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人格のアイデンティティーとは(6) [探求]

スタンフォード大学の「哲学百科事典(
Stanford Encyclopedia of Philosophy)」の「人格のアイデンティティー」を紹介する第六回目。第六章の「「私」の候補が多すぎて答えが出ない問題(The Too-Many-Thinkers Problem)」を見ていく(このように訳していいかどうか、自信がないな)。途中のシューメイカーの議論は、私の理解が及ばないものであったので割愛した。




Personal Identity (Eric T. Olson)
First published Tue Aug 20, 2002; substantive revision Thu Oct 28, 2010
http://plato.stanford.edu/entries/identity-personal/






 人格のアイデンティティー(6)



 6.「「私」の候補が多すぎて答えが出ない」問題


  「心理的アプローチ」にとってのもう一つの明白な難問は、私たちが生物であるということをそのアプローチは排除してしまうという点である (Carter 1989, Ayers 1990: 278?292, Snowdon 1990, Olson 1997: 80f., 100?109, 2003a)。それによれば、私たちの持続はある種の心理的連続性のうちに成り立っている。これまで見てきたように、このことが意味することは、あなたはあなたの移植された脳とともに移動するということである。なぜなら、あなたの脳を移植された人が心理的にあなたと連続的であることになるからである。同様に、もしあなたが不可逆的な植物状態に陥ったとするならば、あなたは存在することをやめてしまうだろう。なぜなら、そうなれば、だれもあなたと心理的に連続的である人がいなくなるからである。しかし、生物としての人間の持続性は、何らかの心理的連続性のうちに成り立っているわけではない。もし私たちがあなたの大脳を移植するとしても、生物としての人間――あなたの身体――が大脳とともに移動することはないし、空っぽになった頭とともに残ることになる。移植は、単に、ある器官をある生物から別の生物へ移動させるだけである。もしあなたが一個の生物であるならば、あなたは、「心理的アプローチ」の主張とは逆に、空っぽの頭とともに後に残されることになるだろう。同様に、生物としての人間は、不可逆的な植物状態に陥ることになっても、存在することを止めることはないだろう。もしあなたが生物ならば、あなたは植物状態になった人間として生き延びていくだろうが、これはやはり「心理的アプローチ」と衝突するのである。「心理的アプローチ」が私たちの通時的持続について言うことは、生物としての人間が持続するための必要条件であるか十分条件であるかのいずれかである。だから、もしその見解が正しいならば、私たちは生物ではないこともあり得ることになる。私たちは本質的に生物でないばかりではない。私たちは、偶然的にであれ、生物などでは全くないのである。偶然的にではあれ生物であるものは、移植された脳とともに移動するなどということはないからである。


 困難は、あなたの身体という生物が思考し意識をもっているように思われる点にある。実際、その思考し意識する身体は、あなたと心理的に区別できないように思われる。だから、もしあなたがその生物ではなくなり何か別のものであるならば、あなたとは別の意識的で知的な存在がいて、その存在が今そこに坐ってこの「哲学百科事典」のこの項目を読んでいる、ということになる。もっと一般的に言えば、私たちが一人しかいないと思ってるときはいつでも、少なくとも二つの意識的で知的な存在がいることになる。つまり、生物ではない人格と(多分)人格ではない生物という二つの存在がいることになる。さらに、あなたは、あなたがその二つの思考する存在のどちらであるかと考えるべきであろう。あなたは、自分は人格であって動物ではないと思うかもしれない(それは多分、あなたが「心理的アプローチ」を受け入れているからなのだ)。しかし動物の方も、同じ理由で、自分は人格であって生物ではないと思かもしれない。もしそう思っているとしても、それは思い違いである。そしておそらく、その思い違いをしているのはあなたなのかもしれない。もしあなたが動物であって人格でないとしても、あなたには決して判らないだろう。

 
 ここで例え話を紹介しよう。三次元の複製装置を想像してみよう。あなたが「イン」の箱に入ると、その装置はあなたの情報を読み取り、あなたの完全な複製を「アウト」の箱に作り上げてしまうのである。このプロセスは一時的な無意識状態を生み出すが、その他の点で害をあたえることはない。二つの存在は、それぞれの箱の中で、起き上がる。それらの箱は見分けがつかない。それぞれの存在は同じ記憶を持ち同じ環境を知覚することになるのだから、そのそれぞれが自分はあなただと考え、その信念に対して同じ証拠を持ち出すだろう。しかし正しいのはどちらか一方である。もしこういうことが実際にあなたの身に起こるとするならば、あなたは自分がオリジナルなのか複製なのかをどうやって知ることができるのかは困難になるだろう。(機械を動かしている技師には守秘義務があり、または賄賂が効かないとしよう)。あなたは次のように考えるだろう。「私は誰か? 私は、私がそうだと考える者なのか?  私は、私がしたことを覚えているらしいことをしたのだろうか? それとも、私は、誰か別の人の人生の間違った記憶を詰め込まれて、ちょっと前に生まれたばかりなのだろうか?」。 あなたは、これらの問いに対してどう答えていいか全く判らないだろう。
 
 同様に、「心理的アプローチ」は、「私は何者か ? 私は人間で、心理的連続性のおかげで持続しているのか? それとも私は動物なのだろうか ?」という問いを掲げる。そしてここでも、これらの問いに対して答えを出してくれる根拠は存在しないように思われる。だから、たとえ「心理的アプローチ」が正しいとしても、それがあなたに当てはまるかどうかをあなたが知りうることは決してないだろう。あなたは、動物的な肉体的持続条件をもつ生物であるかもしれない。これが「「私」の候補が多すぎて答えが出ない」問題なのである。この困難を回避する唯一の方法は、私たちは生物である(そして心理的連続性のおかげで持続する存在はない)と言うことだが、しかしそれは「心理的アプローチ」とは両立できないのである。
 


 「心理的アプローチ」の支持者は三通りの答え方をしてきた。一つは、動物としての人間は心理的持続条件をもっている、と言うことである(これは、Wiggins 1980: 160, 180 と McDowell 1997: 237の見解である。Olson 1997: 114?119)も参照せよ)。この見解によると、「心理的アプローチ」は、見かけにもかかわらず、私たちが動物であることと両立できるし、問題は生じないのである。外科医は、あなたの大脳を移植のフロアにいる一つの動物から別の動物へと移し替えているわけではないのである。むしろ、一方の動物はその部分部分を削り取られていき、ついには大脳の大きさになってしまったのである。そしてその後、その脳は部屋を横切り、新たな身体の部位を与えられる。もしそうならば、あなたの大脳が移植される動物は、存在するのをやめることになる。しかしながら、この見解は人気を博すことはなかった。


  第二の回答は、動物としての人間が私たちと同じように思考することができるということを否定することである。私たちの動物としての身体は私たちの脳を共有していて、物理的に私たちとまったくよく似ていて、意識や知性の外的な兆候をすべて示すが、そうした身体自身が思考することはないし意識をもつこともない。思考する動物は「心理的アプローチ」にとって問題にならないのだが、それはそんな動物は存在しないからである。


 もし生物としての人間が意識を持ちえないのであれば、おそらくどんな種類の生物も心的な属性を全く持たないことになるだろう。この驚くべき事実は説明を要するだろう。それは、生物とは物質的なものであり、非物質的なものだけが思考したり意識をもつことができるからなのかもしれないが、今日ではこういう見解を受け入れる哲学者はほとんどいない。・・・


 最後に、動物としての人間が私たちと同様に思考していること――したがってあなたはいまあなたの思考をしている二つの存在のいずれか一方であること――を認めはするが、それでも私たちはそのような生物ではないということをどうして知ることができるかを説明しようと試みる「心理的アプローチ」の支持者もいる。そのための一つの戦略は、人格性と一人称の指示の本性に焦点を合わせることである。その提案によると、あなたや私がもっているような心的属性――たとえば、意識のような属性――をもつどんな存在もが人格として見なされるだけではないというのだ。人格とは心理的連続性のおかげで持続しなければならないものである。このことから、動物としての人間は、心理的には私たちとまったくよく似ていながら、それでも人間ではないということになるのだ。さらに、「私」という人称代名詞は人間しか指示しない。あなたの動物的身体が「私」と言ったり考えたりする時でも、その「私」はそれ自身を指し示してはいないのである。むしろ、その「私」はあなたを、同時に「私」と言う人格としてのあなたを指示しているのである。動物が「私は人格である」と言うとき、それは、自分が人格であるという間違った信念を表明しているのではなく、むしろあなたが人格であるという正しい信念を表明しているのである。そこから、その動物は自分がどんなものであるかについて間違ってはいないことが明らかになる。それは、自分自身についての一人称的な信念をまったく持っていないからである。そしてあなたも間違ってはいないのである。あなたが「私」という時にあなたが指示するものが何であれ、それがあなたであるということと、そして、「私」は人格以外の何ものも指示しないという言語的事実から、あなたは、自分が人格であるということを推論できる。あなたは、自分が自分の思考を考えている動物ではないということを知ることができるが、それはその動物が人格ではなく、人称代名詞は人間以外のものを指し示すことは決してないからなのである。(この見解の議論については、Noonan 2010, Olson 2002a.を参照)。



」(つづく)





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