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積極的自由と消極的自由(その3) [探求]

 スタンフォード大学・哲学百科事典の「積極的自由と消極的自由」(イアン・カーター執筆)の第三章である。


 この章は、「積極的自由」にも「消極的自由」にも偏しない第三の道を模索する試みが紹介されている。一つはクリストマンの試みであり、もう一つは共和的な試みである。それぞれ、バーリンの見解の弱点を突いた形で提起されているが、それぞれが別の仕方で部分的な修正の域を出ていないようだし、したがってバーリンの自由論にとって代わるほどの明晰性や包括性を持っていないようだ。おそらく、それが政治哲学の自由論の現状、つまりバーリンの自由論の欠点は指摘できても、それに代わる代替案をするには至っていない、という半端な状態なのだと思われる。



 

Positive and Negative Liberty. By Ian Carter

First published Thu Feb 27, 2003; substantive revision Mon Mar 5, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/liberty-positive-negative/







3. 第三の道を創り出す二つの試み

  しかしながら、フンボルトやビルによって記述された理想は自由の消極的な概念よりも積極的な概念の方にずっと近いものだと批判者たちは異議を申し立てた。彼らによると、積極的自由は、まさに個人の成長のうちに存する。自由な個人とは、自分自身の願望や利害を自律的にそして内側から発達させ、決定し変更する存在である。これは、障害物の単なる不在としての自由ではなく、自律性あるいは自己実現としての自由である。国家による干渉が単に存在しないことがそうした成長を保証するとどうして考えられようか? 全体主義と、古典的自由主義者の言う最小国家という両極端の間に第三の道のようなものがあるのではないか  上で述べたような意味での積極的自由が活発に促進されうるようなパターナリスティックなものではなく、全体主義的でもないような手段があるのではないだろうか?


  積極的自由についての最近の研究の多くは、バーリンが強力に主張した積極的概念の乱用の可能性を意識しながら、なおかつ、消極的自由の理念に不満を覚えるという動機に由来している。例えば、ジョン・クリストナム(1991)は、積極的自由とは欲望が形成される仕方に関わるものだと主張した。その欲望が、利用可能なあらゆる選択肢について合理的な反省を行った結果として生じたものであるにせよ、プレッシャーを受けた結果、あるいは操られていたとか無知だった結果として生じたものであるにせよ、それは問わない。彼によれば、積極的自由が考慮しないのは個人の欲望の内容なのである。積極的自由を促進することのうちには、人はどう生きるべきであるかという問いには唯一の正しい答えしか存在しないという主張は含まれていないし、またそれは、社会がそのメンバーに特定の行動パターンを強制することを許す必要はないし、またそうした強制と両立可能でもない。あるイスラム教徒の女性の例を取り上げてみよう。彼女は、自分の家族や自分が暮らしている共同体が一般的にしたがっている原理主義的な教えを支持しているとしよう。キリスト教徒の立場に立てば、彼女の従おうという欲望が、教化・操作・詐欺によって抑圧的に彼女に押し付けられたものであるならば、彼女は積極的な意味で不自由である。他方で、ほかに合理的な選択肢があることを自覚し、ほかの選択肢を理性的に比較し評価しながら、やはり(原理主義に)従おうという欲求に彼女が到達したならば、彼女は積極的な意味で自由である。この女性は従属的なふるまいを好んでいるように見えるとしても、彼女が現在の欲望を持っていることには必然的に自由を高めたり自由を制限したりするものは何もないのである。なぜなら、自由はこうした欲望の内容にではなく、その欲望が形成されるあり方に関わるからである。この見解に立てば、彼女を強制してあることをさせたとしても、それで彼女がより一層自由になることはなくなるし、バーリンの積極的自由のパラドックスは回避されたように見えるだろう。


 しかしながら、個人の消極的自由の領域を侵害することなく、クリストマンのいう意味での積極的自由を促進するために、実際、国家に何ができるかは不明である。二つの理念の葛藤は、彼の第三の道を探る分析の後でも、より穏やかな形ではあれ、存続しているように思われる。特定の行動パターンをするように個々人を強制するわけではないにせよ、クリストマンのいう意味での自律性を促進することに関心を抱く国家には、ある活動には補助金を出しその資金を課税によってまかなうことで、情報や教育面で干渉するかなりの余地が残されるだろう。自由主義者は反パターナリスティックな理由によりこれを批判するだろう。そうした政策は、他律的な人間が勝手に使っていいと言われれば別の仕方で使う資源を、国家に自分なりの仕方で使うように求める(が、国家にそんな権限はない)と自由主義者は反論するだろう。子供の教育の場合には例外があることを認める(広い心と理性的な反省の力を養うように教育だけは例外だとする)自由主義者もいるだろうが、この場合でさえも、消極的自由の権利には、子供がどう教育されるべきかを決定する権利も含まれると反論する自由主義者もいるだろう。


 別の自由論者の中には(クリストマンよりも)自由についての消極的な考え方の近くにとどまりながら、自由とはたんに非干渉の領域を享受することだけではなくて、そのような非干渉が保証されるある種の条件を享受することであると主張することで、自由の消極的な考え方を超え出ようと試みる人もいる (特に Pettit 1997, 2001, Skinner 1998, 2002)。そしてその条件の中には、民主的な憲法の存在や、政府が恣意的に権力を行使することに対する一連の予防措置が含まれるかもしれないし、さらには、市民の側に公民的な美徳が行われることも含まれるかもしれない。バーリンが認めるように、もし私が独裁制の中に暮らしていても、独裁者がたまたま、気まぐれをおこして、私に干渉しようとしなければ、私は自由である( Hayek 1960も参照のこと)。消極的自由と特定の政治形態との間には必然的なつながりは何もない。いま素描されている別の見解に立てば、市民一人一人が恣意的な権力の行使から独立していることを保証するような政治制度をもつ社会に私が暮らしている場合にのみ、私は自由である。クエンティン・スキナーは、古代のローマ人とルネサンス期および近代初頭の著述家の多くの自由についての考え方を引き合いに出して、自由についてのこうした見解を「ネオ・ローマ的」と呼んだ。フィリップ・ペティットは同見解を「共和的(republican)」と呼んだが、この名称が最近の文献では支配的になりつつある(Weinstock and Nadeau 2004; Larmore 2004; Laborde and Maynor 2008)。

 共和的な自由は一種の身分として考えることができる。自由な人間であるということは、共和国の市民であるという身分に与えられる権利と特権を享受することであり、不自由な人間の典型は奴隷である。自由はただ単に非干渉の問題なのではない。なぜなら、奴隷は、その主人の気まぐれで多大な非干渉を享受するかもしれないからだ。奴隷を不自由にしているのは、永続的に干渉を受けるという奴隷の身分なのである。奴隷が非干渉を享受していても、奴隷は、永続的に所有者の恣意的な権力に従属しているのだから、ペティットの言いかたを借りれば、「支配されている」のである。

 したがって、現代の共和主義者の主張によれば、自分たちの自由の見解は自由についての消極的な見解とは全く違うことになる。すでにみたように、非支配を享受することなく非干渉を享受することはある。逆に、ペティットによれば、非支配を享受しながら、干渉されるということはありうるが、それは、問題の干渉が、共和的な権力構造を通して、個人の利害・関心をつけ狙うようにならざるをえなくなる限りのことである。自由に対して敵対的なのは、権力そのものではなく、恣意的権力のみである。他方で、共和的自由は、バーリンが唱え批判した積極的自由とも異なっている。第一に、共和的自由は、美徳をもって政治に参加するということに存するわけではなく、むしろ、そのような参加は、非支配としての自由に道具的に関連しているからである。第二に、共和的な自由の概念はバーリンが恐れた抑圧的な結果のようなことに至ることはありえないからである。なぜならそれは非支配を約束するものであり、そこにビルトインされている自由主義的で民主的な諸制度を約束するものだからである。

 しかしながら、共和的な自由の概念が最終的には消極的概念と区別可能であるかどうかは不明であるし、自由についての共和主義の論者が、比較して長い目で見た場合、消極的な自由は、ある種の政治的な制度を通してもっともよく促進されるという趣旨の論拠を十分に提供したかどうかもまた不明である。消極的自由と民主的な政治体制との間に必然的なつながりは何もないが、両者の間には強力な経験的相関関係が存在するかもしれないのである。Ian Carter (1999, 2008), Matthew H. Kramer (2003, 2008), and Robert Goodin and Frank Jackson (2007) などは、こうした考え方にそって、共和的な政治形態は、自由についての標準的で消極的な理念に基づいて――その理念に対する概念的な異議申し立てに基づいてではなく――経験的にもっともよく定義されると論じた。彼らの論証の中で見どころがあるものと言えば、人がどの程度消極的な意味で自由であるかは、部分的には、その人が将来の行為(あるいは行為の組み合わせ)の実行を規制される確率次第である、という点である。恣意的な権力に服従する人々は、たとえ実際には干渉を受けていないとしても、恣意的な権力に服従していない場合に比べると、規制をうける確率はより高いのであるから、その分より不自由であるとみなすことができる。それに答えて、 Pettit (2008a, 2008b) と Skinner (2008)は、行為者の自由にとって重要なのは、他者が罰則をほのめかすことが不可能であることであって、彼らがそうする確率が低いことではないと主張した。

 政治的自由と社会的自由についてのもっとも最近の文献の多くは、自由についての共和的な考え方と自由主義的(つまり、消極的)考え方との違いについての上で示した論争に集中している。カーターとクレイマーの考え方に基づく、またはそれに共感する共和的考え方の批判は、 Bruin (2009), Lang (2012)、 Shnayderman (2012)に見出すことができる。ペティット自身は引き続き自分の立場を洗練させ、バーリンの立場とそれがどう関係しているのかをさらに論じている(Pettit 2011)。彼によれば、バーリン自身の消極的自由についての考え方は、制限的でホッブス的な見解と、非支配としての自由という拡張的な見解との間の本質的に不安定な立場を占めているという。ペッティットの自由の分析は支配そのものの概念についての研究に刺激を与えたが、とりわけ記述的概念としての支配と支配の最小化としての正義というフランク・ロヴィットの捉え方に刺激を与えた(Lovett 2010)。





」(つづく)







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