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人格のアイデンティティーとは(7) [探求]

スタンフォード大学の「哲学百科事典(
Stanford Encyclopedia of Philosophy)」の「人格のアイデンティティー」を紹介する第七回目。第7章の「身体的アプローチ」を見ていく。この章で、アイデンティティーの議論の実質は終わるので、ここでの紹介も、とりあえず、ここで終了とさせていただく。




Personal Identity (Eric T. Olson)
First published Tue Aug 20, 2002; substantive revision Thu Oct 28, 2010
http://plato.stanford.edu/entries/identity-personal/






 人格のアイデンティティー(7)



 7.身体的アプローチ


 あなたがいる場所には、思考する動物がいるように見える。あなたは、そこに位置している思考する物――唯一の物――であるようにも見える。事態がそう見えるとおりであるならば、あなたがその動物であることになる。この見解はアニマリズム(Animalism)として知られている。


 アニマリズムは、すべての動物、それどころか動物としてのヒトのすべてが人間であるということを含意しているわけではない。以前見たように、胎児や持続的植物状態にある動物は人間とはみなされない。人格であることは、哲学者であるということと同様、あなたの一時的な属性にすぎないかもしれない。また、アニマリズムは、すべての人間が動物であるということを含意するわけでもない。それは、まったく生活機能のない人間――神や天使や意識のあるロボット――の存在とも両立する。それは、動物であることは人格であることの一部である、と言っているわけではない(それはWiggins 1980, 171 and Wollheim 1984, ch. 1 で擁護されていて、 Snowdon 1996で批判されている見解である)。アニマリズムは、「人格性の問題」に対する答えを全く未解決の状態にしておくのである。

 もし私たちが動物であるならば、私たちは動物としての持続条件を持っていることになる。そしてすでに見たように、動物はある種の動物的な肉体的連続性のおかげで持続しているように見えるのである。だから、アニマリズムはある種の「身体的アプローチ」を含意しているように思われる。


 「身体的アプローチ」を支持しながら、私たちは動物だとは言わない哲学者もいる。その哲学者は、私たちは身体だと言ったり(Thomson 1997)、私たちの通時的アイデンティティーは身体のアイデンティティーにあると言ったりする(Ayer 1936: 194)。これは「人格のアイデンティティーの身体的基準(Bodily Criterion of personal identity)」と呼ばれてきた。それとアニマリズムとの関連は不明である。人格の身体とは、定義上、一種の動物であるならば、自分の身体と同一であることは、たぶん、動物であることと同じであることになるだろう。しかし、果たしてそうなのかどうかは不確かである。

 「身体的アプローチ」にたいする最もありふれた反論についてはすでに見た。その反論とは、「身体的アプローチ」によれば、もし大脳が移植されてもあなたは依然としてそこにいることになるが、それは信じがたい、というものである (Unger 2000。それに関連する重要な異論については、Johnston 2007)。



 その上で言うならば、「身体的アプローチ」には、実際の生活で誰が誰であるかについての私たちの信念と両立するという利点がある。誰かが生き延びているとか死んでしまったと私たちがみなす実際のケースのすべては、動物としてのヒトが生き延びたり死んだりするケースなのである。「心理的アプローチ」、あるいは、私たちが持続するためには心理的連続性が必要であるという見解は、この利点を共有してはいない。私たちのほとんどは、自分がかつて胎児であったことを信じている。12週目の胎児の超音波画像を見るとき、私たちは普通、万事が順調であれば、やがて生れ、話すようになり、最終的には大人の人間になるものを目にしていると考える。しかし、私たちは、12週目の胎児とどんな点でも心理的に連続してはいないのである。


 「身体的アプローチ」のある種のバージョンは、「「私」の候補が多すぎて答えが出ない」問題」に直面する。あなたが生命体であるという単なる事実から、あなたがあなたの思考内容を考える唯一の存在であるということは出てこないというのである(Shoemaker 1999, Hudson 2007, Olson 2007: 215-236)。このことは、もちろん、「心理的アプローチ」にとってと同様「身体的アプローチ」にとっても問題とならないかもしれないが、「身体的アプローチ」を導き出すための大きな論拠、「「私」の候補が多すぎて答えが出ない」問題」に基づく論拠を台なしにしてしまうことになるかもしれない。






」(おわり)





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