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人間の進化における宗教、パート4 [海外メディア記事]

 ロバート・ベラーの書物についてのエッセイの第四回目。

  狩猟-採集社会の儀式においては「強大な存在」がその中心にあるものとして畏怖の対象となったが、その存在はあくまでその社会の一員であった。しかしそうした「強大な存在」が、崇拝を要求する特別な存在に変貌していく過程が簡潔に描かれている。
 





Religion in Human Evolution, part 4: the role of worship


Andrew Brown
guardian.co.uk, Monday 6 August 2012 08.30 BST

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2012/aug/06/relifion-in-human-evolution-worship






 人間の進化における宗教、パート4:礼拝の役割

 神々の出現は、礼拝を要求するが、それは特定の経済的・社会的変化に由来するものなのだ



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カトマンズの郊外にあるスンダリジャル川で沐浴した後に祈りを捧げるネパールのヒンズー教の巡礼者





 ロバート・ベラーの本は理論や実例に満ちている。何か特定のテーマをそこから引き出すのは歪曲することになりかねない。それにもかかわらず、宗教がいかに変化したかについての説明がベラーの本のビッグ・ストーリーの一つであることは明らかだ。その変化とは、自分の社会を表現したり発見するあり方の一つにすぎないものが、潜在的に、自分たちの社会を批判するあり方になっていくという変化である。彼がしばしば言うように、進化の過程で失われたものは何もないのだから、ユートピア的な考え方や絶対的道徳の考え方を獲得した宗教であっても、それによって古くからの慣習を放棄することはなかった。宗教は、その内部で分裂し、そのプロセスの一環で、既存の社会を批判することができる宗教もあらわれた。「宗教」について一般化しても(近代的で経典のある宗教に限定したとしても)、つねにそれに対する反例がみつかるのは、そういう理由もあるのだ。


 そのような一般化の一つに、宗教は崇拝を伴うということがある。これは、われわれがこれまで見てきた儀式や神話には当てはまらないし、ベラーは、礼拝を要求する神々の出現を特定の経済的・社会的変化に帰している。この種の神は、「これまでわれわれが遭遇した強大な存在とそれほど根本的に異なっているわけではないが・・・儀式におけるその役割に示されているように、神と人間の関係は変わってしまったのだ。神々は今や崇拝されるようになったのである」。


 礼拝が求めるのは、霊の呼び出しというより、服従である。礼拝者はひざまずいたりひれ伏したりする。礼拝者は供物を捧げる。これは、神のよりいっそう高い地位を認めることのみならず――それはまた、この地位の幾分かが礼拝者にのり移るようにという望みでもあるのだ。これは、儀式に暗示されている(神と人間の)関係と違っている微妙だが重要な点である。



 前回議論した狩猟-採集社会の儀式では、霊的存在は「強大な存在」の領域として理解されているのだが、そこでの(人間と霊との)関係は、どちらかというと霊が人間に取りつくという関係に近い。「カラパロ族やオーストラリアのアボリジニやナバホ族の間に見られる強大な存在は、常にではないとしても、しばしば、その集団のボス的な人物だった。その人物は、かりに不注意が原因であっても、いったん怒るとひどく破壊的になるが、もし人々が適切に儀式を遵守するならばその人物と一体となることができ、その同一化を通して、そのパワーは、少なくも一時的には、恵み深いものになるのである」。




 しかし、神々が強大な頭領として概念化されると――ナバホ族の強大な存在というよりもホメロスの神々のようになると――、神々は、権力的な階層関係となり、それが地上の社会に降り立ってくると捉えられるようになった。礼拝は、それに相応しい人々が行ってのみ効果的になるものになっていく。司祭職のようなものが登場してくるわけだが、司祭はまた族長でもあるのだ。


 ベラーは、物語りのこの部分の実例を主にポリネシアから取っている。そのプロセスは、ほとんどすべての人間社会の中で行なわれてきたはずだが、ポリネシアでは、教養ある西洋人が観察や記録のためにやって来たとき、そのプロセスはまだ独自の論理に従って行なわれていた。その島々は、中国やアメリカの一部に現われた国家からは完全に切り離されていたので、ポリネシアの発展は、ある意味で、残存するどの狩猟-採集民(そのほとんどすべては世界の果てに追いやられた生き残りの人々である)よりも純粋だった。


 司祭や王はともに余剰生産によって生きていた。つまり、再分配できる余剰――少なくとも、食料の余剰――が存在しなければならないが、再分配は不平等を意味する。族長の寛大さを中心に構築される社会においても、与える側と受け取る側の間には権力の不均衡が常にある。寛大さとは、恩着せがましさを示すものでもあるのである。


 余剰の可能性がありしかもどの社会にも資源にはっきり限界があるポリネシアの島々で、ベラーは、組織化された宗教と組織化された戦争が同時に登場したことを跡づけている。イースター島では、その両方の証拠が至る所にある。彫り込まれた大きな頭部が見下ろす先には、それを造った社会のこなごなになった残骸があり、その社会は、何世紀間も絶えることのない仲間内の戦争において自己自身と周囲の環境を破壊してしまったのである。



 ヨーロッパ人が到着する直前のハワイでは、社会は別の極端へとこうした傾向をおし進めていたようだ。


 「社会階級間の硬直した区別、不可触賤民の階級すら存在していた。庶民に対する重い税。首長の意のままの土地収奪。そして――ハワイがいたりついた社会がどのようなものかを象徴的に示すものとして――頻繁にあった人間の生贄。首長たちは神の権利をもちだして支配したが、力によることもあった。首長が力によって征服され殺されることもあった」。


 ベラーのさらに大きな主張にとって重要なのは、こうした展開はすべて新しいということだ。そんな残忍な支配がない宗教も以前にはあった。またそれ以降にも、そんな残忍な支配がない宗教はあった。しかし、ハワイに出現した宗教は、ヴォルテールがあらゆる宗教に共通するものとして描いたモデルにとてもよく適合する――つまり、専制的支配と不平等のための詐欺行為というモデルに。ヴォルテール自身は、そこから恩恵を受けたいと望む皮肉屋――あるいは、現実主義者――だった。信じていれば正直なままでいられるというので、彼は召使たちが信心深くいることを望んだ。おそらく、最も危険な批判者ですら金で買収できることが、すべての安定した社会体制には本質的にあるようなのだ。しかし、ヴォルテールの批判は、もっとも興味深い問い、つまり、宗教の中には制度化した権力崇拝を超えて発展するものがあったのはどうしてか、という問いには取り合わなかった。これこそ、ベラーにとって、枢軸時代(そこで彼の本は終わるのだが)の中心的な問いである。神々は、最初、地上の暴君の巨大な陰として登場したのだが、神が陰ではなく光源に――その中にあってわれわれが社会やわれわれ自身を正義の理想に照らし合わせて判断できるようになる光源に――なるためには、何が、どのように変化したのであろうか? 



」(つづく)












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