(釣りの後、家に帰るホルト氏と息子エドウィン(16)。ホルト夫妻は、長年にわたって何十人もの里子を受け入れてきた)
彼は駐車場の車に一人座って、暗くなるまで泣いた。「内部で何かが壊れかけていくようにも感じたし、自分がどんどん小さく縮んでいくようにも感じていたよ」。彼はパツィーに詫びながら家に入り、自分の頭を彼女の肩に力なく置いた。
「何があったか大体は察しがつきました」とホルト夫人はインタビューで語った。「長いこと彼は多重人格のように見えたんです。ある時は物静かで、魅力的で、冗談をいって笑わせる人なんですけど、その後――急にですよ――カッとなって、尊大になり、すっかり別人格になってしまうんです。二人のジョーがいるみたいでしたね」。
現実からはずれてさ迷い出る自分の心を{いわば現行犯で}取り押さえる能力は、けっして小さくない才能なのである。おそらく統合失調症患者の半数はそうした自己意識をもっていないだろう、と研究者たちは言う。{そうした自己意識をもつ}ホルト氏でも、自分の心に惑わされなくなるまでには多くの歳月が必要だった。
三人の里子――ジャネット、フェイ、エドウィンの三人だが、いまでは法的に養子となっている――が、ホルト氏の上機嫌を引き出す力となった。里子はもっとたくさんいた。数十人の里子の出入りがあったのだ。(「代理人からの電話に出るのを止めさせなければなりませんでした」と彼の妻は言った。「ジョーはね、家のない子供がいると、ノーとは言えないんですよ」)。
1990年代後半に彼はコンピュータ・プログラミングのコースを履修し、ある通信会社で職を得た。初めて真っ当なキャリアを手にしたように見えた。しかし、そうはならなかった。その会社はリストラを断行し、数十名を解雇したのだが、その中にホルト氏も含まれていたのだ。彼は、勝ち組の人生を手に入れる最後で最高のチャンスが消えてしまったと感じた。
2000年に彼の妻が自殺を思いとどまらせた後で、ホルト氏は一念発起して、近くのフレンズ大学で、結婚と家族に関するカウンセリングの講座を受講した。セラピストになるための準備の一環として、彼は自分自身について語ってみるように勧められた。
「僕は駄菓子屋にいる子供のようにワクワクしたね」と彼は言った。「思い入れが強すぎた、とは思いますよ。でも話し終えたとき、初めて――そう、自分そのままでいられるような気持ちになれたんだ」。
ひどかった子供時代の影響についての問いは正しい問いではなかった、と彼は結論づけた。答えなどなかったし、これから答えが見つかることもないだろう。そんな問いかけは気晴らしにすぎなかったのだ。彼にはまだ声が聞いていた――今でも聞こえている――が、問いかけてみる価値がある唯一の問いは、そのような声とどうやって共存していくのか? という問いなのである。
「最も難しい部分は、ただ生活を続けていくためにも、僕は自分のあらゆる考え、あらゆる態度、あらゆる感情、ありとあらゆるものをよく吟味して、「これは現実のものか?」と尋ねてみなければならない、ということだね」と彼は言った。「そして、上手くいってないときは、それを切り抜けるために自分の人生を微調整しなければならない。ある種のシステムみたいなものがないといけないんだ」。
一日をのり切る
そのシステムには、絶え間なく活動すること(relentless activity)、受動的に抵抗すること(passive resistance)と緊急時にやるべきこと(emergency measures)という三つの違う戦略が含まれる。
最初の部分は生まれつきのものだ。ジョー・ホルトは、おっとりとした南部人気質にもかかわらず、ブルドッグのような働き者だ。午前4時には起きて、内心で祈りを唱え、5時には政府機関のコンピュータの職場に到着する。昼に急いでランチをとり、車に乗り込んで――ヘッドフォンを着用し、ヘブライ語の聖書に耳を傾け、ヘブライ語を学習しようとする――アバンダント・ライフ・バプテスト教会(Abundant Life Baptist Church)の結婚カウンセラーとしての第二の仕事場に向う(報酬は、相談に来る人の寄付金である)。午後9時前に帰れないこともしばしばである。
彼は概して統合失調症という診断について議論することはしないのだが、彼のことを知る人々は、彼が沈んでいる姿を見たことはあっても、はっきり妄想状態にあるのを見かけたことは一度もないという。
「教会で彼を初めて見た時、正直に言って、変な人だなと思いましたよ」とアバンダント・ライフの筆頭牧師のリック・フリーゼンは言う。「でも、彼の様子を見ていました。彼が、孤独な人や困っている人と一緒に教会から出て、車に乗せてあげる様子をね。彼に話しかけてみると、彼がとても知的な人だと判りました。その後で私は彼を雇ったのです」。
しかし、妄想―― 声――は、つねに表面近くにあって、ストレスがかかる時には特に表面に浮上してくるものなのだ。この記事のためにインタビューをした時もそうだった。「声がやって来る気配があるな」と彼は言った。「アドレナリンが押し寄せるようなものさ。聞き取れる形で素早く何波にもなってやって来るんだ。「出来そこないめ、最低の人間だ」――まあ、そんな感じでね」。
それらの声に反応すると、汚らしい言葉はいっそう勢いを増すことになるだけなのだが、しかし無視することもできない。
そこで彼は、音をまぎらわすために、もしヘッドフォンがあれば、それで音楽を聞くことにするだろう。もしできるならば、ゆっくりと、前や後に歩いてみる。
そして言い返してやるのだ。「こんなふうに言ってやるんだ。「そうだな、もっとましな人間になれるかもしれないな。でもな、今はかなり落ち込んでいるけど、俺は善良な人間なんだよ」とかね」。
ミーティングのときは、ちょっとの間勘弁してもらって自分と会話をすることもある。デスク・ワークのときは、こめかみに手のひらを当て、ブツブツつぶやいて言い返すこともある。「声に出して言い返さないと、気持ちが落ち着かないんだ」と彼は言った。
要するに、その場にじっとして嵐がすぎるのをやりすごしているわけだが、そんな合間があっても仕事のパフォーマンスが悪くなることはなかった。
ストレスが激しく、大波が何日間にもわたって押しよせるような時には、相談に来る人を減らしたり重要な意思決定を控えたりして、仕事の負荷を軽くしている。2001年、自殺を考えながら銃を握りしめて寝室で座っていたあの日からまだそれほど経っていないとき、彼は医療の助けを求めた。地元の診療所の医師は統合失調性感情障害(schizoaffective disorder)と診断し、約1ヶ月間、症状が緩和するまで、抗精神病薬による治療を施した。
彼によれば、長年にわたり投薬治療に頼ってきたが、それは長引く症状を切り抜けるためであった。彼によると、2006年以降は投薬治療なしで何とかやって来たそうだが、彼は薬を貴重なセーフティネット、もし落ちた場合自分をキャッチしてくれるセーフティネットと見なしている。
それに、いつだって、彼はパツィーに頼っているのだ。
「ジョーは別だけど、私は精神疾患には用はないの」と彼女は言った。「それに、私は彼に言ってやるの、あなたが何の病気なのかってことは大したことじゃない、あなたはもう大人なんだし、そんなことは自分の中にしまっておくべきよ。あなたには責任があるんだし」。
「私は彼に言うの、誰もが疑念や不安と闘っているじゃないの――それが正常なのよ」と彼女は続けた。「それが正常なの。そして、あなたには面倒を見る子供たちがいるじゃないの、って思い起こしてもらうのよ」。
たしかに彼には子供たちがいる、ほとんどの父親が知る以上の子供たちが。夕食後のある夜、彼が長椅子にブッダのように静かに座っている時、パツィ―や子供たちが交代で、また一家のもとにやって来た里子を抱きかかえていた。その子は、人の目を見ることが決してなく食事をとろうともしない薬物中毒患者の2歳になる娘だった。ホルト一家は彼女のお腹に通る管から彼女に栄養分を送っているのだ。
「でもね、彼女にできることの一つは、ギュッと抱きつくことなんだよ」と彼は言い、その子を自分のお腹の上に置いたが、その子は必死になってお腹にしがみつこうとした。「ほらほら、そこまでにしておくれ。言っていることが判るよね? これじゃ痛くて死んじゃうよ」。
」(おわり)
このシリーズの前回の主人公のマーシャ・リネハンにとって、立ち直るうえで重要なファクターだったのは(たぶん)信仰や知的好奇心だったのに対して、今回のホルト氏にとっては妻の存在が決定的なような気がする。写真からも発言からもその存在感を十二分に感じ取れるのではないだろうか?
それにしても、何が精神の病気から回復させてくれるか、それは千差万別と言う他はないのかもしれない。
このホルト氏の記事の一回目には次のように記されていた。
「各人は、度重なる試行錯誤を通して、コアとなるスキルを一から積み上げなければならない」。
ちなみに、リネハン女史の記事の第一回目にも、次のように書かれていた。
「しかし、リネハン博士のケースは(心の中にひそむ悪魔を管理する)レシピが存在していないことを示している。」
心の病からの回復にとって決定的なのは、一般的な解法(理論)は存在しないということ、薬物治療もたんなる補助にすぎないということ、解決策があるとしても、それは本人が自分で発見し、自分で一から積み上げていくしかないということ、なのだろうか? そうした根気やそれを支える要因に恵まれた人だけが立ちおなることができる、と言っていいのだろうか?
このCarey氏によるシリーズは、たぶん、そのような考え方を読者に提供しようとしているように見えるのだが、果たしてどうだろうか?
Learning to Cope With a Mind’s Taunting Voices
By BENEDICT CAREY
Published: August 6, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/07/health/07lives.html?pagewanted=3
「
あざける心の声と折り合いをつける(3)

(釣りの後、家に帰るホルト氏と息子エドウィン(16)。ホルト夫妻は、長年にわたって何十人もの里子を受け入れてきた)
彼は駐車場の車に一人座って、暗くなるまで泣いた。「内部で何かが壊れかけていくようにも感じたし、自分がどんどん小さく縮んでいくようにも感じていたよ」。彼はパツィーに詫びながら家に入り、自分の頭を彼女の肩に力なく置いた。
「何があったか大体は察しがつきました」とホルト夫人はインタビューで語った。「長いこと彼は多重人格のように見えたんです。ある時は物静かで、魅力的で、冗談をいって笑わせる人なんですけど、その後――急にですよ――カッとなって、尊大になり、すっかり別人格になってしまうんです。二人のジョーがいるみたいでしたね」。
現実からはずれてさ迷い出る自分の心を{いわば現行犯で}取り押さえる能力は、けっして小さくない才能なのである。おそらく統合失調症患者の半数はそうした自己意識をもっていないだろう、と研究者たちは言う。{そうした自己意識をもつ}ホルト氏でも、自分の心に惑わされなくなるまでには多くの歳月が必要だった。
三人の里子――ジャネット、フェイ、エドウィンの三人だが、いまでは法的に養子となっている――が、ホルト氏の上機嫌を引き出す力となった。里子はもっとたくさんいた。数十人の里子の出入りがあったのだ。(「代理人からの電話に出るのを止めさせなければなりませんでした」と彼の妻は言った。「ジョーはね、家のない子供がいると、ノーとは言えないんですよ」)。
1990年代後半に彼はコンピュータ・プログラミングのコースを履修し、ある通信会社で職を得た。初めて真っ当なキャリアを手にしたように見えた。しかし、そうはならなかった。その会社はリストラを断行し、数十名を解雇したのだが、その中にホルト氏も含まれていたのだ。彼は、勝ち組の人生を手に入れる最後で最高のチャンスが消えてしまったと感じた。
2000年に彼の妻が自殺を思いとどまらせた後で、ホルト氏は一念発起して、近くのフレンズ大学で、結婚と家族に関するカウンセリングの講座を受講した。セラピストになるための準備の一環として、彼は自分自身について語ってみるように勧められた。
「僕は駄菓子屋にいる子供のようにワクワクしたね」と彼は言った。「思い入れが強すぎた、とは思いますよ。でも話し終えたとき、初めて――そう、自分そのままでいられるような気持ちになれたんだ」。
ひどかった子供時代の影響についての問いは正しい問いではなかった、と彼は結論づけた。答えなどなかったし、これから答えが見つかることもないだろう。そんな問いかけは気晴らしにすぎなかったのだ。彼にはまだ声が聞いていた――今でも聞こえている――が、問いかけてみる価値がある唯一の問いは、そのような声とどうやって共存していくのか? という問いなのである。
「最も難しい部分は、ただ生活を続けていくためにも、僕は自分のあらゆる考え、あらゆる態度、あらゆる感情、ありとあらゆるものをよく吟味して、「これは現実のものか?」と尋ねてみなければならない、ということだね」と彼は言った。「そして、上手くいってないときは、それを切り抜けるために自分の人生を微調整しなければならない。ある種のシステムみたいなものがないといけないんだ」。
一日をのり切る
そのシステムには、絶え間なく活動すること(relentless activity)、受動的に抵抗すること(passive resistance)と緊急時にやるべきこと(emergency measures)という三つの違う戦略が含まれる。
最初の部分は生まれつきのものだ。ジョー・ホルトは、おっとりとした南部人気質にもかかわらず、ブルドッグのような働き者だ。午前4時には起きて、内心で祈りを唱え、5時には政府機関のコンピュータの職場に到着する。昼に急いでランチをとり、車に乗り込んで――ヘッドフォンを着用し、ヘブライ語の聖書に耳を傾け、ヘブライ語を学習しようとする――アバンダント・ライフ・バプテスト教会(Abundant Life Baptist Church)の結婚カウンセラーとしての第二の仕事場に向う(報酬は、相談に来る人の寄付金である)。午後9時前に帰れないこともしばしばである。
彼は概して統合失調症という診断について議論することはしないのだが、彼のことを知る人々は、彼が沈んでいる姿を見たことはあっても、はっきり妄想状態にあるのを見かけたことは一度もないという。
「教会で彼を初めて見た時、正直に言って、変な人だなと思いましたよ」とアバンダント・ライフの筆頭牧師のリック・フリーゼンは言う。「でも、彼の様子を見ていました。彼が、孤独な人や困っている人と一緒に教会から出て、車に乗せてあげる様子をね。彼に話しかけてみると、彼がとても知的な人だと判りました。その後で私は彼を雇ったのです」。
しかし、妄想―― 声――は、つねに表面近くにあって、ストレスがかかる時には特に表面に浮上してくるものなのだ。この記事のためにインタビューをした時もそうだった。「声がやって来る気配があるな」と彼は言った。「アドレナリンが押し寄せるようなものさ。聞き取れる形で素早く何波にもなってやって来るんだ。「出来そこないめ、最低の人間だ」――まあ、そんな感じでね」。
それらの声に反応すると、汚らしい言葉はいっそう勢いを増すことになるだけなのだが、しかし無視することもできない。
そこで彼は、音をまぎらわすために、もしヘッドフォンがあれば、それで音楽を聞くことにするだろう。もしできるならば、ゆっくりと、前や後に歩いてみる。
そして言い返してやるのだ。「こんなふうに言ってやるんだ。「そうだな、もっとましな人間になれるかもしれないな。でもな、今はかなり落ち込んでいるけど、俺は善良な人間なんだよ」とかね」。
ミーティングのときは、ちょっとの間勘弁してもらって自分と会話をすることもある。デスク・ワークのときは、こめかみに手のひらを当て、ブツブツつぶやいて言い返すこともある。「声に出して言い返さないと、気持ちが落ち着かないんだ」と彼は言った。
要するに、その場にじっとして嵐がすぎるのをやりすごしているわけだが、そんな合間があっても仕事のパフォーマンスが悪くなることはなかった。
ストレスが激しく、大波が何日間にもわたって押しよせるような時には、相談に来る人を減らしたり重要な意思決定を控えたりして、仕事の負荷を軽くしている。2001年、自殺を考えながら銃を握りしめて寝室で座っていたあの日からまだそれほど経っていないとき、彼は医療の助けを求めた。地元の診療所の医師は統合失調性感情障害(schizoaffective disorder)と診断し、約1ヶ月間、症状が緩和するまで、抗精神病薬による治療を施した。
彼によれば、長年にわたり投薬治療に頼ってきたが、それは長引く症状を切り抜けるためであった。彼によると、2006年以降は投薬治療なしで何とかやって来たそうだが、彼は薬を貴重なセーフティネット、もし落ちた場合自分をキャッチしてくれるセーフティネットと見なしている。
それに、いつだって、彼はパツィーに頼っているのだ。
「ジョーは別だけど、私は精神疾患には用はないの」と彼女は言った。「それに、私は彼に言ってやるの、あなたが何の病気なのかってことは大したことじゃない、あなたはもう大人なんだし、そんなことは自分の中にしまっておくべきよ。あなたには責任があるんだし」。
「私は彼に言うの、誰もが疑念や不安と闘っているじゃないの――それが正常なのよ」と彼女は続けた。「それが正常なの。そして、あなたには面倒を見る子供たちがいるじゃないの、って思い起こしてもらうのよ」。
たしかに彼には子供たちがいる、ほとんどの父親が知る以上の子供たちが。夕食後のある夜、彼が長椅子にブッダのように静かに座っている時、パツィ―や子供たちが交代で、また一家のもとにやって来た里子を抱きかかえていた。その子は、人の目を見ることが決してなく食事をとろうともしない薬物中毒患者の2歳になる娘だった。ホルト一家は彼女のお腹に通る管から彼女に栄養分を送っているのだ。
「でもね、彼女にできることの一つは、ギュッと抱きつくことなんだよ」と彼は言い、その子を自分のお腹の上に置いたが、その子は必死になってお腹にしがみつこうとした。「ほらほら、そこまでにしておくれ。言っていることが判るよね? これじゃ痛くて死んじゃうよ」。
」(おわり)
あざける心の声と折り合いをつける(2) [海外のニュース記事]
統合失調症的な疾患を克服する上での最難関の一つが、自分が精神の病気にかかっているという自覚をもつこと。あるいは、自分の体験が幻聴や幻覚であるという自覚をもつこと。
多くの人がこのハードルを越えることに失敗する中で、以下の記事では、自分が長年聞いてきた声が実は自分の脳内にしか存在しないものであるということを自覚するに至ったホルト氏の稀な経験が簡潔に語られている。
Learning to Cope With a Mind’s Taunting Voices
By BENEDICT CAREY
Published: August 6, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/07/health/07lives.html?pagewanted=2&_r=1&partner=rssnyt&emc=rss
「
あざける心の声と折り合いをつける(2)

(ホルト氏と、精神疾患との戦いにおいて大きな支えの一つとなってくれた妻のパツィー)
独りぼっちになったあの夏、彼は複合施設の空家を見つけ、管理者の許可を得て、そこで寝泊まりする夜もあった。あるいは、近くの橋の下に身を潜めることもあった。気温が下がり高校が始まると、彼は校舎の中に引っ越し、フットボール場の隣の体育館で眠り、流し台で体を洗い服を洗った。(彼は2着のズボンとシャツを所持していた、着替えはバックパックに入れていた)。
彼はほぼ1年間ある友人の家族の家で暮らし、近くのカンザス州リーウッドのチャールズ・ハンセンとテルマ・ハンセンの家で暮らしながら高校を卒業した。ハンセン夫妻には子供がいたが、通っている教会をとおして聞きつけた孤児たちを受け入れていたのだ。
「正直に言って、この子は家族によるきちんとした養育を受けたことのない若者だという以外に、どう考えればいいのか私には判りませんでしたね」。ハンセン氏は、自宅での最近のインタビューでそう述べた。
少年は懸命にそれを証明しようとしているかのようだった。ハンセン一家の車に乗ってデートしているとき、彼はその車を大破させた。ばく大な料金を請求されるほどハンセン家の電話を使い続けた。素行の悪さのためにある大学から退学処分を受け、別の大学では成績の悪さのために在籍できなくなった。21歳になる頃に彼はまた独りぼっちになり、ミズーリ州スプリングフィールドのロジャース一家の所で暮らすようになったが、宅配ピザの仕事をしているうちに、奇妙な行動がますます目立つようになった。
そこで、病院で渡された薬をウイスキーと一緒に飲みこんで自殺しようと試みたのだが、その後で彼はついに統合失調症と診断されたのだった。彼はその診断を受け入れなかった。
「統合失調症なんていう診断はまったく馬鹿げている、それが当時の僕の考えだった」とホルト氏は言った。そう、いつも人が自分を妙な目つきで見て、自分を見下したり――もっとも怖いことに、自分に対してひどいことを言っていると彼は感じていたのだが、問いつめると、彼らはそんな野蛮で侮辱的な言葉を言った覚えはないと否認するのだった。でも、それは、心の病のせいなのか、それとも、ひどかった子供時代の影響なのか?
「俺はめちゃくちゃ壊れていたんだ」と彼は言った。「「俺はどうしようもない人間だ、決して正常にはなれそうもないな」とひたすら思ったね」。
しかし彼は確信をもてなかった。どんな障害を見つけようが、医者たちがどんな診断を下そうが、脳の発達についてどれほど一所懸命に本を読もうが、彼は、自分の苦境に対してそれとは別の原因をもちだすのが常だった。つまり、養育放棄や殴打や家族の愛情の欠如が原因だという説明に彼はつねに行き着くのだった。
「1990年代の中頃まで、「俺は精神的に病気なのか、それとも悪い環境が俺をダメにしたのか」という自問自答をくり返して僕は消耗していた」。
声が聞こえる
その問いに対する答えが初めて見えたのは、1996年のある日の昼、彼の上司が彼をランチに招待してくれたときだった。
彼は、まさか悪い知らせがあるのではないかと思って、緊張していた。その頃すでに結婚していた彼は、パツィーと10代の義理の息子と彼ら夫婦が養子にしようと計画していた3人の里子を養っていた。カンザス・シティーの診療所で働いていた彼は、より多くの収入と雇用保障を必要としていた。収入を減らされるのは御免だった。
まさにその望みがランチのときに手に入った――彼は昇進したのだ。「僕たちは笑いながらお祝いしながら楽しいひと時をすごし、最後にその女性の上司がトイレに行くと言った。しかし、彼女がトイレに向かう直前に、彼女がひどい、とても不快な言葉を言うのを僕は聞いた――彼女は僕を侮辱したんだ。声に出してね」。
彼女がトイレから帰ってくるまで、彼は、茫然として訳が分からないまま、ドアのそばに立っていた。その場の流れを考えてみれば、彼女が侮辱の言葉を言うなんてまったくのナンセンスなのだが、その言葉は彼の頭の中で鳴リ響くのを止めなかった。
「ところで、誰かがこんなことを言っているのが聞こえなかった?」と彼は尋ね、あの侮辱の言葉を繰り返した。
彼女は呆れはてたようだった。彼も自分の行為に呆れて、冗談を言っているかのような振りをしてどうにかこうにか取りつくろった。
彼が自分の車に戻ったころには、息切れがしていた。何年にもわたって聞こえてきたあの不快な言葉、あのどこからともなくやって来る身を切り裂くような侮辱の言葉が、自分の脳内以外に存在しないということがありうるのだろうか?
自分は間違って人を非難したことがいったい何回あったことだろう? 特にパツィーを何回非難したことだろう? 何百回? 何千回? 彼女を嘘つきと呼んだ。大声で騒ぎたてた。まったく何の理由もないのに感情を爆発させた。義理の息子に対しても同じ振る舞いをした。
それにあの失職の数々。溶接工、塗装工、バーテンダー、販売員、ハンバーガー作り、庭師、ボディーガード、シェフ、司書。30回以上もの失職だ。何も長続きしなかった。
「ときどき僕は逃げ出したくなるんだ――文字通り、その場から飛び去りたくなるんだ」と彼は言った。「人のことがとても怖くなるんだ。お客であっても、誰もかもが怖くなるし、人が僕に何を言ってくるのだろうかと考えてそれが怖くなるんだ」。
」(つづく)
多くの人がこのハードルを越えることに失敗する中で、以下の記事では、自分が長年聞いてきた声が実は自分の脳内にしか存在しないものであるということを自覚するに至ったホルト氏の稀な経験が簡潔に語られている。
Learning to Cope With a Mind’s Taunting Voices
By BENEDICT CAREY
Published: August 6, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/07/health/07lives.html?pagewanted=2&_r=1&partner=rssnyt&emc=rss
「
あざける心の声と折り合いをつける(2)

(ホルト氏と、精神疾患との戦いにおいて大きな支えの一つとなってくれた妻のパツィー)
独りぼっちになったあの夏、彼は複合施設の空家を見つけ、管理者の許可を得て、そこで寝泊まりする夜もあった。あるいは、近くの橋の下に身を潜めることもあった。気温が下がり高校が始まると、彼は校舎の中に引っ越し、フットボール場の隣の体育館で眠り、流し台で体を洗い服を洗った。(彼は2着のズボンとシャツを所持していた、着替えはバックパックに入れていた)。
彼はほぼ1年間ある友人の家族の家で暮らし、近くのカンザス州リーウッドのチャールズ・ハンセンとテルマ・ハンセンの家で暮らしながら高校を卒業した。ハンセン夫妻には子供がいたが、通っている教会をとおして聞きつけた孤児たちを受け入れていたのだ。
「正直に言って、この子は家族によるきちんとした養育を受けたことのない若者だという以外に、どう考えればいいのか私には判りませんでしたね」。ハンセン氏は、自宅での最近のインタビューでそう述べた。
少年は懸命にそれを証明しようとしているかのようだった。ハンセン一家の車に乗ってデートしているとき、彼はその車を大破させた。ばく大な料金を請求されるほどハンセン家の電話を使い続けた。素行の悪さのためにある大学から退学処分を受け、別の大学では成績の悪さのために在籍できなくなった。21歳になる頃に彼はまた独りぼっちになり、ミズーリ州スプリングフィールドのロジャース一家の所で暮らすようになったが、宅配ピザの仕事をしているうちに、奇妙な行動がますます目立つようになった。
そこで、病院で渡された薬をウイスキーと一緒に飲みこんで自殺しようと試みたのだが、その後で彼はついに統合失調症と診断されたのだった。彼はその診断を受け入れなかった。
「統合失調症なんていう診断はまったく馬鹿げている、それが当時の僕の考えだった」とホルト氏は言った。そう、いつも人が自分を妙な目つきで見て、自分を見下したり――もっとも怖いことに、自分に対してひどいことを言っていると彼は感じていたのだが、問いつめると、彼らはそんな野蛮で侮辱的な言葉を言った覚えはないと否認するのだった。でも、それは、心の病のせいなのか、それとも、ひどかった子供時代の影響なのか?
「俺はめちゃくちゃ壊れていたんだ」と彼は言った。「「俺はどうしようもない人間だ、決して正常にはなれそうもないな」とひたすら思ったね」。
しかし彼は確信をもてなかった。どんな障害を見つけようが、医者たちがどんな診断を下そうが、脳の発達についてどれほど一所懸命に本を読もうが、彼は、自分の苦境に対してそれとは別の原因をもちだすのが常だった。つまり、養育放棄や殴打や家族の愛情の欠如が原因だという説明に彼はつねに行き着くのだった。
「1990年代の中頃まで、「俺は精神的に病気なのか、それとも悪い環境が俺をダメにしたのか」という自問自答をくり返して僕は消耗していた」。
声が聞こえる
その問いに対する答えが初めて見えたのは、1996年のある日の昼、彼の上司が彼をランチに招待してくれたときだった。
彼は、まさか悪い知らせがあるのではないかと思って、緊張していた。その頃すでに結婚していた彼は、パツィーと10代の義理の息子と彼ら夫婦が養子にしようと計画していた3人の里子を養っていた。カンザス・シティーの診療所で働いていた彼は、より多くの収入と雇用保障を必要としていた。収入を減らされるのは御免だった。
まさにその望みがランチのときに手に入った――彼は昇進したのだ。「僕たちは笑いながらお祝いしながら楽しいひと時をすごし、最後にその女性の上司がトイレに行くと言った。しかし、彼女がトイレに向かう直前に、彼女がひどい、とても不快な言葉を言うのを僕は聞いた――彼女は僕を侮辱したんだ。声に出してね」。
彼女がトイレから帰ってくるまで、彼は、茫然として訳が分からないまま、ドアのそばに立っていた。その場の流れを考えてみれば、彼女が侮辱の言葉を言うなんてまったくのナンセンスなのだが、その言葉は彼の頭の中で鳴リ響くのを止めなかった。
「ところで、誰かがこんなことを言っているのが聞こえなかった?」と彼は尋ね、あの侮辱の言葉を繰り返した。
彼女は呆れはてたようだった。彼も自分の行為に呆れて、冗談を言っているかのような振りをしてどうにかこうにか取りつくろった。
彼が自分の車に戻ったころには、息切れがしていた。何年にもわたって聞こえてきたあの不快な言葉、あのどこからともなくやって来る身を切り裂くような侮辱の言葉が、自分の脳内以外に存在しないということがありうるのだろうか?
自分は間違って人を非難したことがいったい何回あったことだろう? 特にパツィーを何回非難したことだろう? 何百回? 何千回? 彼女を嘘つきと呼んだ。大声で騒ぎたてた。まったく何の理由もないのに感情を爆発させた。義理の息子に対しても同じ振る舞いをした。
それにあの失職の数々。溶接工、塗装工、バーテンダー、販売員、ハンバーガー作り、庭師、ボディーガード、シェフ、司書。30回以上もの失職だ。何も長続きしなかった。
「ときどき僕は逃げ出したくなるんだ――文字通り、その場から飛び去りたくなるんだ」と彼は言った。「人のことがとても怖くなるんだ。お客であっても、誰もかもが怖くなるし、人が僕に何を言ってくるのだろうかと考えてそれが怖くなるんだ」。
」(つづく)
あざける心の声と折り合いをつける [海外のニュース記事]
リネハン博士の回想の記事(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-06-25)に続いて、精神疾患から立ち直った人のライフ・ストーリーを紹介するBENEDICT CAREY記者のシリーズの第二弾。
実は、私はあの記事がシリーズ物だとは知らなかったのだが、改めて見てみると、たしかに記事の左側に明記されている。「重い精神疾患をかかえながら通常の仕事をこなし、自分のこれまでの悪戦苦闘をあえて公表することにふみ切った人々の経歴」を伝えるシリーズのようである。有益だと思うので、私としても、時間のゆるす限り、紹介の労をとろうと思っている。
リネハン博士とは違い、今回の主人公はアカデミックな人間ではない、幻聴に悩み続けてきた一人の男性の魂の遍歴である。
オリジナルは3ページに分かれているので、それと同様に3回に分けて紹介する。
Learning to Cope With a Mind’s Taunting Voices
By BENEDICT CAREY
Published: August 6, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/07/health/07lives.html?partner=rssnyt&emc=rss
「
あざける心の声と折り合いをつける

(声とともに生きる: 脳内の声にどのように対処したかを語る、統合失調症の診断をうけたコンピュータ・コンサルタントで起業家のジョー・ホルト)
ミズーリ州、リーズ・サミット―――職はもうない、銃に弾を込めた、そして声が次のように語りかけた。「お前はゴミだ、もうあきらめな、もうやってしまえ」。
それは忠告ではなく、命令だった。その時――2000年の冬のある夜だった――重要だったのは、その声がどこからやって来るかではなく、その声がどれほど確信に充ち、どれほど説得力があったかということだった。
初めて得たまともな職を失ったことは、ジョー・ホルトには耐えがたく、生きていられないように思えた。もう潮時だった。
「あの時のことで覚えているのは次のことだけだ。寝室のドアをノックする音があり、妻のパツィーがベッドに腰を下ろし僕を抱きしめた、僕は左手で銃を握りしめていた、パツィーには見えないようにね」。そう語るのは、統合失調症の診断をうけたコンピュータ・コンサルタントで起業家のジョー・ホルト(50)。
「彼女はこう言ったんだ。「ジョー、あなたが死にたいと思っているのは知っている、でも、明日になれば、望んでいるものが手に入るかもしれないわよ」。そして彼女は部屋から出ていった。 僕は、少なくとも1時間は銃をじっと見ながら座っていた、そしてついに心に決めたんだ――二度とこんなことはやめよう、ってね。自殺を選択肢にしちゃいけない。パツィーは、僕が努力するに値する女性なんだ、ってね」。
近年、研究者はメンタル・ヘルスについて、薬物中毒の専門家が回復――つまり回復といっても、それは自己を治療し訓練する生涯つづく旅のようなもので、それが薬物中毒の治療プログラムの指針なのだが――について語るのと同じように語るようになってきた。もっとも、その考えには異論の余地がある。重度の精神疾患をコントロールすることは、単に{薬物に手を出す、というような}ある種の行動を回避することよりも複雑なものであるからだ。その旅には、薬物治療よりも多くの迷路があり、道路標識は少ないのである。
それでも、その旅路の途上にあってしかも上手くやっているジョー・ホルトのような人もいるのだ。ほとんどの人は、ある種の医療の手助けに頼っているが、各人は、度重なる試行錯誤を通して、コアとなるスキルを一から積み上げなければならなかった。今、ますます多くの人々があえて名乗りをあげ、自分の物語を一般の人に向かって伝えようとしているのである。
「回復ということに取り組むつもりならば、実際に回復した人々に、いったい何をやっているのかを尋ねたくなりますよね」。そう語るのはノースイースタン・オハイオ大学医学部の精神科の准教授のフレデリック・J.フレーゼ3世(Frederick J. Frese III)。彼は、自分自身が統合失調症と闘った経験を本に書いたことがある。
「従来の医学が、私たちの多くに対してあまり有効ではなかったことは確かですね」とフレーゼ博士は続けた。「だから、私たちは、生きのびるための多くのコツを自分自身で学ばなければならなかったのです」。
ホルト氏がもっている多くの資源のうちで、真っ先に挙げるべきは彼の妻である。彼女は腕のいい在宅のセラピストだったわけだが――逆説的なことに、それは、ある意味で、彼女が精神疾患を責任逃れをする十分な理由とは見なしていないからなのだ。
「これまで起こったすべてのことを思い返してみても、彼女がいまだに僕と一緒にいることはまったく信じられないね」とホルト氏は言った。彼は、今、ミズーリ州のカンザス・シティー近郊に住んでいる。「考えられないことかもしれないけれど、何年にもわたって、彼女が汚らしくひどいことを言っているのを僕は聞いてきたんだけど、彼女はそんなことを言ってはいなかったんだから」。
「俺はめちゃくちゃ壊れていた」
ロニー・ジョセフ・ホルトは、孤児として育った。両親が離婚した後、彼の祖母がジョーと上の三人の兄弟を引き取ったが、夫が死ぬと祖母はすぐに衰弱してしまった。子どもたちは近隣のアラバマ州カルマンの住居施設であるチャイルドヘイブンに引っ越した。そこは、祖母が通っていた教会が支援する施設だった。少なくとも子供たちはそこで一緒に住む予定だった。1964年2月20日だった。ジョーは3歳だった。
しかし、記録の語るところによると、施設のスタッフがホルト兄弟を離れ離れにしてしまった。兄弟たちはめったに顔を合わせることはなく、まして話す機会もなかった。施設が残していた(後にホルト氏が手に入れた)記録によると、長男のジャックは何度も脱走を試みたし、次女のスージーも少なくとも一度は脱走しようとした。
彼らには脱走する理由があった。「定期的に殴られたんだ、時にはボードで、時にはピンポンのラケットで、時にはカミソリの革砥でね」とホルト氏は言った。「聖書の一節を暗記しなければならなかったんだが、それができないと、殴られるんだ。気絶しちゃうんじゃないかと思うくらいひどく殴られたことも一度あった」。
テキサスのキリスト教会の聖職者だったジャックも、似たような記憶をもっている。
1984年、チャイルドヘイブンのあるスタッフは未成年の男性にわいせつな行為をした罪状を認め、また子供をラケットで殴った罪状を認める者もいた。(それ以来、スタッフは一変し、施設は監視員を常駐させ、いまではトップの施設と見なされています、とジェームズ・ライト所長は語った)。ホルト兄弟はその頃までには施設を離れていた。ジョーは家を転々とし、アラバマでしばらく暮らし、クリーブランドの父のところに移った後、カンザス・シティー近郊のハイウェイ71沿いにある複合施設のバンガロー式のアパートで、母と母の新しい夫と義理の兄弟たちと暮らすようになった。
しかしその暮らしは長くは続かなかった。ある夏の日、ジョーの母と夫は荷物をまとめてテキサスに引っ越していったが――お前は連れて行かないよ、と彼らは16歳の少年に言ったのだった。
「ジョーがその後どこで暮らしていたのか、正直言って、思い出せない」。高校の友人で、今でも親しいテッド・ロジャースはそう言った。「彼は一人で暮らしていたよ、ただ、どこで暮らしていたかは判らない――とにかくこの近辺だよ。彼は本当に何も言わなかったんだ」。
」(つづく)
実は、私はあの記事がシリーズ物だとは知らなかったのだが、改めて見てみると、たしかに記事の左側に明記されている。「重い精神疾患をかかえながら通常の仕事をこなし、自分のこれまでの悪戦苦闘をあえて公表することにふみ切った人々の経歴」を伝えるシリーズのようである。有益だと思うので、私としても、時間のゆるす限り、紹介の労をとろうと思っている。
リネハン博士とは違い、今回の主人公はアカデミックな人間ではない、幻聴に悩み続けてきた一人の男性の魂の遍歴である。
オリジナルは3ページに分かれているので、それと同様に3回に分けて紹介する。
Learning to Cope With a Mind’s Taunting Voices
By BENEDICT CAREY
Published: August 6, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/07/health/07lives.html?partner=rssnyt&emc=rss
「
あざける心の声と折り合いをつける

(声とともに生きる: 脳内の声にどのように対処したかを語る、統合失調症の診断をうけたコンピュータ・コンサルタントで起業家のジョー・ホルト)
ミズーリ州、リーズ・サミット―――職はもうない、銃に弾を込めた、そして声が次のように語りかけた。「お前はゴミだ、もうあきらめな、もうやってしまえ」。
それは忠告ではなく、命令だった。その時――2000年の冬のある夜だった――重要だったのは、その声がどこからやって来るかではなく、その声がどれほど確信に充ち、どれほど説得力があったかということだった。
初めて得たまともな職を失ったことは、ジョー・ホルトには耐えがたく、生きていられないように思えた。もう潮時だった。
「あの時のことで覚えているのは次のことだけだ。寝室のドアをノックする音があり、妻のパツィーがベッドに腰を下ろし僕を抱きしめた、僕は左手で銃を握りしめていた、パツィーには見えないようにね」。そう語るのは、統合失調症の診断をうけたコンピュータ・コンサルタントで起業家のジョー・ホルト(50)。
「彼女はこう言ったんだ。「ジョー、あなたが死にたいと思っているのは知っている、でも、明日になれば、望んでいるものが手に入るかもしれないわよ」。そして彼女は部屋から出ていった。 僕は、少なくとも1時間は銃をじっと見ながら座っていた、そしてついに心に決めたんだ――二度とこんなことはやめよう、ってね。自殺を選択肢にしちゃいけない。パツィーは、僕が努力するに値する女性なんだ、ってね」。
近年、研究者はメンタル・ヘルスについて、薬物中毒の専門家が回復――つまり回復といっても、それは自己を治療し訓練する生涯つづく旅のようなもので、それが薬物中毒の治療プログラムの指針なのだが――について語るのと同じように語るようになってきた。もっとも、その考えには異論の余地がある。重度の精神疾患をコントロールすることは、単に{薬物に手を出す、というような}ある種の行動を回避することよりも複雑なものであるからだ。その旅には、薬物治療よりも多くの迷路があり、道路標識は少ないのである。
それでも、その旅路の途上にあってしかも上手くやっているジョー・ホルトのような人もいるのだ。ほとんどの人は、ある種の医療の手助けに頼っているが、各人は、度重なる試行錯誤を通して、コアとなるスキルを一から積み上げなければならなかった。今、ますます多くの人々があえて名乗りをあげ、自分の物語を一般の人に向かって伝えようとしているのである。
「回復ということに取り組むつもりならば、実際に回復した人々に、いったい何をやっているのかを尋ねたくなりますよね」。そう語るのはノースイースタン・オハイオ大学医学部の精神科の准教授のフレデリック・J.フレーゼ3世(Frederick J. Frese III)。彼は、自分自身が統合失調症と闘った経験を本に書いたことがある。
「従来の医学が、私たちの多くに対してあまり有効ではなかったことは確かですね」とフレーゼ博士は続けた。「だから、私たちは、生きのびるための多くのコツを自分自身で学ばなければならなかったのです」。
ホルト氏がもっている多くの資源のうちで、真っ先に挙げるべきは彼の妻である。彼女は腕のいい在宅のセラピストだったわけだが――逆説的なことに、それは、ある意味で、彼女が精神疾患を責任逃れをする十分な理由とは見なしていないからなのだ。
「これまで起こったすべてのことを思い返してみても、彼女がいまだに僕と一緒にいることはまったく信じられないね」とホルト氏は言った。彼は、今、ミズーリ州のカンザス・シティー近郊に住んでいる。「考えられないことかもしれないけれど、何年にもわたって、彼女が汚らしくひどいことを言っているのを僕は聞いてきたんだけど、彼女はそんなことを言ってはいなかったんだから」。
「俺はめちゃくちゃ壊れていた」
ロニー・ジョセフ・ホルトは、孤児として育った。両親が離婚した後、彼の祖母がジョーと上の三人の兄弟を引き取ったが、夫が死ぬと祖母はすぐに衰弱してしまった。子どもたちは近隣のアラバマ州カルマンの住居施設であるチャイルドヘイブンに引っ越した。そこは、祖母が通っていた教会が支援する施設だった。少なくとも子供たちはそこで一緒に住む予定だった。1964年2月20日だった。ジョーは3歳だった。
しかし、記録の語るところによると、施設のスタッフがホルト兄弟を離れ離れにしてしまった。兄弟たちはめったに顔を合わせることはなく、まして話す機会もなかった。施設が残していた(後にホルト氏が手に入れた)記録によると、長男のジャックは何度も脱走を試みたし、次女のスージーも少なくとも一度は脱走しようとした。
彼らには脱走する理由があった。「定期的に殴られたんだ、時にはボードで、時にはピンポンのラケットで、時にはカミソリの革砥でね」とホルト氏は言った。「聖書の一節を暗記しなければならなかったんだが、それができないと、殴られるんだ。気絶しちゃうんじゃないかと思うくらいひどく殴られたことも一度あった」。
テキサスのキリスト教会の聖職者だったジャックも、似たような記憶をもっている。
1984年、チャイルドヘイブンのあるスタッフは未成年の男性にわいせつな行為をした罪状を認め、また子供をラケットで殴った罪状を認める者もいた。(それ以来、スタッフは一変し、施設は監視員を常駐させ、いまではトップの施設と見なされています、とジェームズ・ライト所長は語った)。ホルト兄弟はその頃までには施設を離れていた。ジョーは家を転々とし、アラバマでしばらく暮らし、クリーブランドの父のところに移った後、カンザス・シティー近郊のハイウェイ71沿いにある複合施設のバンガロー式のアパートで、母と母の新しい夫と義理の兄弟たちと暮らすようになった。
しかしその暮らしは長くは続かなかった。ある夏の日、ジョーの母と夫は荷物をまとめてテキサスに引っ越していったが――お前は連れて行かないよ、と彼らは16歳の少年に言ったのだった。
「ジョーがその後どこで暮らしていたのか、正直言って、思い出せない」。高校の友人で、今でも親しいテッド・ロジャースはそう言った。「彼は一人で暮らしていたよ、ただ、どこで暮らしていたかは判らない――とにかくこの近辺だよ。彼は本当に何も言わなかったんだ」。
」(つづく)
情報を隠蔽し住民被曝(その2) [海外のニュース記事]
Speediのデータを官僚や原子力の専門家たちは充分知っていた。しかし責任のあまりの重大さに恐れをなして、厄介払いにしようとした。文科省と二つある原子力の監視機関の間で、Speediのデータに関する責任の所在が、組織間でたらい回しにされる経緯が、以下の記事で判りやすく描かれていると思う。
まあ、役人とはそういう小心さと狡猾さが同居する保身と無責任の存在なのだということは昔から知られていたことであり、だからこそ、そうした存在を一段上からコントロールする役目を政治家が負わなければならない、というのが民主党の主張だったはずだが、しかし、肝心の政治家も、このあまりに重すぎる責任からは後ずさりするしかなかったようだ・・・・
しかし、最後の郡山市長の言葉にも出てくるように、まだ希望をもてるものがあるとすれば、それは、国民の知的レベルの高さだけなのかもしれない。そこに希望を繋ぎとめておこう。
地震直後から仙台・福島に張りついていたMartin Fackler記者の入魂の記事であると思う。
Japan Held Nuclear Data, Leaving Evacuees in Peril
By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER
Published: August 8, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/09/world/asia/09japan.html?pagewanted=3&_r=1&partner=rssnyt&emc=rss
「 原発のデータの公表を抑え避難民を危険な状態に放置した日本政府(その2)

(郡山の学校の汚染された土)

(日本政府は当初、原発周辺に円を描き、その円内にいるすべての住民を避難させていたが、被害の規模が明らかになるにつれて、避難区域の半径は当初の3キロから10キロへ、そして次には20キロへと大きくなっていった)
しかし小佐古氏によれば、不完全なデータしかなくても、放射線の放出レベルに関しては科学的な推測をし、それによって避難計画の道筋を示す有用なマップを作ることができるのだから、Speediを使うべきですと彼は政府に働きかけた。実は、文科省は、放出された放射線量のシミュレーションをSpeediのコンピュータ上で行うことで、まさにその作業をしていたのだ。そのマップのいくつかには、放射性物質による汚染のプルーム(雲)が、当初避難指定された区域を越えて、原発の北西方向に伸びている様子がはっきりと示されていた。
しかし、首相官邸は、Speediの存在に気づいた後でも、その予測結果を公表することを拒んだのだが、小佐古氏によると、それは、政府高官たちが、自分たちの判断が後で疑問視された場合、費用のかかる避難に対する責任を取りたくなかったからなのだという。
避難区域を広げることは、数十万人もの人々を故郷から引き離し、その人々のための住み家をすでに人口過密な国土に探し求めることを意味する。とくに地震発生直後の日々は、道路が寸断され電車も走っていなかった。これらのことを考慮した結果、政府は、避難民をすでに原発周辺地域から離れていた8万人を越えないように制限し、さらに増える避難民に対する補償金の支払いを必死になって避けようとした、とインタビューを受けた新旧の高官たちは語った。
小佐古氏によれば、Speediのマップを公表してほしいという彼の必死の願いを首相側近たちは何度も黙殺し、そのため彼は、子供たちが危険なレベルの放射線に曝されているという懸念を抱きながら、4月に辞任した。
首相のアドバイザーの中には、Speediのシステムが放射線プルームの方向を予測する上でそれほど有用ではなかったと主張する人もいる。内閣府の諮問機関の一つである原子力委員会の委員長である近藤駿介は、最初の数日間のSpeediのマップは首尾一貫しておらず、風向き次第で一日に何度も変わった、と述べた。
「有用でないとすれば、それを公表する必要なんてないでしょう」と、東京大学で原子力工学の元教授だった近藤氏はそう述べた。「福島の地にいて、風がどちらに吹いているのかを見ていた人ならば、Speediと同じくらいのことは知っていましたよ」。
しかし、小佐古氏や他の研究者は、Speediのマップは、そのシステムの大量のデータをソートする方法を知っている人の手にかかれば、きわめて有益だっただろうと言う。小佐古氏によれば、Speediのデータの読み取りはとても複雑で、しかも放射線の広がりの予測はとても緊急性を要していたので、三つの別々の政府機関――文科省と、原子力安全保安院と原子力安全委員会の二つの原発監視機関――は、Speediのデータを熱いポテトのように厄介払いし押しつけ合うばかりで、いずれもSpeediの予測結果に対する責任を引き受けようとはしなかったのだ。
インタビューで、文科省や監視機関の関係者たちは、Speediの責任をもつのは別の所だと言いながら、責任のなすり合いをするばかりだった。原子力安全委員会の委員長はインタビューされるのを断った。
浪江長の町長である馬場氏は、Speediのデータがもっと早く利用可能になっていたら、当然、町民はもっと安全な場所に逃げることを選択したでしょう、と語った。「しかし、われわれにはその情報がなかったのです」と彼は言った。「悔しいですね」。
今、二本松市の仮設住宅にいる避難民は、津島では安全だと思っていたから、ほとんど用心することもなかったと言った。ヨウコ・ノザワ(70)は、トイレがなかったから、地面のくぼんだ場所で用を足したと述べたが、そこは放射線の線量がそれ以外の場所よりも高かったことはほぼ確実な場所であった。
「私たちは最悪の場所にいたのに、それを知らなかったの」とノザワさんは言った。「子供たちは外で遊んでいたのよ」。
隣に住んでいるヒロユキ・オト(31)は、地震発生時には東京電力の下請け会社の社員として原発内で作業をしていたが、今は、津島での滞在の後、妻と3人の子供たちと一緒に、仮設住宅にいると語った。「今から数年たって初めて影響が出てくるかもしれない」。被曝について彼はそう語った。「子供たちのことが心配です」。
(ページ3おわり)
細野氏は、原発危機対応担当大臣なのだが、Speediのデータを含むある種の情報が「パニックを引き起こす」ことを心配して公表を控えられたと述べた。あるインタビューで、細野氏は――今では、東京電力の関係者や原子力規制当局とともに、ほぼ毎日会見を開いているが―― 政府は「考え方を改め」、できるだけ早く情報を公開しようと努力している、と述べた。
評論家だけでなく、ますます懐疑的になりつつある国民は、納得している様子には見えない。この政府の対応を1950年代の水俣病のケースになぞらえる人もいる。水俣病とは、官僚と業界関係者が結託して、ある化学工場が水俣湾に水銀をたれ流しているという事実を隠すことによって、経済成長を守ろうとした国家的スキャンダルであった。水銀は、その地域に住む何千人もの人々に神経障害を引き起こし、被害者たちの胸をえぐるような写真に撮えられた。
「国民を守ろうという気持ちをもっていたならば、すぐに情報を公表しなければなりませんでしたね」。そう語るのは、立教大学で社会学を教え、水俣病がいかに隠蔽されたかに詳しい関礼子。「水俣の経験があるにもかかわらず、政府はSpeediを公表しませんでした」。
原発から約40マイル西にある郡山市の親たちからなるあるグループは、政府の大丈夫ですという発表を信じるのを止めたと言い、最近、保守的な農村地域では考えられない行動に出た。彼らは訴訟に打って出たのだ。彼らの訴訟は、郡山市に子供たちをもっと安全な地域に移すように求めるものだが、彼らの本当の狙いは、避難民や一般国民の健康被害に関する国の姿勢に異議を唱えることである。
原発事故の後、政府は法定被曝限界を年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトにまで引き上げたが、これは子どもにも適用される数値だった――それは、以前の基準では立ち入り禁止になってしまうような地域で暮らし続けることを可能にするための引き上げだった。この上限は、後に、年間1ミリシーベルトに引き下げられたが、それは、学校の建物の中にいる間の子供にのみ適用されるものだった。
原告の弁護士であるトシオ・ヤナギハラは、政府当局が情報を公開しないのは、原発事故の健康被害から注意をそらすためですよ、なぜならその被害はもう何年も経ってからようやく明らかになるものですからね、と語った。
「影響はすぐに明らかにならないので、時間がたてば、タバコやコーヒーが癌を引き起こしたのだと主張することもできますからね」と彼は言った。
日本政府は福島の住民の長期的な健康を監視し、将来的に適切な措置を講ずることを検討しています、と衆議院議員で内閣府大臣政務官の園田康博は述べた。郡山市長の原正夫は、政府の放射線基準が安全でないとは思わないと述べた。彼は、郡山市の3万3千人もいる小学生と中学生を避難させるのは「非現実的」だ、と述べた。
しかし郡山市は、国の指令よりも先を行っていて、国から言われるより先に、市内の学校から表土を除去し、文科省の役人が定めたものよりも厳しい検査基準を定めたのだ。
「結局、日本国民の知的レベルは高いのです」と市長は語った。「だからこそ、国民、特に福島の人々が判断できるように、情報は正確で迅速に開示されるべきだ、と私は思うのです」。
(4ページおわり)
」(おわり)
まあ、役人とはそういう小心さと狡猾さが同居する保身と無責任の存在なのだということは昔から知られていたことであり、だからこそ、そうした存在を一段上からコントロールする役目を政治家が負わなければならない、というのが民主党の主張だったはずだが、しかし、肝心の政治家も、このあまりに重すぎる責任からは後ずさりするしかなかったようだ・・・・
しかし、最後の郡山市長の言葉にも出てくるように、まだ希望をもてるものがあるとすれば、それは、国民の知的レベルの高さだけなのかもしれない。そこに希望を繋ぎとめておこう。
地震直後から仙台・福島に張りついていたMartin Fackler記者の入魂の記事であると思う。
Japan Held Nuclear Data, Leaving Evacuees in Peril
By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER
Published: August 8, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/09/world/asia/09japan.html?pagewanted=3&_r=1&partner=rssnyt&emc=rss
「 原発のデータの公表を抑え避難民を危険な状態に放置した日本政府(その2)

(郡山の学校の汚染された土)

(日本政府は当初、原発周辺に円を描き、その円内にいるすべての住民を避難させていたが、被害の規模が明らかになるにつれて、避難区域の半径は当初の3キロから10キロへ、そして次には20キロへと大きくなっていった)
しかし小佐古氏によれば、不完全なデータしかなくても、放射線の放出レベルに関しては科学的な推測をし、それによって避難計画の道筋を示す有用なマップを作ることができるのだから、Speediを使うべきですと彼は政府に働きかけた。実は、文科省は、放出された放射線量のシミュレーションをSpeediのコンピュータ上で行うことで、まさにその作業をしていたのだ。そのマップのいくつかには、放射性物質による汚染のプルーム(雲)が、当初避難指定された区域を越えて、原発の北西方向に伸びている様子がはっきりと示されていた。
しかし、首相官邸は、Speediの存在に気づいた後でも、その予測結果を公表することを拒んだのだが、小佐古氏によると、それは、政府高官たちが、自分たちの判断が後で疑問視された場合、費用のかかる避難に対する責任を取りたくなかったからなのだという。
避難区域を広げることは、数十万人もの人々を故郷から引き離し、その人々のための住み家をすでに人口過密な国土に探し求めることを意味する。とくに地震発生直後の日々は、道路が寸断され電車も走っていなかった。これらのことを考慮した結果、政府は、避難民をすでに原発周辺地域から離れていた8万人を越えないように制限し、さらに増える避難民に対する補償金の支払いを必死になって避けようとした、とインタビューを受けた新旧の高官たちは語った。
小佐古氏によれば、Speediのマップを公表してほしいという彼の必死の願いを首相側近たちは何度も黙殺し、そのため彼は、子供たちが危険なレベルの放射線に曝されているという懸念を抱きながら、4月に辞任した。
首相のアドバイザーの中には、Speediのシステムが放射線プルームの方向を予測する上でそれほど有用ではなかったと主張する人もいる。内閣府の諮問機関の一つである原子力委員会の委員長である近藤駿介は、最初の数日間のSpeediのマップは首尾一貫しておらず、風向き次第で一日に何度も変わった、と述べた。
「有用でないとすれば、それを公表する必要なんてないでしょう」と、東京大学で原子力工学の元教授だった近藤氏はそう述べた。「福島の地にいて、風がどちらに吹いているのかを見ていた人ならば、Speediと同じくらいのことは知っていましたよ」。
しかし、小佐古氏や他の研究者は、Speediのマップは、そのシステムの大量のデータをソートする方法を知っている人の手にかかれば、きわめて有益だっただろうと言う。小佐古氏によれば、Speediのデータの読み取りはとても複雑で、しかも放射線の広がりの予測はとても緊急性を要していたので、三つの別々の政府機関――文科省と、原子力安全保安院と原子力安全委員会の二つの原発監視機関――は、Speediのデータを熱いポテトのように厄介払いし押しつけ合うばかりで、いずれもSpeediの予測結果に対する責任を引き受けようとはしなかったのだ。
インタビューで、文科省や監視機関の関係者たちは、Speediの責任をもつのは別の所だと言いながら、責任のなすり合いをするばかりだった。原子力安全委員会の委員長はインタビューされるのを断った。
浪江長の町長である馬場氏は、Speediのデータがもっと早く利用可能になっていたら、当然、町民はもっと安全な場所に逃げることを選択したでしょう、と語った。「しかし、われわれにはその情報がなかったのです」と彼は言った。「悔しいですね」。
今、二本松市の仮設住宅にいる避難民は、津島では安全だと思っていたから、ほとんど用心することもなかったと言った。ヨウコ・ノザワ(70)は、トイレがなかったから、地面のくぼんだ場所で用を足したと述べたが、そこは放射線の線量がそれ以外の場所よりも高かったことはほぼ確実な場所であった。
「私たちは最悪の場所にいたのに、それを知らなかったの」とノザワさんは言った。「子供たちは外で遊んでいたのよ」。
隣に住んでいるヒロユキ・オト(31)は、地震発生時には東京電力の下請け会社の社員として原発内で作業をしていたが、今は、津島での滞在の後、妻と3人の子供たちと一緒に、仮設住宅にいると語った。「今から数年たって初めて影響が出てくるかもしれない」。被曝について彼はそう語った。「子供たちのことが心配です」。
(ページ3おわり)
細野氏は、原発危機対応担当大臣なのだが、Speediのデータを含むある種の情報が「パニックを引き起こす」ことを心配して公表を控えられたと述べた。あるインタビューで、細野氏は――今では、東京電力の関係者や原子力規制当局とともに、ほぼ毎日会見を開いているが―― 政府は「考え方を改め」、できるだけ早く情報を公開しようと努力している、と述べた。
評論家だけでなく、ますます懐疑的になりつつある国民は、納得している様子には見えない。この政府の対応を1950年代の水俣病のケースになぞらえる人もいる。水俣病とは、官僚と業界関係者が結託して、ある化学工場が水俣湾に水銀をたれ流しているという事実を隠すことによって、経済成長を守ろうとした国家的スキャンダルであった。水銀は、その地域に住む何千人もの人々に神経障害を引き起こし、被害者たちの胸をえぐるような写真に撮えられた。
「国民を守ろうという気持ちをもっていたならば、すぐに情報を公表しなければなりませんでしたね」。そう語るのは、立教大学で社会学を教え、水俣病がいかに隠蔽されたかに詳しい関礼子。「水俣の経験があるにもかかわらず、政府はSpeediを公表しませんでした」。
原発から約40マイル西にある郡山市の親たちからなるあるグループは、政府の大丈夫ですという発表を信じるのを止めたと言い、最近、保守的な農村地域では考えられない行動に出た。彼らは訴訟に打って出たのだ。彼らの訴訟は、郡山市に子供たちをもっと安全な地域に移すように求めるものだが、彼らの本当の狙いは、避難民や一般国民の健康被害に関する国の姿勢に異議を唱えることである。
原発事故の後、政府は法定被曝限界を年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトにまで引き上げたが、これは子どもにも適用される数値だった――それは、以前の基準では立ち入り禁止になってしまうような地域で暮らし続けることを可能にするための引き上げだった。この上限は、後に、年間1ミリシーベルトに引き下げられたが、それは、学校の建物の中にいる間の子供にのみ適用されるものだった。
原告の弁護士であるトシオ・ヤナギハラは、政府当局が情報を公開しないのは、原発事故の健康被害から注意をそらすためですよ、なぜならその被害はもう何年も経ってからようやく明らかになるものですからね、と語った。
「影響はすぐに明らかにならないので、時間がたてば、タバコやコーヒーが癌を引き起こしたのだと主張することもできますからね」と彼は言った。
日本政府は福島の住民の長期的な健康を監視し、将来的に適切な措置を講ずることを検討しています、と衆議院議員で内閣府大臣政務官の園田康博は述べた。郡山市長の原正夫は、政府の放射線基準が安全でないとは思わないと述べた。彼は、郡山市の3万3千人もいる小学生と中学生を避難させるのは「非現実的」だ、と述べた。
しかし郡山市は、国の指令よりも先を行っていて、国から言われるより先に、市内の学校から表土を除去し、文科省の役人が定めたものよりも厳しい検査基準を定めたのだ。
「結局、日本国民の知的レベルは高いのです」と市長は語った。「だからこそ、国民、特に福島の人々が判断できるように、情報は正確で迅速に開示されるべきだ、と私は思うのです」。
(4ページおわり)
」(おわり)
情報を隠蔽し住民被曝 [海外のニュース記事]
「原発に関する情報を隠したり、知識不足や保身を優先することで機敏な対処ができなかったために住民を被曝させてしまった」日本政府の内情を明らかにするNYタイムズの記事を紹介する。
原文は4ページからなる長文だが、二回に分けて紹介しよう。
Japan Held Nuclear Data, Leaving Evacuees in Peril
By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER
Published: August 8, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/09/world/asia/09japan.html?partner=rssnyt&emc=rss
「
原発のデータの公表を抑え避難民を危険な状態に放置した日本政府

(郡山の学校の汚染された土)
巨大な津波が福島第一原子力発電所に相次ぐ被害をもたらした翌日、近くの浪江町の住民数千人が避難しようと集まった。
東京からの指示が何もなかったので、町役場の職員は住民たちを北側に避難させた。冬の風が南に吹いていたため、放射性物質が漏れ出ていても北側には来ないだろうと思ったからである。3日3晩、4基の原子炉で起こった水素爆発のせいで放射性物質が大気に放出される中、浪江町の避難民は津島と呼ばれる地区にとどまったが、そこで子供たちは外で遊び、ご飯を炊くために渓流の水を使う親たちもいた。

(放射性物質飛散の初期の予想)
ところが実際は、風は津島方面に吹いていたのだ――放射性物質の広がりを予測するための政府のコンピュータ・システムがまさにその事態を示していたことを、町役場の職員が知ることになるのは二ヶ月後のことだった。
しかし、そうした予測は、東京の官僚たちによって公表されずに放置された。彼らは、責任や、とりわけ批判を回避しようと試みる文化の中で仕事をしているからである。日本の政治指導者たちは、そのシステムについて最初は知らなかったし、知ってからも、避難地域を大幅に拡大しなければならない――したがって、事故の重大性を認めなければならない――ことを恐れて、そのシステムがはじき出したデータを重要視しなかった。
「12日から15日まで、私たちは放射線のレベルが最高だった場所の一つにいたのです」と語るのは、原発から5マイル離れたところにある浪江町の馬場保町長。彼と数千人におよぶ浪江町の避難民は、今、二本松市の仮設住宅で暮らしている。「放射線の内部被曝についてはとても心配です」。
情報の秘匿は「殺人」に等しいですよ、と町長は言った。
日本の政府当局が、不利な情報を公表しなかったり原発事故に関する事実を否認した――それは、土地のあまりない日本において避難という措置を講ずるのは費用がかかり混乱を招くので、避難の規模を制限するためでもあったし、政治的に強力な原発産業を国民が疑問視するのを避けるためでもあった――ことを、インタビューや公式声明の中で認める発言をした政府高官もいた。原子力発電所が放射性物資を放出し続け、その物質が国産の食糧に紛れ込んでしまったなかで、事故の規模や健康被害のリスクを過小評価しようとする政府のキャンペーンと多くの日本人が捉えているものに対する国民の怒りは、日増しに増大しつつある。
原子炉工学の研究者だったために、危機の最中に菅首相からアドバイスを求められた空本誠喜衆議院議員は、緊急時迅速放射能影響予測(Speedi)として知られるコンピュータ・システムの予測データの公表を控えたという理由で政府を非難した。
「結局、Speediのデータを隠したのは首相官邸でしたね」と彼は言った。「そのデータが何を意味するのか知識がなかったし、だから国民に何と言えばいいのか判らなかったので、彼らは自分たちの保身のことだけを考えて、そのデータを発表しない方が容易に行くだろうと決めたのです」。
あるインタビューで、原発事故担当大臣の細野豪志は、政治的な思惑によってSpeediの初期のデータの公表が遅れたという非難を退けた。彼によれば、それらのデータが開示されなかったのは、不完全で不正確であったからであり、彼自身にもそのデータは3月23日になってようやく提示されたのだという。
「そしてその日に、私たちはそのデータを公開したのです」と細野氏は言った。彼は、原発事故担当大臣に任命される以前、原発危機の初期の頃、首相に最も近いアドバイザーの一人だった。「その日以前については、私自身確かなことは判らない。それに先立つ日々は、国家としての日本にとって生きるか死ぬかの日々だったので、Speediで起こっていたことに私は関与していませんでした」。
コンピュータの予測データは、当初、日本政府が国民の目から隠そうとしていた多くの情報の一つだった。
福島第一の6基ある原子炉のうち3基でメルトダウンが起こっていたことは、数ヶ月間、公式には認められていなかった。津波の翌日には、メルトダウンの動かぬ証拠と専門家が呼ぶテルル(tellurium)132を検査官が検出していた――が、ほぼ3か月にわたって国民に知らせなかった――ことを、東京電力は6月の初旬になって公表したが、これなどは最も悪質な自白の一つである。事故後数カ月間、政府は学校の校庭で許容できる放射線のレベルについて見解をコロコロ変え、福島の子供たちの安全についていつまでも止むことのない混乱と不安を引き起こしたのである。
(ページ1終わり)
多くの自白のタイミング――5月末から6月初めになされたのだが、それは、国際原子力機関(IAEA)の視察管が日本を訪れた時期であり、日本がIAEAの会議で事故についての報告をする直前だった――が示唆しているのは、批判する側から見れば、日本の原発機構の中枢が正直に告白するようになったのは、もはや事故の規模について隠しおおせなくなったからにすぎない。7月4日に、原子力に関わる学者や業界幹部のグループである日本原子力学会は、次のような声明を出した。「このような重要な情報が事故後三ヶ月間、国民に対して公表されることがなく、三ヶ月目にして海外の会議の資料の中でようやく公表されるにいたったことは、きわめて遺憾なことである」。
日本原子力学会は、被害のいっそう完全な全体像をもたらす原子炉圧力容器内の水位や温度などの情報を、関係当局はまだ開示していない、と付け加えた。別の専門家によれば、政府もテプコとして知られている東京電力も、ある政府高官が述べたように、原子炉の冷却システムは45フィートの津波だけによって破壊されたのか、それとも、地震による被害も一役買っていたのか、その点に光を当てる原発のデータをまだ開示していない。これらの点で何か発見があれば、日本のような地震活動が活発な国にある別の原子力発電所の安全性に疑問を投げかけることになるかもしれない{だからこそ、そうしたデータはいまだに公表されていない、という推測も成り立つのである――訳者註}。
政府高官たちは、わざと国民を危険にさらすようなことはしなかったと主張している。
「原則として、政府は、国民の健康や安全を犠牲にするような仕方で行動したことは決してありませんでした」と原発担当相の細野氏は述べた。
福島市でもそれ以外のところでも、多くの作業員が原発から放出された放射性粒子で汚染された校庭から表土を除去している。何万人もの子どもたちが、こんなに暑い夏の日に、校舎の中に閉じ込められているのだが、窓は閉め切っているのに、マスクをしている子供もいるのだ。やがて、多くの子供たちが、放射線への被ばくを測る個人用の線量計を身に着けることになるだろう。
福島第4小学校では、6年生は最近校舎内で、日本の伝統のボードゲームである将棋や囲碁で遊んでいる。家族ともども浪江町からここに避難してきたナオ・ミヤバシ(11)は、放射線が恐いと言った。彼女は雨に濡れないようにしている。家に帰るとすぐに、うがいをして手を洗うのだという。
「外で遊びたいな」と彼女は言った。
5月下旬に福島の三つの地域で行われた調査で、1080人の子どものうち約45%が、放射線の甲状腺被曝の検査で陽性反応を示した、と政府は最近発表したが、それに加えて、その被曝レベルはあまりに低いので、さらなる検査は無用である、と述べた。日本の内外の専門家の多くは、チェルノブイリでは、甲状腺癌に苦しみ続けた人のほとんどが、事故当時、原発の近くで生活していた子供たちだったと指摘して、日本政府のこの判断を疑問視している。
菅内閣の内外にいる批判的な人々は、政府がもっと早くデータを公表していたならば防ぐことができた被曝もあっただろうと主張する。
3月15日の夕方、菅氏は、かつて東芝の原発プラントを設計したこともある空本氏に電話をかけ、悪化する危機に対処するために知恵を借してくれと願い出た。空本氏は即興の顧問団を作ったが、その中には彼の恩師の東京大学の元教授で、放射線測定に関しては日本のトップの専門家である小佐古敏荘も含まれていた。
小佐古氏はチェルノブイリの危機に対するソ連政府の対処方法を研究した人だが、彼は、首相官邸にいる指導者たちが利用可能なデータについていかにわずかな知識しか持っていないかを知って愕然とした。彼はすぐに、枝野幸夫官房長官にSpeediを使うように進言した。Speediは、大気中に放出された放射性物質の測定値と気象や地形データを使って、放出された後の放射性物質がどのように移動するのかを予測するシステムですよ、と。
Speediは、放射性物質の飛散の予測を行うために1980年代に設計されたものだが、その予測は、首相官邸の独自の原発事故対応マニュアルによれば、放射性プルーム(放射性雲)から避難民を守るために、少なくとも地方の公務員や救助隊員には利用できるようにすると想定されていた。
そして確かに、Speediは、あの壊滅的な地震と津波発生の数時間後から、一時間刻みで、放射線飛散のマップや別のデータを作成し続けていた。しかし文科省はそのデータを首相官邸に提供しなかった。情報が不完全だったから、というのが文科省の言い分だった。津波で、原発に設置されたセンサーが壊れてしまったからだ。実際に原発からどれくらいの放射線が放出されたかの測定値がなければ、放射性プルームがどこまで達しているかを測定することは不可能だ、というのが文科省の言い分だった。
「放出がどれくらいの強さだったかが判らないならば、避難を命じても、われわれとしては責任の取りようがないでしょう」。Speediを管理する文科省の原子力安全部門のケイジ・ミヤモトはそう語った。
(ページ2おわり)
」(つづく)
原文は4ページからなる長文だが、二回に分けて紹介しよう。
Japan Held Nuclear Data, Leaving Evacuees in Peril
By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER
Published: August 8, 2011
http://www.nytimes.com/2011/08/09/world/asia/09japan.html?partner=rssnyt&emc=rss
「
原発のデータの公表を抑え避難民を危険な状態に放置した日本政府

(郡山の学校の汚染された土)
巨大な津波が福島第一原子力発電所に相次ぐ被害をもたらした翌日、近くの浪江町の住民数千人が避難しようと集まった。
東京からの指示が何もなかったので、町役場の職員は住民たちを北側に避難させた。冬の風が南に吹いていたため、放射性物質が漏れ出ていても北側には来ないだろうと思ったからである。3日3晩、4基の原子炉で起こった水素爆発のせいで放射性物質が大気に放出される中、浪江町の避難民は津島と呼ばれる地区にとどまったが、そこで子供たちは外で遊び、ご飯を炊くために渓流の水を使う親たちもいた。

(放射性物質飛散の初期の予想)
ところが実際は、風は津島方面に吹いていたのだ――放射性物質の広がりを予測するための政府のコンピュータ・システムがまさにその事態を示していたことを、町役場の職員が知ることになるのは二ヶ月後のことだった。
しかし、そうした予測は、東京の官僚たちによって公表されずに放置された。彼らは、責任や、とりわけ批判を回避しようと試みる文化の中で仕事をしているからである。日本の政治指導者たちは、そのシステムについて最初は知らなかったし、知ってからも、避難地域を大幅に拡大しなければならない――したがって、事故の重大性を認めなければならない――ことを恐れて、そのシステムがはじき出したデータを重要視しなかった。
「12日から15日まで、私たちは放射線のレベルが最高だった場所の一つにいたのです」と語るのは、原発から5マイル離れたところにある浪江町の馬場保町長。彼と数千人におよぶ浪江町の避難民は、今、二本松市の仮設住宅で暮らしている。「放射線の内部被曝についてはとても心配です」。
情報の秘匿は「殺人」に等しいですよ、と町長は言った。
日本の政府当局が、不利な情報を公表しなかったり原発事故に関する事実を否認した――それは、土地のあまりない日本において避難という措置を講ずるのは費用がかかり混乱を招くので、避難の規模を制限するためでもあったし、政治的に強力な原発産業を国民が疑問視するのを避けるためでもあった――ことを、インタビューや公式声明の中で認める発言をした政府高官もいた。原子力発電所が放射性物資を放出し続け、その物質が国産の食糧に紛れ込んでしまったなかで、事故の規模や健康被害のリスクを過小評価しようとする政府のキャンペーンと多くの日本人が捉えているものに対する国民の怒りは、日増しに増大しつつある。
原子炉工学の研究者だったために、危機の最中に菅首相からアドバイスを求められた空本誠喜衆議院議員は、緊急時迅速放射能影響予測(Speedi)として知られるコンピュータ・システムの予測データの公表を控えたという理由で政府を非難した。
「結局、Speediのデータを隠したのは首相官邸でしたね」と彼は言った。「そのデータが何を意味するのか知識がなかったし、だから国民に何と言えばいいのか判らなかったので、彼らは自分たちの保身のことだけを考えて、そのデータを発表しない方が容易に行くだろうと決めたのです」。
あるインタビューで、原発事故担当大臣の細野豪志は、政治的な思惑によってSpeediの初期のデータの公表が遅れたという非難を退けた。彼によれば、それらのデータが開示されなかったのは、不完全で不正確であったからであり、彼自身にもそのデータは3月23日になってようやく提示されたのだという。
「そしてその日に、私たちはそのデータを公開したのです」と細野氏は言った。彼は、原発事故担当大臣に任命される以前、原発危機の初期の頃、首相に最も近いアドバイザーの一人だった。「その日以前については、私自身確かなことは判らない。それに先立つ日々は、国家としての日本にとって生きるか死ぬかの日々だったので、Speediで起こっていたことに私は関与していませんでした」。
コンピュータの予測データは、当初、日本政府が国民の目から隠そうとしていた多くの情報の一つだった。
福島第一の6基ある原子炉のうち3基でメルトダウンが起こっていたことは、数ヶ月間、公式には認められていなかった。津波の翌日には、メルトダウンの動かぬ証拠と専門家が呼ぶテルル(tellurium)132を検査官が検出していた――が、ほぼ3か月にわたって国民に知らせなかった――ことを、東京電力は6月の初旬になって公表したが、これなどは最も悪質な自白の一つである。事故後数カ月間、政府は学校の校庭で許容できる放射線のレベルについて見解をコロコロ変え、福島の子供たちの安全についていつまでも止むことのない混乱と不安を引き起こしたのである。
(ページ1終わり)
多くの自白のタイミング――5月末から6月初めになされたのだが、それは、国際原子力機関(IAEA)の視察管が日本を訪れた時期であり、日本がIAEAの会議で事故についての報告をする直前だった――が示唆しているのは、批判する側から見れば、日本の原発機構の中枢が正直に告白するようになったのは、もはや事故の規模について隠しおおせなくなったからにすぎない。7月4日に、原子力に関わる学者や業界幹部のグループである日本原子力学会は、次のような声明を出した。「このような重要な情報が事故後三ヶ月間、国民に対して公表されることがなく、三ヶ月目にして海外の会議の資料の中でようやく公表されるにいたったことは、きわめて遺憾なことである」。
日本原子力学会は、被害のいっそう完全な全体像をもたらす原子炉圧力容器内の水位や温度などの情報を、関係当局はまだ開示していない、と付け加えた。別の専門家によれば、政府もテプコとして知られている東京電力も、ある政府高官が述べたように、原子炉の冷却システムは45フィートの津波だけによって破壊されたのか、それとも、地震による被害も一役買っていたのか、その点に光を当てる原発のデータをまだ開示していない。これらの点で何か発見があれば、日本のような地震活動が活発な国にある別の原子力発電所の安全性に疑問を投げかけることになるかもしれない{だからこそ、そうしたデータはいまだに公表されていない、という推測も成り立つのである――訳者註}。
政府高官たちは、わざと国民を危険にさらすようなことはしなかったと主張している。
「原則として、政府は、国民の健康や安全を犠牲にするような仕方で行動したことは決してありませんでした」と原発担当相の細野氏は述べた。
福島市でもそれ以外のところでも、多くの作業員が原発から放出された放射性粒子で汚染された校庭から表土を除去している。何万人もの子どもたちが、こんなに暑い夏の日に、校舎の中に閉じ込められているのだが、窓は閉め切っているのに、マスクをしている子供もいるのだ。やがて、多くの子供たちが、放射線への被ばくを測る個人用の線量計を身に着けることになるだろう。
福島第4小学校では、6年生は最近校舎内で、日本の伝統のボードゲームである将棋や囲碁で遊んでいる。家族ともども浪江町からここに避難してきたナオ・ミヤバシ(11)は、放射線が恐いと言った。彼女は雨に濡れないようにしている。家に帰るとすぐに、うがいをして手を洗うのだという。
「外で遊びたいな」と彼女は言った。
5月下旬に福島の三つの地域で行われた調査で、1080人の子どものうち約45%が、放射線の甲状腺被曝の検査で陽性反応を示した、と政府は最近発表したが、それに加えて、その被曝レベルはあまりに低いので、さらなる検査は無用である、と述べた。日本の内外の専門家の多くは、チェルノブイリでは、甲状腺癌に苦しみ続けた人のほとんどが、事故当時、原発の近くで生活していた子供たちだったと指摘して、日本政府のこの判断を疑問視している。
菅内閣の内外にいる批判的な人々は、政府がもっと早くデータを公表していたならば防ぐことができた被曝もあっただろうと主張する。
3月15日の夕方、菅氏は、かつて東芝の原発プラントを設計したこともある空本氏に電話をかけ、悪化する危機に対処するために知恵を借してくれと願い出た。空本氏は即興の顧問団を作ったが、その中には彼の恩師の東京大学の元教授で、放射線測定に関しては日本のトップの専門家である小佐古敏荘も含まれていた。
小佐古氏はチェルノブイリの危機に対するソ連政府の対処方法を研究した人だが、彼は、首相官邸にいる指導者たちが利用可能なデータについていかにわずかな知識しか持っていないかを知って愕然とした。彼はすぐに、枝野幸夫官房長官にSpeediを使うように進言した。Speediは、大気中に放出された放射性物質の測定値と気象や地形データを使って、放出された後の放射性物質がどのように移動するのかを予測するシステムですよ、と。
Speediは、放射性物質の飛散の予測を行うために1980年代に設計されたものだが、その予測は、首相官邸の独自の原発事故対応マニュアルによれば、放射性プルーム(放射性雲)から避難民を守るために、少なくとも地方の公務員や救助隊員には利用できるようにすると想定されていた。
そして確かに、Speediは、あの壊滅的な地震と津波発生の数時間後から、一時間刻みで、放射線飛散のマップや別のデータを作成し続けていた。しかし文科省はそのデータを首相官邸に提供しなかった。情報が不完全だったから、というのが文科省の言い分だった。津波で、原発に設置されたセンサーが壊れてしまったからだ。実際に原発からどれくらいの放射線が放出されたかの測定値がなければ、放射性プルームがどこまで達しているかを測定することは不可能だ、というのが文科省の言い分だった。
「放出がどれくらいの強さだったかが判らないならば、避難を命じても、われわれとしては責任の取りようがないでしょう」。Speediを管理する文科省の原子力安全部門のケイジ・ミヤモトはそう語った。
(ページ2おわり)
」(つづく)
八甲田ホテルでのディナー [雑感]
8月1日宿泊した八甲田ホテルでのディナーをかいつまんで紹介する。
ここのコンセプトは、地産地消をフレンチの装いのもとに実践するということに尽きる。10年以上前に初めてうかがったときは、とりあえずフレンチの食材を使ってみましたという印象しか与えなかったが、毎年同じような食材を使っているように見えながら、少しずつ本格派に変貌を遂げつつあるように私は感じている。
私たち夫婦は“SHIRAKAMI”というコースを注文した。
まず北寄貝のアミューズ。北寄貝はここの得意な食材の一つ。

・ 「青森下北産 殻雲丹のジュレ寄せ キャビア添え」
私は雲丹が苦手なので、妻に食べてもらったが、妻によると、これは絶品だったそうだ。

ちなみに子供には別のプレートを用意してもらった。彼もそろそろこんな子供用のメニューを出されるのは嫌に感じているだろうな。

・ 「枝豆の冷製スープ コンソメジュレ添え」
枝豆のエッセンスを凝縮したような味。下のパプリカのソースにも言えるが、この野菜の凝縮した旨味はただごとではないように感じられた。

・ 「青森西海岸産 オコゼのポワレ 黄パプリカのソース 揚げ茄子添え」
これはパプリカのソースが濃厚で淡白なオコゼに良く合っていた。というか、どちらが主でどちらが従なのか? パプリカを食した気持ちになった食後感だった。

・ 「青森県産 黒毛和牛フィレ肉のポワレ
季節野菜(ブロッコリーニ、カブ、エシャレット、山クラゲ)添え
トリュフのソース」
数年前来た時は「前沢牛」が使われていて、なぜこれだけ地産地消ではないのか? と疑問を抱いたものだが(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-12-08-1)、これだけ別の地方のブランド物を使うのは止めようという意見が優勢になったのか、それとも使用に耐えるだけの地元の牛が育ったのかは知らないが、ともかく首尾一貫したメニュ―にはなったようだ。ブランド物でなくとも十分美味かった。ブロッコリーニが良い味を出していた。
それと、ここの牛肉にはマデラ酒のソースがずっと使われていたはずだが、それも止めたのかな? トリュフのソースの方が味に奥行きがあるのは言うまでもないが。

総じて野菜の使い方に面白い特徴を感じた。野菜に力を入れているフレンチやイタリアンが都内に増えているが、流行なのだろうか?
それと、いまホテルのHPで確認すると、SHIRAKAMIコースには「フィレ肉のポワレ」に代わって「青森西海岸産 ノドグロのヴァプール」となっている。ノドグロは私の大好物である。しかし、青森でノドグロが獲れるとは知らなかった。今度冬に来たとき獲れたてを食べられるのだろうか? 秘かな楽しみにとって置くとしよう。
( 最後に蛇足の一言。 このレストランは何度も利用しているが、ここが独立したレストランとしても利用できるとは知らなかった。レストランの名前が「メド―(MeDeau)」であるのも知らなかった。しかし、この名前はちょっとなぁ・・・。津軽弁の「うめーどー(美味い!)」に絡めてフランス語めかした造語らしいのだが、フランス人ならば、(アクサンがないからメド―とは発音できないという点は別として)、“merde(メルド:意味を知りたい人は辞書で調べてくれ)”との類似性から、怪訝な顔をする人もいることだろう。まあ、そんなことは日本人にとってはどうでも良いことだろうが。)
ここのコンセプトは、地産地消をフレンチの装いのもとに実践するということに尽きる。10年以上前に初めてうかがったときは、とりあえずフレンチの食材を使ってみましたという印象しか与えなかったが、毎年同じような食材を使っているように見えながら、少しずつ本格派に変貌を遂げつつあるように私は感じている。
私たち夫婦は“SHIRAKAMI”というコースを注文した。
まず北寄貝のアミューズ。北寄貝はここの得意な食材の一つ。
・ 「青森下北産 殻雲丹のジュレ寄せ キャビア添え」
私は雲丹が苦手なので、妻に食べてもらったが、妻によると、これは絶品だったそうだ。
ちなみに子供には別のプレートを用意してもらった。彼もそろそろこんな子供用のメニューを出されるのは嫌に感じているだろうな。
・ 「枝豆の冷製スープ コンソメジュレ添え」
枝豆のエッセンスを凝縮したような味。下のパプリカのソースにも言えるが、この野菜の凝縮した旨味はただごとではないように感じられた。
・ 「青森西海岸産 オコゼのポワレ 黄パプリカのソース 揚げ茄子添え」
これはパプリカのソースが濃厚で淡白なオコゼに良く合っていた。というか、どちらが主でどちらが従なのか? パプリカを食した気持ちになった食後感だった。
・ 「青森県産 黒毛和牛フィレ肉のポワレ
季節野菜(ブロッコリーニ、カブ、エシャレット、山クラゲ)添え
トリュフのソース」
数年前来た時は「前沢牛」が使われていて、なぜこれだけ地産地消ではないのか? と疑問を抱いたものだが(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-12-08-1)、これだけ別の地方のブランド物を使うのは止めようという意見が優勢になったのか、それとも使用に耐えるだけの地元の牛が育ったのかは知らないが、ともかく首尾一貫したメニュ―にはなったようだ。ブランド物でなくとも十分美味かった。ブロッコリーニが良い味を出していた。
それと、ここの牛肉にはマデラ酒のソースがずっと使われていたはずだが、それも止めたのかな? トリュフのソースの方が味に奥行きがあるのは言うまでもないが。
総じて野菜の使い方に面白い特徴を感じた。野菜に力を入れているフレンチやイタリアンが都内に増えているが、流行なのだろうか?
それと、いまホテルのHPで確認すると、SHIRAKAMIコースには「フィレ肉のポワレ」に代わって「青森西海岸産 ノドグロのヴァプール」となっている。ノドグロは私の大好物である。しかし、青森でノドグロが獲れるとは知らなかった。今度冬に来たとき獲れたてを食べられるのだろうか? 秘かな楽しみにとって置くとしよう。
( 最後に蛇足の一言。 このレストランは何度も利用しているが、ここが独立したレストランとしても利用できるとは知らなかった。レストランの名前が「メド―(MeDeau)」であるのも知らなかった。しかし、この名前はちょっとなぁ・・・。津軽弁の「うめーどー(美味い!)」に絡めてフランス語めかした造語らしいのだが、フランス人ならば、(アクサンがないからメド―とは発音できないという点は別として)、“merde(メルド:意味を知りたい人は辞書で調べてくれ)”との類似性から、怪訝な顔をする人もいることだろう。まあ、そんなことは日本人にとってはどうでも良いことだろうが。)
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青森へ避暑に行く [雑感]
青森に避暑に行ってきた。
7月の灼熱の東京を何とかやりすごして8月の声を聞くと同時に、わが家は本州の最北端へ向った。「はやぶさ」は速かったし快適だった。快適すぎて、私は車内ではほとんど寝ていた。新幹線から車に乗り継いで、家を出てから約5時間後には八甲田ホテルに到着していた。
釣鐘型の巨大なランプが出迎えるエントランス

青森市内は日差しがあったが、われわれが到着した頃ホテル周辺は霧が立ち込め始めていた。肌寒い程で、本当の避暑である。


(ちなみに八甲田ホテルは私の好きなホテルの一つで、もう何度も来ている。冬に来た時の情景などについては、http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-12-08-1 を見られたし。また、今回のディナーについては別枠でアップすることにしたい。)
翌日八甲田ロープウェイに乗って頂上まで行ってみたが、雲の中を運ばれていく感覚であった。

市内に戻ると、天気はすこぶる良かった。可憐というか、優美というか、かつての青函連絡船。

夜は初めて桟敷でねぶたを観た。ねぶたそのものにもまして、太鼓を懸命に叩く若者たちの姿に感動した。意外なほど女性が多かったのも感動の一因だった。それらの姿が語らずして「がんばろう東北」というメッセージとなっていたことは、たぶんすべての人に伝わったのではないだろうか。
ねぶたの造形も年々精巧になっていくなあ。その点については写真からも実感できると思う。



避暑の旅としては最高だった。ありがとうよ、青森。
ちなみに、この避暑の旅でいろいろ食べ飲み堪能したが、そのうち二つばかり小ネタを。
その一 : 私は青森には何度も来ているし、また個人的嗜好としてはラーメンをとても愛するラーメン好きでもあるのだが、青森市のラーメン屋にはほとんど入ったことがなかった。とくに、青森市では昔から不動の位置を占めてきた「マル海ラーメン」には一度は行こうと思いながら、その念願を果たせないできたのだが、やっと今回の旅行でその念願をかなえることが出来た。
食べた感想は、煮干しの控え目なあっさりしたラーメンであった。青森のラーメンといえば煮干しである。そして、煮干しの旨味を過激なほど凝縮したスープに走ろうとする店が多いのだろうと推測する。そんな流行の中、「マル海」のラーメンは、少し時代遅れの味のように感じる人も多かろうと推測する。だが、ひょっとしたら、そうした流行の変転は一時的なもので、長い目で見ればオーソドックスな味が最終的には勝利するのかもしれない。普通が偉大なのだと気づく人が沢山出てくるかもしれないのだ。こうしたことは、「青島食堂」のラーメンを食したときに感じたことだが、それと同じことを「マル海」でも感じた。ここには、別の記事で「偉大なる普通」と述べたラーメン(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-06-05)の原型のようなものに私には思えた。そして、「青島」よりも一段上のラーメンがここにあるような気がした。「青島食堂」が東京の人間にあれほど受けるんだから、「マル海」も東京に進出すれば、きっと受けるんじゃないか? とちらっと思ったほどであった。

その二。締めとして食べたのだが「田酒」の酒粕で作ったアイス。前日、寿司屋で飲んだ「田酒」の大吟醸があまりに美味かったので、その思い出を楽しもうと食べてみたが、まあ、これは一度食べれば十分かな。新青森駅で売っていた。


7月の灼熱の東京を何とかやりすごして8月の声を聞くと同時に、わが家は本州の最北端へ向った。「はやぶさ」は速かったし快適だった。快適すぎて、私は車内ではほとんど寝ていた。新幹線から車に乗り継いで、家を出てから約5時間後には八甲田ホテルに到着していた。
釣鐘型の巨大なランプが出迎えるエントランス
青森市内は日差しがあったが、われわれが到着した頃ホテル周辺は霧が立ち込め始めていた。肌寒い程で、本当の避暑である。
(ちなみに八甲田ホテルは私の好きなホテルの一つで、もう何度も来ている。冬に来た時の情景などについては、http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-12-08-1 を見られたし。また、今回のディナーについては別枠でアップすることにしたい。)
翌日八甲田ロープウェイに乗って頂上まで行ってみたが、雲の中を運ばれていく感覚であった。
市内に戻ると、天気はすこぶる良かった。可憐というか、優美というか、かつての青函連絡船。
夜は初めて桟敷でねぶたを観た。ねぶたそのものにもまして、太鼓を懸命に叩く若者たちの姿に感動した。意外なほど女性が多かったのも感動の一因だった。それらの姿が語らずして「がんばろう東北」というメッセージとなっていたことは、たぶんすべての人に伝わったのではないだろうか。
ねぶたの造形も年々精巧になっていくなあ。その点については写真からも実感できると思う。
避暑の旅としては最高だった。ありがとうよ、青森。
ちなみに、この避暑の旅でいろいろ食べ飲み堪能したが、そのうち二つばかり小ネタを。
その一 : 私は青森には何度も来ているし、また個人的嗜好としてはラーメンをとても愛するラーメン好きでもあるのだが、青森市のラーメン屋にはほとんど入ったことがなかった。とくに、青森市では昔から不動の位置を占めてきた「マル海ラーメン」には一度は行こうと思いながら、その念願を果たせないできたのだが、やっと今回の旅行でその念願をかなえることが出来た。
食べた感想は、煮干しの控え目なあっさりしたラーメンであった。青森のラーメンといえば煮干しである。そして、煮干しの旨味を過激なほど凝縮したスープに走ろうとする店が多いのだろうと推測する。そんな流行の中、「マル海」のラーメンは、少し時代遅れの味のように感じる人も多かろうと推測する。だが、ひょっとしたら、そうした流行の変転は一時的なもので、長い目で見ればオーソドックスな味が最終的には勝利するのかもしれない。普通が偉大なのだと気づく人が沢山出てくるかもしれないのだ。こうしたことは、「青島食堂」のラーメンを食したときに感じたことだが、それと同じことを「マル海」でも感じた。ここには、別の記事で「偉大なる普通」と述べたラーメン(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-06-05)の原型のようなものに私には思えた。そして、「青島」よりも一段上のラーメンがここにあるような気がした。「青島食堂」が東京の人間にあれほど受けるんだから、「マル海」も東京に進出すれば、きっと受けるんじゃないか? とちらっと思ったほどであった。
その二。締めとして食べたのだが「田酒」の酒粕で作ったアイス。前日、寿司屋で飲んだ「田酒」の大吟醸があまりに美味かったので、その思い出を楽しもうと食べてみたが、まあ、これは一度食べれば十分かな。新青森駅で売っていた。






