So-net無料ブログ作成
検索選択
ブログパーツ

診断名は「人間的」 [海外メディア記事]

 『ニューヨーク・タイムズ』に載った非常に含蓄のある文章を紹介する。

 注意欠陥多動性障害(Attention Deficit Hyperactivity Disorder (ADHD))と診断された子供が急増しているというニュースから話は始まるが、それが本題ではない。

 筆者の息子もADHDと診断され、早い年齢から薬が不可欠の人生を送っていた。そしてそれが遠因となって21歳で死亡する。その死は、万事につけ薬にたよる現在の社会を反映したものと筆者には映る。息子の死に、筆者は激しい悲嘆(グリーフ)にくれる。

 この5月に発表されるアメリカ精神医学会のD.S.M.5(『精神障害の診断と統計の手引き』)は、悲嘆(グリーフ)を一種のウツ病と扱うのだという。だが、それはきわめて人間的な感情にすぎないのではないか? 

 元気すぎる子供を障害児扱いしたり死別の悲しみをうつ病に認定したりと、いまの社会は、人間的であることを病気扱いした上で、お金を出してそれを薬で治療させるという方向に向かっているようだ。「人間的であること自体が急速に一つの病気になりつつある」という筆者の言葉はとても含蓄深い。狭い範囲の健全性から逸脱すると、すかさず病理的と判断され投薬治療の対象となる社会は、かつては映画や小説で恐るべき全体主義を暗示する比喩として描かれたものだが、それが現在では科学的なお墨付きのもとで常識化しつつあると言えるのかもしれない。

 途中からキーワードとして出てくる「悲嘆(グリーフ)」とは、知っている人も多いと思うが、親しい人との離別や死別によって生じる激しい悲しみの感情。「日本グリーフケア協会」という団体もあるようだ(http://www.grief-care.org/about/)。
 
 筆者のテッド・ガップ(Ted Gup)は著名なジャーナリストらしい。現在は、著述家であり、ハーバード大学のエドモンド・J・サフラ倫理センターの研究員である。




Diagnosis: Human

By TED GUP Published: April 2, 2013

http://www.nytimes.com/2013/04/03/opinion/diagnosis-human.html?src=me







 診断名は「人間的」




 学校に通っている子供たちの11%――約640万の子供たち――が注意欠陥多動性障害という診断を受けているというニュースを目にしたとき、私の身体には悪寒が走った。私の息子のディヴィッドが、そう診断された一人だったからだ。


 ディヴィッドの場合は、小学校1年生のときだった。なんと、彼に会う前から彼のための薬を処方する精神科医がいたのだ。ある精神科医は、投薬するまで診察はしないとまで言い放った。一年間、私は薬局で処方薬を調合してもらうことを拒絶したが、最終的に私は折れた。そこでディヴィッドは、リタリンや、アデロールや、この病気に打ち勝つのに有効だとされる別の薬を服用することになった。


 年齢が違っていれば、ディヴィッドは「やんちゃ者」と呼ばれていたかもしれない。彼は、身体の割にはちょっとエネルギーがありあまっていた。よくソファをとび越え、天井にタッチしようと跳びはね、まるで突風のような生命の躍動を示していた。

 
 21歳の大学4年生のとき、彼は自室の床に横たわっている状態で発見された。アルコールとドラッグを致死量飲んだことが死因だった。2011年10月18日のことだった。


 誰も彼にヘロインと同時にアルコールを摂取するように仕向けたわけではないが、それでも私は、自分も含めて周囲の人間も悪かったのではないかと思わざるをえないのである。私は知らず知らずのうちに、対話によるセラピーを見下して投薬治療に走るシステムと共謀していたし、投薬による自己治療も完全に受け入れられるものだというメッセージを何の気なしに広めていたからだ。


 私の息子は天使ではなかったし(私たちにとっては天使だったが)、アデラールの売買や、アデラールを手に入れようと必死なクラスメートの間に薬物マーケットを作ったりすることで彼は有名だった。彼がやったことは言い訳できることではないが、それでも、それは理解されるべきである。彼がしたことは、彼が育った社会を完璧に反映するマーケットを作り出すことだった。それは、大手製薬会社が薬の認可外(しばしば、子供には検査されていないし多くの使用に対して許可されていない)の使用によって潤っている文化を反映するものだった。


 投薬治療を奨励する環境で育った世代の学生は、薬というものを成績を向上させるものとして使用することによって、医療の専門家の真似をしているのである。


 それに、どうして学生たちはあれほど薬を使うのか不思議でならない。すべての親が知っているように――時にはそれで心を痛めることになるのだが――、子供たちの学校生活は、教室だけのことではなく家庭でも続いていて、彼らが十代の頃や成人してからも自分たちだけで築きあげる文化は、彼らが子供の頃に導き入れられた文化を模倣する小さな村社会にすぎないのである。


 黙認される薬の使用と過剰診療の問題は、注意欠陥多動性障害をはるかに超える問題だ。5月に、アメリカ精神医学会はD.S.M.5(『精神障害の診断と統計の手引き』第5版)を発表する。それは精神医学のバイブルと呼ばれている。その最新版は、以前の改訂版と同様、精神医学を垣間見せる窓であるばかりでなく、社会規範を反映すると同時にそれを形づくりながら、それが仕える文化を垣間見せてもくれるのである。(例えば、1970年代まで、同『手引き』は同性愛を精神疾患として分類していた)。


 論争を呼びそうな新たな規定の一つに、ウツ病を拡大してある種の悲嘆(グリーフ)をそこに含める規定がある。一見したところ、それは理にかなったことのように見える。悲嘆(グリーフ)はしばしばウツ病に共通してみられる症候――生きることに対する関心の喪失、食欲減退、不規則な睡眠パターン、機能性の低下等――をすべて示しているのだから。しかし、他の人々が述べているように、これらの症候は悲嘆(グリーフ)そのもののに付きものの特徴なのである。


 われわれが生きている時代は、放送波やメディアが、睡眠からセックスに至るまでのすべてを直せると言い張る巨大な薬局のような時代である。人間的であること自体が急速に一つの病気になりつつあるのではないかと私は恐れている。われわれはまるで、悲嘆(グリーフ)や、私が味わったような(子供の)喪失という絶対的な苦痛までも抑え込もうとしているかのようだ。われわれは、生と死のパターンからますます切り離されたり遠ざけられ、われわれ自身が人間であることに由来する様々な現象や、老化や、最終的には死という運命にまで不快感をもつようになっている。


 困難な事態や苦難は病理現象として扱われ、お金をだして片づけられるものと見なされる。困難に対処する能力を強化する代わりに、われわれはその能力を弱体化させ、近道がないところに近道を求め、われわれ一人ひとりが人生のある局面で頼らなければならない弾力的な精神力を掘り崩しているのである。悲嘆(グリーフ)を一種のウツ病と診断することは、きわめて人間的なもの――愛情の絆や互いに愛着を抱くこと――を、あってはならないものとして扱うという危険を冒すことである。D.S.M.の新しい項目が悲嘆(グリーフ)に名前を与えたり、それを新たな病気の一部に組み込んだところで、悲嘆(グリーフ)は止まらないし、怖くなくなったり手なづけ易くなったりすることもない。


 D.S.M.は、傷ついた心は医療が扱う病気ではないし、つらい経験から立ち直らせるのに投薬は不適切だと認めるべきだろう。時間がすべての傷を治してくれるわけではないし、クロージャー(causal closure: 心が何かの原因になることはないという物理主義的考え方のこと――訳者註)はフィクションだし、神は私たちに耐えられないものは求めないという考え方もフィクションである。時として、耐え難いものを耐えることこそ、人生がわれわれに要求することなのだ。


 私が感じている強烈な苦痛には甘美なものもあるのだ。それは、いまだに私を息子に結びつけているものである。そう、苦痛の中にも心を和ませるものがある。時がくれば、私はそれを手放すだろう、D.S.M.を参照することなく、薬の助けを借りることもなく。






」(おわり)















コメント(2) 
共通テーマ:ニュース

コメント 2

小藤桂子

精神医学(優生学)の問題、薬害についてブログを書いています。

とても参考になる記事なので、転載させてください。

よろしくお願い致します。
by 小藤桂子 (2013-06-21 23:03) 

MikS

小藤さま、連絡してくれて有難うございます。お好きに使ってください。

ちなみに、これを機に見直し、何ヵ所か手直しをしました。
by MikS (2013-06-22 11:30) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント