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映画の哲学・・・その三  [探求]

スタンフォード大学の「哲学百科事典」の「映画の哲学(Philosophy of Film)」の第三章を紹介する。ここでは、トリュフォーが提起した作家主義の是非が中心のテーマとなる。

 この続きは、別の私のブログにアップすることにしました。http://miksil.blog.so-net.ne.jp/2014-12-06



http://plato.stanford.edu/entries/film/







 3.映画と作家性


 映画は、多くの人が協働することによって成り立つ産物である。このことは、最近のハリウッド映画のどれでもいいが、最後に流れるクレジットを眺め、画面に流れる無数の名前を目にするとき明らかとなる。こんな言い方をしてよければ、映画を作るには一つの村が必要なのである(it takes a village to make a movie.)。


 したがって、映画の研究者の間には、映画を一個人の産物として、その作家が産み出す産物として扱う顕著な傾向があることは驚くべきことのように見える。この解釈に立つと、わたしたちはたとえば文学作品が特定の作者によって生み出されると考えているが、映画の監督は、それと類似した仕方で、映画の全体を形成する創造的な知性であることになる。


 監督を作家とみなす考え方は、最初、フランソワ・トリュフォー――後にフランスのヌーベル・バーグの中心の監督の一人となった――によって提起された。トリュフォーはこの言葉を、偉大な文学作品を映像化することに重きを置く当時支配的だった映画製作のあり方をやり込める論争の一環として使用したのであった。別の映画製作もあるのだということを示そうとする中で、トリュフォーは、芸術とよばれるにふさわしい唯一の映画は、監督が俳優を指導しながら脚本も書くことでその作品を完全にコントロールしているような映画なのだと主張した。そのようにして創られた映画のみが芸術作品という称号を与えられるにふさわしい、というのであった。


 アメリカの有名な映画学者であり批評家でもあったアンドリュー・サリスは、映画研究をアカデミックな学問として正当化するためにトリュフォーの理論を採用した。サリスにとって、作家理論とは映画を評価するための理論であった。なぜなら、それは、偉大な監督の作品だけが意義のある作品であると主張したからである。いく分サリス独特の使用法なのだが、サリスによれば、メジャーな監督の欠陥のある作品の方がマイナーな監督の傑作よりも芸術的には優れているのであった。サリスの考え方のもっと擁護できる側面は、監督によって産み出された作品全体に強調点を置いたことだった。映画研究において、個々の監督の作品全体を見渡すような研究に強調点が置かれるのは、サリス流の作家理論に由来しているのである。


 作家主義の影響がもたらす否定的な帰結の一つは、映画製作に貢献する別の重要な要素が比較的に無視されるという点にある。撮影技師、脚本家、作曲家、美術監督などもすべて映画に多大に貢献しているのだが、これらの要素を作家理論は過小評価してしまう。トリュフォーはこの言葉を新しいスタイルの映画製作を擁護する論争の一環として導入したのだが、後の理論家たちはトリュフォーの発言の文脈を無視しがちであった。


 映画の一般理論として、作家理論に欠点があることは明らかだった。すべての映画――すべての偉大な映画でさえも――の成功が監督のコントロールのおかげによるものだとすることはできないからである。特定の映画製作に監督よりもはるかに多大なインパクトもっている最も明瞭な例は俳優である。トリュフォー自身の映画は彼が作家として創り上げた作品であると言えるかもしれないが、クリント・イーストウッドの映画はその成功の多くを俳優の存在に負っている。すべての映画を監督という(重要ではあるが)一人の人間の産物にすぎないものであるかのように扱うのは間違っている。  


 作家理論に対するもっとよく見られる批判はその理論が個人に焦点を合わせていることにある。映画の理論家によって研究される偉大な映画監督のほとんどは、制度的に定まった背景(その内もっとも有名なのはハリウッドだが)の内部で作業していた。映画を理解しようとしながら、それを製作のもっと広い脈絡の中で捉えようとしないならば、それは紛れもない理論的な欠陥と見なされるようになった。


 作家主義に対するこうした批判は、よく知られているように(あるいは悪名高いように)作家の死を宣告したポスト・モダニズムの中でもっと理論的に述べられてきた。この自意識過剰でレトリックたっぷりの身ぶりが主張していることは、映画を含む芸術作品は一個人の知性のコントロールの産物として見なされてはならず、その個人が属する時代や社会的脈絡の産物として見なされなければならない、ということである。批評家の目標は、作家の意図を再構成することではなく、作品の産出にかかわる様々な脈絡や制約を明らかにすることでなくてはならないのである。


 制度的な脈絡一般が映画を理解するうえで決定的に重要であることは確かであるが、それにもかかわらず、作家理論は映画を学問的に研究するある種の努力――個々の監督の業績を解明しようとする努力――にとって有効な視座を提供しているのである。しかしここでも、作家理論は監督の貢献を強調しすぎていて他の人々――俳優、撮影監督、脚本家――を黙殺しているのではないかという懸念が表明されてきた。そうした監督以外の人々の貢献も、少なくともある種の映画の製作にとって監督と同じぐらい重要であるからである。



」(つづく)









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