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ニーチェの道徳・政治哲学(その4) [探求]

 スタンフォード大学・哲学百科事典の「ニーチェの道徳・政治哲学」(ブライアン・ライター執筆)の紹介の第4回目。

 万人に均一の道徳律を説く道徳理論の有害性は、筆者によると、「高次の人間(higher men)」が凡庸な人間の価値観に無理やり従わざるをえなくなるような文化的空気を創り出してしまうために、「高次の人間」の出現が阻まれるという点に求められるという。

 まあ、特に目新しい点はないが、判りやすさを狙っているのだろうな、ということは判る。

 以下はちょっとした感想。道徳の有害性は人間の卓越性を阻害する点にある。卓越した人間の例として、この論文では「芸術家」を挙げているし、おそらくニーチェ自身の思考法もそうだろう。しかし、芸術の極北に位置しているのは.悲劇の誕生の機縁となったディオニューソスである。しかし、そうした悲劇的精神は、ギリシア文明の進行とともに、つまりソクラテスに代表される合理的思考法の発展に伴って消滅の道をたどる。これは、『悲劇の誕生』のあらすじの一部だが、この論文の道徳の有害性の解釈を読むと、ニーチェの処女作の骨子が、そのまま密かな形で別の現象に適用されたのではないか、という推測をしてしまいたくなる。

 結局、ニーチェにとっての人間の活動の原型が芸術であったのは、最初から最後まで変わらなかったし、最晩年までニーチェはディオニューソスに対する尊崇の念を捨てなかった。

 偉大なもの(=人間の卓越性)を棄損するものが、ニーチェの初期の作品ではソクラテスだった。やがて、そうした考察方法が道徳の現象に転化されて、今度はユダヤ-キリスト教的道徳こそが偉大なものを棄損する元凶と見なされるようになった。この論文を訳しながら、私の念頭に浮かぶのはそうしたニーチェ像である。

 



 
Nietzsche's Moral and Political Philosophy . By Brian Leiter.
http://plato.stanford.edu/entries/nietzsche-moral-political/



  ニーチェの道徳・政治哲学(その4)


1.3 MPSの規範的構成要素の批判

  MPSの規範的構成要素に対するニーチェの批判のすべては、一つの基本的な不満に基づいている    それは、幾人かが考えたように(たとえば、Nehamas[1985]、Geuss [1997])、道徳的要求の普遍性そのものではなく、むしろ、「万人に一つの道徳を要求することは高次の人間には有害である」という不満に基づいている(BGE 228)。普遍性は、様々な主体が重要な点で類似しているならば、異論を唱えるべきものではないだろうが、実際、主体は重要な点で異なっているのだから、普遍的な道徳なるものが主体にとって害とならざるを得なくなることは必然である。ニーチェが他の場所で書いているように、「退廃的なタイプの人間が(MPSを経由して)最高のタイプの地位に上りつめた場合、それは、その対極にあるタイプの人間、つまり、強者であり生に確信を抱いているタイプの人間を犠牲にすることによってしか起こりえない」(EH III:5)。『道徳の系譜』の序文で、ニーチェは自分の基本的な関心を実に的確に要約している。


  「 どうだろうか? 「善人」のうちにも退化の兆候が見え隠れしているとすれば? 同じように危険が、誘惑が、毒が、麻酔剤が見え隠れしていて、そのおかげで現在が未来を犠牲にしながら生き延びることになるとしたら? 現在がより快適でより安楽になるにせよ、同時に卑しくもっと下劣になるとしたら? … 人間のタイプに可能な最高度の力と光輝[Mächtigkeit und Pracht]が、実際これまで一度も達成されなかったのは、道徳自体のせいであるとしたらどうだろうか? 道徳そのものが危険のなかの危険であるとしたらどうだろうか?」 (GM Pref:6; cf. BT Attempt:5)


  このテーマは、ニーチェの作品の至るところで鳴り響いている。たとえば、1880年の著作で、彼は次のように書いている。「善悪についてわれわれが抱く弱く臆病な社会的概念と、それが心身に及ぼすすさまじい支配のおかげで、万人の心身は虚弱化してしまったために、力強い文明の支柱である自律的で、誰にも頼らず偏見に囚われない人間たちは弾き飛ばされてしまった」(D 163)。同様に、死後に出版された1885年の草稿で、彼は次のように述べている。「偉大な創造性をもつ人間、私の理解する真に偉大な人間を、今日、探し求めても無駄であろう」。なぜなら「そうした人間が登場し進化するのに何よりも邪魔になっているのは…今日のヨーロッパで単に「道徳」と呼ばれているもの」だからである(WP 957)。これらの個所や別の著作で( たとえば、BGE 62; GM III:14; A:5, 24; EH IV:4; WP 274, 345, 400, 870, 879.)、ニーチェは、MPSに対する根本的な異議を明確に述べている。それは、単純化して言えば、MPSが人間の卓越性、つまり、「人間のタイプに可能な最高度の力と光輝」の発展を妨げている、ということである(「より高次の人間」については、次のセクションを参照されたい}。



  MPSに関してニーチェが抱く不満の核心については、上の読み方と競合する、別の重要な読み方がある。それは、つまり、MPSが「生に有害」であるということ、あるいはもっと単純に言うと、「反-自然」であるという不満である。たとえば、グース(Geuss)は次のように述べている。「ニーチェにおける「生」は、道徳の価値を評価する基準として機能しているように思われる」(1997: 10)。またシャハト(Schacht)も、ニーチェはこの世界における生を価値の唯一の座として見なしていて、生の保存や繁栄、とりわけ生の高揚を、価値を規定するために決定的であると見なしていると主張している(1983:359)。だから、MPSの価値についての問題は、実は、それが「生にとって(どの程度の)価値(をもつか)」という問題なのである(354 :1983)。しかし、こうした説明は、明らかに、あまりに漠然としすぎている。ここでの「生」とは何を指し示しているのか? シャハトは、ニーチェの遺構での提案(WP 254)にしたがって、生は力(power)への意志であり、力(power)の度合いが価値の基準を構成すると述べている (われわれは、セクション3.1で、この提案に立ち返って詳論することにしよう)。 しかし、そう言ったからといって精密さが増すわけではない。実際、ニーチェは、ニーチェ的な意味での力(power)がより多くある方が価値があると考えただろうが、それでも疑問は残るのである。それは、いったい、何のあるいは誰の力なのか?という疑問である。唯一のありそうな候補は ―― とくに、上で議論されたニーチェの発言を考えるならば ――   人間の力( power of people)である。保存し高揚することが価値ありとニーチェが見なす「生」の唯一のもっともな候補は、「人間の生」であり、とくに「もっとも高次の人間の生」であるはずだかである。


  これがニーチェの真意であることは、「生にとっての価値」に関するニーチェの実際の発言の文脈によって明らかになる。たとえば、「生にとってより高次のより根本的な価値は、欺瞞や利己心や欲望に帰されなければならないかもしれない」とニーチェは述べる(BGE 2)。しかし、たとえば利己心が価値をもつのはどんな生にとってなのか? それは、ニーチェが他の個所(たとえば、『道徳の系譜』序文5-6)で書いているように、端的に言って、あの「人間のタイプに可能な最高度の力と光輝」を顕わにするような生である。そして同様に、ニーチェが「道徳に特徴的なのは生に敵対する傾向である」と言うとき、この「生」が指示しているのは、(MPSの干渉がなければ)「最高の力と光輝へと高められ」うる「人間のタイプ」であることは文脈的に明らかである (WP 897)。要するに、ニーチェが生にとって「価値あり」とするものは、最高のタイプの生(または人間の卓越性)が繁栄するのに必要だとニーチェが見なすものであり、ニーチェが「生」にとって有害だとするものは、このような繁栄にとって障害を構成するとニーチェが見なすものである。以上が示唆するのは、物事がそれにとって価値があるとか価値がないとかされるような「生」とは、人間の卓越性を顕(あら)わにするような生でなければならない ―― つまり、「より高次の人間の生」でなければならない、ということである。


  ニーチェがMPSに反対するのはそれが「反-自然」であるからだという主張にも、似たようなことが言える。たとえば、ニーチェが『この人を見よ』(IV:7)で、自分が主として道徳の中の何に反対しているかというと、それは「自然の欠如であり、反自然が道徳として最高の栄誉を得ているというまったく恐ろしい事実である」と言うとき、MPSの何が道徳を反自然にしているのかをわれわれが言えない限り、ニーチェの主張は曖昧なままにとどまる。ニーチェ自身が、同じ断章で、この点についてのガイダンスを与えているが、彼の説明によると、MPSが反自然なのは、次のような特徴をもつ限りのことである。つまり、それが人々に「生の本能を嫌悪する」ことを教える限りのことであり、生の前提をなす性を不潔なものとして経験するように教える限りのことである。そして、それが、「成長にとってとても深いレベルで必要な手強い自己愛のうちに悪の原理を探す」限りのことである(EH IV:7)。


  しかし、以上から明白になるにちがいないが、反対すべきなのは、反自然であること自体ではなく、反自然的なMPSの帰結が問題なのである。たとえば、「成長にとってとても深いレベルで必要な」本能に対立するという点が問題なのである。この点は『アンチ・クリスト』でもっと明瞭となる。そこで、ニーチェは次のように述べる。「キリスト教の道徳は高次のタイプの人間に対して生死を賭けた戦争を仕掛けた。それは、このタイプの人間の基本的本能をすべて締め出した」(5)。 言いかえると、MPSの反自然性に反対すべきなのは、MPSが反対する「自然な」本能が、まさに「高次のタイプの人間」の成長に必要な本能であるからである。したがって、MPSが生に対してさし出す脅威についてのニーチェの懸念の根底にあるのは、MPSが「高次の人間」に及ぼす影響に対する懸念なのである。


  だから、ニーチェがMPSの規範的指針に反対するのは、それが最も高次の人間にとって有害だからなのである。MPSの反対すべき指針についての説明で、ニーチェは多様な規範的立場を挙げている(たとえば、 D 108, 132, 174; GS 116, 294, 328, 338, 345, 352, 377; Z I:4, II:8, III:1, 9, IV:13, 10; BGE 197, 198, 201–202, 225, 257; GM Pref:5, III: 11 ff.; TI II, V, IX:35, 37–38, 48; A: 7, 43; EH III:D-2, IV:4, 7-8; WP 752)。われわれは、これらを単に(MPSが)「賛成するもの(pro)」と「反対するもの(con)」として特徴づけ、次のように言っていいだろう。つまり、道徳がニーチェの批判の対象となるのは(つまり、それがMPSとなるのは)、それが、次の規範的見解の一つあるいはそれ以上を含んでいる場合である(以下のリストは代表的だが、網羅的ではない)。


MPSが賛成するもの    MPSが反対するもの
幸福            苦しみ
利他主義/無私性      自己愛や自己利益
平等          不平等
同情/思いやり       苦しみに対する無関心



  MPSの可能的な規範的構成要素は、当然のことながら、理念型として解されるべきである。つまり、より大きく複雑な規範的見解のある種の重要な側面を強調や批判のために選び出すものとして解されるべきである。道徳が「賛成」の態度をとるものを「賛成の対象(Pro-Object)」と呼び、道徳が反対の態度をとるものを「反対の対象(Con-Object)」と呼ぶことにしよう。ニーチェにとって内在的価値をもっていると映るものは人間の卓越性や人間の偉大さであるということを念頭に置くならば(次のセクションを参照)、MPSの規範的な構成要素に対するニーチェの攻撃は、次の二つの部分をもつものとして要約することができる。


(a) 「賛成の対象」に関してニーチェは次のような主張をする。(ⅰ)「賛成の対象」は何ら内在的価値をもたない。(ⅱ)「賛成の対象」は外在的価値を何らもたないか、MPSが見なすほどの外在的価値をもっていない。
(b) 「反対の対象」に関してニーチェはただ次のように主張するばかりである。つまり、「反対の対象」は、人間の卓越性の涵養にとって外在的に価値があり、そして、このことは、MPSによって支持されている「賛成の態度」によって不分明になってしまうのである。


  このように整理すれば、ニーチェの一見バラバラに見える―― 利他主義についての、幸福についての、同情についての、平等についての、カントの人格に対する尊敬についての、功利主義についての―― 批判的発言を統一的なものにしているものが何であるかが判明する。それは、そうした規範が道徳として行きわたっている文化は、人間の卓越性が実現する条件を排除するような文化であるとニーチェが考えているということである ―― ニーチェの見解によると、人間の卓越性が実現する条件は、自己に対する関心、苦しみ、特定のストア派的無関心、上下関係や差異に対する感覚などを要求する。実際、こうした規範に関するニーチェの批判の細部に注意を向けると、これが、彼の主張であることが判るのである。ここでは、一つの具体例を詳しく見るだけで充分である。


 幸福(「賛成の対象」)と苦しみ(「反対の対象」)に対する一見無害に見えるMPSの価値評価の何が有害なのか? ニーチェの(比較的)初期の発言が彼の答えを示唆している。

  「われわれは、人類を砂粒に変えようとする途上にあるのではないだろうか? 砂粒に! 小さく、柔らかく、丸く、果てしなく続く砂粒に! それこそお前たちの理想なのか? 同情にみちた愛情の使者であるお前たちの?」 (D 174)。

  もっと後の著作で、ニーチェは、快楽主義者や功利主義者を念頭に置きながら、「君たちが理解する幸福――それはゴールではない、それはわれわれには終わりに見える、すぐさま人間を滑稽で軽蔑すべき存在にしてしまう状態であるように見えるのである…」(BGE 225)。 快楽主義的幸福論によって、功利主義者たちは「英国的幸福」、つまり「快適と流行」を念頭に浮かべるとニーチェは考える (BGE 228)。この解釈は、ある種の功利主義者(たとえばミル)にはフェアーではないとしても、幸福に対するわれわれの通常の渇望に関しては的を射ているだろう。同様に、ニーチェは、ツァラトストラに「惨めな満足」を理想として却下させている(Z Pref:3)。末人 ―― 「最も軽蔑すべき人間」 ―― こそが最初に「幸福(Glück)」を発明したというのである(Pref:5)。


  だから、幸福とは、ニーチェによると、内在的に価値がある目的などではないし、それを目指す人間――  直接的であれ、そこに導く傾向性を涵養することによってであれ ――は、「滑稽で軽蔑すべき存在」ということになる。たしかに、ニーチェは、自分自身や「自由な精神」の持ち主は「陽気」で「快活(frölich)」となることを容認する ―― そういう人間は、結局、「快活な知」を擁護する人間なのである。しかし肝心な点は、そのような「幸福」は、高次の人間であることの基準ではないということであり、そうした幸福は―― MPSの支持者とは対照的に ――高次の人間が目指すものではない、ということある。


  しかし、幸福を目指すことが、人間をかくも称賛に値しない存在にしてしまうのはなぜか? ニーチェの答えは次のようなものだろう。つまり、人間の卓越性の涵養にとって苦しむことが積極的に必要であるから、というのがその理由である。人間の卓越性こそがニーチェにとって称賛すべき唯一のものである、ということを思い起こそう。たとえば、彼は次のように書いている。


 「 苦悩という規律、偉大な苦悩という規律 ―― この規律だけが人間をこれまで高めてきたのだということを君たちは知らないのか? 不幸のうちにある魂の緊張が魂の強さを養ったのである。大いなる破滅に臨んでの魂の戦慄、苦悩を担い、苦悩に耐え、苦悩を解釈し利用する巧妙さや勇気、魂に与えられた深遠さ、秘密、仮面、精神、狡猾な、偉大さ―― それらが魂に与えらえたのは、大いなる苦悩という規律を通してであったのではなかったか? 」(BGE 225;cf. BGE 270)

  ニーチェはここで ―― MPSの見解とは対照的に  ―― 苦悩が内在的に価値があるとい主張しているわけではない(MPSでさえもそんな主張はしない)。 苦悩の価値は、ニーチェによれば、外在的であるにすぎない。人間のどんな偉業であれ、その前提条件をなすのが苦悩 ―― 「大いなる」苦悩 ―― である。ニーチェはこの点を別の個所で次のように述べている。「大いなる苦痛だけが精神を最終的に解放する…。そのような苦痛がわれわれを「より良い」存在にするとは私は思っていない。しかし、それはわれわれをより深遠な存在にすることを私は知っている」(GS Pref:3)。だから、ニーチェの攻撃は、上で素描されたモデルに合致している。つまり、(ⅰ)幸福が内在的に価値があるということをニーチェは拒絶する。(ii)MPSの苦悩に対する否定的な態度が、苦悩の重要な外在的部値を不明瞭なものにしているとニーチェは考える。(この第二の点において、ニーチェが自分自身の肉体的な苦しみの経験を一般化していると考える理由はある。肉体的苦痛が最悪だった時期は、ニーチェの生産性が最大だった時期と一致するからである。確かに、彼は自分の苦しみが自分の仕事に本質的に貢献していると考えた。『この人を見よ』で、誇張とともに、ニーチェは次のように書いている。「三日間というもの断続的な片頭痛とつらい嘔吐の苦痛の真っ只中にありながら、私は弁論家の明晰性をもち続け、もっと健康的な状況下では征服できなかったし、鋭く見通すことも冷静になることもできなかった問題について、とても冷静に考え抜いた」(1 EH I)。


 芸術や文学の歴史では大いなる苦悩が創造性に拍車をかけた事例には事欠かないとしても、ニーチェのこの種の批判の論理には深刻な懸念が残る。ライター(Leitter 1995)にしたがって、これを「危害のパズル(Harm Puzzle)」と呼んでもだろうが、そのパズルは次のようなものである。一般道徳は苦悩を軽減せよと規定しているのだから、偉大な芸術家は苦悩することを止めなくてはならない、したがって芸術家が偉大な芸術を生み出すことを止めなければならない、ということにはならない。苦悩することが、自分の人生の中心をなすプロジェクトの実現にとって本質的となるような人々は例外なのだと、MPSもきちんと認めるだろう。結局、苦悩を軽減せよという規定は、(何らかの形で解釈された)幸福を促進しようとする関心を反映するものである。しかし、初期のゲーテやニーチェや他の天才たちのような人々にとっては、苦悩がたくさんある方が具合が良いとするならば、なぜMPSはそのようには薦めないのか? なぜ、MPSは「高次の人間:を潜在的に「「害する」ということになるのか?

 これは哲学本来の問題であるように見えるが、そこにはニーチェの批判についての重大な誤解が含まれている。ここでのニーチェの批判は、哲学理論に関するものではなく、文化の現実的な本性についての批判なのである。 MPSの価値が文化を支配するようになると、それはその文化のすべてのメンバーの態度に影響を与える、とニーチェは考える(これは、もっともな考え方である)。MPSの価値が苦しみは悪く幸福は良いものだと強調するならば、それは、偉大な成果の可能性をもつ個人が自分自身の生を理解し、評価し、実行する仕方にも影響を及ぼすことになる。苦しみが、実際は、これらの人々が偉大なことをする前提条件であり、それらの人々が苦しみは緩和されるべきであり幸福が最終のゴールであるという規範を内在化しているならば、それらの人々は、苦しみながら創造するよりも、快楽を追求し苦しみを嘆き、それを軽減しようとすることにエネルギーを費やすようになりかねない。 MPSの価値は、芸術家や他の潜在的に「卓越する」人間が苦しむことをはっきりと禁止するようなことはしないだろう。しかし、苦悩に否定的で快楽には肯定的な規範を内在化した文化は、潜在的な芸術家 ―― や、偉大なことを成し遂げる別種の人々 ――が、実際は、自己憐憫と快楽の追求によって自分を浪費してしまうことになる文化になりかねないのである。


  だから、「危害パズル」に対するニーチェの反応は、MPSの現実的な効果はいかなるものかについての経験的な主張に依存する。MPSの規範的な構成要素が有害なのは、その特定の規定や禁止事項が、潜在的に卓越した人間が反映することを可能にするものを放棄するようにはっきりと要求するから、というわけではない(MPSの「理論」を良心的に適用することは、「高次の人間」の繁栄と両立できない、という主張がなされているわけではない)。むしろ、MPSの規範的構成要素が有害なのは、実際上の理由からである。一つの道徳はあらゆる人にとって妥当するという考え方にMPSはコミットしているので、潜在的に「より高次の人間」はMPSに由来する価値を自分自身にも当てはまるものとして採用するようになるだろう。だから、MPSの規範的構成要素が有害なのは、実際上、それが、潜在的に卓越している人間が繁栄するのに役立たないものを高く評価し、その繁栄に本質的なものを低く評価するようにさせる効果をもつことになるからである。


  要するに、MPSに対するニーチェの異議の核心は、人間の卓越性が発達するのを妨げてしまうということである。そのためにニーチェが繰り広げる論証は、場合場合で、MPSに特徴的な価値評価のあり方を見極めて、その価値評価が ―― 幸福を優遇し苦しみを低く見積る規範の場合のように ―― 人間的な卓越性を明示する人間の発展をいかに阻害するかを示すことに基づいている。 (他の例の議論については、Leiter 2002; 134-136. )。







」(つづく)














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