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愛とは何か (2) [探求]

 スタンフォード大学の「哲学百科事典(
Stanford Encyclopedia of Philosophy)」の「愛(love)」の項目を紹介するシリーズの第二回目。“Love as Union(合一としての愛)”と題された第二章を見る。



Love

First published Fri Apr 8, 2005; substantive revision Fri Jun 21, 2013

http://plato.stanford.edu/entries/love/




愛 (2)


 2.合一としての愛

 合一説(union view)は、愛とは、何らかの重要な合一、何らかの「私たち」を形成する(または形成しようと望む)ことにある(love consists in the formation of (or the desire to form) some significant kind of union, a “we.”)、と主張する。それゆえ、合一説の理論家の中心的課題は、そのような「私たち」が文字通り、愛する者と愛される者から成り立つ世界の中の新たな存在なのか、それともそれは単なる比喩にすぎないものなのかをハッキリさせることである。この見解は、おそらくアリストテレスにまで遡るものだが (cf. Sherman 1993) 、モンテーニュやヘーゲルにも見出すことができる。現代の支持者には、ソロモン、スクラットン、ノージック、フィッシャーおよびデラニーがいる。


 スクラットンは、とくに恋愛について話題にしながら、愛は「相互性が共同体になるやいなや」、つまり、「私の関心とあなたの関心のすべての違いがのり越えられるやいなや」存在するものだと主張する(1986, p. 230)。ここで考えられていることは、合一とは関心の合一のことであって、私がその関心から行動するとき、それは私だけのためでも、あなただけのためでもなく、私たちのためだ、ということである。フィッシャー(1990)も似ているがやや緩やかな見解を抱いていて、愛とは愛し合っている者同士の心配事や関心や感情的な応答や行動が部分的に融合することだ、と主張する。スクラットンとフィッシャーの両者に印象的なのは、愛が愛し合っている者同士の関心の現実的な合一を求めるという主張である。なぜなら、愛とは、私たちがお互いに対してもつ態度というよりも、関係であるとスクラットンとフィッシャーが見なしていることは、そう考えて明らかになるからだ。あなたの関心と私の関心の区別が完全に消えるのは、私たちがともに共有された関心や心配をもつようになるときに限られるからであり、私があなたに対してある態度をとるだけでは、愛が生まれるには十分ではないのである。こう考えることで、共有された心配や関心の(比喩的な?)主体――そのために私たちが行為する主体――としての「私たち」という概念に内容が与えられるのである。


 ソロモン(1988)も合一説を説くが、それは「二つの魂の「融合」ということを比喩的にではなく文字通りの意味で理解することで、「愛」について新たに意味づけをしようとする」合一説なのである(p. 24, cf. Solomon 1981。もっとも、彼が「二つの魂の融合」ということで何を言いたいかはハッキリしないし、どうして愛が二つの魂の「文字通りの」融合でありうるのかもハッキリしないのだが)。ソロモンが念頭に置いているのは、愛を通して、愛する者同士が人格としての自己のアイデンティティーをその関係によって再定義するあり方である。「愛とは、愛する者同士が単一の個体として集結しそこに焦点を結ぶことで定義し合うことであり、自己のほとんどすべての人格的側面をそのプロセスに従わせることである」(1988, p. 197)。その結果として、愛し合う者同士は、関心や役割や長所等を共有するにいたり、それらが、かつては二つのアイデンティティーだったが今や共有された一つのアイデンティティーを構成するようになるのであり、それも、お互いが自分自身のアイデンティティーを定義する上で相手が重要な役割を果たすのを認めることによってなのである。


 ノージック(1989)は、愛に必要なのは単に「私たち」を形成しようとする欲求--および、相手も同じようにしてほしいという欲求--なのであると考える点で、スクラットン、フィッシャー、ソロモンのものとは異なる見解を提示する。ノージックによれば、この「私たち」とは、愛し合うもの同士の新たな関係の網の目によって創造される・・・世界の中の新たな存在なのであるが、「そうした関係の網の目が出来てしまった以上、彼ら二人はもう別々にいることがない」(P. 70)。この関係の網の目がどういうものかを明らかにしようとするとき、ノージックは、愛する者同士が自分たちの幸福をプールしあう--お互いの幸福がもう一方の幸福に結びついているという意味で--だけでなく、自分の自律性をもプールし合って、「お互いが、決定を自分ひとりで下すという以前持っていた権利を、二人のためのプールに譲渡する」という点に訴えかけている。おまけに、ノージックによれば、愛する者はそれぞれ、新たなアイデンティティーをこの「私たち」の部分として獲得するのだが、その新たなアイデンティティーは、(a)カップルとして皆から見られたいと思い、(b)プールされた自分たちの幸福に関心を払い、(c)「ある種の分業」(P. 72)を受け入れる、ことによって構成されるのである。


 「「私たち」の一人が、自分は興味がないからという理由ではなく、相手のほうが自分よりももっと大きな興味を抱いているからという理由で、面白そうな本を見つけてもそれを相手のためにとって置くことがあるが、それは、どちらか一方が読めば、いまや共有されているより広いアイデンティティーとしての「私たち」が記憶するのに十分であるからである」。



 合一説に反対する人々は、このような主張を、あまりにも行きすぎた説と捉える。彼らによれば、合一説の論者は、「私たち」というこの概念の存在論的コミットメントをあまりに文字通りに受けとりすぎているというのだ(つまり、「私たち」を一つの(新たな)存在として見なしている、ということ--訳者註)。これは合一説に対する二つの明確な批判を生み出す。第一の批判は、合一説をとると、個人の自律性がなくなってしまう、というものである。自律性は、自律的な主体にある種の独立性があることを含意している。たとえば、そうした主体は、自分のすることだけでなく、自分が何者であるか--その人の関心や価値観や心配事によって構成されている--について、しっかり統制をとっているという自律性である。しかし、合一説は、あなたの関心と私の関心とのはっきりした区別を取り去ってしまうことで、この種の独立性を台無しにしてしまい、それによって、愛し合う者たちの自律性を台無しにするのである。もし自律性が個々人のもつ善の一部であるならば、合一説に立てば、愛はその限りで悪いものとなってしまう。これは合一説にとっても具合の悪い結論である (Singer 1994; Soble 1997)。それに、シンガー(1994)も言うように、愛する人があなたの愛の対象となるのに必要なことには、愛する人をそのとおりの人間として尊重することが含まれていて、そのためにはその人の自律性を尊重する必要があるのである。


 合一説の理論家は、この反論にいくつかの答えを出してきた。ノージック(1989)は、愛において自律性がなくなることを、愛する者たちが達成できる合一の望ましい特徴だと考えているようだ。フィッシャー(1990)は、もう少ししぶしぶながらではあるが、愛における自律性の喪失は愛の受け入れられる結果であると主張している。しかし、さらに論証を重ねることなく、ただこう主張するだけでは、たんなるやせ我慢に見えてしまうのだ。ソロモン (1988, pp. 64ff) は合一と自律のこうした「緊張」を「愛のパラドクス」と記述している。しかし、これはソーブル(1997)が嘲る見解なのだ。ソロモンがするように、たんにこれを「愛のパラドックス」と呼ぶだけでは、問題を直視することにはならないのだ。


 第二の批判は、愛についての実質的な見解を含んでいる。批判者たちによれば、誰かを愛することは、相手に対してその相手のために関心を寄せることである。しかし、合一説はそのような関心を理解不能にし、利己性の可能性も自己犠牲の可能性も排除してしまう。なぜなら、私の関心とあなたの関心の区別をなくしてしまうことで、合一説は、実は、あなたの関心を私の関心に変えてしまうわけだし、私の関心をあなたの関心に変えてしまうからだ (Soble 1997; see also Blum 1980, 1993)。合一説を支持する人の中には、これを自分に有利になるポイントとして見る人もいる。私は自分以外の人々に対してどのようにして関心をもつことができるかを、私たちは説明する必要があるが、合一説は、あなたの関心は私自身の関心の一部であると理解することで、明らかにこの説明をしているではないか、というわけである。(利己的に利用されないように)利己的でない仕方で愛されたいという願望と(愛する者に魅力的で、したがって、ある程度利己的な)理由のために愛されたいという願望の間にある明白な緊張に答えようとして、デラニーは次のように述べている(1996, p. 346)。


 「恋愛の理想は、「私たち」の形成を通して、欲求と関心の深い統合を実現したいという願望によって特徴づけられるという私の見解に立つと、いま述べたようなちょっとした利己主義が、愛し合う者同士のどちらにとっても心配の種にはならないと私は思う」。


 しかし、反論すべき点は、愛する相手に対する私の関心を利己的に説明しようとする試みにあったのだ。ホワイティング(1991, p. 10) が述べるように、このような試みは「不必要であるし、潜在的には不快な植民地化のように私には思える」。愛において、私は相手に関心を寄せるべきだが、それはその人のためを思ってのことであって、そこから何かが得られるからという理由からではない。(相手に対する私の関心が、私の善にとっての一助となるものであれ、私の善を部分的に構成するものであれ、このことは正しい)。


 ホワイティングやソーブルのこの点についての批判は、合一説のラディカルな支持者に対しては成功しているが、彼らは、合一という観念から引き出しうる真理の核心を部分的に認めていないのだ。第二の反論を不必要なエゴイズムという観点から述べたホワイティングの定式化は、ある意味で、打開策を目指すものだった。つまり、私たち人間は、部分的には、社会的な生き物であり、愛はその社会性の深い様態の一つである。確かに、合一説の肝心なポイントの一部は、この社会的次元を理解することである。つまり、それは、他者と依存し合うという点だけでなく(シンガーが述べるように(1994, p. 165) 、「相互依存」とは相互に恩恵となり敬意となることだと理解するならば)、自分の人間としてのあり方が、相手によっても構成されるという点で、私たちが他者としばしば同一化できるあり方を理解することであるからだ(cf., e.g., Rorty 1986/1993; Nussbaum 1990)。

 
 こうした経緯をたどって、フリードマン(1998)は、デラニー(1996)からもインスピレーションを受け取りながら、私たちは愛において問題となる合一を二つの自我からなる一種の連合体(federation)であると理解すべきだと主張するのである。


 
 「連合体モデルに立てば、第三の統合された存在は、愛し合う者同士の相互作用によって構成されるものである。その存在には、愛し合う者同士が、幅広い条件をくぐり抜け幅広い目的を追求しながら二人そろって行動するということが含まれている。二人そろった行動といっても、二人の愛し合う者が、それぞれの主体性を行使する可能性をもちつづけながら、別個の主体として存在しているということにはかわりない」 [p. 165]。


 このモデルに立てば、愛し合う者たちは個人としてのアイデンティティを放棄することはなくなるが、そうなれば、愛する者が相手に対してその相手のためを思って関心を寄せることを合一説が理解できないとする原理的理由はなくなる。おまけに、いったん合一を連合体として解釈すれば、自律性はゼロ・サムゲームではないことが理解できるだろう、とフリードマンは主張する。むしろ、愛は愛し合う者同士の自律性を高め、かつ、現実的で批判的な自己評価のような、自立性をはぐくむ様々な能力の成長を促進することもできるのである。

 それにもかかわらず、この連合体モデルにも問題がないわけではない--その問題は、合一説の別のヴァージョンにも影響を及ぼすような問題なのである。なぜなら、もし連合体(または、ノージックの見解に立てば、「私たち」)が第3の存在と理解されるならば、私たちは、その存在論的身分について、そしてそれがいかにして存在するようになったかについて、もっと明確な説明を求める必要がある。この点で重要なのは、共有された意図と複数の主体に関する文献である。ギルバート(1989、1996、2000)によれば、私たちは、複数の主体が一つの存在として、それを構成するメンバーとは独立して存在しているということを真剣に考えるべきだという。ツオーメラ(1984, 1995),サール(1990)、およびBratman(1999)などはもっと慎重で、「私たち」が意図をもつという語り方を比喩的だとして扱っている。







」(つづく)













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