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自殺は許されるか? (3) [探求]

スタンフォード大学の哲学百科事典から「自殺は許されるか?」を学ぶシリーズの第3回目。今回は「3.4 リバタリアンの論証」を紹介する。


 リバタリアンとは、(難しく考えればきりがないが)個人の自由を最大限に尊重する立場だと考えていただきたい。当然ながら、自殺を許容するリバタリアンは多いことだろう。

 途中で「所有」の概念が出てくる。宗教的な議論では、人間の生命・身体は神の所有物なのだから、それを無にするような行為は許せないという考え方が出てくるわけだが、リバタリアンの立場では、人間の生命・身体は個人の所有物なのだから、それを無にする行為も個人の自由だと、同じ概念に立脚して正反対の結論に至るわけである。(つまり、「所有」の概念からは決定的なものは何も出てこない、ということか?)


 権利論の箇所は難しそうだ。もう少し勉強しなければと思う。

( ちょっとだけ補足をすると、請求権(claim right)とは、権利保有者の相手側の義務をともなう権利のことで、自由権(liberty right)はそうした義務を伴わない権利のことらしい。この点は、英語版のWikiで簡潔に書かれている。http://en.wikipedia.org/wiki/Claim_rights_and_liberty_rights)


 それでも下の部分で納得できないところがある。それは最後で「私が自分自身を殺すためには、私がまず私の譲渡しえない生命の権利を放棄しなければならないが、その放棄を私はなしえない」と述べられているところである。どうしてか? 「譲渡」と「放棄」が同じならばそう言えるかもしれないが、どうも同じだとは思えない。論理が強引すぎるように見えてしまう。





Suicide
First published Tue May 18, 2004; substantive revision Tue Nov 20, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/suicide/#DeoArgSanLif








 3.4  リバタリアンの論証と自殺する権利


  リバタリアンにとって、自殺が道徳的に許されるのは、個人が自殺する権利をもっているためである。(だからといって、自殺が必然的に理性的であるとか賢明であるということになるわけでは勿論ない)。リバタリアニズムの歴史上の先例はストア派やショーショーペンハウアーだが、それはまた前世紀の後半にあった「反-精神医学」の運動に強く結びついている。その運動によれば、自殺の行動に国家や医療の専門家が干渉しようとする試みは、道徳的に許容されるべき個人の自由の行使を病的なものと見なす本質的に抑圧的な試みなのである(Szasz 2002)。


 リバタリアニズムの典型的な主張によれば、自殺する権利は非干渉の権利(right of noninterference)である、つまり、他者が自殺行動に干渉することは道徳的に禁じられていることになる。もっと強力な主張をする人もいて、その主張によると、自殺する権利は自由権(liberty right)、つまり個人は自殺してはならないという義務を何らもっていないような権利であるか(つまり、自殺はいかなる道徳的な義務にも違反していない)、あるいは自殺する権利は請求権(claim right)であって、それによれば、他の個人はある人の自殺行動に干渉しない義務をもっているだけでなく、その行動を支援する義務をもつという。(この点については「権利(rights)」の項目を参照されたいhttp://plato.stanford.edu/entries/rights/)。私たちが自殺する権利をもっているならば、当然ながら、私たちは非干渉の権利と自由の権利をもっていることになるが、しかしこの点は、医師による自殺幇助の困難の核心である (Pabst Battin 1996, 163–164)。私たちが自殺する自由権をもっているかどうかは、その権利が他の道徳的義務(他者に対する義務も含む)を侵害しているかどうかに関わる問題なので、私はこの問題の議論をセクション3.5にゆずり、ここでは非干渉の権利があるかどうかに焦点を絞りたいのである。(自殺を考えている人間が他者の援助に対する請求権をもつかどうかという問題はセクション3.8で扱われる)。



 自殺する権利の人気のある拠り所は、私たちが自分の身体を所有していること、したがって、私たちは自分の身体を思い通りに処分しても道徳的に許されるのだという考え方である。(セクション3.3の議論を思い起こしていただきたいのだが、自殺は認められないとする宗教的な論証の中には、私たちの身体の所有権は神にあるという点に求めるものもあった)。この見解に立つと、私たちの身体に対する関係は、私たちがその財産権をもっている他の物品に対する関係と同じなのだ。腕時計に対する権利を私たちがもっていれば、私たちはそれを好きなように使用したり、改良したり処分することができるのと同じように、私たちが身体に対する権利をもっていれば、私たちは身体を適当に処分できるというわけである。したがって、所有権は排他的なのだから(つまり、ある物に対する所有権を私たちがもっていれば、他者がそれに干渉することは禁じられる)、他者は、私たちが自分の生命を終わらせる努力に干渉してはならないことになる。しかしながら、この論証に含まれている自己所有権(self-ownership)の概念は、とてもあいまいなものだ。私たちが普通の物品を所有することを可能にしているのは、そうした物品が私たちとは形而上学的な身分が違っていることにある(Cholbi 2011、84‐86)。私たちが腕時計を所有できるのは、腕時計が私たちとは違ったものであるからに他ならない。唯物論的哲学者ならば、私たちは私たちの身体と同じだと主張するわけだから、私たちの身体は私たち自身と違っていることを否定するだろうし、(自己と身体を区別する)人間本性の最も二元論的な見解であっても、私たちの自己は身体に十分依存しているので、自己による身体の所有権という発想はおよそ有りそうもない考え方になるのだ。実は、普通の所有物のある種の扱い方は、身体の扱い方としては利用できないのだが(私たちは、どんな意味でも自分の身体を譲渡したり売却はできない)、このことは、自己所有権なるものは、より深いところにある道徳的関係を捉えるためのメタファーにすぎないことを示唆しているのである(Kluge 1975, 119)。それに加えて、自分の所有物の使用(その破壊も含めて)が他者に対して危害を加えることがある。だから、自殺が他者に危害を与えるかもしれない場合、私たちは自殺を思いとどまるように道徳的に求められることになるかもしれない。(他者に対する義務にかかわる論証についてはセクション3.5節を参照)。


  非干渉の権利のためのもう一つの根拠は、自分の幸福にとても密接につながっている事柄(自分の生がどれほど長く続くべきか、死の状況はどうであるべきかという点も含む)については、私たちは自分で決定する全般的な権利をもっているという主張である。この見解に立つと、自殺する権利は、よりいっそう深いところにある自己決定の権利、つまり、他者を害したり危険に陥れることがない限り自分の生の状況を自分で決定する権利から導き出さることになる(Cholbi 2011、88‐89)。「尊厳のある死を(death with dignity)」運動で言われているように、自殺の権利は、生命の権利の当然の帰結である。つまり、個人は他人に殺されない権利をもっているのだから、どういう状況で死ぬかを決定する道徳的権利をもっている唯一の人はその人自身なのであって、ゆえに、他者が、その人の自殺の試みを防ごうとすることは禁じられるのである。


 この立場は、少なくとも二つの反論に開かれている。まず最初に、生命の権利をもっているからといって、人は死の権利をもつ、つまり、自分の生命を奪う権利をもつということにはならないように思えるのである。私を殺すことを他の人々が道徳的に禁じられているからといって、私自身を含めた他の誰かかが、私を殺すことは許されるということにはならない。この結論は、生命に対する権利が譲渡できないものであるならば、もっと強力なものにできる。なぜなら、私が自分自身を殺すためには、私がまず私の譲渡しえない生命の権利を放棄しなければならないが、その放棄を私はなしえないからである(Feinberg 1978)。少なくとも、誰一人として人の死の状況がどうあるべきかを決定する権利をもっていないということも考えられるのである! さらに、所有権に基づく論証と同様、自己決定の権利も、他者に対する危害の可能性によって制限されるはずなのである。





」(つづく)


















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