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さらにショッキングなものになったホロコーストの実態(1) [海外メディア記事]

 地味な仕事ながら、ナチスが強制労働やホロコーストのために建てた収容所を徹底的に調べ上げて完全な資料という形に残すという作業が進行中のようだ。こういう作業がこれまで行われていなかったということは、むしろ意外に感じられるのだが、まあきわめて難しいからなのだろう。。

 オリジナルの『ニューヨーク・タイムズ』の記事は2ページにわたっているので、2回に分けて紹介する。



The Holocaust Just Got More Shocking

By ERIC LICHTBLAU Published: March 1, 2013

http://www.nytimes.com/2013/03/03/sunday-review/the-holocaust-just-got-more-shocking.html







 さらにショッキングなものになったホロコーストの実態(1)


 


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  1942年、東ガリシアのブロディのゲットーの入り口にいるユダヤ人女性のグループ。看板はドイツ語、ウクライナ語、ポーランド語で書かれている





 13年前、米国ホロコースト記念博物館(United States Holocaust Memorial Museum)の研究者たちは、ナチスがヨーロッパ中に建設したゲットーや奴隷労働の場所や強制収容所や殺害工場をすべて資料化するという気の滅入るような仕事に着手した。


 
 彼らがこれまで見出したものは、ホロコーストの歴史に詳しい研究者にさえも衝撃を与えるものだった。


 研究者たちは、1933年から1945年までのヒトラーの残忍な統治が続いた間、フランスからロシアにまで至るドイツの支配地域とドイツそのものにまたがるヨーロッパ全土の約42,500あったナチスのゲットーや収容所の一覧を作成した。


 その結果判明した数字は驚くべきものだったので、その研究の主任が、ワシントンのドイツ歴史研究所で一月下旬に行われた学術フォーラムで自分たちの調査結果を公表したとき、ホロコーストの研究仲間さえもが聞き違いをしたかどうか耳を疑ったほどだった。


 「その数字は私たちがこれまで考えていたものよりもずっと大きなものでした」。同研究所の所長であるハルトムート・バーゴフ(Hartmut Berghoff)は、新たなデータを知った後のインタビューでそう語った。


 「私たちは、収容所やゲットーでの生活がどれほど酷いものであったかは前から知っていましたが、その数字は信じられないですね」と彼は言った。


  資料に収められた収容所には「殺害センター」のみならず、囚人たちが軍需品を製造する数千もの及ぶ強制労働の収容所があった。また戦争捕虜の収容所、「ケア・センター」という名前は優しいが、妊婦が流産を強制させられたり赤ん坊が出生後に殺害される場所もあった。また、女性がドイツの軍人との性交渉を強要される売春宿もあった。


 一般の意識にとっては、アウシュビッツや他の一握りの強制収容所がナチスの殺人組織を象徴するものになっていた。同様に、ユダヤ人の家族を本国のゲットーに閉じ込めるナチスのシステムも、たった一つの場所にのみ結びつけられてきた――1943年の蜂起で有名なワルシャワのゲットーである。しかし、これらの場所は、有名ではあるものの、ドイツ人が築いたネットワーク全体のごく一部にすぎないことを、今回の新しい研究は苦痛とともに明らかにした。


 研究者が収容所とゲットーの位置を確認するために作成したマップは、広範囲に及ぶ戦時中のヨーロッパを、死と拷問と奴隷労働の黒い点の集合体に変えてしまった――黒い点の中心はドイツとポーランドだが、四方八方に伸びていた。

 
 このプロジェクトの主任編集者、ジェフリー・メガジー(Geoffrey Megargee)とマーティン・ディーン(Martin Dean)の推計によれば、彼らが編纂する百科事典(http://www.ushmm.org/research/center/encyclopedia/)で確定した場所で1500万人から2000万人が死亡するか投獄されていた(ホロコースト博物館はその百科事典の最初の2冊をすでに出版し、残りの5冊は2025年までに出版する予定)。


 多くの個々の収容所やゲットーの存在は以前から知られていたが、断片的で地域的なものだった。しかし、研究者たちは、約400人の協力者からのデータを使って、どこに位置していたか、どのように運営されていたか、その目的は何だったかを調べ上げて、その全体像を初めて資料化したのである。


 現在ワシントン外に住む84歳のホロコースト生存者であるヘンリー・グリーンバウムの残酷な経験が、ナチスの施設がいかに広範囲にあったかを典型的に示している。



 ホロコースト博物館でボランティアとして働いているグリーンバウム氏が同博物館を訪れる人に戦時中の流浪の旅を語るとき、聞き手はどうしても、あらゆる収容所の中で最も悪名高いアウシュヴィッツに数ヶ月間収容されたときの経験に注意を集中してしまう。


 
 しかし、ナチスが彼を投獄した別の収容所の記憶も、彼の左腕に入れ墨として彫られた強制収容所のナンバー――A188991――と同じくらいに深く彼の記憶に刻みつけられている。


 インタビューで彼は、詳細がまだ鮮やかに記憶に残っているので、収容所の名前を速射砲のように挙げてみせた。


 最初はポーランドの彼の故郷の スタラホヴィツェ(Starachowice )のゲットーで、彼がまだ12歳だった1940年、そこにドイツ人が彼の家族や地元の別のユダヤ人たちを集めた。


 次は、町はずれにあって6フィートの高さのフェンスのある奴隷労働の収容所だった。そこに彼と妹は移動させられたが、残りの家族はトレブリンカに送り込まれた死んだ。工場での通常の勤務時間が終わると、ドイツ人が彼や別の囚人たちに、犠牲者の死体を埋めるための溝を掘るように強制した。彼はアウシュヴィッツに送られ、それからブナ・モノビッツ(Buna Monowitz)として知られるポーランドの化学品製造工場で働くために再移送させられた。そこに彼とアウシュビッツのメインキャンプにいた別の50人ほどの囚人が送り込まれたのは、ゴムと合成油を製造するためだった。そして最後はチェコ国境近くのフロッセンビュルクの奴隷労働収容所だった。そこは食べ物がとても欠乏していたので、彼の5フィート8インチ(=約177センチ)の体格の重量は100ポンド(=約45キロ)以下にまで下がってしまった。



 17歳にグリーンバウム氏は5年間で5つの収容所に囚われ、アメリカ兵が1945年に彼を解放したとき、彼は6番目の収容所に向かう最中だった。「誰もこれらの場所については知識さえもっていませんね」とグリーンバウム氏は言った。「すべてが資料化されるべきです。それはとても重要なことですから。私たちは若者たちに伝えるように努めています。若者たちが知ってくれて記憶してくれるようにね」。




」(つづく)













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