So-net無料ブログ作成
検索選択
ブログパーツ

人間の進化における宗教、パート2 [海外メディア記事]

 ロバート・ベラーの書物についてのエッセイの第二回目。

 最古の宗教がいかなるものであれ、それは今日知られている「宗教」とは、おそらく、何の関連性のないものであったはずだ。それは神学をもっていなかったし、聖職や経典もなかった。そもそも社会的な分化がなかったし、共同体内部には厳格な平等主義が支配していたことだろう。(この点は、もちろん、確証を得られることではないが、世界各地の未開社会の膨大な記録から類推できることなのだろう)

 厳格さが支配する共同体にも遊びの要素があった。音楽、ダンス、物語りの語りが生まれた… そういう状況にベラーは宗教の発生を求めるようだ。たぶんこれも未開社会からの類推によって再構成するしかない事柄だろう。





Religion in Human Evolution, part 2: faith, language, music and play


Andrew Brown
guardian.co.uk, Monday 23 July 2012 08.29 BST

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/jul/23/robert-bellah-religion-human-evolution?INTCMP=SRCH







 人間の進化における宗教、パート2:信仰、言語、音楽と遊び

 (進化の過程で)失われたものは何もなかった。信仰のシステムは以前のシステムの上に構築されたが、最古のシステムはその語の今日の意味における宗教ではなかった。



 ロバート・ベラーの考え方の核心の一つは「(進化の過程で)失われたものは何もなかった」というものだ。われわれは、トロイの都市のように、われわれの以前の自己の上に築かれたのだ。毎晩われわれは、以前の自我の残骸の上で不安を抱きながら寝ている。宗教的・倫理的システムも、以前のシステムの上に築かれたものであって、これは社会的にも心理的にも正しいことだ。最も抽象的な思考を行う神学者であっても、儀式に臨めば気持ちは新たなものになるだろうし、もしそうならないとすれば、その神学者はすぐに信仰を止めてしまうことだろう。


 これは、儀式が心を鈍くしたり懐疑心を麻痺させるからではなく、信仰が、不信仰とまったく同様に、感情的なものであるからなのだ。あることが正しいと主張しておきながら、それがそうであることに少しも気にかけないとしたら、それは、どんな宗教的意味でも(あるいは、どんな重要な意味においても)、それを信じていることにはならないのだ。


 このことを念頭に置くならば、宗教の起源を探すために、われわれは、明らかに、言語の起源に目を向ける必要がある。これはまた儀式とのつながりでもあるのだ。なぜならベラーは、言語と音楽は同じ起源に由来すると考えているからだ。彼はコミュニケーションの初期の形態として「音楽言語(musilanguage)」について語っているが、それはトーンや曲やリズムが意味の大部分を伝えるような言語なのだ。もちろん、「音楽言語」、今日のわれわれの生活の中にも存在している。われわれは、会話が単なるテキストのやりとりに成り下がってしまうと失われてしまうあらゆるものの内に、それを見ることができる。


 言語も音楽も、最初は遊びの中で生まれた、と彼は考える。哺乳動物の遊びは彼にとってとても重要であるが、それは動物が欠乏の意識(deficiency consciousness )から自由になれる進化の最初の場所であるからなのだ。それは無駄な振る舞いだ。遊びは、それそのもののために行われる。それはきわめて深刻なものになりうる。「遊び」の反対は、「深刻」でも「現実」ですらなく、それ自身の外側にある目的のために行われる「仕事」なのである。それに対して、遊びは、それ独自の時間において、それ自身の規則の中で展開するものであって、そのどちらも外部の世界とは何の関係ももつ必要のないものだ。

 
 ついでに述べておくと、これは 「進化論的」心理学説ではあるが、「進化心理学」として知られているものではまったくない。ベラーは「遊びモジュール」のようなものを仮定してはいないし、ゲームが得意な子どもが大人になると、ガリ勉よりも子孫を多くもてるなどと説明しているわけでもない。


 宗教や言語のもっとも初期の形態において遊びというものを重要にするもう一つの点は、遊びが本質的に身体を伴うという点にある。それは行動で始まるのであり、後になってようやく、観念に移行するのだが、行動との接点を完全に失うことはない。これは儀式の重要性を理解する一つの論点である。身体がしたからやっと判るある種のものがあるし、知識の中には言葉では説明できないものもある。ベラーは高潔なのでこの文脈でセックスに言及することはしてないが、未経験のまま不幸な十代を過ごした人ならば誰でも、こうした知識の不在がどのように感じられるかを思い出すことができるだろう。ベラーは、その代わりに、学ぶことはできるが言葉では表現できないもっと刺激的でないスキルの例として、自転車に乗ることを話題にしている。


 宗教的な慣行は、もちろん、身振りに満ちている。祈りにおいて手を握りしめたり、ひざまずいたり、屈服のしるしとして地にひれ伏したりする。これらの事は、観ているもののためにも行われるのである。一人っきりの祈りは、とても後になって始まった高度に発達した形式の儀式である。それは共同体として行われるものとして始まった。音楽、ダンス、物語りの語りは、すべて、世界に対する身体的な反応であり、そこに参加する人にとって、それらは世界を説明するものとなるのである。



 (進化の過程で)失われたものは何もなかった。理論とは、物語りをより良くしたものではないし、価値のない装りを取り去った物語りでもない、そのように信じている人がいることを私は知っている。神話から理論への進歩は、合理主義の核心をなす物語りの一つだ。しかしこれは、事実に基づく歴史的説明というより、それ自体一つの神話なのである。これは、進歩に対する信念から説得力と辻褄を得ている。進歩が上手くいかなければ、残るのは混乱だけなのだ。


 われわれが見いだすことができる最古の宗教はどのようなものか?そうしたものが何であれ、それは(今日のわれわれが知る)宗教ではなかった。それらは神学をもっていなかった。それらには聖職や経典がなかった。それらには、世界がどのようにあるかについてのハッキリとした理論はなかった。それらには、創造神話さえもなかっただろう。時間の秩序がないので、天地創造が昨日起きてもよかったのだ。われわれはキリスト教の後に生きているので、創造神話は世界がなぜ完璧ではないのかを説明する必要があったとわれわれは見なしている。これは、われわれの祖先にとっては、尋ねてみる価値がある問いには見えなかったかもしれない。


 われわれの祖先が実際行なっていたのは、恐ろしいほどの平等主義だった。儀式が答える最初の問いが関わっていたのは、われわれがどこから来たのかではなく、どのようにして(共有および協力によって存続する)一つの共同体として生きるかという問いだった。文字を識った宗教は、不平等を正当化するためにしばしば利用されてきた。しかし、われわれが知る、あるいはわれわれが再構成できる最古の宗教は、その参加者全員を儀式では平等にした。その中には司祭のような者はいなかったし、王のような者もいなかった。そこから普遍的な倫理の最初の夜明けにいたる長い曲がりくねった道を、ベラーは辿ろうとする。その途中には王や、司祭よりもずっと悪い司祭・王がいたのだ。





」(つづく)














コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント