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積極的自由と消極的自由(その2) [探求]

  スタンフォード大学・哲学百科事典の「積極的自由と消極的自由」(イアン・カーター執筆)の第二章である。


 この章は、「積極的自由」の概念が独裁的な考え方に至るというバーリンの自由論の核心部分に焦点を合わせている。自由がとてつもない不自由を生み出すということはパラドクスに違いないが、20世紀の世界はこのパラドクスに満ちていたのであるから、この自由論はたんなる机上の空論に終わらないし、分裂した自己という具体例にそくして展開される説明は、非常に理解しやすい。だから、バーリンの自由論はいまだに読まれているのだろう。

 



Positive and Negative Liberty. By Ian Carter

First published Thu Feb 27, 2003; substantive revision Mon Mar 5, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/liberty-positive-negative/




 2. 積極的な自由のパラドクス



 バーリンを含む多くの自由主義者は、自由の積極的な概念には独裁制の危険が伴うと主張してきた。抑圧の状態にある半永久的少数派の運命を考えてみよう。この少数派のメンバーは多数派の規則によって特徴づけられる民主的なプロセスに参加しているので、彼らは、自分自身の問題に対して自己統制(コントロール)の力を行使する社会のメンバーであるという理由で、自由であると言えるかもしれない。しかし、彼らは抑圧されているのであり、したがって確かに不自由である。おまけに、ある社会が、自己統制(コントロール)がとれているからといって、必ずや民主的であるということはない。社会についての有機的な考え方を採用するならば、集団は生きた有機体として考えられるべきであるが、この有機体は理性的にのみ行為し、自己自身をコントロールしているが、そのさまざまな部分は賢明な統治者(今のメタファーを広げれば、有機体の頭脳として考えることができよう)によって考案された何らかの合理的なプランに合わせて統率されることになる。この場合、多数派でさえも自由の名の下に抑圧されることになるかもしれない。


 自由の名の下に抑圧をこのように正当化することは、自由主義者の想像力のたんなる産物なのではない。独裁的な政治指導者によってこうした正当化が是認された悪名高い歴史的実例があるからである。バーリン自身は自由主義者で冷戦の時代に執筆活動をしていたが、彼は、自己統制・自己実現としての自由という一見崇高に見える理想が二十世紀の全体主義の独裁者たち――とくにソ連の独裁者たち――によって、自由主義の西欧諸国よりも、自分たちこそが自由の真の擁護者なのだと主張するために、ねじ曲げられ歪められた実態に、明らかに心を痛めていた。バーリンによると、滑りやすい坂道を進んでこうしたパラドクスに満ちた結論に至るのは、分裂した自己の観念とともに始まる。具体例を挙げよう。前に挙げたスモーカーが、分裂した自己の明白な実例を提供する。なぜなら、あのスモーカーは約束した会合に行きたいと願う自己であるとともに、タバコ屋にも行きたいと願う自己でもあり、それら二つの願望は葛藤状態にあるからである。これらの自己の一方――約束を守る自己――の方がもう一つの自己よりも優れているとすることで、あの物語をもっともらしく膨らませることができる。約束を守る自己は「より高次な」自己であり、タバコを吸う自己は「より低次な」自己である。より高次な自己は理性的で反省する自己であり、道徳的行為が可能で自分のしたことに対して責任をとれる自己である。これこそ真の自己である。なぜなら、理性的な反省と道徳的な責任こそが人間を他の動物から区別する人間ならではの特徴だからである。他方で、低次の自己は欲求の自己、反省しない欲望と非理性的な衝動の自己である。すると、人が自由であるのは、その人の高次で理性的な自己が統制権を握っていて、自分の欲求や自分の単なる経験的な自己の奴隷になっていないときである。滑りやすい坂道の次のステップは、個人の中でもある者は別の者よりも理性的で、したがって自分や他人の理性的な利益にかなうものをもっとも良く知ることができるということを指摘する点にある。それにより、理性的な人々は次のように言うことができるようになる。つまり、自分たちは、自分よりも理性的ではない人々に、理性的なことをするように、それにより、真の自己を実現するように強いることによって、実は彼らの単なる経験的な欲望から彼らを解放してやっているのだ、と。バーリンによれば、ときに、積極的自由の擁護者は更なるステップを踏んで、自己を個人よりも広いものとして、社会の有機的な全体によって表象されるもの――「部族、民族、教会、国家、さらには、生きている者や死んだ者やまだ生まれていない者から成り立つ大きな社会」――として考えようとする。個人の真の利益はこの全体の利益と同一視されるべきであり、諸個人はこうした全体の利益を満たすように強制されうるし強制されるべきである。なぜなら諸個人は、強制者と同じほど理性的で賢明であるならば、その強制に逆らわないだろうからである。バーリンは次のように言う。「いったん私がこの見解をとるならば、私は人々や社会の実際の願望を無視し、彼らの本当の自我という名の下に、そしてその自我のために脅し、抑圧し、拷問することができるようになる。人間の真の目標であるものは何であれ……人間の自由と同一でなければならない、という確固たる知識をもっているからである」 (Berlin 1969, pp. 132–33)。


 消極的自由の陣営にいる人々は、最初のステップの段階で、つまり自由と欲望の間に必然的な関係があることを否定することによって、この推論を崩そうと努める。彼らによれば、人が自由なのは何をするにしても外部から妨げられない限りでのことであるから、人は、したいとは思わないことも自由にすることができる。もし自由であることは自分の願望の実現を妨げられないことを意味するならば、またもや逆説的なことだが、自由にできないことをだんだん望まなくなることによって、人は自分の不自由を減らすことができる、ということになるだろう。人は、自分の置かれた状況にただ満足することによって、自由になることができるということになってしまうだろう(以上の二つの文は、原文では、仮定法過去で書かれている。つまり、こういう結論は不合理だということが意味されている)。もしそうであるならば、完全に満足した奴隷は完全に自由に自分の欲望のすべてを実現することができることになる。だが、奴隷であることは、自由とは正反対の状態であるとわれわは考えがちである。もっと一般的に言うと、自由は幸福と混同されるべきではない。なぜなら、論理的に考えると、自由な人間が不幸になったり、不自由な人間が幸福になったりするのを妨げるものは何もないからである。幸福な人間が自由であると感ずることはあるだろうが、その人が自由かどうかはまた別問題である(Day, 1970)。したがって、消極的自由の理論家たちが言いがちなのは、自由をもつことは、自分の願望通りの行為を妨げられないということではなく、したいと願っていることが何であれ、それを行うことを妨げられないことを意味する、ということである。

 積極性自由の理論家中には勇気をふるって次のように言う者もいる。つまり、満足した奴隷は、実は、自由なのである――自由であるために、個人は、ある種の単に経験的な願望を思い通り支配することよりも、取り除くようにならなければならない、と。言い換えると、個人は可能な限り多くの願望を捨てなければならない。バーリンが言うように、もし私が足をけがしているなら、「苦痛から自由になる方法は二つある。一つは傷を治すことである。しかしもし治療があまりに難しかったり不確実である場合は、別の方法がある。私は、自分の足を切り離すことによって傷を取り除くことができるのである」 (1969, pp. 135–36)。これは、苦行者、ストア派や仏教徒の賢者によって採用された解放の戦術である。それは「内面にある砦――魂や純粋に理性的な自己――への引きこもり」を含むが、そこで個人は、いかなる外的勢力の影響を受けることはない。しかしこの状態が達成されることがあっても、それは自由主義者が自由の状態と呼びたくなるような状態ではない。なぜなら、それはまた重大な抑圧を覆い隠してしまいかねないからだ。結局、個人が、自分に与えられなかった世俗的な善や快楽など本当は望んではいないと自分に言い聞かせながら、自分の内部に引きこもるのは、社会に溢れるほどある外的な制限と折り合いをつけようとするときなのである。おまけに、欲望の放棄は、洗脳のような外部の力が加わった結果であるかもしれないし、それをわれわれは自由の実現と呼ぼうとはほとんど思わないだろう。


 消極的自由の概念は、諸個人が影響を及ぼし合う外的な領域に関心を集中するので、それは、バーリンが見たパターナリズムや専制政治の危険に対してより良い保証を提供してくれるように思われる。消極的な自由を推進することは、個人が主権をもつような行動の領域の存在を促進することである。その領域の中で、個人は自分自身の計画を追及でき、唯一服さなければならない制約は他者の領域を尊重せよという制約だけである。フンボルトとミルはどちらとも消極的自由の概念の擁護者であったが、彼らは個人の発達を植物の発達になぞらえた。個々人は、植物と同様に、自分自身の能力を十分に自身の内的な論理にしたがって発達させるという意味での成長を許されなければならない。人間的な成長は外部から課されることができず、個人の内部に由来しなければならないものである。


」(つづく)













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