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ニーチェの道徳・政治哲学(その2) [探求]

 スタンフォード大学・哲学百科事典の「ニーチェの道徳・政治哲学」(ブライアン・ライター執筆)の紹介の第二回目。

 まず、ニーチェの批判した道徳を大まかに二つの観点から考察すべきであることが確認される。つまり、批判されるべき道徳(=MPS)には、二つの構成要素が内在していて、一つは「記述的構成要素」で、もう一つは「規範的構成要素」である。

 使われている言葉が難しいのでとっつきにくい印象を与えるが、要するに、こういうことである。MPSが批判されるべきなのは、そこに間違った「記述的構成要素」と間違った「規範的構成要素」があるからである。前者の間違いは、人間の本性について間違った前提を立てている点に求められる。本文で挙げられているのは、意志の自由を説いているという点、自我の透明性を説いている点、すべての人間の本性の類似性を説いているという点で、MPSは間違っている。しかし、それは決定的な点ではないかもしれない。もっと重要なのは「規範的構成要素」の方で、それは人間の集団の中のある特定の部分を特権化し、特定の別の部分を蔑(さげす)むという主張をする点で間違っているという。

 後者の間違いは、奴隷と権力者の貴賤関係がルサンチマンの策術により転倒されるというあの有名な理論を指していることは容易に想像できる。しかし、ユダヤ人に由来するあの価値の転倒が、「高級な人間」を称揚する道徳によって克服されるなどと考えるのはあまりに安易だろう。ルサンチマンとは無縁の強者の道徳なるものを案出したとしても、それは新しいMPSを創造するだけに終わるのではないだろうか? 私個人はルサンチマンという言葉に大した意義を認めてはいないが、あえてそれを使って次のように言えるのではないかと思っている。つまり、ニーチェの理論は、ユダヤ・キリスト教のルサンチマンの論理の成功に対するルサンチマンによって成立した理論にすぎないのではないだろうか?  (もっとも、繰り返すが、こんな概念で宗教や道徳の歴史を語れるとは思えないので、これは概念的なお遊びにすぎない)。

 筆者はそんなことは言っていないが、なんとなくそんな感想をつい漏らしてしまいたくなる出だしである。 



 
Nietzsche's Moral and Political Philosophy . By Brian Leiter.
http://plato.stanford.edu/entries/nietzsche-moral-political/






    ニーチェの道徳・政治哲学(その2)

1. 道徳の批判

1.1 批判の及ぶ範囲: 悪い意味での道徳(=MPS)




 ニーチェはすべての道徳を批判したわけではない。彼は、たとえば、「高級な人間」(Schacht 1983:466-469)の生を特徴づける「高級な道徳」という観念は支持しているし、そうするときに、彼は、 攻撃するものと賞賛するものの両方に対して、同じドイツ語の語――Moral、時には Moralität[ともに「道徳」を意味する…訳者注] ――を使用している。おまけに、ニーチェは既存の価値の再評価を提供しようとするとき、広い意味での「道徳的」規準に訴えかけているように見える。『曙光』の序文でニーチェは次のように書いている。「この本では、道徳(Moral)に対する信仰は差し控えられている――しかし、それは何故か? それは、道徳心(Moralität)からなのだ! 道徳やわれわれを特徴づけるものをそれ以外にどう呼ぶことができるだろう? 「汝なすべし(du sollst)」がわれわれにも語りかけていることには何の疑いもない」(D 4)。もちろん、このことが意味するのは、(不整合だと言われることは覚悟のうえで)ニーチェが批判する道徳は、彼が保持し使用している「道徳」の意味とは区別されなければならない、ということである。


 しかし、ニーチェは、自分の道徳批判を、宗教的に、哲学的に、社会的あるいは歴史的に限定された何らかの具体例に制限することはしていない。だから、ニーチェは単純な意味でキリスト教の道徳やカントの道徳、ヨーロッパの道徳や功利主義的な道徳を攻撃しているのだと言うだけでは十分ではない――ときにはそれらすべてを攻撃しているのは確かではあるが。ニーチェの批判の範囲を正当に見るには、ニーチェの言う悪しき意味での「道徳」――これ以降、MPS[ Nietzsche's pejorative senseの頭文字をとったもの…訳者注]と呼ぶ―― を特徴づけるのは何か、つまり、彼の批判の対象としての道徳を特徴づけるものは何かと問わなくてはならないのである。


  「道徳」にわれわれが結びつける役割を果たすあらゆる規範的なシステムはある種の構造的な特徴を共有している――そうした規範的システムの意味や価値は時とともに相当変化するものとはいえ――という信念をニーチェは抱いている。特に、あらゆる規範システムは記述的構成要素(descriptive components)と規範的構成要素(normative components)を共にもっているが、それは次のような意味においてである。(a)システムを構成する規範的主張が人間の主体に合理的に適用されるためには、主体性についての特定の形而上学的で経験的な主張が真とならなければならないという意味で、それらのシステムは、人間の主体性についての特定の記述的考え方を前提している。そして(b)、そのシステムの規範は、ある人々の利害を優遇し、しばしば(必然的にというわけではないが)別の人々の利害を犠牲にしている。どの特定の道徳であっても、それがニーチェの批判の対象(すなわち、MPS)となるのは、


ⅰ.それが、人間主体について、自由意志と自我の透明性とすべての人間の本質的類似性に関連する三つの特定の記述的主張を前提しているときである(「記述的構成要素」)。

ⅱ. それが「最低の人間」に恩恵を与える一方で「最高の人間」を害するような規範を含んでいるときである(「規範的構成要素」)。


  ニーチェはMPSの記述的構成要素と規範的構成要素の両方の批判を提供しているが、最終的にMPSを異論の余地のない規範的システムに対立するものとして規定するのは規範的な方針の方である。ニーチェは、MPSの一部とされるのが常である主体性の記述を批判しているが、ニーチェがMPSにあるものとして根本的に異議を唱えるのは「誤りそのものではない」と述べている(EH IV; 7)。つまり、問題の核心は、MPSによって前提されている主体性についての記述的説明が間違っていることそのものではなく、それが独特な仕方で規範性にコミットしているその仕方にあるのである。したがって、厳密に言えば、主体性についての支持できない記述的説明にコミットしていない場合でも(たとえば、功利主義の特定の形態がそうであるように)、MPSに異議を唱えることは可能である。しかし、ニーチェの最も普通の――密接に関連した――二つの攻撃対象はキリスト教の道徳とカントの道徳であるのだから、しかも、MPSの記述的構成要素の批判はニーチェの著作でひときわ目立っているのだから、その批判を省略してニーチェの批判の論理を説明しようとするとしたら、それはニーチェの関心を正当に捉えたことにはならないのである。




」(つづく)










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