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ニーチェの道徳・政治哲学(その6)  [探求]

  スタンフォード大学・哲学百科事典の「ニーチェの道徳・政治哲学」(ブライアン・ライター執筆)の紹介の第6回目。

  ここでは、ニーチェの哲学についてのリアリズム的(実在論的)理解に基づいた解釈が取り上げられ、その批判が展開される。ニーチェとリアリズム(実在論)と聞くと何か水と油のような印象をもつ人もいるだろうが(私もそうである)、晩年の「私はあらゆるものに力への意志を見出した」というニーチェの言葉をそのまま彼の道徳解釈に適用した解釈者がいるようであるし(英米系では一応名高いシャハトがその代表者)、確かにそういう解釈はある種のもっともらしさを要求できるだろうとは思う。しかし、そのためには、ニーチェのうちにある圧倒的な反リアリズム的要素とどう折り合いをつけるかという非常に難しい問題と取り組まざるをえない。執筆者のライターの見解ははっきりしていて、「力への意志」を原理に据えるようなことをニーチェは考えていなかった。そのような発言は遺稿の中に散発的に見られるが、発表した著作ではついにそういう見解をニーチェは述べたことがなかったことが、そのことを示唆しているという。





Nietzsche's Moral and Political Philosophy . By Brian Leiter.
http://plato.stanford.edu/entries/nietzsche-moral-political/



3. ニーチェのメタ倫理



  ニーチェは、倫理的(つまり、MPSの)価値は人間の卓越性の繁栄に寄与しないと主張し、この事実に言及することで、彼はMPSの価値を評価しようとした。別種の価値を再評価するという試み(それを「価値転換された価値」と呼ぼう)は、当然ながら、次のようなメタ倫理的な問いを将来する。この再評価を試みるために用いられる価値(「再評価する際の価値」)は、どんな――形而上学的、認識論的――身分を有しているのか?(ニーチェが価値判断についての明確な意味論的見解をもっていたということは疑わしい(Hussain 2013, esp. 412.)。ライター(Leiter (2000))に従い、われわれはニーチェのメタ倫理についての「特権ありの読み方」――それは、ニーチェが自分の価値評価の観点こそ真正なものである(あるいは、ターゲットとなるMPSよりはより良く正当化できる)と考えていると主張する――を、そうした特権の主張を否定する読み方から区別する。(後者の「懐疑的」見解の支持者はニーチェを全面的な反-リアリストとして読む必要はない――つまり、どんなものにも真理や事実は存在しないし、ましてや価値についての真理など存在しないと主張するものとして読む必要はないことに注意せよ。こうした主張は、今では、ほとんど信用されていない。ここで問題となっている懐疑的見解に立てば、価値の客観性について特別な問題が存在することになるのである)。



3.1  特権ありの読み方


 ニーチェについて特権を認める読み方は、以下の三通りの形をとりうる。直観主義的リアリズム的読み方 (Intuitionist Realist (I-Realist))。自然主義的リアリズム的読み方(Naturalist Realist (N-Realist))。特権ありの非―リアリズム的読み方( Privilege Non-Realist (P-Non-Realist))。これらの見解の支持者は次のように考える。

(ⅰ) I-Realistによれば、非自然的で規範的事実が存在し、その事実は独特の事実で、何らかの適当な規範的「知覚」行為によって把握される。

(ⅱ) N-Realistによれば、規範的事実が存在するのは、規範的事実がある種の自然の事実(それは何らかの意味で具体化されなければならない)によって構成されるからである。

(ⅲ)  P-Non-Realistによると、規範的事実は存在しないが、何らかの規範的判断は、対人的なアピールや承諾によって特権を享受する。


  「規範的事実」が存在するということは、ここでの目的にとっては、規範が(何らかの意味で)世界の客観的特徴であるということを意味する。現在までのところ、ニーチェを直観主義的リアリストとして解釈した人はいないが、シャハト(Schacht (1983) )やウィルコックス(Wilcox (1974))は自然主義的でリアリズム的な読み方を擁護する一方で、フット(Foot (1973) )は、特権を認める非―リアリズム的読み方を擁護した。こうした特権を認める読み方を悩ます困難を順に考察することにしよう。

  自然主義的リアリズム的読み方によると、ニーチェの主張は、第一に、実際に価値をもつのは力(power)だけであり、第二に、力は客観的で自然の中にある属性である。ニーチェの価値評価の観点には特権があるのだが、それは、そこに、(ⅰ)力の度合いという観点から打算的価値(主体にとっての価値)を評価することが含まれるからであり、(ⅱ)打算的価値の最大化(つまり、力の最大化)という観点から非打算的価値を評価するということが含まれるからである。(用語についての注意書きをここに挟もう。通常の約束に従い、厳密な意味でのN-Realistは、価値をもつものは自然の属性であるということのみならず、価値そのものが自然の属性であると考える。この微妙な問題についてのニーチェの見解を明瞭に示すテキストはないが、それでも、二つの理由から、N-Realistというレッテルを使うことには意味がある。第一に、この読み方の擁護者は、ニーチェの見解を「自然主義的」なものとして扱っているからである。第二に、それは、実際、19世紀のお馴染みな意味で「自然主義的」である。つまりそれは、何らかの超自然的属性が存在することを否定しているからである。価値の理論において、ニーチェを一種の自然主義者として、つまり、善性を非自然的(たとえば、イデアのような)で超自然的属性に付随するものとして見なす宗教的、半-宗教的理論に抵抗するという意味で、ニーチェを自然主義者として考えるのはもっともなことだろう。こうした理論とは対照的に、ニーチェは、善性が自然にある(と考えられる)属性、すなわち、力に付随するものであると主張するのである)。

  シャハトによると、「生および世界の根本的性格」を力への意志と見なすニーチェの見解が、ニーチェ自身の価値評価の観点を根拠づけていると考えられる (1983: 348–349)。ニーチェが(シャハトが引用している個所で)書いているように、「生そのものとは力への意志であると仮定するならば」、「生には、力の度合いを除くと、価値をもつものはなにも存在しない」 (WP 55)。ニーチェによる価値の価値転換の試みとは、倫理的価値を、その「力の度合い」に基づいて評価することになるが、その「力の度合い」が「価値の客観的基準」を構成する(WP 674)。シャハトの見解の特権はそこに由来する。それは、生の中にあって(事実上)唯一価値をもつもの(つまり、力)を価値評価の基準としてもつのであり、価値評価にあたって(つまり、「力」を最大化しないからという理由でキリスト教の道徳を批判することによって)この「客観的価値基準」を使用するのである。

  N-Realistの読み方に立てば、ニーチェの論証はどうなるのか? 説明せよと迫られても、論者たちの歯切れはよくない。たとえば、シャハトは次のように書いている。

  「ニーチェにとって、人間の生は、最終的には、一種の広大なゲームの一部なのだ…それは、いわば、街中で行われる唯一のゲームである。…このゲームの本質は、その範囲の中に入るあらゆるものの価値評価のための基準を設定することにある。この基準の有効性は、生と世界の了解がそこに立脚するのと同じくらい堅固な土台の上に、価値評価を位置づけることにある」(1983, p. 398)。

  「街中で行われる唯一のゲーム」という言い方はあまりに比喩的すぎて、求められる哲学的重圧に耐えられそうもない。「生そのものが力への意志である」という事実から、どうして、力こそが唯一の価値基準であるということが帰結するのだろう?たとえば、あらゆる生物は物理学の基本法則に従っているという事実からは、適当な価値基準について何も帰結しない。シャハト等が念頭に置いていると思われることは、ジョン・ステュワート・ミルが功利主義のために展開した論証に似ている。その論証は、幸福こそ人々が欲し目指す唯一のものなので、幸福こそ内在的価値を有する唯一のものであるという前提から出発する。しかし、この論証は、よく知られているように、成功していない。幸福だけが望まれるものだという事実から、望まれるべきであるものについては何も帰結しない。ニーチェの論証をこれに似た仕方で解釈する試みも似たような問題に逢着するのである(ライター(Leiter 2000 )がこの類似性を詳しく論じている)。

  1861年の『功利主義』での効用の原則についてのミルの周知のよく批判される「証明」に基づくと、あるものが可視的であることを示すために、われわれは、それが見られていることを証明しなければならない。何かが聴取可能であることを示すために、われわれはそれが聴かれていることを示さなければならない。それ類比的に
(P) 何かが望ましい(すなわち、価値がある)ことを示すためには、それが望まれていることを示せ。

  ミルの快楽主義は、幸福と快楽のみが内在的に望ましい(あるいは価値がある)(「規範的快楽主義(Prescriptive Hedonism)」)と考える。価値をもつ(あるいは、望ましい)ものは何もないという見解を「価値ニヒリズム(Value Nihilism)」と呼ぶことにしよう。(P)から規範的快楽主義を得るために、「記述的快楽主義(Descriptive Hedonism)」――人々は、実際、快楽だけを目的として望んでいるというテーゼ――を作動させよう。 (P)が妥当し、記述的快楽主義が正しく、価値ニヒリズムが間違っているならば、規範快楽主義が正しいことが帰結する。(もちろん、(P)は妥当しないのだが、この点はは後で立ち返ることにする)。

  同じタイプの論証が、ニーチェについてのN-リアリズム的解釈が念頭に置いていることを捉えているように思われることに注目しよう。つまり、価値あるものは力であるというN-リアリズム的結論を得るために、(P)を取りあげて、力への意志のニーチェの記述的見解の強い形式――大雑把に言って、すべての人は内在的に力のみを望むという見解――を作動させよう。もし(P)が妥当して、価値ニヒリズムが間違っていて、力への意志についての記述的見解がただしいならば、そこから、シャハトが求めている力についての記述的結論が帰結するように思われる。(もちろん、ここで定式化されたミルのモデルに基づく論証が示しているのは、力は主体にとって非道徳的な意味で価値がある(あるいは、善である)ものであるということにすぎないことに注意せよ。もちろん、打算的な価値や非-道徳的善に対するミルのモデルに基づいた論証が有効でないならば、それは、打算的価値は力の最大化にあるとする関連する見解を支持するさらなる論証がないと想定することに(無効にできるかもしれないが)強力な理由を提供するのである)。

  この「ミル的論証」にはどんな問題があるのか? 最初の問題は、もちろん、(P)が妥当しないということである。xが聞こえる(x is heard)ことから、xが聴取可能である(x is audible)ことは帰結するが、xが望まれている(x is desired)ということから、(論証に必要な意味で)xが望ましい(x is desirable)ということは帰結しない。なぜなら、 「聴取可能(audible)」は「聞くことができる(can be heard)」と言い換えられるが、規範的快楽主義の文脈での「望ましい(desirable)」は、「望まれるべきである(ought to be desired)」を意味する(望まれ「うる」(can be desired )とか望まれて「いる」(is desired)を意味しない)。だから、
xが聴かれるならば、xは聴かれうる(「可聴的である)(If x is heard, then x can be heard (‘is audible’))は成り立つが、

  xが望まれるならば、xは望まれるべきである(「望ましい」)(If x is desired, then x ought to be desired (‘is desirable’))は成り立たない。

  しかし、快楽や力が価値があると主張するとき、ミルやN-リアリズムのニーチェは規範的なテーゼを述べているのである。しかし、この規範的なテーゼが正しいことは、それに対応する記述的テーゼから帰結することはないのである。


  もちろん、多くの論者は、このような論証をあまりに表面的な反応と考えてきた。価値の理論で多くの哲学者が信頼できると考えた「内在的制約(Internalist Constraint : IC)」を加えることによって、これまでの論証を補うことにしよう。

  (IC) ある人があるものに関心をもつ(望む)ことができるのでないならば、そのあるものがその人にとって価値をもつことはありえない。( Something cannot be valuable for a person unless the person is capable of caring about (desiring) it.)

  この(IC)を導入するのは、ある人が関心をもつ(または、関心をもちうる)ことにxが縁遠いならば、その人にとって「xは価値がある」ということが正しくなることはないと考えられるからである。信頼のおける価値の概念は、ある人の現在の(あるいは、潜在的な)関心の幅と何らかの強い関連をもたなければならない、と(IC)は想定するのである。

  (IC)はどれほど役に立つだろうか? (P)を思い出してみよう。
(P) 何かが望ましい(すなわち、価値がある)ことを示すためには、それが望まれていることを示せ。

  さて、(IC)はどのようなものが望ましい(または、価値をもつ)について制約を課す。つまり、主体が、実際、関心をもつ(または、のぞむ)ことができるものだけが望ましい(または、価値をもつ)、ということになる。すると、(P)は次のように定式し直すほうが良いであろう。

  (P ')何かが望ましい(すなわち、価値がある)ことを示すためには、それが望まれているかあるいは望まれうるということを示せ。

  (P ')は、今や、たんに(IC)の異なる定式にすぎなくなる。もしわれわれが(IC)を受け入れるならば、われわれは(P')を受け入れるべきである。しかし、われわれが「記述快楽主義」が正しいことを、つまり、快楽のみが、実際に、望まれているということを認めるならば、どうなるだろうか?その場合、快楽のみが望ましい(望まれるべきである)ということが帰結するだろう。(価値ニヒリズムが偽であることを前提したうえで)。つまり、あるものが望まれるべきであるのはそれが望まれうる場合に限るのであるから(内在主義)、xのみが望まれうるならば、xのみが望まれるべきであることになる(価値ニヒリズムが偽であることを前提したうえで)。

  この論証は、N-リアリズム的ニーチェを救うだろうか? 二つの障害が残されるのである。第一の、たぶん深刻ではない障害は、われわれは(IC)を受け入れる何らかの理由をもたなければならないということ――あるいは、もっと控えめに言って、ニーチェはそれを受け入れると考える何らかの理由をもたなければならない、ということである。しかし、ニーチェがこの問いに対してどのような立場にあるかを言うための適切なテキスト上の根拠があるということは明確ではない。しかし、(IC)は、N-リアリズムを支持する『遺稿』におけるニーチェの発言によって前提とされている――そうした発言が(IC)抜きだと良好な論証とならないという意味で――ように見えるので、ニーチェは(IC)を受け入れていると認めることにしよう。そして、(IC)を一般的な哲学的問題として受け入れるべきであるかどうかという厄介な問題は脇に置くことにしよう。

  それでも第二の困難は残る。すなわち、N-リアリズムのための論証は、それに関連する記述的テーゼの正しさ、ニーチェの場合だと、力への意志のテーゼの正しさに依存している。これは二つの問題を提起する。第一に、ニーチェが刊行に踏みきった作品で、彼は、N-リアリズムの論証に必要な強い形でのテーゼ(つまり、人間が目指したり望むのは力のみであるというテーゼ)を、実は、受け入れなかったように見えるということである。第二に、それは、その強い形のままではどうしても信頼できるテーゼではないということである。

  その新たな形で動作するN-リアリズムのためのミルのモデルに基づいた論証が新たな形で(つまり、(IC)を補った形で)うまくいくためには、望まれるべき(「価値がある」)ものが、実際に望まれる唯一のものであるのでなければならない。N-リアリズム的なニーチェの結論は、力のみが価値があるということなのだから、力こそが実際に望まれている唯一のものなければならない(あるものが価値をもつこと、つまり、価値ニヒリズムが偽であることが前提されている)。もちろん、多くの人々が、ニーチェはまさにこの見解を採用したと考えてきたし、ニーチェはそれを示唆することをたくさん述べているのは明らかである。ツァラトゥストラは「私は、生きるものを見出したところに、力への意志を見出した」と述べている(Z II:12)。ニーチェは「生の意志である力への意志」に言及する(GS 349)。「生の真に根本的な本能は...力の拡大を目指す」とニーチェは言う(GS 349)。「生とは、端的に言って、力への意志である」ということは、「成長し、広がり、つかみ取り、支配的になろうとする努力」であるということである(BGE 259)。彼は「あらゆる出来事に力への意志が働いているという理論」に言及する(GM II:12)。彼は「生き物は何よりもその力を放出しようと努める――生そのものが力への意志なのである」と主張する(BGE 13)。等々。

  難点は、ニーチェがこうした強力な発言が誤解を招くものであることを示唆するような事も言っているということである。たとえば、生そのものは、私には、成長のための本能であり、持続のための本能であり、力の蓄積のための本能であり、力のための本能である。力への意志が欠けているところには、衰退がある。人類の至高の価値はすべてこの意志を欠いているということが私の主張である...。 」(A6)

  しかし、すべての行動がこの意志を明示しているとすれば、この意志が欠けているということは決してありえないだろう。だが、ニーチェは、それが欠けることがありうると考えていて、それはつまり、ニーチェは、誰もが力を目指して(「望んで」)いるとは限らないという可能性を黙認しているはずだということを意味している。

  今引用した一節はニーチェの思考を逸脱したものではない。同じ著作の後の方で、彼は「いかなる形をとるにせよ、力への意志が衰える場合」(A 17)に関して同じ主題に戻っている。『アンチ・クリスト』の直前に書かれた著作で、彼はリベラルな諸制度の「効果」は「十分に知られている。それらは、力への意志を弱体化させている」と主張している(TI IX:38)。そして、直後の著作(ニーチェ最後の著作)で、ニーチェは「現実の恐るべき側面(感情における、欲望における、力への意志における)...」に言及する(EH IV:4)。それは、確かに力への意志が単に現実の様々な特徴の一つであるかのように響く――それは、感情や欲望と並ぶものであって、それらすべての本質的な核心ではないかのように響くのである。

  力への意志の強いテーゼをニーチェに帰属させることに反対するために、さらにテキストに基づく一般的な考察を三つ加えることにしよう。第一に、強いテーゼの擁護者たちが信じているように、「ニーチェの根本的な原理は「力への意志」である」ならば、ニーチェの著作において自己反省が前面に出ている二つの個所で、なぜニーチェ力への意志についてほとんど何も言わないのか――そしてそれが自分の「根本的な原理」であると示唆することを全く何も言わないのか――理解しがたいことになる。自己反省が前面に出ている二つの個所の一つはニーチェの最後の大作である『この人を見よ』で、そこで彼は自分の生涯と自分の著作物、特にそれまでに書いたすべての書物について再考している (EH III)。もう一つは、1886年に彼が、『悲劇の誕生』、『人間的な、あまりに人間的な』、『曙光』、『悦ばしき知識』のために書いた一連の新たな序文であり、そこでニーチェは自分の主要なテーマを再考している。いずれの機会にも、この「根本的原則」と想定されているものに何の言及もなされていないということは、それがニーチェの思考において果たした役割が誇張されすぎたことを示唆しているのである。

  第二に、いま問題にしている見解は、力への意志について異常なまでに強い理論を前提にしている。つまり、すべての生(行動、出来事)は力への意志を反映しているという趣旨の理論を前提にしている。しかし、最近の研究は、ニーチェが最終的にそのような理論を受け入れたかどうかについて疑問を投げかけた。 ニーチェの全著作において力への意志についてのべた最も有名な個所は、たとえば、『力への意志』の最後のセクション(1067)であるが、そこで彼は次のように断言する。「世界は力への意志である――そしてそれ以外の何物でもない。そして君たち自身もまた力への意志である――そしてそれ以外の何物でもない」。これは、長年にわたり注釈者のお気に入りだったが、この箇所には、『遺稿(Nachlass)』研究の第一人者、故マッチーノ・モンティナーリ(Mazzino Montinari)の不信の目が向けられた。モンティナーリは、ニーチェが、実は、この箇所を1887年の春ごろに破棄したことを示したのだ(1982, pp. 103–104)!  モンティナーリが記したように、「ニーチェの文学的意図」(1982, p. 104)にもかかわらず、この箇所はケーゼリッツ-フォースター版の『力への意志』の一部にさせられたのである(これが、カウフマンとホリングデールの英語版の土台となった)。

  最後に、モードマリー・クラークは、ニーチェが力への意志に対して与えたと想定される論証を考えるならば、ニーチェが力への意志の理論のもっとも強力な形式――つまり、有機的なものであれ無機的なものであれ,あらゆる力は力への意志であるという理論――を受け入れたことはありえないと主張した。クラークは、ニーチェが公表した著作の中で力への意志の理論に対して与えた唯一の論証――『善悪の彼岸』のセクション36――は条件的形式で述べられている。つまり、ある種の原初的仮定を受け入れるならば、力への意志の強い理論が帰結するとニーチェは考える。しかし、その条件文の前件の一つは「意志の因果性」であり、ニーチェは別の諸作でそうした因果性を明らかに拒絶しているとクラークは主張する(GS 127, TI II:5, TI VI:3)。

  ゆえに、このセクションは、ニーチェ自身が実際に受け入れているとされる力への意志についての最強の理論のための論証を構成することはできないことになる! 最強の形式の理論を受け入れているというよりも、クラークは、ニーチェが、いくぶん皮肉っぽく、その周辺の個所で彼がそうならないようにと警告している哲学者の欠陥を具体的に示している、と主張するのである。それは、すなわち、現実の本質を示すと称しながら、自分自身の価値評価を投影しているにすぎない哲学者の傾向のことである(Clark 1990, pp. 212–227)。たとえば、ニーチェは「自然に従って生きる」というストア派の教えについて、「君たちは君たちの掟の規範を自然のうちに読み込もうと強弁するが、その反対のことを望んでいるのだ。… 君たちのプライドは、君たちの道徳、君たちの理想を自然に押しつけようと望んでいるのだ…」(BGE9)。力への意志のニーチェ自身の理論はこうした非難を免れていることなどどうしてありえようか、とクラークは怪しんでいる。(刊行された著作のうちで『力への意志』の1067の生き残った名残は『善悪の彼岸』の皮肉っぽいセクション36であるとモンティナーリが主張していることにも注意せよ(1982, p. 104))。

  では、ニーチェは力への意志についてどのように考えていたのか? 他の人も指摘しているが(例えば、Clark1990:209-212)、最初に述べられたときでも、その後に述べられたほとんどの個所でも、力への意志のニーチェの理論は、心理的的性格のものである。力への意志は、広範囲にわたる人間の行動に対する最良の心理学的説明として提起されているのである。しかし、これまでの個所と考察が明確にしているように、ニーチェは、力への意志がすべての人間の行動のための独占的な説明であると信じていたとは思われない。ニーチェはしばしばこうした強い形式の主張を展開しているように見えるが(上記の例を参照)、われわれとしては、ニーチェは自説を誇張して述べた――誇張的なレトリックや論争を好む性向のために、ニーチェはしばしばそうしたのだ――か、上で述べたように、クラークが記述した皮肉っぽい戦術を打って出た、と見なさなければならない。もちろん、そう考える方都合がよいのであって、なぜなら、力への意志があらゆる人間の行動を独占的に説明するものだということはほとんどありそうもないからである。

  力への意志が価値の客観的基準を提供するという論証にとってもう一つ別の、テキスト上の懸念がここに潜んでいる。力が価値の客観的基準であると示唆しているように見える発言をニーチェがしているのは『遺稿』においてのみだが、それがニーチェが生前に決して出版しなかったものである。ニーチェが実は出版された著作においても力への意志についての強い記述的理論――生命のあらゆる力(おそらくあらゆる力)は力への意志であるという理論――を述べていると考えたとしても、やはり、ニーチェがこの理論を使うのは、『遺稿』の草稿に出てくる規範的結論を主張するためである、ということは依然としてかわらない。研究者たちは、この『遺稿』の草稿の規範的身分について重大な疑義を呈しているので (Montinari 1982, pp. 92–104; Hollingdale 1985, pp. 166–172, 182–186)、このことが示唆するのは、ある見解が、こうしたノートで述べらえたことに基づいてのみ、ニーチェに帰されるべきではないということであるが、しかしまさにそれこそ、N-リアリズム的読み方が要求していることなのである。

  ニーチェに何らかの価値リアリズムを帰しているわけではないが、フィリッパ・フットは、シャハトと同様に、ニーチェは単に彼独自の見解、対人的正当化の余地のない見解を表明する以上のことをしている、ということを示そうと考えた。ニーチェの意図は、部分的には、「利害の衝突を――強者の善と弱者の善の対立をわれわれに提示すること」であることに同意するが、フットは、「これがニーチェの示唆したいことのすべてではない」と付け加える(1973: 162)。ニーチェは「強く、独立した等々の者は誰でも――高次のタイプの人間についてのニーチェの記述に当てはまる者は誰でも――自分自身の中に価値を有する者である」と指摘しながら(163)、フットは続いてこの価値の概念を次のように説明する。

  「われわれは強く例外的な個人を高く評価すると言うことには意味がある…。例外的な人間に対する反応にもパターンというものがあり、ここに美学的な根拠に基づく価値評価と似た価値評価をここに見ることができる。…私がここで考えているのは、例外的な心の独立と意志の強さをもつ際立った人間に対する共通する態度である関心と称賛である。 …[ニーチェ]は…われわれが強力で素晴らしいと見るある種の個人を賞賛する傾向に訴えているのである…。ニーチェが芸術作品に価値(美的価値)を帰する仕方と、ニーチェがある種の人間に帰する価値との間には類似性があり、そのどちらもが一連の共通の反応に基づいている…。」(1973:163)
だから、ニーチェは、この説明に基づくかぎり、自分の価値評価の視点が真理に関わるものであると主張しているわけではない。彼の主張は、単に、それが、「際立った人間に対するわれわれに共通の態度」のために、「ある種の個人を称賛し、それが美的に魅力的だと思うわれわれの傾向」のために、ある種の対人的アピールをもつということにすぎない。高次の人間本当に価値のあるものなのかどうかについての事実はないかもしれないが、ニーチェの価値評価の観点は、われわれすべてに対するアピールのおかげで特別なものとなる。われわれは皆、高次の人間の繁栄に関心をもっているように思われるのである。

  しかし、ニーチェは、彼の道徳批判のロジックを前提にする限り、「高次の人間」の繁栄が、そうした人間を賞賛する「われわれの傾向」にアピールする、あるいは何らかの「共通」の態度にアピールするという見解を受け入れることはありえないだろう。これは、『ゴルギアス』におけるプラトンのカリクレスに倣って、ニーチェのカリクレス主義と呼べそうなものから帰結することである。いまや、注釈者にとっては平凡なことになったことだが、ニーチェはカリクレス主義者のある種の見解を受け入れなかった。その見解とは、「良く生きようとする者は誰でも、もっとも偉大になろうとする欲求に耐えるべきであり、それを抑止してはならない」という見解である(ゴルギアス、419e)(Nehamas 1985:202-203; BGE 188)。しかし、より重要な点でニーチェの見解はカリクレス主義的である。すなわち、弱者が道徳を利用するのは、「生まれついてより良い者たちを奴隷にするためである」(ゴルギアス、491e-492A)、あるいは、「弱い人間たち、多数派が自分たちの利益になるように法律(そして、道徳を、と付け加えてもいいだろう)を作るのは、他人を追い越すことは恥ずべきことであり悪しきことだと言うことによって、「強者を」をおどすためだ」(ゴルギアス、483b-D)といったカリクレスの理論を容認している点で、ニーチェはカリクレス主義者である。要するに、カリクレスの見解は、道徳は単に、強者ができることができず、その代わりに、強者の行動を道徳の呪縛のもとに置こうとする弱者の打算にすぎない。もちろん、これは本質的にニーチェの見解でもある。だから、たとえば、ニーチェは奴隷の道徳を単に「もっとも低い次元の狡知[Klugheit]」として記述し (GM I:13)、ある個人を畜群の上に高め隣人を脅かすすべては...悪と呼ばれる」と述べたり(BGE 201)、そしてまた「道徳的判断や非難は精神の狭い人間が精神が狭くない人間に対して行うお気に入りの復讐である」(BGE 219)と述べたりするのであるし、「弱者や凡庸な人間が…強者を弱体化させ打倒する主たる手段が道徳的判断だ」と主張したりするのである(WP 345)。

  思い出してほしいが、フットは、ニーチェが単に「われわれに、利害の衝突――強者の善と弱者の善の対立を提示している」だけだという見解に抵抗しようと思っている(1973:162)。その代わりに、フットは、ニーチェが高次の人間(普段は、道徳的価値の支配に妨げられている人間なのだが)を称賛しようとする「共通」の傾向にアピールしていると述べている。しかし、ニーチェのようなカリクレス主義者にとって、高次の人間の繁栄を実際妨げているということが、道徳がアピールするものの一部なのである。それが正しいならば、彼は「高次の人間」の繁栄がすべての人にアピールするとはニーチェは考えることができないだろう。まさにそうではないからこそ、低級で卑俗な者たちが高級な者たちの繁栄を阻止するために、真っ先に道徳が登場するのである。このことは、高次の人間が、低級で卑俗な者たちの目から見て賞賛すべき者になりうることを否定しない(だから、彼らは妬むのである)。しかしそれは、ニーチェの価値評価の観点――高次のものを妨げるということが道徳に対する異議となるという観点――が、こうした勝算が共有されているおかげである種の特権をもちうる、ということは否認する。カリクレスの世界像に立てば、高次の者と低次の者、強者と弱者の間には根本的な敵意が存在するのであり、その敵意は、低次の者に高次の者を称賛するよう働きかけ、弱者に強者を称賛するように働きかけることによって、架橋されることはないのである。「多数者の幸福と、少数者の幸福は価値に関する正反対の観点である」と、ニーチェは『道徳の系譜』の第一論文の終わりの注記でそう述べている。ニーチェのあらゆる価値の価値転換を経ても、こうした対立する道徳の規範的主張を首尾よく仲介したり調停できるようになる価値評価の観点はないのである。



」(つづく)


















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