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道徳的義務としての自殺は存在するか? ―― 自殺は許されるか? (5) [探求]

 スタンフォード大学の哲学百科事典から「自殺は許されるか?」を学ぶシリーズの第5回目。今回は「3.6 道徳的義務としての自殺?(Suicide as a Moral Duty?)」を紹介する。


 末期の病に罹っている状況において自分が生き続けることで、まわりの人に多大な負担をかけてしまう場合、その人は「死ぬ義務」をもつかという問いに対して、「死ぬ義務」はあると考える人がいるようだ(典型が、下に出てくるハードウィック)。それに対して、「死んでもよい」という「道徳的許可」は認められても、「死ぬべきだ」という「道徳的義務」があると主張する人はきわめて少数派のようだ。




Suicide

First published Tue May 18, 2004; substantive revision Tue Nov 20, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/suicide/#DeoArgSanLif





 3.6 道徳的義務としての自殺は存在するか?



 いままで我々が問題にしてきたのは、自殺行動をすることを許すような道徳的理由が存在するかどうかに関わる論証だったし、実際、自殺についての倫理的議論を支配してきたのはこの問いであった。しかし、自殺に反対する社会的な論証は基本的に結果主義的であるのだが、ある種の行為-功利主義者はそれと対照的な可能性を論じてきたのだ。つまり、自殺の好ましい結果は自殺の悪しき結果を凌駕するので自殺は望ましいし、それどころか道徳的に義務ですらあると論ずる功利主義者がいるのである(Cosculluela 1995, 76–81)。実際、自殺が立派であるような場合もある。明らかに利他的で、他者の生命や幸福を守ることを目指したり、政治的プロテストを目指す自殺が、このカテゴリーに入るかもしれない(Kupfer 1990, 73–74)。この手の例としては、(仲間の兵士を救うために)自己を犠牲にする兵士や、重要な軍事機密の暴露につながる拷問にかけられないように自らの命を絶つスパイなどが挙げられるだろう。功利主義者は終末期の安楽死の問題に特別の関心を払い、少なくとも、苦痛に満ちた末期の病いに侵された人は、自発的な意思に基づく安楽死(voluntary euthanasia)に対する権利をもつと主張してきた(Glover 1990, chs. 14–15, Singer 1993, ch. 7)。功利主義的な見解によれば、我々は幸福を最大化する道徳的義務をもつが、そこから、自殺の行為は生き延びるよりも多くの幸福を生み出すならば、自殺は道徳的に許されるだけでなく、道徳的に必要でもあるということになるのである。



 しかしながら、「死ぬ義務」が存在するというテーゼは、結果主義的であったり功利主義的であることが明らかな論証に訴えることで擁護される必要はない。哲学者のジョン・ハードウィック(1996、1997)は、生命倫理に対する「家族中心的」と彼が呼ぶアプローチにおいて次のように主張した。つまり、ある人が生き続けることによって、他人、とくに家族や愛する人に対してかける負担は時にとても大きなものになるので、そうした負担を減らすために、その人は死ぬ義務があるのだと。ハードウィックの論証は、ある人が生きるか死ぬかに由来するコストと利益の全体的なバランスにではなく、ある人が生き続けることによって他人にかける負担の公平性に軸足を置くものだ。



 自殺が倫理的かどうかの議論において他者に対する義務が無視されてきたというハードウィックの主張をだいたい認めながらも、自殺は道徳的に必要だという見解に批判的な人々は、ハードウィックの問題提起に対して多くの異論を提起している。(Hardwig et al. 2000, Humber & Almeder 2000)。ハードウィックは善行への義務に訴えているが、生き続けることが他者にとって重荷となるとき、その善行への義務が自分自身の命を絶ってもよいという許可以上の強力なもの(つまり、自殺の義務という強い考え方)を正当化するという考え方を疑う者もいる(Cholbi 2010B)。また、自殺が道徳的に必要なものだということになると、個人が自分の意に反して自殺せざるをえなくなる不吉で全体主義的な見方が高まるのではないかと心配する人もいる(Moreland & Geisler 1990, 94, Pabst Battin 1996, 94–95)。このような心配を抱く人は、生命は神聖であるという見解を暗黙のうちに受け入れている人かもしれないし(セクション3.2を参照)、個人の自律性にたいする侵害に懸念を抱いている人なのかもしれない(セクション3.6を参照)。死ぬ義務が存在しているとしても、その義務は、自分の命を絶つ義務をもつ人を強制してもよいとする義務として理解されるべきではない、と主張する批判者もいる(Menzel 2000, Narveson 2000)。社会正義と平等についての問いかけ(たとえば、女性や貧困層のような弱者のほうがそうした義務に基づいて行動する可能性が高いのではないかという問いかけ)もなされている。こうした異論に対する一つの功利主義的な答えは、ルール功利主義的根拠に基づいて死ぬ義務を拒絶することである。つまり、自殺が道徳的に禁止されるのは、自殺を禁止するルールに誰もが従うならば、自殺を許可するルールに誰もが従う場合よりも、全体としてより良い結果が生み出されるからだ、とルール功利主義は答えるのである(Brandt 1975, Pabst Battin 1996, 96–98)。



」(つづく)















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