So-net無料ブログ作成
検索選択
ブログパーツ

ハネケ『シュピーゲル』誌に語る [海外メディア記事]

 遅ればせながら、ハネケの『アムール』を観てきた。

 この作品については、もう2~3か月くらい前からレビューを欧米各紙のあちこちで見かけたのだが、実際にこの目で観ないとこういうものは紹介できないので、控えてきたのである。そこで少し古い記事だが、ハネケが『アムール』についてドイツ『シュピーゲル』誌と交わしたインタビューを紹介する。アカデミー賞の結果がまだ判明していない時点でのインタビューなので、少し古いが、まあ大したことではないだろう。

 この監督の根本的な生真面目さがよく表われているインタビューだと思う。(ちなみに、オリジナルは長すぎるので、数か所カットした)




( 個人的な感想を言わせてもらうと、各賞を総なめした作品として期待して観に行ったのだが、少し期待外れだった。面白くなかったわけではないが、これはハネケの作品と言うよりは、二人の主演俳優の映画だということに尽きるのが物足りなかった。下に訳した記事のタイトルを使うならば、この映画には「生にとって危険なもの」としての「愛」が確かに描かれているが、ごく普通の愛がなぜあのような危険な行為に結実するのか、愛情が絶望に変容する経緯が充分に描かれているとは思えなかったからである。まあ、その部分は観ている者にゲタを預けて、一人一人が「愛」の意味を考えてくれ、ということなのだろうけど・・・。と、ここまで書いて気づいたことが一つあって、それは、この映画が夫婦間の内面や感情の描写にあえて立ち入っていないということだ。終りに至るまでの心理的な「経緯」が描かれていないと上に書いたが、そもそも、この映画では、内面に触れることを慎重に避けている。だから、心境の変化などというものはまったく問題にならないのかもしれない。「愛」という言葉は、普通は、ある種の内面的な感情という観点から理解されているが、「愛」をそういう意味で受けとるならば、『アムール』は愛をテーマにしていながら、愛をまったく描いていないということになる。この映画では、愛はいたる所にあるが、どこにもないのかもしれない。この逆説的な事態を単純な言葉にするな、ということがハネケのメッセージなのかもしれない)。








Liebe ist lebensgefahrlich

Von Beyer, Susanne 18.02.2013


http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-91056784.html





 愛は生にとって危険なもの


 オーストリアの映画監督ミヒャエル・ハネケは年老いた夫婦についての素晴らしいが観るのは疲れる映画を撮った。『アムール』はアカデミー賞の5部門にノミネートされてた。ハリウッドは何か誤解したのだろうか?


シュピーゲル: ハネケさん、あなたの映画はハリウッド向きではありませんよね? あなたはバックグラウンド音楽は使わないし、ハッピー・エンドではないし、物語りはゆっくりだし。なのにあなたの『アムール』はアカデミー賞の5部門にノミネートされました。ハリウッドはどうかしちゃったのではないかと心配になるのですが、それともあなたのことを心配すべきでしょうか?



ハネケ: ノミネートは受賞ではありません。どうなるかはいずれ判りますよ。でも、私のことは心配には及びません。うれしい意味でのサプライズでしたけどね。


シュピーゲル: 本当にサプライズでしたね。


ハネケ: たぶん、アカデミーの会員には平板な大作にはもうウンザリという気分があることを示しているのでしょう。いつの間にか、映画より面白いものがテレビで作られることが、誰の目にもはっきりしてきましたからね。以前はテレビはバカで映画はすごかったのですが、今のアメリカでは、その逆のことがしばしばおこっているのです。ずっと続くわけではないでしょうが。


シュピーゲル: 『アムール』は「作品賞」のカテゴリ、つまり、オスカーではもっとも重要とされている賞にノミネートされています。これは、あなたの作風を考えると、センセーションと言えますよね。


ハネケ: われわれは『アムール』で賞と名のつくものをほとんどすべて獲得しました。でもそれは、この映画のテーマと関係があるはずです。これまで数字が取れないと見なされてきたために扱われることがなかったテーマですからね。


シュピーゲル: パリの少しくたびれたアパートに年老いた音楽教師の夫婦が暮らしていて、妻が末期症状になり、夫がその介護に忙殺される。こんなあらすじを言ったら、実際、誰も見向きもしないでしょうからね。

ハネケ: でも、それは思い違いというものです。年齢と死は、私たちすべてに関わるテーマなのですから。40代から50代の人間には、そうしたことが問題となる親がいるわけです。若い人たちは「今度の映画は私の祖父母の物語りでした」と私に言いましたけどね。高齢者にとっては、自分自身の物語りですよ。


シュピーゲル: こうしたテーマを試みた監督はこれまでにもいましたが、あなたほどの成功を誰も収められませんでした。これはどう説明しますか?


ハネケ:お涙ちょうだい的な演出に走ったりことさら悲惨に描いたりしないことですね。こういうテーマではそれが大きな誘惑になるのですが。『アムール』では2人の素晴らしい俳優の幸運な出会いに恵まれました――どんな授賞式でも私はそう述べました。彼らの表情にはこれまでの人生の美しさが現われていたし、彼らの演技は豊かだった、それがこの映画の魂です。



シュピーゲル: ハリウッドの人々は皺(しわ)という皺(しわ)を見えないようにします。もっと見かけが滑らかになるようにみんな努力しています。なぜあなたは、こうした願望に反対するのですか?


ハネケ: 問題は、あなたが何に対して、売り上げか芸術のどちらに義務を負っていると感じているかという点です。映画制作にはとても金がかかるので、今日の映画のほとんどは、従順さを競いながら、商業的成功に対してのみ義務感をもっています。観客も、苦い真実に直面するより美しく包装された嘘の方を、当然ながら好みます。真実は痛みを与えるものなので、私たちは見たいとは思わない。主流となっている映画にはルールがあるんですよ。動物と子供には何かが起きちゃいけないというルールがね。でも、現実には、何かが起っているでしょう。


シュピーゲル: 芸術としての映画――ほとんどの観客はそんな主義・主張をもってませんけどね。



ハネケ: 映画が芸術になりうるかどうかは議論の余地があるでしょうが、映画が芸術であろうとするならば、映画は真実になるよう、というか、真実らしくなるよう義務を負っているものなのです。観客はしばしば腹を立てて、「こんなに現実的である必要があるのか、実際の生活ではずっとそうなんだから」と言うでしょうがね。



シュピーゲル: で? それほど現実的になる必要はあるのですか? 映像を美しくすることはどうしてダメなのです? 


ハネケ: 美しいとは何でしょうか? 美しいとは美化することではありません。綺麗にすることは、ものを使って嘘をつくことです。それは芸術の役目ではありえない、今日でもそうです、それは広告の役目です。映画もそれ自体は人心操作の一形態であるし、映画は観客を圧倒しますよ。そこで私はこう自問せざるをえないのです、私は何のために、そしてどこに導こうとして観客を圧倒するのかと。私があなたについての特定の印象を与えたいとしましょう。カメラを置くだけでもうそれはできますよ。問題はですね、私が観客の内に、自由にどこかへと導いていける者を見ているのか、それとも、私は観客を尊重されるべき一個人として見なしているか? ということです。観客をどこかに導いていくことくらいは、私にもできますよ、私が自分の仕事を理解しているならばね。私たちが映画製作者としてもっている責任というものは、私の同業者の多くにとっては残念ながらテーマとはならないのです。


シュピーゲル: 今日の人々はどこでにいっても、きれいな映像がこれでもかという位あびせられているわけです。映画製作者が物事をありのままに見ることを忘れ去るなんていうことがありうるでしょうか? 


ハネケ: 厳密にあるがままを見ることができない人は、映画を作るべきではありません。経験の浅い人は、できるだけ趣味のよい映像にしようとする傾向があります。オーストリア人ならば、できるだけ目立つ映像と言うでしょうけどね。でも、映像は正しいときに美しくなるのです。ロベール・ブレッソンの映画を見ると――それは素晴らしい芸術作品ですが、彼はどんな思いつきも排除して厳密な映像を作ろうと努めていたことが判ります。


シュピーゲル: あなたの学生たちは、あなたとは異なる映像を見て育ってきたので、違うものを美しいと思うでしょうね。


ハネケ: メディアを通じての教養はどうしようもないとは思います。世界に対する見方全体は、AVメディアによって変えられてしまいました。私が厳密な映像と美化された映像の違いに対するまなざしを発展させられるかどうかは重要な点になります。


シュピーゲル: オスカーの最優秀女優賞にエマニュエル・リヴァがノミネートされました。彼女は授賞式の時には86歳になっていますが、このカテゴリでノミネートされた俳優としては、アカデミー史上最高齢となりますね。


ハネケ: 彼女が受賞すればと願っていますよ。キャリアの最後にオスカーを受賞するのは悪いことではないでしょうから。


シュピーゲル: 女優というものは、まあ女性は一般にそうですが、大抵、自分自身の美しいイメージを与えるように教え込まされているわけです。でもあなたは、『アムール』において、主演女優の美しさをも破壊しています。彼女はどうやってそれに折り合いをつけたのでしょうか?


ハネケ: 彼女は絵画のように美しい、それは映画でも見せましたよ。


シュピーゲル: 始めの部分ではね。でもそれから酷くなっていったでしょ。


ハネケ: われわれは時間の経過通りに撮影していきました。こうしたエモーショナルな物語りではその方が簡単ですからね。それで彼女も、展開通りの姿――あなたの言う「酷くなっていった」姿――になることができたのです。一度ヌードにならなければなりませんでしたが、当然それは彼女にとって不愉快でしたよ。でも彼女はその必然性を理解しました。ヌードになることほど好奇の目にさらされ傷つくという感情をハッキリと伝えるものはありませんからね。あのシーンは上手くいきました。観客としても、あんな具合の悪い状況に人形がいてシャワーを手伝ってもらっているより、老齢の女優が全裸になっている方が、ショックの度合いは少ないでしょう。・・・・




シュピーゲル: あなたは音楽がとてもお好きなようですが、なぜ音楽を映画に取り入れないのですか?


ハネケ: 私は現実的な映画を作っているからです。現実には、音楽は演奏されていませんからね。誰かがラジオをつけたり、楽器を鳴らしているミュージシャンが居ないかぎりはね。デヴィッド・リンチ――彼は偉大な映画製作者だと私は思ってますが――の映画で私の気に障る唯一のことは、たえず音楽が流れていることです。私には音楽は必要ありません。ゴミのような音楽が満載の映画やテレビドラマには心底うんざりします。警部が会話をかわし、車にのり込み、街中を運転し、そして音楽が流れる、それで我慢出来るようになるかのようにね。ジャンル物の映画では音楽は全体の構想の一部です。モリコーネなしのマカロニ・ウェスタンはマカロニ・ウェスタンではないでしょう。でも、現実的な映画ではそうはいかないのです! 音楽によって緊張を生み出すのは、まったく不誠実だと思います。それは、ドラマ作りと演出の失敗を隠すためなのです。私は音楽をあまりに愛しているので、自分の失敗を隠すために音楽を利用しようとは思いませんね。それに私は、沈黙の方がよりよく緊張感を生み出せると思うのです。


シュピーゲル: あなたは、日常の音にこだわって、それを編曲していると見なされていますよね。近づいてくる車や、水のしたたる音や、なぜそういう音にこだわるのですか? 


ハネケ: 『アムール』のような映画が沈黙とともに作業するとき、近づいてくる車の音のすべてがその雰囲気にとって重要となるからです。私は画像編集はいつも素早く済ませるのですが、音については数ヶ月もかけますよ。


シュピーゲル: 『アムール』は「作品賞」のカテゴリで歴史ドラマの『リンカーン』と競うことになりました。スティーブン・スピルバーグは、かの有名なアメリカ大統領の一代記を魅力的な映像で物語っています。あなたはそうした映画が好きですか?


ハネケ: 私が作品賞で競合している映画はどれもまだ見ていません、だから、リンカーンの一代記を映画で描けるかどうかは判りませんね。でも、スピルバーグが何年も前に『シンドラーのリスト』でしたような仕方で強制収容所を描いてはならないということは、確信していますよ。人々がシャワー室のように見える空間に押し込められて、そこから水がやって来るのかガスがやって来るのかについての緊張が走る、という描き方です。あんな描き方はやってはいけない。私はそんなテーマにはずいぶん真面目に取り組んでこざるを得なかったので、あれほど安っぽく緊張感を生み出すようなことはしてはならないと思うのです。


シュピーゲル: あなたならガス室のシーンをどう撮ったでしょう?



ハネケ: 私ならば撮らなかったでしょうね。そんなものは再現もできません。ヒトラーやスターリンを描くことができるとは私には思えません。それを行った映画製作者がいましたけどね。チャーリー・チャップリンのようにパロディは作れますが、それが出来るには、チャップリンにならなくてはならない。強制収容所について申し分ない映画を作った唯一の人は、『夜と霧』のアラン・レネだけです。あれはドキュメンタリーですけどね。・・・



シュピーゲル: あなたがオスカーでアメリカ映画の巨匠のスピルバーグと並び立つとき、どんな感じがするでしょうか?


ハネケ:スピルバーグといっしょならば嬉しいですよ、なぜなら、言うまでもなく、彼は偉大な監督だからです。彼の映画で私のお気に入りは、いまだに最初の『激突』ですね。あれは傑作で、紛れもない映画です。


シュピーゲル: スピルバーグをよく知っていますか?


ハネケ: スピルバーグは今度のゴールデン・グローブ賞で私を祝福してくれたし、キャビアひと箱とシャンパンを送ってきましたよ。とても親切で太っ腹な人です。あれほどの成功を収めた人は、自動的に太っ腹になるものです。・・・




シュピーゲル: あなたがオスカーを受賞するためにステージに呼び出された瞬間を想像してみてくれませんか?


ハネケ: 何を言おうかこれから大まかに考えることになるでしょうが、諳(そら)んじたりはしないでしょうね、さもないと自然なスピーチにならないでしょうからね。残念なことに、英語は上手くないし。しかし、それは贅沢な悩みというものでしょう。


シュピーゲル: 贅沢な悩みにはあまり心配はしないのですね。あなたは、人生の本当に難しい問題に引き寄せられているように感じている。なぜですか?


ハネケ: 人生は困難な状況から成り立っています。それが簡単にいくのは映画だけか、できの悪い本の中だけです。現実はいつも矛盾している。現実にちょっとでも近づこうとする人は、その矛盾を受け入れようとしなければならない。今主流となっている映画はそうしようとはしないのです。それは、観客が世界を支配できるかのような錯覚をもてるように、世界を単純化しているのです。


シュピーゲル: 深刻なテーマにはユーモアを通しても近づくことができますが。


ハネケ: 私はいつも学生たちにこう言っています:もしあなたがユーモアのセンスを持っているなら、神様に感謝しなさい、なぜならそれはとても稀なものだから、とね。私には面白いことは何も思いつきません。私生活ではよく笑いますが、私の心を動かしたり芸術的に刺激するテーマは、それほど楽しいものではありませんからね。私はウディ・アレンではないのです、残念なことに。


シュピーゲル: 死ぬときに何をしたいかと、考えたことはありますか?


ハネケ: 妻と私は、施設に押し込めないようにしようと約束をしました。良い施設であっても悪いのです。プライバシー空間の喪失は私には耐えられないでしょうね。


シュピーゲル: あなたが介護される身になれば、自宅にいてもほとんど一人にはなれませんよ。


ハネケ: 自宅には、いとしいものがいろいろありますからね。それに、自宅にいるのと、施設の部屋で4~5人と一緒にいるのとでは、違うでしょう。そうなったら自殺した方がましだと誰がが言いましたが、それはよく判りますよ。


シュピーゲル: あなたの映画が大成功したのは、『アムール』というタイトルのおかげでもあります。そのタイトルのおかげで、人は死だけでなく優しさも思い浮かべるわけですから。


ハネケ: この映画の本当のテーマは愛でもあるのです。このアイデアをもたらしたのは主演のジャン=ルイ・トランティニャンでした。もし私が普通のラブ・ストーリーを作ったならば、このタイトルは不可能でしょう。でも、この映画の文脈では、それが可能となったのです。



シュピーゲル: なぜこの映画は、アメリカでは『アムール(Amour)』で、『ラブ(Love)』ではないのでしょう?


ハネケ: それは私が望んだことではなく、アメリカの配給会社がそれにとてもこだわったのです。“ラブ(Love)”という語はアメリカでは約325000本の映画のタイトルで使われているからです。


シュピーゲル: この映画で目にするものが愛なのだ、つまり、互いに慣れ親しんだ生活の中で変わり果てていく年老いたカップルが愛なのだ、ということがこの映画の主張であるわけですよね。大抵の人は、愛とは、愛が始まるときの情熱のことだと理解していますが。



ハネケ: 結婚式で「死があなた方を分け隔てるまで」と言われるではありませんか。この愛のイメージは西洋の文化的な遺産であり、幸いにもまだそのような愛は存在しています。妻と私は70歳で30年間一緒ですが、この年齢で50年連れ添っている人をたくさん知ってますよ。そしてそれが愛なのです。

シュピーゲル: あなたの映画の中では一度も「私はあなたを愛している」というセリフは出てきませんね。


ハネケ: 出てきませんか? そうでしょうね。私の映画ではほとんど出番はないでしょうね。映画の歴史でこれほど使い古されたセリフもありませんしね。1950年代のドイツのキッチュな映画――『私はしばしばピロシュカのことを思う(Ich denke oft an Piroschka)』――の中で、男が女に「私はあなたを愛している」と言います。すると女はハンガリー訛りでこう答えます。「言うだけじゃダメ、アンディ、やらなくてはいけないの、やっちゃうのよ」。その通りです。ドラマでも実際の生活でも、重要なのは行動であって、言葉ではないのです。


シュピーゲル: 今、あなたはマドリードで、恋の悩みを描いたモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』を手掛けています。このオペラにはどんなレベルの演出もありえますが、普通は茶番劇として上演されますね。ハネケとコメディーは両立するのでしょうか?


ハネケ: 未完成のものについては話すべきではないでしょう。ただ次のことだけにとどめておきましょう。私は『コジ』を茶番劇とは見なしていないのです。そこで、愛する者たちはゲームの中で関わり合うわけですが、最後に彼らはそのゲームに囚われてしまう。人生でもしばしばそういうことはあるわけです。誰かが、こんなこと大したことはないと考えて、一晩だけの関係をもってしまう、しかしその後突然、途方もないドラマが起きて、すべてが台無しになってしまう、もう誰とも関われなくなってしまう、というドラマがね。


シュピーゲル: 映画評論家のゲオルク・ゼースレンがあなたの業績についてのエッセイで、こう書いています。ハネケにおいて愛はつねに加害だ――ギリシャ神話において、エロス神が矢を射ると、射られた者は、傷を受けながら愛するようになるのと同じように、と。


ハネケ: たしかに、そういうこともあるでしょうね。オペラのプログラムに私はリルケの詩を印刷させたのです。「エロス」という題の詩で、愛による加害を素晴らしい形で表現しています。ご存知ですか? ちょっと待って、それはこんな具合です。



「 仮面をつけろ! 仮面をつけろ! エロスの目をあざむけるように/ 誰がエロスの光を放つ顔に耐えられよう? / エロスが夏至のように春の穏やかさを断ち切るときは/ おしゃべりの様子が不意に変わり重苦しくなり・・・/ 何かが叫ぶ・・・/ エロスは聖堂の内部のような名づけがたい恐れを投げかける / すると途方に暮れてしまう、突然、途方に暮れてしまうのだ! / 神々はすぐに抱きしめてくれる / 生はうねりながら進み、運命が生み出された / そして心の内では泉が涙のように湧き出るのだ 」。



シュピーゲル: 美しい詩ですが、恐ろしくもありますね。



ハネケ: もちろん。愛は危険なものですよ、生命にとって危険となるものでもあります。愛は自分自身をはるかに超え出ていくものです。人は自分を見失うかもしれないし、エゴイズムをも失うかもしれない。エゴイズムは大事ですよ、それによって自分自身を守ることができるのですから。


シュピーゲル: 映画評論家のゼースレンはこう書いています。愛が加害を通して誰かとの結びつきを生み出すとすれば、それこそまさにあなたが観客に対して行ったことである、あなたはあの辛(つら)い映画によって観客に害を与え、それによって結びつきが成立したのだから、と。


ハネケ:それは一つの解釈ですよ。私は諸々の解釈に対しては何も言うことはありません。もちろん観客との出会いがあるとすれば、観客をその無関心の状態から連れ出すようなものに触れることによってでしかないでしょう。私が映画に行くときは、本を読むときでもそうですが、入ったときとは違った人間になって出たいと思っているのです。揺さぶられて自分自身の安定性を壊したいのです。


シュピーゲル: 『アムール』がオスカー5部門のどれも受賞できないとしたら、あなたはガッカリするでしょうか?

ハネケ: めげずにいるでしょうね。私は強いこだわりをもつことは止めにしたのです。

シュピーゲル: ハネケさん、インタビューありがとうございました。







」(おわり)















コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント