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人格のアイデンティティーとは(1) [探求]

  引き続き、スタンフォード大学の「哲学百科事典(
Stanford Encyclopedia of Philosophy)」から題材をとってみることにする。興味が尽きるまで、しばらく続けようと思っている。今回は、「愛」から一転して、「人格のアイデンティティー(personal identity)」。

まず、始めは、この概念のもとにどれほど雑多な問題群が扱われてきたか(そして、扱われうるのか)の概観である。



 Personal Identity (Eric T. Olson)

First published Tue Aug 20, 2002; substantive revision Thu Oct 28, 2010

http://plato.stanford.edu/entries/identity-personal/


 

「 

人格のアイデンティティー (1)



 人格のアイデンティティーとは、私たちが人間である(あるいは、法律家や哲学者が好んでいうように、人格である)おかげで生じる私たち自身についての問題を扱う。こうした問題の多くは、私たちのほとんど誰の念頭にも生じるなじみ深い問題、つまり、私とは何か? 私はいつ始まったのか? 私が死ぬとき私に何が生じるのか? といった問題である。もっと扱いにくい問題もある。人格のアイデンティティーは西洋哲学の始まりから議論されてきたし、ほとんどの大哲学者はこの問題について何事かを述べてきた(東洋哲学にもこのトピックについて多くの文献があるが、それについて私は議論することができない。Collins 1982 and Jinpa 2002 が有益な情報源である)。



 私は最初に人格のアイデンティティーのメインの問題を概観する。その後の項目のほとんどは、最近多くの注目を集めた問題、つまり通時的アイデンティティ(our identity over time)の問題にかかわる。その問題が何を意味するのか、そしてその問題に対して提起された主な答えを私は議論するつもりである。そしてまた私は、こうした答えが人格のアイデンティティーのほかの問題のいくつかにどう関係するのか、そして形而上学や心の哲学におけるもっと一般的な問題にどう関係するのかを私は議論するつもりである。


1.人格のアイデンティティーの問題
2.持続の問題を理解する
3.通時的アイデンティティーについての諸々の説明
4.心理的アプローチ
5.脳の分割
6.「私」の候補が多すぎて答えが出ない問題
7.身体的アプローチ
8.より広い諸問題





1.人格のアイデンティティーの問題

 
 人格のアイデンティティーという単独の問題は存在せず、緩い形で結びついた幅広い問題が存在するだけである。もっともなじみ深い問題を以下に列挙してみよう。


私とは誰か?        私たちはしばしば、自分の人格のアイデンティティーについて、自分をいまある人間とするものとして語る。この意味であなたのアイデンティティーとは、大ざっぱに言って、あなたを一人の個人としてユニークなものにし別の人々とは異なった人間とするものから成り立っている。あるいは、あなたが自分自身を見たり定義するする仕方や、あなたの人生を形作っている価値観や確信のネットワークが、あなたのアイデンティティーなのである。この個人のアイデンティティーとは一つの属性(あるいは属性の集合)なのである。おそらくそれはあなたが偶然に持っているにすぎない属性なのである。あなたは、あなたが実際に持っているアイデンティティーとは違うアイデンティティーをもっていたかもしれない。それはまた、あなたが一時的にもっているにすぎない属性でもある。あなたは現在の個人的なアイデンティティーを新しいアイデンティティーと交換することができるかもしれないし、あるいは全くアイデンティティーを持たないまま日々を過ごすことができるのかもしれない (Ludwig 1997 はこのトピックについて典型的な議論をしている)。 




人格性        一個の人格であるということはどういうことか? 何かが(非人格と対比して)人格として見なされるためには何が必要であり何があれば十分なのか? 人間が持っていて、人間ではないものが持っていないものは何か? これは、多かれ少なかれ、人格という言葉の定義を求めることに帰着する。それに対する答えは、「必然的に、Xが人格であるのは、Xが…である場合に限る」という形式をとるだろう(…の箇所に適当な語句がはいる)。もっと具体的に言えば、受精卵からの発展のどの地点で人格が存在するようになるのか、あるいはチンパンジーや火星人やパソコンが人格になるには何が必要なのか(もし、そういうものがあればの話だが)、と問うこともできる。(See e.g. Chisholm 1976: 136f., Baker 2000: ch. 3.)。


持続性       ある人格がある時点から別の時点まで持続する--つまり、同じ人格が異なった時点で存在するためには何が必要なのか? どんな種類の冒険ならばあなたは可能的に(可能的という語のもっとも広い意味で)生きのびることができ、どんな種類の出来事が起こると必然的にあなたの存在は終わりを迎えるのか? どの過去の存在があなたでありどの未来の存在があなたであるということを何が決めるのか? あなたは、古い学校の写真の中にいる子供を指さして、「これは私だ」と言うとしよう。何があなたを(別の子供たちのうちの一人ではなく)その子供とするのか? その子供と今現在のあなたとの関わり方の何がその子供をあなたにするのか? これは通時的人格のアイデンティティーの問題である。それに対する答えはわれわれが持続する条件の説明であり、人格のアイデンティティーが通時的に持続する基準の説明なのである。…


 歴史的にみると、この問いは、私たちは死後も存在し続けるかもしれないという希望(あるいは恐れ)からしばしば生じた--プラトンの『パイドン』が有名な例である。そのようなことが生じるかどうかは、生物学的な死が必然的に人間の存在を終わらせるかどうかにかかっている。あなたの死後に、来世であれ現世であれ、ある点であなたによく似た人が現れるとしよう。その存在が(誰か別人でなく)あなたであるためには、その存在は現在のあなたとどのような関わりをもつのだろうか? あなたの死後、あなたを存在し続けるようにするために、神は何をしなければならないのだろう? あるいは、神に何かできることがあるのだろうか? こうした問いに対する答えは、持続の問題に対する答えに依存するのである。




証拠    誰が誰であることを私たちはどのようにして見出すのか? 今ここにいる人格が昨日ここにいた人格であるかどうかという問いに関係する証拠とは一体何であろうか? 違う種類の証拠が対立する判断を支持するとき私たちはどうすべきであろうか?  証拠のソースの一つは一人称の記憶である。もしあなたが何か特定の行為をしたことを覚えているか、あるいは少なくとも覚えているように思われ、そして実際に誰かがそれをしたならば、おそらくその人はあなたであるだろう。別のソースは物理的な連続性である。もしその行為をした人があなたによく似ているならば、あるいはさらに具合のいいことに、その人がある意味で物理的にか空間-時間的にあなたと連続的であるならば、それはその人があなたであると考える理由となる。これらのソースのどちらがより根本的であろうか? 例えば、一人称の記憶はそれだけで証拠として見なされるのだろうか、それとも私達がそれを公的に利用できる物理的証拠と照らし合わせることができる限りでのみ、それは証拠として見なされるのだろうか?

 証拠の問題は、1950年代から1970年代までに人格のアイデンティティーについて書かれた哲学的な研究の文献を支配していた (Shoemaker 1963 and Penelhum 1970 がよい例である)。証拠の問題を持続の問題から区別することが重要である。あなたが通時的に持続するために何が必要かということと、あなたが持続したかどうかをどのようにして私達が見出すかということは別の問題である。もし犯罪者があなたとそっくりの指紋をもっているならば、法廷は犯罪者があなたであると結論づけるかもしれない。しかし、もしそれが決定的な証拠であるとしても、あなたの指紋をもってることは、過去の存在や未来の存在があなたであることではないのである。それは必要条件でもないし(あなたは全く指紋を持たないで生きてきたのかもしれないし)、それは十分条件ではない(誰か別の人があなたの指紋と全く同じ指紋をもっているかもしれない)。



人口       持続の問題を、物語の最初で導入される登場人物のどれが生き延びて物語の最後の登場人物になるのかを問う問題であると考えるならば、私たちはまた、ある時点でステージ上に何人くらいの登場人物がいるのかを問うてみたい気持ちになることもあるだろう。私たちは今何人くらいいるのかを何が決定するのか? 現在、地球上に約70億の人間が存在しているとして、どんな事実が--生物学的、心理的等々のどんな事実が--その数字を適切な数字にしているのか? この問いは、ある時点で何がある数の人間が存在するのかということではなく、その数の人間が存在しているということが一体何に存しているかという問いなのである。これは、(どんな手を指せば普通は黒の勝利になるかという問いであるよりむしろ)チェス盤の駒のどんな配置が黒の勝利に終わるかと問うことに似ている。


 ある時点での人間の数とは、その時点での生物としてのヒトの数にすぎないではないかと考える人もいるだろう(人間として見なされない欠陥状態にある人々は割り引いたり、ヒトとは言えない人間(もしそういう人間がいるとしての話だが)を無視するならば)。しかし、これも議論の対象になっているのである。外科医はしばしば大脳の半球を結び付ける神経の繊維帯を切断することがある。その結果として、ある種の根本的な意識の不整合--同時に、片手でズボンをずり上げ、もう片方の手でズボンをずり下げる--を示唆する行動が現れることがある。これは二人の人間が一つの肉体を共有しているという印象を与える。(Nagel 1971. Puccetti 1973 は、正常な人間の肉体にも二人の人間が存在すると主張している)。あるいは、二重人格の人間には、文字通り二人あるいはそれ以上の思考する存在が住んでいるのかもしれない(Wilkes 1988: 127f.; see also Olson 2003b)。


 これはしばしば、持続の問題の「通時的アイデンティティー」(や、以下で扱われる「私はどのような存在でありえたか」という問いの「反事実的アイデンティティー」)と対比して、「共時的アイデンティティー」の問題と呼ばれる。しかしながら、こうした専門用語は慎重な扱いが必要である。それらは、アイデンティティーには共時的と通時的という二つの種類があるという印象を与えかねないからだが、これは重大な混乱というべきで。実は、単に、どれくらいの人間が存在しているのかを問う状況には二種類ある、ということにすぎないのである。共時的状況は一つの時点しかふくまないのに対して、通時的状況は時間の広がりを含んでいるのである。


私とは何か?       形而上学的に言って、あなたや私や他の人間はいかなるものなのか? 私たちの根本的な形而上学的本性とは一体何か? 例えば、私たちは何からできているのか? 私たちは、石のように、すっかり物質からできているのか、それとも部分的にせよ全体的にせよ何か別のものからできているのか? もし私達が物質からできているならば、それはどんな物質なのか? (単に私たちの身体を作り上げている物質なのか、あるいは、私たちは身体よりも大きいのか小さいのか?)。言い換えると、私たちの空間的境界はどこにあるのか? もっと根本的には、こうした境界を定めるのは何か? 私たちは実体--形而上学的に独立した存在--なのか、それとも、私たち一人ひとりは何か別のものの一つの状態あるいは一つの様態なのだろうか、それとも何らかのプロセスあるいは出来事なのだろうか?


 こうした幅広い問いに対する一つのあり得る答えは、私たちは生物であるという答えである。(驚くべきことだと思うが、ほとんどの哲学者はこの答えを拒絶する。われわれは後にこの点に戻るつもりだ)。別の答えは、私たちは部分を持たない非物質的な実体である--あるいは、非物質的な魂と物質的な肉体からなる複合的なものであるという答である(Swinburne 1984: 21)。ヒュームは、われわれ一人ひとりは「知覚の束」であると主張した(1978: 252; see also Quinton 1962 and Campbell 2006)。今日人気のある見解は、私たちは生命「によって構成された」物質的なものであるという見解である。あなたはある種の動物と同じ物質によってできているが、あなたとその動物は違うものである。なぜなら、あなたが持続するために必要とするものは、動物とは違っているからである(Shoemaker 1984: 112?114 and 1999, Baker 2000)。別の見解によると、私たちは動物の時間的な部分である(Lewis 1976, Hudson 2001)。私たちを特徴づけるものは何もないという逆説的な見解さえある。私たちは実際はまったく存在してはいない、というのだ(Russell 1985: 50, Wittgenstein 1922: 5.631, Unger 1979)。 (Olson 2007 discusses these matters at length.)



私はどのような存在でありえたか?     私が現に存在する在り方とはどれほど違った在り方が、私にはできたであろうか? 私の属性のどれを私は本質的にもっていて、どの属性を単に偶然的にもっているのか? 例えば、私は違った両親をもつことができたであろうか? フランク・シナトラとドリス・デイは夫婦として子供を持てたであろうか? 私がその一人であることは可能だったろうか? それとも、彼らは私以外の子供しか持てなかったのであろうか? 私は、意識をもつ前に、子宮の中にいてそこで死ぬこともあり得ただろうか? 現実の世界とまったくよく似ているが誰が誰であるという点だけは似ていない可能世界が存在するだろうか--そこでは、人々は「場所を変えた」だけで、あなたの生涯が私の生涯となり私の生涯があなたの生涯となるような可能世界が存在するだろうか? こうした問いが人格のアイデンティティーについての問いとして記述されるのが最良であるかどうかは議論の余地がある。(それらは、別の世界の存在が現実の世界の人々と同じであるかどうかについての問いではない。van Inwagen 1985を参照されたい)。しかしそれらの問いは、しばしば、別の問いと関連づけて議論されることがある。



 アイデンティティーの何が重要なのか?    私たちのアイデンティティーと持続についての事実は、実際、どれほど重要なのであろうか? なぜ私たちはそれについて関心を払うべきなのか? なぜそれが重要なのか? 外科医があなたの脳を私の頭の中に入れようとしていて、私たちのいずれもそれを食い止めることができないとしてみよう。その結果生じる人格--彼は多分自分はあなただと思うだろう--は、私の行為に責任をもつのか、それともあなたの行為に責任をもつのだろうか(それとも、両方の行為に責任をもつのか? それとも、どちらの行為にも責任をもたないのか?)。 私たちのどちらか一方があらかじめ大金を払わなければ、彼は手術の後ひどく苦しむだろうとしてみよう。私たち二人がともに全く利己的であるならば、私たちのいずれが代金を支払う理由をもつだろう?


  それに対する答えは、結果として生じる人格があなたであるか私であるかに全面的に依存しているように思われる。あなただけがあなたの行為に対して責任を取りうる。その未来の幸福をあなたが無視できない唯一の人間はあなた自身である。あなたが特別な利己的関心を寄せるのはあなた自身の未来に対してであって、ほかの誰かの未来に対してではない。アイデンティティーそのものは、実際、重要なものである。しかし、このことを否定する人もいる。その人々によれば、あなた以外の誰かがあなたの行為に対して責任を取ることもあるという。あなただって、ほかの誰かの幸福に対して、その人のため思って関心を寄せるまったく利己的な理由をもつことがあるかもしれない。明日、私の名前で呼ばれることになる人間に何が起こるかについて関心を寄せる理由を私に与えるものは、その人が私であるということではなく、その人が今現在の私と、明日になっても心理的に連続しているということであり(Section 4を参照)、あるいは、その人が私となんらかの仕方で(その人と私が同じであるということを含意しない仕方で)つながっているということなのである。私以外の誰かが、明日、今の私と心理的に連続しているのであれば、私にとって重要なものをもっているのはその人になるだろうし、私は私の利己的な関心をその人に譲渡すべきだろう。そうなると、アイデンティティーそのものは実際上の重要性を全く持たないことになる。(Shoemaker 1970: 284; Parfit 1971, 1984: 215, 1995; Martin 1998.)。 


 以上で問題の概観は完了した。明らかにこれら八つの問題は関連し合っているが、それらすべてを人格のアイデンティティーについての問題にするような重要な共通の特徴を見いだすのは難しい。いずれにせよ、それらは異なった問題であり、それらを別個の問題としなければ混乱をもたらすだけなのである。







」(つづく)













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