So-net無料ブログ作成
ブログパーツ
 

自殺は許されるか? (1) [探求]

  ちょっと事情があって、「自殺」についてどのような考え方が可能かを整理する必要性がもち上がったので、それをこの場でぼちぼち果たそうかと思った次第。 

 もっとも、個人的にはそれほど関心のあるテーマではないので、人の力を借りるほかはない。何かいいデータはないかと調べて目についたのが、スタンフォード大学の「哲学百科事典」(Stanford encyclopedia of philosophy)の‘suicide’の項目。執筆者はMichael Cholbi。 自殺についての著書があるようだ。

 全体はとても長い。第一部は自殺の特徴を分析的に述べ、第二部は自殺について過去の哲学者がどう考えてきたかを概観し、第三部は「自殺は道徳的で理性的かどうか」をめぐってどういう考え方があるかを網羅している。

 このうち、第三部をここで紹介することにする。この第三部も8つのセクションに分かれていて、かなり長いセクションもある。紹介は途切れ途切れでスローなペースになるだろう。まずは、最初の二つのセクションから。

 

Suicide
First published Tue May 18, 2004; substantive revision Tue Nov 20, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/suicide/#DeoArgSanLif




3. 自殺の道徳性と合理性


3.1 道徳的に許されるか?


 自殺を取り巻く大きな道徳上の問題は、


 1.自殺が道徳的に正当化される条件はあるのか、もしあるとすれば、それはどのような条件なのか?

というものであった。 



 
 この問いは他の3つの問いから区別されるべきである:

 
 1.他人は自殺を防ぐように試みるべきか?

 2. 国家は自殺を法で処罰したりそれを防ぐように試みるべきか? 

 3.自殺ははたして理性的であったり賢明であったりするのか?



 これらの4つの問いのいずれかに対する答えは、他の3つの問いにどう答えるべきかに影響を与えることは明らかだ。例えば、もしある状況下で自殺が道徳的に許されるならば、他の人や国家が(同じ状況下での)自殺行動に干渉すべきでないと想定できるだろう。しかし、もしそうした自殺行動をとる人が理性的でないならば、そうした結論は出てこないだろうし、そうした人が自殺するのを防ぐために干渉が必要となるだろう。そういう人は、もっと完全に理性的であれば、自殺という結果を後悔するだろうからである。さらに、理性的な自律性を強調する道徳理論にとっては、個人が理性的に自殺することを選択したかどうかが、(上にあげた)4つの問いを解決することになるだろう。いずれにしても、自殺が道徳的に許されるかどうかという点と、自殺が理性的かどうかという点と、他者や社会全体の義務という点は相互に複雑にからみ合っていて、我々は、これらの4つの問いのいずれかに対する答えが他の3つの問いを決定的な形で解決すると仮定しないように用心すべきである。




3.2 生命の尊厳からの義務論的論証


 自殺についての最も単純な道徳的見方は、人間の生命は神聖だから、自殺は必然的に間違っていると主張するものである。この立場は宗教的思想家(とくにカトリックの思想家)にしばしば結びつけられるが、ロナルド・ドウォーキンが指摘したように(1993)、無神論者もこの主張に訴えることができるのである。この「生命の尊厳」説によれば、人間の生命は内在的に価値があり貴重なものであって、他人からの尊敬と自己自身に対する畏敬の念を要求する。ゆえに、自殺は、人間の生命の内在的価値―― その生命が他者や当人にどれほどの価値があるかに関わりなく ――を尊重するという道徳上の義務に違反しているために、間違っていることになる。こうして、生命の尊厳説は、自殺に関する義務論的な立場となる。


 生命の尊厳説の大きなメリットは、それが一般の道徳感情を反映していること、すなわち、殺すことはそれ自体間違っているという道徳感情を反映している点にある。(それに対して)生命の尊厳説の大きな困難を以下に示そう。


 第一に、その説の支持者は自分の立場を首尾一貫して適用しようとしなければならない。つまり、死刑や戦争中の殺人などの議論の余地のある殺人の形態も道徳的に禁じられることになるだろう。しかしその立場は、自己防衛のための殺人のような直感的に妥当と思える殺人の形態も禁じることになるだろう。生命の尊厳に基づく論証を受け入れるには、徹底した平和主義を支持することが求められそうだ。


 第二に、生命の尊厳説は、生命そのものが――その生命がどれほど幸福であるかどうかとはまったく無関係に―――価値があると主張する。(しかし)多くの哲学者は、生命が内在的に価値があるという考え方を拒絶する。なぜなら、そうした考え方をとれば、死ぬまで植物状態にいる人を―――その人が生物学的に生きているというただそれだけの理由のために――生かし続けておくことにも価値があることになってしまうからだ。(それに対して)ピーター・シンガー(1994)等は、生命の尊厳説に反対の主張を展開したのだが、その際の根拠は、生命の価値は内在的ではなく外在的である、つまり、個人のこれから起こりうる生命の質に基づいて判断されなければならないものだ、という点にあった。ある人の生命の継続の価値がその起こりうる質によって測られるのであれば、その質が低くなれば自殺は許されるものとなるだろう(セクション3.5を参照)。(こう言ったからと言って、生命の質の評価が簡単だとか異論の余地のないものだと示唆したいわけでない。議論のためにはHayry1991を参照されたい)。



 最後に、人間の生命の尊厳に対して十分な敬意を払うならば、生命を終わらせる――それが、自殺によるものであれ他の手段によるものであれ――ことは禁じられるということは明白ではない。将来がとてつもなく希望の持てないものになりそうなときに自殺行動に走る人は、必ずしも生命の尊厳に対して不十分な敬意しか払っていないわけではない
(Dworkin 1993、238)。自然に終わる前に自分の生命を終わせることは、必ずしも生命の価値に対する侮辱ではない。実は、医療上の条件や心理的な条件のおかげで、かつては充分に能力をもっていた人が見る影もないような状態に追い込まれた状況においては自殺は生命を肯定する行為であるかもしれないと主張して良いかもしれないのである(Cholbi 2002)。



」(つづく)
















コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。