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積極的自由と消極的自由(その5)  [探求]

 スタンフォード大学・哲学百科事典の「積極的自由と消極的自由」(イアン・カーター執筆)の第五章である。


 この章は、マッカラムの自由概念を構成する要素の一つである「制約(constraint)」の概念を主題とする。しかし、この章の分析の記述はしばしば簡潔すぎて理解するのが必ずしも容易ではないように(少なくとも私にとっては)映った。もっとも、こちらの理解不足に起因しているのかもしれないので、何度も読み返すつもりであるが。 




Positive and Negative Liberty. By Ian Carter

First published Thu Feb 27, 2003; substantive revision Mon Mar 5, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/liberty-positive-negative/





「 

5. 自由に対する制約についての分析:制約のタイプとソース



 マッカラムの分析によって使用可能になった自由の概念について解釈の幅がどれくらいあるかを具体的に示すために、彼の第二の変項――自由に対する制約という変項について詳しく見てみることにしよう。


 消極的な自由概念を唱える人々は、自由に対する制約として見なされる障害の範囲を、別の行為者によってもたらされる障害に制限するのが通例である。自由に対する制約をこのように考える理論家にとって、私が不自由なのは、私が他の人々のせいである種の事柄をすることができない限りでのことである。自然に由来する原因によって――たとえば、遺伝的障害や、ウイルスや、ある種の気候条件によって ――ある行動がとれない場合、ある種の事柄をなす能力がなくなったとは言えても、その理由のために、それを行う自由がなくなったとは言えない。あなたのおかげで私が自分の家に閉じ込められた場合、私は家から出る能力も自由もなくなるだろう。しかし、病気になって体力が落ちたり積雪のために玄関が埋もれてしまったために家から出られなくなった場合、私には家から出る自由はある、あるいは少なくとも、家から出る不自由はない。消極的な理論家が自由を阻む条件の範囲をこのように制限するのは、彼らが自由を社会的関係――人間間の関係――として見ているからなのである(Oppenheim 1961; Miller 1983; Steiner 1983; Kristjánsson 1996; Kramer 2003)。非-社会的関係としての自由は、政治哲学・社会哲学者の関心事というよりも、エンジニアや医療関係者の関心事であると言われるのである。


 自然に由来する障害と社会に由来する障害を区別しようとするとき、われわれはどっちつかずの中間領域に遭遇することは避けがたい。重大な例は、非人称的で経済的な諸力によって生み出された障害である。不況や貧困や失業などの経済的制約は、人々から能力を奪うだけなのか、それともまた、人々を不自由にしてしまうのか? この問いに明確な答えを提供する一つの方法は、自由に対する制約についての見解をもっと狭くとって、他の人々によってもたらされる障害の範囲の一部分のみ――つまり、意図的にもたらされた障害のみ――が自由の制限として見なされると言うことである。そうすれば、非人称的で経済的な諸力は、意図してもたらされたものではないのだから、確かに人々からある種のことをなす能力を奪うにもかかわらず、人々の自由を制限するものではなくなるのである。この最後の見解は、多くの市場志向のリバタリアンたちによって提唱されたが、その筆頭格にフリードリヒ・フォン・ハイエク(1960、1982)がいる。ハイエクによれば、自由とは強制の欠如であり、強制されることとは他人の恣意的な意志に服従することである。(自由のこの考え方と、第3章で議論された共和主義的な考え方との間に幾分驚くべき類似性があることに注目されたい)。他方で、リバタリアニズムを批判する人々は、自由に対する制約について、意図的に押しつけられた障害だけでなく、意図的ではないが誰かに責任を負わせられる(ミラーとクリスティアンソンにとって、それは道義的責任を意味し、オッペンハイムとクレイマーにとって、それは因果的責任を意味する)障害をも含むより幅広い考え方を支持するのが通例である。あるいは、何らかの仕方で生み出された障害を含める人々もいる(Crocker 1980; Cohen 1988; Sen 1992; Van Parijs 1995)。だから、社会主義者や平等主義者は、資本主義社会の貧困層は貧しいがゆえに不自由であるとか、富裕層ほど自由ではないと主張する傾向があるが、それに対して、リバタリアンは、資本主義社会における貧困層は、富裕層に劣らず自由であると主張する傾向がある。平等主義者は、自由に対する制約として見なしうるものについて、リバタリアンよりも幅広い考え方を前提するのが通例である(常にそうだとは言えないが)。この見解はバーリンが自由の積極的な概念と呼ぶものを必ずしも含意するわけではないが、平等主義者は、自由が能力の存在を、アマルティア・センが「潜在能力(capabilities)」と呼んだもの (Sen 1985, 1988, 1992)を要求するという感覚を伝えるために、自分たちの自由の定義を積極的としばしば呼ぶ。(自由に対する制約の範囲を広げようとするこの平等主義的傾向にとっての重要な例外は、Waldron (1993) と Cohen (2011)である。彼らは、相対的貧困が、他の行為者によって物理的障壁が押しつけられるという事態と、事実上経験的に切り離すことができないし、それと比例しているということを論証のために証明した)。


 すでに見たように、自由についての消極的考え方を提唱する人々は、行為者にとって外的な障害だけを考慮に入れる傾向がある。しかし、「外的」という語が今の文脈では二義的であることに注意されたい。なぜなら、それは、障害を因果的に生み出した原因の場所を指し示すとも、障害そのものの場所を指し示すとも見なしうるからである。それそのものが占めている場所という観点からは「内的」と見なしうる障害には、無知とか非合理的な欲望とか幻想や恐怖症といった心理的現象が含まれる。このような制約は、様々な仕方で引き起こされうる。例えば、遺伝的起源をもっているかもしれないし、洗脳や心理操作の場合のように、他の人々によって意図的にもたらされることもある。最初のケースは、自然に由来する原因によってもたらされる内的制約であり、第二のケースは、別の人間の行為者によって意図的に押しつけられた内的制約である。


 より一般化すると、実際二つの異なる次元があって、そのどちらの次元によるかで、制約の概念が広いものとなったり狭いものとなるということが判明する。最初の次元は、制約のソース(source)―― 言い換えれば、自由に対する制約をもたらすものという次元である。すでに見たように、ある理論家によれば、自由に対する制約には人間の行動によってもたらされる障害だけが含まれるのに対して、別の理論家は自然に由来する障害も含める。第二の次元は、制約のタイプ(type)という次元であるが、制約のタイプには、今述べた内的な制約のタイプだけでなく、ある行動を不可能にする物理的な障壁や、ある行動を実行することを多少なりとも困難にする障害や、(多かれ少なかれ困難な)行動の実行に関連するコストといった、行為者の外部にある様々なタイプの制約である。タイプとソースという二つの次元は、論理的には相互に独立している。この独立性を前提すれば、制約のソースについての狭い見解と、どんな障害のタイプが不自由を生成する制約として見なされるかについての幅広い見解を結びつけることが理論的ンには可能となるし、その逆の組み合わせも可能となる。その結果、通常は「消極的」陣営に位置している理論家が自由に対する内的制約の存在を否定する必要があるということは明白ではなくなってくるのである( Kramer 2003; Garnett 2007)。

 タイプとソースという二つの次元の独立性を具体的に説明するために、非正統的なリバタリアンであるヒレル・スタイナー(1974–5, 1994)のケースを考えてみよう。一方で、スタイナーは、自由に対する制約の可能的なソースについてハイエクよりもずっと幅広い見解を抱いている。彼はそのようなソースの範囲を人間の意図的な行動に制限することはせず、それを人間に由来するあらゆる種類の原因をカバーするまでに拡大する。その際に、どんな人間でもそのような原因を意図するかどうかは問わないし、そうした原因に道義的責任があると問われうるかどうかも問わない。スタイナーによると、自然に由来しないそうしたソースは通常何らかの多少なりとも意識的なイデオロギーの偏りに由来するものであるから、それをどう制限しようと恣意的な取り決めにしかならないからである。他方で、スタイナーは、どんなタイプの障害が自由に対する制約と見なしうるかについては、ハイエクよりずっと狭い見解をもっている。スタイナーにとって、ある行為者があることを自由になしえないと見なされるのは、その行為者がそれをすることが物理的に不可能である場合にかぎられる。制約という変項を、威圧的脅迫で予見されるコストなどのような別種の障害を含むように拡張してみても、それは、彼の見解では、必然的に行為者の欲望への関連を含むことになるし、すでに見たように、消極的陣営にいる自由主義者にとって、行為者の自由と行為者の欲望との間には必然的な関係は存在しない。「金を出せ、さもないと殺すぞ!」という威圧的脅迫を考えてみよう。こう言われたからといって、お金を渡すのを拒絶することが不可能になるわけではない。ただ、そうすることがずっと望ましくなくなるというだけである。お金を引き渡さないと決めたならば、殺されるというコストを受け入れることになる。それは、あなたの大部分の行動を物理的に不可能にするために、あなたの自由の制限と見なされるだろう。しかし、脅迫したことがこの不自由を生み出したわけではないし、(脅威で述べられた)制裁が行われるまで、あなたは不自由ではない。この理由で、スタイナーは、脅威――と、あらゆる種類の押しつけられたコスト――を、自由を制限すると見なされる障害の範囲から除外する。自由のこの概念は、ホッブズに由来し(『リヴァイアサン』第14章と第21章)、その擁護者はその概念を「純粋な」消極的概念と呼び(M. Taylor 1982; Steiner 1994; Carter and Kramer 2008)、それを、行為者の信念や欲望や価値観に少なくともわずかでも関連をもつ「不純な」消極的概念から区別するのである。


 自由と威圧的脅威との関係についてのスタイナーの説明は、自由主義的な観点から見た場合でさえも、直感に反する意味をもつように考えられる。通常、消極的自由を制限すると考えられている多くの法律は、人々が禁止されていることをしないように物理的に防いでいるわけではなく、罰則を与えるという脅しによって人々がそうしないように防止しているのである。であるならば、それらの法律は、それに従う人々の消極的な自由を制限していないと言うべきなのだろうか? この問題に対する解決は、ある行動(=X)を禁止する法は、Xを行う自由を除去することはないが、それにもかかわらず、Xを行うことと、罰則によって排除されることを行うことを含む行為のある種の組み合わせを物理的に不可能にする、と言うことに存するだろう。たとえ、個別的に考えた場合には、どんな特定のことであっても、それを行う自由を失うことはないにしても、人間の全体的な消極的自由の制限――人間に利用可能な行為の組み合わせの総数の削減――というものがあるのである(Carter 1999)。




」(つづく)








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