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単館系映画トップ10 (2) [海外メディア記事]

  イギリス『ガーディアン』紙およびその日曜版の『オブザーバー』紙の映画批評家が選んだ「単館系映画トップ10(Top 10 arthouse movies)」の後半を紹介する。

 批評家たちのコメントの中で、もっともすぐれているのは『アンドレイ・ルブリョフ』のコメントだと思う。これを読むとほとんどの人は『アンドレイ・ルブリョフ』を観たくなるに違いない(たぶん)。もっとも、レンタルで簡単に借りられる作品でないのが惜しまれる。

 
 


 
Top 10 arthouse movies


Posted on Monday 21 October 2013 16.28 BST
theguardian.com

http://www.theguardian.com/film/filmblog/2013/oct/21/top-10-arthouse-movies







単館系映画トップ10 (2)





5位:市民ケーン

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 公開当時『市民ケーン』は多くの点で常識外れだった。オーソン・ウェルズはまだ20代前半だったが、そんな生意気な子供が随分と好き勝手なことをやってのけたことや、アメリカでもっとも権力をもつ人間の一人であるウィリアム・ランドルフ・ハーストをあえてほとんど脚色を加えることなく風刺的に描いたことや、結局はハースト自身の欠陥だらけの栄光を描く映画だったこと(「神の恩寵がなければ、神(のごときハースト)にも悲惨な末路が待ち構えている(There, but for the grace of God, goes God)」と人々は言った)。そして、かつて誰もしなかったほど映像と音声を豊かで濃密で美的なものにしたこと。ウェルズが「一回観ただけでこれを理解しようとは思うな」という態度をとったこと。ウェルズの関心が、お金よりも常識外れにすることにあったことなど常識外れの点は多々あった。


 こうした考え方のほんのわずかでも支持されるだけでハリウッドは困惑した。映画は芸術になりうるという隠しておきたいことが明るみに出てしまうからだ。この驚くべき非アメリカ的な考え方が定着するには時間がかかった。ハースト系のメディアがこの映画の上映を阻むためにあらゆることをしたからだ。『市民ケーン』は、フラッシュ・バックを多用したために、ハリウッド映画の判りやすい起承転結のハッキリした語り口で育った観客には理解するのが困難だった。それに、ウェルズは自己破壊的であるだけでなく、自分自身の最悪の敵でもあることが判明するのだった――どうしてそんな(ハリウッドを困惑させるような)重要な仕事を自分以外の人間に任せられようか? と彼は考えたのだ。 



 しかし、最終的に『市民ケーン』は受けいれられた。この作品がレンズも闇も音も構造も比類ないものであることは普通の映画製作者にも判った。この映画には素晴らしい新たな俳優がいっぱいいた。フランスの批評家たちがそれに跳びついた。1950代後半には、『市民ケーン』の名声は誰もが知るところとなった。それは映画そのものとなり、映画監督に対するだけでなく映画のもつ力と機会に対するオマージュとなった。それは非アメリカ的な福音を吹き込む映画となった。一人の男ができることは何かを見てみよという福音であったし、映画は映画会社によってではなく、自己表現に執着する才能ある人間によって所有され監督されうることを見てみよという福音だった。

 
 こうして新たな正統性が始まり、『市民ケーン』はかつて作られた最高の映画となり、その座を60年間保持し続けた。その偉大さは、今でも、映画というメディアの歴史と未来に君臨している。もしあなたがこの映画をまだ観たことがなければ、人生の偉大な経験の一つのために心の準備をして、次の点に注意してほしい――『市民ケーン』の評価がこれまで続いてきたのは、その技術的な革新性のためだけではなく、とても情緒的で悲劇的でもあるためだ。偉大な男が、何か意味あることはあるのかどうかと自らに問いかけているのだ。ケーンにもウェルズにも、天才と自信の欠如が悲しいまでに混ざり合っていたのである。



デイヴィッド・トムソン(David Thomson)








4位:東京物語

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 日本の映画を観はじめるのは危険なことだ。その世界は、日本映画以外に対する興味をすぐ失わせてしまうほど広大でまばゆいものだからだ。溝口の『雨月物語』ほど神秘的な恋愛映画はあるだろうか? 黒澤の『七人の侍』を凌駕するアクション映画はあるだろうか? そして、家族劇という点で、小津安二郎の『東京物語』よりも感動的な映画があっただろうか? 


 何度もくり返して、小津は家族や家族構成の推移についての映画を作った、「何度もくり返」される家族構成の推移についての映画を。家族とは固定的なものというより、何度も再三繰り返される天候のようなものだ。子供たちは親を必要とし、親が死んだ後も生きていく必要がある。しかし、天候は続き、あなたの子供は親になるが、あなたの人生は終わることになるだろう、子供たちがあなたのことは判っていたと言うかのように過去を振り返るときに、あなたはその様子を目にすることはないだろう。もう手遅れなのだ。


 これは悲劇なのか喜劇なのか? 小津は確信を抱いてはいなかっただろう。彼は、どんな物語りでも悲劇に至るものなのか、それとも時間の経過や昼夜の交代と同じくらい避けられないことではないのか、と反問しているかのようだ。


 こうしたことは「娯楽として楽しい」とは思えないだろうし、アクティブであるとも興味深いとも思えないだろう。これはつまり、観る者が、小津の控え目だが共感に満ちたスタイルを通して、助けをかりながら人生を見るという穏やかなプロセスを経験する必要がある、ということにすぎない。小津は部屋の隅から低い目線で見て(日本人の家の中での生活は座った位置からなされるのがしばしばだからだ)、赦しや賛同や愛を意味するクローズ・アップを交えることを拒絶した――小津は、人間とは赦しや個人的な魅力を超えたところにある存在だと信じていたからだ。

 
 家族とは、誰もがそこで自分なりの理由をもっている集団である。『東京物語』で、平山周吉と平山トミ(笠智衆と東山千栄子)は、親として迎えられたいという希望と望みに胸をふくらませて、成長した子供たちの家を訪問するが、子供たちはあまりにも忙しく、することが多すぎる。これは、悪い振る舞いとして、あるいは文化の破壊の印として描かれているわけではない。これは世界のあり方なのである。演技は内面的で人情味があり慎み深いが、スターはいないし、ましてやヒーローやヒロインはいない。西洋文化が求める意味での「ハッピーエンド」もない。その代わりに、幸福と不幸の謎が、流れる水に映る光のように「何度もくり返して」現われるのだ。こう書くと、この映画が退屈であるとか、あまりに単純であると思われることになるだろうか? でも気をつけてほしい――この映画を観ると、他の映画が耐えられないほど愚かしく見えてくるかもしれないのだ。

デイヴィッド・トムソン 







3位: アタラント号

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2位:マルホランド・ドライブ

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 『マルホランド・ドライブ』ほど、ケーキを食べてもなくならない(have their cake and eat it)という気分にさせてくれる映画は多くない(専門的なことを言うと、 原題は"Mulholland Drive"ではなく"Mulholland Dr."で、この違いは重要なのだ)。これはハリウッドの最悪の部分と最良の部分、暗く残酷な底流と、キラキラした有名人の泡のような世界、夢と現実を描いた映画だ。しかし、その両者をより合わせて謎めいたメビウスの輪に仕立てた手法が『マルホランド・ドライブ』を芸術作品にしたのである。




 この映画の最大の偉業は、古典的なハリウッド映画のスリルのすべてを前衛的な枠組みの中で与えたこと――そしてそれを見事に成し遂げたことにある。リンチの流儀に慣れていない初見者は、最初の設定に騙されるだろう。記憶喪失に陥った自動車事故の犠牲者(ローラ・ハリング)が、最近町に到着した女優志望の女性(ナオミ・ワッツ)の家によろめいて入り込むというのがその最初の設定だが、映画の四分の三を経過した頃になって、艶っぽいフィルム・ノワール調のファンタジーに引き込まれた後で、私たちは完全に足元をすくわれることになる。同じ俳優が今や完全に別のキャラクターのように見えてしまうのだ。性的魅力はすべて消えてしまう。人間関係はすべて変わってしまう。もう素敵で晴れやかなものは何もない。誰が誰のことを夢見ているのか? 何がどこへ行くのか? これらはいったい何を意味しているのか?


 『マルホランド・ドライブ』のピースをつなぎ合わせることはこの映画の魅力の半分にすぎない――それに、つなぎ合わせたとしても、それが意味あることになるという保証は何もない。映画公開後、リンチは謎解きのために一連の手がかりを与えたが――「赤いランプシェードの見かけに注意せよ」――、それは物語りをいっそう謎めいたものにしただけだった。謎が解けたと思った後でも、この映画はなぜかその力を失うことはない。騙されて、結局何も判らないことに気がつくという感覚は、ワッツのキャラクターに対する感情的な結びつきを与えてくれる。そして、われわれの頭を混乱させながら、リンチは『マルホランド・ドライブ』でカーテンの後ろから私たちに示しているのだ――これらすべては、実は、彼の夢にすぎないことを。しかし、幻想は、それが取り除かれた後でさえも、そのまま残る。リンチは、数名の熟練した俳優とわれわれ自身の潜在意識だけから、意味深いシーンを創造することが依然としてできるのだ。彼はわれわれを魅了する方法を知っているし、彼はわれわれを魅了する方法を知っていることを示している。そして、われわれはそれが大好きなのだ。

スティーブ・ローズ(Steve Rose)






1位:アンドレイ・ルブリョフ

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 映画の観客や批評家は常に個人的なお気に入りの映画をもっているが、誰もが一致して傑作と見なす地位を勝ち得た映画もある――それは、疑う余地なく『アンドレイ・ルブリョフ』に当てはまることだ。たとえこの映画が、理解できないし理解したくないと人々が感じる映画であるとしてもだ。ロシア語で、黒白画面の(完全版で)205分の長さの映画だ。はっきりと区別できるキャラクターはいないし、実はほとんど何も起こらないし、起こっていることも、必ずしも時系列の順番で登場するわけではない。その主題は、15世紀のイコン画家で国民的英雄となった人物だが、彼が描く場面はないし、彼は英雄的なことを何もしない。映画のエピソードの多くに彼は全く登場してこないし、後半で彼は沈黙の誓いを立てる。ある意味で、アンドレイ・ルブリョフについて 「理解」できることなど何もないのだ。これは、検討する必要がある映画ではないし、理解する必要すらなく、ただ体験し不思議に思う映画なのだ。


 最初のシーンから、原始的な熱気球の飛行につづいて、柔らかなカメラの移動と事実をそのまま映す画像の組み合わせを通して、われわれは、ルブリョフ自身にも劣らないほどの混乱や驚嘆や恐怖を感じる時間と場所へと連れていかれる。次の3時間、われわれは中世ロシアの泥とカオスの中に沈み、歴史の潮流に乗って、恐ろしいタタール人の襲撃や奇妙な異教徒たちの儀式や飢餓や拷問や肉体的な苦難を味わう。われわれは、川に落ちる雨滴から町を略奪する兵士たちに至るまで、あらゆる規模の生命を、しばしば同一で切れ目のないショットの中で体験する。


 『アンドレイ・ルブリョフ』でタルコフスキーは、文学に何も負うことのない言語を意識的に作り上げていたのだが、彼に追随する人がほとんどいなかったのは残念なことだ。今日の映画では、直線的で因果関係に囚われたアーチストの伝記が依然として提供されるが、それはまるで、そうすることでその人物が判りその芸術が理解できるかのようである。『アンドレイ・ルブリョフ』は時間と歴史についての異なった理解に従った運動をする。それは芸術家と、その社会とその精神的な信念との関係についての問いかけを発していながら、それに答えようとはしない。「映画で必要なのは説明することではなく、観る者の感情に働きかけることであり、すると目覚めた感情が、思考するようにと駆り立てるものになるのだ」とタルコフスキーは1962年に書いている。


 見かけは無定形に見えるが、『アンドレイ・ルブリョフ』は厳密に構造化されていて、美的に完全に首尾一貫している。創造行為は破壊行為に反映され、飛行のテーマがあり、幻視のテーマがあり、存在と不在のテーマがある。観ようとすればするほど、多くのものが見えてくる。そして、タルコフスキーが生涯ずっと好きだった馬たちがいる。転がる馬、戦場にかけつけ、川を泳ぎ、階段を転げ落ち、教会から外へと人を引っぱり出す馬たち。時に画面は生命を与えられた広大なブリューゲルの絵のように、または中世のタペストリーが広がっていくようにも見える。われわれは常に生命が画面の枠を超えて広がるような意識をもち、これが60年代のソ連で作られたという事実を決して意識しなくなる。タルコフスキー自身が生きていた激動の時代では、映画はありとあらゆる論争の発火点となった。そのキリスト教的な精神主義は、ソ連の当局者の怒りを買った。ロシアの野蛮な歴史の描写は、アレクサンドル・ソルジェニーツィンのような愛国者を困惑させたし、その挑戦的な形式のために何ヵ所もカットされることになった。1966年にモスクワで封切られた後、1969年のカンヌ映画祭まで上映されることはなかったし、英国にやっと到達したのは1973年になってのことだった。



 『アンドレイ・ルブリョフ』がどのような作品であるかとか、それが何をわれわれに語っているかということが、必らずや判るということはないし、また判る必要もないのだが、映画の最後に来ると、これが成功した映画であることに疑いの余地はなくなるのだ。最後の数分間で、映画はその最も名高い輝きを放つ。画面は色彩にあふれ、われわれは遂にルブリョフの絵画を極端なクローズアップで観ることができる――この叙事詩的な旅の終わりに達して、ルブリョフの絵画は観る者を涙に変えてしまう。カメラが、ローブの裾の小さな宝石や、天使の顔に浮かぶ憐みの表情を形づくる線や、後光の曇った金箔などの細部に焦点を合わせるとき、われわれは、一筆一筆に込められたすべてを理解するように感じる。われわれは美とは何かを思い出すのだ。これは、映画として可能な限り超越に近づいた作品なのである。


スティーブ・ローズ







」(おわり)






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