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ニーチェの道徳・政治哲学(その3) [探求]

 スタンフォード大学・哲学百科事典の「ニーチェの道徳・政治哲学」(ブライアン・ライター執筆)の紹介の第三回目。

 この節は、ニーチェの道徳批判の前提をなす、ニーチェの人間観の根本部分(=「MPSの記述的構成要素の批判」)を三つに要約して述べている。つまり、1.人間は自由意志をもった主体ではないこと、2.「自己」というものは不透明きわまりないこと、3.人間は多種多様で、単一の基準で測れるほど類似した存在ではないこと、以上の三点が非常に判りやすく説明されている。


 
Nietzsche's Moral and Political Philosophy . By Brian Leiter.
http://plato.stanford.edu/entries/nietzsche-moral-political/







  ニーチェの道徳・政治哲学(その3)

 
 1.2  MPSの記述的構成要素の批判


 ニーチェにとって、理解できる形でMPSが主体としての人間に適用されるかどうかは、人間の主体性についての以下の三つの記述的論点にかかっている(cf. BGE 32; GM I:13; TI VI; EH III:5; EH IV:8)。



(1)主体としての人間は、自由で自律的な選択をなしうる意志をもっている(「自由意志のテーゼ」)。

(2)主体の行動がその各々の動機に基づいて区別できるほど、自己は透明なあり方をしている(「自己の透明性のテーゼ」)。

(3)ある道徳的な規約がすべての人間(の利益にかなっているがゆえに)に妥当するほど、人間主体は類似している(「類似性のテーゼ」)。


  これらの三つのテーゼは、MPSの規範的な判断が理解可能になるためには、真でなければならない。なぜなら、MPSの規範的な判断は、ニーチェにとって、それらに対応する三つの点によって特徴づけられるからである。すなわち、MPSの規範的判断は次のようになる。



(1 ')主体の行動に対して主体は責任があると見なす。

(2 ')主体がそのために行為する動機を評価し「ランクづける」。

(3 ')「道徳」は普遍的に適用可能であると前提する(MPSは、「頑固で容赦なく、私は道徳そのものであり、私以外のいかなるものも他に道徳ではない」と言う)[BGE 202]。


  だから、主体性の全体像が虚偽であるとすれば、それは、次の3つの仕方で、道徳的判断の理解可能性にも影響を及ぼすことになる:



(1″)  主体が「自由意志」を欠いているならば、主体は自分の行動に対して責任があると見なされることができなくなる。

(2″) 主体の動機が区別できないならば、動機という点から行為についての価値評価的な区別をすることができなくなる。

(3″) 実際には、重大ではあるが何らかの見落とされた点で主体が異なっているとすれば、ある道徳が普遍的に適用可能であるということは、少なくとも、一見して明白というわけではなくなるだろう。



  であるならば、MPSの記述的構成要素のニーチェの批判は、主体性の本性について上で示された論点のいずれもが、実際には、成り立っていないことを示さなければならないことになる。この論証の簡単な概要を以下に示そう(詳細は Leiter 2002: 81–112にある)。


  自由意志というテーゼに対して、ニーチェは、自由な主体(つまり、道徳的に責任をとれるほど自由な主体、ということだが)は自己原因的(すなわち、自己を生み出すもの、自己の原因)でなければならない。しかし、われわれは自己の原因ではないのだから、誰も自由な主体ではありえない。われわれの道徳的・宗教的伝統は、その核心部分では両立不可能主義的であることを、ニーチェは当然のことと見なしているが、それはありえない主張ではない(「両立不可能主義( incompatibilism)とは、物理的決定論と意志の自由は両立しないとする立場のこと」――訳者注)。因果的に決定された意志などというものは自由な意志ではないのである。



  ニーチェは、われわれが自己原因ではないことを示すために、二種類の論証を提供する。一つは、自己の原因であることは論理的に不可能であるという論証であり、もう一つは、人間に道徳的責任を帰するに足るほどの意味で、人間は自己原因的ではないという論証である。(ここでは二つの違う論証が問題になっているという論点を私はEric Vogelsteinに負っている)。最初の点についてニーチェは比較的わずかなことしか言わないのだが、それは、たとえば、「自己原因の概念は根本的に馬鹿げたものである」 (BGE 15)という主張だったり、「それは「これまで考えられ自己矛盾の中でも最高のものであり…論理の凌辱であり倒錯である」という主張である(BGE 21)。


  「この最高度の形而上学的意味における「意志の自由」に対する願望は…自分の行動に対する余すところのない最終的な責任を負うという願望であり、神や世界や先祖や偶然や社会に責任を負わせず放免しようとする願望は、まさにこの自己原因になることを含んでいる…それは、自分の髪をひっぱって無という泥沼から抜け出そうとすることである」(BGE21)。


  しかし、言うまでもなく、われわれは「無の泥沼から」自分をひっぱって抜け出すことなどできないのだから、われわれは自分の行動に対して最終的な責任をもつことはできないのである。



  しかし、自己原因であることは矛盾を含むという主張から、ニーチェは、人間の主体性について彼が抱くイメージに依存する論証に素早く移行する。ニーチェは、われわれが「タイプ理論(Doctrine of Types)」(Leiter 1998)と呼びたい理論を受け入れるのであるが、それによると


 人間は一人一人一定の精神-物理的な構成をもっていて、それがその人を特定のタイプの人間に定めるのである。


  いま問題となる精神-物理的な事実をここでは「タイプ事実(type-facts)」と呼ぼう。ニーチェにとって、タイプ事実とは、その人についての生理学的事実であるか、または、その人の無意識的欲動や情動についての事実である。すると、ニーチェの主張は、すべての人は、ほぼ動かしがたいある種の生理的・心的特性をもっており、それがその人をどんな「タイプ」の人間であるかを構成している、ということになる。


  ニーチェ自身はこのような厳密な用語を使っているわけではないが、その概念は彼の成熟した著作のすべてに主役として登場している。ニーチェの典型的な論証形態は、たとえば、次のように展開する。人の理論的な信念は、その人の道徳的な信念の観点によってもっとも良く説明される。そして、その人の道徳的な信念は、その人の人間のタイプについての自然によって(タイプ事実によって)もっとも良く説明される。だから、ニーチェは次のように言うのだ。「これまでの偉大な哲学はすべて… その著者の個人的な告白であったし、そうと知らずに書かれた無意識的な回想録の一種だった」。であるから、このような哲学を本当に把握するためには、「この哲学が(この哲学者が)どんな道徳を目指しているのか」と問わなければならない(BGE 6)。しかし、哲学者が抱く道徳とは、たんに、「その哲学者がどんな人であるかを証言している」だけ ―― つまり、その哲学者が本質的にどういう人間であるかを ―― 言いかえると、その哲学者の「本性の内奥にある欲動」(BGE 6)を証言しているだけなのである。


  このように、人間の道徳的信念をその人についての精神・物理的な事実によって説明しようとすることは、ニーチェにおいて繰り返されるテーマである。「道徳とは … 情動を知らせる身ぶり言語のようなものにすぎない」とニーチェは言う(BGE 187)。「存在の価値についての問いに対する答えは … つねに、身体の徴候として考えられるだろう」(GSP 2)。 「道徳的判断は、「彼は(WP 258)、「生理的にうまくいっているとかいっていないというプロセスを顕わにする徴候であり身ぶり言語である」と彼は言う(WP 258)。 「われわれの道徳的判断と価値評価とは … われわれには知られていない生理的プロセスに基づいたイメージと空想にすぎない」(D 119)ので、「道徳的傾向や偏見の背後にある生理的な現象を前面に引きだすことがつねに必要である」(D 542)。「同情の道徳は、生理的な過剰反応のことを言いかえた表現にすぎない」(TI IX:37)と彼は主張する。ルサンチマン ―― そしてそこから発展した道徳 ――を、ニーチェは「現実の生理的な原因」に帰している(GM I:15)。


  ニーチェはこうした考え方を、『道徳の系譜学』(以下、たんに「系譜」または“GM”と表記する)の序文で次のように要約している。「われわれの思考や価値、あらゆる「イエス」や「ノー」、「もし」や「しかし」は、木のうえに実る果物と同じ必然性をもって、われわれから実ってくる。すべてが相互に関連しあって親和性をもっており、一つの意志、一つの健康、一つの土、一つの太陽を証言している」(GM 2)。ニーチェは、果実を知ることにより木がどんなタイプであるかを理解するようになるのと同じように、ある種の観念や価値を必然的に身につけるタイプの人間を自然主義的な言葉で理解しようと努めている。そして、木についての自然の事実が、その気が実らせる果物を説明するのとまったく同じように、ある人についてのタイプ事実も、その人の価値観や行動を説明するものとなる。これは次のことを意味する。意識的な心的状態が行動に先立ち、心的状態の命題内容のおかげで心的状態が行動に因果的につながっているように見えるが、実際は、心的状態の方が、トークンとしてもタイプとしても、付随的徴候である、ということである。つまり、心的状態は、行動に関しては因果的に無力であるか、因果的に効力がありとしても、その人に関する別のタイプ事実のおかげであるにすぎない(後者の読み方については、Leiter 2002: 91–93 。前者については Leiter 2007)。



 われわれは、行動の座としての意志を、様々な意識状態(たとえば、信念や欲望)に位置づけるのが普通である。しかし、ニーチェによると、そのように考えられた「意志」とは、その人についてのタイプ事実の結果にすぎない。つまり、行動の発生の本当の物語はタイプ事実とともに始まるのであり、タイプ事実こそが意識とその人の行動を説明するのである。「意志」が「意識」や「自我」の概念に関連しているが、概念的にはそれらに先立っていると示唆した後、ニーチェが今の問題をどう言い表しているかを、次に示そう。


  「内面世界は 幻影でいっぱいだ…。意志はその一つである。意志はもう何も動かさないし、それゆえ、何も説明しない ―― それはたんに出来事に伴っているだけである。それは不在であることもある。いわゆる動機というもの。これまた誤りだ。単に、意識の表面的な現象にすぎない ――  それは、行為に伴いながら、行為の前件を表現するというよりも、それを覆い隠してしまう・・・。

 ここから何が帰結するのか? 心的な原因などまったく存在しないということである」(TI VI:3)。


 最終行でニーチェが言いたかったことは、意識的で心的な原因は存在しないということにすぎない。実際、他の個所で彼は、このような批判のターゲットは、意識的な動機こそが行動を説明するのに十分であるという捉え方であるとはっきり述べているからである。(意識が付随的現象にすぎないというニーチェの考え方の射程の競合する見解については、 Katsafanas 2005やRiccardi 2015a.を参照)。ニーチェが『曙光』で書いているように、「われわれは無意識的なプロセスをすべて説明から除外し、行為の準備段階について、それが意識化されるかぎりで反省することに慣れている」(D 129)。これは、『曙光』でもうえで引用した個所でも、ニーチェがはっきりと誤りと見なしている見解である。実際、「(過去の哲学は)意識を馬鹿々々しいほど過大評価し誤解した」(GS 11)というテーマは、ニーチェにおいて繰り返し現れるテーマである。 「われわれの精神の活動の大部分は、無意識的であり感じ取られることもない」とニーチェは述べる(GS 333;GS 354)。


  タイプ理論のためにもちだせる一般的な証拠は別にして、意識が付随現象にすぎないとするニーチェの最強の論証は、一種の現象学的考察、つまり、「思考が現れるのは「それ」が望むときであって、「私」が望むときではないという考察に基づいている(BGE 17)。もしこれが正しく、行動が思考によって(特定の信念や欲望によって)明らかに「引き起こされる」のであれば、行動はわれわれの意識的な心的状態によってのみ引き起こされるばかりでなく、むしろ、何であれ意識化される思考を決定しているもの(すなわち、タイプ事実)によっても引き起こされる、ということになる。したがって、ニーチェが攻撃しているはずなのは、われわれの意識的な心的生活の(自律的な)因果的力である。では、ニーチェが主張するように意識は付随現象であるとするならば、そして、われわれはふつう意志とは意識的な生と同一視しているとすれば、ニーチェが望んでいるのは、われわれが因果関係を生み出すものとしての意志という考え方をまったく捨て去れ、ということである。(これは、両立可能主義者が好む階層的自由意志論に反対する新たな論拠をニーチェに与える(Leiter 2002: 93–96))。意識的な意志は因果関係を生み出すことはないので、自由意志のテーゼは間違いである。


 自己の透明性のテーゼに対して、ニーチェは「すべての行動は不可知である」と主張する(GS 335;WP 291、294)。彼は『曙光』で次のように書いた。



  「  人間の行動がいかにもたらされるかを、人は知っているし、すべての場合にわたって知っている、という原始的な妄想がいまだに生き延びている。… 「私は自分がのぞむこと、自分がやったことを知っているし、私は自由でありそのことに責任があるし、他者にも責任があると見なしている。行動に先立つすべての道徳的可能性やすべての内的な運動を、私は名前をあげて呼ぶことができる。あなたは自分が望むように行為してかまわない。―― その点について、私は自分自身を理解しているし、あなた方すべてを理解している!」 ―― そのようにほとんどすべての人は考える … 。しかし、行動はと、われわれにそう見える通りおんものであることは決してないのだ! われわれは、外的な事物はわれわれに現れるようなものではないということを、多大な労力を払って学んだ ―― それは結構! しかし内的な世界にも同じことが当てはまるのだ! 道徳的行動は、実は、「それ以外の何か」なのだ ―― それ以上のことは、われわれは言うことができない。あらゆる行動は本質的に不可知なのである」 (D 116)。


  
 行動が不可知なのは、「[人間の]存在を構成する欲動の全体像ほど不完全なものはありえない」からである(D 119)。「(微細な欲動だけでなく)粗大な欲動でも、それを名づけることさえできない。その数や強さ、それらの干満、相互間の作用と反作用、そしてとりわけ、それらがどこから養分を得ているかについての法則も、まだ完全に未知のままである」(D 119)。しかし、ニーチェが別の個所で説いているように(D 109)、自己とはたんに、欲動の闘争が繰り広げられる競技場であるにすぎず、自分の行動とはその闘争の結果なのである( Leiter 2002: 99–104; cf. Riccardi 2015b。ニーチェの哲学的心理学の一般的説明については、Katsafanas 2013)。


  類似性のテーゼに対して、ニーチェは、またもや、タイプ理論を展開する。主体は、異なるタイプ事実によって構成されている限り、基本的に類似していないとニーチェは考えている。こうした生来のタイプ事実が、特定の主体がうまくいくための多様な条件を定めるので、一つの道徳が万人にとって良いということはありえない、ということなる。 「今日のヨーロッパの道徳は、畜群道徳である」とニーチェは言う。「言いかえると、それは人間の道徳の一つのタイプにすぎないのであり、それと並んで、その前に、その後に、多くの別のタイプの道徳が可能であり、とりわけより高級な道徳が可能であり、可能であるべきなのである」(BGE 202)。 ニーチェは、『偶像の黄昏』で、イタリアの作家コルナーロを論じながら、一般的な論点を具体的に示している(VI:1)。コルナーロは、「長命で幸せな生活のためのレシピとして自分の質素な食餌法」を間違って薦める本を書いた。しかし、なぜ間違いだというのか? ニーチェは次のように説明する。



  「この立派なイタリア人は、自分の食餌法が、自分の長寿の原因だと考えたが、長寿の前提条件である代謝の異常な遅さや、食事摂取量が少なさが、彼の質素な食餌法の原因だったのだ。彼は、小食だったり大食できるほど自由ではなかった。彼の倹約は「自由意志」の事柄ではなかった。食事を増やすと病気になったのだ。しかし、鯉でもない限り、誰でも適量を食べていればよいのであるだけでなく、そうする必要があるのである」。



  であるならば、粗食が彼にはよかったことを説明するコルナーロのタイプ事実が存在する。それは、すなわち、「彼の代謝の異常な遅さ」なのである。この生来の事実が、今度は、コルナーロにできることを制約し、それが「フィードバック」効果を及ぼして、彼がうまく生きていける(うまく生きていけない)条件を提供するのである。代謝が遅かったとするならば、コルナーロが食事量を増やせば、「彼は病気になった」。ぎゃくに、粗食にこだわったとき、具合が良くなった。要するに、 「彼は、小食だったり大食できるほど自由ではなかった」。コルナーロの間違いは彼の絶対主義にあった。彼は、「良い」食餌は誰にとっても良いと考えたが、実は、それは特定のタイプの身体(つまり、代謝の遅い身体)にとって良かったにするない。ニーチェによると、食餌に当てはまることは、道徳にも当てはまる。主体は、タイプ事実において類似していない、ある道徳の「食餌法」が「万人にとって良い」ということはない。ニーチェは次のように書く。


 「 問題は、つねに、彼が誰であり、また別の人は誰かということである … 自分自身を無条件なものと見なし、あらゆる人に語りかける非エゴイズムの道徳はすべて、趣味に対して罪を犯しているだけではない。それは、省略の罪を犯せという挑発であり、人類愛の仮面のもとになされるもう一つ別の誘惑なのであり ――  より高級で、稀で、特権的な者をおびき出して危害を加える行為なのである」 (BGE 221)。


この点が、ニーチェの道徳批判の核心のためのステージを設定するのである。





」(つづく)










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