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墓について、あるいは人間存在についての雑感 [雑感]

 少し前に、『ガーディアン』紙の日曜版に「有名な墓ベスト10」という企画があった(“The 10 best ... famous graves”(http://www.guardian.co.uk/culture/gallery/2013/mar/02/the-10-best-famous-graves))。


 紹介しようかとも思ったが、知らない有名人の方が多いので取り上げなかった。しかし遅ればせながら、印象深い墓のいくつかを紹介する。ちょっとそれとは関係ないことなのだが、墓についての私見を述べたくなったからである。




 ・ シルヴィア・プラスの墓 (ヘプトンストール、ウェスト・ヨークス)


Grave-of-poet-Sylvia-Plat-003.jpg



 熱狂的なファンが多い詩人のシルヴィア・プラスだが、この墓はしばしば争いの種になった。それは、墓に記された名前が“Sylvia Plath Hughes”となっていることによる。“Hughes”は、シルヴィアの夫テッド・ヒューズ(Ted Hughes)に由来する。“Sylvia Plath Hughes”は法律上の正式な名前なのだろう。

 しかし、ヒューズとの婚姻関係はほとんど破綻していた。それが彼女の悲劇的な最期の原因となったと考えるファンが多いのだろう、墓の“Hughes”の部分を削り取る熱狂的ファンが跡を絶たなかった。ヒューズが補修ために墓を一時的にとり去ると、ファンはヒューズに、シルヴィアの思い出を隠そうとしているといって非難した。こうして彼女の墓は戦場と化した。最終的に、ヒューズは“Hughes”の部分だけ銅で鋳造せざるをえなかったという。シルヴィア・プラスは墓になっても、人々を激しい感情の渦の中に投げ込む存在のままであるようだ。




 ・ ジョン・キーツの墓(チミテロ・アカトリコ、ローマ)
 
John-Keats-grave-stone-in-001.jpg




 25歳の若さで結核の治療の甲斐なくローマで死去。存命中に文名が認められることはなかった。ついに無名で終わったことを悔恨とともに認めたからか、彼の遺言により、墓石には“Here lies one whose name was writ in water”と刻まれた。この墓碑銘は「その名を水で書かれし者ここに眠る」とでも訳すのだろうか? 

 水で書かれ、すぐに跡形なく消えてしまった名前…。たしかに詩人らしく、詩的な感じもするが…。彼が無名に終わったのはいろいろな敵が存在したためでもあったようだ。彼の友人たちは墓に「敵たちの悪意」という文言を刻んで、キーツの不運に同情心を寄せた。しかし、こんな文言が墓碑にあるとかえって愚痴っぽく、言い訳がましく感じられてしまうな。




 ・ エミリー・ディキンソンの墓(アマスト、マサチューセッツ)

Massachusetts.-Amherst.-E-009.jpg



 
 エミリー・ディキンソンの墓碑銘はキーツよりもはるかに潔い。というか、この世に残すべき言葉はもうなかったのだろう。簡潔に、「呼び戻された(Called Back)」とあるだけ。写真につけられたキャプションで、その言葉は「キリスト教的信仰を反映した」ものと説明されている。ディキンソンは生前からすでに世を捨てたような人だったので、死を待ち焦がれていたのだろう。






 ・ 嘆きの天使(The Angel of Grief)

Angel-sculpture-on-a-grav-006.jpg





  先ほどのキーツの墓があるローマのチミテロ・アカトリコ(Cimitero Acattolico, Rome)にある天使像。ひときわ印象深い。

 キリスト教圏の墓地には天上と地上を結びつける存在としての天使が沢山あるが、この天使は後に残された者たちの心痛を描いたもので、これまでもっとも模倣されてきた像の一つだという。アメリカ人でローマ在住の彫刻家のウィリアム・ウェットモア・ストーリー(William Wetmore Story)が亡くなった妻を悼むモニュメントとして墓の上部に取りつけたという。



 これらの例をもちだすまでもないが、墓とは死者のためであるとともに、生者のためのものでもある。亡くなる者以上に、それを悼む者がなければ成り立たない。できれば、そうした関係が今後とも受けつがれ、墓を訪れる者がいて、墓には確固とした存在意義が帰されるのだ。しかし、そうして連綿として受け継がれることによって成り立つ関係――ほとんどの場合は、家という擬制の上に成り立つ関係――は、かなり希薄化しているうえに、今後ともますます希薄なものになっていくに違いない。私自身、家族はいるが、墓などに入りたいと思っていない。そう思っている人は多いだろうし、これからますます増えていくだろう。そういう意味で、明らかに墓は前時代的なものになりつつある。



 他方で、これまでとは一見あまり関係のないように見える、まったく思弁的な雑感を加えておこう。

 先日、モーリス・ブロックという人類学者の本を読んでいて、次のような一節に出会った。マダガスカル島のメリナ族の儀式について述べた箇所である。


 「メリナ族の人々は儀式における人間を二つの要素から成り立っているものとして表わしている。一つは、祖先から続く、永続的で乾いた(dry)要素と、もう一つは、バイタリティーのある、カオス的で湿った(wet)部分。湿った部分は新しく生まれた子供において支配的なものとして表わされるが、子供が生き続けていくにつれて、湿った部分はだんだん乾いた部分にとって代わられる。湿った部分がすっかり消えるのは、死後に、「乾かす」ために予めしばらく埋葬させられていた遺体が掘り出され、公共の大きな墓地に埋葬されたときだ。この乾いた要素のほうが人間ならではのもので、その要素が各人のうちに増大することは、祖先や一族の集団とのつながりが増大することを意味する。かくして、一生を通して、人間は次第に祖先へと、永続的な一族の集団の一員へとなっていくのだ・・・」(Maurice Block : Prey into hunter,p.86)



 この部族の人間観は、たぶんかなり普遍的であるはずだが、それはここでは問題にしない。私の興味を引いたのは、それを言い表わす「湿った」と「乾いた」という言葉の方であった。


 「湿った部分」はバイタリティを表わすのだから、それこそ人間の核心部分だと思う人もいるだろうが、メリナ族はそう考えない。それは人間があらゆる動物と共有する部分なので、それは「人間ならではの要素」なのではない。むしろ生命のうちの「カオス」の部分にすぎないのだ。


 逆に「湿った部分」を次第に失って「乾いた部分」が増大していくことこそ人間に特有のプロセスなのだ。そして、完全に乾いた存在になったときに、人間は完成し祖先や部族の人々の一員になれるのだ・・・


 この箇所を読んだときに私の脳裏にまっ先に浮かんだのが石の墓だった。あぁそうか、墓とはもっとも乾いたものだったのか。あれは、メリナ族の考えでは(そしてある時期までのほとんどすべての人類の考えでは)、人間として完成した姿だったのかと。


 しかし、こうした人間観が受け入れられるのは、その墓を受けついでいく人々がいる限りのことであり、そうした人々が祖先や部族の沈黙の存在を社会の存立に不可欠なものと考える限りのことである。そして、先ほどものべたように、そうした状況全体は、今、静かに消え去りつつあるのだ。


 これは、ただ単に墓の消滅ということのみならず、ある種の人間観が静かに消滅しつつあることを意味しているのかもしれない。そして、それに代わる新しい人間観が現われたかというと、私は寡聞にして知らない。

 ということは、人間としての完成などは必要ではなくなったということなのだろうか? 人間の内にあるカオス的な要素が、ますます増大して支配的になっていくということなのだろうか?



終焉を迎えつつある? 沈黙の中の墓地(ニューヨークのトリニティ・チャーチ)

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