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室町砂場に涼を求めて [雑感]

 暑い日が続く6月の末の、喉元に摩擦をおこすような食べ物にはもう食指が動かなくなっていたある夕方、日本橋界隈を歩いていた足は自然と砂場の方に吸い込まれていった。

 ざる二枚をさっと食べてさっと去ろうという心算だったが、やはりここに入ると玉子焼きを頼んでしまう。学生の頃、某グルメ本でここの玉子焼きは日本一という評判があることを読んで、さっそく出向いて注文してから幾星霜、ここに来るたびに律儀にその型を墨守しているのは我ながら可笑しいのだが、ほぼ条件反射のようなものになってしまったので致し方ない。それに加え、夏のメニューなのだろう、壁に「ごま豆腐」の細長い紙が貼られていたのが目に入ったので、それも追加した。さしずめ、『室町砂場』の夏の三点セットというところか。

 「蕎麦は出来次第もってきてよろしいでしょうか」と丁寧に聞かれて「そうしてください」と言ったが、出てきたのは、玉子焼き、ごま豆腐、特製ざる(二枚)の順番だった。玉子焼きが一番時間がかかるように思えるのだが、これは素人考えというものだろうか? それとも、やはり、蕎麦はいちばん後回しになるような配慮がなされたのだろうか?  たぶん後者だと思う。

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 最近はねっとりしすぎるごま豆腐をよく供されることがあるが、あれは嫌味なものだ。ここのはややあっさり目だが白ゴマの風味は充分堪能できる。ざるもそっけない感じだがこれも今の季節には必要にして十分。合間に暖かな玉子焼きを口に放りこむと、玉子の甘みが口中に広がるように感じられる。最後にそば湯を呑むと満腹感を覚えた。「そう、健康のためにはこの程度の量で充分なのだろうな」と思う(のだが、しかし遺憾ながら、こうした自覚はすぐ忘却の淵に追いやられてしまうものだ)。

 いずれにせよ、私にとって『室町砂場』は昔からの慣れもあって自然と落ち着けるので、夕食をかねて一時の涼を求めるにはこれ以上の場所はないと思えることを再確認できたのだが、それに加えて今日気づいたことが一つあった。それは女性従業員の「ぃらっしゃい~~」という声が涼やかなこと。手短かで歯切れがよい。江戸期から伝わる下町の気風の名残りのようなものをここに感じ取ることができるのではないだろうか? 私は、そば以上にこうした時間の奥行きを感じさせてくれるものに愛着を覚えるのである。
 

 





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境界性パーソナリティー障害と闘って(3) [海外のニュース記事]

 マーシャ・リネハンの苦闘の歴史を伝える記事の第三回目。おもに、境界性パーソナリティー障害に対してリネハンが編み出した技法の紹介がメインの話題となっている。

 最後の部分には、波乱を乗り切ってかつ大きな仕事をやり遂げた人がもつ落ち着きと静けさが良く表われているように感じられる。

 
 ここで、一回目で触れた「弁証法的行動療法」と訳されている“dialectical behavior therapy”(略してD.B.T.)が当然取り上げられるわけだが、この療法は、いろいろな方面に由来するツールを、患者のその時々の状態に応じて、併行的・統合的に使用することから成り立っているようで、“dialectical ”という言葉も、“integrative(統合的)”と意味的に大差があるようには思えない。いずれにせよ「弁証法的」という訳はありえんだろう、とは思う。

( 一回目の記事に貼っておいた元記事のURL に行くと、タイトルの真下の写真にクリックする個所があり、それをクリックするとリネハン博士の肉声を聞くことができる。第二回目に出てきた、礼拝堂で祈っていたら周りが黄金になり、部屋に戻って初めて一人称で「私は私が大好き」と自分に語りかけたあのエピソードが静かな口調で語られている。)


 ちなみに、この記事の筆者であるBenedict Carey氏の記事で、ここで紹介したことのある中のとりわけ興味深いものを以下に掲げておく。

・ 「良い学習習慣についての常識は忘れろ(1)」 http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-09-10
・ 「敵は友人になれるか(1)」 http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-05-18
・ 「感情のない顔(1)」 http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-04-07
・ 「脳とアイデンティティー(1)」 http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-08-11
・ 「脳の老化とブリッジ(1)」  http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-05-24-1



Expert on Mental Illness Reveals Her Own Fight

By BENEDICT CAREY
Published: June 23, 2011

http://www.nytimes.com/2011/06/23/health/23lives.html?pagewanted=3&_r=1



精神疾患の専門家が自分自身の闘いを公表する (3)


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(「とても多くの人が私に正直に名のり出るよう求めました、そこでこう考えたのです――そう、やらなきゃならないって。彼らには借りがある。臆病者として死ぬわけにいかないと考えたんです」と、ワシントン大学の心理学者マーシャ・リネハンは語った)




 どんなセラピストでも、治療を開始してすぐに人が変わったようになったり、突然「洞察」がひらめくようになれると確約できるわけではないし、ましてや(リネハン自身が体験したような)きらめく宗教的幻視をもてるようになる、などと確約できるわけでもなかった。しかしリネハン博士は徐々に包囲網を狭めていって、治療の基礎を形成できる二つの一見したところ正反対の原則に焦点を絞りつつあった。その二つの原則の一つは、そうであるはずの人生ではなく、あるがままの人生を受け入れるという原則であり、もう一つは、そうした現実があるにもかかわらず、まさにそうした現実があるからこそ人生を変更する必要があるという原則である。彼女が理論以上のものを獲得したかどうかを確実に知る唯一の方法は、現実の世界で科学的にそれを検証してみることだった――どこを手始めにすればいいのかについては疑問の余地はなかった。



一日をのり切る
 
 

 「最悪のケースは自殺願望が並外れて強い人々(supersuicidal people)なのですが、そういう人々から始めようと私は決めました。それは、彼らが世界で最も悲惨な人々に思えたからです。彼らは自分のことを悪党で、どうしようもないほど悪いと思っているのに、私は彼らがそうではないことを理解していましたからね」と彼女は言った。「私だって、どうすれば脱出できるのか判らないまま、あそこ、あの地獄にいたのですから、彼らの苦しみは理解できました」。

 特に、彼女は、そうした人々を、若いころの自分に与えただろう診断で対処することに決めた。「境界性パーソナリティー障害」がその診断名であるが、これは、思考力低下や感情の爆発や、しばしば自傷や焼身にまでいたる自己破壊的衝動によって特徴づけられる疾病だが、当時はまだ理解があまり進んでいなかった。セラピーでは、境界性の患者は恐るべき存在になりうる――周囲の人間を操ろうとし、敵対的で、時には不気味なほど寡黙になり、自殺してやると捨てぜりふを吐いて診察室を怒ってとび出すことで有名なのだ。


 リネハン博士は、自己を受け入れる緊張で患者は部屋に引きこもりがちになること(それは患者が自分という人間を受け入れていることなのだが)、しかし患者は、内心に渦巻く怒りや空虚感や不安をほとんどの人よりずっと強烈に感じていることを発見した。セラピストとしては、こうした場合、自傷や焼身や自殺の試みがある程度の意味をもっていることを受け入れる必要がある。

 セラピストは、患者から、自らのふるまいを変えたいという決意を引き出すことがあるとしても、それは生きるチャンスと引き換えになされた口先だけの約束であるかもしれない。彼女の言い方によれば、「治療は死んでいる人々には役立たない」のである。

 
 1977年にアメリカ・カトリック大学からワシントン大学に移動し、学者としての階段を登りつめている最中でも、彼女は、自分自身の経験から、自己を受け入れかつ変化しようという決意だけでは十分ではないことを理解していた。シアトルに移ってからの最初の数年間に、大学に車で向かう途中に自殺したいと感じることがしばしばあった。今日でも、パニックの感覚が押し寄せてくるのを感じることがあり、ごく最近ではトンネル内を走行しているときにその兆候があった。彼女自身、サポートと指導を仰ぐために、何年にもわたって断続的にセラピストのお世話になっていた(彼女の記憶では、「インスティテュート・オブ・リビング」退院後は、薬を服用したことはないそうだ)。

 
 リネハン博士自身の治療に対する最新のアプローチ――今ではD.B.T.(dialectical behavior therapy)と呼ばれているが――には、その日その日に必要とされるスキルが含まれていなければならない。結局、自分を変えようと決心しても、それを実行するためのツールをもっていないならば、その決心はほとんど意味がないのだ。彼女はそうしたツールのいくつかを他の行動療法から借用し、患者の感情がしっくりしない時に、患者が自分の感じ方とは正反対の仕方で行動する反対行動(opposite action)や、呼吸に集中して感情に働きかけることなく感情が去来するのをながめる禅の技法であるマインドフルネス瞑想(mindfulness meditation)、などの要素をつけ加えた。(マインドフルネス瞑想は、今や、多くの心理療法にとって欠かすことのできない技法になっている)。

 1980年代および90年代の研究で、ワシントン大学やそれ以外の大学の研究者たちは、自殺の危険の高い、週に一度のD.B.T.の治療に通っていた何百という境界性の患者の病状進行を追跡調査した。他の専門家の治療法を受けていた同病の患者と比較してみると、リネハン博士のアプローチを学んだ患者が試みる自殺の件数ははるかに少なく、入院する者も少なくD.B.T.の治療を受けつづける率もはるかに高かった。D.B.T.は、現在、非行少年、摂食障害者、薬物中毒患者を含む、手ごわい病気に苦しむ多種多様な患者のために広く用いられている。

 「D.B.T.がこれほど注目されるようになったのは、それが以前ならば治療できなかったものに取り組んでいるからだと思います」と語るのは、アメリカ国立衛生研究所の行動・統合療法部門の部長であるリザ・オンケン。「でも、これが地域のセラピストたちの共感をこれほどまでに勝ちえた理由は、マーシャ・リネハンのカリスマ性、医療関係者にもサイエンス関係の聴衆にもつながりをもてる彼女の能力に関係していると思います」。
 
 たぶん最も注目に値するのは、リネハン博士が、壇上に上がって堂々と自分の生い立ちを語ることができる立場に到達したことなのだ。「今、私はとても幸せな人間です」と、大学近くの自宅でのインタビューの際に彼女はそう語った。彼女はそこで、養子の娘ジェラルディーンと、ジェラルディーンの夫であるネイトと一緒に暮らしている。「もちろん、まだ浮き沈みはありますが、他のみんなと同じくらいだと思います」。

 先週のカミング・アウトのスピーチを終えてから、彼女はあの隔離室を訪れたのだが、隔離室は小さなオフィスに変えられてしまっていた。「ねえ、ほら、窓を変えたのね」と彼女は言って、両の手のひらを高くかざした。「ずっと多くの光が差し込んで来るわ」。

」(おわり)




 
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境界性パーソナリティー障害と闘って(2) [海外のニュース記事]

 前回に引き続き、マーシャ・リネハンの苦闘の歴史を伝える記事の第二回目。「地獄」のような病院から退院して、自殺願望と闘いながら、夜間の大学に通い研究者の卵になるまでの軌跡をたどる。



Expert on Mental Illness Reveals Her Own Fight

By BENEDICT CAREY
Published: June 23, 2011

http://www.nytimes.com/2011/06/23/health/23lives.html?pagewanted=2&_r=1&partner=rssnyt&emc=rss


「 精神疾患の専門家が自分自身の闘いを公表する (2)


 「だれもが隔離室に行くのを恐れましたね」。と語るのは患者仲間で、マーシャの親友になったセイバーン・フィッシャー。しかし、とフィッシャーは付け加えた。彼女をとりまく状況がどうなろうと、「彼女は他人に対して大きな気遣いを抱くことができました。彼女は心の奥底で孤独であっただけではなく、それと同じくらい情熱的だったのです」。

 1963年5月31日付けの退院サマリーには次のように書かれている。「26ヶ月に及ぶ入院の間、ミス・リネハンは、その期間の大部分、当病院で最も精神的に不安定な患者の一人だった」。


 不安を抱えた少女が当時書いた詩の一節には、次のように書かれている。

 彼らは私を四方に壁しかない部屋に入れた
 だが、本当は、私を締めだしたのだ
 私の魂は汚らしいものであるかのように投げ捨てられた
 私の手足はここに投げ込まれた


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(10代にリネハン博士が隔離された部屋に通じる扉。部屋は、その後、小さなオフィスに変えられた。)




 どこに頭を打ちつけようと、悲劇は依然として残っていた。誰も彼女に起こっていることが何なのか知らなかったし、その結果、治療したとしても、ますます彼女の病状は悪化するだけだったからである。真の治療があるとすれば、それは何らかの理論ではなく、事実に基づかなければならない、という結論に彼女は後になって到達するようになった。ここでいう事実とは、もっとも最近生じた行為は、どんな感情がどんな思考を生み出した結果だったのか、という事実のことである。真の治療があるとすれば、それはその連鎖を断ち切らなければならない――そして、新しい行動を教えなけばならないのである。

 「私は地獄にいました」と彼女は言った。「そして(退院するとき)誓いを立てたのです。外に出ても、またここに戻ってきて、他の人々をここから出してやろうという誓いを立てたのです」。


 
 自分を根底から受け入れる



 シカゴの小さな礼拝堂で祈っているとき、彼女は生きる支えとなる別の原理の力を感じた。

 1967年のことで、病院の外で生き延びる見込みはほとんどないだろうと医者に言われた望みのない二十歳の女性として退院してから数年が経っていた。彼女は生き延びてはいたが、どうにか死なないでいられたという状態だった。退院して初めて家に戻ったとき、タルサで少なくとも一度自殺を試みていた。やり直すためにシカゴのYMCAに引っ越した後に、もう一度自殺を試みていたのだ。

 彼女は再び入院させられ、退院したときは混乱して孤独だったが、かつてないほどカトリック信仰に没頭していた。別のYMCAに移り、保険会社の事務員として仕事を見つけ、ロヨラ大学で夜間の授業を受講し始めた――そして、ときおり、セネクル・リトリート・センター(Cenecle Retreat Center)の礼拝堂で祈りを捧げた。

 「ある夜、そこでひざまずいて十字架を見上げていたとき、その場所一帯が金色に輝いたのです――そして突然、私は何かが私の方にやって来るのを感じました」と彼女は言った。「何かこうきらめくような経験で、私はとにかく自分の部屋に駆け戻って、「私は私が大好き(I love myself)」と言ったのです。思い出す限り、私が自分自身に対して一人称で話しかけたのはこれが初めてでした。私は、なにか別人に変わったかのように感じました」。

 この高揚感は約一年間続いたが、失恋をきっかけにして荒んだ感情が戻ってきた。しかし、何かが違っていた。彼女はもう、自分を切ったり傷つけることなく、嵐のように荒れ狂う感情を耐え忍ぶことができたのだ。

 何が変わったのか?

 それに対する答えを見つけるまでに、何年にもわたる心理学の勉強――彼女は1971年にロヨラ大学で博士号を取得した――が必要だった。一見しても、答えは明らかなように見えた。彼女はあるがままの自分を受け入れたのだ。彼女が何度も自殺しようと試みたのは、彼女がなりたがった自分とあるがままの自分との間に深い裂け目があるために、絶望し、希望を失い、一度も味わったことのない人生に心底ホームシックになっていたからだ。その深い裂け目は現実にあり、そこに橋を架けることは不可能だった。

 あの基本的な考え方――自分を根底から受け入れること(radical acceptance)、と彼女は今そう呼ぶのだが――は、彼女が、まずは自殺未遂者が多く来るバッファローのクリニックで、その後には研究者として患者たちとともに作業し始めるとともに、ますます重要になっていった。たしかに、自分を本当に変えることは可能だった。当時広がりつつあった行動主義的な考え方は、新しい行動は学ぶことができる――異なるふるまいを続ければ、やがて、根底にある感情をすっかり変えることができる、と教えていたのだ。

 しかし、深い自殺願望を抱いている人々は、百万回自分を変えようと試みてみても失敗してしまうのだ。そうした人々に判ってもらえる唯一の方法は、彼らの行動は意味があるということを認めることだった。彼らが苦しんでいることを考えるならば、死んでしまおうという考えは苦しみからの甘美な解放なのだった。

 「彼女は人々と新しいことをするのがとても好きでしたね。私にはすぐにそれが判りました」とジェラルド・C.デイヴィッドソンは言った。彼は、1972年にストーニー・ブルック大学での行動療法の博士課程修了者用のプログラムにリネハン博士が参加することを許可した人である。(彼は現在南カリフォルニア大学で心理学を教えている)。「彼女が患者を面食らわせたり、患者が聞きたくないことを言って迫っても、患者たちが落ち込むような気持になることはありませんでしたね」。

」(つづく)






 
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境界性パーソナリティー障害と闘って(1) [海外のニュース記事]

 久しぶりにBENEDICT CAREY氏の『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された記事を紹介してみることにする。

 精神医学の世界的研究者が精神疾患にかかっていたことを告白する、それは前例のないことではない。私などは、Kay Redfield Jamisonの名著“An Unquiet Mind: A Memoir of Moods and Madness”をすぐ思い出す。ただ、Jamisonは躁うつ病のせいで死の一歩手前まで行ったが、この記事の主人公マーシャ・M.リネハンは境界性パーソナリティ障害に苦しんだようだ。

 マーシャ・M.リネハンの著作は、数冊日本語に翻訳されている。境界性パーソナリティー障害に対して彼女が編み出した治療法のオリジナルの名前は`Dialectical Behavior Therapy’なのだが、それが「弁証法的行動療法」と直訳されているのには驚いた。`dialectical’という語に対して、今では哲学でもこんな古くさい訳を与えるようなことはしないと思うのだが…。まあ、どうぞ、お好きなようにと言うしかないが。


 オリジナルの記事は3ページに分かれているので、同じように3回に分けて紹介する。


Expert on Mental Illness Reveals Her Own Fight

By BENEDICT CAREY
Published: June 23, 2011

http://www.nytimes.com/2011/06/23/health/23lives.html?partner=rssnyt&emc=rss




「 精神疾患の専門家が自分自身の闘いを公表する   

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 あなたも私たちの一人なの(Are you one of us)?

 
 患者は知りたがった、そして患者のセラピスト――深刻な自殺願望を抱えた人々のために世界中で使用されている治療法を創造したワシントン大学のマーシャ・M.リネハン(Marsha M.Linehan)――はその問いかけにすぐに答えた。それは、リネハン博士の腕にレース状に残っている色褪せたやけどの跡や切り傷や打撲痕をチラッと見た患者が――希望を交えてであれ、非難を込めてであれ、すべてを見通しているかのようにであれ――問いかけるとき、その質問を手短かにするためにリネハン博士がいつも使う答えなのだ。

 「私も苦しんだことがある、って言いたいのね?」

 「そうじゃないの、マーシャ」。昨年の春に出会った患者はそう答えた。「あなたも私たちの一人なのね、と言いたかったの。私たちと同じなのねって。だって、もしそうなら、私たちはみんな希望をいっぱいもてるでしょう」。

 「あの言葉は心に響きました」とリネハン博士(68)は言った。彼女は、17歳のとき極度の引きこもり(social withdrawal)のために初めて治療を受けたハートフォードのクリニックである「インスティテュート・オブ・リビング(Institute of Living)」で、友人や家族や医師たちを前にして、先週、初めて公の場で自分自身のことを語ったのだ。「とても多くの人が私に正直に名のり出るよう求めました、そこでこう考えたのです――そう、やらなきゃならないって。彼らには借りがある。臆病者として死ぬわけにいかないと考えたんです」。


 重い精神疾患を抱えながら、一見正常で人から羨ましがられるような生活を送っている人がどれくらいいるのか、それは誰にもわからない。なぜなら、そのような人々は、普通、名のり出たりはしないからだ。そのような人々はどうにかこうにかして責任ある仕事をこなしたり、お金の工面をしたり、研究をしたり、家族を養ったりで手いっぱいなのだ――それも、他の人々ならばすぐにへこたれてしまうような暗い感情や妄想が吹き荒れるのを耐え忍びながらのことなのである。
 
 今、そうした人々のますます多くが自分の秘密の公表にふみ切っている。彼らによれば、もうそうするべき時なのだ。わが国のメンタル・ヘルス・システムは修羅場と化している、と彼らは言う。多くの患者が犯罪者扱いされたり、最も重症の患者でさえも、最低限の資格しかもたないワーカーからしかケアを受けられない養護施設やグループ・ホームに追いやられているからである。
 
 おまけに、精神疾患という汚名を長く着せられると、そう診断を受けた人々は、自分を犠牲者だと考えるようになってしまうのだが、そうなると、治療を発見したいという気持ちを起こさせる唯一のもの、つまり希望というものを彼らは持てなくなってしまうのだ。

 「精神疾患の神話を打破する必要性は大いにあります。その神話に対抗し、そう診断されたからといって、苦痛に満ちた正常ではない生活を強いられる必要はないということを人々に示す必要があるのです」。そう語るのは、南カリフォルニア大学ロー・スクールの教授で、『定まらない中心: 狂気を巡る私の旅』(“The Center Cannot Hold: My Journey Through Madness.”)という著作で統合失調症との格闘の記録を書き記したエリン・R.サックス。「こうした障害と闘っている私たちでも、適切な資源があるならば、充実し幸福で生産的な生活を送ることができるのです」。

 この「適切な資源」には、薬(毎日)、セラピー(時折)、ある程度の幸運(いつも)――そして、とりわけ、心にひそむ悪魔を、追放するとはいかないまでも、管理する内面の強さが含まれる。その強さはどんな所からもやって来ることができる、と元患者たちは言う。愛、赦し、神への信仰、生涯にわたる友情などなど。

 しかし、リネハン博士のケースはレシピが存在していないことを示している。彼女は、慢性的に自殺願望を抱いている人々を救出しようという使命感によって駆り立てられていたのだが、それはしばしば境界性パーソナリティー障害の結果だったのだ。この障害は、部分的には自己破壊的な衝動によって特徴づけられる謎の病気なのである。

 「正直に言いますが、私は当時、自分自身のことを扱っているのだということを理解していませんでした」と彼女は言った。「でも、私が開発したのは、自分が何年もの間必要としていたのに得られなかったものを提供する治療法だったのは確かなことだと思います」。

 

 「私は地獄にいた」


 彼女は鍵のかかった部屋の壁に頭を打ちつけて、重度の精神疾患の悲劇の核心部分を、自分自身を傷つけながら学んだ。

 マーシャ・リネハンは、1961年3月9日、17歳のときに「インスティテュート・オブ・リビング」にやって来て、すぐに、もっとも重症の患者のためにあるトンプソン・ツー(Thompson Two)という呼び名の病棟の隔離室の唯一の患者となった。病院のスタッフとしては他にどうしようもなかったのだ。少女は、手首をタバコで焼いたり、手に入る尖ったものを手当たり次第利用して、腕や足や体の中心部を切りつけたりして、自分自身を傷つけることが習慣となっていたからだ。

 隔離室は、ベッドと椅子と鉄格子付きの小さな窓しかない狭い独房だったが、そこにはそうした武器となるようなものはなかった。それでも、死にたいという衝動は深まるばかりだった。だから、彼女は、その時彼女にとって意味のある唯一のことをした。壁や、後になって床に自分の頭を打ちつけたのだ。しかも激しく。

 「こんなことをしているときに私が経験していたことは、誰かがこれを仕組んでいるのだ、ということだけでした。まるでこんな感じでした。あのことが起ころうとしているのは判る。でも私にはどうにもならない。誰か、私を助けて、神様、あなたはどこにいるの?」と彼女は言った。「私は『オズの魔法使い』のブリキ男みたいに、まったく空っぽに感じていました。これから起ころうとすることを誰かに伝える術はなかったし、それを理解することもできませんでした」。


 オクラホマ州タルサで過ごした彼女の幼年期はほとんど手がかりを提供しなかった。小さいころから勉強ができて、ピアノの天分に恵まれた彼女は、石油業の父とその妻の間に出来た6人兄弟の3番目だった。母親は、子育ての合間に女子青年同盟(Junior League)やタルサの社会的なイベントに参加する外向的な女性だった。


 当時のリネハン一家を知る人々は、早熟な3番目の娘がしばしば家庭でトラブルの種になっていたことを覚えているが、リネハン博士の思い出によれば、魅力的で非の打ち所のない兄弟たちに比べると自分はまったく劣っていると感じていたようだ。しかし水面下でどんな苦痛に満ちた水流が渦巻いていようと、彼女が高校3年生のときに頭痛で寝たきりになってしまうまで誰もあまり気にも留めなかった。

 妹のアイリーン・ヘインズは次のように言った。「1960年代のタルサのことですからね、マーシャをどうすればいいか両親が何か判っていたとは思いませんね。精神疾患が何なのか本当は誰も知らなかったんですから」。

 間もなく、地元の精神科医が、問題を究明するために、「インスティテュート・オブ・リビング」に入院することを勧めた。そこで、医師たちは彼女に精神分裂病という診断を下し、ソラジンやリブリウムや他の強力な薬を投与したり、何時間もかけてフロイト的な分析を施したり、電気ショック治療のために彼女を革ひもで縛りつけたりした。彼女の治療記録によれば、第1回目には14回の電気ショック、第2回目には16回の電気ショックを彼女は受けた。しかし何も変わらなかった。そしてすぐに彼女は施錠された病棟の隔離室に戻されたのだった。


」(つづく)







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悪についての科学 [海外のニュース記事]

 悪とは何かというテーマを扱った心理学の書物について、『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された書評を紹介する。
 
 悪の本性についての議論は、ハンナ・アレントの画期的な「悪の陳腐さ」というテーゼ(『イェルサレムのアイヒマン』)で決定的な転機を迎えた。それまでは、「攻撃性」という角度からのアプローチが主流だったはずだが(フロイト『快感原則の彼岸』、コンラッド・ローレンツ『攻撃 - 悪の自然誌』)、アレントは、そうしたネガティブな生物学的要因ではなく、「まったく何も考えないという消極性」に悪の本性を見つけようとした。そのテーゼは、ミルグラムによって実証的な形で実証されることになる。ミルグラムの実験が示したのは、生まれたときから一貫して教え込まされた「権威に対する服従的態度」が、他者を配慮し他者に共感を抱く気持ちを一時的に停止させてしまう、ということであった。

 このミルグラム実験に対する関心が最近でもなくなっていないことの一例を、このブログではほぼ二年前に報告している(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-05-12)。


 この書評で取り上げられているバロン=コーエンの書物はアレントとミルグラムの洞察を今日の脳研究にシフトした心理学の概念で定式化し直した感があり、目新しいものではないようだ。ただ、アスペルガーや自閉症などの現象と重なり合う若干言いにくい部分に切り込んだという点が目新しい、ということであろうか? しかし、バロン=コーエンの考えを単純化して、「悪=共感の欠如」という等式が独り歩きしてしまうと、他者に対する共感をもたない自閉症やアスペルガー症候群の人々に妙な予断を与えてしまうことになりかねず、そういう意味で論争を引き起こす可能性がないわけではないかもしれない。その点について著者は十二分に配慮した書き方をしているが、十二分の配慮でもまだ十分ではないということが間々ありますからね・・・


From Hitler to Mother Teresa: 6 Degrees of Empathy
By KATHERINE BOUTON
Published: June 13, 2011


http://www.nytimes.com/2011/06/14/science/14scibks.html?_r=1&ref=science


「 ヒトラーからマザーテレサまで:共感の六つの度合い

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 サイモン・バロン=コーエン(Simon Baron-Cohen)の著作『悪についての科学(The Science of Evil)』は、犯罪の犠牲者や自閉症スペクトラム障害の子供をもつ親やその仕事を彼が引用している数十名の研究者の幾人か――それに言うまでもなく、進化心理学についての彼の見解や性を扱う神経生物学に関する彼の主張を批判している人々――の反感を買うことだろう。『悪についての科学』は、悪に関する新しい考え方を提唱する、単純だが説得力のある仮説を提起しているのだ。


 「私の主たる目標は、「悪」という非科学的な言葉を「共感(empathy)」という科学の言葉に置き換えることで、人間の残酷さを理解することである」と、彼はこの著作の冒頭に書いているが、この新著は、彼の1997年の著作『精神盲:自閉症と心の理論についての試論』(Mindblindness: An Essay on Autism and Theory of Mind” (Bradford))で表明された共感についての見解をさらに拡大したものと見ることができよう。悪のこれまでの定義は、宗教的観点からか(悪の概念は世界の大宗教で異なっているのだが)、精神科が扱う病理(精神病理的な現象)としてか、または彼の言い方を借りると、「うんざりするほど循環論法的な」観点(「彼がXをしでかしたのは、彼が本当の悪党だからだ」)からなされてきた、とバロン=コーエンは述べる。

 バロン=コーエン博士はケンブリッジ大学で発達心理学の教授で同大学の自閉症研究センターの所長でもあるのだが、博士の主張によれば、悪は共感の不在としてより科学的に定義され、ネガティヴな環境的要因(ふつうは親の、場合によっては社会の要因)と遺伝的要素によって悪化するのだそうだ。これら三つの要因がそろって存在しているとき、それはゼロ・ネガティヴ人格(Zero-Negative personality)とバロン=コーエンが呼ぶものになる。ゼロ・ネガティヴ人格は、少なくとも三つ(かそれ以上)の形式をとるのだが、その三つの形式とは、精神医学で使われる用語を借用すれば、タイプPゼロ(ZeroType P:Pは精神病理(Psychopathology)のイニシシャル)、タイプBゼロ(Zero Type B:Bは境界性人格障害(Borderline Disorder)のイニシャル)、タイプNゼロ(ZeroType N:Nはナルシシズム障害(Narcissism)のイニシャル)の三つである。

 精神医学はこれら三つを大雑把に「人格障害」」という用語のもとにグループ化しているが、それらはすべてゼロ度の共感(zero degrees of empathy)という特徴を共有しているとバロン=コーエン博士は主張するのだ。(彼の共感指数の基準は、著書でもオンラインでも利用することができ
http://glennrowe.net/BaronCohen/EmpathyQuotient/EmpathyQuotient.aspx)、テスト結果はただちに数値化され、0から6までの共感の度合いを表わすスコアに変換される)。

 共感という観点からこれらの障害を見直すことは、「(精神医学とは)非常に異なる影響を治療にもたらす」と彼は主張する。サイコパスは別にしても、いじめの問題に苦慮している学校でなされているように、低い度合いの共感しか持たない人に対しても共感は教えることができるし、標準的な精神医学のアプローチで処理できるからだ。

 私は精神科医でも心理学者でも神経生物学者でもないが、私のような専門外の読者から見ても、精神病理的な行動をゼロ度の共感という観点から記述することにはいろいろ限界があるように思われるのだ。バロン=コーエン博士は、友人の首にロープを巻きつけるように少年を強制するナチスの親衛隊員の例を「残酷さそのものを楽しむための残酷さ」として引き合いに出している。しかし、この親衛隊員が所有しているのは、ゼロ度の共感と言うよりは、むしろ最高度である6度の反-共感(anti-empathy)であるように思われる。親衛隊員は、彼が思いつく最も残酷な仕方で振る舞い、その行為が両方の少年に対して破壊的な影響を及ぼし得るかを十分理解していたからである。

 
 「個々人の「共感のメカニズム」が様々なレベルにセットされるように導くものは何か?」とバロン=コーエン博士は問う。「最もすぐ浮かび上がる答えは、それが脳の特別な回路、共感回路(empathy circuit)に依存している」ということであり、彼はその回路をきわめて詳細に描いている。(いま掲げた問い ―― とこの本の中に出てくる多くの文――はもっと別様に言い換えらることができたにちがいない。個人の共感のメカニズムはアップ・ダウンするものだということを彼は言いたいのだろうか? 私はそうは思わない。彼が言おうとしていることは――実際、後になってそう言っているのだが―― 「個々人が共感指数のスペクトラム上のどこに位置するのを決定するのは何か?ということだと私は思う。)

 また、同じ神経回路が、ゼロN、ゼロP、ゼロBのような異なる振る舞いを生みだす原因は何か? 環境(極度の情緒欠乏や、ナチス時代のドイツのような社会的圧力)と遺伝子だ、というように答えは二本立てである。共感遺伝子についての議論は、但し書きや警告に満ちている。「私は、本書が、共感が隅から隅まで遺伝的であると主張していると誤解されないことを望む」。「私は、共感に関わる遺伝子をカッコつきで用いた」。「ある種の遺伝子が…に結びついている証拠をわれわれは検討している」。編集者は、こうした慎重な言い回しをしておらず、当該の章を「共感遺伝子(The Empathy Gene)」と題している。

「人間の残酷さについての考察」と題された最後の章で、バロン=コーエン博士は多分もっとも核心をなす問いを掲げている。それは、「もしゼロ度の共感が「神経の障害の一種であるならば、犯罪を犯す個人が自らの行為に対してどれほど責任をもちうるか」という問いである。

 この仮説は、個人の責任や自由意志のようなものは存在しないのだということを意味するのか? おそらくそうかもしれない。しかし、バロン=コーエン博士は、重大な犯罪に対して刑務所は必要であると考えていて、それは道理にかなったことである。刑務所が必要な理由として、彼は、社会を守る、犯罪を是認しないというメッセージを送る、被害者又は被害者の家族に正義の感覚を呼び起こす、という三つの理由をあげている。(彼は死刑を是認してはいない)。軽度な犯罪に対しては、懲役刑は正解でないのかもしれない。

 最後に、ゼロ度の共感は必ずしもネガティヴであるとは限らない。異論の余地のある考えだと彼自身認めているが、「ゼロ度の共感がポジティヴでありうるケースが少なくとも一つはある」と彼は主張する。異論がまき起こることに備えるかのように、彼は次のように付け加える。「考えられないように見えるかもしれないが、最後まで私の言い分を聞いてくれ」と。アスペルガー症候群の人は、共感スケールの末端のゼロに位置しているのに、彼らはゼロ・ポジティヴ(Zero Positive)なのだ。 ゼロ・ポジティヴは、物事を秩序づけるテストでの高得点をほとんど常に伴う(時によって天才を生みだす)。おまけに、「彼らの脳が情報を処理する仕方は、逆説的なことに、彼らを不道徳に導くというよりも、超道徳的な態度に導くからである」。

 これら二つの状態(ゼロ・ネガティヴとゼロ・ポジティヴ)が何らかの関連をもっていると示唆するだけで激しい怒りを引き起すだろうと私は思うが、この本の文脈の中ではそうした議論は理性的に見えるし、バロン=コーエン博士は決してその二つを等しいものと扱っているわけではない――ただし、それら二つがゼロ度の共感を共有している、ということは別だが。

 この危ういほどに単純な本の中核部分には、残酷さの本性に関する問いがある。最後の最も哲学的な章の中で、バロン=コーエン博士は、普段は共感を欠いているわけではない人が残酷な振る舞いをするような状況について議論している。「悪の陳腐さ(the banality of evil)」という哲学者ハンナ・アーレントの言葉を引用し、普通の人々が残酷な振る舞いを示したスタンリー・ミルグラムやフィリップ・ジンバルドの実験を議論しながら、バロン=コーエン博士は、私たちのほとんどにおいて、共感が、一時的にある種の状況下では、停止してしまうことがありうると認めている。

 これは恐ろしい考えだが、研究だけではなく歴史によっても裏づけられた考え方なのだ。残酷さとは連続的な共感スペクトラムの末端のゼロ点にすぎず、そのゼロ点に私たちは皆陥ることがあるというバロン=コーエン博士の仮説は、その可能性をより理解しやすいものとしたのである。

」(おわり)













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イチローは新たな役割を受け入れる必要がある [海外のニュース記事]

 海外の新聞記事の紹介を久しぶりにします。

 イチローの不振が、日本と同様シアトルでも話題になっている。おそらく疲労なのだろうという推測が良くなされるが、はっきりしたことは判らない。イチロー本人も不振の原因についてほとんど語ってはいない。
 
 ジーターの衰えが昨年あたりからずっと顕著であったのとは対照的に、イチローは今シーズンに入って4月が絶好調だっただけに、単純に「衰え」を原因とするのも今一つすっきりしないように私には見えるのだが、真相はいかに?


 おそらく一過性のスランプなのだろうという楽観論がまだ多数派を占めているものの、やはり「寄る年波」のことが話題になるのは避けられない。その点をはっきり指摘したのがこのケリー記者の記事。

 「衰え」をはっきり指摘しながら、イチローに最大限気を使っているあたり、そして短い表現からマリナーズに対する記者の思い入れが思わずあふれ出ているあたり、この一文はなかなかの名文ではないかと思われます。

『シアトル・タイムズ』の記事より。

http://seattletimes.nwsource.com/html/stevekelley/2015304408_kelley13.html


 マリナーズとの新しい役割を受け入れる必要があるイチロー

マリナーズの37歳のスターであるイチローが下り坂にさしかかっている。いま重要なことは、イチローが――そしてマリナーズが――それに対してどう対処するかということだ。


スティーブ ・ ケリー 『シアトル・タイムズ』のスタッフ・コラムニスト


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37歳を迎えメジャーで10年以上のシーズンを過ごしたイチローは、驚くべき戦いを繰り広げているマリナーズにとってのサポート役をもっと引き受ける必要があるだろう



 私たちは皆、偉大なプレイヤーがいつまでもプレーできればいいのにと願う。今週の全米オープンでジャック・ニクラウスやアーノルド・パーマーが猛チャージをかけたり、ビヨルン・ ボルクとジョン・マッケンローがせめてもう一度ウィンブルドンの決勝でプレーしてくれたらと願う。

 私たちは、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソンやラリー・バードが今でもNBAのタイトルを争っていればなあと思ったり、モハメド・アリとジョー・フレージャーがもう一度世界タイトル戦のためにトレーニングを始めたり、ハンク・アーロンが今でもサンディー・コーファックスの投球を打ち返したり、ジョー・モンタナがミドル・ラインバッカーをすり抜けたジェリー・ライスに対するパスを成功させたりできればなあと願ったりする。

 私たちは、最高のプレイヤーがいつまでも現役でいてくれればと願うのだ。

 しかし、年齢とプレイヤーとの闘いで、常に勝利を収めるのは年齢の方だ。才能がすり減っていく。技能が低下する。軽快な足どりが失われる。スピードがなくなる。

 これがイチローに起こっていることだ。

 このマリナーズのライトは、これまでの10年の各シーズンで200本以上のヒットを放ち、3割を超える打率を残してきたが、そのイチローが今年は.258の打率なのだ。

 それと同じくらい劇的なことだが、彼は、ゴールデン・グラブ賞にふさわしい右翼手としての守備を見せていない。まるで、飛球を追いかけることに問題を抱えているかのように見えるのだ。かつてほどのジャンプが見られない。外野手の間に飛んだボールを追いかける様子が以前のようにはいかないのだ。

 ゲームを作る先頭打者(playmaker)がゲームを作れていないのだ。

 イチローは、2009年にワールド・ベースボール・クラシックで日本代表としてプレーした後にエネルギーが枯れてしまった時と同じように疲れているように見える。2009年のシーズンが始まった時、彼は極度の疲労と胃潰瘍に苦しみ、故障者リストに入っていたのだ。

 たぶん、精密検査を受ける必要が彼にはあるだろう。たぶん肉体的にどこかがおかしいのだ。

 私たちは、イチローがまた目の覚めるような得点をあげることを、7月には.380ほどの打率を残せることを待ちつづけている。

 しかし37歳という年齢では、彼の脚力が下り坂になっていることには疑いはないし、私たちが目撃しているのは、スーパースターが予想よりも急速に衰えつつある様子なのかもしれない。

 彼ほど入念に準備していても、そして彼ほど完璧にコンディション作りをしていても、過去10年のシーズンで1588回ものメジャーリーグの試合に出場した代償が顕わになりつつあるのだ。

 問題はイチローが衰えつつあるかどうか、ではない。衰えていることは言うまでもないからである。

 しかし今シーズンの急激な衰えは二つの問いを提起するのだ。彼のキャリアのこの衰退時期にイチローはどう対処するのかという問いと、マリナーズは彼をどのように扱うかという問いである。
 
 マリナーズは一連の「イチロー・ルール」の下で動いてきた。イチローは毎日プレーをしてきたし、休むことが彼にとって最善であるような日にも彼はプレーをしてきた。彼は常に一番を打ってきた。

 彼は送りバントをしない。彼はめったに四球で歩かない。彼は年間25本ものホームランを打てるパワーがあるにもかかわらず、ボールをもっと遠くに飛ばすために打率を数ポイント下げるようなことはしない。

 マリナーズは常にイチローに合わせてきた。どうして合せないでいられただろう。イチローは、生涯打率.331という成績を携えて、このシーズンを迎えたのだから。

 キャリアのこの時期を迎えた今となっては、そろそろイチローの方がマリナーズに合わせる時期が来たのだ。

 今のイチローはこれまでのイチローではない。6週間にも及ぶスランプの中で、彼が強打できたボールがどれほど少なかったかはショッキングなほどであった。彼は、過去10年間そうであったような200本安打が保証された安打製造機ではもはやない。ショートへ深いゴロを放ったら、2001年以降は確実にシングル・ヒットになったものだが、もはやそのようなことはないのである。

 イチローは自分の年齢に譲歩しなければならない。彼はもっとボールを見きわめる必要がある。監督のエリック・ウェッジが彼に送りバントをするように求めるならば、イチローもそうせざるを得なくなるだろう。

 ウェッジ・ルールはイチロー・ルールに勝るのだ。

 信じ難いことだが、マリナーズは西地区の優勝を争う位置につけており、わずか1・5ゲーム差でテキサスを追いかけている。突然レンジャーズが打てなくなった。エンジェルスも打撃不振だ。オークランドはチームが崩壊しているように見える。

 この地区にはマリナーズの脅威となるようなチームはないのだ(こんな一文を書けたことが信じられない)。

 しかし、ウェッジ監督は、現時点でのチームを管理しているのと同じくらい、将来のためのプランをたてなければならない。彼は若手――カルロス・ペゲーロ、グレッグ・ホールマン、マイク・カープのような若手――のための場所をラインアップに見つけなければならない。いつの日か、とりわけペゲーロとホールマンにとって、その場所は右翼になるかもしれない。

 ウェッジがイチローにベンチにいてほしいと望めば、イチローは、チームのために、ベンチにいなければならない。これがウェッジ・ルールである。

 この驚くべきシーズンの前半で、ウェッジの選手起用は名人芸と言えるようなものだった。彼がこのチームを掌握しているのは疑いえない。

 ウェッジは、イチローを一日だけ休養させた金曜日のようなやり方で、イチローを起用し続けるだろう。イチローは、今週末デトロイトで9打席中4安打を放って、休養に応えた。

 イチローは、今シーズンは依然として重要なプレーヤーだが、彼は今やロール・プレイヤー(role player:特定の役割を果たすことだけを期待される選手)なのだ。彼はこの役割を受け入れるだろうか?

 最高の選手でさえも永久に現役を続けるわけにはいかないのである。

」(おわり)






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偉大なる普通・・・あるいは『青島食堂』のチャーシューについて [雑感]

 久しぶりに休日らしい休日を得た日曜の昼前、予てから行きたいと思っていた神田佐久間町の『青島食堂』に行こうと思った。

 家を出たのが11時ごろ。東京の『青島食堂』は秋葉原店と名乗っているが(本店は新潟の長岡)、私の家から行くには浅草橋まで地下鉄で行って、そこから歩いたほうが早く着くだろうと思われたので、都営浅草線に乗り、浅草橋へ。浅草橋から秋葉原を目指してガード下を歩く。ここら辺は、ネオンまたたく夜に幾たびも歩いたことはあるが、日曜の午前は閑散そのもので、まるで別の街に見える。





 開店の11時半より5分前ほどについた。休日だからあまり人は並んでいないだろうと勝手に思い込んでいたのだが、すでに12~3人が列を作っていた。これが平日に比べて多いのか少ないのかは知らないが、まあそれほど待つこともないだろうと思われたので、おとなしく最後尾に並ぶ。全身が脂でダブついたようなラオタ風の人間は少なく、驚いたことに女性が多い。これがこの店の間口の広さを暗示しているように思われた。



 待っていたのは正味20分ほどだったろうか。何か連携作業ともいえるような素早さで、店の人が粛々とラーメンを作り客が粛々と食べるうちに、自然と待つ人が減っていき、それに伴って食べることへの期待値が自ずと高まっていくような20分だった。つまり、待つことが苦痛で堪らない店というものが存在する一方で、この店では何故かそういう気分にはならなかったのだ。何故だろうか? 柔和な表情の青年のてきぱきとした作業が見てて飽きなかったからだろうか? それとも、何故かかかっていたNHKラジオのドラマが良いアクセントになっていたからだろうか?(でも、それはないな)。

 ともかく、そうこうしているうちに、注文した「青島ラーメン+自家製麵」が到着。



 一応ここのラーメンは「生姜醤油ラーメン」をキャッチフレーズに使っているほど生姜を売りにしているようだが、生姜の風味はあまり感じなかった。自家製麵の方を選んだのだが、それもこれという程の個性を出しているわけではなかった。ほうれん草は、個人的によく食べる家系(いえけい)のほうれん草が悲しい位に風味のない中国産の冷凍ものであるのに比べると、きちんとしたほうれん草を使っていることが瞬時に判るほどの風味があって嬉しかったが、これは比較対象が低レベルすぎるので、まあ、大した感想ではない。
 しかし、チャーシューを食べた途端にしみじみした思いがこみ上げてきた。私にとっては、このチャーシューがなければ、ここのラーメンは単に純朴なラーメンにすぎないように思われたのだが、さて、このチャーシューの魅力をどう伝えればいいのか?
 ここのチャーシューは、とくに独自の味だという訳ではないと思う。私が子供だった数十年前にはどこにでもあったチャーシューだ。もも肉の赤身のブロックを使うもので、もも肉のブロックは、普通に煮込むだけではパサパサになりやすいので、ある時期から、脂身の多いばら肉を使うタイプにほぼ駆逐されてしまった。今では、赤身と脂身を交互に重ねて巻いたタイプが一般的になったが、これらは、コスト面もさることながら、脂身の多い方が簡単にしっとりしたチャーシューが作れるから、という理由が大きいと思う。『青島食堂』のチャーシューは、そのままだとパサパサになる赤身ブロックを、たぶん余所以上に時間をかけてタレに漬け込んで、かつ薄切りにして供することで、このタイプのチャーシューの弱点を補っているようだ。つまり、手間暇をかけているのだ。
 私は、個人的には豚の脂身が駄目で、昔風のチャーシューが好きであった。子供の時からラーメンが好きだったのは、あのチャーシューが好きだったからとさえ言えるほどだ。小学校5年の時に骨折して大きな病院に長期入院を余儀なくされたが、退院するときに少し心残りを感じたのは、その病院の食堂のラーメン、特にそのチャーシューがもう味わえないことが残念だったからだ。食べながらそんな古い記憶がふと蘇ったりした。
 私は自分の嗜好があまり一般的ではないということを知っている。だから、バラ肉タイプのチャーシューが一般的になったのも、皆の嗜好を反映しているのだろうと思っていた。しかし、この『青島食堂』の人気が高い理由のかなりの部分をチャーシューが占めていることを考えると、駆逐されたはずの昔風のチャーシューを多くの人が支持していることが判る。では、ある時期から起きた脂ぽいチャーシューへのシフトがなぜ起きたのだろう? あれは、果たして、食べる側の嗜好を反映したシフトだったのか? それとも、作り手の事情(コスト、手間暇等)によるものではなかったのか? 
 さっきも書いたが、この『青島食堂』が供するラーメンはとくに独特なものではない。長岡系と呼ばれることもあるらしいが、数十年前にタイプスリップすれば、こうしたラーメンは至る所にあった。しかし、さまざまな変化や淘汰が激しい所では駆逐されていった古いタイプの製法が、長岡では改変されることなくそのまま受け継がれていたのだろう。そんな保守的な姿勢は、どこにでもあるように見えて、実は、ほとんどどこにもないものなのかもしれない。その長岡の店が東京に支店を出すに及んで一躍人気店になったのは、要するに、時計の針がひとめぐりしただけなのかもしれない。つまり、以前にあったままの味が、以前の通りに多くの人々に受け入れられたということなのかもしれない、と秘かに思った次第である。
 

 それにしても、ここのラーメンは写真を見ただけで、自分の嗜好のど真ん中という予感はあったのだが、その予感通りであった。今度行くときはチャーシュー100円増しにしなければと今から決めているのだ。

 (数日後にまた食べに行ったが、その時は、チャーシューがなぜかひじょうにカサカサで不味く感じられた。スープの出来が、日によって非常に違うという店は珍しくはないが、チャーシューの出来にもこれほどバラつきがあるとは知らなかった。いずれにしても、痛く失望してしまい、褒めすぎてしまったなあと後悔の念を募らせたことを正直に告白しておきたい)。









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