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人格のアイデンティティーとは(5) [探求]

スタンフォード大学の「哲学百科事典(
Stanford Encyclopedia of Philosophy)」の「人格のアイデンティティー」を紹介する第五回目。第五章の「分割」を見ていく。




Personal Identity (Eric T. Olson)
First published Tue Aug 20, 2002; substantive revision Thu Oct 28, 2010
http://plato.stanford.edu/entries/identity-personal/






 人格のアイデンティティー(5)



 5.脳の分割




  心理的連続性が結局どのようなものに帰着しようとも、「心理的アプローチ」にとってもっと頭の痛い問題は、あなたが過去または未来の二人の人間と同時に心理的に連続することがありうる、ということである。もしあなたの大脳――心的特徴に大いに関係のある脳の上層部――が移植されるならば、その結果誕生した人があなたと心理的に連続していることは誰の目にも明らかであろう(たとえ重大な心理的違いがあるとしても)。「心理的アプローチ」によれば、その人があなたであることになる。もし私たちがあなたの大脳半球の一つを壊してしまったとしても、その結果生じる人はやはりあなたと心理的に連続しているだろう。大脳半球切除手術は――言語をつかさどる左半球を切除する手術でさえも――、もしそういう手術をしなければ直る見込みのない脳腫瘍にとっての劇的だが受け入れられる治療法とみなされている。Rigterink 1980を参照)。もしその両方を同時に、つまり一方の半球を壊しもう一方の半球を移植するとしたら、どうなるだろうか ?  その時でもやはり、移植された半球をもらった人はあなたと心理的に連続していることになるだろうし、したがって「心理的アプローチ」によれば、その人はあなたであるだろう。


 しかし、両方の半球が、それぞれちがった空の頭に移植されたとしてみよう。(私たちは、ある著者がしているように、それぞれの半球が瓜二つのように似ていると主張する必要はない)。半球を移植される二人の人 ━━その二人をレフティー(Lefty)とライティー(Righty)と呼ぼう━━はそれぞれあなたと心理的に連続していることになる。その結果、あなたはレフティーであり、またライティーでもあるということになる。しかしそれはあり得ない。レフティーとライティーは二人であるが、一つのものが二つのものと数的に同一であることはできないからである。ライティーはお腹がすいていないのに
レフティーはお腹がすいているとしてみよう。もしあなたがレフティーならば、あなたはその時お腹がすいていることになる。もしあなたがライティーならば、あなたはその時お腹がすいてない。もしあなたがレフティーでありかつライティーであるならば、あなたは同時にお腹がすいていて、かつすいていないことになるが、これは矛盾である。


 「心理的アプローチ」の支持者はこの問題に対して二つの違った解決策を提起してきた。一つの解決策、ときに「多様-占有説(multiple-occupancy view)」と呼ばれる解決策は、もしあなたが将来分割されることがあるならば、いわば現時点でもあなたは二人いると考える。私たちがあなたとして考えているのは、実は二人の人間なのであって、その二人は現在まったくよく似ていて同じ場所を占めていて、同じことをして同じ考えを考えている。外科医はその二人を単に分けたにすぎないというのだ(Lewis 1976, Noonan 2003:139–42。Perry 1972はしばしばもっと複雑な見解を打ち出している)。


 「多様-占有説」は、人間にせよ他の持続的な物体にせよ、それらは時間的な部分から構成されているという一般的な形而上学的主張とほとんど常に結びついている(しばしば「四-次元説(four-dimensionalism)」と呼ばれる考え方である。Heller 1990: ch. 1, Sider 2001)。一人一人の人間に対して、その前半(first half)というものが存在する。それは、その人間とまったくよく似ているが、ただしレースの前半部分のように、短期間しか存在しないのである。この多様-占有説によれば、レフティーとライティーは、手術前、手術以前の時間的部分を共有することによって一致していたが、後になって、術後違った時間的部分を持つことによって分岐してしまったことになる。それらは、ある区間までは一致しているがその後枝分かれする二つの道路に似ていて、ある空間的な部分は共有していても別の空間の部分は共有しない。二つの道路がオーバーラップしている場所では、それらは一本の道路のようである。それと同様に、手術前のレフティーとライティーが時間的部分を共有している時点では、それらは一人の人間のようである。彼ら自身でさえ自分たちが二人であると言うことはできないほどだ。しかしながら、人間が実際に時間的部分から成り立っているかどうかは議論の余地がある(セクション8)。

 
 分割の問題に関するもう一つの解決策は、人間が持続するためには心理的な連続性だけで十分だという直観的にもっとな主張を捨ててしまう。その解決策によれば、あなたが過去または未来の存在と同じであるのは、その存在があなたと心理的に連続していて、他のいかなる存在もあなたと心理的に連続していない場合に限るというのだ。(この主張にはいかなる循環も存在しない。どの時点でどれほどの人間が存在するかを知るためには、「持続の問題」に対する答えを知ってる必要はない)。このことが意味するのは、レフティーもライティーもあなたではないということである。その両者が誕生したのは、あなたの大脳が分割されたときである。もしあなたの大脳半球が移植されるならば、あなたは存在するのを止めるのだ――もし移植されるのが片方の半球だけで、もう一方の半球は壊されてしまうならば、あなたは生き延びていることになるだろうが((Shoemaker 1984: 85, Unger 1990: 265, Garrett 1998: ch. 4; see also Noonan 2003: 12–15 and ch. 7)。



 この主張、「枝分かれ非容認説(non-branching view)」は、もしあなたの脳が分割されるならば、一方の半球だけが保存される場合あなたは生き延びるが、両方の半球が保存される場合あなたは死ぬことになるという驚くべき結果をもたらす。分割は死である。それは、私たちのほとんどが当然と見なす次のような考え方の正反対である。(その考え方とは)もしあなたが生き延びることがあなたの脳の働き次第であるならば(それこそが心理的連続性の根底にある考え方なのだから)、その器官が多く保存されればされるほど、あなたが生き延びる確率は高くなるに違いない(ということである)。実は、「枝分かれ非容認説」には次のようなことが含意されている。もしあなたの大脳半球の一つが移植されもう一方が元の場所に残されるならば、あなたは死んだことになるし、もしあなたが大脳半球切除手術から生還できるのは、切除された大脳半球が即座に破壊される場合に限られるのである。それに、もし脳状態の転移が心理的連続性が当てはまるケースの一つであるならば、あなたの脳状態の全体が他人の脳にコピーされるならば、あなたの脳には何の損傷もないとしても、あなたは存在することをやめることになるのだ( Nozick 1981のような「最良の候補者」理論はこの事態を避けようと試みている)。


 「枝分かれ非容認説」は、「一体(アイデンティティーを問うことの)何が重要なのか?」という問いをとりわけ重大なものとする。自分の大脳半球の一つが移植されるかもしれないという事態に直面した時、もう一つの大脳半球が破壊されることを願う理由は何もないように思われる。私たちのほとんどは、たとえ別々の頭に移植されることになっても、両方の大脳半球が保存されるように望むだろう。しかし「枝分かれ非容認説」に立てば、それは存在の継続よりも死を優先することなのだ。そこで、パーフィットなどの人々は、それこそまさに私たちが優先すべきことなのだと言う。合理的にものを考えるかぎり、私たちは存在し続けることを望まない、と彼らは言う。あるいは少なくとも、私たちはそれそのものが望ましいと思ってるわけではない。私が本当に望んでいるのは、将来、私と心理的に連続している誰かが存在していること、たとえその誰かが私であろうとなかろうと、その誰かが存在していることなのである。このことを成し遂げる通常の方法は、存在し続けることである。しかし分割のストーリーは、私が存在し続けなくてもその方法をもつことができるということを示している。同様に、たとえ「枝分かれ非容認説」が言うように、分割手術から生じるどの人も自分ではないとしても、最も利己的な人でさえ、分割手術から生じる人々の幸福に関心を寄せるだろう。分割の場合、あなたが自分自身に対して普通もつような実際上の関心は、厳密に言えばあなたではない誰かある人に向けられていることになるだろう。このことが示唆しているのは、もっと一般的に言えば、誰が誰と数的に同一であるかについての事実というものは実際上の重要性を持たないということである(Lewis 1976 and Parfit 1976は、「多様-占有説」が、アイデンティティーが実際上も重要な問題であるという確信を保てるかどうを議論している)。


 このことは、「心理的アプローチ」の大きな論拠に対する疑いを投げかけているのかもしれない。あなたは、あなた自身の幸福についてふだん関心を寄せているのとまったく同じように、分割の結果あなたの脳の半球を得た二人の人の幸福について関心を寄せる――たとえ、そのいずれの人もあなたではないとしても――としてみよう。そうであるならば、あなたは、元来の脳移植のケースにおいてあなたの脳の全体を得た人の身に起ることに――たとえその人があなたではないとしても――関心を寄せるだろう。もし実際の生活で起こるどんな目的に対しても、あなたがその人をあなた自身として見なしても――例えば、あなたが自分の経験を予見できるように、その人の経験を予見するとしても――、だからといって、その人があなたであるという主張は何ら支持されることはないだろう。だから、脳移植のケースに対する私たちの反応が支持するのは、私たちは心理的連続性のおかげで持続しているという見解ではなく、心理的連続性は実際の生活においても重要なものだという見解にすぎず、その見解は持続についての別の説と両立可能なものである。もしそうならば、私たちには「心理的アプローチ」を受け入れる何らかの理由があるのだろうかと再考してもいいのかもしれない。


 脳の分割は「心理的アプロをーチ」にとっての特別は問題なのではなく、「持続の問題」に対するすべての回答に等しく――(たぶん)「反基準主義(Anticriterialism)」を別にすれば――影響を及ぼすものだとしばしば言われる。実際そうなのかどうかは難しい問題である。しかし、たとえそうだとしても、分割の問題は「心理的アプローチ」を支えているものを脅かし、ライバルの理論の論拠には影響を及ぼさないので、「心理的アプローチ」にとって特に頭の痛い問題となっているように見えるのである。(たとえばそれは、「身体的アプローチ」の論拠を台なしにすることはないのである)。 




」(つづく)
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