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愛とは何か (1) [探求]

 以前、スタンフォード大学の「哲学百科事典(
Stanford Encyclopedia of Philosophy)」から「自殺」の項目の一部を紹介したことがあったが(http://miksil.blog.so-net.ne.jp/2013-04-02)、今度は「愛(love)」の項目を紹介してみたい。全体の構成は以下のようになっている。一回に一節のペースでぼちぼちと進めていく予定。


1. Preliminary Distinctions      (予備的な区別)
2. Love as Union           (合一としての愛)
3. Love as Robust Concern       (強い関心としての愛)
4. Love as Valuing          (価値づけとしての愛)
4.1 Love as Appraisal of Value    (価値評価としての愛)
4.2 Love as Bestowal of Value     (価値の付与としての愛)
4.3 An Intermediate Position?     (中間的な立場?)
5. Emotion Views           (感情説)
5.1 Love as Emotion Proper      (感情そのものとしての愛)
5.2 Love as Emotion Complex      (感情の複合としての愛)
6. The Value and Justification of Love(愛の価値と正当化)





Love

First published Fri Apr 8, 2005; substantive revision Fri Jun 21, 2013

http://plato.stanford.edu/entries/love/




愛 (1)

 1. 予備的な区別

 日常の会話で、私たちはしばしば次のようなことを言う。

1.私はチョコレート(またはスキー)が大好きだ(I love chocolate (or skiing))。
2.私は哲学をする(または父である)のが大好きだ(I love doing philosophy (or being a father))。
3.私は私の犬(または猫)が大好きだ(I love my dog (or cat))。
4.私は私の妻(または母親や子供や友人を)が大好きだ(I love my wife (or mother or child or friend))。


 しかし、どのような「大好き(love)」が意味するものは、場合場合で異なっている。(1)は、たんに、私がこの物や活動が大いに好きであることを意味するだけのこととして理解していいだろう。(2)では、特定の活動に従事したり特定の人間でいることが、私のアイデンティティーの一部であり、私の人生を生きるのに値するものにしている、と私が思っているということが考えられている。これに対して、(3)と(4)は、他の何かにきちんと同化するできないような関心事を示しているように思われる。私たちは、(4)で問題となるような「大好きだ」を、大ざっぱに言って、別の人間に対して、その人のために関心を寄せることとして理解していいだろう。(したがって、(3)は、普通は人間のためだけに使われる愛を人間以外にも使うあり方として理解していいだろう)。愛についての哲学的な理論は、(4)で問題となる人格的愛(personal love)に主たる関心を注いできた。このような人格的愛がここでも焦点になるのである。



 しかし人格的な愛の中でも、古代ギリシア以降の哲学者は、伝統的に、「愛」と呼ばれるのがふさわしい三つの概念を区別してきた。エロス(eros)とアガペー(agape)とフィリア(philia)である。これら三つの概念を区別しておけば、現代の議論がよくこうした区別を曖昧にしていたり(しばしば意図的にそうしている)それらの区別を他の目的のために使用している様についてもの申すことできるようになるのである。


 「エロス」は、元々 、ある対象に対する情熱的な欲求、一般的には性的情熱という意味での愛を意味する(Liddell et al., 1940)。ニーグレン(1953a、b)は「エロス」を「欲望の愛」あるいは「欲深い愛」として、したがって自己中心的な愛として描いている(1953b, p. 89)。ソ―ブル (1989b, 1990)も同様にエロスを「利己的」であると述べ、恋人のもつメリット――恋人の善良さや美しさ――に対する反応であると述べている。ソ―ブルのエロスの説明で明らかなのは、性的なものから離れようとする姿勢である。(ソ―ブルが作った言葉を使うならば)「エロス」的な意味で何かを愛するのは、そのメリットに反応することで、理性に従属する形でそれを愛することである。このようなエロスの理解はプラトンの『饗宴』の中の議論によって促される。『饗宴』でソクラテスは性的欲求を肉体的美に対する劣った反応であると理解している。その反応は、魂の美への反応へと発展されるべきであるし、最終的には美というイデアへの反応に発展されるべきである。

 
 ソ―ブルがエロスを理性に従属する愛であると理解するのは、アガペーとのハッキリした違いを強調するためであった。アガペーは対象の価値に反応するわけではない愛である。アガペーは、主にキリスト教の伝統によって、神の私たち人間に対する愛や、私たちの神に対する愛および、拡大解釈して、私たち相互の愛――一種の兄弟愛――を意味するようになった。神の私たちに対する愛の典型的な場合、アガペーは「自発的で何のきっかけがなくても生ずる」ものであるので、 それが明らかにするのは、私たちがその愛に値するということではなくて、神の本質が愛であるということなのである (Nygren 1953b, p. 85)。対象にあらかじめある価値に反応するというよりも、アガペーは、その対象の中に価値を創造し、それゆえ、私たちと神との交わりを開始するものと考えられる (pp. 87–88)。したがって、バドワー(2003、P 58)はアガペーを「愛される個人の根本的な特徴には従属しないもの」と特徴づける。ソ―ブル(1990、P 5)によれば、それゆえアガペは、エロスとは対照的に、 理性依存的ではなく、理性的に考えれば「理解不可能なもの」であり、せいぜい因果的あるいは歴史的な説明ができるにすぎないのである。

 
 最後に、「フィリア」は、元々は愛情にみちた配慮や友情を意味したが、その向う相手は友人だけでなく、場合によっては、家族や、ビジネス・パートナーや、祖国全体であることもある(Liddell et al., 1940; Cooper, 1977)。エロスと同様、フィリアは、一般に(普遍的にという訳ではないが)、愛情を寄せる対象の美点に対して好意を寄せるものと理解されている。エロスとフィリアのこの類似性のために、トーマス(1987)は、恋愛と友情の唯一の違いは、前者には性的関係があるというだけではないのか――そしてそれでエロスとフィリアの違いは充分説明できるのではないかと思ったのである。しかし、ソ―ブルがエロスにおける性的なものの重要性を引き下げようとした(1990)ことで、エロスとフィリアの違いを示す境界線は引きづらいものになっている。


 エロスとアガペーとフィリアの区別を維持することは、愛(恋愛含む)や恋愛の現代的理論に直面すると、さらにずっと困難なものになる。以下に説明するように、恋愛に関する理論の中には、恋愛をアガペーの伝統に沿った形で、愛情を寄せる相手の内に価値を創造するものとして理解するものがあるからであり、恋愛についての別の理論は、性的活動を、性以外の点では友情と大差ないものの単なる表現として扱っているからである。


 ここでは人間同士の愛に焦点を絞ることにするので、神の人間に対する愛(あるいは人間の神に対する愛)についてのキリスト教的考え方は省略されるし、エロスとフィリアの区別もぼやけてしまうことになる――一般に現代的な議論でそうなりがちであるように。その代わりに、ここでは、愛についてのこうした現代的な理解に焦点を絞ることにするし、私たちが他の人々に対してとる態度としての恋愛もそこに含めることにする。


 愛についての説明を提供するとき、哲学的な分析は、愛を、たとえば「好き(liking)」というような、私たちが他の人に対してとる別のポジティヴな態度から注意深く区別しなければならない。直感的に言えば、愛は「深さ」という点で「好き」のような態度とは異なるのであり、問題は、私たちが直感的に愛にあると思っている「深さ」を解明することである。数ある分析の中には、「好き」とはどういうことかの簡単な考え方を提供することによって、その解明を果たす分析もある。シンガー(1991年)やブラウン(1987)は「好き」を欲求の問題として理解しているが、欲求という態度はせいぜい対象が道具的(内在的ではない)価値をもつにすぎないということを含んでいる。しかし、これは不十分であるように思われる。確かに、他者に対する態度には、人間を対象とする欲求をもつことと、その人を愛することの中間にあるような態度があるのである。私はある人について、その人自身のために、単に道具的にではなく、関心を寄せることがあるが、そうした関心をもつからといって、私がその人を愛しているということになるわけではないのである。なぜなら、私は自分の犬についてまさに同じような仕方で関心を寄せることがあっても、その関心は、愛と呼べるほど人格的だとはいえないのである。



 愛の「深さ」は同一化の概念によって説明されるべきであるという直感を通して「好き」と愛を区別する方がより一般的である。つまり、誰かを愛するとは、何らかの仕方で、その人と同一化することであるが、「好き」にはそのような同一化の概念が含まれていない、という考え方である。ヌースバウムが述べたように(1990, p. 328) 、「ある潜在的な愛と別の愛のどちらを選ぶかという選択は、生き方の選択のように感じられるだけでなく、そうであることがある。つまりそれは、あの価値よりもこちらの価値に身を捧げようとする決意なのである」。「好き」がこうした「深さ」をもっていないのは明らかである。愛がある種の同一化を含んでいるのか、そしてもしそうならば、その同一化をどのように理解すればよいのかという点が、愛の様々な分析を分かつ中心の問題点なのである。


 愛を他の人格的態度から区別する別のよくある考え方は、弁別基準となるような評価という観点からのもので、それが愛の「深さ」を説明できるとする考え方である。やはりここでも、愛は本質的に弁別基準となる評価を含んでいるかどうか、またもし含んでいるならば、その評価をどのように理解するべきかが熱い議論の対象になっている。評価の問題に密接につながっているのは、正当化の問題である。つまり、私たちは、特定の人を愛することや、特定の人を愛し続けることを正当化できるのか、もしできるならば、どのようにして正当化できるのか、という問題である。愛の正当化が可能だと考える人々にとっては、そのような正当化を評価という観点から理解することが普通であり、この問題にどう答えるかで、様々な理論が、愛に含まれる不変性や献身や、愛が特定の個人に向けられる意味を理解しようとする試みに影響を与えることになる。


 以下では、試みとして、ためらいをもって、愛の理論を四つのタイプに分類することにする。つまり、「合一としての愛」、「強い関心としての愛」、「価値づけとしての愛」、「感情としての愛」の四つである。しかし、あるタイプに分類される特定の理論が、別のタイプに中心的な考え方を含んでいるとしても、矛盾が生じないことは明らかであるはずだ。ここで挙げられたタイプはある程度重なり合っているし、ある場合には、特定の理論を分類することは、過度に単純な決めつけを含んでいることもあるだろう。(そのような場合は、下で述べる)。分類上の問題は、ある程度、愛の多くの理論が不十分に還元主義的で、愛を愛情や評価づけや愛着等によって理解するが、それらの概念自体は決して分析されない、ということに起因している。こうした理論が明白に還元主義的な言語を回避している時でさえも、愛のそうした一面が他の一面にどのように概念的につながっているのかを示す試みがなされることはめったにない。その結果として、特定の理論を分類する明快な方法は存在していないし、ましてや愛の意味あるタイプがどのようなものであるべきかを突きとめる方法も存在していないのである。




」(つづく)













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makimaki

読みました
by makimaki (2014-03-28 22:39) 

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