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自殺は許されるか? (4) [探求]

 スタンフォード大学の哲学百科事典から「自殺は許されるか?」を学ぶシリーズの第4回目。今回は「3.5 社会的・功利主義的・役割ベースの論証(Social, Utilitarian, and Role-Based Arguments)
」を紹介する。

 自殺は、自殺者当人以外の人間や社会に対して害を与えるかもしれない。その限りで、自殺は道徳的に間違っていると言えるかもしれないが、こうした主張は限られた有効性しかもたない。なぜなら、害を与える人がいない人や、社会との相互的な関係の内にいない人にとって、そうした主張は当てはまらないからだ。そういう考え方が、このセクションでは展開されている。




Suicide
First published Tue May 18, 2004; substantive revision Tue Nov 20, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/suicide/#DeoArgSanLif






 自殺は許されるか? (4)  


3. 自殺の道徳性と合理性


  3.5 社会的・功利主義・役割ベースの論証


 自殺は許されるかという問いに対する第4のアプローチは、自殺行動に他者は干渉していいかどうかという点を問うのではなく、われわれは自殺する自由権(liberty right)をもつかどうか、つまり、自殺は他人に対する何らかの道徳的義務を侵害するかどうかを問う。自殺は他者に対するわれわれの義務を侵害することがあると主張する人々は、自殺は特定の他者(家族、友人など)に危害を及ぼしているか、社会全体に対する危害となっているという一般論を主張していることになるのである。


 確かに、家族の誰かや恋人が自殺するならば、多くの有害な心理的・経済的効果が生み出されるだろう。死につきものの悲しみに加え、近親者に自殺された「生き残りの人」は複雑な感情が入り混じる経験に直面する。自分は自殺した人の苦しみに一役買ってしまったのだという信念(a)、その人の苦しみを認識できなかったこと(b)、自殺行為そのものを防げなかったこと(c)などに由来する様々な罪悪感がよく見られる。さらに、自殺は、取り残された人々のうちに怒りや孤独や脆弱性の意識を生み出す。実は、自殺に対してよく見られる考え方の多くで支配的なのは、自殺は本質的に利己的な行為であるという感覚である(Fedden 1938, 209)。しかし、こうした反応が起こるのは、自殺が(世間的に)不名誉や恥に結びついているからだろうが、その場合、こうした反応は論証には使えない。もし論証に使うならば、自殺はこうした心理的な反応を生み出すから間違っているという論理的な循環論証を犯すことになるからだ(Pabst Battin 1996, 68–69)。さらに自殺は、自殺者が経済的に自立できない扶養家族をとり残す場合のように、経済的・物質的に明白な危害を生み出すことがある。自殺は、したがって、配偶者・両親・介護者・恋人に対して適用できる「役割義務(role obligations)」の違反として理解することができる。しかし、自殺が家族や恋人に対して有害だとしても、それで自殺に対する例外のない禁止が擁護できるわけではない。なぜなら、「生き残る人」を置きざりにしない自殺者もいるし、置きざりにする自殺者の中でも、危害の程度がまちまちでありうる――関係が親密であればあるほど、自殺は有害なものとなり、道徳的に間違ったものになりうる――からである。さらに、功利主義的観点から見ると、こうした危害は、辛かったり苦痛にみちた毎日を送ることによって自殺しようと思っている人々に対する危害も含めて、考量されなければならないだろう。(そうした点を考え合わせると)、自殺が家族や恋人に対する危害になるという論証からは、自殺は時として間違っているということしか立証されないのである(Cholbi 2011、62-64)。


 社会的論証のなかには、自殺が社会や国家に対する危害となると主張する点で、アリストテレスを引きつぐタイプのものもある。こうした論証の一般的な形態は、社会はその成員の経済的・社会的生産性に依存しているのだから、その成員は自分の社会に貢献する義務をもっているが、この義務は自殺によって明らかに侵害されてしまう、というものである(Pabst Battin 1996, 70–78, Cholbi 2011, 58-60)。例えば、自殺によって、その成員によって提供されるはずの労働が社会に与えられなくなるし、それが医療や芸術や政治的リーダーシップのような取りかえのきかない才能の場合は、そうした才能が提供できるはずの重要なサービスが社会に与えられないことになる。別の種類の論証には、個人が社会に対して(慈善、善行、道徳的な手本を示すなどによって)道徳的に貢献できるあらゆることを自殺は社会から奪ってしまう、と述べるものもある。しかし、社会が、その成員の労働や才能や美徳を求め、社会の繁栄に貢献することを強いるような道徳的権利をもっているという点を示すのは困難である。結局のところ、個々人は、労働や特別な才能という点でできる限りの貢献をしなくても、道徳的に非難されないこともしばしばあるのだ。したがって、自分自身に対する害を度外視して、自分にできるどんな方法であっても社会に貢献することを個人が道徳的に求められているとは思えないのである。やはり、こうした論証がせいぜい示しているのは、自殺は時として間違っているということだけである。死ぬことによってその個人が得る利益(将来こうむらないで済む害という観点での利益)が、死ぬことによって個人が社会に与えないことになる利益よりも小さい時、自殺は間違っていることになるのである。


 この論証の修正版には、自殺は個人が社会に対してもつ互恵的な義務を侵害するのだと主張するものもある(Cholbi 2011, 60-62)。この見解に立つと、個人とその個人が暮らす社会とは互恵的な関係にあって、社会が個人に提供する財貨と引き換えに、個人は、その関係が求める財貨を社会に提供するために生き続けなければならない、とするのである。だが、社会と個人の関係を本質的に契約に準ずるものと見なすという点で、この互恵性の論証は、大きな欠陥を露呈するのである。この「契約」の条件は満たされないこともあるし、また、一度充たされたとしても、さらなる義務を当事者に課すものではないからである。ドルバック男爵が指摘するように(Baron d'Holbach 1970, 136-137)、個人と社会の契約は条件付きの契約であって、「契約当事者間の相互の利益」を前提にしたものである。それゆえ、社会が契約にある義務を履行しないのであれば、つまり、個人にまともな生活の質のために必要な財貨を提供しないのであれば、個人は、社会が守らなかった取り決めのお返しをするために生きる必要は道徳的にはないことになる。また、ひとたび個人がこの社会との契約のもとで自分の義務を果たしてしまったならば、その個人は生き続ける義務をもう負わないことになるのである。だから、高齢者や、社会の繁栄に多大な貢献をしてきた人々は、この論証のもとでは、自殺をすることが道徳的に許されることになるのである。




」(つづく)

















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