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愛とは何か(3) [探求]

 スタンフォード大学の「哲学百科事典(
Stanford Encyclopedia of Philosophy)」の「愛(love)」の項目を紹介するシリーズの第三回目。“Love as Robust Concern(強い関心としての愛)”と題された第三章を見る。前章が愛を新たな存在の創造という側面から見たのに対して、この章はもっと従来型の、愛を「私の」関心から説明する。


 (ちなみに、最初はこの「愛」の項目の全体を訳そうかと考えたが、意外に発展性がないようなので、この第三章で中断することにしたい)。





Love

First published Fri Apr 8, 2005; substantive revision Fri Jun 21, 2013

http://plato.stanford.edu/entries/love/




愛 (3)

 2.3. 強い関心としての愛


  合一説のこの批判が示すように、愛の相手に対しその人のためを思って関心を寄せることを、その人を愛することの一部であると多くの人が考えている。愛とは強い関心のことだとする説は、このことを愛の中心をな試合を定義する特徴だと見なしている (cf. Taylor 1976; Newton-Smith 1989; Soble 1990, 1997; LaFollette 1996; Frankfurt 1999; White 2001)。テイラーが言うように、


  「要約するならば、を愛するならば、のためになることをしようと思ったり、と一緒にいたい等々と思うが、がこうした欲求(少なくとも、そのいくつかの欲求)をもつのは、が何か特定の特徴Φをもっているとxが思っているからであり、その特徴のおかげで、のためになることをしようと思ったり、と一緒にいたいと思うからである」[p. 157]。


 
  あなたに対する愛を、あなたのためを思ってあなたに関心を寄せることとして考えるとき、強い関心説は、合一説にとって中心的な考え方、つまり、愛とは「私たち( “we”)」の(文字どおりの、あるいは比喩的な)創造という観点から理解されなければならないという考え方を拒絶するのである。あなたに対する関心は、根本的に私の関心なのだ。たとえ、それがあなたのためを思う関心であり、したがってエゴイスティックなものではないとしても、私が抱く関心なのである。


  強い関心説の中心にあるのは、愛とは「感情的でも認知的でもなく、意志的なものである」という考え方である(Frankfurt 1999, p. 129)。フランクフルトは次のように続ける。


  「ある人が何かに関心を抱いたり愛するということは、彼の感じ方や彼の見解に関係するというよりも、彼の好みを形成し彼の行動を導いたり制限する、多少なりとも安定した動機づけの構造(motivational structures )に関係しているのである」。



  この説明は、誰かに対してその人のためを思って関心を抱くことを、特定の仕方で動機づけられていることとして、部分的に、愛する相手に起こっていることに対する反応として、分析する。もちろん、愛を欲求という観点から理解することは、他の感情的な反応を除外することはない。なぜならこれらの感情も欲求の結果として理解されるべきであるのだから。私の強い欲求の一つが叶わないとき、私は感情的にへこんでしまうように、私の最愛の人にとって事態が上手く行かないときも、私は感情的にへこんでしまう。こうして、フランクフルト(1999) は暗黙のうちに、ホワイト(2001) はハッキリと、最愛の人に対してその人のためを思って関心を寄せることで、私のアイデンティティーが彼女からの影響によって変貌する--なぜなら、彼女の身の上に起こったことの影響を私も受けるのだから--ことを認めるのである。


 
   しかし、強い関心説の理論家のすべてが、こうした考え方を受け入れているわけではないようだ。特に、テイラー(1976)とソーブル(1990)は人格についての強力なまでに個人主義的な考え方をもっているようなので、私のアイデンティティーは、最愛の人とこれほどに結び付くことを彼らは認めないのだが、こうした見解は、愛が持っているような直観的「深さ」を台無しにするように思われ(この点については、 Rorty 1986/1993)。中間にいるのがスタンプ(2006)で、彼は、愛には最愛の人の幸福に対する欲求が含まれているだけでなく、最愛の人とのある種の関係--たとえば、親として、配偶者として、兄弟として、司祭として、友人としてといった関係--に対する欲求が含まれていると理解する点で、アクィナスに従っている--その関係の中で、あなたは、最愛の人と自分自身を共有し、その人に結びつくのである。


   強い関心説の心配の種の一つは、それが、最愛の人についてあまりに受動的に理解していることである (Ebels-Duggan 2008)。つまり、強い関心説に立てば、愛する者は、最愛の人の幸福がどこにあるかを発見しようと努め、それを促進しようと振舞うだけであって、最愛の人の努力などはその人の幸福を害すると考えて、それに反対しかねない、という批判である。しかし、これはその人にとって失礼でありその人の品位を落とすような考え方であり、愛にふさわしい態度ではない。強い関心説が見落としているのは、愛には(それぞれ自律性の能力をもって)相互に作用しあう主体が含まれているという点である、とエーベルス-ダッガンは主張する。強い関心説を主張する人々は、それに応えて、ある人の幸福を促進することは、通常、その人の自律性を促進することを含むものだと指摘するだろう(それは常に正しいわけではないことは、彼らも認めるかもしれないが。最愛の人に対するパターナリズム的態度は、愛情の表現として、ときとして正しく適切でありうるのだから)。おまけに、自律性を行使することによってのみ、自分自身の人間としての幸福を定義できると考えるのはもっともであるから、愛する者が最愛の人の自律性を尊重しないのは、その人の幸福を促進しないことであり、したがって、エーベルス-ダッガンの主張に反して、愛の表現ではないことになるだろう。ゆえに、強い関心説がこの反論に対処できるとすれば、それは、人間であることについての、したがって、人間の幸福についての実りある考え方を提供することによってであるように思われるのである。



   もう一つの心配の種は、強い関心説が提供する愛の考え方が、あまりに希薄なものであるという点である。強い関心を強調することで、この見解が、最愛の人に対する感情的反応といった愛に特徴的と考えられる別の特徴を、愛の構成要素というよりも愛の結果であると理解する。したがって、ヴェルマン(1999)によれば、強い関心説は、愛を特定の目的(最愛の人の幸せ)を目指すものとしてのみ理解することで、愛を単に欲求的なものであると理解するという。しかし、愛は欲求とは何の関係もないとヴェルマンは述べ、反証として、一緒にいたくもないし、その幸福を促進したいとも思わないトラブルだらけの親類を愛するという可能性を提示している。同様に、バドワー(2003)も、愛についてのこうした「目的論的」見解は、死によって害も恩恵も与えられない彼方に相手が逝ってしまったずっと後になっても、どうして愛し続けられるかを不可解なものにしてしまうのである(P. 46)。さらに、バドワーによれば、もし愛が本質的に欲求であるならば、私たちには何か欠けたところがあることになる。しかし愛はこうしたことを含意しないし、私たちが自分の生をとても満たされていて何も欠けるものがないと感じるときでも、愛をとても強く感じることがあるのである。したがって、ヴェルマンとバドワーは、愛は最愛の人の幸福に対する欲求や関心を含む必要はない、と結論づける。



   もっとも、この結論は性急すぎるのかもしれないのであって、それは、こうした例も強い関心説の内部に上手く取り込むことができるからである。ヴェルマンの例における親戚に対する関心は、確かに存在しているが、その親戚を避けたいという別のもっと強い欲求によって圧倒されていると理解できる。ある程度はその人に恩恵を与えたいという考えを抱くことは、(ヴェルマンは拒絶する考えだが)、ある人を愛することと、その人を助けたいと思わないことの緊張状態を理解することにとって重要なことであろうが、この緊張状態をヴェルマンは十分に評価しないのである。同様に、死んでしまった人に対する継続的愛は、強い関心説に立てば、その人がまだ生きていたときにその人に対して抱いたかつての愛に寄生する愛として理解できるだろう。その人に恩恵を与えたいという欲求は、それが不可能であることを理解することを通じて、願望へと変貌するのである。最後に、最愛の人の幸福に対する関心という考えは、愛する人は何かを欠いているという考えを含意する必要はないのであって、それは、そうした関心は、いつかはその人の役に立てる時が来ることに注意を払い、その時が来れば生じる欲求をもとうとする気持ちによって理解できるからである。

   ヴェルマンとバドワーが、厄介な親類や死んでしまった人を愛するという例を適切に利用しているかどうか、疑問に思ってもいいだろう。なぜなら、こうした例は愛の紛れもないケースとして理解できるが、それでも、これらの例は不完全な例であるし、標準的なケースに寄生する例として理解すべきだからだ。愛についてのこうした不完全な例を典型的なケースと同等のものとして、安易に哲学的な分析にかけて、しかも特別な正当化もしないのは、疑わしいやり方なのである。



  それにもかかわらず、現状のままでの強い関心説は、愛の直感的な「深さ」を適切に説明できてはいないようであるし、好き(liking)から愛する(loving)を適切に区別しているようにも見えないのである。上に述べたように、強い関心説は、愛する者のアイデンティティーが最愛の人によって変わるあり方についてある程度の意味づけをすることはできても、その説はこの変化を愛の結果としてのみ理解するのであって、愛が一体どの点に成り立つのかの中心部分として理解することはしないのである。






」(とりあえず終わり)













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