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テクノロジーが中流階級をいかに破滅させているか [海外メディア記事]

  テクノロジーの進歩が人間から労働を奪っているのではないかという危機意識(というか現状認識)は、既に少なからぬ学者や批評家が表明しているが(この記事の第三段落にその一覧が示されている)、この『ニューヨーク・タイムズ』のオピニオン記事の著者たちは、その認識を共有しながら、危機の突破口をどこに求めたらいいかということをここで素描している。

 著者たちの考えを単純化して言えば、今進行中のコンピュータ化は、従来の中間層が従事していた――「中程度のスキルの仕事(middle-skill job)」と呼ばれている――ブルーカラーの製造的な仕事もホワイトカラーのデスクワークもともに消滅させるだろう。従って、高賃金の専門職・技術職と、低賃金の対人的なサービス業の二極分化が現在進行しているし、今後とも進行するだろうという。

 しかしそれと同時に、オートメーション化できず人間の柔軟性を生かす仕事が生まれてくるに違いない。たとえば、ナース・プラクティショナー(nurse practitioner)のような、高い教育を受けていなくても高度な医療サービスの補助的仕事が今増えているが、それに類する折衷的な仕事がいろいろな分野で発達していくだろう。そうした分野に従事する人は「新たな職人」として、新たな時代に活力を与えていくだろう・・・



 読者のコメント欄を読むと、この著者たちの見解に対するコメントは圧倒的に批判的なものが多いということが判る。高卒のナース・プラクティショナーはいないとか、問題なのはコンピュータ化そのものではなくそのトレンドに乗じて仕事をどんどん非人間的な方向にもって行こうとする経営側の姿勢であるとか・・・・。

 個人的な感想としては、かりにこの筆者たちの見解が長期的には正しいとしても、従来の中流階級がなし崩し的に消え去っていくまでに社会が無事に済むはずがあるのかということが最大の疑問である。

 



 
How Technology Wrecks the Middle Class

By DAVID H. AUTOR AND DAVID DORN

August 24, 2013, 2:35 pm

http://opinionator.blogs.nytimes.com/2013/08/24/how-technology-wrecks-the-middle-class/?src=me&_r=0




  テクノロジーが中流階級をいかに破滅させているか




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 2010年、ミシガン州ランシングにあるGMの工場の組立ラインで車に溶接するロボット・アーム。





 大不況が公式に終了してから4年経つうちに、アメリカの労働者 ――職があるほど幸運な人々――の生産性は劇的に上昇した。しかし、アメリカの雇用者数は経済が停滞する以前と比べると200万人以上も減っているし、失業率は1990年代の初頭以降見たこともないようなレベルにとどまっていて、成人労働者の割合も2000年のピーク時に比べると4%ポイントも減少している。


 この仕事の欠乏状態を見て、専門家は、雇用の深刻な病が私たちを襲っているのではないかと思うようになった。その疑問を少し進めるだけで、その病は生産性そのものにはないのではないかという疑問が生ずる。つまり、機械化とコンピュータ化の進展が、われわれ人間自身を時代遅れの存在にしてしまったのではないかという疑問が生ずるのだ。



 MITの学者であるエリク・ブリニョルフソン (Erik Brynjolfsson)とアンドリュー・マカフィー(Andrew McAfee)が最近の本で主張しているように、私たちは「機械との競争」に敗れる危険にさらされているのではないか? ケビン・ドラム(Kevin Drum)がニュース・サイト『マザー・ジョンズ(Mother Jones)』で警告しているように、われわれはロボットという君主の奴隷になりつつあるのではないだろうか? (http://www.motherjones.com/media/2013/05/robots-artificial-intelligence-jobs-automation) 経済学者のジェフリー・D・サックス(Jeffrey D. Sachs)とローレンス・J.コトリコフ(Laurence J. Kotlikoff)が今年の始めに予言したように(http://www.nber.org/papers/w18629)、「スマート・マシン」はわれわれに「長期的な不幸」という脅威を突きつけているのではないか? ノア・スミス(Noah Smith)が『アトランティック』誌で嘆いているように(http://www.theatlantic.com/business/archive/2013/01/the-end-of-labor-how-to-protect-workers-from-the-rise-of-robots/267135/)、われわれは「労働の終わり」に到達したのではないだろうか? 




 もちろん、テクノロジーの変化が雇用に及ぼす悪しき影響についての不安には(それどころかヒステリーにさえも)由緒ある歴史がある。19世紀初頭、ラッダイトと名乗ったイギリスの織物職人の一団が機械を打ち壊す反乱を企てたことがあった。その暴挙のおかげで彼らは辞典の項目を勝ちえたが(肯定的に評価されることはめったにない)、世間の関心を集めるだけの正当な理由が彼らにはあったのだ。

 経済学者はわれわれが「労働塊の誤謬(lump of labour fallacy)と呼ぶものを歴史的に拒否してきた。その誤謬は、やるべき仕事は有限量しかないので、労働生産性が増加すれば必然的に雇用は減少するという想定のことである。直感的にはアピールするものの、この考え方が間違っていることは明らかである。例えば、1900年には、アメリカの労働力の41%は農業にあった。しかし、緑の革命によって収穫量が増大してからというもの、その割合は2000年には2%にまで激減した。しかし、20世紀の間ずっと女性が家庭からマーケットへと移行するにつれて全人口に対する雇用者数の比率は上昇していったし、失業率は周期的に変動するものの長期的に増加することはなかったのである。



 省力化技術の変革が、必然的に特定の作業をする労働者にとって代わった――生産性の向上はそこに由来する――が、しかし、長期的に見れば、それは新しい製品やサービスを生み出し、それらが国民所得を引き上げ、労働力に対する全体的な需要を増大させたのである。1900年の時点で、一世紀後に、ヘルスケアや金融や情報技術や家電業や、レジャー産業と娯楽産業を含めた接待業が農業よりもはるかに多くの労働者を雇うことになるだろうと予見できた人はいなかった。もちろん、社会が豊かになるにつれ、市民は労働時間を短くしたり長い休暇を取ったり、より早い時期に引退することになるものだが――それもまた進歩なのである。



 もしテクノロジーの進歩が雇用を脅かすことがないのであれば、労働者は「スマート・マシン」に対して恐れることは何もないということを意味するのではないか? 実は、そうではない――そしてこの点にラッダイト運動のポイントがあったのである。19世紀の多くのイギリス人は新型のより良い自動織機の導入から恩恵を受けた――非熟練工は、織機のオペレータとして雇われ、増大する中流階級は大量に生産される生地を買うことができた――が、しかし、熟練した繊維工が全体的として恩恵を得たとは言えないのである。


 早送りして現在に戻ろう。1970年代以降、計算(computing)にかかるコストが数兆分の一にまで減少したために、高価な労働力の代わりに、ますます安価で有能になっていくコンピュータを導入しようとする企業家の高いインセンティブを生み出した。こうした急速な進歩――空港でチェック・インするとき、オンラインで本を注文するとき、銀行のWebサイトで支払いをするとき、どちらの方向に運転すればいいのかをスマート・フォンに問い合わせるときに、われわれは日々こうした進歩に直面しているわけだが――は、労働者が機械によって追いやられてしまうのではないかという恐怖を再び目覚めさせた。今度は事情が違うのではないだろうか? 



 議論の出発点は、コンピュータはいたる所にあるが、コンピュータがすべての仕事をしているわけではないという点である。タスクを迅速かつ安価に実行するコンピュータの能力は、どの事象でも正しく進むように機械に指示する手順やルールを書けるプログラマの能力に依存している。コンピュータが優れているのは、情報の組織化・保存・回復・操作という作業や、生産工程で厳密に定義された物理的な動きを実行するといった「ルーティン」のタスクにおいてである。こうしたタスクがもっとも広く浸透しているのが、簿記・事務作業・反復的な生産・品質保証の仕事のような中程度のスキルの仕事(middle-skill job)においてである。


 論理的に考えると、コンピュータ化は、こうした仕事に対する需要を減らしはしたが、自動化された活動を補完する「非ルーティン」のタスクを行なう労働者への需要は増やした。こうしたタスクは、職業上のスキル分布表の両端に位置しているのである。



 一方の端には、問題解決や直感や説得行為や創造性を必要とするいわゆる抽象的なタスク(abstract tasks)がある。これらのタスクは、法律・医学・科学・工学・広告・デザインなどの専門性があったり、経営的な判断を要したり、技術や創造性が必要な職業に特徴的なものである。こうした職業に就いている人々は、概して、高いレベルの教育と分析能力をもっていて、彼らは情報の伝達・組織化・処理を容易にするコンピュータから恩恵を受けている。


 もう一方の端には、状況に合わせることが求められたり、視覚的印象や言葉づかいで気に入られる必要があったり、直接人とやり取りすることが求められるいわゆる手作業的タスク(manual tasks)がある。食事を準備したり、街中でトラックを運転したり、ホテルの部屋を掃除したりすることは、コンピュータにとって驚くほど複雑な難題である。しかし、こうしたタスクは、適度の訓練以外は、器用さや視覚や言語の認識といった生まれつきの能力だけが必要なので、人間にとっては簡単なものだ。これらの労働者はロボットに置き換えられることはないだろうが、そのためのスキルは不足していないので、低賃金にしかならないのが通例である。



 したがって、コンピュータ化することで仕事は増加しても、それは最高レベルの賃金の職種と最低レベルの賃金の職種に集中してしまい、中間の職業は衰退するので、コンピュータ化は雇用の二極分化を助長したことになる。「ルーティン」の職の雇用が衰退するにつれて、高賃金の経営・専門職・技術職と、低賃金の対人的なサービス業の両方において雇用はむしろ増加したのである。



 だから、コンピュータ化は職業の量を減らしはしないが、かなりの部分の労働者にとって職業の質を低減させつつある。抽象的なタスクにおいて優れている高学歴労働者に対する需要は活発であるが、ルーティンなタスクがメインの職種が位置している労働市場の中間部分が衰退しつつあるのである。それゆえ大学教育を受けていない労働者は、手作業的タスクがメインの職種――フードサービス、クリーニング、セキュリティのような職種――に集中するが、そうした職種は数多くあるものの、低賃金で、雇用が安定せず、もっと高賃金の仕事に上昇できる見込みはほとんどない。雇用機会がこのように二極分化したことも、所得格差が歴史的なまでに上昇するに至った一因なのである。



 われわれはどうしたら、労働者がテクノロジーの変化の波に呑み込まれずに、その波にうまく乗れるように手助けできるのか? よくある助言の一つは、もっと教育に多くの投資をするよう市民に薦めることである。抽象的なタスクを実行する労働者に対する需要の増加に刺激されて、大学の学位や専門的な学位をもつ者に対する報酬は急増している。恐ろしいほどコストがかかるものの、高等教育がこれほど良い投資先であったことは多分かつてなかっただろう。しかし、それは労働市場の問題に対する包括的な解決であるにはほど遠いのだ。高校を卒業したすべての人間が――解雇された中年の労働者や高齢の労働者ならば、ましてや――、学力的に、あるいは気質的に4年制大学の学位を喜んで手に入れようとする訳ではないからだ。高校を卒業した後で4年制大学に入学するのはアメリカ人のわずか40%にすぎないし、入学してもその30%以上は、8年以内で学位を取得するに至らないのである。

 しかし、良い知らせもあって、それは、中程度の学歴用の中程度の賃金の仕事が完全に消滅する訳ではない、ということだ。中程度のスキルの職業の多くはオートメーション化されるだろうが、人間の柔軟性を必要とする様々なタスクを必要とする別の仕事がある。一つの目立つ例をあげると、専門職を補助する医療の仕事――放射線技師、瀉血技師、看護技師――は、急速に増大している、比較的高給で中程度のスキルの職業のカテゴリである。これらの専門職を補助する仕事は、通常は、4年制大学の学位を必要としないが、何らかの高等職業訓練を要求している。



 こうした中程度のスキルの職業は、(機械化して)分解すると質が大幅に低下してしまうようなタスクを含んでいるので、これからも存続していくだろうし、成長する可能性も秘めている。例えば、技術的なサポートのためにソフトウェア会社に電話をしても、技術者もコンピュータ画面に表示される標準的な答え以上のことを何も知らないことが判って欲求不満を募らせるという場合を考えてみよう。つまり、そうした技術者は、マニュアルを読むだけの代弁者であって、問題を解決してくれる人ではないのである。これは、技術的スキルと対人的なスキルの補完性を活用していないので、一般的に言えば、労働の生産的な組織化とは言えない。単純化して言えば、どんな職業であっても、労働者がルーティンな(技術的な)タスクと非ルーティンな(柔軟性の必要な)タスクを組み合わせたときに、サービスの質は向上するものなのである。



 このロジックに従ってわれわれは次のように予言する。つまり、中程度のスキルの仕事でこれから存続していくのは、ルーティンの技術的なタスクを、労働者が比較的な優位性をもつ抽象的なタスクや手作業的なタスク――それは、対人的やり取りだったり、状況に合わせることだったり、問題解決能力だったりするが――と結びつける仕事であると。このカテゴリには、専門職を補助する医療の仕事以外にも、配管工、建設業者、電気技師、暖房・換気・空調の設備工、自動車技師、カスタマー・サービスの担当者などの熟練業や修理業の人々の多様な仕事も含まれるし、タイプ打ちや書類作り以上のことを求められる事務員さえもこのカテゴリに含まれるだろう。実際、以前は中程度のスキルの職業が今や「スキルの要らない」職業になりつつあったり、ルーティンの技術的なタスクを奪われつつある(例えば、株の仲介業務など)中で、かつては高度なものと見なされた職業が、難解な技術的熟練をあまりもっていない労働者にも接近可能なものになっているのである(例えば、ナース・プラクティショナー(nurse practitioner)の仕事がそうで、医者に代わってますます病気を診断したり薬を処方している)。ハーバード大学の労働経済学者であるローレンス・F・カッツ(Lawrence F. Katz)は、高校教育の基礎的なスキルを特定の職業のスキルと組み合わせて有益な結果を出している人々を「新たな職人(new artisans)」と呼んだが、これは印象深いことだ。




 大学を修了していない労働者の見通しは不確実であるが、希望がないわけではない。職業として存続する見込みは、中程度のスキルの仕事にはあるだろうが、伝統的なブルーカラーの生産の仕事やホワイトカラーの事務仕事にはないだろう。むしろ、「新たな職人」においては雇用は増大していくだろう。その「職人」には次のような人々が含まれる。資格をもつ准看護師や医療助手。あらゆる教育レベルにおける教師、家庭教師、学習ガイド。キッチン・デザイナー、建設管理師、あらゆる種類の熟練工。修理の専門家やサポート技術者。個人的なトレーニングやサポートを提供する多くの人々(理学療法士や個人的なトレーナー、コーチ、ガイド)。これらの労働者は、技術的なスキルを、対人的なやり取りや柔軟性や状況適応性にうまく結びつけて、人間にしかできないサービスを提供することになるだろう。






デビッド・H.オトール(David H. Autor)はマサチューセッツ工科大学の経済学の教授。ディビッド・ドーン(David Dorn)は、マドリードの通貨・金融研究センターの経済学の準教授である。







」(おわり)


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