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妄想とは何か (4)  [探求]

  スタンフォード大学の「哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)」の「妄想(Delusion)」の項目を紹介する第四回目の「妄想と連続性のテーゼ(Delusions and the Continuity Thesis)」だが、その4.1のみを訳出して終わりということにさせていただく。



Delusion

First published Wed Sep 16, 2009; substantive revision Fri Oct 11, 2013

By Lisa Bortolotti 

http://plato.stanford.edu/entries/delusion/





「  妄想 (4)


 
   
 ここで私は、近年、妄想についての哲学的研究を活気づけてきた三つの論争に焦点を絞りたいと思う。それらの論争はすべて、妄想をもつ人々が示す推論のパターンやスタイルが、病理的な認識をまったくもっていない人々が示す推論のパターンとスタイルとどれほど連続的であるかを検討する試みとして見なすことができるのである。



  妄想は非合理的か?


  DSM-IVやDSM-5における妄想の定義が妄想を非合理的な信念として特徴づけていることには疑いはない。しかし、哲学的な妄想研究では、非合理的なものとしての妄想という身分は、問われずにすむわけにはいかないのである。妄想は本当に非合理的ななおであろうか?


 影響力のあった多くの論文において、ブレンダン・マーハー(1974, 1988, 1999, 2003)は、妄想は奇怪な信念ではないし、妄想的仮説のもとになる証拠とそうした妄想の形成の関係には不合理的なものは何もないと主張した。マーハーによれば、妄想の異常さは、その妄想が形成されるもとになった経験の異常さにもっぱらよるのである。マーハーのモデルに依拠して、ブレイニ―(1999)は妄想を「間違ってはいるが合理的」と記述している。こうした戦略をとることで、いくつかの難問の正体が明らかとなった。 最初の難問は、妄想は貼ってさせている人々と同じタイプの脳の損傷に苦しみ、同じ経験をもっているらしいのに、どんな妄想的仮説も受けつけないという人々がいるらしい、ということである。こうした人々はどうして妄想を形成することを回避できるのか? 一つのありうる答えは、奇妙な経験をもちながら妄想を形成しない人々は、有効な仮説-評価メカニズムをもっていて、そのために低い蓋然性のありそうにない仮説を拒絶するのだ、というものである。それに対して、奇妙な経験をもち妄想を形成する人々は、仮説評価レベルの欠陥として付加的な問題をかかており、それが合理性の失敗として見なされうる、ということである。


 「マーハーの見解では、神経心理的ダメージに苦しみ、そのために顔に対する情緒的反応がにぶってしまう人は誰でもカプグラ妄想を示してしまうし、大脳の右半球に損傷を負ったために左半身が付随となり左半身の手足が他人のもののように感じられる人は誰でも、自分がその手足の所有者であることを否定するだろうし、自分の鏡像と自然に関わることのできる能力を失った人は誰でも鏡像の自己を再認できなくなるはずだ、ということになる。しかしながら、マーハーの理論は、神経心理学の研究の実例によって、明らかに反証されている」(Davies et al. 2001, p. 144)。



  妄想を「間違っているが合理的」としたマーハーの元来の説に関する別の難問は、経験の異常さがかりに妄想的仮説の受け入れと妄想の形成を満足のいくほど説明してくれるものだとしても、それは、妄想をもつ人々の振る舞いがつねに合理的であることを十分に保証するものにはならない、ということである。われわれは、依然として、いったん妄想的仮説が形成され支持されると、反証があるにもかかわらずなぜ妄想が維持されるのかを説明しなくてはならない(Gerrans 2002a)。信念の合理性という概念の一つの側面は、一般に受け入れられている証拠に反すると思われる信念は、訂正したり放棄したくなるものだ、という点にある。妄想が「訂正不可能」であるのは、妄想が非合理的なものであることを裏書きしているのである。


 (妄想を形成することではないにせよ)妄想をもち続けることは非合理的なことであることを認めよう。妄想的な仮説に頑固に執着することによってどのような合理性の規範が破られるのだろうか。妄想によって損傷を受けるように思われる一つの規範は守備一貫性である。無矛盾性とは妄想とその人の別の信念との守備一貫性であり、妄想とその人の行動の首尾一貫性でもある。


 「合理性とは一連の信念の形成が首尾一貫して関連性があるという規範的な制約のことであるが、それが妄想を抱く人によって二つの点で侵害されたのである。第一にその人は自分の他の信念と調和しない信念を受け入れているのであり、第二にその人は、妄想的な信念に反する決定的な反証や一連の背景的信念に直面してもその信念を修正することを拒むのである」(Gerrans 2000, p. 114)。


 「信念の体系は首尾一貫した全体を形成し、一つの信念に修正を加えると他の多くの信念にも修正を加える必要が出てくるのだが、妄想はそういう観念を尊重しているようには思えない」(Young 2000, p. 49)。


  
 同じインタビューの中で、ある女性は、自分の夫が4年前に死んで火葬されたと言う一方で、夫は自分と同じ病院の患者であると言い張ったりするということがありうるという(Breen et al. 2000, p. 91)。カプグラ妄想の人々は、最愛の人が消え去ったことを心配しながら、すり替わったいわゆるペテン師に協力的だったりいちゃついたりすることがあるという(see Lucchelli and Spinnler 2007)。このことが示唆するのは、妄想はその妄想にふさわしい行動を常に生み出すとは限らないということである(Bleuler 1950; Sass 2001)…。妄想の内容を固く信じているように一見見えることとそれに基づいて行為しないこととをどうして調和させることができるだろうか。一つの仮説は、妄想の内容は紛れもなく信じられているのだが、妄想を抱く本人が行動するモチベーションを得られなかったり維持できないので、妄想は行動に変換されない、ということである(これは、統合失調症のネガティブな症状と符合する。Bortolotti and Broome 2012)。



 妄想に基づいて行動する人の実例は沢山あるので、妄想をもつ人にある「行動上の惰性(行為は妄想に影響を受けないという側面)」にあまりとらわれるべきではない。自分の頭が二つあるという妄想である二頭症という知覚妄想の影響下では、第二の頭が自分の妻が通っている婦人科の医者のものだと信じた男は、斧でその頭を襲撃しようと試みた。その襲撃が失敗すると彼はその頭を射殺しようと試みた――その結果、彼は弾丸の傷とともに入院する羽目になった (Ames 1984)。自分は死んでしまったと信じる結果として、食事をしたり風呂に入ることをやめてしまうというコタール妄想のケースも報告されている(Young and Leafhead 1996)。


 合理性の規範が侵害される考えられる別のケースは、妄想の内容と利用できる証拠の関係に由来する。強力な反証や反論に直面しても妄想を訂正したり放棄することに抵抗することは、通常の認識においても異常な認識においても、非合理性を示す兆候である。妄想をもつ人は、重要な証拠を無視したり、見えすいた作り話で自分の信念を明白な異論から守ろうとする。妄想の内容を信じようとするt前に持ち出される理由はまともな理由に見えないので、こうした努力はしばしば人を深く困惑させる。私が最初に提示した実例の一つで、ある女性は、自分に惚れている男性がいると間違って信じ込んでいて、その男性は、ある州の車のナンバープレートに隠す形で秘密の愛のメッセージを自分に送ってくれているの、と言い張るのだった。


 こうして、妄想は、当人の信念や行動と調和しないこともあるし、反証や反論が与えられても動じることがないのが普通だし、根拠薄弱な証拠や論拠をもちだして擁護されることがしばしばである。経験的研究が示すところによると、妄想をもつ人の推論のパフォーマンスは、データを集めたり原因を考えるときの偏りを反映している。たとえば、妄想をもつ人は「いきなり結論に跳びつく」という主張がなされてきた。彼らは、ある仮説が正しいことを確信するために、普通の人ほどの証拠を必要としていないし(Garety 1991; Huq et al. 1988; Garety and Freeman 1999)、結論を下すのに性急である (Moritz and Woodward 2005; Fine et al. 2007)。別の偏りも注目されてきた。迫害妄想をもつ人はネガティブな出来事の責任を他者のせいにしがちである(e.g., McKay et al. 2005b)。コタール妄想では、ネガティブな出来事の責任を自分自身のせいにする傾向があるようだ (Young and Leafhead 1996; Gerrans 2000; McKay and Cipolotti 2007)。妄想をもつ人は、そうでない人と比べて、自分の感覚がもたらす証拠が自分の知っている別のことと衝突する場合、感覚の証拠を抑えることが下手であり(Langdon et al. 2008b) 、自己完結したがる――明快で理路整然とした思考に対する欲求も含まれる――必要性をより一層もっている(Kruglanski 1989, p. 14)、ということを示す研究もある。こうしたデータだけでは、妄想は非合理的だという見解を支えるのに十分であるわけではないが、それらは、妄想をもつ人々の行動の中には、統計的に見て正常だと言えるパフォーマンスからの興味深い逸脱を示しているのである。



 妄想の合理性に関するごく最近の論争は、知覚と妄想的信念を介して収集される異常なデータからのステップに関わる。(これは、主として、二要因論者の間で現われる問題なので、私は彼らに受け入れられる言語を使うことにするが、この問題は、予測エラー理論になじみのある言葉で定式化しなおすこともできるのである)。Coltheart et al. 2010 の主張によると、妄想的信念を認める人々は、多くの重要な仮説がある中で、自分の異常なデータを説明してくれるような仮説を選ぶ必要があるので、異常なデータから信念へのステップは発想推理(abductive inference)の一例であるという。コルザート等は発想推理のベイズ・モデルを利用するが、それは次の二つの問いを発するように促す。つまり、どの仮説がデータをよりよく説明するのか? という問いと、すでに知られていることを前提にすると、どの仮説が一番もっともらしいのか、という問いである。彼らによると、妄想の場合、データに対して妄想的仮説を採用した方が合理的であり、仮説とデータがぴったり合っているために、仮説が全体的にありそうもないこと二ついての一般的な考慮など吹き飛んでしまうのである。合理的でないかもしれないのは、妄想をもつ人々が、その妄想の反証が積み上がってもその妄想にしがみついていること――つまり、妄想的信念は、新しい情報の観点から正しくアップデートされないのである。コルザート等の主張によれば、妄想的仮説を損なう情報は、妄想をもつ人々にとって反証を提供するものとして現れることはないという。この新たな反証は妄想の観点から解釈され、、ギャップを埋めるために作り話が用いられるという。妄想をもつ人々の振る舞いは、新しいデータを、自分が提唱し深く信じ込んでいる理論の支えを崩してしまうものとして見ることを拒絶する頑固な科学者の振る舞いと大差がないというのである。



 McKay 2012はコルザート等の説を批判しているが、中でも次のような点を掲げている。(1)異常なデータを説明してくれるものとして妄想的仮説を採用することは、異常なデータが集まる前にもその妄想的仮説がもっともらしいものでないかぎり、完全に合理的な反応であるとは言えないのであり、ある種の妄想的仮説の内容はもっともらしいものとは言えない(「私の妻はほとんど同一のペテン師に置き換わってしまった」)。(2)コルザート等が記述する要因2(つまり、証拠が衝突することを考慮してある信念をアップデートする、ということをしないこと)は、要因1に優先したり、要因1と同時に獲得されることはできないのであって、それは、要因1の保守性――元からある信念をなるべく温存しようとする態度(訳者註)――があれば、妄想的仮説を真っ先に採用することはできないからである。マッケーのポジティブな説は、要因2は保守性を偏重することではなく(それは、妄想的仮説に衝突する新たなデータが出てきても、それを割り引いてしまう)、説明的適合を偏重することなのである(それは、妄想的仮説を採用し維持するのだが、それは、そうすることが異常なデータにとてもよく適合するからである)。マッケーの主張によれば、彼の説は妄想形成の予測エラー理論と両立するという。



  「予測エラーのシグナルの過剰が、説明的適合を偏重する態度を支えているのである。予測エラーのシグナルは、期待されるデータと実際に出くわすデータの不一致によって引き起こされる。こうしたシグナルのおかげで、予想外のデータが際立つことになり、こうしたデータを組み込むために信念が訂正される。予測エラーのシグナルが過剰に出ると、データが不釣り合いなほど際立ち、信念の訂正が過剰になる――こうして、説明的適合が偏重されることになる」(McKay 2012, p. 18)。


 
 この論争はDavies and Egan (2013)で改めて取り上げられた。それは妄想的仮説の採用と維持の区別を有益な仕方で強調し、なぜ人々が妄想に執着するのかについて補足的理由(保守性や経験的適合の偏重など)を仮定する必要はまったくいらないと主張した。いったん妄想的仮説が異常なデータの説明するものとして、あるいは、それを支持するものとして採用されるならば、それは、以前からの信念と衝突するからといってアップデートされたり訂正されることがないのは、ベイズ的観点から見て正しいのである。アップデートや訂正を促すには新たな証拠が必要であるという。しかし、妄想的仮説が、異常なデータに対する信念の反応として形成されたものであり、区分可能なものでありうることを考慮するならば、採用された後でも妄想的仮説を批判的に評価することはありうることである。断片化された信念のシステムにおいては、区分された信念がそれ以前の信念に基づいて評価されることは起こりうることかもしれないからである。


 上に(とても単純化された仕方で)記述された論争は、妄想形成の二要因理論における二番目の要因は何かを具体化する試みである。しかし、Davies and Eganが認めているように、ベイズ的モデルのような理想化された推論のモデルを適用することは、現実の信念のシステムを考察するときは、何らかの点で限界があるものである。病理的現象が何もない場合でも、ある種の偏りが仮説の採用や評価に影響を及ぼすことは、統計的にみても普通の事態なのであって、だから、妄想的信念の採用とそれに固執することの問題の所在をはっきりと見極めることは難しいことだと言えるのである。

 妄想は、別の信念や行動と調和せず反証にも抵抗するので、普通の信念よりも高い程度で非合理的でありうるが、妄想は、普通の信念と質的に違う点で非合理的であるようには思われない。このことが示唆しているのは、妄想は非合理的信念と連続的であるが、この連続性の主張に異論を唱える洗練された哲学的議論が存在する、ということである・・・・・(以下省略)


 


」(おわり)











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