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人間の進化における宗教、パート8 [海外メディア記事]

 ロバート・ベラーの書物についてのエッセイの第八回にして最終回。

 宗教とは、「われわれ自身やわれわれ自身の社会を理解するあり方の一つ」として理解するのが最良の理解の仕方であるならば、宗教は、いくら時代が進展して自然科学の解明が進んでも、廃棄されることはないだろう・・・

 ブラウン氏のこの「パート8」は、総括としては腰砕けとしか言いようがない内容になったようだ。さすがに、もう疲れてしまったのだろうか? あるいは世界の大宗教については、もうさんざん論じられてきたこともあるので、今さら言うべきことはほとんどないということなのだろうか? 


 ともあれ、宗教のこれまでとこれからを考える上で、ベラーの書物は格好の素材を提供してくれるようだ。いつか、もし時間があれば、私なりに紹介してみようかなとも思っている。





Religion in Human Evolution, part 8: the invention of reason


Andrew Brown
guardian.co.uk, Monday 3 September 2012 08.30 BST

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2012/sep/03/religion-human-evolution-invention-reason





 人間の進化における宗教、パート8:理性の発明



宗教は常に(共同体意識の)涵養と支配との葛藤に対処しなければならない。ロバート・ベラーは、偉大な宗教が理性と神話の対立を付け加えたと語る



Adam-and-Eve-by-Rubens-010.jpg

 有効に機能する神話は理性に対する反証とすることはできない。おそらくこのことを最初に発見したのはアダムとイブだった。






 この雄大な著作を要約するにはどれほど時間があっても足りないくらいだ。スタートして8週間経過したが、まだ書物の半分のところに到達したばかりだ。だから、枢軸時代のインド・ギリシャ・中国を扱いながら次第に表面的になっていく紹介を続けるよりも、もう止める方が賢明だろう。これまで私がとりわけしようと努めてきたことは、われわれが「宗教」と呼ぶ現象がいかに多様でいかに偶然に左右されるものであるかを示すことであったし、宗教をキリスト教の殻――今日でも、多くの人はいまだにその殻の中で宗教を見ている――から取り出して解放してやることだったからだ。



 宗教を一種の原始的な知識として、主に自然の世界を説明することに関心をもつものとして捉える見解とは対照的に、ロバート・ベラーは、宗教をまず第一にわれわれ自身やわれわれ自身の社会を理解するあり方の一つとして理解する。このような理解は、冷静な観察者としてなしうるものではない。私が観察する自己は、私がじっと見つめるうちに変化する。私が分析する自己は、私の理解によって傷を負うことがあるし、見たり理解するうちに、私自身も変わっていくものだ。このことは、さらにいっそう社会に当てはまるのだが、それは、社会が数えきれない行為から構成されたパターンであるからだ。部外者だけがパターンの全体を見ることができるが、部外者にはそれを理解することはできない。だから、そういう意味で、宗教は客観的な真実に達することはできないのである。


 これは終わりのないプロセスであるし、平衡のないプロセスですらある。それは、ある意味で、われわれが物語りを通して世界を理解するが、語りうる物語りには終わりがないからでもある。(物語りを信じるほど子供ではないと思っている人は、自分の物語りにすっかり囚われている人である)。


 神話は意味をもたなければならないが、意味があるからといって神話であることを止めるわけではない――これこそ、「(進化の過程で)失われたものは何もなかった」というベラーのスローガンが意味することの一つなのだ。われわれが新たな思考様式を手に入れたからといって、それで古い能力を放棄するわけではないし、古い習慣の多くを放棄するわけでもないのである。


 ベラーが本書の前半で論じている宗教のすべては、定義上、枢軸時代以前のものである。つまりそのことは、それらの宗教が理性の発見以前のものであり、自分の考えに冷静な論理を慎重に当てはめるという観念が登場する以前のものだ、という形で理解することもできる。理性の発見以来、理性が温存されたあらゆる場所で、理性と神話は浸食し合い、互いの残骸を糧にしてきた。神話がわれわれ自身よりも大きな真理として感じられない限り、そして神話が内側から理解されるのでない限り、神話が有効に機能することはないだろう。しかし神話が有効に機能することがあるとしても、神話がすっかり理性に対する反証とされることはできないだろう。おそらくこのことの最初の発見は、アダムとイブによる発見だった。このことは、18世紀の思想家には明らかなことだった(その思想家がキリスト教徒だったかどうかにかかわらず)。その実例は、スウィフトやバトラー司祭のみならず、ヴォルテールやヒュームに見い出すことができる。彼らは理解していた、われわれは理性だけで生きるべきだという主張を、理性だけで正当化することはできないということを。


 これは普遍的な対立ではない。「理性」そのものは、神話とは対照的に、比較的最近の発明されたものだ。枢軸時代までの宗教についてベラーが語っている歴史は、実は、理性の発明の(あるいは、プラトンや有神論者にとっては、理性の発見の)の物語りとして理解できるのである。



 神話と理性の間に葛藤が生じる以前は――当然ながら、それ以降もだが――、宗教的な物語りは、人心の支配への衝動と、(共同体意識の)涵養の衝動との葛藤の一つとしても語ることができただろう。この二つの衝動はかなり普遍的なものである。哺乳類はこれら二つの本能をもっている。神々もそうだ。人間の社会もそうだ。これらは皆、生き延びるためにその両方を必要としている。宗教とは、支配に向かう衝動と(共同体意識の)涵養の衝動をわれわれが劇化し理解しようとするあり方だとするのが最良の理解であるならば、宗教が科学にとって代わられることはないし、科学が宗教にとって代わられることもないということは明らかだ。科学そのものが、その両方の衝動が競う場でありアリーナなのだ。



 私としては、進歩の唯一のプロセスまたは進歩の唯一の主流が歴史を流れていて、それが違う時代や場所で浮上するのだという印象を与えたいとは思わない。文明は一つしか存在せず、われわれがそれを所有しているのだと西欧人が確信していた頃には、西欧の文明史はそのように書かれたことがあった。しかしベラーは、様々な文明の特殊性や、それらが相互に異質であることを強調する。われわれがそれを理解するのがいかに難しいかを、ベラーは巧みな言い回しで言い表している。




  「諸々の宗教は、違う問いかけをするという点でも、同じ問いに対して違う答えを与えるという点でも、それほど隔たっているわけではない。他の伝統もわれわれの伝統と同じ問いに答えようとしているのだと、もしわれわれが考えるのであれば、かりにその問いに対して他の伝統がわれわれほど上手く答えていないということが判明したとしても、それは一種の堂々巡りになるだけなのだ。なぜなら、結局のところ、われわれの伝統もそうした問いに答えるために考案されたものだったからだ」。



 最後に、宗教というテーマに最も肉薄する定義をあげるならば、宗教とはダンスにかり立てる哲学だ、というものだろう。





」(おわり)














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