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ニーチェの道徳・政治哲学(その5) [探求]

  スタンフォード大学・哲学百科事典の「ニーチェの道徳・政治哲学」(ブライアン・ライター執筆)の紹介の第5回目。ここでは、ニーチェの理論の積極的な側面を、別の伝統的な倫理学理論と類比的に理解できないだろうか、という試みがいろいろ紹介されている。実際、別の「徳倫理」をあつかった書物でもニーチェに言及するものがあったように思われる。そういうことが、流行っているのだろうか?

  この長い一節でとりわけ私が面白いと思ったのは、「高貴」についてのニーチェの考え方を著者がまとめている個所である。高貴な人間には「意志の疎通は成り立たない」というのが面白い。高貴な人間は、人とコミュニケ―トする必要性を感じない。彼は、自分の仕事だけで手一杯なのだ。また、高貴な人間は、他人を道具としてしか見なさない。他人の存在は自分にとって何だというのだ? それは、せいぜい、自分の作品が実現するために意義をもつにすぎないのだ。

  こうしたカント的な道徳に対して唾を吐くような考え方は、時代錯誤的な貴族趣味と映るかもしれないが、まったく世間から隔絶した孤独のうちにあったニーチェの生活信条だったのだろうと考えた方が事実に近いだろう。「高貴な人間は自己に対して畏敬の念をもつ」という考え方も面白い。彼の世界には彼自身しかいないのだから、その唯一の人間に畏敬の念をもたないでどうする? それは、エゴイズムでもナルシシズムでもない。完全な孤独の状態にいる者にとって、自己に対する畏敬の念とは、生存を支える唯一の信念であり信仰ですらあるのである。 


 
Nietzsche's Moral and Political Philosophy . By Brian Leiter.
http://plato.stanford.edu/entries/nietzsche-moral-political/






  ニーチェの道徳・政治哲学(その5)


 2.ニーチェの積極的倫理観



  積極的で内在的な価値が帰される事態(つまり、高次の人間の繁栄)についてニーチェが彼なりの見解を抱いているのは明白であるが、彼の道徳批判の中心を占めるそうした価値評価からどんな種類の倫理が出てくるかについては、解釈者の間にいっそう多くの意見の相違がある。とりわけ有力な候補が二つあって、一つはニーチェが一種の徳倫理のようなものを採用しているという解釈であり(Hunt 1991; Solomon 2001)、もう一つは、ニーチェが完全論者であるという解釈である(Hurka 1993、Hurka 2007)。これらの解釈は重なり合っていることが判明している ―― 後者の完全性は、しばしば、前者の徳であるのだから ―― のだが、以下で論じられるように、完全論の解釈の方が有利な点をいくつかもっていることが判明することになる。

  ニーチェの「積極的な倫理」をどう解釈するにしても、それは出発点で厄介な問題に直面する。つまり、それは、ニーチェが人間や主体性について自然主義的な考え方をとっているために ―― 特に、人間は非-意識的なタイプ事実によって構成されていて、それが人間の行動を決定しているという考え方をニーチェがとっているために ――、ニーチェに伝統的な意味での哲学的倫理がどのようにしてありうるかは不明となるからである。ニーチェが言うように、われわれは「真鍮製の運命の壁に直面していて、われわれは牢獄にいて、自分は自由だと夢見ることしかできず、自分を自由にすることなどできないのあれば(HAH II:33)、そして個々の人間は、前から見ても後ろから見ても、一片の運命であり、これから生じ存在することになる一切にとってみればさらにもう一つの法則であり、さらにもう一つの必然であるならば (TI V:6)、(『遺構』の草稿でもっと誇張して言っているように)「自発的なものは絶対的に欠落している…すべては最初からある種の軌道にそって方向づけられている」 (WP 458)ならば、そして(やはり誇張して)「人は今ある通りのものにしかならない(一切がどうであれ、つまり、教育や指導や環境や偶然や偶発事がどうであれ)」(WP 458)のであるならば、ニーチェが次のように言ったとしても驚くべきことではない。つまり、「われわれにとって、あるべき人間などという言い方は、あるべき樹木と同じくらい下らない言い方に響く」(WP 332)。


 しかし、「あるべき人間」について語りたがらない哲学者が、規範倫理学を展開するという仕事に相応しいものでないことは明白である。規範倫理学とは、いかに生きるべきかについての体系的で理論的手引きであるからである(その際、その手引きが行動の規則という形をとるか、育成すべき人格的傾向性という形をとるかは問題ではない)。 (ニーチェは徳倫理の理論家であると考える人々にとって、それ以外にも特別の難問が存在する。その場合、ニーチェは真の徳は個々の人間に特有のものであると考えているのだから、それはつまり、理論家が真の徳について言うべき一般的なことは何一つ存在しないということを意味することになるからである[ZI:5])。これはつまり、ニーチェの「積極的」倫理学の問題に対しては、(1)ニーチェが価値評価をするものは何か、(2)彼の価値評価の基準は何か、そして(3)、(1)と(2)に対する回答によって示されるのはどのような価値評価の構造なのか、という三つの点を解明することによって接近しなけらばならないだろう。しかし、もしわれわれがニーチェから何らかのお馴染みの規範的理論(徳倫理であれそれ以外のものであれ)を引きだせると期待するならば、われわれは始めから間違っていることになるのである。

 
  重要なことは、これまでの論点は、価値や価値評価的判断が行動や生き方に対して因果的な影響を与えることができるとニーチェが考えていることを否定するものとして読まれるべきではない、ということである。結局のところ、「あらゆる価値の価値転換」を試みても、そうした価値転換が、例えば、より高次の人間の繁栄にとって帰結をもたないとしたら、または、MPSの価値が高次の人々にとって有害な帰結をもたないならば、「価値転換」を試みても何もならないだろう。価値は因果的な違いを生み出すが、(1.1で議論されたように)意識とは随伴現象にすぎないというニーチェの見解を前提するならば、ある種の道徳的規則を採用したりある種の人格的傾向を育成するために個々人がなす自由で意識的な選択[の欠如]のゆえに、価値はそれほどの違いを生み出さないのである。

 
  この点についてのニーチェの普通とは言えない見解については、「自分自身を創造せよ」とニーチェが人々に要求している良く知られてはいるが誤解されている事実(全般については、Leiter 1998を参照せよ)を詳しく検討することによって、より良く評価できるだろう。たとえば、アレクサンダー・ネハーマス(Alexander Nehamas)は、ニーチェのこの要求を「自己創造の倫理を支持するもの」と読む。ネハーマスによれば、ニーチェにとって「いまある人間になろうと欲する人々こそが」、まさに「新しく独自で比類のない人間、自分自身に法則を与え自分自身を創造する人間」(GS、335)なのだという(1985, p. 174)。残念ながら、ネハーマスは『悦ばしき知識』の引用を誤解を招くところで切り取っている。なぜなら、ニーチェは、省略せずに引用するならば、次のように続けているからである。


  「[自分自身を創造するという]そのために、われわれは、世界における一切の法則的なもの、必然的なものの、最高の学び手と発見者にならなければならない。この意味での創造者になるために、われわれは物理学者にならなければならない[wir müssen Physiker sein, um, in jenem Sinne, Schöpfer sein zu können] -――それに対して、これまですべての価値評価や理想は、物理学の無知に基づいていたのだ...。だから、物理学万歳!」 (GS 335)。


  「この意味での」創造とは、確かに非常に特別な意味である。それは、物理学によって明らかにされた「合法則的で必然的」なものの発見を前提としているからだ。この箇所は、文脈の中に置きなおしてみると、もっと意味をなすようになる。なぜなら、同じセクションで、ニーチェは「すべての行動は測り知れない」と主張する一方で、次のように付け加えているからである。


  「...善についてのわれわれの見解、価値評価、一覧表は、われわれの行動のメカニズムの中の最も強力なレバーの一つなのだが...どの特定の場合においても、行動のメカニズムの法則は証明不可能なものである[unnachweisbar]」。


  このことを確認して、ニーチェは即座に、われわれは善についての新しい一覧表を創造するようにと提案するのだが、おそらくは、われわれの行動を新たな仕方で因果的に決定することをニーチェは目指しているのだろう。しかし、われわれは、価値や行動が属する合法則的なパターンを識別するために、科学の手助けを必要とする。たとえそのメカニズムが証明不可能であるとしても、科学は、少なくとも、インプットとしての価値とアウトプットとしての行動のパターンを明らかにすることはできる。だから、「この意味で」自分の自己を創造することは、「行動についてニーチェが抱く基本的に決定論的な考え方――つまり、識別しがたい潜在意識の原因(タイプ事実)によって行動は決定されるという考え方――を受け入れることであるが 、しかしそれは、行動の因果的決定に現れる「価値」を、新しい予測可能な仕方で識別するために、科学を利用することである。


  そうであるならば、価値は、人々がどう行動するかに因果的影響をもつことになるし、また人々の生の軌跡にも因果的影響をもつことになる。しかし、われわれは、これらの影響が人間の自由で意識的な選択に由来すると期待することはできない。ニーチェの価値判断を補強するような論証や議論をニーチェのうちに見つけられないのは、こうした事情があるからだろう。そうした知的手段は、われわれの意識的な能力に訴えるものであり、われわれの欲望が生み出すものには役に立たない。それと対照的に、ニーチェのしばしば暴力的になる修辞的なスタイルは、ニーチェが望むような読者――「その耳がわれわれの耳とつながっているような」人びと(GS 381)――に対して必要な非-合理的効果を持つと期待されている(または、ニーチェはおそらくそう考えている)のだろう。 (この点についてはさらにセクション4で論じる)。


  ニーチェは、典型的な規範倫理学をもっていないとしても、価値評価についての見解に事欠くことはないのは確かである。たとえば、彼が高次の人間の繁栄に大きな内在的価値を帰しているのは、ニーチェの道徳批判の比較的若い頃の議論から明らかである。しかし、この「高次の人間」とは誰であり、なぜニーチェはこの人間に価値を帰するのか? (『ツァラトゥストラ』においてニーチェはこの理想的な高次の人間として「超人」について語っているが、この概念は、(『ツァラトゥストラ』について論ずる『この人を見よ』の文脈で簡単に言及されることを除けば)成熟期の作品では全く言及されていないことに注意せよ)。「高次の人間」はニーチェにとって重要な概念であるが、「超人」は、高度に様式化された『ツァラトゥストラ』における修辞上のあや以上のものではないのである)。


  ニーチェには「高次の」人間の好みの例が三人いる。ゲーテ、ベートーヴェンとニーチェ自身である! それらの人間の偉大な創造性(ニーチェが言うように、「偉大な創造性をもつ人間」こそが「私の理解する真に偉大な人間」なのである(WP 957)」)を超えて、ニーチェにとってこうした人間を「高次の」タイプの典型とするのは何か? ライターに従い(2002:116-122)、ニーチェが「高次の人間」ならではのものとして挙げている五つの特徴を挙げることができる。つまり、高次のタイプの人間は孤独であり、「統一化する試み」を追求していて、健康であり、人生に対して肯定的であり、自敬的行動を行う。ニーチェの見解では、これらを兼ね備えた人は高次の人間に十分なれることは明らかだが、そのどれもが必要であるかは明らかではないし、それらが様々に組み合わさることで、しばしば、ニーチェの高次の人間についての語り方が十分説明される場合もあるように思われる。


  まず、高次のタイプの人間は孤独であり、他者に対しては道具的にしか対処しない。「選び抜かれた人間はすべて、本能的に自分の城と隠れ家を求めるものだ。そこで彼は、大衆から、多数者から、大多数の人々から解放されるのだ...」とニーチェは言う(BGE 26)。 彼は同じ著作で、「偉大さの概念は、高貴であること、一人でいようと欲すること、人と違うことができること、独り立ちをし独立して生きていかなければならないことである [auf-eigne-Faust-leben-müssen]」 (BGE 212)。実際、高次のタイプの人間は、復讐心のようなものを抱いて孤独を追及する。なぜなら、彼は「どこにいっても敵を作る方法を知っているからであり...たえず言葉を通してではなく行為を通して、大多数の人間と対立するからである」(WP 944)。驚くべきことに、偉大な人間、あるいは高次の人間は、現代の大衆文化でしばしば称賛される「人当たりの良さ」や「生まれつきの善良さ」を欠いている。 「偉大な人間は...意志の疎通が成り立たない。彼は、親しくすることを無趣味だと思う...」(WP 962)。しかし、それ以上に、高次のタイプの人間は、他者とかかわる必要がある場合、非常に独特な仕方で関わる。「偉大なものを目指している人間は、その途上で出会うすべての人間を手段として見なすか、または自分の歩みを遅らせたり阻むものとして――あるいは、一時的な休息の場として見なす」(BGE 273)。だから、「偉大な人間が望むのは...「共感してくれる」心の持ち主ではなく、使用人や道具となる人間である。人々と関わる中で、彼はその人々から何が得られるかをつねに熱心に探す」(WP 962)。偉大な人間が他者に対して道具的に接近するのは、孤独に対する根本的な傾向のためだけでなく、別の際立った特徴のためである。彼は自分の仕事、自分の責任、自分の計画で手一杯なのである。


  第二に、高次のタイプの人間は、何らかの統一化の計画を追求する中で、重荷と責任を求める。 「高貴とは何か?」とニーチェは1888年の遺稿で再び尋ねる。彼の答えは「重い責任を本能的に求めること」である(WP 944)。ゲーテがそうだった。「彼は臆病者ではなかったし、できるだけ多くのことを自分自身に対して、自分自身を超えて、自分自身の中に背負い込んだ」(TI IX:49)。しかし、高次のタイプの人間は、責任と任務を無駄に求めているわけではない。 「偉大な人間は、自分の活動のすべてにおいて遠大なロジックを示す...彼は人生の長大な期間に及ぶように自分の意志を拡げ、自分の周囲にある些末なものをすべて拒絶する能力をもつ」とニーチェは言う(WP 962)。これは、ニーチェが時々「性格」における「スタイル」(GS 290)として言及する特徴である。(この有名な個所(GS 290)は、単に自分の性格に「スタイル」を与えることができる人々――「生まれつき強力な支配欲をもつ人々」――のことを記述しているにすぎないことに注意せよ。この箇所は、誰もがそうすることができるということを前提にしているわけではないし、誰もがそうすべきだという推奨でもない)。実際、ニーチェは、自分自身の生をこうした言葉によって理解したのである。



  「[人の生と作品において]意識を支配するように定められている「理念」が、意識を組織化し、意識の奥深くへと成長し続け――支配し始める。徐々に、「理念」はわれわれを横道やわき道から連れ戻す。それは単独の性質や才能を準備するが、それは、ある全体に向かうための手段として無くてはならないものであることがいずれ判ることだろう――それは従属的な能力を一つ一つ鍛え上げ、やがて「目的」、「目標」、「意味」といった主要な課題を暗示するようになるのである。 このように考えるならば、私の人生はただただ驚くべきものである。「あらゆる価値の価値転換」という課題のためには、たった一人の人間のうちにかつて住み着いた以上の能力が必要だったはずだからである。… 私は自分の内部に何が成長しつつあるのかといったことを、ただの一度も予感さえしなかった ―― 私の能力のすべてが、ある日突然成熟し、すっかり完成した姿を現したのである」(EH II:9)。


  『この人を見よ』の先立つ個所で、ニーチェは自分自身を高次のタイプの人間として、「出来の良い人間」として記述していて(EH I:2)、そこで記述されたような仕方で計画を追及するように駆り立てられることが、高次の人間にのみ当てはまる特徴であると、われわれは結論づけていいだろう。実際、ニーチェが「健康」を賞賛するとき部分的に念頭に置いているのは、まさにこのように本能的に駆り立てられている状態のことなのである。


  第三に、高次のタイプの人間は、本質的に健康で回復力がある。「出来の良い人間」の一つの本質的属性は、彼が「自分の養分になるものだけを美味と感じる。養分になる限度を超えると、快楽も、嗜好も止んでしまう。彼は、害のあるものを摂っても、それを癒してくれるものをすぐに言い当てる。彼は悪しき偶発事を自分の利点になるように利用し尽くす」(EH I:2)。しかし、これは、高次のタイプの人間は健康であると言うことに他ならない。なぜなら、健康の意味することとは、ニーチェによれば、「惨めな状態に対する適切な手段を本能的に選び取る」ことに他ならないからである(EH I:2)。ニーチェは『この人を見よ』で、自分は「根が健康である」と述べていたが(EH I:2)、これは数多くの肉体の病を背負った哲学者にしては一見逆説的な主張に見えるが、上述の健康についての発言を考えるならば、この主張はもっともなこととして理解できる。「健康」とは、ニーチェにとって、病気の不在を意味するわけではなく、回復力に近いもの、通常の(肉体的な)病気や不調に対する対処法に近いものを意味するテクニカル・タームなのである。ニーチェは次のように言う。「典型的に健康な人間にとって、病気であることは、生きることに対する、より多く生きることに対する強力な刺激にさえなりうるのである。実際、私自身の長かった病苦の時期は、今になってみれば、そのように私に思われるのである。…私の生命力が最低となったあの数年間に、私はペシミストであることを止めたのだ。自己回復の本能が貧困と落胆の哲学を私に禁じたのであった」 (EH I:2)。ペシミストを止めることは、MPSを拒絶することである。なぜなら、MPSの影響下においてのみ生は価値を失うように思われるからである。だから、健康であることは、生に対してきっぱりと非ペシミズム的態度をとることである――これは、高次のタイプの人間の第四番目の特徴となる。


  第四に、高次のタイプの人間は生を肯定する、つまり、自らの生の永遠回帰を喜んで意志するのである。『善悪の彼岸』でニーチェは、ショーペンハウアーのようなモラリストやペシミストの理想の対極にある理想を次のように描く。それは「もっとも不遜で、もっとも生命力にあふれ、世界を肯定する人間の理想である。その人間は、かつて存在し、今も存在するものと和解し、耐えていくことを学んだだけでなく、なおそれを、かつてそうであり、今もそうであるように、繰り返し所有したいと欲する」(BGE 56)。もっと簡単に言えば、高次のタイプの人間は、永遠回帰の説を支持し、ニーチェがしばしば「ディオニューソス的」または「生命肯定的」態度と呼ぶものを身をもって示す。ニーチェにとって、人が生に対してディオニューソス的態度をとるのは、人が自分の生を無条件的に肯定する限りでのことである。とくに、人が、生の中にある「苦しみ」や他の苦難を含めたうえで、生を肯定する限りでのことである。だから、「私は喜んで自分の生をもう一度生きてみたいが、ただし最初の結婚はご免だ」と言う人は、今必要とされている意味で生を肯定していることにはならない。したがって、人がニーチェの意味で生を肯定していると言えるのは、その生が永遠に繰り返されることを喜んで意志する限りのことである。実際、ニーチェは「永遠回帰の理念」を「そもそも手に入りうる中でもっとも高度な肯定の定式」と呼んでいる(EH III . Z-1.BGE 56)。 高次の人間は、生に対するディオニューソス的態度によって特徴づけられる。彼らは、自分の生が永遠にわたって繰り返されることを喜んで意志するのである。


  驚くべきことに、ニーチェは、まさにこの態度が自分自身とゲーテをともに特徴づけていると主張する。たとえば、自分の作品が同時代人に無視されていることを話題にして、ニーチェは次のように書いている。「私自身はこのことを苦にしたことはない。必然的なことが私を傷つけることはない。運命愛(amor fati)が私の内奥の性質なのだ」(EH III. CW-4)。ゲーテについて、ニーチェはこう述べている。「このような精神は...快活で信頼に満ちた運命論を抱いて、すべてが全体の中では救われ肯定されるという信仰を抱いて、世界のただ中に立っている... しかし、このような信仰は、あらゆる信仰のうちで最高のものである。私はこうした信仰にディオニューソスという洗礼名を与えたのである」(TI IX:49)。


  最後に、高次のタイプの人間は、他者にたいして、そしてとりわけ自分自身に対して、独特な関わり方をする。彼は自敬の念をもつ。「偉人の「高次の性質」は、他人と異なること、意志の疎通が成り立たないこと、地位が隔たっていることにあるのであって、どんなものであれ何らかの結果にあるのではない――たとえ彼が全世界を震撼させるとしても、それは偉人の性質などではない」とニーチェは1888年の注目すべき『遺稿』のノートで述べている(WP 876;GS55)。これこそ、高次のタイプについてのニーチェの議論のうちでもっとも普通でない特徴である。なぜなら、それが示唆しているのは、高次のタイプであるということは、結局、「態度」または「かかわり方」の問題である、ということだからである。『善悪の彼岸』のあるセクションで、ニーチェは「高貴とは何か」という問いに再度答えているが、今度は次のような答えなのである。「ここで決定的なのは、業績ではなく、信仰である。信仰が位階の秩序を定めるのである。…それは、高貴な魂が身につけている根本的な確信であって、それは、探し求められることもなく、見いだされることもなく、おそらく失われることもないものである。高貴な魂は自己に対して畏敬の念[Ehrfurcht]をもつのである」(BGE 287)。自敬の念 ―― 神に対してそうするように、自己に対して畏敬と尊敬の念をもつこと ―― は、「私はOK、あなたもOK」といった「自助」プログラムや大衆向け心理学のスローガンの増殖が示唆するほど、ささいなものでは決してない。自己嫌悪や自己懐疑や自傷感情の方が、人間にとっては普通の態度である。自分自身について「根本的な確信」を所有することはユニークなことだとニーチェは考えるのだが、それは非常にもっともなことだ。


  自敬のこの姿勢に、高次の人間の関わり方を特徴づける別の弁別的態度が関連する。「高貴な人間は、力あるものとして自分自身を敬う。自分自身に対して力を及ぼし、語る仕方と沈黙の仕方を知り、自分自身に対して厳格で厳しいことに喜び、あらゆる厳格さと厳しさを尊重するものとして、自分自身を敬う」(BGE 260)。 (高次の人間は、当然ながら、快楽主義者ではない。「高貴とは何か?」とニーチェは問う。「(それは)幸福は大衆にまかせるということである。魂の平安、美徳、快適さ、アングロ・サクソン的なスペンサー流の商人根性としての幸福などというものは、大衆向きのものだ」(WP944))。それに先立つ著作でニーチェは次のように説明している。


  「高貴な人々を襲う情熱は独特のものである。... そこには次のようなものが含まれる。他の誰にも冷淡な素振りをする稀で独特な基準の使用。それに対して何の尺度も発明されていない価値の発見。未知の神に捧げられる犠牲を祭壇に供すること。名誉心を何ら伴わない勇気。あふれ出ては人々や物事に恵みを与える自足の状態」(GS 55)。


  実際、孤独の議論ですでに見たように、価値評価の自身なりの基準を設定する能力が、高次のタイプの人間の特徴をもっともよく示す偉業の一つなのである。そして「最高の人間とは、価値を決定し、最高の本性の持ち主に方向性を与えることによって、数千年間の意志に方向を与える者のことである」(WP 999)。


  以上のことをまとめて考えるならば、ゲーテやベートーヴェンやとニーチェ自身のような創造性の天才が高次の人間の好ましい例であるのは何故かということが明らかとなる。なぜなら、高次のタイプの人間の特徴は、芸術的で創造的な活動に向いている特徴であるからである。孤独を好み、自分の任務への絶対的な献身、外部の意見に対する無関心、自分自身と自分の価値についての根本的確信(しばしば他人には傲慢と映る)――これらはすべて芸術の天才のうちに、再三、見いだされる特徴である。(たとえば、ベートーベンは、彼に関する優れた伝記によると、印象的なまでに、これらの特性のほとんどすべてを持っていたことが判る。 Leiter 2002: 122–123を参照されたい)。


  「偉大な創造性をもつ人間、私の理解する本当に偉大な人」(WP 957)、ゲーテやベートーヴェンのような人間が、ニーチェのいう高次の人間の典型であり、その生涯が繁栄する卓越性のモデルであるならば、こうした判断を支える価値理論について、さらには、芸術的な人間の発展を妨げるという理由によるニーチェの道徳批判(MPS)を鼓舞する価値理論について、何か体系的なことが言えるだろうか?


 良く知られた一つの考え方(Schacht 1983, Richardson 1996)によると、高次の人間は、ニーチェの根本的な価値基準であると主張される「力(power)」を体現するものである。このような読み方は、上述の高次の人間の諸特徴を集めても通常の意味での「力」の実例にも「力」の顕現にもならないように思えるので、、残念ながら、力の概念を非常に伸縮自在なものとして使わなければならない。 (ニーチェの根本的な価値基準を「力」として扱うことは、さらにずっと深刻なテキスト上および哲学的な障害に直面する。セクション3.1を参照されたい)。


  それよりもっと示唆に富むのは、ニーチェの価値評価に関する姿勢は完全主義と帰結主義の最大化を結び合わせたものだとするフルカの見解である(1993 and Hurka 2007)。価値をもつものは、ある種の人間的な卓越性(または完全性)であり、諸々の事態は、こうした卓越性の最大化の観点から評価される。フルカの有益な発言が示しているように(1993:75)、ニーチェは、ロールズのマクシミン(maximin)原理とは反対の原理、フルカが適切にも「マクシマクス(maximax)」原理と呼ぶものによって論を進めているように思われる。フルカはこのことを行動の規則として述べているが(「各主体の最優先目標は、生涯価値の平均値の総和ではなく、単独のもっとも完全な個人の最大の生涯価値であるべきであり、または、もし完全性が余すところなく比較可能ではない場合は、少数の最も完全な個人の最大の生涯価値である[1993:75])、しかし、ニーチェを伝統的な規範的理論家として読んではならないという以前挙げた警告を認めるならば、マクシマックスの原則をニーチェのあらゆる価値の価値転換の試みに潜んでいる構造を反映するものとして扱う方が良いだろう。つまり、ニーチェがMPSを拒絶するのは、それが最高の人間の完全性を最大化しないからであり、しかもその際に、ニーチェはそうした拒絶が畜群にもたらすコストを考慮してはいないように思われる(セクション4を参照されたい)。


  以上からは、ニーチェにとって「完全性」の(形式的あるいは実質的な)基準があるかどうかという問いは答えられていない。多くの論者(Hurka 2007; Nehamas 1985; Richardson 1996)は、「スタイル」または「統一性」が、ニーチェにとっての卓越性や完全性の基準であり、そして、実際、上で述べたように、統一化された(または首尾一貫した)生の計画の追求が、ニーチェが高次の人間と見なした人々ならではの特徴であるという考え方に固執している。スタイルや統一性の形式的基準がゲーテやベートーヴェンにしか当てはまらないということは明白とは言えないので、このようなスタイルや首尾一貫性で充分であるかどうかは、解釈上の厄介な問題である。ニーチェがお世辞抜きで「呪われた蜘蛛」 (A 11)と呼んだカントは、長年にわたって創造的生産性の尋常ではないほど首尾一貫したスタイルを示さなかっただろうか?


  その他の論者(Magnus 1978)は、永遠回帰のニーチェの観念(上記のように、生の肯定のシンボルなのだが)を良く生きられた生の基準として見なす。完全性とは、自己の生が、その個別的特徴をすべて具えたまま、永遠に至るまで繰り返されることを喜んで意志することができるように生きるという問題なのである。これもまた、単独の完全性の基準としてはあまりに内容に乏しくもあり、あまりに厳格すぎるように思われる。内容が乏しすぎるというのは、十分軽薄だったり自己満足に浸っている人であっても永遠回帰を意志するかもしれないからである。厳格すぎるというのは、それが、ホロコーストを生き延びたゲーテが喜んでホロコーストの繰り返しを意志するように求めると思えるからである。


  ネハーマス(1985)は、マグナスの見解をある程度共有しているが、そこに独自の要素を付け加える。彼の主張によると、ニーチェは彼が理想とする人間――彼の「高次の人間」――を記述しているわけではなく、むしろ、彼の著作のうちに構成され具体化される「登場人物」という形で、そうした人物を具体化しているのだという。しかし、ニーチェは、彼が敬愛するタイプの人物を、長々と多くの個所で記述している(D 201; GS 55; BGE 287; NCWエピローグ:2; WP 943)。それに、彼は自分自身をそのような人物として記述している(EH I:2)。いずれにせよ、ネハーマスの見解は次のような奇妙な帰結をもたらす。つまり、ニーチェがその生涯の早い時点で積極的な倫理的ヴィジョンをもつためには、ニーチェは、彼が実際に書いた一連の本を書くことを先取りしなければならなかっただろうし、そしてその先取りの中で彼の倫理的理想が適切に具体化されていたことになるだろう! 言うまでもないが、これがニーチェの見解であったと考える理由は何もないのである。







」(つづく)






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