So-net無料ブログ作成
ブログパーツ
 

人間の進化における宗教、パート1 [海外メディア記事]

 個人的な関心との関係もあって、宗教社会学者のロバート・ベラー(Robert Bellah)の最近の書物『人間の進化における宗教(Religion in Human Evolution)』についてイギリス『ガーディアン』紙がかつて掲載した長大なエッセイを紹介することにする。エッセイの書き手はアンドリュー・ブラウンで、『ガーディアン』紙の記者である言っていい人のようだ。少し古いが(2012年7月16日に掲載開始)、こういうトピックスに古いも何もないだろう。


 ロバート・ベラーは、ハーヴァードやカリフォルニア大学バークレー校の社会学の教授を歴任し、主に宗教の分野に関心を注いだ人だが、日本の江戸時代にも関心を寄せ書物も書いている。したがって日本にはベラーの本を読む人が多くいるようだ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%BC)。
 
 最後の方で「枢軸時代」という表現が出てくる。調べてみると、最初に言い出したのはかの哲学者カール・ヤスパースのようだ。世界の大宗教やギリシア哲学が現われた紀元前500年前後のことのようだ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%BB%B8%E6%99%82%E4%BB%A3)。


 少し気になったことを、記しておこう。ベラーは特定の宗教に肩入れしたりはしないと述べている。例えば、宗教の歴史を語りながら、実質的にはそれが「キリスト教」に至る歴史にすぎないような例はたくさんあるが(下で述べられているように、カレン・アームストロング女史のような例)、そうした単純な見方をベラーは取らないという。しかし、どうやら、ベラーは宗教を「神と人類の共進化」という観点から考えているようなので、神をもたない宗教はそこからこぼれ落ちてしまうことになる。だが、たとえば仏教のような非有神論的宗教はどうなるのだろうかという疑問が浮かんでくるわけだが、まぁ、こんな単純な問題に答えていないはずはないだろうから、期待して待つことにしよう。

 ちなみに、私自身は、まだベラーの書物自体は読んでいない。これを訳しながら、読もうか読むまいか判断するとしようか。







Religion in Human Evolution, part 1: the co-evolution of gods and humanity


Andrew Brown
guardian.co.uk, Monday 16 July 2012 09.00 BST

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2012/jul/16/robert-bellah-religion-in-human-evolution?INTCMP=SRCH







 人間の進化における宗教、パート1 : 神と人類の共進化


ロバート·ベラーの重要な書物は、人間が宗教を創り上げ宗教が私たちを創り上げたあり方を解説した書物である。



  私は心臓発作からまだ完全に回復したわけではないが、回復期をロバート・ベラーの書物『人間の進化における宗教』を読むことに当ててきた。この書物の内容はとても強力なので、私はとにかくこの書物について書きたいと思っている。これは、人間が宗教を創り上げ宗教がわれわれを創り上げたあり方のいくつかを解説した書物である。このプロセスはもちろん、いまでも続いている。われわれを人間へと創り上げた二つの能力があるとすれば、それは、物語る能力(narration)と熟考する能力(contemplation)だ。宗教はそれらを結びつけ、その両者に刺激を与える。しかし、宗教はそれ以上のことをするのだ。



 ベラーは、われわれが宗教と呼ぶ雑多な現象に対して、(われわれが所有している限りでの)歴史を心理学と社会学に結びつけるような観点を提供している。宗教は複雑なので、包括的な理論はどれもこれほど野心的でなければならないのだ。宗教は、人々が自分自身や自分の社会に対して行うことであると同時に、社会全体が社会自身およびその構成員に対して行うことでもある。宗教は――時として――理論的な側面をもつことことがある。宗教はまた儀式的側面ももつ。われわれ西欧人のほとんどが最もよく知っているキリスト教の内部であっても、ダンスの要素や、遊びの要素、権力の行使の要素、論理の要素、詩や道徳性の要素がある。隠者もいれば教皇もいるし、審問官もいれば家庭の主婦もいる。神話などに言及しなくとも、これらすべての要素が見出せるのである。


 役割がこれほど多岐に分かれ多様なのは、当然のことながら、社会が多様で複雑だからである。ブッシュマンや先史時代のどこにも、教皇や司祭や審問官は見出せない。もしわれわれが宗教のどんな表現にも共通するものを探しているならば、何か一つの表現を記述するだけでは十分ではない。そこで、ベラーは日常生活のありふれた経験――欲求が完全に満たされることがなく、目的に導びかれながら問題を解決する無限につづくプロセス――から始める。ベラーが提起する最初の、そしてほとんどもっとも重要なポイントは、日常生活は、もしそれ以外に何もなく他の生き方がないならば、まさに文字通り耐えられないという点にある。


 しかし、彼が続けて指摘す​​るように、誰もそのように生きる必要はない。日常生活は、われわれがつねにそこで暮らしている世界ではないのである。


 
 「しかし、言語を使用する人間にあっては、日常生活の世界が唯一そこにあるものというわけでは決してないし、人間の文化が生み出す別の諸現実が、日常生活の世界(それはどこまでも無慈悲なまでに功利的になっていくものだが)を必ずや覆いかくすようになる」。


 「日常生活の世界は、一見現実的に見えるにもかかわらず、文化的・象徴的に構築された世界であって、実際に存在しているような世界ではない。日常生活の世界は、歴史や文化の景色が変わっても多くのものを共有してはいるが、時代や場所が違えば変わるものであるし、時折著しいほどの違いを生み出すものだ」。



 これは重要な論点である。宗教が相互にはなはだしく違っているだけでなく、宗教がそこからの脱出策を提供し、そこに意味を与えようとする世界そのものも相互にはなはだしく違っているのだ。すべての文化が世界に対処する様々な仕方の根底には心理的あるいは認知的メカニズムが存在しているかもしれないし、実際存在しているだろう。しかし、こうしたメカニズムがあるとしても、それぞれの言語がそうであるように、それらは違った仕方で表現され述べられるのだから、それらを異なった言語間であますことなく翻訳することは絶対できないのである。


 当然ながら、言語の進化にわれわれは立ち入ることはできない。ピラハ語を除けば、今日話されているすべての言語は、同レベルの複雑さをもっているようだし、それらがどうしてそのレベルに達したのかをわれわれは再構成することはできない。宗教は様々だ。大宗教は、多少なりとも部分的で不完全なものではあっても、歴史をもっている。無文字社会はまだこれから研究される余地がある。そのどの社会も現代の産業文化との接触は避けられなかったが(それが、研究対象になるという接触だけだったとしても)、そうした無文字社会が相互にどう違うのか、われわれの社会とどう違うのかという点はまだこれからの課題である。これがベラーの出発点である。われわれが知るような神々も人間も存在しないような世界が出発点なのである。



 この書物の物語りの多くは、神々と人類が共に進化した様子を語っている。彼は現代的な宗教や哲学的思考が(それとともに、普遍的倫理が)最初に登場した「枢軸時代(axial age)」で終わっているが、彼は、カレン・アームストロング(Karen Armstrong)の上滑りぎみの楽観論を回避する。枢軸時代になって登場するのは、唯一の普遍的倫理ではなく、多数の普遍的倫理だからなのだ。その地点にわれわれを導いたのは進歩ではなかった。


 「この本を真剣に読んでくれる人ならば判っていただけるだろうが、本書は、どんなものであれ何らかの宗教の勝利に対して讃辞を送るものではない」。


 
 ベラーはこう書いている。



 「宗教の進化とは、よりいっそう同情心に満ち、よりいっそう正義感にあふれ、よりいっそう偏見のない宗教が前面に浮上してくることだということほど、真理から遠いものはないだろう」。



 次週、われわれは、われわれが出発した地点、狩猟採集民を見ることにしよう、そして、現代の世界に向けてカニのように進んだ進歩の跡をたどり始めることにしよう。





」(つづく)

















コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント