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人格のアイデンティティーとは(2) [探求]

スタンフォード大学の「哲学百科事典(
Stanford Encyclopedia of Philosophy)」の「人格のアイデンティティー」を紹介する第二回目。第二章の「持続の問題を理解する(Understanding the Persistence Question)」を見ていく。




Personal Identity (Eric T. Olson)

First published Tue Aug 20, 2002; substantive revision Thu Oct 28, 2010

http://plato.stanford.edu/entries/identity-personal/






 人格のアイデンティティー(2)




 2. 持続の問題を理解する

 さて持続の問題に向かうことにしよう。時間上の同一性ほど多くの誤解の原因となる概念はほとんどなかった。持続の問題はしばしば別の問題と混同されたり、偏った仕方で述べられている。

 この問いは、過去の存在あるいは未来の存在があなたであるためには何が必要・十分であるかという問いなのである。もし私たちが今のあなたを指さし、それから別の時点に存在する誰かあるいは何かを記述するとき、私たちは一つのものに二度言及しているのか、それとも二つのもののそれぞれに一度だけ言及しているのかを問うことができる。(例えば、犬のような別のものの持続についても似たような問題は出てくる)。持続の問題とは、こうした問題に対する答えを決定するのは何か、あるいは、それに対して考えうる答えを真または偽とするのは何かという問題なのである。


 この問題は数的同一性(numerical identity)についての問題である。これとあれが数的に同一であると言うことは、それらが唯一同一であり、二つのものであるというより一つのものであると言うことである。これは質的同一性(quantitative identity)とは違う。ものが質的に同一であるのは、それらがどの点をとっても似ているときである。うり二つの双子は質的に同一であるだろう--その二人は見分けがつかないかもしれない--が、彼らはあくまで二人なのだから、数的に同一であるわけではない。だからこそ二人は双子なのである。過去あるいは未来の人物が、あなたであるためには--つまり、あなたと数的に同一であるためには--、今現在のあなたとどの点を取っても似ている必要はない。あなたは生涯を通して質的に同一であり続けるわけではないからである。要するにあなたは変化するのだ。大きくなったり小さくなったり、新しいことを学んでは忘れたりするのだ等々。だから、問題は、過去あるいは未来の存在があなたに質的に似ているためには何が必要かということではなく、過去あるいは未来の存在が--あなた以外の誰かあるいは何かであるのではなく--あなたであるためには何が必要か、なのである。


(ヒュームがはっきりと言ったように、過去あるいは未来の存在は、現在のあなたと質的にまったくよく似ているのでなければ、あなたではありえないと言う人がいるかもしれない。これは、全く疑わしい形而上学的な主張と言えるだろう。それはつまるところ、何らかの変化があった後でもアイデンティティーが成り立つことを否定することだからだ。まばたき一つでも致命的になり、あなたは存在するのを止め誰か別の人によって代わられることになるからだ。それはつまり、一瞬前にはあなたは存在していなかったことを意味するだろう。もしそうなってしまえば、持続の問題を問うことに何の意味もなくなってしまうだろう。通時的人格のアイデンティティーをめぐるほとんどすべての議論は、人格が変化することは可能であることを前提とするのである)。


 質的同一性と数的同一性の混同が持続の問題についての誤解の原因の一つである。もう一つの原因は以下の点にある。人々はしばしば、人がある時点から別の時点まで同一の人格のままでいるためには何が必要かと問う。そこで考えられていることは、もし私がなんらかの点で変わってしまうならば--例えば、記憶のほとんどをなくしてしまうとか、私の性格が劇的に変わってしまうとか、深い宗教的な回心を経験するとかしたならば--、私はもはや私のかつての人格ではない、ということである。



 誰かが同じ人格にとどまるためには何が必要かという問題は持続の問題ではない。それは数的同一性についての問題ですらない。もしそうならば、答えは自ずと出てしまうのだ。私は、私が存在する限り、必然的に数的に同一でありつづけるからである。何が起きても、私は現在の人格とは数的に違った人格になることはできないだろう。明日存在する人が私とは数的に違っているということは、まさにその人が私ではないと言うことだからである。始めと終わりで違うものになる--数的に違うものになる--ことができるものなどないのである。このことは人格のアイデンティティーとは無関係であり、同一性の論理の一つの事実にすぎないのである。


ある種の冒険をした後では、あなたは違う人間になってしまうとか、かつての人間ではいられないなどと言う人は、あなたはまだ存在しているが、何か重要な点で変わってしまったということを多分言いたいのだ。そういう人々は、個人のアイデンティティーを、「私は誰なのか(Who am I?)?」という意味で考えているのである。つまり、あなたの個人的なアイデンティティーを構成する属性のいくつかあるいはすべてをあなたが失い、新しい属性を獲得するという可能性について考えているのである。これは持続の問題とは無関係なのである。


 
 「アイデンティティー」や「同じ」という言葉が、数的同一性や質的同一性や個人の心理的同一性などの非常に多くの異なったものを意味するのは不都合である。さらに悪いことに、私がある冒険を生き延びたとしてもその後存在しなくなってしまうというような、数的同一性を含意しない仕方で「生きのびる」ことを語る哲学者もいるのである (Parfit 1971)。混乱は避けがたいものとなる。



 もっと油断のならない誤解がある。多くの人々は持続の問題を次のように述べようとするのだ。

  問い1.ある時点で存在する人格が、別の時点で存在する人格と同一になるのはどんな状況の下でなのか?


 いかえれば、過去または未来の人格があなたであるためには何が必要なのか? ということである。一方には、ある時点で存在するある人格がいて、他方には別の時点に存在するある人格がいて、それらの人格が二つではなく一つの人格であるための必要十分条件は何か? ということが問題なのである。


 これは持続の問題ではない。これは狭すぎる問題である。(そのような問いをたてるとき)私たちは、あなたがかつて胎芽か胎児であったかどうかを知りたいのかもしれないし、あるいは不可逆的な植物状態の中であるいは死体として生きのびることができるかどうかを知りたいのかもしれない。これらは明らかに私たちが持続するために何が必要なのかについての問いであり、私たちの通時的なアイデンティティーを説明することで、その問いに対する答えが見つかるはずである。(それに対する答えは重要な倫理的意味合いをもってるかもしれない。例えば、ある時点で胎芽や胎児であるものが、別の時点で大人の人格であるかどうかや、大人の人格が胎児と常に数的に異なっているかどうかは、中絶をめぐる道徳的問題にとって重要であるからだ)。しかし多くの哲学者は人格をある特別な心的属性をもつものとして定義するのである。例えばロックは、よく知られていることだが、人格とは「思考する知的な存在であり、理性と反省する能力を持ち、自分自身を自分自身として、つまり時間や場所が違っても同じ思考するものとして見なすことができる存在」であると述べた (1975: 335)。多分このことは、あるものがある時点で人格があるのは、それがその時点でそのような心的属性をもつ限りでのことであるということを含意している。また、神経学者は、初期の胎児や持続的な植物状態にある人間は全く心的属性をもっていないと述べる。もしロックの定義のようなものが正しければ、そのような存在は人間ではない--少なくともその時点では人間ではない。その場合私たちは、過去または未来の人格があなたであるために何が必要なのかを発見しても、あなたがかつて胎芽であったかどうかについて、あるいは、あなたが植物人間になり得るかどうかについては何も推論できないことになる。


 私たちは、問い1に対する特定の答えを考察することで、ここで何が問題なっているかを明らかにすることができる。


 
  必然的に、ある時点で存在する人格が別の時点で存在する人格と同一であるのは、最初の人格が最初の時点で、第二の人格が第二の時点で持つ経験を思い出すことができる場合に限り、そしてまたその逆も成り立つ。


 つまり、過去または未来の人格があなたであるのは、その人格が当時もっていた経験をあなたがいま思い出すことができるか、その人格が、あなたは今もっている経験を思い出すことができる場合に限られるということである。(この見解はしばしばロックに帰せられるが、ロックが実際にその見解を抱いていたかどうかは疑わしい)。この見解を「記憶の基準(Memory Criterion)」と呼ぼう。
  


 「記憶の基準」が含意しているのは、もしあなたが不可逆的な植物状態に陥ってしまったならば、その植物人間は何も思い出すことはできないのだから、それはあなたではないことである。あなたは存在することをやめてしまったか、別の世界へ移行してしまったのだろう。しかし実は、「記憶の基準」はそのようなことなんら含意しないのだ。植物人間が人格がないとしても、これは、ある時点で存在する人格と別の時点で存在する人格を含むケースではないからだ。「記憶の基準」が私たちに語ろうとしていることは、あなたが過去および未来においてどのような人格(person)であるかということであって、あなたが過去や未来においてどのようなもの(thing)であるかということではないからだ。だから「記憶の基準」は、あなたが植物人間や死体になってしまうかどうかについては何も含意しない。同じ理由で、「記憶の基準」はあなたが胎芽であったかどうかについて何も語らないのである (Olson 1997: 22?26, Mackie 1999: 224?228)。



 だから問い1よりも、人格であろうとなかろうと、どんな過去あるいは未来の存在があなたや私であるためには何が必要かと、私たちは問うべきなのである。


 問い2.ある時点で存在する人格が別の時点で存在するもの(それがその時人格であろうとなかろう)と同一であるのはどんな状況の下でなのか?


 これが持続の問題(Persistence Question)なのである。哲学者が通常問い2よりも問い1の形で問うのは、哲学者があらゆる人格は本質的に人格であると想定しているからである。つまり、実際、人格であるものは、人格であることを止めて存在することができないと彼らは想定しているからである。(対照的に考えてみると、実際学生であるものは、学生であることを止めても存在することはできる。本質的に学生であるような学生は存在しないし、ある時点で存在する学生が別の時点で存在する学生と同一であるためには何が必要かと問うことで、学生のアイデンティティーの条件について考察することは誤りだろう)。この主張は「人格の本質主義(person essentialism)」と呼ばれるが、それは、ある時点で人格である者はみな、それは存在するどの時点でも人格でなければならないということを含意していて、二つの問い(問い1と問い2)を等しいものにしてしまうのだ。しかし、人格の本質主義が正しいかどうかは深刻な問題である(「私はどのような存在でありえたか(How could I have been? )という問いの一例なのだ)。人格の本質主義--ロック的な人格性の説明と組み合わされたとき--は、あなたは胎芽でありえたはずがないということを含意する。あなたを生み出した胎芽は、厳密に考えれば、あなたではないからだ。その胎芽がある種の心的能力を発達させて初めて、あなたは存在するにいたったのである。それに、あなたは植物人間になることもできないだろう。人格の本質主義は、私たちが生物学的な生命であることを考慮しないのだが、それはどんな生命も本質的には人格ではないからである。人間の生命はみな思考しない胎芽として始まり、植物状態として終わることがあっても、それらと人格は別物である。



 私たちは生物であるかどうかや、かつて胎芽であったかどうかは、人格のアイデンティティーの説明が答えるべき実質的な問題であり、私達がアイデンティティーをめぐる論争の枠組みをどう定めるかによってあらかじめ決着できる問題ではないのである。だから始めから、我々は本質的にロックがいう意味での人間であるということを前提することはできないのである。問い1のように問うことは、我々は何ものであり我々が持続するために何が必要かの説明を優先させることによって、アイデンティティーの問題に予断を与えてしまっているのである。特に、問い1のように問うと、次のセクションで記述される「身体的アプローチ」が実際は除外されることになってしまうのである。それは、犯罪者が女性だったかもしれないという可能性を除外する前に、その犯罪を犯したのはどの男かと問うようなものである。






」(つづく)




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