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積極的自由と消極的自由(その6) [探求]

 スタンフォード大学・哲学百科事典の「積極的自由と消極的自由」(イアン・カーター執筆)の第六章である。

 この章は、これまでとは一転して、数量的な意味の「自由」、「総体的自由(overall freedom)」をテーマにしている。ある国は別の国よりも自由度が高いとか低いという場合、何らかの仕方で自由が数量的に理解されていることが前提となっているわけであるが、そうした観点から自由を把握するための条件について言及がなされている。主に、厚生経済学的な分野でホットな話題であるようだが、考えてみれば、これは、功利主義者が快楽計算によって幸福を数量的に把握するという理論を提唱した時以来の古い話題のバリエーションに見えなくもない。バーリンの自由論からは少し逸れた内容になっている。



Positive and Negative Liberty. By Ian Carter

First published Thu Feb 27, 2003; substantive revision Mon Mar 5, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/liberty-positive-negative/




6. 総体的自由の概念



  総体的自由(overall freedom)の概念は、日常の会話でも現代の政治哲学でも重要な役割を果たしていると思われる。しかし、哲学者が、特定の自由 ――あれやこれやの特定のものを行ったり、それになったりする自由 ――の意味について考察を集中するのを止めたのはごく最近のことであるし、ある人(や社会)が別の人(や社会)よりも自由であるという趣旨の記述的主張や、自由は最大化されるべきであるとか、人々は等しく自由を享受すべきであるとか、人々は最低限のレベルの自由の権利をもっているといった趣旨の規範的な主張を意味づけることができるかどうかと問い始めるようになったのもごく最近のことである。このような主張が文字通りの意味をもつかどうかは、総体的自由の度合いを、ときには比較を通して、ときには絶対的な形で測定する可能性にかかっている。

  総体的自由の概念の重要性について、理論家たちの意見は一致していない。リバタリアンやリベラルな平等主義の理論家の中には、自由はそれ自体として評価できると考える者もいる。そうなれば、より多くの自由がある方が良いことになるし(少なくとも、ほかの条件が等しければ)、自由は自由主義社会が、特定の仕方で個人間に配分すべき財の一つであることになる。ロナルド・ドウォーキン(1977、2011)や晩年のロールズ(1991)のような自由主義の理論家にとって、自由はそれ自体としては評価できず、最大の自由や等しい自由についてのあらゆる主張は、「自由」と呼ばれる定量的な財に文字通り関連する主張として解釈されてはならず、自由そのもの以外の価値に基づいて選択された、ある特定の自由のリストや、自由のタイプのリストの妥当性に関連する省略的な主張として解釈されるべきなのである。一般的に言えば、最初に挙げた理論家のグループだけが、総体的自由の概念を興味深いものと見なしている。


  総体的自由の計測に含まれる理論的な問題には、行為者にとって使用可能な行動がいかに個別化されカウントされ評価されうるかという問題や、(物理的妨害、罰則、脅威、心理操作といった)自由に対する制約の異なるタイプ(必ずしも、異なるソースというわけではない)を比較し評価するという問題がある。人間に利用可能なオプションの数が増加したという主張をわれわれはどのように理解すべきか? すべてのオプションは、自由の度合いという観点から見ると同じものとして見なすべきか、それとも、それらは他の価値の観点から見た場合の重要性に応じて評価されるべきなのか? また、ある行動の物理的な不可能性によって生み出される不自由と、たとえば、ある行為の困難さやコストの大きさや罰則の重さなどによって生み出される不自由とを、われわれはどのようにして比較すべきなのか? このような違った種類の行動や制約を比較することによってのみ、われわれは個々人の総体的自由の度合いを比較することができるのである。楽観論の程度は様々ではあるが、これらの問題は政治哲学者だけではなく、最近ではますます社会的選好の理論家たちが取り組むようになった。彼らは、自分たちの学問分野を支配していた標準的な功利主義や「厚生経済学」のフレームワークに代わって自由をベースにした代替理論を見つけることに関心を抱いているのである(Pattanaik and Xu 1991, 1998; Hees 2000; Sen 2002; Sugden 1998, 2003; Bavetta 2004; Bavetta and Navarra 2012)。


  マッカラムのフレームワークは、このような問題の解明に特に適している。このため、自由の測定に取り組んで理論家は、積極的自由と消極的自由の区別にあまり関心を向けない傾向がある。そうはいっても、彼らのほとんど(Steiner, Carter, Kramer, Sen, Sugden)の関心は、オプションの利用可能性としての自由に向けられている。オプションの利用可能性としての自由概念は、曖昧さの余地なく、バーリンの言う意味での消極的自由なのであるが、ただし、それは少なくとも、次の二つの条件が満たされている場合である。第一は、不自由を生み出す制約のソースは他の行為者の行動に制限されているのであって、自然に由来する障害や自ら招いた障害は行為者の自由を減ずるものと見なされることはないという条件である。第二は、人が自由に行えたり自由に行えない行動は、何らかの価値中立的な仕方で評価されるのであって、その人に利用できるオプションがより評価できるものであったりその人の自己実現にもっと通じるという理由だけで、その人がより自由であると見なされることはないという条件である。上で言及した著者のうち、明示的に両方の条件を支持したのはスタイナーだけである。センは、バーリンの言う意味での積極的自由のようなものをまったく支持しないにもかかわらず、それら両方の条件を拒否するのである。



」(つづく)。








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