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自殺は許されるか? (2) [探求]

 スタンフォード大学の哲学百科事典から「自殺は許されるか?」を学ぶシリーズの第二回目。

  今回は「3.3 宗教的な論証」。

  二つの比喩が取り上げられている。
 
  一つは、われわれの生命は神の所有物であるがゆえに、それを勝手に処分できないのであるという比喩。
  もう一つは(まぁ、最初の比喩とあまり変わらないと言えば言えるのだが)、われわれの生命は神からの贈り物なので、それを勝手に処分するのは贈り手に対する忘恩なのだという比喩。

 多分にこれに類する比喩は、キリスト教の風土とは無縁な日本でも良く使われるのではないだろうか。そしてこうした比喩に対する批判がこの「3.3 宗教的な論証」の中心を占める。
 


Suicide
First published Tue May 18, 2004; substantive revision Tue Nov 20, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/suicide/#DeoArgSanLif





3. 自殺の道徳性と合理性


3.3 宗教的な論証

 

 自殺は道徳的に許されないとする論証の一般的カテゴリーは二つあって、そのいずれもがキリスト教の宗教的伝統から出てきたものだ。そのうちの最初のものは以前紹介したトマス・アクィナスの自然法の立場であり、ヒュームによって批判された立場である(セクション2.3を参照されたし)。この伝統によると、自殺は神が自然界と人間の存在を支配するために創造した自然法を侵すものである。この自然法は、(a)自然の因果的法則という観点から考えられることができるし(自殺はこの因果的秩序を侵しているというように)、(b)すべての自然の存在は自分自身を保存しようと努めるものだとする目的論的観点からも考えることができるし、または(c)人間の自然(=人間の本性)を支配する法則(そこから、自殺は「不自然的」ということが帰結する)という観点から考えることもできる(Pabst Battin 1996、41-48)。こうした自然法の論証はヒュームなどによる激しい批判を受けたので(ただし、Gay-Williams1996を参照されたい)、もはや哲学的議論の主な焦点になることはない。こうした批判には、次のものがある。(1)自然法の論証はきわめて思弁的な有神論的形而上学から切り離すことはできないという批判。(2)自然法の主張は、人間の本性を観察することによって反駁されるという批判(例えば、自己破壊的な人間の行動の存在は、われわれは「本性的に」自己自身を保存するものだという主張に疑いを投げかけるものである)。(3)神が非難しているとは考えられていないその他の行為(例えば、宗教的殉教)も、これらの自然法を侵しているので、自殺の禁止を恣意的なものに思わせてしまうという批判。


 宗教的な論証の二番目の一般的カテゴリは、神と人類の関係に関する比喩に基づいている。これらの論証のほとんどは、死という出来事を決定する厳密で道徳的な権威を持っているのは神であって、個々の人間ではないということを確立しようとする。歴史的に名高い一つの比喩によると(アクィナスとロックが提起したものだが)、われわれは神の所有物であって、だから自殺は、窃盗や財産の破壊にも似た神に対する犯罪であるというものである。この比喩はいくつかの点で弱いように思われる。第一に、もしわれわれが神の所有物であるとしても、神はわれわれに自由意志を授け、その自由意志のおかげでわれわれは神の願いや意図にそぐわないような振る舞いができるのだから、われわれは神の奇妙な所有物ということになる。自由意志をもつ自律的な存在が、他の種類の所有物が従う支配にどうして従いうるのかを理解するのは難しい。第二に、この論証は、神が自分の所有物が破壊されることを望まないという前提に立っているように見える。しかし、伝統的な有神論的神概念にしたがって神はいかなる点でも欠けることのない者だとすると、神が所有しているもの(人間の生命)が破壊されたとしても、それがどうして神や神の利益に対する害になりうるというのだろうか(Holly1989、105)? 第三に、この論証と、神は万人を愛する存在だという主張を調停させることは困難である。もしある人の人生が十分悪いとすれば、万人を愛する神は自分の所有物が自殺によって破壊されることも許すだろうからだ。最後に、所有物の破壊は自分自身に対する重大な害を防ぐためには道徳的に正当化できると主張することによって、神の所有によって私たちの内に課される義務がどの程度なのかを疑問視する人々もいる。時限爆弾から自分自身を守る唯一の手段が、爆風を弱めるために手近の車のトランクにそれを放り込むことであり、その手近の車が隣人のものだとすると、その隣人の所有物を破壊することは、自分自身に対する深刻な害を防ぐために道徳的に正当化できるだろう。同様に、自殺することによってしか私自身に対するこれから起こりうる深刻な害を避けられないならば、たとえそれが神の所有物であるとしても、私は私の生命を破壊しても正当だと思われるのである。
 

 もう一つの良くある比喩によれば、神はわれわれに生命を贈り物として授けてくれたのであり、もしわれわれが自分の命を奪うことによってその贈り物を拒否するとしたら、それは恩知らずや怠慢の現われとなるだろう、と主張するものである。この「贈り物の比喩」の明らかな弱点は、真心から与えられた贈り物は、この比喩が主張するような条件付きのものではない、ということである。つまり、贈り物とは、一度与えられたら、その受け手の所有物になるのであって、贈り手は受け手がその贈り物をどうしようがもう何も文句を言う筋合いにはない。特別に価値のある贈り物を無駄にするのは無分別なことかもしれないが、無駄にしても贈り手に対して不正を犯したことにはならないように思われる。Kluge (1975, 124)が言うように、「われわれが拒絶できない贈り物は贈り物ではない」のである。こうした論証の一つのヴァリエーションによると、われわれは神に自分の生命に対する感謝という借りがあるので、自殺することは神に対して無礼であり侮辱ですらあるだろうし(Ramsey1978,146)、この贈り物の無責任な使用ということになるだろう。しかし、このヴァリエーションも最初のバージョンに向けられた批判を回避しているわけではない。たとえ、われわれが神に感謝という借りがあるとしても、自分の生命を処分することは、一度でも生命を得たことに対する感謝の念を表明することと矛盾するわけではないように思われる((Beauchamp 1992)。さらに、ある人の人生が悲惨と不幸に満ちている場合、その人が、生命というこの明らかに不適切な「贈り物」に対する多くの感謝という借りが神にあるということはまったく明らかではない。したがって、贈り物という比喩の擁護者は、生命とは、ただひたすら愛情にみちた神に与えられたという理由だけで、神の慈悲深い本性の発現であり、それゆえ必ずやわれわれに対する恩恵であるという主張を擁護しなくてはならないのである (Holley 1989, 113–114)。



 おまけに言うと、あまり認識されていないが、自殺に有利に働く宗教思想の底流がある。例えば、自殺は、故人となった愛する人と再会させてくれたり、罪を赦された人々が間違いなく天国に入ることを可能にしてくれたり、身体の束縛から魂を解放したりする。キリスト教であれアジア的であれ、いずれの宗教的伝統でも、自殺は、神的なものを垣間見たり合一化するための有望な手段なのである(Pabst Battin 1996, 53–64)。





」(つづく)

















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