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積極的自由と消極的自由(その4) [探求]

スタンフォード大学・哲学百科事典の「積極的自由と消極的自由」(イアン・カーター執筆)の第四章である。


 この章は、一転して、自由を単一の「三項関係」として把握したマッカラムの理論を取り上げる。こうした単一の関係として自由を定式化することによって、自由についての問題設定は、一見、スッキリしたように見える。しかし、果たしてどうか・・・・。 




Positive and Negative Liberty. By Ian Carter

First published Thu Feb 27, 2003; substantive revision Mon Mar 5, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/liberty-positive-negative/





   単一の自由概念:三項関係としての自由



 バーリンが身元を明らかにした二つの陣営は、二つの違う概念のどちらが自由という名に最もふさわしかという点で意見を異にしている。この事実は、二つの陣営の間にもっと根本的な意見の一致が存在していることを示していないだろうか? 結局のところ、彼らは、自分たちが何らかの意味で同じ事柄について語っているものとして考えるのでなければ、どうして意見の不一致を自由の定義についての不一致として見なすことができるだろう? アメリカの法哲学者ジェラルド・マッカラムは、影響力のあった論文(1967)において、次のような答えを提示した。つまり、実際に存在するのは自由という一つの根本的な概念だけであって、そこに両陣営の見解は、論争において、収斂していくのである。いわゆる消極的理論家と積極的理論家が意見を異にするのは、自由というこの単一の概念がいかに解釈されるべきかという点なのである。実際、マッカラムの見解では、自由については実に多くの違った解釈があるのであり、二つの自由概念があるという観点からわれわれが考えるようになったのはバーリンの人為的な二分法のせいであるにすぎないことになる。

 マッカラムは自由の根本概念――誰もが同意する自由概念――を次のように定義する。つまりそれは、ある主体あるいは行為者が、ある種の規制や妨害的な条件から自由になって、ある種のものをできたりできなかったりすること、なのである。つまり、自由とは三項関係である――つまり、行為者( an agent)、何らかの妨害的な条件(certain preventing conditions)、その行為者が何かをしたり何かになったりする行為(certain doings or becomings of the agent)という三項の間に成り立つ関係なのである。自由や不自由についての言明は、何が自由あるいは不自由なのか、それは何から自由あるいは不自由なのか、そしてそれが何をしたり何になることが自由あるいは不自由なのかを特定することによって、上で述べた形式の言明に翻訳することができる。ある状況において自由があったりなかったりすることについての主張は、それゆえ、何が行為者として見なされるか、何が自由に対する制約あるいは制限として見なされるか、そして行為者が自由に遂行できる(あるいはできない)と記述できる目的として何が見なしうるか、についてのある種の仮定を設けることになる。


 自由を三項関係として定義することは、1950年代および60年代において影響力の大きかったフェリックス・オッペンハイムの研究で初めて提唱された。オッペンハイムは、政治・社会哲学の文脈における「自由」の重要な意味は、二人の行為者とある特定の(阻害される、あるいは阻害されない)行動の間に成り立つ関係であると理解した。しかし、この自由の解釈は、バーリンが消極的自由と呼ぶであろうものにとどまっていた。マッカラムがしたことは、この三項関係を一般化して、消極的なものであろうと積極的なものであろうと、自由についてのどんな主張をもカバーするようにしたことである。オッペンハイムのとは違って、マッカラムの枠組みにおいては、三つの変項のそれぞれの解釈はオープンである。言い換えると、マッカラムの立場は、メタ理論的な立場である。彼の理論は、自由の理論家たちの間にある差異についての理論なのである。


 マッカラムの論点を具体的に示すために、タバコ屋に車を走らせるスモーカーの例に戻ろう。この人を自由あるいは不自由として記述するとき、われわれは、マッカラムの三つの変項のそれぞれについて仮定を設けることにする。ドライバーは自由だとわれわれが言うとき、われわれが言いたいのは、ドライバーの経験的自己に存するとされる行為者が、外的(物理的あるいは法的)障害物から自由に、したいと思っていることを何でもすることができる、ということである。他方、もしわれわれがドライバーは不自由であると言うとき、われわれが言いたいことは、より高次のあるいは理性的な自己に存するとされる行為者が、内的で心理的な制約によって、何らかの理性的な、真正の、あるいは有徳の計画を自由に実行できなくさせられている、ということである。どちらの主張の中にも、消極的な要素と積極的な要素があることに注意してほしい。自由についてのそれぞれの主張は、自由が何か(つまり、妨害的に作用する条件)からの自由であることと、同時に、自由があることをする自由、あるいはあるものになる自由であることもまた前提しているからである。「~からの自由」か「~への自由」かという二分法は、それゆえ、間違っており、ドライバーを自由だと見る人々は消極的概念を使っており、ドライバーを不自由だと見る人々は積極的概念を使っていると述べることは誤解を与える言い方である。これらの二つの陣営が意見を異にしているのは、三項的な自由の関係における三つの変項のそれぞれをどう解釈するかという点にある。もっと厳密に言えば、二つの陣営の違いは、変項のそれぞれに割り振られるべき外延の違いである、ということが判明するのである。


 かくして、バーリンが消極的陣営に位置づける人々は、行為者を、一般的に日常的な話題で言及されるのと同じ外延をもつ者と考えるのである。彼らは、行為者を、個々の人間として考え、その個人の経験的信念と願望をすべて含みもつものとして考える。他方、いわゆる積極的陣営にいる人々は、通常の考え方からしばしば離れ、ある意味で行為者を通常の考え方よりも幅広いものとして想像し、別の意味ではもっと狭いものとして想像する。彼らは、行為者の真の願望や目標を、行為者が属する集団の願望や目標と同一視するような場合には、行為者を、通常の話題に出てくるものよりもずっと大きな外延をもつものとして考える。そして、真の行為者を、その経験的な信念や願望のごく一部分だけ――つまり、理性的な、真正な、あるいは有徳の部分だけと同一視する場合には、行為者のことを、通常の話題におけるよりも狭い外延をもつものとして考えるのである。第二に、バーリンの言う積極的陣営にいる人々は、消極的陣営にいる人々に比べて、自由に対する制約と見なせるものについてより広い見解をもつ傾向がある。つまり、障害物の範囲が、後者にとってよりも前者にとってのほうがより幅広くなるのだが、それは、消極的理論家が自由に対する制約としては外的な障害しか取り上げないのに対して、積極的理論家のほうは、非理性的な願望や恐れや無知のような内的要因によって人が制約を受けることを認めるからである。そして、第三に、バーリンの言う積極的陣営にいる人々は、自由に果たすことができる目的と見なしうるものについて狭い見解を取りがちである。目的の範囲が、積極的理論家にとっては、消極的理論家にとってよりも幅の狭いものとなるのである。なぜなら、すでに見たように、積極的理論家は行為や状態の幅を、理性的で、真正なあるいは有徳のものに限定する傾向があるのに対して、消極的自由の陣営の人々はこの変項を拡大して、行為者が望むどんな行為や状態をもカバーしようとする傾向があるからである。


 では、マッカランの分析に立てば、積極的な自由と消極的な自由の間に単純な二分法は存在しないことになる。むしろ、自由という単一の概念についての幅広い解釈や「考え方」がありうると、われわれは認識すべきなのである。実際、マッカランが述べているように、そしてバーリンも薄々認めているように、古典的な著述家の多くは、二つの陣営のいずれかに曖昧さもなく位置づけられることはできないのである。たとえば、ロックは、古典的な自由主義者の父の一人と通常考えられていて、したがって自由の消極的概念の忠実な擁護者として考えられている。実際、彼は、「自由(な状態にあること)は制約からも他者の暴力からも自由であることである」とはっきり述べている。しかし、彼はまた、自由は「放縦(license)」と混同されてはならないし、「そうなれば、それは、泥沼や絶壁からわれわれを守ってくれる制限という名前に値しなくなる」(Second Treatise, parags. 6 and 57)。ロックは、自由に対する制約についてバーリンならば消極的と呼ぶような説明を与える一方で、マッカランの自由の第三の変項について、それを非道徳的でない行為に限定し(自由は放縦ではない)、また行為者自らのためになるような行為に限定することで(泥沼に転落することがないようにされるとき、私は不自由ではない)、バーリンならば積極的と呼ぶだろう説明を支持しているように見える。現代のリバタリアンの多くが、似たような道徳的含みをもつ自由の定義を提供あるいは前提してきた ( Nozick 1974; Rothbard 1982)。このことは、理論家を二つの陣営――消極的な自由主義の陣営と積極的な非自由主義の陣営――に分けることは、概念的にも歴史的にも誤解を与えるものだというマッカラムの主張を裏づけるように思われるのである。

」(つづく)













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