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来世の重要性 [海外メディア記事]

 「死後の生」をテーマにした『ニューヨーク・タイムズ』のコラムを紹介する。

 「死後の生」というと、「あぁ宗教の話か」と誰もが思う。しかし、テーマは宗教ではない。少なくとも、キリスト教的な意味での来世の話ではない。


  哲学的な内容だが判りやすいためか、注目度ランキングの上位に位置しているし、コメントの数も半端ではない。こういう所に『ニューヨーク・タイムズ』の読者のレベルを私は感じる。

  筆者のサミュエル・シェフラ―(Samuel Scheffler)はニューヨーク大学の哲学・法学の教授であるようだ。





 
The Importance of the Afterlife. Seriously.

By SAMUEL SCHEFFLER
September 21, 2013, 2:30 pm


http://opinionator.blogs.nytimes.com/2013/09/21/the-importance-of-the-afterlife-seriously/?src=me&_r=0







 来世の重要性。真面目に考える。



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 私は死後の生の存在を信じている。


 いや、この世を去った後でも、私が意識をそなえた存在として生き続けると思っているわけではない。死が私たちの生の無条件で不可逆的な終わりであることを、私は固く信じている。


 死後の生に対する私の信念はもっと世俗的なものだ。私が信じているのは、私自身が亡くなった後でも他の人々が生き続けるということだ。皆さんも、たぶん同じように考えるでしょう。人類が永遠に存在することはないことを私たちは知っているが、私たちのほとんどは、私たちの死後の少なくともしばらくの間は、人類が存続することを当然のことと見なしている。


 私たちは、そのことを当然と見なしているので、その意義についてあまり考えることをしない。しかし、私が思うに、この信念は私たちの人生の中できわめて重要な役割を果たしていて、物言わぬ形ではあるが批判的に、私たちの価値観や義務感や、価値がある活動とは何かについての感覚を形づくっているのである。驚くべきことに思えるかもしれないが、ある意味で、私たちの死後に他の人々が――それが見知らぬ他人であっても――継続的に存在していることは、私たち自身が生き延びたり最愛の人が生き延びたりすること以上に、私たちにとって重要なのである。



 仮定のシナリオを考えてみよう。あなたは次のことを知っているとしよう。自分は長生きして眠りながら安らかに死ぬのだが、その死の30日後に、地球が巨大な小惑星と衝突して地球もその住民も消滅してしまうということを。この知識はあなたにどのくらい影響を与えるだろうか? 



 もしあなたが私と同じで、私がこれまでこの問題をともに議論してきたほとんどの人と同じであるならば、この地球滅亡を知ることであなたは内心深く動揺するだろう。そしてそれは、どのように生きるかについての決定に大きな影響を及ぼするだろう。もしあなたがガン研究者ならば、その仕事を続けようとする気持ちが薄れることになるかもしれない。(結局のところ、あなたが生きている内に治療法が見つかることはないだろうし、仮に見つかったところで、残り時間を考えればそれはどれほどの益になるというのか? )。 あなたが橋の耐震性の向上に努めているエンジニアだったり、政治・社会制度を改革しようとしている活動家だったり、建物が長持ちするように気にかけている大工だったりしても、同じである。人類の破滅が差し迫っているとしたら、こうした努力をしてもしなくても大差がないことになるのではないか? 



 もしあなたが小説家や劇作家や作曲家であるならば、作品を書き続けたり作曲し続けたりしても無駄だと感じるだろう。なぜなら、こうした創造的活動の多くは、心の中で未来の読者・聴衆を想像したり遺産として受けつがれていくことを想像しながらなされるからだ。それに、人類が自分の死後すぐに存在を止めるだろうと知ったとき、あなたはそれでも子供をもとうという気持ちになるだろうか? 多分ならないだろう。


 人は普通、自分が死ぬという見通しに対して、こうした目的意識の喪失という反応はしないことに注意してほしい。もちろん、多くの人が死ぬことを恐れている。しかし、死を恐れている人でさえ(個人的な来世を信じない人でさえ)、自分がいつか死ぬことを知っているにもかかわらず、自分の活動の価値を確信し続けるのである。だからある意味で、私たちの死後に他の人々が生き続けていることは、自分自身が生き続けていることよりも、私たちにとって重要であるのだ。


 これを説明するのは簡単なことだろう。もし地球が私たちの死の30日後に消滅するならば、私たちが関心を寄せ三十日後に生きているすべての人は、突然の暴力的な終わりを迎えることになる。配偶者やパートナー、子供や孫、友人や恋人といったすべての人が死ぬことになるだろう。おそらく、最愛の人のことが心配だからこそ、自分の死後に地球が消滅することを考えてゾッとするのである。


 しかし、話はこれで終わりではない。P.D.ジェイムズの小説『トゥモロー・ワールド(The Children of Men)』 から引き出せる別の仮想的なシナリオを考えてみよう。ジェイムズの小説で、人類は子供を産まなくなってしまい、25年以上もの間子供の誕生が記録されていないのである。自分がそうした状況で生きていると想像してみよう。生きている人で25歳以下の人は一人もいないし、高齢化する国民は容赦なく消えていくのだから、人類の消滅は間近である。あなたならばどうするだろうか?


 小惑星衝突の場合と同様に、がん研究、耐震性の取り組み、社会的・政治的活動等々のような多くの活動が、こうした条件下では、無意味に見え始めるだろう。それのみならず、ジェームズの小説が鮮やかに示唆するように、全世界の人々が不可逆的に不妊になるとしたら、広範囲にわたりうつ状態や不安や絶望が生まれることになるだろう。


 宗教的な信仰に慰めを求める人も出てくるだろうし、それを見つける人もいるだろう。音楽を聴いたり、自然界を探索したり、家族や友人と時間を過ごしたり、食べ物や飲み物の快楽を楽しんだりして、本質的にためになる活動に少しの喜びを感じる人もいるだろう。しかし、これらの活動も、死にゆく人類という背景のもとで見られると、それほど満足感を与えるものには見えてこなくなるし、悲しみや苦痛の色合いを帯びてくることだろう。



 注意してほしいのは、このシナリオでは、小惑星衝突のシナリオとは違って、誰も早すぎる死を迎えたりはしないのである。だから、子供が生まれない世界に暮らすことを考えてゾッとさせるのは、最愛の人の死に対する恐れではありえない。(もちろん、最愛の人もいずれは死ぬだろうが、それは自分が現在置かれている状況と何も違わないことだ)。ゾッとさせるのは、ただ単に、新しい人が生まれてこないということなのだ。





 ここですこし立ち止まるべきだろう。自分や、自分が愛している知り合いの誰もがいつかは死ぬということを知っていても、私たちのほとんどは、自分が日常行なっている活動の価値に対して自信を失うことはない。しかし、新たな人が生まれることはないということを知ると、そうした活動の多くは無意味に見えてくるのだ。



 このことは、人間のエゴイズムについて広く行きわたっている仮定が、よく言って、過度に単純化されていることを示していると私は思う。私たちがどれほど利己的でナルシスティックであっても、私たちが自分の人生に目的や価値を見出すことができるかどうかは、私たちが自分の死後に他の人に何が起きると期待するかにかかっているのである。自分の名声しか眼中にない利己的な人物でさえも、人類の消滅が差し迫っているならば、自分の野望は無意味であると思うだろう。見知らぬ他人の善意に頼らなくてもやっていける人もいるが、ほとんどすべての人間は、見知らぬ他人が未来において存在することに頼っているのである。


 
 同様に、人間の個人主義についてのお馴染みの仮定も過度に単純化されたものだと私は思う。個人個人で見れば私たちは多様な価値観や目標をもっているが、そして、何を良い人生または価値ある人生と見なすかを判断するのは私たち一人一人に任されているのだが、私たちのほとんどは、遠い未来まで続いていく人類を前提する信念の枠組みの内部で、自分のゴールを追及したり、自分の価値観を実現しようと努めているのである。その信念の枠組みを取り除いてしまうと、自分が抱いている価値や目的に対する自信も揺らぎだすのである。



 ここには、自分個人に定められた来世がなければ、自分の人生にはどんな意味も目的もなくなると考えている人にとっての教訓がある。自分が今していることに意義があることを保証するのに必要なものは、来世に対する信念ではなく、人類が、少なくとも十分長い間、生き続けるだろうという信念なのである。




 しかし、人類は十分長い間生き続けるのだろうか? 私たちは普通、自分が死んでも他の人々が生き続けることを当然と見なしているが、人類の生存に対する深刻な脅威があることも私たちは知っている。すべての脅威が人為的であるわけではないが、気候変動や核拡散によってもたらされる最も差し迫った脅威の中には確かに人為的なものがある。こうした問題を心配する人々はしばしば、将来世代に対する義務を忘れないようにと私たちに訴える。将来世代の運命は今日の私たちの活動に大きく依存しているのだと。私たちは、地球をもはや住めない場所にしないようにする義務があるし、私たちの子孫が暮らす環境を悪化させない義務があるのだと、彼らは力説する。



 私はその考えに同意する。だが、この話には別の側面もあるのだ。確かに、私たちの子孫は、私たちがその存在と幸福を可能にすることに依存している。だが、私たち自身が立派な人生を送ろうとするのであれば、私たちもまた自分の子孫とその存在に依存しているのだ。人類の存続に対する脅威は克服しなければならないと考える理由は、私たちの子孫に対する義務のみに由来しているのではない。私たちの後にやって来る人々のために立派な未来を確保しようと思う別の理由がある。それは、その人々が、私たちがめったに認識したり認めたりしない程にまで、すでに私たちにとってとても重要な存在になっているという単純明快な事実なのである。








」(おわり)





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