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自殺は理性的行為か? ――自殺は許されるか(6) [探求]

  スタンフォード大学の哲学百科事典から「自殺は許されるか?」を学ぶシリーズの第6回目にして最終回。今回は「3.7 自律性、合理性、責任」を紹介する。  (なお、第3章には、最後のセクションとして「3.8 自殺者に対する義務( Duties Toward the Suicidal)」があるのだが、自殺が許容できるかどうかに当方の関心があるために、割愛した)。


  全体の論述をあらためて通読しての感想は、自殺の問題については、安楽死や中絶の問題にも似て、少なくとも、一刀両断的な基準で判断できるわけではないのだなあ、ということか。

  筆者のMichael Cholbiが何度か使った言い回しを使うと、自殺は「時には許容できる」かもしれない。だが、それはつまり「時には許容できない」ことでもある。

 また、自殺は「時には理性的な行為とは言えない」のだから自殺に対しては干渉してもいいのだ、というのが今回の「3.7 自律性、合理性、責任」の趣旨だと言えるだろうが、これもやはり、自殺は「時には理性的だから」干渉してはならない、ということを含意しているはずなのである。

 というわけで、非常に歯切れ悪い言い方しか筆者はしていないわけだが、ひょっとしたら、ここには、生死の問題についてはこういう曖昧さに甘んずるべきだ、というメッセージが込められているのかもしれない。



  ちなみに、全体を一つにまとめて別の場所にアップしたので、通読したい人はそちらもどうぞ。

  「自殺の道徳性と合理性」   http://miksil.blog.so-net.ne.jp/2013-04-02



Suicide

First published Tue May 18, 2004; substantive revision Tue Nov 20, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/suicide/#DeoArgSanLif







 3.7 自律性、合理性、責任



  われわれは自殺に関しては非干渉の権利を有するという主張のもっと制限されたバージョンによると、自殺が理性的に選択されている限り――他者に対する義務の問題は脇にどけておくと――自殺は許されるとされる。同じようにカント主義者ならば、自殺の選択は、その選択が自律的であるならば、尊重されなければならない、つまり、もしある個人が自分の置かれた状況にとって相応しいと認める理由に基づいて自分の生命を絶つことを選択するならば、その選択は尊重されなければならない、と主張するだろう。こうした立場は、理性的な根拠に基づいて(または、個人が自分の状況にとって相応しいと認める理性的な根拠に基づいて)なされるときに限り自殺を許容し、理性的な根拠に基づいてなされない場合に限り、他者が干渉するのを許容するという点で、リバタリアンの見解よりも狭いものだ。


 理性的な自殺の可能性にとっての最初の難問は、自殺というものは、自分の生命を絶つ選択なのだから、それは必然的に非理性的だという考え方である。ここで考えられていることは、自殺が理性的だと矛盾なく判断するには、生きている(あるいは、生き続けている)状態と死んでいる状態を比較することが求められる、ということである。しかし、死んでいる状態については誰も十分な知識をもっていないのであるし(Devine 1978)、自殺する以上、自殺者は楽しみに期待する未来を何らもっていないわけであるから(Cowley 2006)、自分の生命を断つことが理性的であるという判断は、矛盾しているか見当はずれな判断だということになる。


 近年、この「二状態」の必要条件(死が理性的か非理性的かを判断できるのは、生きている状態を死んでいる状態と比較することが可能である場合に限られるという要求)は、多くの人々によって拒絶されてきた。とくに、自分の生を絶つという決定が理性的であることは、生きている価値と死んでいる価値によって解釈される必要はない、とされた(Luper 2009, 82-88)。自分の生を断とうと考えている人々が考慮していることは、自分の生の長短であって、リチャード・ブラント(Richard Brandt)はそのことを次のように述べている。


 自殺を考えている人は、これから起こるであろう世界の諸々のあり方のどれが良いかを選択しているのである。たとえば、いまから一時間後の、自分の死亡を含む世界のあり方と、もっと後の時点で自分が死亡することになるいくつかの可能的な世界のあり方を選択しているのである……。どの世界のあり方が自分にとって最良か、どれが自分が選択するのに理性的かを決めるために人が答えなければならない根本的な問いは、情報が最大限に使用でき、自分の望みのすべてが考慮されるという条件下でならば、自分はどの世界のあり方を選択するだろうか、という問いなのである(Brandt 1975)。



  ゆえに、この見解に立てば、自分自身の死についての理性的判断が求めるのは、現在の世界のあり方のもとで自分の生が続いた場合、その生が全体的にどれほど良いものとなるかという点と、現在の世界のあり方以前に自分の生が終わっているならば、その生が全体的にどれほど良かったかという点を比較することなのである。この見解は、人が死のうと決断することがどの条件でならば理性的になるかという点を確定しようと努めた哲学的な論文を大量に生み出した。こうした文献のほとんどは、理性的な自殺の条件を二つに分けるのだが、その二つとは、自分の置かれた状況に対する個人の評価が理性的で充分な情報を与えられた上でのものであると確約する認知的な条件(cognitive conditions)と、自殺が個人の熟慮された利害に合致していると確約する利害条件(interest conditions)である。

 
 このアプローチを取った一人にグレン・グレイバー(Glenn Graber)がいる。 グレイバーは、自殺が理性的に正当なのは、「その人が置かれた状況を理性的に評価すれば、その人は死んだ方が良いことが明らかである場合である、と述べている(Graber 1981, 65)。グレイバーによると、評価が理性的であるのは、自殺が、ある人の現在およびこれからありうる価値観と選好を含む全体的な利害を促進するのかそれとも妨げるのかについての明瞭な検討に由来している場合である。マーガレット・バッティン(Margaret Battin)は、理性的な自殺には三つの認知的な条件が必要であるとし(因果的および推論的論証の能力、現実的な世界観の所有、決定に関連する情報が十分あること)、さらに、利害条件も二つ必要だとした(死ぬことで、将来の害が避けられることと、死ぬことがその人のもっとも根本的な利害や態度に合致していること)(Pabst Battin 1996, 115)。


 自殺者のほとんどは、全体的に理性的でないという徴候は示さないものだし、ましてや法的に定義可能な狂気の徴候は示すことはなく(Radden 1982)、自発的に自殺行為に取りかかるものだ。しかし、こうした事実は、自殺行為に取りかかる選択が理性的でないことと矛盾はしていないのであって、自死の実際の例において理性的自殺の条件が充たされるのはどれほどあるのかという点について重大な疑問を投げかけることができるのである。実は、理性的自殺が可能であるならば、自殺する個人の理性的自律性についてある種の前提が成り立っていることが必要だが、それは多くの場合において成り立っていないかもしれないのである。自殺行為をしようとするある人の選択はその人の熟慮された利害を反映したものではないこともありうるし、その人が自らに与えた死が、もっと落ち着いて頭脳が明晰である時には尻込みしてしまうような行為であるかもしれない。言い換えれば、かりに自殺する権利が存在しそれが理性の自律性に根ざしているとしても、そのことが自殺する権利を含意するのは、人が死ぬ決断を最低限の理性的な根拠に基づいて下すときに限られるのだが、人の理性的自律性を危うくするような要因は数多くあるのであって、だから、自殺行為に取りかかろうとする決断はその人の熟慮された価値観や目標を反映したものではない場合もある。これらの要因のなかには、自殺をすべきかどうかについての検討を認知的に歪めてしまうものもある。多くの自殺者は、自分の死のために延々と時間をかけて計画するが、自分の生を終わらせる最後の決定はしばしば衝動的であり、自殺者が内心に抱えている激しい心の傷や、気分の変動や動揺に傾斜した瞬間を反映することもある(Cholbi 2002, Joiner 2010, 70-84)。自殺者はまた自分の死が最終的なものだということをすっかり認めることに困難を感じる場合もあり、(死後の世界は存在しないと思いながら)自分は死んだ後でも意識的経験の主体であり続けると信じているのである。


 
 とくに厄介なのは、自殺念慮とウツ病などの精神疾患との間にある明白な関連性である。この関連性がどれほど強いものであるかについては意見の相違は今でもあるが (Pabst Battin 1996, 5) 、ウツの症状やその他の気分障害の存在が自殺行動の可能性を大きく増大させることについてはほとんど疑いは存在しない。ある自殺の研究によれば、自殺者の90%以上が死亡する前にウツの症状を示したとされるが、別の研究の推計では、一般人口に比べて通院を必要とするようなウツの症状を抱える人々の間には、自殺の発生は少なくとも20倍も高いとされる。ウツ症状と関連があるとされた自殺の場合では、個々人の死に対する態度は、その人の人生の状況(キャリアの見通し、人間関係等)についての強烈なまでに否定的で、しばしば歪んでもいる信念によって色づけられている。ブラントが述べたように(1975)、ウツの症状は「その人の知的なプロセスを低次元なものにし」、これから起こりうることについての粗雑な評価を生み出し、今後起こりうる良好な事態よりも現在の苦しみにのみ不合理なまでに目が向くように仕向けるのである。自殺したくなるほどのウツ状態にいる人々は、自分の死が及ぼしうる結果についてロマンティックで壮大な信念を示すこともある(殉教や復讐などの妄想)。さらに、自殺者は行為に踏み切ることにためらい、他者が介入することを望み、他者に対して介入するようなシグナルを送るものである(Shneidman 1985)。最後に、同じ個人が自殺の試みを繰り返すことはよくあることだが、自殺行動への衝動はしばしば一時的であり、自然と消えていくものである(Blauner 2003)。以上考察したことをまとめると、十分な情報をもち理性的な判断の末に自己評価をしたと純粋に言えるような自殺行動は稀であるかもしれし、自殺が理性的であったり道徳的に許容できるのはほんの時折のことにすぎないのである。さらに、自殺は、個々人が自分自身の幸福について理性的に評価したことの表現ではないことがしばしばあるならば、そのことは、他者が自殺行動に干渉してよいとする明白な理由をもつことになることを示唆しているので、自殺行動に関しては干渉されない一般的な権利というものは存在しない(there is no general right to noninterference)ことになるのである。




」(おわり)
















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