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エヴァンゲリオン(福音)とは  ― その1 [探求]

  「エヴァンゲリオン」という言葉のそもそもの意味について、最近調べることがあったので紹介してみようと思った。おそらく、たいていの人が知らないことが出てくると思う。少し長くなるので、二回にわけてみる。


 ちなみに、標準的な国語辞典の「福音」の項には、「1.喜びを伝える知らせ。よい便り。「―をもたらす」。 2.イエス=キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ」という説明が載っている(http://dictionary.goo.ne.jp/jn/191522/meaning/m0u/)。まあ、そうには違いないが、どうにもつまらない、こういう説明。


 しかし、「つまる」説明をするためにも、最低限の「つまらない」説明はしなくてはならない。たとえば、言葉の成り立ちについて、最低限のことは述べておかなければならないが、ここでは、手間を省くために、wikiの記述をほぼそのまま流用する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%BF)。つまり、


 「 福音(Evangelion エウアンゲリオン)は、ギリシャ語 εὐαγγέλιον, euangelion に由来する言葉で「良い(euエウ- 、"good")知らせ(-angelion アンゲリオン、"message".)」を意味する。これを英語に直訳すると、good news となる」。


 おそらく、明治期の人が「福音」という訳語を採用したのだろうが、いまでは「福音」といわれてピンと来ない人のほうが多いだろう。 いずれにせよ、「良い知らせ」、「吉報」、「朗報」が元来の意味である。マタイ福音書と大体同じ時期(紀元80年ごろ)に書かれた『ユダヤ戦記』でも、次のような普通の意味で使われている。


 「東方における皇帝誕生の知らせは思うよりも早く広まった。どの都市もこの良き知らせ(euaggelia)を祭りでもって祝い・・・」(『ユダヤ戦記2』秦剛平訳、筑摩学芸文庫2002、p.253)。


 「ウェスパシアノスがアレクサンドリアへ到着すると、ローマからの吉報(euaggelia)と、いまや自分のものになった世界の各地からやって来た祝賀の使節たちとに迎えられた」(『ユダヤ戦記2』、p.261)。

 
 (ちなみに言っておくと、上の二箇所で、同じeuaggeliaに対して別の訳語が使われているが、なぜそうするのかよく判らない。あえて訳し分ける理由はないと思うのだが)。
 



 こうした用法はすでにホメロスのうちに確認できるが、ローマの時代になると、主に、ローマ皇帝の誕生や即位に関連して使われることが多くなったようだ。皇帝は神と同一視されるので、皇帝崇拝の意味をを込めて用いられたのである。


 
  
 先日、Theologisches Wörterbuch zum Neuen Testamentという新約聖書の専門家しか読まないような辞書を調べていたら、euangelionの項目が面白くて、ついつい引き込まれてしまった。私は聖書の専門家ではないが、最近は、福音書の研究にのりだしているので、こういう辞書を時折読んでいるのである。

  とくに興味深い箇所を以下に示そう。辞書というと堅苦しい説明に終始するのが通例だが、とりわけ最後の部分では、“euaggelion”がとても生き生きと描写されている。


 「皇帝は普通の人間以上の存在なので、皇帝の命令は喜ばしい知らせであり、皇帝の発表したものは聖なる文書である。皇帝が語るものは神的な業であり人々にとって幸運や救いを意味する。皇帝は現われることにより“euaggelion”を告知するのであり、その“euaggelion”の主題は皇帝である。最初の福音は皇帝の誕生の知らせだった。「世界にとって、神の誕生日が、そのために発布される福音の最初だった」。別の“euaggelion”がそれに続く。皇位継承者が成人になった知らせや、とりわけ皇帝が即位する知らせがそうした喜ばしい知らせなのである。その知らせは喜びや歓喜をひきおこす。重い負担にうめき苦しむ民衆は平和を待ち焦がれている。神々は世界から退いてしまったがゆえに、もう自分には破滅しかないと人々は思っている。そのとき、救世主が誕生した、皇位についたという知らせが響きわたると、全世界にとって新たな時代が始まるのだ。この“euaggelion”は、供犠や祝祭とともに祝われる。これまで人々が胸に抱いてきたどんな希望をもはるかにしのぐ希望である。世界の外観が一変したかのようである」。



 途中でカッコつきで引用されているのはプリエネという場所で出土した碑文の文章である。「神の誕生日」の神とはローマ皇帝のこと。皇帝に関連して何度も「福音」が発布されるが、その最初は誕生日を知らせる「福音」であると述べられている。



 最初の福音書であるマルコ福音書が書かれたのは紀元70年前後だと推測されている。当時のパレスティナは戦争状態にあった。その状態に終止符を打ち皇帝の座についたのがウェスパシアヌス。


 ウェスパシアヌスは、ローマ皇帝の権威の源泉とされたアウグストゥスの血統とは無縁であったため、その即位が神意に適うことを印象づけるために、多くのプロパガンダを流布させ、予言者を動員した。ウェスパシアヌスがアレクサンドリアで行った盲人や障害者に対する奇跡治療が大いに話題となり、そのためウェスパシアヌスはエジプトでは「神の子」として迎えられた。


 さきほど引用した『ユダヤ戦記』の著者のヨセフスも、こうしたプロパガンダに貢献した一人だった。ヨセフスはユダヤ軍の指揮官としてユダヤ戦争を戦ったユダヤ人だったが、ローマ軍に投降後、一転して、ウェスパシアヌスを前にして、あなたこそ全世界の支配者(=メシア)になるお方だという預言を行う 。ヨセフスは、ウェスパシアヌスの厚遇を得るために、ユダヤ民族に固有であるはずのメシア待望論をウェスパシアヌスに当てはめることで、皇帝即位を正当化するプロパガンダの最前線に躍り出たのであった。


 内戦状態に疲弊していたパレスティナの人々の間でも、平和への欲求は高かっただろうから、内戦状態を終わらせてくれる皇帝誕生の「福音」を待ち望む人々が少なからずいただろう。そのような「福音」の預言が各種出回るようになったことが、ウェスパシアヌスを皇帝へと押し上げる潜熱となったことは容易に想像できる。


 先ほどの辞書の記述をここに転用するならば、「救世主が誕生した、皇位についたという知らせが響きわたると、全世界にとって新たな時代が始まるのだ。この“euaggelion”は、これまで人々が胸に抱いてきたどんな希望をもはるかにしのぐ希望だった。世界の外観が一変したかのようであった」。


 いつの世にも、大多数の人々は、そのときの支配者を訳もなく有難がるものである。そんな雰囲気がローマ帝国を包む中、まったく違った考えを抱く一握りの人々がいた。その人々は、おそらく、ヨセフスのような預言をばらまいて権力者に取り入ろうとする人間たちをまったく信用していなかった。マルコ福音書の次の一節は、まさにヨセフスに向って投げつけられたかのように見える。そして、そんな「福音」に浮かれるローマの人間、ユダヤの人間すべてに向けられているかのように見える。


 「『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言うものがいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」(13:21-22)。



 そして、その人々は、自分たちの信仰の中心となる人の生涯を記す書を、次のような言葉で開始する。



 「神の子イエス・キリストの福音の初め」。



 ここで注意してほしいのは、「神の子」、「キリスト(メシア、救世主と同じ意味)」、「福音」といった言葉は、ローマ皇帝を賛美する言葉としてごく普通に使われていた言葉であるということである(「キリスト」は別だが、救世主と読み替えてほしい)。つまり、普通はローマ皇帝に使われた言葉を、その対極にいるような人間であるイエスに転化して使ったのである。イエスといっても、第三者的に見れば、パレスティナの片田舎出身の教養のない貧乏人で、無残な末路をたどった犯罪者にすぎない。そんな人間に「福音」という語を使うこと自体が、ローマの権威筋が見れば、不敬の極みに映ったことだろう。

 そこには、明らかに、政治的な意図があった。「神の子」、「救世主」と呼ばれるに値する存在は一体だれなのか? その名にふさわしい存在はだれなのか? ローマ皇帝がどれほど偉いというのか? 


 こうした不遜で挑戦的とも言える価値観の転倒が、「福音」という語には込められていた。しかし、支配権力を批判する者は、弾圧の対象となることを覚悟しなければならない。だから、「福音」の書は、死の危険を覚悟で書かれたにちがいないし、「福音」という語そのものに死の覚悟が込められていた。

 その点については、次回に述べることにしよう。





                  
                                            (つづく)
               
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