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『未知との遭遇』再見 [雑感]

 ある必要があって、久しぶりに『未知との遭遇』を観た。

 私は、実は、封切り当時に観ているのだが、多くの人と同じようにあの巨大なマザーシップの映像に圧倒されたという以外に特別な感慨をもたなかった。今回あらためて観て得た感想は、この映画は意外に理解するのが難しいなあというものだった。というよりまるでストーリーとしてのまとまりがないように思えた。そこで少し調べてみて何となく判ったことがあったので、少しまとめてみた。



1. 映画の発端

 この映画の発端は、若い頃、スピルバーグが父親と一緒にニュージャージー州で流星群を見た体験に遡るという(『未知との遭遇』のアメリカ版Wikiによる。http://en.wikipedia.org/wiki/Close_Encounters_of_the_Third_Kind#cite_ref-Dreyfuss_4-11)。

 この映画でもっとも印象深いシーンは、最後に姿を現すマザーシップの威容であるとしても、地味ながらそれに劣らないくらい印象深いのは、バリー少年の家が満天の星くずの空に包まれるあの静かな夜の情景ではないだろうか。久しぶりにこの映画を観て、最初のいかにもSF的な砂漠のシーンなどはまったく記憶に残っていなかったが、バリー少年の家に場面が移った瞬間に、「こんなシーン確かにあったな」と瞬時に既視感がよみがえった。


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(満天の星空のもと、ひっそりとした家)



 満天の星。スピルバーグが流星群を見たときは父親と一緒だったが、バリー少年にはなぜか父親がいない。まだ単語を断片的にしか話せないので、少年は星に向かって祈ることはできないが、いずれ言葉を自由に操れるようになれば、彼には、祈ることが沢山あるのではないだろうか? 映画では、バリー少年の母とロイがよい関係になるかに見えて、最後には別の道へと別れてしまう。バリー少年は、やはり母と二人っきりになってしまう。ここには、スピルバーグ自身の両親が離婚したことが反映しているようだ。そうした個人的な事情は、また後で戻ることにする。

 



2. 比喩としてのシナイ山?


 そもそも、この映画を改めて観ようと思ったのは、栗林輝夫著『シネマで読む旧約聖書』(日本キリスト教団出版局)を読んだのがきっかけだった。

 UFOとの遭遇後に、主人公のロイ・ニアリーやバリー少年が何か山のようなイメージにとりつかれて、山を描いたり土で作ったりするのだが、その山とはシナイ山のことだという説があるようだ。映画の最初にテレビの画面でセシル・B・デミルの『十戒』が少しだけ映るのは、映画全編の内容を先取りしたものであるのだろうか? 栗林氏は同書で、とあるアメリカの映画批評家の言葉を引用しているが、それによると、「この映画がただのSF作品ではなく「暗い旧約聖書の雲の中から現われた光輝く神」と人類の出会いを、異星人の宇宙船に託してつづった聖書物語りである」のだという(同書91ページ)。


 そうか、そういえばスピルバ-グはユダヤ系だったな。スピルバ-グは聖書の主なエピソードを幼少の頃から嫌と言うほど聞かされていたにちがいない。だから、スピルバーグの映画に聖書のエピソードが紛れ込んでいても何の不思議もない。『未知との遭遇』は『出エジプト記』の現代版だったのだろうか・・・・・? 


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(シナイ山への神の降臨??)



 ただし、具合の悪いことがあって、それは『未知との遭遇』と『出エジプト記』はそれほど対応してはいないし、もっとはっきり言ってしまうと、ぜんぜん似ていないということである。ロイはシナイ山を目指すモーセなのだろうか? しかし、そもそもモーセ一行はシナイ山を目指したのではない。シナイ山は、あくまでモーセが神の言葉を取り次ぐために単身登って行った中継地点であって、モーセ一行の真の目的地は「約束の土地」カナーンである。そうした共通の目的があるからこそ、イスラエルの民は40年の長きにわたって荒れ野をさまようという過酷な試練を耐えることができた。しかし、何かそれに類する共通の目標がロイとその一行にあっただろうか? ロイとあのバリー少年やその母親ジリアンとの間に何か共通するものがあっただろうか? たぶん何もないのである。ロイが目指していることは、何か他人には理解できない個人的な妄想に近いものとしてしか描かれていないので、それは共有されるものではなかった。だから、最後にロイは宇宙船に乗り込み、バリーとジリアンは地上に残る、という具合に別々の道を歩む。シナイ山で神との契約を交わした後で、イスラエルの民は改めて心を一つにしてカナーンへの道を歩み始めるのだが、『未知との遭遇』には、そうしたことが何もない。遭遇して終わりである。こうした点が『未知との遭遇』のすっきりとした理解をはばむ要因になっているように思われるし、『出エジプト記』との類比を不可能にする要因にもなっている。シナイ山という比喩をスピルバーグが実際考えていたとしても、それはこの映画ではうまく生かされているようには思えないのである。 


 

3. ピノキオあるいはヨナ



 もう一つ、隠し味的に『ピノキオ』のモチーフが使われていることも見逃せない。冒頭で、ロイが「子供ならピノキオを観るべきだ」となぜか子供に向かって怒鳴り散らす。映画の中盤で、山のイメージに取り憑かれたロイが、UFOの新聞記事を片付けるときに、ピノキオのオモチャが現われ「星に願いを」のメロディーを奏でる。


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(山への執着をあきらめようとした途端、「星に願いを」のメロディーが流れロイの心は揺れる)




 「星に願いを」は1940年のディズニー映画『ピノキオ』の主題歌としてジミニー・クリケット(コオロギ)が歌った。ロイは、奥さんから皮肉を込めて「ジミニー・クリケット」と呼ばれる。


 『未知との遭遇』の脚本を書いているとき、スピルバーグは「星に願いを」のムードを映画の基調としたようだ。「僕はこの映画のストーリーをこの歌が生み出されたムードに結びつけた、その歌が僕に個人的な影響を及ぼした仕方にね」(『未知との遭遇』のアメリカ版Wikiによる)。



 ここで「星に願いを」の歌詞を掲げておこう。


When You Wish Upon a Star
 

When you wish upon a star
Makes no difference who you are
Anything your heart desires
Will come to you

If your heart is in your dream
No request is too extreme
When you wish upon a star
As dreamers do

Fate is kind
She brings to those who love
The sweet fulfillment of
Their secret longing

Like a bolt out of the blue
Fate steps in and sees you through
When you wish upon a star
Your dream comes true
    
   

星に願いを  

星に願いをかけるとき
あなたがどんな人間かは問題ではない
あなたの心が望むどんなことも
あなたのもとにやって来る

あなたの心が夢を見るとき、
どんな願いも遠すぎることはない
夢を見る人がそうするように
あなたが星に願いをかけるとき

運命の女神は優しくなる
女神は愛する人々が
心ひそかに思うことを
優しく実現してくれる

晴れわたる空に稲妻がとどろくように思いがけなく
運命の女神はやって来てあなたを支えてくれる
あなたが星に願いをかけるとき
あなたの夢は叶うのだ




 
 一途に願いを込めれば、それは実現するというのか? ロイもバリーも山のイメージに憑かれたようになる。彼らの願いは実現したのだろうか? ロイは最終的に宇宙船に乗り込むのだから、彼の夢は実現したように見える。しかし、それがロイの夢だったのか? でも、なぜロイはそのような夢を抱くようになったのか? そして、バリーの夢は? バリーも宇宙船に乗り込むことを夢見ていたのだろうか? 確かにそうかもしれないが、なぜ母親の制止を振り切ってまで宇宙船に乗り込もうという夢をもつようになったのか? 実は、そのような動機の部分について、映画は何も語っていないのである。


 ここで、『ピノキオ』からそのオリジナルに目を移してみよう。『ピノキオ』のモチーフは旧約聖書の『ヨナ書』から取られている。『未知との遭遇』に『出エジプオ』の比喩を見い出す人がいるくらいだから、『ヨナ書』のモチーフを見い出す人がいてもおかしくはないと思うのだが、どうも誰もそうしようとはしないようだ。もちろん『ヨナ書』をもち出してきても、あまり違いはないと言えるかもしれないが、「星に願いを」の楽天性に比べると、ヨナの置かれた状況がひどく絶望的であることを知るだけでも、『ヨナ書』を考慮に入れる価値はあると思う。次に引用する箇所は、ヨナが荒れ狂う海を鎮めるための生け贄として、海に放り投げられた直後の場面である。



 「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。
 苦難の中で、わたしが叫ぶと
 主は答えてくださった。
 
 陰府(よみ)の底から、助けを求めると
 わたしの声を聞いてくださった」(『ヨナ書』2:1-3)。


 
  巨大な魚の腹とは「深淵」の比喩であり、「陰府(よみ)」や「地の底」や「滅びの穴」とも言い換えられている。このように、ディズニーの作品としてならばあっさり見逃してしまうが、ピノキオの元になった作品の基調は非常に暗く絶望の色合いが濃い。それを背景にするからこそ、願いや祈りが意味をなすのである。しかし、前提となるこうした絶望的な状況が、『未知との遭遇』ではきちんと描かれていないために、ロイやバリーの「願い」が何であるのか、彼らの願いは叶ったのかという点も曖昧になってしまった。観る側からすれば、結局、そうしたヒューマン・ドラマの側面は意識から消え去り、SF的な要素のまばゆい煌きだけが記憶に残る映画になってしまったのである。


 
 
4. 両親の再会を願うスピルバーグの夢



  ただし、今回、アメリカのWikiを読んで、「ああ、そうだったんだ」と思ったことが一つあった。ジェームズ・リプトンがスピルバーグとのインタビューで、『未知との遭遇』にはスピルバーグにとって個人的なテーマがあったと指摘して、次のように述べた。


 「あなたの父はコンピュータ・エンジニア、あなたの母はコンサート・ピアニストで、宇宙船が着陸するとき、コンピュータ上で音楽が奏でられますよね」。



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(メロディーのキャッチボール。スピルバーグにおける母的なものと父的なものが結び合う)



 コンピュータを介して、人間と異星人が同じメロディーを奏でる。そこに、父(コンピュータ)と母(音楽)が一体となることが含意されているのだという。そして、ロイ・ニアリーが最後に宇宙船に乗り込むことには、スピルバーグが再び両親と一緒になりたいという願望が込められていたのだという。この解釈にスピルバーグがどう反応したかは書かれていないが、書かれていないのだからおそらく同意したのだろうと推測される。




 父が去った後のスピルバーグの少年時代は、巨大な魚の腹にいるヨナのようなものだったのではないかと推測される。そうした救いのない状況は、『未知との遭遇』では直接描かれてはいないが、断片的に、バリーの母と子の二人きりの孤独な生活だったり、家庭生活から逸脱していくロイの妄想という形で示唆されている。そして、彼らを通して、彼らがシナイ山へと集結する模様を描くことで、スピルバーグは両親との再会を思い描いていたのだろう。映画は何となくハッピー・エンドのような終わり方をしているが、実は、誰かが癒されたわけでもないし、救われたわけでもない。幸せな再会は実現されなかった。スピルバーグの父がついに戻ってこなかったように、バリー少年にも父親は現われなかった。ロイは、バリー母子から去って行った。バリー少年はまた元の孤独に戻るだろう。だが、夜空には数限りない星が瞬(またた)いているのだから、その星に願いをかけ続けていれば、実現しない夢もいつかは願いは叶うかもしれない。一時(いっとき)の結果が重要なのではない。


 だから、余分な要素を取り去って、この映画をヒューマン・ドラマとして見るならば、この映画の焦点は、個々の内容にあるのではないことが判る。それは「星に願いを」込める行為そのものにある。バリー少年が母親と一緒に星空を見上げるシーン、未知なる物体の再来を待ちわびて空を眺めるシーン、そして、最後に旅立つ宇宙船に向かって微笑みながら、また空を見上げるシーン、何よりもこれらのシーンをスピルバーグは撮りたかったのだろうと私には思われる。バリー少年が夜空を見上げるその視線には、スピルバーグが父と母の実現不可能な再会によせる願いが込められていたのである。



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(母と一緒に夜空を見上げる)

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(再来を待ちこがれる)

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(去っていく宇宙船を一心に眺める)








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