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声なきものの声   東田直樹の『僕が跳びはねる理由』 [海外メディア記事]

 東田直樹の『僕が跳びはねる理由』の書評が『ニューヨーク・タイムズ』に載っていたので紹介する。

 その英語版がイギリスでベストセラーになったことは、かなり前から知っていた。イギリス『ガーディアン』紙の記事の右側に「週間ベストセラー」という欄があって、東田の本がそのベスト5に長い間ランクインしているのを見ていたからだ。

 同じようにアメリカでも話題になるのだろうか? 今ごろ『ニューヨーク・タイムズ』で書評が載るということは、まだ人気化してはいないが、そうなる可能性は十分にあるということなのだろう。

 『僕が跳びはねる理由』は「自閉症者の頭の中で起こっていること」の忠実な再現なのか、それとも第三者による誘導の産物なのではないかという疑問はすでに日本でもたくさん出されている。それに加えて、英語版には翻訳という問題もある。このSALLIE TISDALEによる書評は、たぶん言いたいことは山ほどあっただろうが、それを極力抑えて書かれている。翻訳の壁があるので、東田その人に対するコメントは控え目だが、内心で感じている怒りがときおり噴出していることは、読むと誰もが感じるだろう。


 
翻訳上の蛇足:

motivational speaker … この文脈では、自閉症者や自閉症者の親に希望をもたせるようなことを語る人、くらいの意味だろう。

icing … 砂糖・卵白に香料などを混ぜ合せたもの。ケーキなどにふりかける糖衣。




 
Voice of the Voiceless
‘The Reason I Jump,’ by Naoki Higashida

By SALLIE TISDALE

Published: August 23, 2013

http://www.nytimes.com/2013/08/25/books/review/the-reason-i-jump-by-naoki-higashida.html







声なきものの声
東田直樹の『僕が跳びはねる理由』



自閉症は無限の謎であり、本性上ほとんど知りえないものだが、それでも、自閉症の人々の生き方を説明しようとして自閉症の人が書いた(あるいは自閉症の人について書いた)本はたくさんある。最新のものは、2007年に出版されて以降日本で人気化した『僕が跳びはねる理由』だ。著者の東田直樹は、この体験談を書いた時は13歳で会話ができなかった。彼は、日本語の文字ボードで単語をつづることで、この本を書き上げた。


 このスリムな本は、「どうしてそんな奇妙な話し方をするのですか?」とか「どうして跳びはねるのが好きなのですか?」といった問いかけで始まる短い章から構成されている。なぜ自分がジャンプするのが好きなのかを述べながら、東田は私たちにこう語る。「動いていると、僕は鳥になってどこか遠いところに飛んでいきたいと思うようになる。でも、僕たち自身が思いとどまることもあるし、周りの人たちが思いとどまらせることもあって、僕たちができることは、チュンチュンつぶやいて翼を羽ばたかせ、鳥かごの中を跳びはねることだけなんだ」。


 東田は明るく思慮深い。彼はブログを書き続けているし他の著書もある。コンピュータで入力もできるし、自分が書いたものを声に出して読むこともできる彼のことをアメリカの出版社は「(聞き手に)意欲をおこさせる話し手(motivational speaker)」と描いている。私は、自閉症者の親であるから、自閉症が隠れた奥行きをもっていることを知っているが、その奥行きは本当の損傷の背後に隠れているものだ。著者は、訳が分からなくなったりパニックになると語っている。彼は規則が覚えられないし、じっと座っていたり時間の感覚をもつことができない。


 この本が英語圏の人々に読めるようになったのは、『クラウドアトラス』の著者で自閉症児の父親でもあるデイヴィッド・ミッチェル(David Mitchell)の情熱的な努力のおかげである。ミッチェルと彼の妻(KA Yoshida)が翻訳を提供した。ミッチェルは、この本は自閉症の標準的な定義が間違っていることの証明であると考えている。自閉症に社会性やコミュニケーションの制約があるのは「自閉症の症状ではなくその結果である」ことの証明なのだと。東田は「自分よりも作家の素質がある」ともミッチェルは述べた。


 こうした点の考察は他の人に任せるが、他の点から切り離してそれだけを取り上げると、『僕が跳びはねる理由』は奇妙な読み物だ――感覚神経の処理に異常がある人が感覚神経の処理の異常について書いた本であり、一度に一文字ずつ思春期の日本人の散文として書かれたが、その後、(“It really gets me down(本当にうんざりだ)というような)口語的な英語に翻訳された本だ。著者が他人に言及することはめったにない――母親と先生には簡単な言及がある――のに、彼はほとんどすべてのページで複数形( 「僕たちの」や「僕たちは」)を使用している。自分は「自閉症の人々」や「自閉症をもつ僕たち子供」の代弁をしているのだという厚かましさが絶えず見られて不快だ。

 この英語版は、まるで批評や分析をするのが下品であるかのように、本というよりは壊れやすい意識的なオブジェとして扱われている。残念ながら、何が東田の部分で何がミッチェルの部分なのかを見きわめることは不可能だ。2人は直接会ったことは一度もないし、東田は英語版にはほとんど何の関与もしなかった。ミッチェルは、日本語から英語に訳すという「力仕事をした」のは妻のヨシダで、彼は「ケーキの上にアイシング(icing)をまぶすように文体を整えた」と語った。

 

 『僕が跳びはねる理由』は、多くの本がそうであるように、自閉症の本性についてさまざまな問題を提起するだろう。しかし、それはまた翻訳――あの「アイシング」――に関する問題も提起するのだ。翻訳とは、せいぜい良くて、同意義の表現を客観的に探ることと、著者の意図――それが翻訳者の観点とは何の関係もないことだってある――を直感的に把握することの間を行き来するダンスのようなものだ。自閉症児の親が、自閉症児の書物の最良の翻訳者であるとは限らないのである。



 ミッチェルは、『僕が跳びはねる理由』を読んで、「息子の頭の中で何が起こっているかを息子自身が初めて語ってくれたように」感じたと書いている。自閉症の人間を子供にもつ親ならば――私自身もその一人だが――誰だって、そうした機会を切望しているし、それが可能であるならばどこであれ、そうした機会を探そうとせざるを得ないと思うのだ。自分が見い出すものを自分が望むものに変えてしまうことに、私たちは注意深くなければならない。







」(おわり)


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