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積極的自由と消極的自由 (その1) [探求]

 最近、ある必要から、アイザイア・バーリンの二つの自由概念の論文を読む機会があったので、それに関連して、スタンフォード大学の哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)の ”Positive and Negative Liberty” の項目にも目を通してみた。読むだけではもったいないので、私訳をここに掲載しようと思い立った。かつては随分したんだけどね、最近はまったくのご無沙汰。久しぶりである。


 相変わらず、この項目も長大で、7章構成になっている。一つの章ごとにアップすることにする。


Positive and Negative Liberty. By Ian Carter

First published Thu Feb 27, 2003; substantive revision Mon Mar 5, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/liberty-positive-negative/



「  

 積極的自由と消極的自由 (その1) 



 消極的自由とは、障害や障壁や制約が存在しない状態である。人は、この消極的な意味での行為が可能であるかぎりにおいて、消極的自由を有する。積極的自由とは、自分の生命をコントロールし自分の根本的な目的を実現しようとする仕方で行為する可能性――または、行為しているという事実――のことである。消極的自由は個人的な行為者に帰されるのが通常であるが、積極的自由は集団や、主として特定の集団のメンバーとして考えられる個人に帰されることがしばしばある。
 
 「自由」という語の消極的意味と積極的意味を区別するという考え方は、少なくともカントにまでさかのぼるが、その考え方を深く考察し擁護したのは1950年代と60年代のアイザイア・バーリンであった。積極的自由と消極的自由についての議論は、通常、政治哲学や社会哲学の文脈の中でなされる。それらは、自由意志についての哲学的議論とは異なるものだが、しばしば関連づけられることもある。積極的自由の本質についての研究は、自律性の本質についての研究とオーバーラップすることがしばしばある。

 バーリンが示したように、消極的自由と積極的自由は単に自由の異なる二つの種類であるだけではない。それらは、単一の政治的理想についての競合する、両立不可能な解釈と見なすことも可能である。自由に反対する主張を掲げる人はほとんどいない以上、自由という語が解釈され定義される仕方は重大な政治的意味合いをもちうる。政治的な自由主義は自由の消極的な定義を前提しがちである。自由主義の人々は、一般的に、もし個人の自由を優先するのであれば、国家の活動に強い制限をかけるべきであると主張する。自由主義の批判者は、自由の消極的な定義に反対することによって、この自由主義の主張に反対する。彼らによれば、自己実現として、あるいは自己決定として理解された自由の追及は、自由主義的な人々によって通常は認められない国家の介入を要求することがあるから、というのである。

 多くの論者は、libertyではなくfreedomという語を好んで使おうとする。しかし、これは文体的な違いにすぎず、libertyとfreedomという語は、政治哲学者や社会哲学者によって交換可能な語として使用されるのが通例である。libertyとfreedomを区別しようとする試みがなされたこともあるが (Pitkin 1988; Williams 2001; Dworkin 2011)、一般的には受け入れられなかった。それに、その二つの語はヨーロッパの別の言語に翻訳されることができない。英語は自由を表する二つの語を含んでいるのに対し、ヨーロッパの言語は、 (たとえば、 liberté, Freiheitのように)ラテン語系かゲルマン語系の一つの語しか含んでいないからである。


1. 自由の二つの概念。
2. 積極的自由のパラドクス。
3. 第三の道を生み出す二つの試み。
4. 一つの自由概念:3項関係としての自由。
5. 制約についての分析:そのタイプとその源。
6. 包括的な自由という概念。
7. 区別はまだ有益か?




1. 自由の二つの概念



 いまあなたは町をドライブして道の分岐点に差し掛かったとしよう。あなたは左折するが、どちらかの道を選ぶように誰かから強制されたわけではなかった。次にまた交差点に差し掛かったとしよう。あなたは右折するが、左の道を行くことや直進することを誰かから妨げられたわけでもなかった。大した交通量ではないし、迂回路や警察のバリケードもない。だからあなたは、ドライバーとして完全に自由であるように見える。しかし、もし左折してから右折した理由が、あなたがたばこ中毒者で店が閉まる前に煙草屋に何としても着きたいと思っていたからだという点を考慮するならば、あなたの置かれた状況についてのイメージは全く劇的に変わるだろう。たばこを吸いたいという強い欲求にどうしようもなく動かされて、あなたは左折した後に右折したのだから、あなたは車を動かしているというよりは、あなたは動かされていると感じているのだ。おまけに、交差点で右折すれば、とても大事な会合のある場所に行く列車に乗り遅れてしまうことをあなたはまったくよく判っていた。あなたの長生きを脅かすだけではなく、そうすべきであるとあなたが考えることの実行を妨げるこの不合理な欲求から自由になりたい、とあなたは願っている。

 この物語は、自由についての二つの対照的な考え方をわれわれに与えてくれる。一方で、自由とは、行為者にとって外的な障害が存在しない状態であると考えることができる。したいと思っていることが何であれ、それをすることを妨げる人がいないならば、あなたは自由なのである。上の物語では、あなたは、この意味では、自由であるように思われる。他方、自由とは、行為者の側にコントロールする力が存在していることであると考えることもできる。自由であるためには、あなたは自己決定することができるのでなければならず、それはつまり、あなたは自分自身のために自分自身の運命をコントロールすることができるのでなければならない、ということである。上の物語であなたは、この意味では、不自由であるように思われる。あなたは自分でも止めたいと思い、自分の本当の利益であると認識していることの実現を妨げている欲求をコントロールできていないのだから、あなたは自分自身の運命をコントロールしていないのである。最初の見解に立てば、自由とは行為者にとってどれほど多くのドアが開いているかという問題にすぎないが、第二の見解に立てば、自由とは、正しい理由のために正しいドアを通り抜けるという問題である、と言えるだろう。


 1958年に発表された有名な試論において、アイザイア・バーリンはこれら二つの自由概念を消極的自由と積極的自由と呼んだ (Berlin 1969)。これらの名称を使う理由は、最初のケースで自由は、あるもの(つまり、障害や障壁や制約や他者の干渉)が単に存在しないことであるのに対して、第二のケースで自由は、あるもの(つまり、コントロール、自己統制、自己決定、自己実現)が存在していることを求めるからである。バーリンの言葉を使うと、われわれが自由の消極的な概念を使うのは、「他者による干渉なしに、主体――人間、あるいは人間の集団が――、することができるものをなし、なれることができるものになれるように任される、あるいは任されるべき領域とは何か?」という問いに答えようとするときであるのに対して、われわれが積極的な概念を使用するのは、「誰かが、あれではなくむしろこれをしたり、あれではなくむしろこれになろうとするように決定するコントロールあるいは干渉の源は何か、あるいは誰か?」という問いに答えようとするときなのである (1969, pp. 121–22)。
 

 自由の二つの概念の違いを、行為者にとって外的な要因と内的な要因の違いによって考えることは有益である。消極的自由の理論家が主に関心を寄せるのが、個人や集団が外的なものからの干渉をどれほど蒙っているかという点にあるのに対して、積極的自由の理論家は、個人や集団がどれほど自律的に行為するかに影響を及ぼす内的要因の方により敏感なのである。このように分けると、積極的自由に対する関心は、政治的・社会的制度よりも心理学や個人的道徳の方に関連性をもつので、政治哲学者はもっぱら消極的自由に関心を集中させるべきである、と考えたくなるかもしれない。しかし、そう考えるのは早計というものだろう。なぜなら、政治哲学で最も熱く議論される問題には次のような問題があるからだ。それは、「自由の積極的概念は政治的概念なのか?」という問いであり、「個人や集団は政治的行動を通して積極的自由を獲得できるのか?」という問いであり、「国家が市民のために市民の積極的自由を推進することは可能なのか? もし可能であるとしても、国家がそうすることは望ましいことなのか?」という問いである。西洋の政治思想史の古典的な著作は、こうした問いに対していかに答えるべきかについて見解が分かれている。コンスタン、フンボルト、スペンサー、ミルのような古典的な自由主義の伝統にある理論家たちは、こうした問いに対して「ノー」と答える者として、したがって、政治的な自由の消極的な概念を擁護する者として分類されるのが通例である。ルソー、ヘーゲル、マルクス、T.H.グリーンのように、この伝統に批判的な理論家たちは、「イエス」と答える者として、政治的自由の積極的概念を擁護する者として分類されるのが通例である。

 政治的形態における積極的自由は、ある集団を通して必然的に達成されるとしばしば考えられてきた。多分そのもっとも明白なケースはルソーの自由論である。それによると、個人の自由は、その個人の帰属する共同体が「一般意志」を通して、その共同体自身の問題に対して集団的なコントロールを行使するプロセスに参加することによって、達成される。単純な言葉で言い表すと、民主的な社会が自由な社会であるのは、それが自己決定できる社会だからであり、社会のメンバーが自由であるのは、その人が民主的なプロセスに参加する限りにおいてである、と言えるだろう。しかし、積極的な自由の概念が個人主義的に適用される場合もある。例えば、政府は、諸個人が自足したり自己実現を達成するための必要条件を生み出すことを積極的に目指すべきである、としばしば言われる場合がそれである。他方で、自由の消極的な概念は、移動の自由や宗教の自由や言論の自由のような自由主義的で民主的な社会に典型的な「憲法上の自由」を自由主義者が擁護するときや、パターナリスティックな、あるいは道徳的な立場からの国家による干渉に反対する議論において、前提されるのが普通である。それはまた、私有財産を擁護するときにも使われるが、私有財産が必然的に消極的自由の価値を高めるという主張に反対する人もいる (Cohen, 1991, 1995)。


 バーリン以降で、自由の消極的概念の分析でもっとも広く引用され追及された考察には、 Hayek (1960), Day (1971), Oppenheim (1981), Miller (1983) and Steiner (1994)などがある。自由の積極的概念の分析で最も優れた現代の考察には、 Milne (1968), Gibbs (1976), C. Taylor (1979) and Christman (1991, 2005)などがある。 



 」 (つづく)








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